オイサーストの街並みを見下ろす宿屋の裏庭には、午後の穏やかな光が差し込んでいた。北国特有のやや乾いた風が吹き抜け、路地裏に干された洗濯物を緩やかに揺らしている。
その庭の中央で、シュタルクは小さな丸椅子に腰掛け、絶望に満ちた表情で己の頭部を抱えていた。
「おい……おいフリーレン、これマジでどうすんだよ……!?」
シュタルクの頭部から伸びた赤髪は、もはや肩どころか腰を遥かに通り越し、地面にまで到達してうねっていた。もともと無造作だった毛並みが、一気に数メートル分増量されたことで、まるで巨大な赤毛の獣が背中に張り付いているかのような異様な様相を呈している。前髪の隙間から覗く彼の顔は、髪の重みと違和感で悲壮感に満ちていた。
その少し離れた場所で、フリーレンは誇らしげに鼻を鳴らし、革表紙の古い魔導書をパタンと閉じた。
「ふふん。どう? 商人のオジサンが言ってた通りでしょ。『髪の毛がすごく伸びる魔法』。詠唱の長さに比例して毛根が活性化する仕組みみたい。民間魔法にしては、なかなか密度の高い術式構成だったよ」
「感動してんじゃねえよ! なんで俺で試したんだよ!」
「シュタルク様、大声を出さないでください。近所迷惑です」
隣で腕を組み、冷ややかな視線を送っていたフェルンが、小さく溜め息をついた。その視線はシュタルクの頭頂部から地面まで伸びた赤い髪の毛の山を、上から下へとじっくりと往復する。
「……それにしても、全く似合っていませんね」
「一言目から直球で貶さなくてもよくない!?」
「事実を言ったまでです。なんだか……そうですね、野生の魔物みたいで少し気持ち悪いです」
「気持ち悪いとか言うな! フェルン、さっきからじわじわ距離取ってるだろ!?」
フェルンは否定もせず、ジト目でシュタルクを見つめたまま、静かに半歩後ろへと下がった。そのまま頬を心持ち膨らませ、呆れたように首を振る。
「シュタルク様がそんなダルダルのロン毛では、一緒に歩くのが恥ずかしいです。街の人に『あそこのパーティーは毛深い魔物を飼っている』と思われてしまいます」
「飼われてねえよ! 俺は人間だ!」
シュタルクは立ち上がろうとしたが、自らの踏みつけた髪の毛に足をとられ、盛大にすっ転びそうになった。超長髪を振り乱しながら慌てて丸椅子に座り直すその姿は、確かに珍妙極まりない。
フリーレンは膝の上に手を置き、どこか懐かしむような遠い目をして、毛髪の塊となったシュタルクを見つめた。
「でも、昔の戦士には髪を長く伸ばす文化もあったんだよ。アイゼンだって……まあ、あれはドワーフだからヒゲだけど。伸ばしっぱなしにしていると、歩いた跡が綺麗になって便利だったな」
「それ掃除道具扱いだろ! 師匠のヒゲの話はいいんだよ! これどうやって元に戻すんだよフリーレン! 解除の魔法とかないのか!?」
「んー……『髪の毛が短くなる魔法』は、まだ手に入れてないんだよね」
「じゃあこのままじゃねえか!!」
シュタルクの絶叫が裏庭に響き渡り、近くの屋根に留まっていた鳩が一斉に飛び立った。フリーレンは耳を少しピクつかせると、杖の先でシュタルクの伸びきった毛先をちょんとつついた。
「大丈夫だよ、シュタルク。髪の毛なんて、切り落とせば済む話なんだから」
「……あ、そうか。切ればいいのか」
ハッと気づいたように胸を撫で下ろすシュタルクに対し、フェルンは懐から静かに裁ち切り用の大きなハサミを取り出した。刃をシャキシャキと鳴らすその表情は、どこか無慈悲であった。
「ではシュタルク様。私が適当に切って差し上げます。じっとしていてくださいね。途中で動いたら、面白い髪形になってしまうかもしれません」
「言い方が怖いって! フェルン、絶対に日頃の鬱憤を晴らそうとしてんだろ!?」
「そんなことはありません。ただ、ハサミが不自然に動き回るほど不器用なだけです」
「余計タチが悪い!!」
髪の毛の山を抱えたまま後ずさりするシュタルクと、ハサミを手に静かに間合いを詰めるフェルン。フリーレンは二人から少し離れた日陰のベンチに腰掛け、傍らに置かれた温かいハーブティーを啜りながら、他人事のようにその光景を眺めている。涼やかな風が三人の間を吹き抜け、伸びた赤髪がバサバサと蠢いた。
陽が少し傾き始めた頃、宿屋の裏庭にはチョキチョキと軽快なハサミの音が響いていた。
無造作に地面へ散らばっていく赤髪の山。フェルンの手際自体は悪くなかったものの、シュタルクは終始、首をすくめてビクビクと身体を強張らせていた。
「よし、できました。これで元のシュタルク様です」
ハサミを収め、フェルンが満足そうに頷く。そこには、いつもの見慣れた赤髪の青年が戻っていた。シュタルクは恐る恐る自分の頭を撫でまわし、髪の長さを確認すると、深々と安堵の息を吐き出した。
「た、助かった……一時はどうなることかと……」
「散らばった髪はご自分で掃除してくださいね。私はフリーレン様のお茶のおかわりを淹れてきますから」
冷たく言い放ち、フェルンは宿屋の中へと消えていく。残されたシュタルクは苦笑いを浮かべながら、地面に落ちた大量の自分の髪をかき集め始めた。
その様子を、ベンチでハーブティーを飲みながら眺めていたフリーレンは、手元に残された革表紙の魔導書をパタンと閉じた。
「うーん……まあ、シュタルクには必要なかったみたいだけど、この魔法、何かに使えそうで勿体ないな。誰か欲しがりそうな人、いたっけ」
フリーレンは顎に手を当て、しばし思案する。数秒の後、その白いツインテールが揺れた。
「……あ、そうだ。ゼンゼにあげよう」
「え? ゼンゼって、たしか一級魔法使いの……あの髪の毛がすごい人か?」
シュタルクが毛束を抱えたまま首をかしげる。フリーレンは「そう」と短く答え、立ち上がった。
「あいつの使う『髪を自在に操る魔法』は、髪の量や長さがそのまま防御力や攻撃力に直結するからね。この『髪の毛がすごく伸びる魔法』があれば、万が一髪を切り刻まれた時でも一瞬でリカバリーできるかもしれない。案外、役に立つと思うんだよね」
フリーレンは、これは名案だという確信とともに、白いツインテールをふわりと揺らした。
* * *
まばゆい朝日がオイサーストの町並みを照らす。一行は大陸魔法協会北部支部の裏手にある、静かな石造りの庭園にいた。
呼び出しに応じたゼンゼは、相変わらず身の丈ほどもあるボサボサの茶髪を蓄え、いつもの白く丈の長いワンピースに紺のケープを身に纏って佇んでいた。感情の読めないジト目でフリーレンを見つめている。
「私に用とは珍しいね、フリーレン。二次試験の恨みでも言いに来たのかね」
「そんなんじゃないよ。これ、あげる」
フリーレンは差し出した魔導書を、ゼンゼの手にぽんと載せた。
「旅の商人の護衛でもらった『髪の毛がすごく伸びる魔法』だよ。ゼンゼなら、魔法の補強に使えるかなと思って」
ゼンゼは受け取った魔導書を表紙から裏表紙へと淡々と眺め、中をパラパラとめくった。その動作の最中、彼女の眠たげな瞳がわずかに丸くなり、ほんの少し、口元が緩んだように見えた。思いのほか、嬉しそうな反応であった。
「……ほう。詠唱の長さに応じて毛根を急速活性化させる術式か。極めて理にかなっている。素晴らしい魔法だね」
感情の起伏が少ないはずのゼンゼの声に、かすかな熱が籠もっているのをシュタルクは見逃さなかった。
「……あれ、なんかすごく嬉しそうじゃないか? もうそんなに長いのにまだ伸ばすのか?」
「嬉しいとも」
ゼンゼは魔導書を大切そうに胸に抱え直し、淡々とした口調のまま言った。
「実はね、私は前々から、一度ショートヘアにしてみたいと思っていたんだ」
「ショートヘア……ですか?」
フェルンが意外そうな声をあげる。ゼンゼは頷いた。
「私の使う魔法の性質上、髪を切ることは戦力の低下を意味する。だから長年、髪を伸ばし続けざるを得なかった。……切り落とした後に後悔しても、元の長さに戻るにはかなりの時間がかかるからね。だが、この魔法があれば話は別だ。いつでも一瞬で元の長さに戻せるのなら、心置きなく短く切ることができる」
「ははあ、なるほど……」
シュタルクが納得したように頷く。しかし、ゼンゼの言葉はそこで終わらなかった。彼女は視線を少し落とし、どこか遠くを見るような目をした。
「……それにね。ずっと気になっていたんだ」
「何がですか?」
フェルンの問いに対し、ゼンゼは静かに、だがはっきりと告げた。
「以前……フリーレン、君が機嫌の悪かった時に、私に向かって言っただろう。『お前の髪は血の匂いがするんだよ』と」
庭園に、一瞬の静寂が訪れた。
フリーレンの表情がぴきりと固まる。フェルンは即座に首をカチカチと回転させ、フリーレンのほうへと視線を向けた。その目は、冷酷なまでにジトッとしている。
「……フリーレン様?」
「え、えーっと……私、そんなこと言ったっけ……? ほら、昔のことだし、私ちょっと記憶が……」
「私は忘れていないよ」
ゼンゼは淡々と追撃した。
「あれは割と傷ついた。私は平和主義者だからね。自分の髪から血の匂いがすると言われるのは、あまり気分のいいものではない。だから一度さっぱりと切って、真新しい髪で爽やかにしたかったんだ」
「……フリーレン様。最低です」
「待ってよフェルン。 あの時は私、買った魔導具が偽物ですごく機嫌が悪くて、つい口が滑ったというか……」
「言い訳は見苦しいですよ、フリーレン様。……ゼンゼ様、申し訳ありません。うちの無神経なエルフが大変失礼な暴言を吐き捨てていたようで……」
フェルンは深々と頭を下げた。シュタルクは「うわぁ……」という表情でフリーレンから距離を取り、哀れみの視線を向けている。
ゼンゼは抱えた魔導書の表紙を優しく撫でながら、どこか満足そうに呟いた。
「まあいい。これで念願のボブカットが試せる。フリーレン、感謝するよ」
「……う、うん。喜んでもらえたなら、よかったよ……」
滝のような冷や汗を流しながら、フリーレンはぎこちなく頷くのだった。