HOUND ―神殺しの猟犬― 作:とくさんか?
その夜、アルステリア帝国北境の砦では、祈りを捧げる者よりも、それを聞き届けるはずの神を呪う者の方が多かった。
厚い城壁の内側には折れた槍と砕かれた盾が散乱し、降り始めた雪が、石畳に染み込んだ血を覆い隠そうとしていた。帝国第三騎士団北境守備隊は、日没から三度にわたって城門を奪い返そうとしたが、そのたびに押し戻され、今では内郭へ続く階段の前にわずか十数名を残すだけとなっている。
城壁を越えてきたものは、獣でも、既知の魔物でもなかった。
人間に近い骨格を持ちながら、人間の形から遠ざかりすぎた何かだった。白く濁った皮膚の下では無数の指が蠢き、胸部に埋め込まれた女の顔が、呼吸に合わせて祈りの言葉を繰り返している。その巨体を中心に広がった黒い泥へ触れた兵士は、鎧の内側から肉を腐らせ、声を上げる間もなく崩れ落ちていった。
「内郭を放棄する。動ける者は負傷者を連れ、東の通用門から住民を逃がせ」
守備隊長は左腕を失っていた。それでも剣を右手に握り、異形から目を逸らそうとはしなかった。ここを離れれば砦は落ちるが、踏みとどまったところで夜明けまで保たないことは、誰の目にも明らかだった。
「隊長は、どうなさるのです」
「門を閉じる者が要る」
問いかけた若い騎士が唇を噛み締めた時、城壁の向こうで、何かが倒れる音がした。
砦を埋め尽くしていた呻き声も、女の顔が繰り返していた祈りも、示し合わせたように途絶えた。静まり返った城門の外から、雪を踏み締める足音だけが近づいてくる。
それは軍勢の足音ではなかった。
数は少なく、急いでもいない。砦が陥落寸前まで追い込まれていることなど知らないような、あまりにも無造作な歩みだった。
やがて崩れかけた門を潜り、黒い外套をまとった人影が砦へ入ってきた。
深く被られたフードの奥に、顔は見えなかった。暗がりや布に隠れているのではない。確かに目も鼻も口もあるはずなのに、その特徴だけが意識から滑り落ちていく。
背丈や体格から男のようにも見えたが、目を離した途端に、その印象さえ曖昧になった。
その人影は古びた槍を肩に担いでいた。
数歩後ろには、同じ黒い外套をまとった2つの影が続いている。一人は腰に細身の武器を差し、もう一人は外套の裾から覗く大鎌を片手に携えていた。外套の下は軍服に見えるが、いずれも所属を示す紋章を持たず、勲章も階級章も身につけていない。
黒い外套そのものも、ただの布には見えなかった。雪を弾きながら音もなく揺れ、輪郭を捉えようとする視線を、薄い靄のように散らしている。
守備隊長は、彼らを無法者とは思わなかった。無法者であれば、まだ理解できた。
三人から漂っているものは、敵を前にした緊張でも、死地へ足を踏み入れた恐怖でもない。長い旅を終え、ようやく帰るべき場所へたどり着いた者のような、奇妙な安堵だった。
「帝都からの援軍か」
守備隊長の問いに、先頭の影が足元へ落ちていた槍を拾い上げた。穂先は半ばから欠け、柄には持ち主だった騎士の血が残っている。
影は武器の具合を確かめると、わずかに首を横へ振った。
『援軍を名乗れるほど、立派な連中じゃねえよ』
返ってきた声は、人の言葉でありながら、誰のものとも判別できなかった。
低く聞こえた直後には高く、若者のように聞こえたかと思えば、年老いた男の声にも感じられる。声色だけでなく、話者のいる方向さえ曖昧になり、正面の影が口を開いたはずなのに、砦の四方から同時に囁かれたような錯覚を抱かせた。
異形の胸に埋まった女の顔が、影へ向かって大きく口を開いた。
甲高い祈りが砦を震わせ、地面を覆っていた黒い泥が津波のように持ち上がる。それでも3つの影は武器へ手を添えただけで、一歩も退かなかった。
『町の連中は』
「東門から避難させている。だが、まだ半数も出られていない」
『なら十分だ』
先頭の影は、拾い上げた槍を片手で構えた。
その背後では、細身の武器を帯びた影が静かに腰を落とし、大鎌を持つ影が、雪雲に覆われた空を見上げている。
黒い泥の波が迫る中、やはり騎士達にはフードの奥にあるはずの顔は見えなかった。それでも、その影が笑ったことだけは分かった。
『怪我人を連れて下がれ。ここから先は、オレたちの仕事だ』
「待て。せめて所属を名乗れ」
守備隊長の声に、先頭の影は答えなかった。代わりに大鎌を担いだ影が、肩を小さく揺らした。
『知らない方が長生きできるよ、騎士様。アタシらは英雄じゃないし、アンタらみたいに綺麗な勝ち方もできないからさ』
女の言葉遣いだったが、声から話者の性別を判断することはできなかった。
先頭の影が地面を蹴った瞬間、積もり始めていた雪が円形に吹き飛んだ。若い騎士の目には、何が起きたのか見えなかった。
次に槍の穂先を捉えた時には、異形の巨体が城壁へ叩きつけられ、胸に埋まっていた女の顔を、一本の古びた槍が深々と貫いていた。
甲高い絶叫が砦を震わせる。
それを合図にしたように、刀を持つ影が黒い泥の上を駆けた。足が触れたはずの泥は衣服を汚すことさえできず、その姿が異形の脇を通り過ぎた直後、幾本もの腕が遅れて地面へ落ちた。
大鎌を携えた影が片手を掲げると、雪雲の奥に青白い雷光が瞬いた。
守備隊長はその光景を見上げながら、援軍が来たのだとは思えなかった。砦を襲った怪物を狩るために、さらに恐ろしい怪物が現れたのだと理解した。
だがアルステリア帝国の歴史に、その夜の戦いが記されることはない。
北境砦を救った功績は、最後まで戦い抜いた第三騎士団のものとして公表され、夜明け前に現れた三人については、報告書から名前も姿も消されることになる。
生き残った騎士たちの証言も一致しなかった。
先頭にいたのは大柄な男だったと語る者がいれば、小柄な女だったと主張する者もいた。声は老人のものだったという者も、少年の声だったという者もいたが、誰一人として、その顔を思い出すことはできなかった。
それでよかった。
騎士団が帝国の光であるならば、彼らは光の届かない場所にこそ必要とされる。
人々が眠り、英雄たちが剣を収めた後もなお、帝国の敵を追い続ける黒い猟犬。
その名を、特務機関ハウンドといった。
初投稿でした