### 四年目四月二十八日 夜明け前 武林陣南口
呼子が、短く三度鳴った。
敵襲か、不審者。
武林陣の南口で眠っていた者が、一斉に身を起こした。
槍が上がる。
弓へ弦が掛かる。
誰何より先に飛び出そうとした若い侠客を、別の侠客が襟首で引き戻した。
「鐘を待て」
「だが呼子が」
「呼子は異変を告げるだけだ。走る方角までは教えねえ」
南口の外から、男が一人、両手を上げて歩いてきた。
衣は泥にまみれ、裸足。
額には血が乾き、体中は擦り傷だらけ。丐幇の者より、よほど乞食らしい有様である。
「助けてくれ」
声が震えている。
見張りは門を開けなかった。
「名を言え」
「わからない」
「どこの村のやつだ」
「わからない」
「何もわからないでは助けもできんぞ」
男はもごもごと口を動かした。答えようとしているのに、言葉だけが出てこない。
「わからない」
泣いている顔で、笑った。
「わからない。わからない!ははは!」
男は頭をかきむしった後、その場に崩れ落ちた。
見張りの一人が気味の悪さを覚えつつも、恐る恐る槍を構えながら近づいていく。
その時、乾いた風とともに甘い匂いが流れてきた。
見張りが鼻と口を袖で覆う。
何の毒かは分からない。分からない時の離れ方だけは、唐門から教えられていた。
「近づくな。風上へ回れ。誰か唐門のやつを呼んで来い」
一人が走る。
残った者は門を開けず、槍で人を遠ざけた。
助けを求めた者へ、すぐに手を伸ばさない。
昨日までなら、薄情だと罵る者もいただろう。
今は誰も入らなかった。
やがて唐門の古参弟子が、竹鋏と油紙を持って来た。
風上から男へ近づき、顔と指先の色を見る。腰帯と衣の間から、押し潰された紙包みの端が覗いていた。
竹鋏で一つだけ引き出しかけ、すぐに止める。
「宋捕頭にも報せてくれ。医療列から医者も頼む」
念のため何度か声を掛けた後、男へ直接触れないよう縄を回し、両手だけを縛り上げた。
唐門弟子は男を横向きにさせ、布を巻いた木片で顎を支えた。竹匙で舌の下と奥歯の脇を改める。毒釘も蝋包みも出なかった。
目は開いている。
だが焦点はどこにも合わず、呼びかけにも、腕を縛る痛みにも応じなかった。
医療列から来た医者は鼻と口へ布を巻き、唐門弟子が見ている前で脈だけを取った。
「死んではいません。いくら呼び掛けても、戻る様子がありません」
「迷薬か」
「症状は似ております」
宋悲は周りの野次馬を下がらせた。
男は担架へ載せ、陣から風下へ離して設けた隔離天幕まで運ばせる。衣と紙包みには、誰も素手で触れなかった。
中へ入ったのは、医者、唐門の薬学弟子、葉雲舟、唐惟元、宋悲、趙活だけだった。
そこで初めて、紙包みと衣を開いた。
腰帯と衣の間には、薄い紙包みが三つ、押し潰されて貼りついていた。
大事に持ってきたようには見えない。
一つは空。
一つは半分。
残る一つには、灰色の粉が入っている。
趙活は紙包みを見た。
指では触れない。
竹箸で粉を少量だけ取り、水へ落とす。
溶け方を見る。
匂いを直接嗅がず、手で僅かに風を送る。
甘さの奥に、焦がした樹脂と苦い根の匂いがあった。
「極楽香だな」
薬包を預かった唐門の薬学弟子が、趙活を見る。
「分かるのですか」
「同じ名で、効き目が違うものがある。この粉は、眠らせるものに近い。だが、それだけなら、こんな顔にはならない」
唐惟元がしゃがみ込む。
「先に、別の薬を使われたっスか」
「たぶん。気を昂らせる昂気薬か、心を浮かせる迷薬か。量も多い」
唐門は毒を知る。
人を殺す毒。
手足を痺れさせる毒。
息を止める毒。
だが、人の心を喜ばせ、その喜びを鎖に変える薬を、唐門は門の技にはしない。
使えないのではない。
使わない。
二師兄だけは、その境をどこに置いているのか分からなかったが。
「水で吐かせるのは」
葉雲舟が問う。
「今はやめた方がいい。意識が浅すぎる。喉へ詰まらせる」
趙活は男の爪を見た。
土が入っている。
だが、掌に農具だこはない。指先には、古い墨が染みついていた。
足裏の傷も新しい。
長く裸足で暮らしていた者ではない。
「書き物で銭を得ていた者でしょうか」
葉雲舟が言った。
「少なくとも、畑で暮らしていた手ではない」
唐惟元は答えず、男には大きすぎる袖をつまみ上げた。
「この衣も、こいつの物じゃないっスね」
医者と葉雲舟が男につく。
唐門の薬学弟子は、紙包みと衣を扱った。
衣と紙包みは別々に封じる。
南口の見張りは増やした。
それでも、鐘は鳴らさなかった。
夜明け前の陣を、得体の知れない一人のために全部起こせば、次から敵は一人ずつ送るだけでこちらを眠らせなくできる。
異変は記録する。
陣は動かさない。
趙活がそう決めると、宋悲は何も言わず頷いた。
ただし、南の見張りから武林陣までの合言葉を、その場で一つ変えた。
### 四月二十八日 朝 武林陣
前哨の交替を前に、趙活は徐光輝と盛鴻年を連れ、武林陣の外から疎林丘を見ていた。
丘に見える兵だけで二百を越える。
木々の外縁に見張りを置き、斜面には低い杭を打ち、弩兵の前へ盾を重ねている。木の間には、軽功で踏み込む足を止める細い縄まで渡されていた。
昨日、武林が斬った百二十より、今日足された兵の方が多い。西夏軍は同じ隙を残さず、備えを固めていた。
趙活は前哨へ戻ると、地図の横へ木札を置いた。
農地一帯、二千五百から三千。
正面へ向けられる兵、千二百から千五百。
崆峒の山道を塞ぐ兵は、見えるだけで四百前後。門前と後備までは数えきれない。
さらに軽騎、斥候、工兵、荷駄を守る兵。
森の手前に溜まっていた後続が、この十六日の間に少しずつ抜けてきている。
「昨日、百二十を斬った。それなのに増えているように見える」
徐光輝が言った。
「増えています」
趙活は答えた。
「こちらが勝った間にも、向こうは道を通していた。昨日の百二十は軽くありませんが、敵全体を減らしたとは言えません」
盛鴻年が問うた。
「もう一度はどうだ?」
「隙ができれば。しかし、もう見せてはくれないでしょう」
自分たちが作った死角は、縄と盾で埋められている。弓箭社が射た銅鑼の位置も変わった。旗は一本ではなく、木々の奥に三本見える。
「今日は敵がどう動くかを見ます。丘へ近づき、出てくる兵を測る。退き鐘が鳴れば退く。敵が追えば、弓箭社と朝廷軍の弩へ引き込む」
今日の方針は、それで決まった。
思うままに戦えない不満は残る。だが、昨日丘を取り返しに来た西夏軍の隙のなさを思えば、無理に異を唱える者はいなかった。
朝廷側では、楊景略が第三哨から盾兵六十、槍兵八十、弩兵四十、工兵二十を半里出し、後ろに百を残すことになった。
武林側は點蒼を疎林丘の正面に置き、中小門派をその後ろへ続ける。弓箭社は丘の横手、瑞笙の混成組は疎林側と第三哨側のどちらへも動ける位置。南渓は列に入れず、唐門も前へ出さない。趙活は馬を借り、全体を見られる中央寄りにいる。
唐惟元が三枚の紙を持って入ってきた。
「夜明けの男、まだ起きないっス。それと、捕虜の話が少し繋がった」
「何が繋がった」
「南の道っス」
三人は、別々の時に捕らえた者だった。
一人は油を運んだ。
一人は紙と糊を運んだ。
一人は食い物を運んだ。
荷も、受け取った場所も違う。だが、三人とも南の街道を外れたところで荷を渡していた。
「村より手前か、先か」
宋悲が問う。
「先っス。街道から川側へ折れる細道がある。荷はそこで別の奴へ渡した。三人とも、その先には行ってない」
「受け取った者の顔は」
「ばらばらっス。一人は老人、一人は女、一人は顔を布で巻いた男。ただ、三人とも荷車を使ってない」
油も紙も食料も、手で運べる量ではない。
街道から先に、別の運び手か、荷をまとめる場所がある。
「まだ場所までは割れませんね」
「でも、探す道は一本減ったっス」
宋悲は三枚を受け取り、道の名と荷を渡した時刻を見比べた。
「捕役を街道へ戻す。店と渡し場には聞くが、細道の奥へは入れない。こちらが探していると気づかせるな」
「唐門でも、水と土を見られる奴を選んでおくっス。細道へ入るのは、その後だ」
趙活は頷いた。
廃屋か、洞か、ただの中継場所か。
今はまだ分からない。
それでも、何もない南一帯から、川へ下る一本の道までは狭まった。
話を切り替え、趙活は今日の合図を確認した。
「碧波子の声は、敵の位置と動きを知らせるために使います。方角は清虛子殿の旗、進退は鐘と各派の名代で決めてください。ただし、目前の危険だけは別です」
各派の名代が応じる。
### 四月二十八日 巳の刻 疎林丘手前
声は、最初から号令には使わなかった。
木の上から、弓箭社の物見が声を落とす。
「右手、盾兵一隊、斜面を下る!」
清虛子が右手の木立を確かめ、碧波子へ青旗を向けた。
碧波子が息を吸う。
「右手、盾兵一隊、斜面を下る!」
声が木々の間を抜ける。
前の青旗が一度上がる。
徐光輝が右手を確かめ、門人の進路を左へ寄せた。
別の木から声が落ちる。
「倒木の先、弩三!」
清虛子が旗で方角を拾う。
碧波子が声を通す。
「倒木の先、弩三!」
今度は前へ出た弓箭社から、聞こえたという旗が返った。
人を走らせれば、往復に半刻かかる。
声なら一息だった。
物見。
旗。
声。
三つが繋がり、遠くの敵が同じ戦場のものになる。
動くかどうかは、それを聞いた各派の責任者が決めた。
ただし、差し迫った危険だけは別だった。
「左、止まれ!」
声が飛ぶ。
左の列が止まる。
その直後、聞こえたという旗が上がった。
その前へ、西夏の弩矢が落ちた。
一歩進んでいれば、三人は射られていた。
誰かが碧波子を振り返る。
碧波子は普段見せるような得意そうな顔をしなかった。
次の報せを待っている。
右手の木から、物見が叫んだ。
「右手、二十ほど。敵の旗!」
清虛子が旗を向ける。
碧波子が、また声を通す。
「右手、二十ほど。敵の旗!」
今度は誰も、声を面倒だとは言わなかった。
趙活は栗毛の上から、その変化を見た。
声が信用を得ていく。
一度、人を救うごとに。
一度、敵を見つけるごとに。
それは強い。
だから危うい。
敵が、その声を止める価値も同じだけ増える。
嵩山から護衛として割り当てられた慧光は、碧波子の二歩後ろにいた。
武器は錫杖。
前だけを見ない。
碧波子が声を向ける方角とは、別の場所を見ている。
もう一人の嵩山僧は、伝令の通る後ろの道を見ていた。
清虛子は風と旗を見る。
慧光は人を見る。
碧波子は、集まった情報を遠くへ送る。
四人で、一つの中継点を作っていた。
「退く時は、どれを使う」
慧光が問う。
「退き鐘だ。二本旗で退く先を示す。俺も同じことを声で流す」
「鐘が聞こえなければ」
「旗を見るか、近くの名代に聞け。何も分からなければ、前へ出ずに持ち場を保つ」
「目の前に敵がいても」
「目の前に敵がいるなら、自分の目で退く」
碧波子は答えた。
「俺の声は、見えないところを繋ぐためだ。見えている死にまで、俺へ聞くな」
慧光は合掌するように錫杖を立てた。
「よく分かりました」
「本当か」
「半分ほど」
「正直だな」
「残りは、今日覚えます」
西夏の小隊が丘から出た。
盾兵二十。
槍兵三十。
弩兵は丘へ残る。
こちらの歩幅を測る動きだった。
點蒼が前へ出る。
深緑の短衣が、鎧の列へ散る。
正面からぶつからない。
盾の角を剣で叩き、振り向かせ、次の者が逆から入る。
西夏兵は列を崩さない。
一人を追わない。
槍を短く持ち、盾の隙間だけを埋める。
昨日とは違う。
武林の軽さを知った兵の動きだった。
徐光輝が門人へ声を飛ばす。
「深追いするな! 盾を開かせろ!」
盛鴻年が逆側から剣を入れる。
盾が僅かに動く。
弓箭社の矢が、開いた肩口へ落ちた。
一人が倒れる。
西夏兵は倒れた者を引きずり、列を縮めた。
侠客なら、強敵が倒れれば目を向ける。
兵は見ない。
列の穴だけを見る。
武林の強みは、一人ずつ違うことだった。
軍の強みは、誰が倒れても同じ働きが残ることだった。
互いの強みが、初めて正面から噛み合っている。
小競り合いは半刻続いた。
双方、死人は少ない。
西夏は丘へ戻る。
點蒼は追わない。
退き鐘は鳴っていない。
それでも、勝ち足に任せず、自分たちで引き際を選んだ。
趙活は栗毛の上で、僅かに息を吐いた。
昨日より一つ、言葉を減らして戦えるようになっていた。
### 四月二十八日 未の刻 武林陣南口
飛石幇は、砂埃とともにやってきた。
車輪。
梃子。
滑車。
縄を巻いた木枠。
荷車が道の石を噛むたび、がたがたと鳴る。
石公遠は先頭で、その荷車を押していた。
後ろには三百ほど。
石袋や得物を負う者。縄や工具を担ぐ者。荷車を押す者。
武林の援軍というより、普請場へ向かう人足の列に見える。
「趙大侠!」
石公遠は遠くから手を挙げ、大声を張り上げた。
目の前まで来ると、大仰に拱手する。
「ガハハ、まとめるのに時間はかかったが、力になりに来たぞ! おっと、今は趙総帥だったな!」
「幇主も、変わりなくお元気そうで」
石公遠は快活に笑った。
「幇主は、よいところに来てくださいました。さっそくお願いしたいことがあります」
趙活が地図を広げて示したのは、昨日まで武林と西夏が奪い合った疎林丘ではない。その手前、武林側へ緩く下る斜面だった。
朝廷軍の前へ石を転がすことはできない。
だが、西夏兵が武林側へ回り込む道を狭めることはできる。石混じりの荒地をそのまま壁とはせず、通らせる場所と止める場所に分ける。友軍の馬と担架が抜けられる筋を残し、それ以外には低い段と浅い窪みを重ねていく。
石公遠はしばらく地図と目の前の地形を見比べた。
「三日くれ」
その声から、笑いが消えていた。
「大石は動かせるようにする。小石は今日から使える。浅く掘った土は前へ盛る。まず低い段を一つ、使えるようになれば、その前へもう一つだ。柵も立てる」
「このあと楊将軍へお引き合わせします。軍の射界と伝令路は塞がないでください」
「そうしてくれ。勝手にはやらん」
前線工作へ回せる者が増えた。
飛石幇の荷車が荒地へ向かう頃、南口へ今度は二十騎が入った。
揃いの衣も旗もない。弓を負う者、投げ縄を鞍へ巻く者、網を畳んで載せる者がいる。一度は解散した馬賊が、昔の頭目の下へ集まり直した列だった。
先頭の男が馬上から拱手する。
「河中府の賴裕廷だ。手下は一度解散した。だが、西夏が攻めてきたと聞いたら、二十騎も勝手に戻ってきやがった。女房との山水巡りは、これが終わるまでお預けだ」
宋悲は表情を変えずに問う。
「馬賊へ戻るのか」
「この戦だけだ。金兵の馬を奪った手で、西夏の馬を味方へ回す。それなら賊働きじゃなく、戦功だろう」
「誰が功と認める」
「だから話をつけに来た」
賴裕廷は趙活のほうへ向き直った。
「それに唐門には、思い返したくもないが縁があってな。ここらで借りをまとめて返しておくつもりだ。そうしないと枕を高くして眠れねえ」
そこまで言って初めて、趙活の顔をまじまじと見た。
「おいおい。まさか噂の趙総帥とやらが、あの時、俺たちに混じっていた奴だったとはな……」
賴裕廷らは、二十騎で西夏の騎兵へ正面から当たる役ではない。散って矢を射ち、追う敵を荒地へ引く。足を止めた馬や、群れから離れた騎手だけを縄と網で取る。
趙活は捕らえた馬の扱いを、その場で決めなかった。
楊景略へ引き合わせた後、戦の間は軍の馬囲いへ預け、勝手な売買を禁じることになった。宋悲が毛色と焼印を確かめ、南宮偉が見積もった値を記す。軍が使った馬を買い上げるか、馬を捕らえた者へ返すかは、戦が終わってから定める。
夕刻には、遅れていた全真の先遣も入った。
先頭に立つ尹志平は、旅塵の残る道袍のまま趙活へ拱手した。
「趙少侠。今度はお仲間としてですな」
「尹道長。よく来てくださいました」
「道中で、武林盟の動きについてはいくつか聞き及んでおります。まず夜番と退路を見せてもらいたい」
「休まなくてよいのですか」
「歩いてきた者を、そのまま前へ出すつもりはありません。休ませるためにも、どこへ何人置けるかを先に知っておきたいのです」
全真の先遣は百人。
中小門派の後続も加わった。
この日だけで、武林陣は目に見えて膨らんだ。
人数だけなら、楊景略が初めに動かせた兵数へ近づいた。
だが、軍ではない。
門派は違う。武器も違う。考え方だってばらばらだ。
鐘を聞いて退く者もいれば、強敵を見て前へ出たくなる者もいる。
人が増えれば、力が増える。
同じだけ、間違える場所も増えた。
### 四月二十九日 未の刻 朝廷軍前哨周辺
西夏軍は、午後になって初めて大きく動いた。
疎林丘から歩兵が下りる。
農地の左手からは、盾兵と弩兵が第三哨へ出る。
軽騎は疎林の外縁に沿い、川寄りへ回った。
三つは同時だった。
どれが主か、最初には分からない。
楊景略は全部へ兵を出さなかった。
第三哨を守る。
主陣は動かさない。
農地の左手から来る盾兵を、第三哨の前で待つ。盾の後ろでは、弩兵が射程へ入るたびに足を止めた。宋軍の盾と弩を、正面へ向けさせるための前進だった。
疎林丘から下りる歩兵には、點蒼が近づいた。弓箭社は林の内側から、その後ろに続く弩兵と、疎林沿いを川寄りへ回る軽騎の双方を見る。
弓箭社のさらに後ろ、川寄りの林縁には、古参と若手を合わせた唐門十人が潜んでいた。全体の差配は古参が担い、唐衫は若手をまとめた一小隊を見る。
點蒼と同じ列には入らない。弓箭社の射合いにも手を出さない。姿を見せれば、そこに唐門がいると教えることになる。
古参が合図を出すまで、十人は暗器へ手を掛けたまま待った。
疎林の外、主陣の前には、懷素真人が青城の門人を置いていた。
大小の石が地へ顔を出し、その間を雨水に削られた浅い窪みが走っている。そこへ飛石幇が、昨日から手を入れ始めていた。
馬が速度を保てる筋は、大きく三本に分かれていた。飛石幇は小石を寄せ、削った土を前へ盛り、中央の一本を石列で閉じた。残したのは、第三哨側と川側の二本だけである。
だが、出来たのは低い段と石列が一つずつだった。大石はまだ動かず、柵もない。閉じた一本を除けば、騎兵の列を乱すことはできても、止める守りにはなっていない。
高和がその最前へ立つ。
軽騎が疎林の外縁を抜け、武林前哨の川側へ回ろうとすれば、そこで止める。追うための隊ではなかった。
賴裕廷ら二十騎は、その右後ろに散った。川側の通路を出入り口と定め、弓を射ってはそこへ引き返す。追ってきた敵が足を鈍らせた時だけ、縄と網を使う。
瑞笙の混成組も、初めは點蒼の後ろにいた。
三つの動きが見えたところで、各派の名代に率いられた一部を前哨へ残し、瑞笙は残りを連れて青城の守る荒地まで戻った。主陣からも中小門派の二組が上がり、空いた場所を埋める。
趙活は青城の列の後ろで馬を止めた。
「撃つな」
陸紹文が命じる。
「射程へ入っても、まだ撃つな」
西夏は弩の一射を無駄に使わせ、その隙に歩兵を入れたい。
宋軍は待ち続ける。
西夏の軽騎が横へ走る。
軍の弩はまだ鳴らない。
代わって弓箭社の矢が騎手の肩を射ると、軽騎はすぐに退いた。
矢の届く位置だけを探っている。
趙活は馬上で全体を見た。
前では、點蒼が丘から下りる歩兵と間合いを測っている。
その後ろでは、弓箭社が疎林の木々へ散っていた。
第三哨と青城の守る荒地との間には空地が残り、軍の弩が斜めに射線を通せる。
だが、飛石幇があと二日手を入れれば、そこも騎兵の通れる場所ではなくなる。工作は西夏側からも見えていた。
瑞笙と混成組は青城の右後ろで、武林前哨にも第三哨にも動ける距離にいる。
「弟、あいつが来るよ」
龍湘が見たのは農地の斜面だった。
黒い馬。
長い槍。
赫連鉄槍。
随伴は前回より少なく六十騎ほど。
盾兵が第三哨へ圧力をかけ、その後ろの弩兵が宋軍の弩を正面へ縛る。疎林丘から下りた歩兵は、點蒼と弓箭社を林際へ引きつけていた。
西夏軍が宋軍と武林を別々の場所へ縫い止め、赫連の走路を作っていた。
趙活は、楊景略の旗を見た。
主陣は動かない。
第三哨の右端だけが、僅かに後ろへ折れる。
飛石幇が石列で閉じた中央の筋には、もう速度を保ったまま馬を入れられない。
青城は、残る二本のうち川側の一本へ出入口を作る。味方の騎馬だけを通し、最後の一騎が戻れば閉じるためだった。
残る一本は、第三哨と青城の間に開いたままだった。
宋軍の弩は正面から外せない。
青城の門人が低い石列に沿って待ち、騎馬が横へ広がるのを防ぐ。
「瑞笙公子」
瑞笙が振り向く。
呼吸は静かだった。
「あいつが止まった時だけ入ってください。確実に先手を取れる時だけでいい」
「他には」
「相手は怪力です。正面から受けず、入ったらそのまま押し切ってください」
「承知した」
清虛子が赤い小旗を持ち上げる。
赫連の黒馬が下り始めた。
盾兵の右後ろから、農地の斜面を斜めに切る。黒馬は土を確かめながら、石帯の左縁、第三哨との間に残った筋へ寄っていった。
二十歩。三十歩。速度が乗る。
農地の左手で、西夏の弩が鳴った。
宋軍の盾へ矢が落ちる。
盾は動かない。
赫連の槍が低くなる。
前回、兵を盾ごと飛ばした高さだった。
「碧波子、まだ声を出すな」
趙活は黒馬の向きを見た。
碧波子も黙って待つ。
黒馬の描く斜線が、はっきりと石帯の左縁をなぞり、第三哨の右脇から青城の列へ向いた。
宋軍が武林との間を守り切れず、飛石幇の仕事場を捨てたように見える。
赫連は速度を落とさない。
その後ろへ騎馬が続く。
楊景略の令旗が下がった。
軍の銅鑼が一つ鳴る。
第三哨右端の盾は退かなかった。
ここで弩を横へ向ければ、正面で待つ西夏の盾兵が入る。楊景略は第三哨を崩してまで、赫連を追わせなかった。
碧波子の声が武林側へ飛ぶ。
「赫連、石帯左、第三哨右脇へ! 軽騎、疎林沿いを川側へ回る!」
清虛子の赤旗が、川側へ向く。
「土盛りを離れるな」
懷素真人の声に、高和が剣を上げた。青城の列が左右へ分かれ、低い石列の後ろへ投石の間を開ける。
賴裕廷らは赫連へ向かわず、川側へ散った。
疎林沿いを回り込む軽騎と矢を交わし、武林の側面へ寄せつけない。
赫連と随伴六十騎は、そちらへ流れない。石帯の左縁、第三哨との間に残った筋へ、黒馬を先頭に縦長で入ってくる。
石公遠が叫んだ。
「おめえら!石を投げつけてやれ!」
飛石幇の門人が、低い石列の後ろから一斉に平石を放つ。
石は高く弧を描かなかった。地を舐めるように鋭く回り、馬の鼻先、前脚、騎手の手元へ集まる。
一頭が首を振る。
二頭目が横へ逃げ、後ろの馬と肩をぶつけた。
倒れた馬はない。
それでも、前へ出ることを嫌った馬が歩幅を縮め、随伴の列はそこで詰まった。後ろから来た騎馬は横へ逃げられず、赫連との間が開いていく。
黒馬だけは止まらなかった。
大柄で、胸も首も太い。速さだけを求めた駿馬ではなく、赫連と長槍を載せたまま人の列へ踏み込むための軍馬だった。
石公遠は足元から、自分の大きな掌へぎりぎり収まる平石を取った。
一投。
重い石が激しく回り、飛石幇が小石を払った土筋を一度だけ打って跳ねる。
黒馬の胸前へ入った。
普通の馬なら、傷を免れない一石だった。
黒馬は倒れなかった。
太い首を振って嘶き、前脚を高く上げる。骨を損なうほどの傷ではない。だが胸を打たれた黒馬は前へ出るのを嫌い、突撃の足だけが止まった。
赫連の槍が馬上の均衡を取るため外へ流れる。
上体が半ば開いたその瞬間、瑞笙はすでに黒馬のもとへ滑り込んでいた。
同時に、瑞笙の混成組も左右へ割れて走っていた。
赫連へは寄らない。
投石を嫌って足を止め、前後に詰まった随伴騎兵を狙う。ある者は騎手の武器を払い、ある者は鐙へ剣を走らせ、別の者は手綱を掴んで馬首を逸らした。
飛石幇は、侠客が間合いへ入ったところで石を止める。
賴裕廷らは川側に残り、疎林沿いの軽騎へ矢を送り続けた。青城の出入口へ寄った者にだけ、縄と網を投げる。
内側では、高和が剣を上げた。
懷素真人のもとに残る青城主隊は動かない。荒地の通路を閉じ、随伴騎兵を赫連へ近づけないための列だった。
高和が率いる一隊だけが、第三哨へ向けて走る。
赫連を追うのではない。彼を通すため宋軍を正面へ縫い止めていた、西夏の盾兵と弩兵。その右側面へ入る。
碧波子が、軍側へ声を通した。
「青城一隊、第三哨右へ寄る! 軍の射界には入らない!」
楊景略の令旗が、前へ一度倒れる。
第三哨の盾と槍が一歩だけ出た。弩は横へ向けず、正面のまま西夏兵を押さえる。
高和も宋軍の射界を横切らない。敵列の端へ剣を入れ、盾を自分へ向けさせる。
正面の宋軍へ向けていた盾が一枚、二枚と横を向いた。
その隙間へ、宋軍の槍が入る。
誰も赫連と瑞笙の間へは入らない。
代わりに、随伴騎兵を一騎も助けへ入れなかった。
そのすべてが動いたのは、瑞笙が一歩を詰める、僅かな間だった。
黒馬の前脚が地へ戻り、馬体が一段沈む。
その瞬間に合わせ、瑞笙は左前脚の外、左鐙の斜め前へ潜り込む。地上から跳ね上げた剣が、左下から赫連の脇へ走った。
体勢を崩した赫連は、攻め返せない。
槍の柄を立てる。
剣が柄を打つ。
二手目は鐙の上、赫連の膝へ剣先が走る。
槍が短く下がる。
三手目。瑞笙が膝を伸ばして半身を浮かせる。剣先が細く跳ね、赫連の左の首筋へ走った。
四手目は、手綱を持つ手首。
瑞笙は舞うように連撃を重ねていく。
五手目。六手目。七手目。
瑞笙は黒馬の左肩を離れない。
馬首を返そうとすれば、手綱を取る腕へ剣が来る。鐙から足を抜いて降りようとすれば、その脚へ次が来る。
赫連には、馬を動かす暇も、降りる暇もなかった。
瑞笙は長槍を振るえない懐へ入り、剣勢を切らさない。
赫連はすべて防いだ。
だが、仕切り直す間を与えられない。
周囲の兵には、白い衣しか見えなくなった。
瑞笙が動くたび、剣光が別の場所へ生まれる。
西夏の騎兵が助けへ入ろうとする。
混成組がその騎手へ刃を向け、懷素真人のもとに残った青城の剣が、空いた場所を詰める。
瑞笙一人の戦いではない。
彼へ手番を渡すため、軍と武林が周りの手を塞いでいる。
その間も、瑞笙の剣は止まらない。
八手目。
赫連の槍が初めて遅れた。
九手目。
赫連の槍が、また一つ遅れた。
十手目。
瑞笙の剣先が肩布を裂く。
肩布を裂いた剣を、赫連の槍身が外へ弾いた。
瑞笙は弾かれるまま、半歩だけ引く。
赫連の目が細くなる。
これで連撃を切り、仕切り直せると思ったのだろう。
だが、十一手目は剣ではなかった。
瑞笙が丹田から息を吐いた。
「かあっ!!!」
蒼龍吟。
濁りのない内力が声へ変わり、雷のような一喝となって戦場を打った。
声と踏み切りは、一つだった。
踏み切る足が、地へ半ば埋まった平石を蹴る。
一喝が赫連の心神を打った時、瑞笙の足はすでに地を離れている。
近くにいた宋兵も西夏兵も、肩を震わせて動きを止めた。黒馬さえ首を跳ね上げ、四肢を強張らせる。
赫連も止まった。
だが、半瞬だった。
鐙を踏み直し、乱れた呼吸を力ずくで戻す。
その時には、白衣は黒馬の左脇を斜めに跳ね上がっていた。瑞笙の目が、馬上の赫連と同じ高さへ届く。
瑞笙の剣が消えた。
白衣が翻る。
絶招、太白仙跡。
誰かが叫んだ。「取った!」
そう見えた。
崩れた体勢から、赫連の槍が小さく回った。
手元を支点に、下がっていた石突側の槍身を、瑞笙の落ち口へ掬い上げる。
黒馬は足を止めたまま、踏み込みも、馬勢もない。
赫連の腰も回り切っていない。
それでも届かぬ分を、右肩から背の筋で強引に押し込んだ。
張り詰めた筋が軋む。
瑞笙は、その短い動きに気づいた。
切り下ろしを捨て、両手で柄を握り直す。剣を、赫連に近い右肩の前へ寄せ、剣身を斜めに寝かせた。槍身を、鍔に近い剣の腹へ当てる。
両肘を畳み、肩と胴を一つにする。
金属音が一つ響く。
受け止めたのではない。
触れた瞬間に腰を同じ向きへ回し、自分の跳躍ごと、槍の押す先へ逃がした。
白衣の軌道が横へ折れ、黒馬から二丈ほど離れる。
瑞笙は空中で腰を返した。礫の薄い浅い窪みへ片足から下り、膝を深く折る。一歩、二歩と斜め後ろへ足を継ぎ、露岩の手前で止まった。
剣は手にある。
構えも戻っている。
傷もない。
ただ、詰めたはずの間合いだけが、すべて失われていた。
赫連は馬上で体を戻した。
肩布が裂けている。
槍を引き戻す右腕だけが、ほんの僅かに遅れた。
後ろでは、随伴の隊長が退けと叫んだ。
随伴騎兵は混成組と刃を交えながら間合いを作り、馬首を返せた者から来た道へ駆け戻っていく。
馬上から落とされた三人と、騎手を失った三頭だけが荒地へ残された。
西夏の銅鑼が鳴った。
赫連も黒馬を返す。
弓箭社から、二、三本の矢が追ったが、赫連の長槍が短く返り、すべて荒地へ払い落としていった。
黒馬はすぐに速度を取り戻し、来た筋を駆け戻った。
瑞笙は追わず、その場から赫連だけを見ていた。
第三哨の正面でも、盾兵と槍兵が列を崩さず農地へ下がり始めた。弩兵は盾列の後ろから、装填した弩を宋軍へ向けたまま続いた。
川側の軽騎も、賴裕廷らと距離を取りながら疎林沿いへ退いていった。
疎林側では、唐門の暗器が西夏歩兵の盾列を崩した。そこへ點蒼が飛び込み、十人に届かぬ兵を斬り伏せてすぐに退く。唐門は二度目を放たず、姿も見せなかった。
武林の退き鐘が二つ鳴ると、碧波子が退路を告げ、清虛子の赤旗が方角を示した。
武林は捕虜三人と馬三頭を先に後方へ送り、列を割らずに白布の線まで戻った。
この日の戦いは、ここに終わった。
続く四月三十日は、農地側の西夏軍に大きな動きがなかった。
崆峒山道では、峨嵋の先遣が小組に分かれ、昼夜を継いで西夏兵へ攻撃を掛けていた。唐門の十人が罠と退路を調べ、追ってきた敵の足を暗器で止める。
その間にも飛石幇は荒地へ石を運び、低い段と石列を少しずつ延ばしていった。
### 五月一日 未の刻 民列中継点
避難民の列も、残り僅かになっていた。
その一団が、村道から天水・成都方面街道へ移り始めていた。
前線に近い家から出された者たちである。荷車へ積めなかった鍬を担ぐ者も、まだ畑へ戻れると思って種籾を抱く者もいた。
前では、西夏軍が丘の裾へ兵を出していた。武林側も前哨から人を出している。丘を奪う攻勢ではない。敵の目を前へ留め、民列が村道を抜けるまで支えるための牽制だった。
西夏側も盾と弩を正面へ押し出し、宋軍と武林の予備を前へ縫い止めている。
武林側では瑞笙が主隊と予備を預かり、趙活は龍湘を伴って、その後ろから軍と武林の間を見ている。
碧波子は前線を離れ、武林陣と民列の間にいた。清虛子が前線から返る旗を読み、必要な言葉だけを碧波子が後送路へ通す。
裴紅臘は荷車の脇で伝令の出入りを書き留め、高和は中継点の外縁を見回っていた。
「荷車を止めるな! 子供を列の内へ入れろ! 負傷者の道を空けておけ!」
声は木々と人垣を越え、列の後ろまで届いた。
嵩山の僧は列の両側へ散っている。その日の護衛番だった慧光は碧波子の二歩後ろに残り、声を聞いて寄ってくる者と、声を聞かず近づく者を見ていた。
丐幇も民列の外を歩いていた。武林の者を怖がる民でも、見慣れた襤褸を着た乞児になら水や行き先を尋ねる。李富貴は杖を肩へ担ぎ、遅れる荷車を押しては、列の外へ膨らむ者を道へ戻していた。
民列の脇では、飛石幇の運搬班が前線へ回す石袋を積み直していた。
福韞は民列の先頭にいた。
道へ座り込んだ老人を立たせ、荷車へ縋る女へ水を渡し、捕役と里正の間を行き来していた。
「天水まで一息とは申しませぬ。ですが、ここへ残るよりはよい。荷は後で取りに戻れます。命は置いていけば戻りませぬ」
言葉で人を動かすのが、福韞の役目だった。
その福韞が、道の横手へ目を向け、口を閉じた。
人のいなくなったはずの村から、二十五人ほどが村道を駆けてくる。
服はばらばらだった。農民の粗衣、旅人の短衣、古びた僧衣まである。
刀や鉈を握る者の目は、民列の外を守る嵩山の僧と捕役へ向いていた。その中に、武器を持たず、両腕を胸元へ寄せて走る者が混じっている。
見張りの捕役が呼子を吹く。
短く三度。
敵襲。
「列を止めるな!」
福韞は叫んだ。
「前へ進め! 走るな! 子供を抱け!」
極楽教徒が村道からなだれ込む。
先頭の男は笑っていた。
「その者らを放せ! 俗世の犬を退けろ!」
「まず刀を捨てなされ」
福韞は合掌した。
「人を傷つけぬなら、話は聞きましょう」
男は答えず、村道を塞ごうとした捕役へ刀を振り下ろした。
福韞の目が変わった。
踏み込み、手の甲で顎を打つ。
男の頭が跳ねたところへ肩を入れ、民列の外へ押し出す。返した掌が胸へ沈み、男は刀を取り落として気を失った。
「嵩山の者、村道を閉じよ!」
福韞の声から、説法の調子が消えた。
村道の出口へ、先遣の武僧が駆け込む。
極楽教徒がそこへ殺到した。
一人を拳で返す。
二人目の膝を棒で払う。
三人目を肩で受け、そのまま後ろの二人へぶつける。
だが、十八人が揃った羅漢陣のように、一分の隙もなく並ぶ陣ではない。
一人が打てば、その横が開く。福韞が自らそこへ入り、飛石幇が石袋を積み、捕役が荷車を寄せて、ようやく人の通れぬ壁になる。
広い場所なら左右へ抜けられる。荷車で村道の出口を狭めたからこそ、寄せ集めの壁でも間に合った。
捕役が民を前へ流す。
裴紅臘が車輪の傍で泣く子を引き寄せる。
高和は鉈を振りかぶって捕役へ迫る男の腕を斬り上げ、民のいない側へ押し返した。
碧波子が息を吸う。
「民列脇、村道から敵! 走るな、道を空けろ! 嵩山の指示に従え!」
その声を、二人の刺客は待っていた。
一人は灰衣の男。
もう一人は、白粉で顔を塗った女だった。
二人とも極楽教徒と共に走ってはいない。民列が動き出す前から、壊れた荷車と薪束の間へ潜んでいた。
女の指が僅かに動く。
細い黒針が、碧波子の首の付け根へ刺さった。
痛みはほとんどなかった。
碧波子は次の言葉を出そうとした。
息は入る。
喉も切られていない。
だが舌が動かなかった。
膝から力が抜ける。
手をつくこともできず、碧波子はうつ伏せに倒れた。
意識だけは残っている。
指一本動かせず、こちらへ歩いてくる灰衣の男の靴を見ることしかできなかった。
「碧波子殿!」
慧光が錫杖を横へ入れる。
短刀が、差し込まれた杖身へ当たり、鈍い音を立てた。
男が半歩退くのと入れ替わりに、女が慧光の横へ回る。
慧光はその動きを視界に収めながら、碧波子の前へ入った。
「救援を! 碧波子殿が落ちた!」
声を張る。
その時、民列の脇で最初の爆発が起きた。
腹へ響く音がして、泥と煙が高く上がる。
馬が嘶き、荷車が傾き、民の悲鳴が一斉に重なった。
慧光の声は、そのすべてに呑まれた。
清虛子は民列から離れた旗の中継にいた。
爆音を聞き、煙を見た時には、すでに非常旗を上げている。
民列で異変。
前線は持ち場を崩すな。
救援は武林陣から出せ。
旗を大きく振り、次の中継が同じ旗を上げるまで下ろさなかった。
裴紅臘は、碧波子が倒れるところを見ていた。
筆を握る指に、力が入った。
駆け寄りたかった。
だが、ここを離れれば、碧波子が倒れたことを武林陣にも医療列にも伝えられない。
裴紅臘は唇を噛み、紙を二枚破った。
同じ文を、続けて書く。
民列襲撃。爆発あり。碧波子倒れる。医者と高手を急送されたし。
一枚を武林陣へ走る侠客へ渡し、もう一枚を医療列へ向かう捕役へ持たせる。
武林陣に残っていた南宮偉は、文を読み返すより先に人を分けた。
一人は前線の趙活へ。
一組は武林陣の予備を連れて民列へ。
旗の意味を取り違えた者が前哨を離れぬよう、別の一人を瑞笙へ走らせる。
医療列へ向かった二枚目を受け、葉雲舟も薬箱を掴んで走り出した。
二人の伝令が走り去るのを見届けると、裴紅臘は荷車の陰まで這ってきた別の子供へ手を伸ばし、自分の背後へ伏せさせた。
村道側では、福韞が伏せた姿勢から顔を上げた。
最初に男の胸へ気づいたのは、列の脇を歩いていた嵩山の武僧だった。
男を押し返す暇はなかった。
武僧は傍にいた母親から子を奪うように抱き寄せ、その場へ伏せた。己の背を、男と母子の間へ置いた。
爆発は、その背をまともに打った。
母親と子は泥の中で咳き込んでいる。
その上に覆い被さった武僧は、もう動かなかった。
爆ぜた男は、敵味方の区別もなく周囲を巻き込んでいた。隣を走っていた極楽教徒まで、何が起きたか分からぬ顔で倒れている。
普通の教徒は知らなかったのだ。
自分たちの中に、死ぬためだけの者が混じっていることを。
福韞は一瞬、その意味を測りかねた。
理解が追いついた途端、顔から平静が消えた。
「外道がぁっ!」
福韞は次の一人を見つけた。
胸元を不自然に押さえている。
走る先には、荷車の陰へ集められた母子がいた。
「胸だ!」
福韞は叫んだ。
「胸を押さえてる野郎を入れるな! 煙を吸うんじゃねえ!」
僧衣を翻し、男へ走る。
男が懐へ手を入れた。
福韞の掌が、その手ごと胸を押さえる。
「止まれ!」
肘が男の顎へ入り、体が仰け反った。
福韞は男を抱えるようにして民列の外へ向きを変えた。
二人で地面へ転がる。
嵩山の武僧が駆け寄り、男の両腕を踏んで押さえた。
「押さえろ! 胸元に触るな! 縄を回せ!」
福韞の声は、もう僧のものには聞こえなかった。
別の自爆役は、飛石幇の石袋を胸へ受けた。
走る向きがずれる。
高和が腕を斬り上げ、捕役が足へ縄を掛けた。
男は倒れながら火を入れた。
小さな爆発が地面を叩く。
石袋が破片の幾つかを受けた。それでも近くの者が倒れ、煙を吸った女が喉を掻きむしった。
福韞はそちらへ行けない。
まだ一人が、民へ走っている。
村道の出口を閉じていた嵩山の武僧が横から組みついた。仕掛けへ伸びる腕ごと地へ伏せさせ、別の武僧が両手を踏んで押さえる。
その後ろに、最後の一人。
高和は、二人目の爆風で片膝をついていた。
立ち上がった時、最後の男が胸元へ手を入れるのが見えた。
間に合わぬと見れば、迷わなかった。
一足で入り、抜いた剣を喉へ通す。
男の手が仕掛けへ届く前に、体から力が抜けた。
高和は倒れる体を民のいない側へ蹴り送り、剣を引き抜いた。
今この場にいる極楽教徒の誰が自爆するのかわからない。
だから見分けるまでが遅れる。
普通の教徒は民へ刃を向けていなかった。だが、自爆役を追おうとする僧と捕役へ刀を振るい、その道を塞いだ。
守る側は、斬る相手と、触れてはならぬ相手を同時に選ばなければならなかった。
「胸元を押さえてる奴を民列へ近づけるな!」
福韞は刀を持つ教徒の手首を打ち、返す掌で顎を跳ね上げた。
刀が落ちる。
倒れた男へ止めは刺さず、その体を民列の外へ蹴り送る。
殺す方が早い場面でも、福韞が選ぶのは武器と意識を奪う手だった。
自爆役も同じである。火を入れる手を止め、民から引き離す。それでも間に合わなければ、せめて爆ぜる体と民の間へ自分が入る。
村道側では、怒号と悲鳴が重なっていた。
そこから荷車を何台も隔てた後方では、武林陣と後送路へ道が分かれていた。
その場所で、慧光はなお二人の刺客を食い止めていた。
「刺客! 後送路! 救援を!」
二度目の救援を叫ぶ。
村道側で起きた二度目の爆発は、ここからは遠かった。
だが爆音と民の悲鳴は、慧光の声を呑み込むには十分だった。
灰衣の男の短刀が上から来る。
白面の女の刃が下から碧波子の腹を狙う。
慧光は上を錫杖で受け、下へ足を差し入れた。
杖術より先に体へ入れた太祖長拳の歩法で間へ潜り、金剛腿で刃の軌道を蹴り外す。
靴底が裂ける。
血が出る。
だが、刃を碧波子へ届かせない。
男は短刀を引くと同時に、空いた掌を錫杖の中ほどへ打ち込んだ。
掌力が杖身を伝い、慧光の指が開いた。
錫杖が回りながら飛び、荷車の向こうへ落ちる。
拾いに行けば、碧波子の前が空く。
慧光は錫杖を見なかった。
「退けば、お前は殺さぬ」
男が言った。
「後ろの御仁は」
「殺す」
「ならば、退けませんな」
慧光は覚悟を決め、腰を落とし、両手を開いた。
勝つためではない。
碧波子を、この場で殺させないために。
嵩山本院へ身を移す前から身につけていた太祖長拳は、もとより実戦の攻防を重んじる。身を屈め、歩法を細かく替え、二人の刃が同じところへ通らぬよう間をずらす。
白面の女が針を放つ。
慧光は金鐘罩で受けた。
胸へ二本。
肩へ一本。
皮膚で止まった針もある。
浅く入った針もある。
銅人達なら、すべて弾いたかもしれない。
慧光の金鐘罩は、そこまで深くない。それでも、肉へ深く入る前に止めた。
だが、痺れは浅くなかった。
左手の感覚が消えた。右膝が揺れた。
それでも慧光は叫んだ。
「救援を! 碧波子殿が落ちた!」
村道側では、福韞も叫んでいる。
捕役が呼子を吹く。
子が泣く。
負傷者が呻く。
誰も、後ろの僧一人の声を拾わない。
碧波子には聞こえていた。
自分のために呼ぶ声が、誰にも届かない。
慧光の踵が、一歩ずつ自分へ近づいてくる。
押されているのだ。
あと三歩。
二歩。
一歩押されれば、慧光の足が碧波子へ触れる。
その時は、もう退く場所がない。
白面の女が、碧波子へ目を向けた。
短刀の切っ先が下がる。
首を狙っている。
慧光には分かった。
自分が踏み込むのを待っている。女を止めれば、その瞬間、灰衣の男へ胸が開く。
だが、踏み込まなければ、碧波子は殺される。
考える余地はなかった。
慧光が初めて前へ出た。
左の前腕で、振り下ろされる女の手首を押し上げる。
思った通り、女はその動きを待っていた。
同時に、男が入る。
掌が慧光の胸を打ち、息が抜けた。
慧光の体が碧波子の横へ落ちかけるが、片膝をつき、拳を地へ打って支える。
倒れない。
「しぶとい坊主だ」
「褒め言葉として、頂きましょう」
声は掠れていた。
それでも、もう一度叫ぶ。
「救援を!」
爆発の後、ほんの一瞬だけ、民列が静まった。
泣き声も命令も、息を吸うために途切れた。
その隙間を、慧光の最後の声が抜けた。
李富貴が足を止めた。
逃げ惑う民を道へ戻していたため、それまでの声は聞き取れなかった。
今の声だけは、聞き違えなかった。
「こ、こっちを頼む!」
近くの丐幇弟子へ民を任せ、杖を肩から下ろして走った。
白面の女の刃が、碧波子へ落ちる。
慧光が袖を払った。
隠していた石灰粉が、女の顔へ弾ける。
女は顔を背け、一歩退いた。
灰衣の男は、石灰の届かない側から踏み込んだ。
短刀が慧光の脇腹を斜めに裂く。
なけなしの硬気功で肉を締め、刃に合わせて身を捻った。
衣と皮膚は裂けたが、筋までは深く断たせなかった。
しかし、すぐさま傷口から冷たい痺れが広がり始める。
刃に毒が塗られている。
男が短刀を返し、今度こそ碧波子へ踏み込む。
横から杖が滑り込んだ。
短刀の腹を打ち、碧波子の肩口から外へ弾く。
返る杖尾が灰衣の男の胸へ向かう。
男は短刀を立てて受けた。
金属が鳴る。
李富貴は押し切らず、杖を引いて慧光と碧波子の前へ立った。
「李幇主、助かりました」
慧光が言った。
「慧光和尚、だ、大丈夫か」
「ぎりぎり、です」
「なんとか、が、が、我慢してくれ」
慧光は答えようとしたが、息が漏れただけだった。
硬気功を解いた脇腹から、押し留めていた血が流れ出す。麻痺はすでに脚まで回っていた。
膝が折れ、碧波子の傍へ片手をついたまま、慧光は起き上がれなくなった。
意識はある。
だが、もう戦える体ではなかった。
李富貴は目の前の二人を見る。
見てすぐに打倒できるとは思わなかった。
二人とも、李富貴と同格か、わずかに上の武芸を持っている。
今、その二人を同時に相手取らなければならない。
不利なのは分かっていた。
だが李富貴には、人並み外れた膂力と、押されても崩れぬ足腰がある。
手数で足りないものは、杖の広さと力で埋めればよい。
二人を倒す必要もない。
李富貴は杖の中央を持ち、広く使った。男の短刀が来れば杖先を下から跳ね、女が回れば石突を地へ突いて道を塞ぐ。
打ち勝とうとはしない。
杖を重ね、押されれば半歩だけ退く。
だが、退く方向も距離も、李富貴が決めた。
男にも女にも、背後の二人へ抜ける道を与えない。
牛のような膂力は、持ち場を譲らぬ時にこそ役に立った。
灰衣の短刀を杖身で受ける。
白面の女の蹴りが脇腹へ入る。
李富貴の上体が揺れた。
それでも、踏ん張った足は崩れない。
女が着地する場所へ杖先を置く。
女は踏めず、身を捻って横へ降りた。
灰衣の男が、その隙に低く入る。
李富貴は石突で脛を打った。
男の足が一瞬だけ止まる。
蛇が鎌首をもたげるように杖先が返り、顎を追う。
杖先が顎を掠めた。
浅い。
倒せない。
だが、次へ入る足は止められる。
驚蛇杖は、一撃で人を殺す技ではなかった。どこから杖が返るかを読ませず、踏み込む心を鈍らせる杖法だった。
二人の刺客が離れるが、李富貴は追わなかった。
李富貴は倒れた慧光と碧波子の前を動かず、杖先を二人の刺客の間へ置く。
男と女が左右へ分かれた。
一人を見れば、もう一人が入る。
李富貴の杖が忙しくなる。
短刀を払い、針を杖身で受け、碧波子へ伸びた手を突き戻す。
背後の二人を置いて動けないからこそ、危うい間合いへは踏み込まない。勝とうとしないことが、李富貴を崩れにくくしていた。
焦れた女が、再び低く入る。
一拍遅れて、男の短刀が上から重なった。
李富貴は石突で女の刃を外へ押す。
そこへ落ちてきた短刀を、返した杖先で受けた。
その時、医療列の方から人が走ってきた。
薬箱を肩へ掛け、剣を提げている。
葉雲舟だった。
灰衣の男も見た。
目が細くなる。
あと僅かで、あの剣が届く。
二人で李富貴を抜く時間はない。
白面の女は見ていなかった。
碧波子だけを見て、もう一度踏み込む。
李富貴は守るためではなく、女を倒すために杖を振った。
正面の突きを女が外し、そのまま懐へ入る。
李富貴は杖を引かなかった。握りを支点に、そのまま半転させる。
外された杖先が沈むのと入れ替わりに、反対の石突が地を這うような低さから跳ね上がった。
石突が女の顎を下から打ち上げ、白い顔が跳ね上がる。
女の目から力が抜け、受け身も取れずに地へ落ちた。
殺してはいない。
しばらくすれば、目を覚ます打ち方だった。
そのとき、灰衣の男の袖が翻った。
男の袖から、黒い光が二筋走った。
一つは、碧波子の眉間。
一つは、倒れた女の喉。
李富貴が碧波子へ向かった一筋へ杖を差し入れる。弾かれた黒針が地へ落ちた。
だが、もう一本の鉄鏢が、女の喉へ深く突き立った。
女の体が僅かに跳ね、それきり動かなくなった。
「仲間を」
李富貴が言い終える前に、男は奥歯を噛んだ。
葉雲舟の剣が鞘を離れる。
一歩で間を詰め、柄頭が男の顎を打った。
男の口が開く。
だが、蝋の割れる音はその前にしていた。
葉雲舟が顎を外し、布を巻いた指で口内を探る。
砕けた丸薬の欠片が、口から落ちた。
もう舌の奥で溶けている。
男の体から力が抜けた。
「碧波子殿を……」
慧光の舌は、もううまく回っていなかった。
「分かっています。慧光和尚も、もう喋らないでください」
葉雲舟が答える。
碧波子は目を開けていた。
息もある。
だが声は出ず、四肢は動かない。
李富貴が顔の前で指を立てる。
「見えるか」
碧波子は瞬きした。
「意識はある!」
その声を聞いて、慧光の肩から力が抜けた。
「はは……拙僧の、勝ち」
強張った顔に笑みを浮かべたまま、地へついていた肘から力が抜けた。
葉雲舟が倒れ切る前に肩を支える。
慧光は、ここでようやく意識を手放した。
村道側でも、戦いが終わりかけていた。
五人いた自爆役のうち、二人が爆ぜた。
一人は母子を庇った武僧を巻き込み、もう一人は石袋で進路を逸らされ、高和に腕を斬られながら火を入れた。
残る三人のうち、一人は福韞が昏倒させ、嵩山の武僧が両腕を押さえた。
もう一人は、別の武僧たちが仕掛けへ触れさせず、地へ伏せさせた。
最後の一人は、仕掛けへ手を掛ける前に高和が斬った。
残った極楽教徒は、そこで初めて逃げ始めた。
彼らの何人かは、倒れた自爆役を見て怯えていた。
同じ教徒でありながら、仲間が何を抱えていたのか知らないようだった。
福韞は逃げる教徒を追わせなかった。
荒い息を一つ吐き、目の前の惨状へ向き直る。
民を先へ送り、風下を空け、倒れた者には素手で触れぬよう指示する。
宋悲が民列の南端から戻ってきた。
誰か一人に最初から語らせる前に、捕役を三つへ分ける。
生きている教徒。
胸に仕掛けを残した者。
巻き込まれた民。
互いを混ぜず、死体と落ちた品には触れさせない。逃げた教徒を追うより、まず民列と現場を閉じた。
武林陣から出た予備も遅れて着き、民列の外側と街道を塞いだ。
福韞は合掌しなかった。
今は死者へ経を読むより、生きた者を動かす方が先だった。
自ら手に掛けた者はいない。
だが、救えなかった者はいる。
その違いで、目の前の死が軽くなるわけではなかった。
趙活が龍湘を伴って馬で着いた時、福韞は爆ぜなかった男の胸へ板を当て、縄で固めさせていた。
龍湘は先に馬を降り、碧波子へ近づく道と、倒れた刺客の周りから人を退かせた。
「自爆する者は、五人でした」
福韞は言った。
「ほかの教徒は、知らされておりません」
「どうして分かります」
「爆ぜた時、あの者らも怯えました。己も巻き添えになると知らないようでした」
趙活は頷き、碧波子の方へ向かった。
「趙兄。慧光殿は肩と胸に三本。脇腹に刃傷、意識はありません。碧波子殿は首の後ろに一本です」
「碧波子から先に見る」
趙活は首裏の針を確かめ、脈を取り、瞳を見た。
針は穴を正確に捉えている。
穴を突いて声と内力を封じ、毒で手足を奪う。解穴だけでは動けず、毒だけを抑えても声は戻らない。
刺客は、動けなくなったところを刃で仕留めるつもりだったようだ。
軍医が日頃扱う傷ではない。
「先に毒を止める。針を抜いて、穴を解くのはその後だ」
趙活は毒の巡りを抑える穴へ鍼を打った。首裏の黒針を抜き、それから塞がれた穴を解く。
葉雲舟が担架を呼ぶ。
趙活は次に慧光を見る。
呼びかけても、瞼は動かなかった。
肩と胸には三本の針が残り、脇腹を押さえた布には血が滲んでいる。
趙活は脈を取り、首筋へ指を当てた。
遅いが、途切れてはいない。
刃から入った痺れも、胸までは上がり切っていなかった。
慧光が硬気功で傷口を締め、残った内力で毒を押し留めながら、最後まで呼吸を繋いだためだった。
「葉兄。脇腹を先に縛る。針はここで抜かない」
「分かりました」
応急の処置を終えた二人は、担架で医療列へ運ばれていった。
乱れていた民列は、隊列を組み直して南へ動き始めた。
宋悲は街道の分岐まで戻り、名簿と人数をもう一度照合した。天水側から来た捕役と里正へ、負傷者、離れた家族、途中で列へ加わった者を一人ずつ引き継ぐ。
そこから先まで、自分で送ることはしなかった。
宋悲が何日も戦場を離れれば、捕らえた教徒と村々の記録を繋ぐ者がいなくなる。
福韞は次の中継所まで民列についた。
嵩山の僧を数人と、丐幇の者、街道側の捕役を残し、夜を越す場所と翌朝の出立まで定めてから戻る。天水まで付き切るのは、残した者たちの役目だった。
千灯楼から、生きた捕虜は取れなかった。
一般の極楽教徒は七人を生け捕った。
自爆役は別に二人、胸の仕掛けを残したまま捕縛できた。
敵は民列を止められなかった。
碧波子も殺せなかった。
だが二つの襲撃は、同じ時を選んでいた。
偶然ではなかった。
### 五月一日 夜 武林陣指揮天幕
千灯楼の刺客は、一人も口供を残さないまま死んだ。
死者は何も答えない。
唐門は、それでも調べる。
女の白粉を拭い、髪と帯を解き、衣の縫い目まで開いた。男の口からは潰れた蝋丸を取り出し、袖に残った暗器を一本ずつ並べた。
髪の中に薄刃。
帯の裏に黒い糸。
舌の下に予備の毒。
靴底には、香灰が詰まっていた。
唐惟元は机へ三つの物を置いた。
捕らえた極楽教徒の薬包。
刺客の靴から出た香灰。
碧波子へ打ち込まれた黒針を包んでいた糸。
「これ、同じ場所を通ってるっス」
「なぜ分かる」
「灰に砂が混じってる。細かい雲母と、水に擦られた砂っス。薬包の糊にも、針を包んでいた糸にもついてる」
灯へ近づける。
僅かに光った。
「同じ場所で用意したか、少なくとも同じ場所へ置かれていた品っス。南の細道が川側へ下りるなら、まずそこを洗うっス」
「断定できるのか」
宋悲が問う。
「この三つが同じ場所を通ったことまでは。南の細道と繋がるのは、川砂と、紙と糊を運んだ男の証言っス。誰が誰へ渡したかは、死んだ奴には聞けないっス」
二つの襲撃は、同じ時を選んだ。
極楽教徒は、自分たちの中に自爆役がいることさえ知らなかった。
千灯楼が教徒を使ったのか。
同じ誰かが、別々に二つを動かしたのか。
西夏と通じているのか。
それとも、西夏にさえ別の役を負わせているのか。
まだ何も決められない。
だが、二つの襲撃に使われた品は、同じ場所を通っている。
「四師兄」
趙活が呼ぶ。
唐惟元は既に、机の品を包み始めていた。
「こいつらがどこから香と糸を持ってきたか、南の道を洗う。捕虜が食った場所、寝た場所、水を飲んだ場所も全部っス」
「人を出しすぎないでください」
「明朝、古参を六人出す。二人一組。唐衫はこっちへ残す」
「捕役も三人出す。各組へ一人ずつつける」
宋悲が言った。
「採った物と場所は、双方で記す。開けるのは戻ってからだ」
「帰る時刻は」
「明日の日暮れ前。定刻を過ぎても、迎えは出さない。道口を閉じて待つ」
趙活は頷く。
唐門は、戦場の裏を探り始める。
ようやく、敵の尻尾の先が見えた。
掴めるほど太くはない。
追えば切り捨てられるかもしれない。
それでも、何もない暗がりを探すよりはよかった。
天幕の外では、清虛子が碧波子に代わって明日の旗を確かめていた。
声が使えない三日間は、旗と鐘、人の足で繋ぐしかない。
遅くなる。
それでも、途切れさせるわけにはいかなかった。
***
医療列では、慧光がまだ眠っている。
医者の見立てでは、碧波子は三日間の観察と静養。手足が戻っても、その間は内力を声へ乗せることを禁じられた。
慧光は二週間。針の痺れに加え、脇腹の裂傷、胸の掌傷、足の切創がある。歩けるようになっても、前へ戻すことはできない。
両腕と右脚に痺れは残ったが、毒は心の臓まで届いていない。
碧波子は、趙活の鍼で指先が僅かに動くようになったが、声はまだ戻らない。
隣の寝台で静かにしているしかなかった。