大陸魔法協会の重厚な回廊に、いくつもの足音が響いていた。
陽光が射し込む大きなアーチ状の窓を通り過ぎようとしたところで、急にゼンゼがぴたりと足を止めた。短くなった茶髪が、首の動きに合わせてふわりと揺れる。
「……やはり、やめないか。ゼーリエ様は多忙なお方だ。弟子の一人の髪型が少し変わった程度で手を止めさせるのは、あまりに不敬というものだ」
気まずそうに視線を泳がせるゼンゼだったが、その背後からメトーデが滑らかな手つきで彼女の肩を優しく、しかし決して逃がさない強固な力で抱き寄せた。
「何を仰いますか、ゼンゼさん。そのような心配は無用です。この素晴らしさを一刻も早くお見せすることこそ、臣下としての務めというものですよ」
メトーデの表情は至極真面目であったが、その瞳の奥には隠しきれない欲望の火が揺らめいていた。彼女の真の狙いが「ボブカットになった愛くるしいゼンゼ」と「小柄で威厳のあるゼーリエ」を同じ視界に収めたいだけであることは、後ろをついてくる一行の目から見ても明白であった。
(……なあフェルン。あの人絶対に、二人並んでいるところを自分が見たいだけだろ……)
シュタルクが顔を引きつらせてフェルンに耳打ちすると、フェルンもまた静かにジト目を向けながら、小さく頷いた。
「メトーデ様の執着心は、時としてフリーレン様のズボラさ以上に手がつけられません。触らぬ神に祟りなしです、シュタルク様」
豪奢な意匠が施された大扉が、静かに開かれた。
広大な謁見の間の奥、石造りの台座のような椅子に、神話の時代より生き続ける大魔法使いゼーリエが浅く腰掛けていた。長い金髪を波打たせ、素足を投げ出した不遜な姿勢のまま、手元にある古い羊皮紙からゆっくりと視線を上げる。
メトーデは誇らしげにゼンゼの背中を押し、ゼーリエの前に進み出させた。
「ゼーリエ様。ゼンゼさんが髪をお切りになりました。いかがでしょうか」
一瞬の静寂が広間に満ちた。
ゼーリエの黄金の瞳が、ボブカットになったゼンゼの姿を上から下へと一通りなぞる。しかし、その表情に驚きや感嘆の色は一切浮かばなかった。ただただ、退屈そうに鼻で息を吐き捨てるだけである。
「……なんだ、その頭は。髪を切ったからなんだと言うんだ。くだらん」
「ゼーリエ様……」
ゼンゼの肩がかすかに強張った。ゼーリエは手元の羊皮紙に視線を戻しながら、淡々と無機質な問いを投げかける。
「お前の髪は防衛魔法の要だろう。長さを失ったことで、魔力伝導率や展開速度に支障は出ないのか? 戦闘において不覚を取るような真似になるのなら、愚か極まりない選択だな」
「……支障はありません。瞬時に元の長さに戻せる術式を確保した上です。戦闘性能に影響は出ません」
「ならいい。用が済んだのなら下がれ。くだらない報告に私を付き合わせるな」
まるで興味がないと言わんばかりの冷淡な対応。
ゼンゼは「そうですか……」と小さく呟き、視線を床へと落とした。ゼーリエが合理性と強さのみを求める人物であることは、昔から重々理解していたはずだった。それでも、長年の重荷をいっとき下ろし、ささやかなイメチェンを果たした自分に対するあまりに冷ややかなその反応は、彼女の小さな胸に確実なショックをもたらしていた。少し落ち込んだように、短くなった毛先を寂しげにいじる。
メトーデもまた、額に青筋を浮かべんばかりの呆れ顔で溜め息をついた。
「ゼーリエ様……いくらなんでも、もう少し言い方というものがございますでしょうに。女の子が髪を切ったのですから、一言『似合っている』と仰るくらいの気遣いはあってもよろしいかと……」
「私にそのような無意味な世辞を求めるな」
ゼーリエが冷たく言い放ったその時、後ろで焼き菓子をモグモグと噛み砕いていたフリーレンが、てくてくと前に歩み出てきた。
フリーレンは薄い胸の上で手を組み、どこか遠目から同僚を眺めるような、表も裏もない悟ったような顔でゼーリエを見上げた。
「相変わらずだね、ゼーリエ」
「……何だ、フリーレン。お前に発言の許可など出していないが。そもそもお前は出入り禁止だろ」
「私はね、ヒンメルたちと旅をしたり、人間を知る旅を続けていく中で色々と学んだんだよ」
フリーレンは人差し指をすっと立て、堂々とした態度で教訓を語り始めた。
「自分の弟子や、自分を慕って寄り添ってくれる人の気持ちはね、もう少し考えてあげた方がいいんだよ。そういう冷たくて不器用なところが、弟子たちとの間に無用な壁を作るんだ。素直に『可愛いね』とか『似合っているよ』って言ってあげればいいのに。だからゼーリエは、いつまで経っても弟子たちから本当の意味で心の距離を縮めてもらえないんだよ」
言い切ったフリーレンは、むふーと鼻を鳴らして腰に手を当て、誇らしげに胸を張った。
場内の空気が、一瞬にして氷点下へと叩き落とされた。
フェルンとシュタルクの顔から血の気が引いていく。あの絶対的な権力と圧倒的な魔力を誇る始祖の魔法使いに対し、フリーレンはあまりにも堂々と上から目線で、説教をぶちかましたのだ。
「……フリーレン」
ゼーリエの声のトーンがぐっと低くなった。
次の瞬間、謁見の間全体が激しく揺れ動き、ゼーリエの体から放たれた金色の魔力が嵐となって吹き荒れた。大理石の床に亀裂が走り、圧迫感だけで空気が重く押し潰される。
ゼーリエの黄金の瞳が、怒りと不快感で鋭く吊り上がっていた。
「千年も生きながら未熟極まる落ちこぼれが……私に説教だと……!?」
「あ、キレた」
「『あ、キレた』じゃありませんフリーレン様! 余計なことを言い過ぎです!」
フェルンが青ざめながらフリーレンの首根っこを掴んで引っ込めようとするが、ゼーリエの威圧は増すばかりだった。
「人間の感性などというくだらんものにかぶれて説教臭くなりおって……! 弟子への接し方だと? 私の指導に口を挟むなど、千年……いや、一万年早い!!」
「ほらね。すぐそうやって感情的になるから、弟子に怖がられるんだよ」
「黙れ!!」
咆哮とともに魔力の波動が爆発し、謁見の間の豪華な絨毯が盛大にめくれ上がった。シュタルクは「ひええっ! 死ぬ、マジで巻添えで死ぬ!」と叫びながら頭を抱えて縮こまり、ゼンゼは短くなった髪を揺らしながら「……やはり見せるべきではなかったね」と力なく呟くのだった。
* * *
ゼーリエの怒号とともに吹き荒れた金色の魔力に叩き出されるように、フリーレンたちは大扉の外へと転がり出た。重厚な扉が音を立てて閉ざされ、広大な回廊に静寂が戻る。
一行は命からがら逃げ延びるようにして大陸魔法協会の庭園へと避難した。白薔薇が咲き誇る静謐な庭園のベンチへ、ゼンゼはトボトボと歩み寄り、力なく腰を下ろした。短くなった茶髪が、彼女の落胆を映すように弱々しく揺れる。
「……まったく、相変わらず短気だよね」
フリーレンはどこからか取り出した焼き菓子を口に放り込み、咀嚼しながら呆れたように息を吐いた。その隣で、フェルンがいつになく強い不満を露わにし、両頬を大きく膨らませている。
「フリーレン様の言い方にも問題はありましたが、ゼーリエ様もあまりに不親切です。せっかくゼンゼ様が思い切って髪をお切りになったというのに、戦いのことしか頭にないなんて……魔法使いとして偉大であっても、人の心に対する配慮が致命的に欠けています」
「そうですとも、フェルンさん」
メトーデが至極真面目な顔で頷き、ゼンゼの前に膝をついた。その瞳には熱っぽい光が宿っている。
「あのお方にはゼンゼさんのこの可憐さが理解できなかったようですが、それはあまりに不幸なことです。見てください、このあごのラインに沿った柔らかいシルエット。首筋の儚げな美しさ。完璧と言っても過言ではありません。落ち込む必要など一切ございませんよ、ゼンゼさん」
「……慰めてくれるのはありがたいが、メトーデの視線には妙な圧迫感があるね」
ゼンゼは小さく身を引いた。そこへ、庭園の木陰から軽快な足音が近づいてくる。
「あはは、大惨事だったみたいじゃん」
黒いノースリーブのワンピースを揺らし、ユーベルが楽しそうに姿を現した。口元には意地の悪い笑みが浮かんでいる。
「ユーベル……君はあの場に付いてこなかったね。結果的に賢明だったわけだが」
ゼンゼの言葉に、ユーベルは両手を横に広げ、肩をすくめて見せた。
「だって、あのゼーリエが『わあ可愛いね』なんて言うわけないじゃん。あの人が気にするのは強いか使えるかだけでしょ。絶対怒らせて追い出されると思ったからさ、ここで見物させてもらったってわけ」
「……相変わらず鼻が利くね、君は」
ゼンゼは深々と溜め息をつき、膝の上の魔導書に手を置いた。
「まあいい。ゼーリエ様の仰る通り、一級魔法使いたる者が見た目の変化にうつつを抜かすのも愚かな話だ。……幸い『髪の毛がすごく伸びる魔法』はある。今すぐ詠唱して、元の長さに戻すとしよう」
「待ってください!!」
ゼンゼが魔導書を開こうとした瞬間、メトーデが素早い手つきでその手首を両手で包み込んだ。その顔は真剣そのものである。
「そのような悲しいことを仰らないでください。せっかくユーベルさんが見事にカットされ、ここまで愛らしくなられたのです。一度元の長さに戻してしまえば、この完璧なボブカットを再び拝むのは難しくなってしまいます」
「しかしだな、メトーデ……」
「本日はこのまま、街へお出かけになりましょう。そうです、デートです。気晴らしに街を散策し、美味しいものでも召し上がるべきです」
メトーデの突飛な提案に、ゼンゼはパチクリと大きな目を瞬かせた。
「デート……? 困ったな。私にはそのようなことをする意中の男性などいないのだが」
「問題ありません」
メトーデはきっぱりと断言し、胸を張った。
「殿方などおらずとも、私どもがゼンゼさんのデートのお相手を務めます。可憐なゼンゼさんをエスコートできるのであれば、私にとってこれ以上の至福はありません」
「メトーデ様、素晴らしい提案です」
フェルンが素早く賛同した。その瞳にはかすかな使命感が宿っている。
「オイサーストの噂の甘味処で、イチゴをふんだんに使ったタルトが人気だと聞いています。フリーレン様の奢りで、そこへ向かいましょう。女の子同士のデートなら、甘いものは不可欠です」
「えっ、私の奢りなの……?」
フリーレンが焼き菓子を咥えたまま固まるが、フェルンはそれを完全に無視した。
「ほら、ユーベルさんも行きましょう?」
メトーデに促されたユーベルは、面白がるようにゼンゼの短い髪の毛先を指でちょんと突いた。
「いいよ。せっかく私が切ったげたんだし。可愛い試験官様と街を練り歩くのも、なかなか悪くないじゃん?」
「君たち……勝手に話を進めないでくれ……」
囲まれたゼンゼが困惑の声をあげる中、急激に熱を帯び始めた「乙女談義」の輪から遠く離れた場所で、ひとりの青年が気配を極限まで消していた。
庭園の端、大きな観葉植物の陰に身を潜めたシュタルクである。
彼は冷や汗をだらだらと流しながら、壁と植物の隙間に身体を押し付け、呼吸すら殺して石像のように固まっていた。
(……頼む、誰も俺の存在に気づくなよ……。下手に喋ってフリーレンに『全員分の荷物持ちよろしく』とか言われたり、フェルンに変な目で見られたりしたら俺の身体が持たねえ……! 俺はただの空気だ、庭園の置物だ……!)
シュタルクが心の中で必死に女神様に祈りを捧げる中、メトーデはゼンゼの手を優しく引き、女性陣を従えてオイサーストの賑やかな街並みへと歩き出し始めていた。