朝日がオイサーストの街並みを白く染め上げる頃、宿の部屋ではいつもの静かな押し問答が繰り広げられていた。
「フリーレン様、朝です。起きてください。今日は旅立ちの日ですよ」
フェルンがベッドの布地を小さく引っ張り、丸まった毛布の隙間から覗く白いツインテールを軽く揺らす。うー、と唸り声を上げて毛布に潜り込もうとするフリーレンを、慣れた手つきで抱え起こした。
「あと……百年……」
「二度寝の単位が大きすぎます。シュタルク様はもう荷物をまとめて下で待っていますよ」
「……ん、わかったよ……」
目をこすりながら体を起こすフリーレンのアホ毛が、ぽよんと揺れた。
荷物を抱えたシュタルクと合流し、三人は早朝の大陸魔法協会へと向かう。朝露に濡れた石畳を踏み鳴らす足音が、静まり返った街路に心地よく響いていた。次の目的地は北部高原。これまで以上に苛烈な魔物や魔族が跋扈する危険地帯だ。オイサーストの街を発つにあたり、フェルンの一級魔法使いとしての手続きと最後の挨拶を済ませるため、三人は回廊を通り抜け、あの重厚な大扉の前へと辿り着いた。
静かに開かれた大扉の奥、広大な謁見の間には、朝の澄んだ光が傾斜して差し込んでいた。
石造りの椅子に浅く腰掛け、白い素足を遊ばせている大魔法使いゼーリエ。そしてその傍らには、いつものように控えめに立つ一級魔法使い、ゼンゼの姿があった。
昨日の華やかなミントグリーンのワンピースや、軽やかだったボブカットは跡形もなく消え去っている。白く丈の長いワンピースに紺のケープを纏い、身の丈ほどもある茶髪が、波打つ山となって彼女の背中を越えて地面へと垂れ下がっていた。『髪の毛がすごく伸びる魔法』によって、彼女の髪は完璧に元通りの長さと防御力を取り戻している。
しかし、そのボサボサの髪の隙間から覗く眼差しには、昨日得たささやかな満足感の余韻が、どこか静かに残っているようにも見えた。
「また来たのかフリーレン。出入り禁止の自覚はないのか?」
ゼーリエが手元の古い羊皮紙から目を離さず、素っ気なく言い放つ。
フリーレンは肩をすくめ、杖を背負い直しながら歩み出た。
「うん。オイサーストを出て北に向かうからさ、一応挨拶にね」
「挨拶など不要だと言ったはずだ。フェルンには一級魔法使いの認定証を渡してある。用が済んだのならさっさと消えろ。お前たちがどこへ行ってどこで野垂れ死のうと、私の知ったことではない」
相変わらずの冷淡で不遜な言い草。ゼーリエは羊皮紙を一枚めくり、三人の存在すら視界から追い出そうとするかのように視線を落とした。
その態度に、シュタルクは「うわぁ、相変わらずおっかねえな……」と引きつった笑いを浮かべ、フェルンは表情を変えずに小さくジト目を向けた。
だが、ゼーリエの隣に立っていたゼンゼが、静かに一歩前へと踏み出した。
「ゼーリエ様。それは少し、言葉が過ぎます」
抑揚のない、しかし確かな意思を含んだ声が謁見の間に響く。ゼーリエは不快そうに片方の眉を跳ね上げた。
「何だ、ゼンゼ。珍しいな、私に意見する気か」
「意見ではなく、一級魔法使いとしての提言です」
ゼンゼは自らの長い茶髪を軽く整えながら、淡々と、しかし論理的に言葉を重ねた。
「フェルンはフリーレンの弟子ではありますが、あなたがその眼で資質を見抜き、直々に認めた一級魔法使いの一人です。これから彼女たちが向かう北部高原は、魔王軍の残党も含め、過酷を極める地……若き魔法使いの危険な船出です。協会を統べる者として、あるいは我々一級魔法使いの頂点に立つ者として、その身を案じる言葉のひとつくらいはかけることを推奨します」
「……何?」
ゼーリエの黄金の瞳が、不機嫌そうに細められた。
「私は甘やかすつもりはない。自分の身すら守れぬような者が一級を名乗るなど反吐が出る。死ぬならそれまでの器だったというだけだ」
「それでもです」
ゼンゼは引かなかった。昨日、己の意地や頑なさを少しだけ解きほぐしてもらった経験が、彼女の背中を静かに押しているのかもしれなかった。
「言葉や形にしなければ伝わらないこともあります。不器用さで突き放すだけが指導ではないかと。……先日いただいた白薔薇とお褒めの言葉は、とても嬉しかったです」
「~~~っ!?」
ゼンゼの口から「白薔薇」という単語が出た瞬間、ゼーリエの顔がわかりやすく強張った。昨夜、自身が葛藤の末にゼンゼの頭に載せた花冠と、ひどく恥ずかしそうに口にした「似合っている」という言葉。それを引き合いに出され、ゼーリエの耳の先端が目に見えて赤く染まっていく。
「ぜ、ゼンゼ……貴様……!」
「ゼーリエ様、どうか適切なお心遣いを」
ゼンゼは表情一つ変えず、静かに言い切った。
謁見の間に、身を切るような静寂と、ゼーリエの不機嫌極まりない魔力の揺らぎが満ちる。フリーレンはひどく面白そうにそのやり取りを眺めていた。
やがて、ゼーリエは大げさに溜め息を吐くと、投げ捨てるように羊皮紙をテーブルへ叩きつけた。
「……チッ」
あからさまに不機嫌な舌打ち。彼女は苛立ちを隠そうともせず、石造りの椅子からフェルンへと視線を鋭く突き刺した。
黄金の瞳が、まっすぐに少女を捉える。
「……フェルン」
「はい、ゼーリエ様」
フェルンは姿勢を正し、静かにその視線を受け止めた。
ゼーリエは心底嫌そうに顔を歪め、居心地の悪さに身体を揺らしながら、吐き捨てるように言葉を絞り出した。
「……北は寒くなる。魔物も、下劣な魔族どももウジャウジャいるだろう。……せいぜい、くだらんことで足元をすくわれて死なんようにな」
「ゼーリエ様」
「…………気をつけろよ」
言い終えるや否や、ゼーリエはプイと顔を背け、二度とこちらを見ようとしない態度を決め込んだ。
やや強引に言葉にさせられた、しかし嘘偽りのない不器用な情愛。
その投げやりで、けれど確かに温かみを含んだ言葉を受け取り、フェルンは深々と頭を下げた。
「ありがとうございます、ゼーリエ様。訓示いただいた通り、十分に警戒して参ります」
「……フン。とっとと去れと言ったんだ。行け」
素っ気なく横顔を向けたままの始祖に、フリーレンは小さく手を振った。
「じゃあね、ゼーリエ。ゼンゼも、髪大切にしなよ」
「ああ。……フリーレン、フェルン、シュタルク。旅の無事を祈っているよ」
ゼンゼは短い頷きとともに、落ち着いた微笑みを浮かべて見送った。
大陸魔法協会の重厚な門をくぐり抜け、三人はオイサーストの外へと踏み出した。
朝の光がどこまでも続く街道を照らし、心地よい北風が原野を吹き抜けていく。遠くに見える連峰の先には、まだ見ぬ魔法と、未知の冒険が待っているはずだ。
「ふう……緊張したぜ。あのゼーリエって人、最後まで怖かったな……」
シュタルクが背中の大斧の位置を直しながら、安堵の溜め息をつく。
「シュタルク様は情けないですね。ゼーリエ様は、不器用なりに私達のことを案じてくださったのですよ」
「いや、分かっちゃいるけどさ! あの圧迫感は慣れねえよ!」
「まあまあ。ゼーリエは昔からああだからね」
フリーレンは歩きながら、手にした革のトランクをポンポンと叩いた。その中にはこれまでの旅で集めてきた無数の「くだらない魔法」が詰め込まれている。
「さて……次はどんな魔法が見つかるかな」
「フリーレン様、まずは次の街までの食料の確保が先決です。無駄遣いは許可しませんよ」
「えー。髪の毛の色を変える魔法とか、髪質をツヤツヤにする魔法とか、きっとどこかにあると思うんだけどな」
「そういうのは後回しです」
「フェルンは厳しいなあ……ねえ、シュタルク」
「俺に振るなよ! あと見つけても俺に試さないでくれ!」
呆れ混じりの会話と、賑やかな足音。
エルフにとっての悠久の時の流れの中で見れば、ほんの一瞬に過ぎない人間の寿命。けれど、こうして共に歩む一歩一歩の重ね合わせこそが、フリーレンにとって何よりも愛おしい時間となっていた。
無限に続くかのような青空の下、三人の影は北の街道へとゆっくり伸びていく。
くだらなくて、愛おしい魔法を探す彼らの旅は、これからもずっと続いていくのだ。
あとがき
これにて「ゼンゼが美容院に行く話」は完結です。
本作にお付き合いいただき、またお気に入り登録や評価をいただきまして、本当にありがとうございます。
終わりまで描き切れたのは、読んでくださる皆様のおかげです。
フリーレンの二次創作を2本書きましたがすぐシリアスな話にしてしまうので、本作ではコメディを意識して重くなりすぎない話にしてみました。
ゼンゼさん、かわいいですよね。ボブカットになってもらったのは筆者の願望です。
改めまして皆様、読了、本当にありがとうございました。
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