カーテンから差し込む光が瞼を照らす。
……朝か。
寝返りを打ち、もぞもぞと布団を跳ね除け、枕元に置いてあるスマホを手に取った。
画面に触れると明かりが付き、現在の時刻が表示される。10:13分。概ねいつも通りの朝だ。徐々に覚醒してくる意識を持って、スマホを腹の辺りに置き、上体を起こした。
「あ……? なんだこれ」
視界に入ったのは、黒くまっすぐな、それでいて長い髪の束だった。
「おいおいおい、なんだこれは……? 髪……? だとしたらなんでこんなところに」
寒気がした。心霊番組でよくある展開。金縛りにあった翌日の朝に、自分の首元に痣と、傍に長い髪が置かれているというよくあるやつ。
髪は確か、呪術的な意味を持っていたような気がした。意味深に揺れたカーテンに、思わず鳥肌が立つ。
俺は恐る恐るスマホを拾いあげ、写真アプリを開き、自分の首を確認した。そこでようやく、自分に何が起きているのかを理解する。
「は……!?」
髪が胸の辺りまで伸びていた。
首には痣はなく、変わりにいつも見ている三十路の汚い肌とは対照的な、赤子のような柔肌がそこにはあった。白皙の翳り一つないきめ細やかな陶磁器のような肌。すべすべとした手触りはまるで、シルクの編み物を撫でているかのように気持ちいい。
いや、そんなことを考えている場合ではない。
「これ、俺なのか……?」
何枚か自撮りをしてみる。シャッター音が狭い部屋に響き、音にびっくりして肩が震えた。
再度恐る恐る、カメラロールを起動した。
「……まじかよ」
そこにあったのは、シャッター音に驚いて半目になり、少しブレた長い髪のかわいい子の自撮りだった。
一体誰なんだお前は。というツッコミをどうにか捨てる。とりあえず、現状をどうにかしなければいけない。こんな見た目で外を歩き、万が一知り合いにでも見つかればとんでもないことになる。
いやまて、そもそもこんな見た目で俺だって気付くやつはいるのか?
まあいい、今日は運よく休日だ。一旦朝食を摂り、頭が冴えてからまた考えればいい。
考え込んでも仕方がない。俺は楽観的に考えて、ベッドから起き上がった。
そこでもう一つ、違和感を覚えた。
「なんだ、これ」
いつもより部屋を見る俯瞰視点が低い気がする。
ただ、そんなものは些細な問題だ。一旦考えないことにして、洗面所へと向かった。
「……」
そこで初めて、全ての違和感とご対面する。
まず最初に目に入ったのは、自分とは到底思えないほど幼い見た目をした、髪の長い誰か。次に目に入ったのは、俺が愛用しているくたびれたジャージを、まるで彼シャツのようにダボダボにさせ、最早着ているというより着られている、という方が正しいような子供の姿。
そう。この時やっとわかった。
俺は恐らく、髪が伸び顔が変形し、その上身長も縮んだのだ。
伸びきったジャージの裾をまくり上げる。さっきから歩きにくかったのは、ズボンが長かったからか。
一旦部屋に戻り、着替えようと思った。
姿見に映る自分を横目に見る。やはり、どう考えても身長が縮んでいる。それに、どう見ても男とは思えない顔つき。最近の流行りは女っぽいなよなよとした男だと聞くけれど、流石にここまでくると女と大差ない。
箪笥を空け、適当にズボンを取った。姿見の前に立ち、腰に当ててみる。が、依然として裾が地面に垂れたままだ。
その後も何枚か試してみたが、どれもこれも今の俺には長すぎるようで、裾が地面に垂れてしまった。
……あれを使うしかないか。
一つ、気持ちの悪い考えが頭に浮かぶ。
昔、同窓会のノリで買ったコスプレ用のJK制服があった。あれっきり一度も着ておらず腐っていたが、この見た目なら違和感ないかもしれない。
自分があのチェックのスカートを履いているところを想像すると、面白いよりも先に気持ち悪いが出てくる。実際同窓会で着た時も、酔っているとは言えかなり気持ちが悪かった。
「……着るのか?」
一人ごちる。
クローゼットに掛けられたままの制服を手に取り、姿見の前に行く。
ゆっくりと体に当てる。生唾を飲む。
奇しくも、見た目のサイズは、今の俺にかなり一致していた。
俺の持っている他の服は、どれもオーバーサイズだ。ゆくゆくは仕事にもいかなければならないし、買い出しにだって行く必要がある。
服を買うための服が無ければ、何も始まらない。
「……着るしかないか」
唾を吐くように、ジャージを脱ぎ捨てた。
そこで、最後の違和感とご対面した。
自分の細い足を見下ろす。着ている服は昨日着ていた通りの物だ。だけど、ジャージを脱いだ時に一緒にパンツが脱げた。背丈が縮んでいるんだからしょうがないよな、とため息を吐くが、俺の眼には、アレのないただ穏やかで綺麗な腰回りがあった。
腹の毛やその他諸々の毛で荒れた俺の腰回りが脳裏に過ぎる。手で触れても、気もアレも見つからなかった。
「は!? おい、待て。それは本当に待って、」
一人暮らしの狭い部屋で絶叫する。よく考えればそうだ。反響して聞こえてくる俺自身の声だって、以前の俺の声より何倍も高かった。髪も長い。肌も白く柔らかい。背丈だって、細くて華奢で。
ああ、気付くべきだった。最初にスマホを覗き込んだ時点で。
思わずその場に崩れ落ちる。まさか、そのまさかだ。
「俺は、女になったのか……?」
***
性別は女。見た目は14~16歳くらい。髪型はぱっつんセミロングで胸辺りまであるストレート。
それだけじゃない。耳は常に細長く尖り、興奮すると額から角のような物が生えてくる。
さらに犬歯が異常に発達しており、こちらも興奮すると牙のように変形する。
エルフ耳に鬼の角を生やした女の子。それが、今の俺の見た目だった。
外に出るとか知り合いに見つかったらとか以前に、他人に見られるだけでもかなりまずい状況になった。まず俺が生きてきたこの約30年という時間の中で、エルフを見たことも、ましてや鬼を見たこともない。
そういうのは創作上の存在で、決して現代社会にいるようなものではない。だとすれば、俺は恐らく、コスプレをしている変な人か、マジの怪物だと思われてしまう。安易に外には出れなくなった。
つーか、この見た目で会社になんか行けるわけがない。女の子だし、エルフ耳だし。
ってわけで、俺の稼ぎも怪しくなった。貯金はある。いつ彼女ができても派手に遊べるように、とりあえず稼ぎの中から幾らかは貯めるというのを10年くらい続けていたら、彼女はできなかったが貯金は増えた。
今からニートになったとしても、一年くらいは遊んで暮らせるだろう。だとして、そのあとはどうする?
一年遊んで暮らしたら、そのあとはどうなるんだ。金が尽きれば金を稼がなければならない。でも、この見た目で仕事なんかできるわけがない。いつ角が生えてくるかもまだよくわかっていないし、そもそも俺が何の生物になったのかも判然としない以上、衆目に晒されるのは避けたかった。
とりあえず目下の悩みは、着れる服がこの制服しかないことだ。服を増やさないことには、生活はないに等しい。
まずは買い出しに行くこと。これを今日の目標にした。腹が鳴る。こんな状況でも、腹は減るらしい。
冷蔵庫を開け、一番最初に目についた納豆を取り出した。米は昨日炊いた残りが保温してある。茶碗を取り出し、適当な量を盛り付ける。納豆の蓋を開け、タレだけを入れて少し混ぜた。
匂いはあれだが、味はいいのだ。割り箸を割り、ゆっくりと口へと運ぶ。
「————!?」
そして、口の中に広がる異常な腐臭にえずき、思わずその場に吐き出した。
鼻が腐臭を覚えて、脳が延々と再演し続けている。気持ちが悪い。テーブルにおきっぱになったコップに水を注ぎ、一気に飲み干した。
「腐ってたのか?」
なわけがない。だって、買ってきたのは昨日だ。
これじゃまるで毒虫だ。腐ったチーズでも食えというのか。納豆だって腐っているのに。
舌打ちをする。一度自覚した空腹は収まらない。俺は、何か食べれるものがないかと冷蔵庫の物を漁りだした。
キムチ。カレー粉。バター。ドレッシング。コンビニで買ってきたデザートのチョコケーキ。
しかし、大体どれもダメだった。匂いが、まるで腐っているのだ。
ドアポケットにある冷えたビールを取る。
これが最後の望みだった。毎晩酒を飲むことを楽しみに生きてきた。これが呑めないのなら、俺の人生に意味なんてない。
プルを空ける。ぷしゅ、という音がして、缶の内側で炭酸が跳ねているのが聞こえてきた。
心臓が鳴る。もしこれも腐った匂いがしたら? わからない。そう言うのは、その時考えればいい。
「……ッ」
一思いに口をつける。鼻を突き抜ける苦く甘い香り。鼻腔を擽る炭酸とフルーティーな味わいに、思わず泣きそうになった。飲める。飲めるぞ。
酒は変わらず飲むことができる……!
俺は喜びのあまり、冷蔵庫にあった酒を次々に空けた。頭全体。特に額が熱い。手で触れると、何やら固い物があった。スマホを覗き込む。暑くなった額にはやや桃色の小さな角が二本生えていた。
やはり、興奮すると生えてくるらしい。
テレビをつけ、適当なバラエティーを流す。それを肴に缶ビールを呷る。
だが、次には眠くなり、眩暈がしてきた。そこで気付く。今の俺の体は子供だ。三十路独身男性の体ではない。
しかし気付けば眠っていた。次に目が覚めたのは夕方だった。
自分は一体、何の生物になったのだろう。頭を過ぎる。
鬼になったのか、エルフになったのか。
鬼にエルフ耳が生えているという話など聞いたことがない。どこのファンタジー小説だとツッコミを入れたくなる。逆に、エルフが興奮すると角が生える、という話も聞いたことがない。どこのファンタジークロスオーバーだとツッコミを入れたくなる。
……要するに、自分の置かれた環境が全く持ってわからない。
食事は腐った匂いがして、飲める物は今のところ水と酒だけ。おまけに着れる服は昔買ったコスプレ衣装のJK制服のみで、下着の類はなく、角と耳の事もあり会社には行けそうにない。
はっきり言って詰みだ。やけ酒をするしかない。
何事も、一旦落ち着いてから考えるべきだ。
冷蔵庫を開ける。ドアポケットを覗き込み、青ざめた。
「……酒が、ない?」
どうやら、朝の時点で酒を飲み干していたらしい。この時点で、買い出しに行かなくてはいけないことが確定した。
そして何より。
「この見た目で、どうやって酒買うんだよ……!」
眼下に見えるかわいらしいチェックのスカートと、グレーのブレザーを眺める。
俺には社会生活と法という、当たり前の義務が重くのしかかっていた。
***
入店音が木霊する。週末午後のコンビニは少しだけ人で混み合い、レジには何人か並んでいた。俺はさっきの制服に、耳を隠すためにパーカーを羽織り、フードを被っている。
とりあえず、なにか食べれるものを探さないといけない。
籠の中に、目につくものを目についたままに放り込んだ。
ホットのカフェラテ。鮭おにぎり。カットレタス。ポテトチップス。パンをいくつかと、申し訳程度に缶ビール。
内心どきどきしながらレジに並ぶ。店員さんの一人が袋に詰めながら、もう一人がバーコードを打っている。酒は一番下に入れた。このまますり抜けて、買えれば御の字。
が。
「……年齢確認できるものはお持ちですか?」
ダメだった。
見上げると、研修中と書かれた札を付けた高校生っぽい男の子がジト目を向けていた。思わず目を逸らす。後ろで並んでいる人の視線が痛い。違う。俺は成人三十路一般男性だ。なんでこんなことになる? 身分証ならある。保険証だって社員証だって持ってる。
「えっと、これ、免許証……」
「……」
バイト君が横のお姉さんと見つめ合っている。
「どこで拾ったの?」
今度はお姉さんが、冷たい視線を向けていた。
「いや、えっと、本人って言うか、その」
「本人……? あのね、いくらそういうのに興味があるからって、お父さんのは盗んできちゃダメよ?」
「……ほんとに本人なんです、ほんとうに。信じて——」
「でも見た目が違うわ。それに性別も。いい? この事は黙っててあげるから、もうこんなことしちゃダメよ?」
「……はい」
俺は渋々缶ビールをバイト君に渡し、とぼとぼと帰路に就いた。
コンビニを出る時、他の客に笑われたような気がする。もうあのコンビニにはいけない。行きつけじゃなかっただけましだろう。もし行きつけのコンビニで身分証を出せば、俺に何かあったのだと察した店員に通報されかねない。
結局家に帰ってきたしまった。レジ袋から買ってきたものを取り出す。既にほとんど冷たくなったカフェラテと、鮭おにぎり。それからカットレタスとポテトチップス。あとパンを数種類。
カフェラテから順に封を切り、口を付けた。
カフェラテはただ苦く、その奥の方で牛乳を拭いたぞうきんのような匂いがした。控えめに言って気持ち悪いが、ギリギリ飲めなくはない。カフェラテも選択肢に入れていいだろう。
鮭おにぎりは論外。思わずトイレに逃げ込み、二回ほど吐いた。名状しがたい生臭さは、まるで小学校の時に流行った練り消しに、ゲロを付けたみたいな感じだった。
次にポテトチップス。こちらも論外だが、意外にも食べることはできた。ただ飲み込んだ後、異の中で暴れているのがわかるほどに強烈は刺激臭がする。きっとコンソメが良くなかったのだろう。二度と食べない。
パンは軒並みダメだった。全てが渇いた粘土を食べているみたいで気持ちが悪い。
唯一普通に食べれたのはカットレタスだけだった。
それだけじゃない。まさかと思い家にあった草系の物を引っ張りだした。ほうれん草、ブロッコリー、レタス。それらを適当に切りサラダにしてみたが、意外にもこれは普通に食べれた。試しにドレッシングをかけてみたら、ドレッシングだけは他と同じく嫌な臭いと刺激臭がして、到底食べれそうになかった。
どうやら、俺が今食べれるものは、酒とコーヒー類。それから草の三種類のようだ。
これだけでどうやって栄養を撮ればいいのだろうか。草食ダイエットをしている主婦ですらもっと色々食べているというのに。
あるいは、ビーガンにでもなった感じか。
……よく考えたら、ビールもコーヒーも広く見れば野菜から作られていると言えるのではないか?
一つ仮説が経った。今の俺は、野菜に纏わる物しか食べれない。それ以外の肉や魚などは食べることができないのかもしれない。
いや、だとしたら米が食べれなかったことが説明できない。やはりわからないことだらけだ。
まだ結論を出すには早すぎるのかもしれない。
とりあえず今は、着れる服を増やすことから始めなければならない。
下着も、女物を着ていた方が安全な気がした。
そうと決まれば、明日にでも買いに行こう。事態は、急を要する。
だがそれ以上に、今は知らないことが多すぎる。自分が鬼なのか、あるいはエルフなのか、はたまたそのどちらでもない未知の生物なのか。なぜ人間からこんな見た目になってしまったのか。
カットレタスを頬張る。
コンビニのサラダが、こんなにうまいと思ったのは初めてだった。
謎の下書きが見つかったので記念に投稿
数字によっては続きを書くかもしれない