石畳の路地から一歩入ったオイサーストの美容院は、剪定魔法を応用した独特のヘアカットの音が響く静かな店であった。
鏡の前に腰掛けたゼンゼの背後で、店主である熟練の美容師――彼自身もまた二級魔法使いの資格を持つ男は、すでに額から滝のような汗を流していた。
「あ、あの……ゼンゼ様。本当にお切りしてよろしいのですか……? その、あなたの象徴とも言える大切なお髪を……」
「構わない。さっぱりと短くしてくれ。そうだな、肩の上あたりのボブカットというやつだ」
ゼンゼは膝の上で静かに手を重ね、鏡の中の美容師を見つめた。言葉とは裏腹に、彼女の心情には長年の念願が叶うというかすかな高揚感があった。
美容師はゴクリと唾を飲み込み、魔力を付与した特製の鋼ハサミを構えた。一級魔法使いの髪、それも「髪の要塞」とも言うべき攻防一体の術式に刃を入れるのだ。手がわずかに震える。
「で、では……参ります」
美容師が意を決してハサミを握り込み、ゼンゼの毛先を一束すくい上げて刃を噛み合わせた。
――パキン。
甲高い硬質な音が室内に響き渡り、ハサミの刃先が木っ端微塵に弾け飛んだ。刃の破片がパラパラと床に転がる。
「ひっ……!?」
「……やはりダメか」
ゼンゼは小さく溜め息をついた。美容師の腕前やハサミの材質の問題でもなければ、刃に込められた剪定魔法の失敗でもない。ゼンゼの髪には、彼女が魔法使いとして練り上げた強固な術式と、「絶対に切れない」「あらゆる攻撃を弾く」という揺るぎない認識が文字通り根深く刻み込まれていた。
髪を自在に操り、鉄をも穿つ武器とする彼女の魔法体系そのものが、自らの意志による「ヘアカット」すらも強烈な拒絶反応として弾いてしまうのだ。イメージの世界において、彼女にとっての髪は「刃で切れるもの」ではなかった。
「もういい。無理を言ってすまなかったね」
茫然自失となる美容師の傍らに数枚の銀貨を置き、ゼンゼは静かに店を後にした。
オイサーストの広場に面したテラス席。
フリーレンが優雅に甘い焼き菓子を口に運び、シュタルクがテーブルの端でハサミの跡が残る己の頭をまだ気に病んでいたところへ、ボサボサの茶髪を地面に引きずるような足取りでゼンゼが戻ってきた。
その背中はどこか小さく、力がない。
「おかえり、ゼンゼ。……その様子だと、失敗したんだね」
フリーレンがカップを置きながら声をかける。ゼンゼは空いている椅子にトボトボと歩み寄ると、そのまま力なく腰を下ろした。
「ハサミが砕けたよ。美容師の魔法では私の髪の防衛魔法を突破できなかった。……私の髪は、私自身のイメージによって『鉄壁の概念』として完成しすぎているようだ。私自身が切ろうと意識しても、身体が勝手に髪を護ってしまう」
「なるほどね。ゼンゼの魔法は直感と無意識の領域に到達しているから、逆に意識して解くことができないんだ」
フリーレンの解説に、フェルンが哀れみのこもった視線を向けた。
「せっかく『髪の毛がすごく伸びる魔法』を手に入れたのに、切ることすらできないのでは意味がありませんね……」
「……ああ。永久にこの血の匂いとやらがしそうな、ボサボサ頭のままだ」
相当ショックだったのか、ゼンゼはまだフリーレンの昔の暴言を引きずっているようだった。フリーレンは気まずそうに視線を泳がせる。
「やっほーゼンゼさん。なーに湿気たツラしてんのさ」
不意に、背後から軽薄でフランクな声が割り込んできた。
振り返ると、黒いノースリーブのワンピースに身を包んだ少女――ユーベルが、両手を頭の後ろで組みながら歩み寄ってくるところだった。その口元には、相変わらず人を食ったような不敵な笑みが浮かんでいる。
「ユーベル……」
「通りかかったら面白そうな話が聞こえてさ。髪が切れなくて困ってんだ?」
ユーベルはすたすたとゼンゼの隣まで歩いてくると、遠慮なくその長い茶髪の毛先をつまみ上げた。指先で弄びながら、ゼンゼの顔を覗き込む。
「ふーん。たしかに色んな魔法が編み込まれてるみたいだけど、髪の毛は髪の毛でしょ? 布とか紙と一緒じゃん」
ユーベルの緑色の瞳が、妖しく細められた。
「私の『
「……君の魔法か」
ゼンゼがゆっくりと振り返り、ユーベルを見上げた。
一級魔法使い試験の折、ゼンゼの強固な複製体をいとも容易く切り伏せたのが、他ならぬこの少女の「感覚的な断裁魔法」であった。常識的な魔法使いが「固い」「切れない」と認識する強固な魔法の概念を、ユーベルはただ「髪の毛は切れて当たり前」というイメージだけで切り裂いてしまう。
「どう?ゼンゼさん。 私に任せてくれれば、望み通りのヘアスタイルにしてあげてもいいけど?」
ユーベルは薄く笑いながら、右手の二本指をチョキの形にして見せた。
* * *
大陸魔法協会の一室。陽光が差し込む静かな部屋の椅子にゼンゼが腰掛け、その背後にユーベルが立っていた。
ユーベルは楽しそうに鼻歌を交えながら、ゼンゼの豊かな茶髪に細い指を滑らせる。目にも留まらぬ速さで空中に描かれる微細な魔法の軌跡。シャキ、シャキ、と軽快な音が響くたびに、決して切れることのなかったはずの「要塞」の髪が、驚くほど滑らかに切り揃えられていった。
「へえ……あんた、意外と手先が器用なんだな。カットの手際がプロのそれじゃねえか」
壁に背を預けて見守っていたシュタルクが、感心の声を漏らす。ユーベルは髪の毛束を指でつまんで整えながら口角を上げた。
「まあね。カットのイメージなんて、布を裁断するのと大差ないじゃん? 髪の重みとか毛の流れを見ればさ、どこを切れば綺麗に収まるかなって、感覚で分かっちゃうんだよね。魔法使い辞めても美容師として食っていけたりして」
「……冗談抜きで、オイサーストで店を開けば繁盛すると思います」
隣で見ていたフェルンも、ユーベルの見事な手腕に頷いていた。
やがて、床に落ちた毛束の山とともに作業が終了した。ユーベルが手鏡をゼンゼの前に差し出す。
「はい、お粗末さま。希望通りのボブカットだよ」
鏡に映っていたのは、首元をすっきりと出し、あごのラインでふんわりと切り揃えられた、全く新しい自分の姿だった。あの重苦しかったボサボサ頭は影を潜め、どこか幼くも愛らしい、爽やかな雰囲気が漂っている。
ゼンゼは手鏡をじっと見つめ、ゆっくりと己の頬や短い毛先に手を触れた。感情を表に出さない彼女にしては珍しく、その大きな瞳が輝き、口元が隠しきれない笑みで緩んでいた。
「……すごいな。本当に切れている。何年ぶりだろう、子どもの頃に戻ったみたいだ」
「ふふん。やっぱりあの魔法をゼンゼに渡してよかったよ。私の提案、大正解だったでしょ」
フリーレンが何故か誇らしげに胸を張る。
その時、部屋の扉が静かに開き、背の高い美女――メトーデが姿を現した。
「失礼しますね。なんだか賑やかだと思えば……あら?あらあら?」
足を踏み入れたメトーデの視線が、椅子に座るボブカットのゼンゼに留まった。次の瞬間、メトーデの落ち着いた瞳の奥に、怪しい光が灯る。
彼女は一切の足音を立てず滑らかにゼンゼへと歩み寄ると、真顔のまま、至近距離でゼンゼの顔を覗き込んだ。
「……素晴らしいです、ゼンゼさん。とても、とても可愛らしいです……!」
「メ、メトーデ……?」
あまりの熱量にゼンゼが気押されるが、メトーデの勢いは止まらない。彼女の指先がかすかにピクピクと震えている。
「あごのラインに沿った丸み、華奢な首筋、そしてその可憐な佇まい……何より、小さくて可愛らしいお体に完璧にマッチしています。ああ、なでなでしてもいいですか? いえ、抱きしめてもよろしいでしょうか」
「……それは推奨しない。遠慮しておくよ」
拒否されつつも、メトーデはうっとりとした表情でゼンゼの頭部を真剣に観察し続けている。フェルンが静かにシュタルクの背後に隠れ、フリーレンも「相変わらずだなあ」と苦笑いを浮かべた。
メトーデはポンと手を叩くと、真面目な顔で提案した。
「せっかくの素晴らしいイメチェンです。このままゼーリエ様に見せびらかしに行きましょう。あのお方も、この可愛らしさにはきっと驚かれるはずです」
「ゼーリエ様に……? いや、あのお方はこういうくだらないことに興味は……」
「いいえ行きましょう。ゼーリエ様のあの可愛らしいお姿と並べば、きっと眼福に違いありません」
「話を聞いていないね……」
メトーデの強引な誘いに流され肩を押されるように、ゼンゼはボブカットの頭を揺らしながら、ゼーリエの元へと足を向けることになった。