大陸魔法協会北部支部、嵐のような魔力の波動が収まった広大な謁見の間には、密度の高い静寂だけが残された。
めくれ上がったままの豪華な絨毯、微細な亀裂が入った大理石の床。それらは始祖たる大魔法使いが放った気まぐれな威圧の爪痕であったが、当の本人はもはや気にした風もなく、石造りの台座のような椅子に深く腰掛け直していた。
投げ出された白い素足が、無造作に組み替えられる。
ゼーリエは手元に残された古い羊皮紙へと視線を落としたが、そこに記された魔術の術式構成は、もはや彼女の意識に届いてはいなかった。ただ、静まり返った室内で、先ほど自らが落ちこぼれと切り捨てたエルフの言葉が、不快な残響となって耳の奥を揺さぶっている。
『自分の弟子や、自分を慕って寄り添ってくれる人の気持ちはね、もう少し考えてあげた方がいいんだよ』
『素直に「可愛いね」とか「似合っているよ」って言ってあげればいいのに』
「……フン」
ゼーリエは吐き捨てるように鼻を鳴らした。人間の不安定な感性にかぶれ、時の流れの中で思考まで生ぬるくなったエルフの戯言だ。魔法の真理を探求し、いまやその頂点に立つ者として、見た目の変化や一時の気休めなど、何一つ価値を持たない雑音だ。強さこそが全てであり、戦闘の役に立つでもなく研鑽にあたわない要素など、無駄の極みでしかない。
それは、千年前から何一つ変わっていないはずの、彼女の理であった。
――だが。
羊皮紙を弄ぶ細い指先が、ふと動きを止めた。
記憶の底の、重く固い扉がかすかに開く。そこから溢れ出してきたのは、陽光に透ける新緑の匂いと、果てしなく広がる荒野に咲く野花のみずみずしい香りだった。
千年前。まだ魔王の勢力が世界を覆い尽くし、世界が今よりも遥かに残酷で厳しかった時代。
彼女の元には、一人の幼い人間の少女がいた。名はフランメ。後に歴史に名を刻む大魔法使いとなる、ゼーリエの最初の弟子だ。
幼かった頃のフランメは、あまりにも無力で、あまりにも直感的で、そして何より不条理であった。戦うための魔法を教え込もうとするゼーリエの傍らで、その少女はあろうことか「花畑を出す魔法」などという、およそ殺伐とした時代には不釣り合いな魔法を好んでいた。
『見て、ゼーリエ! 上手に咲かせられたよ!』
視界に鮮やかに蘇るのは、不格好に編まれた野草と黄色い小花の花冠を自作し、頭に戴いて満面の笑みを浮かべる少女の姿だ。泥のついた頬、擦りむいた膝小僧。魔法の精度など不完全極まりなく、魔力の消費効率も最悪だった。
『くだらん』
当時のゼーリエは、今と全く同じ冷淡さで吐き捨てたはずだ。
『そんなものは魔法とは呼んではならん。戦場で花を咲かせて何になる。相手の首を撥ねる一瞬の魔力形成に集中しろ』
だが、幼いフランメはゼーリエの威圧など微塵も恐れなかった。彼女はふくれっ面をするでもなく、むしろ楽しそうにくすくすと笑うと、背伸びをしてゼーリエの正面へと躍り出たのだ。
『固いこと言わないの。ほらっ』
不意を突かれた。反応する間もなく、小さな手がゼーリエの頭上に届く。
ぽん、と頭頂部に小さな重みが載せられた。フランメが自分のために拙く編んだ、もうひとつの不格好な花冠であった。荒い蔓が金髪に絡まり、野花の甘い匂いが鼻腔をくすぐる。
『何をする』と咎めようとしたゼーリエの言葉を遮り、幼い少女は腰に手を当てて、誇らしげに胸を張って言い放ったのだ。
『ゼーリエ、似合ってて可愛いよ!』
……あの時の、屈託のない声。魔法の真理も、世界の危機も、エルフと人間の寿命の圧倒的な差すらも、何一つ理解していない愚かな子供の、あまりにも不遜で無邪気な言葉。
ゼーリエは即座にその花冠を毟り取り、地面に投げ捨てた。くだらん。反吐が出る。そう吐き捨てて、二度と身につけることはなかった。
だが、投げ捨てられた花冠が草むらに転がった後も、フランメはちっとも堪えた様子もなく、嬉しそうに花畑の中で笑い続けていたのだった。
「…………」
ゼーリエはゆっくりと手を上げ、自分の頭部に触れた。
そこにあるのは、丁寧に手入れされた滑らかな金髪だけだ。花冠の重みも、野草の生々しい感触も、記憶の中にしか存在しない。あの少女もまた、歴史の彼方へと去り、骨となり、土へと還った。人間の命など、エルフの永遠とも思える時の中ではほんの瞬きに過ぎない。
「……弟子への接し方、か」
ぽつりと漏れた声は、静寂に包まれた広間に寂しく響き、消えた。
自分を慕い、寄り添おうとした人間たちの顔が、灯火のように浮かんでは消えていく。フランメだけではない。彼女の手を離れていった幾人もの弟子たち。その誰もが、ゼーリエにとっては何かしらの「不器用さ」を残して去っていった。
(……可愛い、だと?)
ゼーリエは目を閉じ、椅子にもたれかかった。
あの時、フランメにそう言われた瞬間の己の動揺を、ゼーリエは千年間一度も忘れたことがなかった。強いか、弱いか。使えるか、使えないか。その二軸だけで世界を切り裂いてきた己の領域に、土足で踏み込んできたあの言葉。
ボブカットになっておどおどと自分を見つめていたゼンゼの姿が、一瞬だけフランメの幼い笑顔と重なる。
「……くだらん」
二度目の呟きは、千年前よりもどこか低く、そして小さく揺らいでいた。
ゼーリエは膝の上で固く拳を握りしめ、静かに呼吸を整える。自分の直感は常に正しい。冷徹であり続けることこそが、始祖の大魔法使いとしての己の在り様だ。甘やかしも、お世辞も、自分には必要ない。
それでも、広場に漂うかすかな花の匂い――庭園から風に乗って運ばれてきた白薔薇の香りに、彼女はほんの僅かだけ、眉をひそめた。
「……千年も生きておきながら、今さら人間を知る旅だと? 調子に乗りおって、フリーレン……」
黄金の瞳がゆっくりと開かれ、静かな怒りと、誰にも悟らせないかすかな傷みを湛えて、無人の大扉を見据えた。
* * *
オイサーストの目抜き通りから一本入った、仕立て屋の立ち並ぶ一角。
メトーデの強い意向により、一行が最初に連行されたのは、華やかな布地がウィンドウを飾る婦人服のブティックであった。
試着室の姿見の前で、ゼンゼは落ち着かない様子で自分の裾を両手でこねくり回していた。長年着慣れた重苦しい紺のケープと白く長い丈のワンピースは剥ぎ取られ、代わりに身に纏わされたのは、淡いミントグリーンの生地に繊細なレースが施された、膝丈の華やかなワンピースであった。
短くなった茶髪のボブカットと相まって、普段の威厳ある一級魔法使い試験官の面影はどこにもない。まるで良家の上品な令嬢のような雰囲気が醸し出されていた。
「……メトーデ。これはいくら何でも丈が短すぎないか? 裾がひらひらして、足さばきに支障が出る。背後からの奇襲に対応しづらい」
「ゼンゼさん、今は戦闘のことなど一切お忘れください」
試着室のカーテンを開けた瞬間、メトーデの瞳に怪しい情熱の火が灯った。彼女は至極真面目な顔で静かに両手を合わせると、噛みしめるように深く頷いた。
「……素晴らしいです。ボブカットによる首筋の可憐さと、パステルカラーの生地が見事に調和しています。まさに洗練された可憐さ……このまま姿見の前でお姿を固定して、前後同時に一日中眺めていたいほどです」
「それはやめてくれ」
「とてもよくお似合いですよ、ゼンゼ様。いつものローブも重厚で素敵ですが、たまにはこういうお召し物も気分が変わって良いと思います」
フェルンも感心したように頷き、ゼンゼの姿をまじまじと見つめている。
「ふふん。こういう時こそフェルンの『服の汚れを綺麗さっぱり落とす魔法』が役立つね。どんなに食べこぼしても平気だよ」
「フリーレン様、ゼンゼ様はあなたみたいにボロボロ食べこぼすようなお方ではありません。……それにしても、フリーレン様のヘソクリはお預かりしておいて正解でした」
「えっ、私の金貨袋、いつの間に持っていったの……?」
自らの腰元をさすって青ざめるフリーレンを余所に、ユーベルは壁に寄りかかりながら、面白そうにゼンゼの全身を観察していた。
「へえ、印象ガラッと変わるじゃん。これじゃ街を歩いてても誰もあの一級魔法使いのゼンゼさんだとは思わないね。ただの可愛らしいお嬢さんだ」
「……君まで私をからかうのかね」
ゼンゼは短い髪の毛先を照れくさそうにいじりながら、小さく息を吐いた。だが、姿見に映る自分の姿は、どこか軽やかで、悪くないようにも思えた。
着替えを済ませた一行は、オイサーストでも評判の開けたテラス席を持つカフェへと足を運んだ。
白塗りのテーブルの上には、メトーデとフェルンが厳選した色鮮やかなスイーツが所狭しと並べられている。大盛りのイチゴタルト、焼きたてのパンケーキ、そして季節の果実が添えられた繊細なミルフィーユ。
ゼンゼはいつものクセで、髪を操る魔法を使いカトラリーを取ろうとするが、ボブカットに切り揃えられた自慢の髪は、ふよふよと可愛らしく空中に揺らめくだけだった。
「あらあら、ゼンゼさん。ココは私にお任せを。……さあ、こちらのミルフィーユをどうぞ。あーん、して差し上げましょうか?」
「……自分で食べられる。気持ちだけ受け取っておくよ」
フォークを手に取ったゼンゼは、小さくカットした生地を口へと運んだ。サクッとした食感とともに、甘酸っぱい果実の風味が口いっぱいに広がる。
「……美味しいな」
「分かります。 甘いものには心を解きほぐす効果がありますから、たくさん食べましょう」
フェルンは満足そうに顔をほころばせながら、自身の特大イチゴタルトを嬉しそうに頬張っていた。フリーレンも隣でパンケーキにたっぷりとシロップをかけ、幸せそうに口を動かしている。
オイサーストの心地よい午後の風が吹き抜け、ゼンゼの短くなった茶髪を優しく揺らした。
先ほど謁見の間でゼーリエから投げかけられた冷淡な言葉の棘が、温かい紅茶の湯気と甘い香りのなかで、少しずつ溶けていくのをゼンゼは感じていた。
「……ふふ。なんだか、本当にデートみたいだね」
ゼンゼの口元から、ふっと自然な笑みがこぼれた。それを見たメトーデは胸を押さえ、「……尊いです」と真顔で呟き、ユーベルは頬杖を付きながら「たまには悪くないよね」とくすくす笑っている。
オイサーストの街並みを見渡せるテラス席で、一行の穏やかな時間はゆったりと流れていくのだった。
オイサーストの街が茜色から深い群青へと染まり始める頃、大陸魔法協会の門をくぐる五人の影があった。
華やかなミントグリーンのワンピースに身を包んだゼンゼは、まるで慣れない重装備を付けられた戦士のように、どことなく硬い足取りで石畳を踏みしめていた。その隣には、満足げに微笑むメトーデと、甘味を満喫してどこかぽわんとした表情のフリーレンとフェルン、そして退屈そうに髪を弄るユーベルが並んでいる。
「ふう……美味しかったですね、フリーレン様。タルトのイチゴがとても甘かったです」
「そうだね。あの店のカスタードクリームはなかなかの絶品だったよ。また来たいな」
満足そうにお腹をさする弟子と師匠の横で、メトーデはうっとりとした眼差しでゼンゼの横顔を見つめていた。
「カフェでのゼンゼさんも実にかわいらしかったです。……どうでしょう、ゼンゼさん。この素晴らしさを、最後にもう一度ゼーリエ様にお見せしに行きませんか? 今度こそ、あのお方もこの愛らしさにひれ伏すはずです」
「断る。絶対に嫌だ」
ゼンゼは即座に、一切の余地を残さず言い捨てた。短くなった茶髪を揺らし、鋭い視線をメトーデに向ける。
「一度ならず二度までも、あのお方の前にこのような浮ついた姿で現れてみろ。今度こそ一級魔法使いの資格を剥奪されかねない。……私はこれから庭園に行き、『髪の毛がすごく伸びる魔法』で髪を元通りに戻す」
「えぇ……勿体ないです。もう少しそのままでいらっしゃれば良いのに……」
メトーデが本気で惜しそうに溜め息をつく中、一行は夕闇の迫る協会の庭園へと足を進めた。植え込みの陰からは、気配を殺して後ろをついてきていたシュタルクが、安堵の息を漏らしながらひっそりと姿を現す。
庭園は、満開の白薔薇が夕涼みの風に揺れ、濃密な甘い香りを漂わせていた。
「さて……では魔導書を……」
ゼンゼが懐から革表紙の冊子を取り出そうとした、その時であった。
「――遅かったな」
静まり返った庭園の奥、白薔薇のアーチの傍らに置かれた石造りのベンチから、不機嫌そうな低い声が響いた。
冷ややかな夕風に、長い金髪をなびかせた小柄な姿。大魔法使いゼーリエが、素足を組んだ不遜な姿勢を崩し、庭園の暗がりからゆっくりと立ち上がった。
「ゼ、ゼーリエ様……? なぜこのような場所に……」
ゼンゼの身体が思わず強張る。ゼーリエの黄金の瞳は、夕闇の中で怪しく冴え渡り、ストレートに一行を射抜いていた。
ゼーリエは返事をする代わりに、優雅な足取りでゼンゼの前まで歩み寄ると、やや見上げるようにして言い放った。
「しゃがめ、ゼンゼ」
「……は、はい」
意図を測りかねながらも、主命に従いゼンゼは静かにその場に膝をついた。ボブカットの茶髪がふわりと揺れ、彼女の華やかなワンピースの裾が芝生の上に広がる。
ゼーリエは背中に隠していた右手を、ゆっくりと前に差し出した。
その細い指先に握られていたのは、庭園に咲く白薔薇を幾重にも編み込んで作られた、小さな花冠であった。無造作に見えて、その蔓の結び目は驚くほど丁寧に整えられている。
ゼンゼが呆然と見上げる中、ゼーリエはその花冠を、ボブカットになったゼンゼの頭頂部へと静かに載せた。
「……ゼーリエ様?」
「静かに聞いていろ」
ゼーリエは不機嫌そうに眉根を寄せ、腕を組みながら、理屈っぽい言葉を淡々と口にし始めた。
「毛髪を切り落としたことで、間合いにおける死角が著しく減少している。その無駄のない剪定は、魔法使いとしての隙を減らす合理的な選択とも言える。……加えて、その髪の造形と衣服の色彩構成は、周囲の魔力視認性を阻害せず、視覚的にも不快感を与えない。無駄な装飾を排しつつも、見栄えとしての整合性が奇跡的に取れていると言っていい」
あまりにも遠回りすぎる解説。あまりにも難解な理論武装。
メトーデは目を見開き、ユーベルは口元を歪めて笑いを噛み殺した。フェルンはジト目を向け、シュタルクは「何言ってんだこの人……?」と混乱した顔をしている。
ゼンゼは頭上の白薔薇の重みを感じながら、パチクリと大きな目を瞬かせるばかりだった。
そんなゼーリエのあまりの不器用さに、後ろで見ていたフリーレンが、呆れたように小さく溜め息をついた。
「……ゼーリエ」
諫めるような、どこか呆れと慈しみの混ざったフリーレンの声。
ゼーリエの肩がぴくりと跳ねた。彼女は苦虫をかみ潰したような顔でフリーレンを睨みつけ、それから居心地が極限まで悪そうに視線を泳がせた。
黄金の瞳が、頭に花冠を載せたまま見上げてくるゼンゼの顔と交差する。
ゼーリエは激しい葛藤に顔を歪め、舌打ちをしそうな勢いで、ひどく言いづらそうに呟いた。
「…………似合っている」
「え……」
「……言いたいことはそれだけだ。くだらんことに私を付き合わせるな」
言い捨てるや否や、ゼーリエは身を翻した。金色の髪を激しくなびかせ、圧倒的な魔力の残光を残したまま、彼女はスタスタと足早に謁見の間の方角へと立ち去っていく。その耳の先が、夕日に染まっているのか、あるいはそれ以外の理由なのか、心持ち赤くなっているように見えた。
遠ざかる始祖の背中を見送りながら、庭園には心地よい静寂が戻ってきた。
ゼンゼはそっと頭の上に手を伸ばし、白薔薇の花冠の柔らかい花びらに触れた。
「……ゼーリエ様が、私に……」
「……やればできるじゃん、ゼーリエ」
フリーレンがどこか満足そうにむふーと鼻を鳴らす。
隣では、メトーデが胸を強く打ち抜かれたような表情で、震える手でハンカチを口元に当てていた。
「……素晴らしい……素晴らしいです、ゼンゼさん! ゼーリエ様の手作りの花冠とボブカット……! ああ、なんという美しさでしょう……!」
「メ、メトーデ、距離が近い……!」
「ねえ、ゼンゼさん。髪を戻すの、もう少し後でもいいんじゃない?」
ユーベルがくすくすと笑いながら、ゼンゼの肩を突く。フェルンも柔らかく微笑みながら、深く頷いた。
「そうですね。ゼーリエ様があそこまで仰ったのですから、今夜はこのまま過ごされるのが宜しいかと思います」
「……みんな……」
夕闇が深まるオイサーストの庭園で、短くなった髪と白薔薇の花冠を戴いたゼンゼは、少しだけ照れくさそうに、けれど心底嬉しそうに、小さな笑みを浮かべるのだった。