HOUND ―神殺しの猟犬― 作:とくさんか?
帝都セレーネの朝は、鐘の音よりも先に動き始める。
城壁の内側を巡る大通りには、夜明け前から荷馬車が列を作り、北門を抜けてきた農夫たちが野菜や穀物を市場へ運び込んでいた。焼き窯に火を入れたパン屋からは香ばしい匂いが漂い、眠気の残る職人たちが店先の雪を払いながら、互いに短い挨拶を交わしている。
帝城から遠く離れた外縁区も、朝の訪れだけは貴族区と変わらなかった。
石造りの建物が密集する細い通りの一角で、イクス・ブラッドウッドは薬屋の扉に掛けていた閂を外した。
古びた蝶番が軋み、冷えた空気が店内へ流れ込む。イクスは入口脇へ立て掛けていた木札を裏返し、そこに刻まれた営業中の文字を表へ向けると、店の奥に並ぶ薬瓶を順番に確かめていった。
昨夜から降り続いていた雪は、帝都では明け方に止んでいる。北境ほど積もってはいないが、屋根から落ちる雪解け水が石畳を濡らし、通りを歩く人々の足元には薄い泥が広がっていた。
「……今日は、休みでもいいんじゃない……?」
背後から聞こえた声に、イクスは振り向かなかった。
店の奥から現れた少女——シズク・ブラッドウッドは、湯気の立つカップを2つ載せた盆を持っていた。普段の着物姿ではなく、帝都の住民に紛れるための簡素な衣服をまとい、腰へ届く髪を1つに束ねている。眠そうに伏せられた目と、気を抜いた口調だけを見れば、昨夜あの砦で刀を振るっていた者と同一人物には見えなかった。
「休んだら病人が治るのか」
「……一日休んだからって、帝都中の人間が急に病気になるわけじゃない……」
「そういう日に限ってなるんだよ」
イクスは棚から乾燥させた薬草を取り出し、秤の上へ載せた。右手で分銅を動かそうとしたところで、袖口から覗いた皮膚に赤黒い痕が走っていることに気づき、シズクがわずかに目を細める。
「……腕、まだ治ってない……」
「掠っただけだ」
「……あれを掠ったで済ませるのは、あなたくらい、だよ……」
「グロリアなら笑って済ませる」
「……あれと比べるのはやめて……」
シズクは盆を作業台へ置くと、イクスの手首を掴んで袖を捲った。肘の近くまで残った火傷は、既に塞がりかけているものの、黒い泥に触れた箇所だけが不自然に変色している。
北境砦を覆っていた異形の体液は、通常の解毒薬では中和できなかった。一般の兵士であれば、触れた時点で腕を切り落とす以外に助かる方法はなかっただろう。
イクスは赤い瞳を細め、自分の腕に残る痕を眺めた。
「神性毒に近いな」
「……近いというより、混じってる。人為的に薄められていたみたいだけど……」
「やっぱり、ただの魔物じゃねえか」
「……ただの魔物なら、胸から人の顔は生えない……」
シズクは呆れたように息を吐き、治癒薬を火傷の上へ塗り込んだ。
店の外から、誰かが近づいてくる足音が聞こえた。営業時間を示す札を出したばかりだが、早朝から薬を求めに来る者は珍しくない。イクスが袖を戻した直後、入口の扉が控えめに開かれた。
「薬師さん、もう開いているかい」
顔を覗かせたのは、近所に住む老女だった。
イクスは先ほどまで腕に残る神性毒について話していたことなど忘れたように、いつもの穏やかな表情へ戻った。
「やあ、早いね。今日は膝?それとも腰かな?」
「どっちもだよ。歳を取ると、身体のあちこちが相談もなく壊れていくんだから嫌になるねえ」
「安心しな、だからオレらみたいな薬師がいるんだ」
「まともなのはあんただけだよ。ほかの薬師は金儲けのことしか考えてない」
老女は文句を言いながらも笑い、慣れた様子で店内の椅子へ腰を下ろした。
シズクは作業台の脇へ退き、薬を調合し始めたイクスを静かに見つめていた。昨夜、古びた槍一本で異形の胸を貫いた男は、今では老女の膝へ触れ、腫れ方を確かめている。
その手つきに、戦場で見せた荒々しさは残っていなかった。
しばらくして薬を受け取った老女が店を出ると、入れ替わるように子供を連れた母親が現れた。その後にも咳を患った職人や、怪我をした冒険者が訪れ、狭い店内は朝から絶えず人の声に満たされていった。
最後の客が店を出た頃には、双月の姿は完全に空から消え、建物の隙間から差し込む朝日が棚に並んだ瓶を照らしていた。
イクスが使い終えた器具を洗っていると、入口の上に吊るされた小さな鐘が鳴った。
「悪いが、少し待ってくれ」
振り返らずに告げたイクスへ、返事はなかった。
代わりに店内の空気が、わずかに張り詰めた。
シズクの耳が動き、穏やかに垂れていた尻尾の毛が逆立つ。彼女の右手は自然な動作で腰へ伸びたが、そこに刀がないことを思い出したように、指先だけを軽く握った。
入口に立っていたのは、全身を灰色の外套で包んだ男だった。
帝国軍の制服ではない。商人にも冒険者にも見えず、雪の残る通りを歩いてきたにもかかわらず、靴にも外套にも泥一つ付いていなかった。
「薬が欲しいようには見えねえが」
イクスが言うと、男は懐から黒い封筒を取り出した。
表には宛名も差出人も記されていない。ただ封蝋の中央に、アルステリア皇帝家の紋章が刻まれていた。
「陛下より、貴殿へ」
その呼び名を聞いた瞬間、薬師の顔から穏やかさが消えた。
イクスは濡れた手を布で拭い、男から封筒を受け取る。背後ではシズクが店の入口へ歩み寄り、営業中と記された木札を裏返していた。
「今朝戻ったばかりなんだがな」
「事態は、貴殿らの休息を待ってはくれないようです」
「だろうな」
イクスは封蝋を割り、折り畳まれた文書へ目を通した。
文章は短かった。
北境砦を襲撃した異形と同種の存在が、帝国内で新たに三体確認されたこと。いずれも、人間を素体として作られた形跡があること。
「……またお仕事……」
シズクは月のような金色の瞳を不快そうに細めた。
帝都の通りでは、薬を受け取った老女が近所の者と笑いながら話し、子供たちが溶けかけた雪を蹴って遊んでいる。いつもと変わらない朝の光景が、薄い窓硝子の向こうに広がっていた。その日常が何の上に成り立っているのかを、彼らはよく知っている。
イクスは店の奥にある扉へ向かった。
扉の先には、薬草を保管する小さな倉庫がある。棚の1つを横へ押すと、石壁の奥から地下へ続く階段が現れ、その暗がりには昨夜着用していた黒い外套が掛けられていた。
「グロリアたちを廃教会へ集めろ」
「……イクスは……?」
「カインとニルヴァーナに連絡する」
昨夜の戦いは終わった。
だが、妙な胸騒ぎを感じていた。
□
アルステリア帝国の帝都セレーネ。エリュシオン大陸に名高い黒鉄の城壁に囲まれた都である。
巨大な城壁は帝都を取り囲むように幾重もの塔を連ね、その内側には帝城を中心として同心円状に街が広がっている。皇帝とその一族が暮らす帝城に近いほど建物は大きく、外側へ向かうにつれて商店や工房、住宅が密集している。城壁に近い外縁区まで来れば、石畳のひび割れや傾いた家屋も珍しいものではなく、さらにその先には帝国の繁栄から取り残された者たちが暮らす
同じ城壁の内側にありながら、ここで生きる者が目にする光景は、生まれた場所と身分によって大きく異なる。
「さて、全員揃っているか」
首を落とされた神像の足元、宣教台に腰かけたイクスはぐるりと教会の中を見回した。
「あいあい。こちらはグロリアちゃん」
「エイン・エイヴィヒカイト。ここに居ます」
梁の上に腰かけた人影が反応する。くすんだ金髪の少女はからからと笑いながら手を振り、隣の女性は迷惑そうに少女を睨んだ。
「シンシア・オブスキュリアス。ここに」
「カイン・プレイグもいますぞ」
その声と同時に、暗がりから二人が現れる。
「来てねえのは、ニルヴァーナだけか。あいつが遅刻とは珍しいこともあるものだ」
「……いつもは誰よりも早いのにね……」
シズクがそう言い終えるのとほとんど同時に、廃教会の正面扉が鈍い音を立てて開いた。隙間から冷たい風が流れ込み、床に積もった埃を薄く巻き上げる。
朝日を背負って教会へ入ってきたニルヴァーナは、第三騎士団の軍服の上に濃紺の外套を羽織り、片手に革製の鞄を掲げていた。
「遅れてすまない。城で引き止められた」
「皇帝から説教でも食らったか」
「いや、第零師団の方だ。状況の確認だがな」
ニルヴァーナは扉を閉めると中央まで歩み寄った。普段であれば乱れ1つない銀糸の髪には、帝城から急いで来たためか僅かに風の痕跡が残っていた。
「これで揃いましたね」
エインが梁の上から飛び降りてそう告げると、ニルヴァーナは頭上を一瞥した。
「グロリア。会議を聞く気があるのなら降りてこい」
「いやだ。アタシはここがお気に入りなのー」
「あの失敗作のことは見なかったことにしてさっさと始めましょうよ」
「んだと愚妹!」
「うっわ、いきなり姉面しないでもらえるかしら気持ち悪いわね」
二人のやり取りを聞き流しながら、ニルヴァーナは鞄を古びた長椅子に置くとその横に座った。
「揃ったのなら始めるぞ」
イクスのその言葉にグロリアとエインは口喧嘩を辞めて視線を向ける。
「さて、昨日オレとシズク、グロリアの三人での任務があったが。どうやら皇帝陛下サマはまだ働かせ足りないらしい」
「その新しい任務に関して、第零師団から資料を貰っている」
ニルヴァーナが鞄から紙の束を取り出し、全員に手渡す。
「先月から帝国の都市においての行方不明者が急増している。恐らくは奴隷商等では無いだろう」
資料には先月からの行方不明者の総数、新たに確認された三体の魔物の情報が記載されていた。
「うへ、昨日のもそうだけど気持ち悪ぃなこいつら」
「ええ、貴女と同意見なのは業腹ですが、悪趣味ですね」
グロリアとエインは、併記されていた魔物の絵を見て目を細めた。
一体目は四足で歩く獣のような姿をしていたが、その胴体には人間の腕らしきものが何本も不規則に生えている。二体目は人間に近い体躯を持ちながら頭部が異様に膨れ、裂けた口の内側には大小さまざまな歯が幾重にも並んでいた。三体目に至っては、背中から伸びた肉塊の先に人間の顔が残っており、討伐した騎士の証言によれば、戦闘中も意味の取れない言葉を繰り返していたという。
昨日、北境砦で倒した個体も似た特徴を持っていた。姿形こそ異なっているものの、どれも既存の魔物の生態から大きく逸脱しているという点だけは共通している。
「突然変異という線は?」
カインが資料を眺めながら尋ねると、ニルヴァーナは首を横へ振った。
「帝立魔導研究院にも確認させた。自然発生した変異個体である可能性は低いそうだ。少なくとも、既知の魔物から派生したものではない」
「となると、誰かさんがせっせと作ってるってことか」
イクスは紙を一枚捲った。
そこには三体が発見された日時と場所、その周辺で報告された行方不明者の数がまとめられている。
帝国北西部の交易都市ハルバートでは十三名。その二十一日後に一体目が出現した。南部の農業都市では九名が姿を消し、その十七日後に二体目が確認されている。三体目が現れた西部の鉱山都市では、ひと月にも満たない間に十一名が行方不明となっていた。
そして昨日、北境砦を襲撃した四体目。
その周辺では十八名が消えている。
イクスの赤い瞳が、紙面の数字を順に追っていった。
「随分と分かりやすく並んでやがるな」
「ああ。私も同じことを考えた」
ニルヴァーナは別の資料を取り出し、長椅子の上へ広げた。帝国全土を記した地図には、複数の都市へ赤い印が付けられている。
「行方不明者が増加した地域と、異形が出現した地域はほぼ一致している。ただし、すべてではない。現在も失踪者だけが確認され、異形が出現していない地域が四ヶ所ある」
「つまり、これから出てくるかもしれない、と」
シンシアが静かに問いかける。
「可能性はある」
「……じゃあ、先に潰せるね……」
シズクの声に、イクスは頷かなかった。腕を組み、もう一度資料へ目を落とす。
失踪者には性別の偏りがなく、年齢にも大きな共通点は見られない。冒険者、日雇いの労働者、旅人、孤児、独居の老人まで含まれており、奴隷として売買するには統一性がなさすぎた。
「ニルヴァーナ。奴隷商じゃねえって言った理由はこれか」
「ああ。第二騎士団が裏市場まで調べているが、ここ一ヶ月で奴隷の流通量に変化はない。それに、売ることが目的なら老人まで攫う理由がない」
「臓器目当てでもなさそうですね」
エインが資料を覗き込みながら言う。
「若く健康な者だけを選んでいるわけでもありませんし、種族すら統一されていない。何かしらの条件で選別しているようには見えません」
「条件なんか無いんじゃね?」
グロリアが紙をひらひらと振った。
「使えりゃ誰でもいい、とか」
軽い口調だったが、その言葉に誰も笑わなかった。
イクスは顔を上げる。
「使う?」
「だってそうだろ。連中が奴隷を欲しがってるんじゃなくて、材料を欲しがってるとしたら?」
グロリアは手にしていた資料を裏返すと、魔物の解剖記録が記載された箇所を指先で叩いた。
「ここ」
全員の視線が集まる。
異形から採取された筋組織、骨片、血液、臓器。それぞれについて、帝立魔導研究院による簡易鑑定の結果が並んでいた。
「魔力の癖がバラバラだ」
「……どういう意味……?」
シズクが尋ねると、グロリアは先ほどまで浮かべていた笑みを消した。
「生き物ってのはな、肉だろうが血だろうが、基本的には同じ魔力の癖が残る。親子なら似ることはあるけど、完全に違う奴の魔力が一つの身体からこんなに出てくるのは普通じゃねえ」
指先が、記録の一行をゆっくりとなぞる。
「アタシは昨日の奴らに複数人の魔力を感じてた」
廃教会を満たしていた僅かな物音が途切れた。
イクスは机の上へ置かれた地図へ視線を落とした。
五十を超える行方不明者。
四体の異形。
その二つを結ぶ赤い印が、帝国各地へ点々と残されている。
「……なるほどな」
呟いたイクスの声から、先ほどまで残っていた気怠さが消えていた。
「人が消えた後に、化け物が出てくる。そいつらの身体には、複数人分の肉が混ざってる」
「まだ確定したわけではない」
ニルヴァーナが釘を刺す。
「分かってるよ」
イクスは資料を長椅子へ戻すと、自分の右腕へ目を向けた。衣服の下では、昨夜受けた傷が今なお赤黒く変色している。
「だから確かめるんだろ」
その言葉を聞いたグロリアが、ふとイクスの腕へ視線を移した。
先ほどまでとは違う、僅かな険しさが青い瞳に浮かぶ。
「……たいちょー。その腕、もう一回見せて」 「あ?」 「いいから」 珍しく有無を言わせない声だった。 イクスが腕を捲りグロリアに差し出すと、彼女は不快そうに目を細めた。 「昨日の?」 「ああ。うちにある解毒薬じゃ対処出来なかった」 「うん。普通のじゃ無理。混ざってる」 「神性だろ」 「違う」
即座に否定したグロリアはイクスの腕を掴み、火傷の中心に残った黒い痕へ顔を近づけた。先ほどまで梁の上でふざけていた姿は消え、青い瞳が細められている。 「神性じゃない。神性に似せてあるだけ」 「……似せてある……?」 シズクが傍らから覗き込む。 「そ。アタシらみたいなのが持ってる神性とは根っこから違う。魔力を何度も圧縮して、性質を変えて、その上から無理矢理それっぽい形に整えてる」 「そんなことが可能なのですか?」 シンシアの問いに、グロリアは僅かに眉を寄せた。 「普通は無理。っていうか、やろうと思わない。水をどんだけ煮詰めたって油にはならねえだろ。それと同じ」 「だが、これはそうなっている」 イクスが自分の腕を見下ろす。 「なってるように見えるだけだって。たいちょーの身体が頑丈だからこの程度で済んでるけど、普通の人間なら触れただけで魔力経路ごと腐るよ」 グロリアは黒ずんだ部分を指先で軽く押した。鈍い痛みとともに、イクスの皮膚の下を這うような違和感が走る。
「感覚は?」
「ある」
「そっか。ならまだ何とかなりそう」
グロリアはそう言いながらもイクスの腕を離さず、黒い痕の周囲を指先でなぞった。薄い青白い光が指先から滲み、皮膚の下へ染み込むように広がっていく。だが火傷の中心へ触れた瞬間、光は水面を弾かれたように歪み、細かな粒子となって消えた。
「待って、やっぱ変だ」
「何がだ」
「魔力を受け付けない。正確には、外から入ってきた魔力を取り込んで、自分の形を維持するために使ってる」
グロリアがようやく手を離す。黒い痕には先ほどより薄く青い光が残っていたが、それも数秒ほどで飲み込まれるように消えていった。
「治癒魔法を使えば使うほど悪化するってことか?」
「そこまで単純じゃないけど、下手に弄るのはやめた方がいい。昨日から広がってないなら、とりあえずたいちょーの身体が押さえ込んでる」
「……イクスだから耐えられているだけ……?」
「多分ね。普通の人間ならさっき言った通り、魔力経路から腐って終わり」
シズクの耳が僅かに伏せられる。イクスはその様子を横目で見たが、本人はさほど気にした様子もなく袖を戻した。
「じゃあ、腕一本で済んだなら安いもんだ」
「そういう話してんじゃねえっての」
グロリアが呆れたように顔をしかめる。
「問題は、誰かがこれを作ったってこと。自然にこんなもんが出来るわけない」
「異形も同様、と考えるべきでしょうな」
カインが長椅子へ深く腰掛けたまま口を開いた。先ほどまで穏やかだった表情は消え、膝の上で組まれた太い指が僅かに動いている。
「人を素体として用い、そこへ本来持ち得ぬ性質を後から付与する。もし昨夜の異形と、その腕に残ったものが同じ技術から生まれているのならば、別々の事象として考える方が不自然でしょう」
「同感だ」
ニルヴァーナは手元の資料を一枚抜き取り、隣に座るカインへ渡した。
「第零師団が回収した三体も、いずれも内部構造は通常の魔物と大きく異なっていた。骨格の一部は人間に近い。臓器らしきものも確認されたが、配置は滅茶苦茶だ。複数の生物を無理に一つへまとめたような構造だったらしい」
「……複数?」
シズクの耳が僅かに動いた。
「ああ。一体の中から、少なくとも三人分の歯が見つかっている」
教会の中から、それまで残っていた軽い空気が消えた。
カインは資料へ目を落としたまま眉間に皺を寄せ、シンシアは長椅子の背へ添えていた指を静かに握り込んだ。
イクスは何も言わず、ニルヴァーナの持つ資料へ視線を向ける。
「三人分ってのは、推測か?」
「歯型と骨格からの判断だ。少なくとも、だ。正確な人数までは分からない」
「……趣味が悪いな」
イクスの口から零れた言葉は、それだけだった。
声を荒らげることも、顔を歪めることもない。しかしシズクは隣に立つ彼を見上げ、金色の瞳を細めた。こういう時のイクスが一番機嫌を損ねていることを、彼女は長い付き合いの中で嫌というほど知っていた。
イクスは長椅子の上に広げられた帝国全土の地図へ視線を落とした。
異形が既に出現した地域には印が付けられ、その周囲では例外なく人間が姿を消している。そして、同じように失踪者が増えながら、未だ異形だけが確認されていない場所が四ヶ所残っていた。
「よし」
イクスが宣教台から腰を上げる。
「四ヶ所、全部洗うぞ」
「全部?」
エインが僅かに眉を上げた。
「どこで次が出るか分かんねえんだ。一ヶ所に絞る理由もないだろ」
「戦力を分散させることになりますが」
シンシアの指摘に、イクスは鼻を鳴らした。
「その程度で困る面子でもねえだろ」
「あはは、そりゃそうだ」
グロリアが楽しそうに笑う。その横でエインは呆れたように息を吐いたが、反論はしなかった。
ハウンドの幹部が二人いれば、通常の騎士団一個部隊を遥かに上回る。まして今回の目的は大規模な討伐ではなく、異形が現れる前に失踪者の行方を探ることだった。敵が何者かさえ分からない以上、一ヶ所へ全員で押しかける方が効率は悪い。
「ニルヴァーナ。四ヶ所の中で、騎士団が一番動きやすいのはどこだ」
「南部だな。第三騎士団の駐屯地が近い。巡回を増やしても不自然には見えない」
「ならそこは任せる。表向きには普通の失踪事件として探ってくれ」
「分かった。ただし、異形が確認された場合は?」
「手ぇ出すな」
即答だった。
ニルヴァーナの赤い瞳が細くなる。
「私にそれを言うのか?」
「第三騎士団長として動くならな。街中であんなもん相手に本気出したら、どっちが災害か分からなくなる」
「……困った事に否定が出来ない」
「でしょうな」
カインが楽しげに髭を撫でると、ニルヴァーナは不満そうに彼を一瞥した。
「カインは西だ。あの辺りならプレイグ領と商会の繋がりがあるだろ」
「ええ。人や物の移動を調べるには都合が良いでしょう。失踪者を別の場所へ運んでいるのであれば、何らかの痕跡は残るはずです」
「シンシアも一緒に行ってくれ。表に出てねえ失踪者もいるだろうから、そっちを拾ってほしい」
「承知しました」
シンシアが静かに頷く。
「グロリアとエインは北東」
「えー、アタシたいちょーの腕治さないといけないんだけど」
当然のように返された言葉に、イクスが眉を寄せる。
「さっき治せねえって言ってただろ」
「今すぐは、ね。正体も分かってねえもん身体に残したまま放っとく方が怖いっつーの。少なくともアタシが近くにいた方が何かあった時すぐ対処出来るしー?」
グロリアはそう言って、イクスの右腕へ視線を向けた。
理屈そのものは間違っていない。神性を模した正体不明の何かが肉体へ残留している以上、その性質を理解している者が近くにいる方が安全なのは確かだった。
しかし、シズクはじっとグロリアを見つめていた。
「……イクスと一緒にいたいだけ、でしょ……」
「は?」
青い瞳がシズクへ向く。
「……治療は口実……」
「違いますー! ちゃんと心配してんだよ!副隊長はアタシをなんだと思ってるのさー!」
「……はぁ。シズク、東を任せた。エインは北東を頼む」
「……むう。わかった……」
「お任せを。失敗作と一緒だなんて嫌でしたから助かります」
「アタシだってお前と一緒なんか御免だっつーの」
「はいはい。続きは後でやれ」
再び始まりかけた口論をイクスが遮る。
グロリアは不満そうに頬を膨らませたが、それ以上は何も言わなかった。エインも鼻を鳴らすだけに留め、地図へ視線を戻す。
「これで四ヶ所は埋まったな」
イクスが地図の上を見渡す。
南部はニルヴァーナ。西部はカインとシンシア。東部をシズク、北東部をエインが担当する。いずれも単独、あるいは少人数で動いたところで容易に後れを取る者ではない。
「頼んだぞ」
イクスの言葉に、誰からともなく返事が返った。
目的地も役割も決まった以上、これ以上ここで話し込んでいても仕方がない。ニルヴァーナは長椅子に広げていた資料を集め始め、カインとシンシアも自分たちが向かう西部に関する記録だけを抜き取っていく。エインは北東部の地図を手に取ると、早くも街道と最寄りの都市を確認していた。
「出発は各自に任せる。向こうで何か見つけたら、どんな些細なことでも帝都に寄越せ。異形を見つけても、出来る限り単独で深追いするな」
「隊長がそれを言いますか」
シンシアが柔らかく微笑むと、イクスは僅かに眉を寄せた。
「オレはいいんだよ」
「良くないからこうなってんだろーが」
すぐ横からグロリアに腕を捕まれ、イクスは鬱陶しそうに顔を背けた。
「とにかく、目的は異形の討伐じゃねえ。失踪者がどこへ消えたのか、誰が何のためにあんなもんを作ってるのか。それを突き止めるのが先だ」
「ああ。異形への対処は二の次だな」
ニルヴァーナはまとめ終えた資料を革鞄へ収め、留め具を閉じた。
「こちらでも第三騎士団へ通達しておく。ただし、事情を知らせるのは一部の者にだけ。どこから情報が漏れるか分からないからな」
「それでいい」
イクスは短く答えた。
人間を素体として作られた異形と、自然界には存在し得ない神性を模した何か。その二つが同時に現れた以上、単なる魔物による被害として扱うには異常が重なり過ぎている。
何者かが、人間を使って何かを試している。
少なくとも、そこだけは間違いなかった。
「では、儂らは準備に取り掛かりましょう」
カインがゆっくりと腰を上げる。その巨体が立ち上がっただけで、古びた長椅子が解放されたように軋んだ。
「西部までなら、領内の商会を使えば今日中にある程度の情報を集められるでしょう。シンシア殿、馬車はこちらで用意しますぞ」
「ありがとうございます。わたしも孤児院へ一度戻ってから合流しますね」
二人が連れ立って正面扉へ向かう。
「ワタシも行くわ。帝都を出るなら昼までには支度を済ませたいもの。またね失敗作」
エインも地図を畳み、二人の後を追った。
「……私も準備してくる……」
シズクはそう言いながらも、その場を離れようとはしなかった。
金色の瞳が向けられている先は、イクスの右腕だった。
「何だよ」
「……本当に、無茶しないでね……」
「帝都に残るだけだぞ」
「……だから心配なの……」
「どういう意味だ」
「……イクスだから……」
それだけ言うと、シズクはようやく踵を返した。
納得がいかない様子でその背中を見送っていたイクスの横で、グロリアが噴き出す。
「信用ねえなー、たいちょー」
「お前にだけは言われたくねえ」
「アタシは信用されてるもーん」
廃教会を出ていく直前、シズクが振り返った。
「グロリア」
「なに?」
「イクスに変なことしたら殺すから」
「何でだよ!」
グロリアの声が高い天井に反響する頃には、シズクは既に扉の向こうへ姿を消していた。
「あれ本気だよな」
「日頃の行いだろ」
「たいちょーまで!?」
イクスは肩を竦め、まだ残っていた資料へ手を伸ばした。
最後まで残っていたニルヴァーナも立ち上がり、濃紺の外套を羽織り直す。
「イクス」
「あ?」
「冗談抜きで、その腕は大事にしろ」
先ほどまでとは違う真面目な声音だった。
イクスは一瞬だけ右腕へ視線を落とした。
「分かってる」
「お前の『分かっている』ほど信用出来ない言葉も珍しいがな」
「今日は随分言われる日だな」
「それだけ心配されていると思え」
ニルヴァーナはそれ以上何も言わず、廃教会を後にした。
扉が閉まり、騒がしかった教会の中に静けさが戻る。
残ったのはイクスとグロリアだけだった。
「で?」
イクスは長椅子へ腰を下ろし、隣に積まれた資料の束を左手で引き寄せ、右腕をグロリアに預ける。
「治療出来るか?」
「それを今から調べんの」
グロリアはそう答えると、イクスの隣へ遠慮なく腰を下ろした。
「ぱっと見た感じだけどさ、これ作ったやつ魔法について相当詳しいよ」
「お前より?」
「それはない」
「即答かよ」
「当たり前でしょ?大陸一の魔法使い様だぜ?」
胸を張るグロリアを見て、イクスは呆れたように鼻を鳴らした。
そのまま資料を一枚捲る。昨夜までは、北境砦を襲った正体不明の魔物を始末した。それだけの任務だった。
だが今は違う。帝国各地で消えている人間。
その後に現れる、人の肉を継ぎ合わせた異形。
そして、自分の腕に残された神性を模した何か。
一つだけなら偶然と片付けることも出来ただろう。
だが、こうして並べてしまえば、そこには明確な意志がある。
何者かが、目的を持ってこれを行っている。
ならば、その目的ごと探し出して潰す。
それがハウンドの仕事だ。
初投稿でした