kancolle_AnotherWorld   作:どっかー

2 / 3
本作品は『艦隊これくしょん -艦これ-』の二次創作小説です。

独自設定・独自解釈・オリジナルキャラクターを多く含み、原作とは異なる設定・展開があります。

また、文章の推敲・校正および表現の検討に生成AIを使用し、一部の提案文を本文に採用しています。


02

約束された平穏などありはしない。平和であり続ける努力を怠らない者にだけ、それは与えられる。

この日、軍首脳部は統合作戦本部建屋の一室に集まり作戦立案のための会議をしていた。本土から千五百キロメートルの位置に深海棲艦と思しき多数の影が映った衛星写真を見つめ、対策を考えていた。いつも通りであれば艦娘の機動部隊か打撃部隊に出撃を命じて終わりといったところだが、今回は敵の総数が百を超えているということもありかなり慎重な議論がされていた。

現在在籍している艦娘の数は五十人前後で、総力戦でも二倍以上の戦力が相手にある。しかし本土防衛の任もあるため、どの程度の戦力を割り振るのか、というのが本題だった。実働部隊を管轄する海軍としては、本土防衛に最低限残して他の全力出撃を提案したが、陸軍や国防省は否定的だった。

五時間の会議の末、出撃は以下のような陣容で決まった。

水上打撃部隊より、長門、陸奥、伊勢、日向、高雄、愛宕。機動部隊より、赤城、加賀、飛龍、蒼龍。水雷戦隊より、天龍型二隻、長良型三隻、駆逐艦十隻、母艦とその護衛として護衛艦『いずみ』、『ゆきなみ』、『あさぎり』、『あまぎ』の四隻。在籍艦娘のおよそ半数だったが、赤城たちと同じ正規空母である翔鶴と瑞鶴、巡洋戦艦の比叡、榛名、霧島の残留は海軍上層部として甚だ不本意だった。とは言えそうなってしまった以上、それでどうにかする他ないのが現実である。作戦の総司令は中島中将、艦娘部隊の司令官に高梨佑輝中佐、副司令に椎名薫中佐、川島明雄少佐が選ばれ、彼らは膝を突き合わせて作戦を練った。

一方、議題に上がりもしなかった遊撃部隊はある種の夏休みを満喫していた。迎撃戦があった以降は一応数度の出撃があったものの、川内や赤城たちに比べて圧倒的に暇であり、訓練等が終わったあとは執務室で遊んで過ごすのが定番になりつつあった。

「今度の作戦、あたしたちいなくて大丈夫なの?」

「そう決まったのだから仕方ない。おれにはどうすることもできんよ。」

北上が漫画を読みながら海渡に話しかけた。あまり深刻には受け止めていなかったようで、海渡の返答に対して目線をよこすことなく軽い返事で終わらせた。

海渡は気がかりだった。『はるか』や金剛たちを失った時と似ている。唐突に大規模に集結し始める様は、規模や場所が違えど意識せざるを得ない。

「海渡さん、そんな心配しなくても大丈夫だよ。あの時の倍以上の戦力があるんだから。」

「そうだといいが、例のステルス性のやつが出てきたらそうも言ってられんぞ。」

「そこはみんなを信じるしかないよ。ちゃんと訓練はしたんだから。」

「まぁ、そうだな。」

最上の言うことは正しいと思う。思うのだが、胸騒ぎがするのは何なのだ。人間としての勘なのか、それとも腹の内に眠る『はるか』の遺物の主張なのか…。

なお、ステルス性を持つ白いツインテールの深海棲艦について「南方棲戦姫」という呼称がつけられていたが、あまり定着していなかった。

 

 

 

佑輝たちは輪形陣を成して目的海域へと向かった。南方棲戦姫との過去二回戦闘でわかっていることは二つ。

・護衛艦のレーダーには反応しないが、艦娘の電探等には反応する。

・ソナーは護衛艦のものでも反応する。

そのため対潜警戒を厳重に行い、定期的に駆逐艦の艦娘が哨戒する体制をとった。この日は曇天だが視界は良好で、乗員たちの気分はそれなりに上がり調子だった。今まで積み重ねてきた勝利が彼らの自信となっていた

作戦海域まで五十キロメートル手前まで進出したところ、敵の群れが少しずつではあるが南に移動し始めた。中島はそれを眺めたあと、本部への定時連絡にその情報を追加した。そして本部からの返答は以下であった。

「作戦は継続されたし。」

彼はそのまま跡を追うという愚策はせず、敵の西側を七十キロメートルの距離を保ちながら追跡することにした。南方棲戦姫のような特殊な個体でなければ、敵は今まで通り近い艦娘を攻撃する機械のように振る舞うことは共有されていた。敵の速度が落ちた頃を見計らい、中島は艦内放送のマイクを取った。

「第一種戦闘配置!艦娘は事前の作戦通りに順次出撃せよ!」

各護衛艦が慌ただしくなり、乗員は浮足立った気分を引き締めた。長門を始めとする艦娘はカタパルトから出て陣形を組み、護衛艦群の前に出て電探による索敵をしつつ、赤城たちは艦載機の発艦準備に入る。

「風上へ回頭後順次発艦!」

空母に合わせて艦娘たちは艦隊行動をとり、艦載機の発艦を見送った。南方棲戦姫への恐怖はあったが、まだ護衛艦のレーダーが有効であることに安堵していた。

 

 

 

ふと気がつくと、海渡は仄暗い水面に立っていた。星空はなく、海上のどこにも目標物はなく、波も恐ろしいくらいに穏やかだ。何も考えられず呆けていると、背後から水面を打つ音と共に気配が迫ってきた。それに反射的に振り返ると、三メートルもありそうな人型の何かが目の前にいた。全身真っ黒で筋肉が隆起していて、類人猿のように両足を曲げ、前腕と拳で体を支えているように見える。だが、その後ろではそれ自体の体長よりも長い一本の尾が動いていた。海渡が動けずにいるとそれは右手で海渡を捉えて持ち上げた。そして頭部の口がゆっくりと開き、海渡が死を覚悟したときだった。

「艦長、急いで。みなさんが危険です。」

女性に似た金属音のような声がその口から響いた。

海渡の夢はそこで終わった。執務椅子に座ってうたた寝していたらしい。気が抜けていたな。大きなため息をついた。視線を前に向けると、吹雪たちの視線を集めていることに気づいた。

「ああ、すまん。気が抜けていたらしい。気をつける。」

少し恥ずかしくなってわざとらしく咳払いしたが、鳳翔からの返答は予想外なものだった。

「あの、海渡さん、左目に。」

急ぎ足で手鏡を吹雪に手渡されて、冷や汗が吹き出た。白い炎が揺蕩っているではないか。他の人に見られたらまずい。だが、今は普段通りに過ごしているだけで『はるか』の力を使っているわけではないはず、なぜだ。海渡は夢を思い出し、数秒考えたあと、書棚から海図をやや乱暴に取り出して執務机に広げた。海渡は海図を三分ほど凝視したあとに言った。

「全員付いてきてくれ。」

なるべく人目につかないように移動し、基地の横にある岸壁に囲まれた小さな入り江で海渡は海面に立った。未だ炎が揺蕩っており、吹雪たちを心配させた。そこへ二本角の深海棲艦が現れた。

「珍しいな。お前から呼び出しとは。なんだ?」

「今、友人が作戦行動中だ。一つ確認したいことがある。」

「ほう、仲間を売れと。」

「いや、違う。『はるか』は今どこにあるのかわかるか?」

「お前の腹の中だが。」

「そっちじゃない。」

数瞬の間があり、二本角は口を開いた。吹雪たちにもわかるくらい口角が吊り上がった。

「目覚めたのか。いいだろう。教えてやる。その友人の南西約百十キロメートルだ。」

「ありがとう。それともう一つ。これは強制しない。あの海域には南方棲戦姫以外にも何かいる。違うか?」

二本角は答えなかった。ただ一笑だけして消えていった。海渡は不安が現実のものとなったことを確信し、吹雪たちを連れて基地に戻り、出撃準備に入った。

一方、作戦本部は混乱の最中にあった。『いずみ』からの定時連絡が数時間前から来ず、事前の作戦とは異なる航路を進んでいるではないか。本部からの呼びかけに一切反応しないが、沈んだわけではない護衛艦の動きに恐怖を抱いていた。少なくとも吉兆ではないことをその場の全員が理解していた。

「現場まで連絡機を出すしかない。」

「だが誰が行く?相手は化物だぞ。戦闘に入ったら着艦どころじゃなくなる。」

橘は幹部たちの議論を聞きながら考え込んでいた。出撃している部隊を天秤の皿に乗せ、もう一方の皿に乗せる対価を考えた。

「志ノ方准将を呼べ。」

慌てふためく連絡員たちを低い声で圧倒し、秩序を回復させつつ命令を実行させた。ほどなくしてやってきた海渡はすでに出撃準備を整えていた。橘は状況を説明し『かなた』での出撃を命じたが海渡は拒否した。

「それでは間に合いません。空軍の『ホエール』を貸してください。」

「それは流石に無茶だろう。それに艦娘の出撃設備はないんだぞ。」

「ですが、高速で部隊を輸送するためにはそれしかありません。作戦海域まで運んでくれれば良いです。」

海渡が何やら良からぬことを考えているのは確実だが、橘にはそれ以外の手がないように見えた。

「良かろう。手配してやってくれ。」

命令を受けた参謀が急いで部屋を飛び出していった。

「ありがとうございます。」

「それともう一つ。」

「なんだ?」

海渡は要求を率直に伝えた。さすがの橘も鼻白んだが、許可した。

「良いんですか大将。空軍が嫌な顔しますよ。それに、法務省も。」

「ふん、ずっとこっちに敵の処理を押し付けて来ていたのだ。でかい顔はさせん。」

橘は突き放すように言った。スクリーンに映る『いずみ』が予定海域よりさらに南下し、本土からの距離は二千キロメートルを超え始めていた。

 

 

 

「吹雪、一つ頼まれてくれ。」

そう言われて吹雪は大淀のところにいた。急な仮釈放に驚きを隠せない大淀に吹雪が怒気を露わにしつつ言った。

「出撃です。行きますよ。」

「いや、でも私は、そんな資格ありません。」

「海渡さんからです。上官命令が聞けないのですか?」

「私はあなたを売ったんですよ!?」

大淀は叫ぶように言った。吹雪の表情は変わらず冷たいままだった。

「ええそうですよ。でも海渡さんが必要だと言うのでそうしているんです。」

「それで良いと思うんですか?」

「思います。あなたのことは許していないけど、海渡さんが言っていることは間違っていませんので。」

大淀は引け目を感じつつ、吹雪に従って飛行場を目指した。

飛行場には空軍の大型輸送機『ホエール』が待機していた。双発のターボファンエンジンが音を立てて離陸を待っている。海渡たちは吹雪たちの艤装を積み込み、ついで空挺降下の装備を積んだ。

「まさか艦娘を輸送するなんて思っても見ませんでした!光栄です!」

巨大な音を立てるエンジンに負けじと副操縦士が声を出して挨拶をした。

「おれたちが降下したら、そのまま帰投してくれ。」

「イエッサー!」

年齢も精神も若いな、と海渡は思った。初めての艦娘との任務で浮足立っている。大丈夫なんだろうか。

「准将、お見苦しいところをお見せして申し訳ありません。」

操縦士の少佐がヘルメットを抱えながら海渡に話しかけた。

「いえ。空軍に艦娘は来ませんから、仕方ないかと。危険な任務ですが、よろしくお願いします。」

「ええ、必ず送り届けてみせますよ。」

互いに敬礼をして別れた。

そこへ吹雪が来て準備完了を報告した。そしてまさに海渡が乗り込もうとした瞬間、少し遠くで手を振って近づいてくる複数の影があった。みなリュックと手荷物で重装備に見える。先頭が川内だということに気づいたのは、確認のために梯子から降りてからであった。

「志ノ方提督、私たちも連れてって。」

「何を言ってるんだ。無理に決まっているだろ。」

「橘大将のご許可は頂きました。」

海渡はめまいがしたが、川内をはじめ、神通、那珂、睦月、如月の目は真剣だった。

「どうか、お願い致します。」

そう言って川内は手に持っていた荷物を地面へ置き、片膝をついて頭を下げた。他四人もそれに続いて頭を下げる。

「そんなことをされても無理なものは無理だ。」

それでも川内は動かない。

「海渡さん、川内さんたちも連れていきましょう。人数は多いほうがいいですし、お互いに知り合いなら連携も取りやすいはずです。」

「わかった。早く乗れ。最上、装備を追加で載せろ。」

海渡はここで問答していては間に合わないと判断し、川内たちを乗せることを決めた。

「吹雪さん、ありがとね。」

「いえ、仲間なので。」

川内の小声の感謝に笑顔で返した。川内は明雄のことが心配なのだ。私情は挟むべきではないことはわかっているが、吹雪は川内の感情を無視することはできなかった。

「離陸します!」

操縦士の掛け声と共にエンジンの音がさらに大きくなり、離陸した『ホエール』は一路『いずみ』へ向かった。

 

 

 

海渡たちが離陸して一時間経った頃、赤城たちによる航空攻撃は大戦果を上げており、敵の接近を許すことなく撃沈し続けた。長門を始めとした砲艦は対空防御に徹し敵機の接近を退け続けた。敵は残すところ半数となり、作戦の完遂が近づいていた。敵の攻撃が止んだタイミングを見計らい、何隻かの艦娘が近場の護衛艦で補給を行い前線に戻ることを繰り返し、安定した攻撃を維持している。

「本部に状況を報告せよ。」

中島は作戦中二度目の通信を作戦本部に入れたが、まさか作戦本部に届いておらず、本部からの通信も受信できていないことには気づいていなかった。なぜなら、

「南方に敵艦影を多数確認。用心されたし。」

などとそれらしい返答が届いていたからだ。中島はその報を受け、艦隊をやや北寄りに移動させつつ戦闘指揮所のレーダーを見ていた。レーダーの南側には何も映っておらず、どれほど先の南なのだろうかと考えた。南方棲戦姫の存在も考えたが、艦隊南側にいる艦娘たちがレーダーに映っている以上、その可能性もなさそうであった。ソナーも特に反応することなく順調そのもので、少し拍子抜けの雰囲気が護衛艦たちを満たしつつある。

「本当にこれで終わりか?」

「わかりません。しかし、艦娘の電探にもこっちのレーダーにも何も映っていませんね。」

まぁそうだな、と佑輝に相槌を打った。気の張り過ぎか、と軽く呟いて艦娘たちのバイタルサインを見ていると、艦橋から連絡が入った。

「艦橋から指揮所へ、護衛艦『ゆきなみ』の進路変更を確認。本艦に接近する角度です。」

中島はそれを了解し、『ゆきなみ』に連絡を入れた。

「『ゆきなみ』、艦隊陣形を維持せよ。浮き足立つな。」

ため息をついて通信を切った。浮かれすぎだ。そう思っていたときだった。

「艦橋から指揮所へ、『ゆきなみ』の前甲板VLSが開いています。」

近場に敵はいないはずだが、何をしているのか。無駄打ちを避けるようにさらに連絡を入れようとしたときだった。

「『ゆきなみ』主砲旋回!こ、こちらに向いています!!」

そして次の声は悲鳴だった。指揮所の空気が凍りついたが、

「回避運動!!全速だ!対艦、対空戦闘用意!!」

中島の声で解凍されて全員が動き出した。

「僚艦との連絡を密にせよ!他二艦は無事か!?」

「返答あり!無事です。」

「僅かな異変も見逃すな。いいな。」

「『ゆきなみ』発砲!着弾します!!」

左舷に砲弾が直撃して『いずみ』が大きく揺れる。さらに、

「『ゆきなみ』対艦ミサイルの発射を確認!目標は本艦です!」

「ファランクス迎撃開始!」

砲雷科が声を上げて状況の対処に努めているが、予想外すぎる事態にパニック寸前に見えた。

「本部へ通信。『ゆきなみ』の反乱を確認。指示を乞う、と。」

それを受けて通信士が連絡を入れたが、返答は「作戦は継続されたし。」であった。この状況を理解できるものはいなかった。

その光景は艦娘からも見えていた。最も後方に位置する天龍が『いずみ』を攻撃する『ゆきなみ』を見ていた。それは衝撃的で理解できなかったが、ともかく情報の共有を最優先にして全艦娘に通信を飛ばした。その通信を素直に理解できたものはいなかったが、長門は冷静に佑輝に連絡を入れた。

「どうなっている?状況は?」

「こっちが聞きたいね。」

「作戦はどうする?」

「天龍と龍田を残して現段階で中止して帰投しろ。二人には『ゆきなみ』のスクリューを破壊させる。ここから先さらに悪いことが起きるぞ。」

「承知した。」

長門はそれを全員に伝達し、帰投の準備に入った。天龍と龍田は『ゆきなみ』を止めるべく艦隊から離れて進路を北にとった。そしてさらに良くない知らせが入った。

「レーダーロスト!例の南方棲戦姫と思われます!」

「恐れるな。訓練を思い出せ。」

長門は浮足立った駆逐艦の艦娘たちを叱咤した。各々が電探とソナーの情報を共有し始めると対空電探に新しい反応があった。

「敵編隊と思しき影を確認!」

「対空戦闘用意!!空母から戦闘機は出せるか?」

「あと十分かかります。弾薬補給がまだです。」

「急いでくれ。」

赤城の声は悔しさで満ちていたが、出来ない時は出来ないのだ。長門はできる範囲での選択を取るしかないことは弁えている。しかし、母艦があのような状況で指揮系統に混乱が生まれている状況でどれほどできるのか、常に武人然としている長門でも不安に思うのであった。

天龍と龍田は『ゆきなみ』の艦尾に回り込み、スクリューもしくは舵を破壊しようと試みたが、後部ファランクスが火を吹き接近を阻まれた。

「味方に向かって撃ってんじゃねぇよ!」

天龍は回避行動をしつつ、主砲を三回撃ちファランクス本体を破壊して黙らせた。誰にも許可をもらっていない行為だったが、咎めるものはいなかった。こういう時に現場判断を優先しがちなのが天龍であったが、それによって作戦が失敗したことがなかったため、黙認されている面が強かった。

「天龍ちゃんアレ見て!」

「なんだよ龍田、騒ぎすぎだって。」

龍田が指さした先は、後部VLSが黒い塊で隆起し始めた『ゆきなみ』の姿だった。それが何なのかはわからなかったが、二つだけわかることがあった。

「龍田!逃げるぞ!何かまずい!」

「ええ、そうしましょ。」

逃げることと、『ゆきなみ』が完全に敵になったことだった。その連絡を長門経由で受け取った佑輝は押し黙った。状況が既に自分の制御下にないことを理解したが、どうしろと言うのだ。

「総司令官、『ゆきなみ』の撃沈を具申します。」

中島が悩んでいた判断を佑輝は進言した。

「だが乗員の救助はどうする?二百人を見殺しにするのか。」

「ですが、こちらがやられます。」

『ゆきなみ』の対艦攻撃により『いずみ』の甲板には大きな穴が二つ空き、火災も発生している。艦は生きているが、まだ、生きているだけだった。

「わかった。先行する『あさぎり』『あまぎ』に伝達、『ゆきなみ』への対艦攻撃を開始せよ。」

中島は苦渋の決断を下し、命令が伝達された。各艦が攻撃態勢に入ったところで艦橋から連絡が入った。

「前方の『あまぎ』の格納庫に異変発生!な、何かが膨らんで格納庫を食い破っています!」

見張員はかろうじて意識を保っているような声で叫んだ。戦闘指揮所内は誰一人例外なく絶望に満たされた。

「海渡はこんな状況から生き残ったのか。一体どうやって。」

佑輝の独語は誰にも聞こえていなかった。

「『あまぎ』格納庫に深海棲艦を確認!さらに後部VLSが動いています!」

「対空戦闘用意!!急げ!!」

中島の命令は的確だったが、伝達されなかった。現実の急激な変化が彼らから魂を奪ったようだった。自分は本当に命令を口にしたのだろうか、と錯覚するほどだった。恐怖に支配されている感覚が強く、どうしようもないと本能で理解して諦めているようだった。

艦娘たちの状況も悲惨そのものであった。敵空母ヲ級を全滅させ、残っているのは軽空母クラスが数隻のはずなのに敵機編成は二百機を超え、赤城、加賀、飛龍、蒼龍に集中的に襲いかかった。砲艦による全力の迎撃でもなお半数以上が空母に群がり、餌に群がるハゲタカを想起させる。回避運動の所為で戦闘機の発艦ができず、効果的な対応ができない以上耐えるしかない。このような状況は四人とも初めてであり、技能はあっても絶望的な思考がそれを押しつぶし体を思うように動かせないようにしていた。そしてついに被弾した。まず蒼龍に魚雷が二発、赤城と加賀に一発、そしてさらに敵機が迫ってきた。回避運動のため姿勢を整えて敵編隊を見るが、そこでおかしなことに気づいた。

「これは艦載機じゃありません!!」

赤城は叫んだ。爆撃機が水平に向かって跳んでくる。反跳爆撃と確信したが、魚雷投下と認識していた体は即座に反応できなかった。編隊が一斉に投下し、爆弾が水面を跳ねながら空母群に襲いかかる。結果赤城に二発、加賀に三発、蒼龍に一発直撃し大きな火柱が上がった。三隻とも大破状態になったが、赤城は生きていることに感謝した。

「長門さん、すいません、こちらは、もう。」

「構わん。生きて帰るぞ。」

「はい。加賀さん、飛龍さん、蒼龍さん、大丈夫ですか?」

それに対し、飛龍は被弾なし、蒼龍は大破ながらも動けることを報告された。だが、加賀から反応がない。恐怖を覚えながらもう一度問いかける。

「加賀さん?」

「すいません、右腕を、失いました。止血をお願いします。」

血の気がひいた。でも、生きている。大丈夫だ。大丈夫。赤城は自分に何度も言い聞かせた。赤城は加賀の元へ行き、急いで止血して加賀に肩を貸して移動を開始した。さらに敵機の接近を感知した時、全艦隊、全艦娘に途切れ途切れながら通信が入った。

「こちら第零遊撃部隊、これより撤退を援護する。」

 

 

 

作戦海域近づきいよいよ降下するという時、海上の状況が想像を超えて悲惨なものであったため、急遽作戦を変更した。

「まず、吹雪と最上が先に降りて敵性護衛艦を無力化しろ。乗員の救助が可能な場合のみ救助を認める。次に大淀が降りて艦娘たちを『いずみ』まで案内しろ。お前の通信能力ならできる。最後に、北上、鳳翔、川内、神通、那珂、睦月、如月は長門以下艦娘の撤退を援護しろ。前面にでて対空戦闘だ。北上は魚雷を流して牽制したあと、艦娘たちの退避を手伝え。特に駆逐艦の娘たちが泣き出さないようにな。」

「うげぇ。マジめんどい。」

「いいな?」

「ういー。」

北上はなぜか年下に人気があるのだが本人はそれを嫌がっていて、基地でもちょっとした騒動になったりする。だが、今はその人気が役に立ちそうなので利用することにした。

「志ノ方提督はどうするんですか?」

「おれも降りるぞ。」

「でもカッターも何もないのに、どうするんですか?」

「まぁ色々とな。死にはしないから大丈夫だ。みな自分の任務に集中してくれ。」

川内の質問を適当に誤魔化した。それが終わる頃に降下ポイントまで来たことを操縦士が教えてくれた。海渡は対空迎撃されたら困るなと思い、海上に一報を入れた。

「こちら第零遊撃部隊、これより撤退を援護する。」

「なんか正義のヒーローみたいですね。」

「それは生きて帰るまで取っておけ。」

那珂が少し浮かれたのを制しつつ、全員が装備の最終点検をして後部ハッチを空けた。出撃時と比べて幾分晴れている。

「お気をつけて!」

「ありがとう。そちらこそ無事に帰ってくれよ。」

そう言って事前に打ち合わせした通りの順に飛び降りた。それぞれが自分の進路について別れる。吹雪と最上はいつもよりも艤装が重いことに違和感があったが、重い分だけ頼もしさも感じていた。

「これ、試験的に作ったので持っていってください。」

艤装を工廠に取りに行った時、明石はそう言って強引にその武装を荷物に入れた。

「明石さん、ありがとうございます。」

吹雪はそう言って艤装にマウントされたそれを外して両手で構えた。電磁力で弾を撃ち出す所謂携帯式レールガンである。対物ライフルほどの長さがあり、通常の人間にはそう簡単に扱えるものではないが、吹雪のような強化人間には容易なことだった。降下中の空気抵抗を気にする様子もなく、降下態勢のまま射撃した。金属と金属が激しくぶつかるような音が辺りに響き渡り、弾が『ゆきなみ』の主砲を貫いた。その瞬間主砲は沈黙したが、瞬時に前甲板VLSが動き出し吹雪を迎撃しようと艦対空ミサイルが打ち出された。吹雪はレールガンを再装填しつつ、正面から来るミサイルを回避して、着地直前にパラシュートを開き前甲板に着地した。即座にパラシュートを外して自らの主砲を使って前部ファランクスを破壊した。

「誰かいませんか!」

『ゆきなみ』に向かって叫んでみるが全く反応がない。内部に通じる水密扉をゆっくり開けて中を見ると、電力が完全に落ちているのか真っ暗である。通路の先を見ていると、水の滴る音が近づいてきた。後ろ跳びして主砲を構えると、扉を超えて出てきたのはタコの足のようなもので、のたうっている。少しの吐き気を覚えつつ、ここはだめだ、と断念して外側からよじ登って艦橋の中を見た。中は肉と血が一面に飛び散っており、乗員の生存は絶望的なことを悟った。そのまま乗り越えて艦尾方向へ移動する。そこから見える天龍たちが見た後部VLSの異様な黒い塊は脈を打っている。吹雪は主砲を何度か撃ち、血に似た油が周囲に飛び散ったのを確認したが、依然として『ゆきなみ』は動いており、致命傷には至ってないようだった。眺めていると、後部の水密扉が吹き飛び、前甲板で見た軟体生物の足が複数生えてきて、まるで外に出ようともがいている。吹雪は少しだけ考えて海渡に連絡を入れた。

「海渡さん、『ゆきなみ』の生存者は、絶望的になりました。撃沈許可をいただけますか。」

「許可する。」

それを受けて吹雪は『ゆきなみ』から飛び降りて海面に立ち、魚雷を一斉に発射して『ゆきなみ』を破壊した。魚雷を受けた『ゆきなみ』は、キールが即座にへし折れあっさりと『ゆきなみ』は海中に没した。

「あんたが吹雪か。艦娘が艦上に立つなんて初めてみたぜ。」

「初めまして。」

天龍と龍田は遠巻きに吹雪が『ゆきなみ』を沈めるところを見ていた。

「こんにちは吹雪ちゃん。私たちの尻拭いさせてごめんね。」

「大丈夫です。こんなこと初めてでした。」

「だろうな。おれもだ。せめて安らかに眠ってほしいもんだが。」

既に完全に沈み泡と渦だけが残っている海面を三人は少しの間眺めていたが、気持ちを切り替えて赤城たちの支援に向かった。

 

 

 

吹雪が『ゆきなみ』に"着艦したころ"、最上も『あまぎ』後方一キロメートル程度に着水した。最上が明石からもらった武装は力の塊だった。巨大な砲身に吊り下げて持つ形の取っ手と引き金。明石曰く「艦娘換算なら二十一インチ単装砲ですね!」らしく、その見た目は巨大な鎚を想起させなくもない。持ち手の下にある弾倉がエイのように広がっているのが少し邪魔だったが、それ以外は最上の好みであった。

着水し即座に射撃体勢に入った。海上で腰を落とし、巨砲側の足を前に少し出して引き金を引いた。爆音と共に駆動音がして排莢されて空薬莢が海中に没した。弾は音速で飛翔して『あまぎ』の格納庫を直撃し、中にいたであろう深海棲艦ごと反対側の壁を貫いた。

「なんで片手で運用する想定なんだ。」

この巨砲、なぜか持ち手が片手分しか存在せず、思わず悪態を付きながらもう一発発射した。今度は『あまぎ』の後部VLSからはみ出ている黒色の物体を狙い、狙い通りに命中して貫通した。だが、あまり効果はなさそうだった。第三射のため構えた時、後部VLSが開きミサイルの発射態勢に入ったため、即座に主砲に三式弾を装填して一斉射した。それは『あまぎ』の直前で弾けて右舷スパイレーダーを全損させ、火器の精密射撃を不可能にした。放たれたミサイルはそのままどこを狙うこともなく飛び去った。

「危ない危ない。」

ここで最上は少し迷った。生存者の確認を念入りに行うかどうか。正直に言って『ゆきなみ』がそうだったように『あまぎ』も絶望的だろうと思うし、護衛艦や艦娘の撤退支援で時間がなかった。最上は吹雪のように『あまぎ』に登れないため、念のため『あまぎ』を一周して甲板に出た人がいないかどうかだけ見ようと判断し、約五百メートルの距離をとりながら移動した。外側にはほぼ外傷はないのに一体どうしてこんなことに、と思いながら左舷に回りこんだとき、後部甲板の水密扉が開いた。最上は主砲を構えて待機する。吹雪からの連絡ではタコみたいな何かが出てきたらしいが果たして――。数秒して一人の男が勢いよく飛び出し、その後ろを吹雪の連絡通りの化物が出てきてのたうった。男はそのまま海面に飛び降りたが、直後に『あまぎ』が動き始めた。

「まずい!」

最上は急いで男を引っ張り上げて『あまぎ』から離れ、生存者の有無を聞くと「自分だけだ」と返されたので、海渡に一報を入れて魚雷を撃ち『あまぎ』を沈めた。『ゆきなみ』と同じようにキールが折れて沈んだ。

「ありがとう。助かったよ。」

背負った生存者が弱い声でお礼を言った。

「どういたしまして。すごい強運だね。」

「ああ、ほんとにな。」

男は力なく呟いて気絶した。あの艦内で一体何が起きていたのか。化物がのたうっていたのを思い出して寒気がしたため、素早く離れて男を『いずみ』に収容した。そして、最上は赤城たちの支援に向かった。

 

 

 

「中島中将、こちら志ノ方准将です。聞こえますか?状況を教えてください。」

海渡は北上たちと着水して『いずみ』との連絡を取った。海渡が"着水"したことに川内たちに大きな衝撃が走ったが、即座に任務のための行動に移った。

「正直こちらでも把握できていないが、本艦は『ゆきなみ』、『あまぎ』からの攻撃を受け被害はあるが、艦は生きている。『あさぎり』は運よく無事だったようだが、こちらに来るまで十分程度かかる。」

「了解しました。これより撤退支援をします。『うみどり』は何機残ってますか?」

「二機だ。それをどうするのだ?」

「艦娘の収容に使います。指定ポイントまで二機でピストン輸送をお願いします。それが終わり次第『あさぎり』を先頭に海域から離脱してください。」

「わかった。助力に感謝する。」

中島から抵抗があるかと思っていたので、交渉があっさり済んだことに驚いたが、この状況ではそのような余裕もないか、と海渡は内心思った。

海渡は両手を海面につけて目を閉じ、力を使った。徐々に脳内の索敵範囲が広がっていき、最終的に半径百キロメートルに達した。以前よりも負荷が軽くなっていることに喜びと悲しみの両方の感情が湧き出たが即座に蓋をして状況を整理した。

敵の位置はここから真東に約四十キロメートル。敵の艦種は不明艦一、南方棲戦姫一、戦艦二、空母一、軽空母一、巡洋艦三、駆逐艦六、周囲に潜水艦なし。つまり、現状は航空攻撃さえ凌げば何とかなる。それを艦娘全体に伝達した。しかし、それと同時に敵が動き始め、一直線に海渡を目指す進路をとった。

「まずいな。いや、逆にチャンスか。北上、指定するポイントまで行け。おれの合図に合わせて魚雷を流すんだ。」

「ラジャー。」

「他は作戦部隊の殿について第二次攻撃に備えろ。」

そう言い終わったとき、敵の空母群が艦載機を発艦させたことを脳内で感知して鳳翔たちに伝達した。だが、不明艦から出る艦載機の数が明らかに多く、空母と軽空母の発艦が終わった後も、不明艦だけは艦載機を出し続けていた。。

「こいつもあれの同類か。」

敵艦載機は海渡ではなく、撤退する部隊を狙っているようだった。

「鳳翔、敵航空機がそっちに向かっている。数は、百機程度だ。頼んだぞ。」

「はい、承知しました。」

その連絡を受け、鳳翔と飛龍を中心に輪形陣に移り、艦載機を発艦させた。今回の鳳翔の装備は防空戦闘を見越して全て戦闘機である。搭載数が少ない鳳翔であったが、演習では飛龍と蒼龍を相手にして制空権を取っているほどの練度があり、多少の不利は補えるだろう。

「着いたよ海渡さん。」

「よし、方位零、三、零に連続で流せ。そしたら迎えに来てくれ。自分で動くのは遅すぎる。」

「了解。」

北上からの連絡を受けて海渡は命令を出し、北上は言われた通りに計五十本の魚雷を撃ち、海渡を迎えに行って曳航を開始した。敵航空機の群れが鳳翔たちに到達し、激しい対空戦闘が発生した。神経をすり減らしたが、鳳翔の戦闘機と川内たちの対空攻撃で大半の艦載機が海中に没し、敵の戦果は如月への至近弾のみだった。敵の攻撃が失敗した頃、北上の魚雷の群れが敵に到達した。回避運動をしていたようだが、戦艦一、軽空母一、駆逐艦四を撃沈、戦艦一、巡洋艦三を大破という大戦果だった。

「とりあえず足止めはできている。このまま離脱するぞ。」

一路『いずみ』へ向かった。

 

 

 

「固定完了。お願いします。」

大淀は指定ポイントで艦娘を『うみどり』に乗せる任務についていた。吹雪のように『うみどり』に直接乗れないため、懸垂下降用のロープで艦娘をスキッドに固定して運ばせた。とにかく負傷者を優先して送ることを考え、第一陣に赤城、加賀、蒼龍、日向を乗せた。航行に支障がない場合は自力で『いずみ』まで向かうように言い、第二陣を待った。

「あなた、なんでここに?」

到着した陸奥は大淀の顔を見て驚いた。

「志ノ方提督に呼ばれまして。」

「あの人は本当に…。今はやめておきましょう。」

陸奥は何か言いかけたが、考え直したように口を閉じた。陸奥も被弾が凄まじく、主砲二基が大破していた。

「次、陸奥さんどうぞ。」

「遠慮するわ。航行には支障ないもの。自分で行くわよ。」

「わかりました。」

そう言って陸奥は『いずみ』との合流ポイントへ向かった。その後、伊勢、高雄、長良型三隻と駆逐艦十隻の艦娘を『うみどり』に乗せて輸送は完了した。

「どう?終わった?」

そこへ吹雪と最上が来た。怪我人の輸送が完了したことを受け、みな安堵した後、全員が『いずみ』へと向かった。

 

 

 

全体の位置関係は最も西に『いずみ』が位置し、陸奥、愛宕、天龍、龍田の四隻、吹雪、最上、大淀の三隻、北上と海渡の二人、そして、飛龍、鳳翔、川内、神通、那珂、睦月、如月の七隻の順に東方向に位置している。敵は北上の魚雷による損傷が激しいのか、海渡に対する追跡を止めたようだった。とは言え、いなくなる様子はなく不気味に距離を取った位置で静止している。

『いずみ』では順次収容作業が行われ、陸奥たち四隻の収容が開始された。吹雪と最上は『いずみ』の周囲の哨戒行動に入り、大淀は収容の列に加わった。そこへ北上と海渡が来たが、二人は収容作業の位置から見えない位置に移動して海渡を隠した。

「鳳翔、敵の航空機が来る。タイミング的に最後だ。これをやり過ごして撤退だ。」

「はい。」

そう言って『いずみ』から少し距離をとって二度目の対空戦闘に入った。敵の航空機が学習しているのか一度目よりも回避されたが、それでも敵航空隊を大きく削ることに成功した。敵航空機が上昇し、帰路につくかと思われた時、飛龍が一人飛び出して攻撃隊を発艦させた。

彼女は待っていたのだ。海渡から敵の位置を共有された時、赤城たちの復讐をするとずっと考えていた。そして、それが今だ思った。「飛龍!止めなさい!」

鳳翔は大声で制したが彼女は無視した。だが、その瞬間帰路につくと思われていた残りの敵雷撃機と爆撃機が一斉に飛龍に襲いかかってきた。そして、対空戦闘の連続のせいで川内たちは次々と弾薬切れを起こして対空火力が低下した。発艦作業をしていた飛龍は完全に無防備だった。雷撃隊を一隊出したところで、発艦を中止して回避行動を行ったが、突出したところを半包囲の反跳爆撃で狙い撃ちされては無傷で済むわけはなかった。命中弾二発を受け、艤装の弓と矢筒が吹き飛び大破した。足元が沈み始め死を悟った時、さらに追撃の爆撃機が高空から侵入し、飛龍に投弾した。飛龍は身動きができず、頭上に直撃弾を受け爆炎が辺りを包んだ。しかし、飛龍は自分がまだ五体満足なことに安堵した。鳳翔の腹部と左腕がないことに気づくまでは。

「無事、ですね。良かった。」

鳳翔は飛龍を庇うために防御姿勢を取らなかったため、ほぼ無防備で直撃弾を受けた。その場に崩れ落ち、飛龍に向けて微笑む。飛龍はパニックになり言葉が出なかった。

「早く行ってください。生きて、私の分まで。」

しかし飛龍は動けなかった。聴覚が死んだように音を無視し、現実を受け入れきれず、脳がパンクしているようだった。

「川内さん、飛龍さんを、早く。」

吐血して言葉を詰まらせた。川内は数瞬だけ悩んだが、鳳翔に従った。

既にほぼ全員の収容は終わっており、残すのは鳳翔たち七隻であった。川内は飛龍を引っ張り、神通、那珂、睦月、如月を叱咤して『いずみ』に乗せた。

「鳳翔、待ってろ。」

「海渡さん、だめです。来ないでください。今来たら、みんなを巻き込んでしまいます。」

海渡は反射的に言ったが、そんなことはわかっている。何も言わずに置き去りにすることに耐えられなかった。

「海渡さん。」

「なんだ?」

「愛してました。ずっと。あなたが、好きでした。」

「…知っている。」

「はい、ありがとうございます。幸せでした。どうか、幸せになってください。」

海渡は言葉に詰まった。返答できない。そこへ敵機の接近と収容完了の報告がほぼ同時に齎された。

「全艦両舷全速!」

中島の命令が伝達され、『あさぎり』と『いずみ』は急速に速度を上げ、鳳翔と敵から離れていった。

「吹雪さん。」

「はい。」

「海渡さんをお願いしますね。」

「はい。」

吹雪は涙が溢れた。北上も最上も声を上げずとも悔しさと悲しさが溢れていた。

「海渡さん、最後に、わがままを聞いてください。どうか、名前を呼んで。」

それと同時に鳳翔は咳込み、さらに血が出た。視界がぼやけ、急に眠くなってきた。

「翔子、今まで、ありがとう。」

海渡はあらゆる感情を強引に押し付けて鳳翔の願いに答えた。それを聞いた鳳翔は心の内に温かさを感じた。

「はい。こちらこそ、ありがとうございました。」

最後の返事は海渡に届いただろうか。どうか、届いてほしい。

そこへ敵の雷撃機と爆撃機が到来し、過剰なほどの攻撃を鳳翔に浴びせた。鳳翔の信号を喪失したことがスクリーンに伝達された。

状況からして生存者が出たのは奇跡のようなものだったが、護衛艦二隻とその乗員のほぼ全てと鳳翔の喪失は、埋めようのない穴を海軍全体に穿った。

 

 

 

南西海戦と称されるようになったそれは、護衛艦二隻、将兵約六百人を失う大敗であった。生存した者の方も無傷ではなく『いずも』『あさぎり』は中破、艦娘の八割は負傷という状態で赤城たちは致命的な損傷により数ヶ月先まで出撃不可能になり、第一線を退き、代わって翔鶴、瑞鶴、飛鷹、隼鷹らが担うことになった。連戦連勝から一変したそれらの情報は国民たちに大きな衝撃と恐怖と不安を齎し、国家全体に暗い影を落とした。

彼らが本土に帰還した数日後、盛大な慰霊祭が行われ軍部はみな喪に服したが、鳳翔の戦死は公表されず、公に弔われることはなかった。彼女を知る者たちはそれぞれに怒り、悲しんだが、それ以上に大敗に対する精神的負荷の方が強かったため、外に向かって抗議するような気力はなかった。艦娘たちは自分たちの置かれている立場を再認識したのだ。「自分たちは死と隣合せの仕事に就いているのだ」と。特に、赤城、加賀、飛龍、蒼龍たちは眼前まで死が迫り、死神に鎌を振り下ろされることさえ幻視したのかもしれない。帰還後、病院のベッドの上で何度もうなされ、悲鳴を上げていたことが記録されている。その中でも飛龍の症状は深刻であった。自分の目の前で、自分の責任で鳳翔を死なせたことが頭に克明に刻まれ、彼女の精神を蝕んでいた。

遊撃部隊の面々も精神的に沈んでいたが、空母たちほどではなかった。直接的原因が明確に自分たち以外にあるということが多少の救いになっていたのかもしれないし、金剛たちを失ったときと違い、終わったあとの状況はさほど過酷ではなかったため、受け入れる余裕があったのかもしれない。とはいえ、北上は部屋に籠りきりになり、最上は一応執務室に来るもののぼんやりしているし、吹雪は無理をして普通を装っているのがまるわかりであった。海渡は慰霊祭に参加したあと、様々思考して吹雪たちと共に二週間の休暇をとった。海戦にて赤城たちを救った英雄たちが基地を留守にするというのはちょっとした衝撃を与えた。

そんな中、ささやかな幸福が芽吹いたところがあった。慰霊祭後に明雄は川内を執務室に呼び出した。夕日が差し込んだ部屋はとても静かであった。

「川内、命令により参りました。」

執務室に入り敬礼をする。執務椅子に座る明雄は少し厳しい表情をしていた。

「一つ聞きたいことがあるんだが、なぜ志ノ方准将と共に戦場に来たんだ?待機しておくよう言ったろ。」

「それは、志ノ方提督の救出作戦に少しでも戦力が必要かと愚考した次第です。」

川内は本心を隠した。とは言え嘘ではない。形式的すぎる回答に、明雄は違和感を覚えた。ゆっくりと立ち上がり、川内へ歩み寄る。大きな体が川内にかかる日差しを遮った。

「でも、先輩はお前に命令したり知らせたりはしていないよな?必要なら先輩は声をかけるはずだから。こんなこと言うのはアレなんだが、何かあったらどうするんだ。」

明雄は悩みながら川内に話す。その顔は怒っているというより心配性な兄と言った雰囲気であった。川内はその話を表情を変えることなく聞いていたが、明雄の表情と態度に触発されて感情が滲み出した。

「それはこっちの台詞です。」

「なに?」

川内は勢いよく明雄に飛びついて力一杯抱きしめた。それを皮切りに涙が止まらなくなった。

「心配だったんだよ。本当に無事で良かった。」

明雄はこのような経験は初めてで困ってしまった。だが、さすがに川内の感情を察せないほどの無神経でもなかった。明雄も優しく川内を抱きしめた。

「その、色々とありがとう。」

そして、軽く口付けを交わした。

神通と那珂はそれを執務室の扉越しに聞いていた。川内の想いが届いたことに二人は安心して執務室を後にした。川内は隠しているつもりだったが、二人にはバレていたのだった。

 

 

 

次の日の朝、海渡は外出の準備をしていた。彼は休暇をただ休んで過ごす気はなかった。申請したあとで三週間にしたほうが良かったかもしれないと思うほどには予定を詰めていた。海渡は自身の気分があまり沈んでいないことに驚いていた。金剛たちのときと違い、最後に言葉を交わすことができたからだろうか。彼女の死を無駄にしないために、やるべきことをやらねばならない。

吹雪と共に執務室で最後の準備をして部屋を出た。そこへちょうど川内が来た。たまたま通りかかっただけのようで、さっと挨拶をして去って行ったが、去り際に、

「吹雪さん、私やりました。」

「おめでとうございます。」

と二人が笑顔で言葉を交わし、海渡は不思議に思ったが「まぁ二人に何かあったんだろう」くらいに思って頭から追い出した。

休暇を取ることは事前に吹雪たちに知らせていたはずだが、北上は一向に部屋から出てこようとしなかった。吹雪と最上を自室に待たせて北上の部屋のインターホンを慣らすと、一分程度物音が聞こえた後にようやく扉が開いた。肌着姿で出てきた彼女は、髪はボサボサで顔も洗っていなさそうなほどに自堕落な様子だった。

「なに?」

「休みとって出かけるって言っただろ。」

「ああ、そうだっけ。」

「…とりあえず準備するぞ。」

海渡は彼女の部屋に入った。カーテンを締め切っている上に明かりの一つもつけていない。海渡はカーテンを開けて部屋に日差しを入れると、脱いだままの服が床に散らばり、テーブルの上には片付けられていないインスタント食品が並んでいた。海渡はそれを片付けながら北上に準備するように言ったが、相変わらず聞いていないようだった。その様子を見てため息を付くと、彼女はポツリと一言漏らした。

「お風呂入れて。」

「入ってないのか。まさか帰ってきてから一度も?」

「うん。入るのだるいから、入れて。」

海渡は「はいはい。」とため息混じりに言うと、着替えを準備して北上を浴室に連れて行った。シャワーの温度を確認し、北上を椅子に座らせて髪を洗う。

「あー、懐かしいー。やっぱ人に洗ってもらうのはいいねー。」

北上は表情を緩ませた。北上は落ち込んだ時によく海渡に世話をさせていた。彼女なりの甘え方だった。

「もうないと思ってたぞ。全く。」

「なんだかんだ言ってやってくれるんだから優しいねえ、海渡さんは。」

「お前らの世話は慣れっこだよ。さ、流すから上向け。」

「ういー。」

髪についた泡を一通り流して、海渡は浴室を出た。

「体も洗ってよ。」

「断る。さすがに自分でやってくれ。洗面所にいるから。」

「ケチだなあ。」

そう言って北上は浴室のドアを閉めて体を洗い始めた。

「海渡さんは元気だね。寂しくないの?」

「寂しいさ。だがそうも言ってられない。前と違って、待っているだけではまた誰か死なせる羽目になる。」

北上は体を洗う手を止めた。

「そうだけど、あたしは、まだ。」

「お前たちは無理はしなくていい。自分のペースでやればいい。」

だが、自分は無理してでも立つのだ。彼女たちの先を歩くために、彼女たちが迷った時の道しるべになるために。

「ありがと。」

「じゃあ外で待ってるぞ。」

「服も着せてよ。」

「お前は幼児か。下着は自分で着ろよ。」

「ういー。」

洗面所から出て着せる服を見繕った。下着姿で出てきた北上にその服を着せて、髪を乾かし、とかし、結んだ。施設にいた時に全員の面倒を見ていた彼にとっては慣れたものだった。その後、外出の準備をして吹雪たちと合流して基地を出た。

 

 

 

海渡たちが向かったのは三ヶ月前まで住んでいた島だった。茂たちに会い、『はるか』乗員と金剛たちの墓参りをするためである。墓参りとは言え仰々しく喪服を着ていくことは茂たちに余計な心配をかけてしまうと考え、海渡だけフォーマルな服を着て、吹雪たちには派手すぎない程度の私服を着てもらった。墓花を買ってから連絡船に乗り、島まで数時間の工程である。本土は曇天であったが、徐々に雲が流れ晴れていった。向かっている間、彼らの中には様々な感情が体内を渦巻いたが、大半は郷愁の感覚であったに違いない。三年間だけとは言え、吹雪たちにとっては初めての施設外の普通の暮らしだったからだ。吹雪たちにとってはそこが"実家"なのであった。

島の小さな港につくと、出口で茂と詩織が待っていた。海渡は事前に茂にだけ戻ることを伝えていたからだ。鳳翔が亡くなったことも伝えたが、彼の反応は無言だけであった。

「やっと来たか!これで詩織のお礼も存分にできるってもんだ。」

「お久しぶりです。色々遅くなってしまいすいません。」

「いいよいいよ。みんな待ってるぞ。雪奈ちゃんたちも来るだろ?」

「ああ、いえ、彼女たちには別にお願いしていることがあるので、私だけ行きます。」

「そうか。それは残念だな。」

茂はあっさり引き下がった。鳳翔の件を知っているからだろう。海渡は内心申し訳なく思った。吹雪たちを先に家に戻らせ、海渡だけ茂たちについて行った。

集落にある公民館まで徒歩で約十分の距離である。昼前の少し強い日差しを浴びながら、整備された道を話しながら歩いていく。海渡たちがいなくなった後も住民はみな元気なようで、翌日には漁も再開し、島はいつもの日常へ戻っていたようだ。住民たちに多少の聞き込みがあったようだが、そこまで大規模なものではなかったらしいことを聞き、海渡は胸を撫で下ろした。吹雪の拉致の件といい、正直何をしてくるのか予想もつかない。大泉を始めとする研究員の熱心さは海渡を悩ませ続けていた。

公民館に着くと、島の漁師の殆どが待っていた。海渡は予想よりも派手に開催されることに驚いたが、素直に受け入れることにし、茂の隣の主賓席に座った。内容は殆ど宴会で、真っ昼間から漁師特有の激しい酒盛りであり、あっと言う間に参加者の顔が赤くなった。海渡は多少付き合いで飲みつつも、二杯目をもらうことはなかった。漁師たちはノリの悪さをいじったが、海渡としてはむしろ申し訳なく思うのであった。それが少し落ち着いた頃、漁師仲間と派手に飲み合っていた茂が海渡の隣に戻ってきて、落ち着いた声で言った。

「すまねぇな。なんだかんだ言って騒ぎてぇだけなんだ。」

「いえ、大丈夫です。賑やかでいいじゃないですか。」

海渡は笑顔で返した。この島に住んでいた時にも何十回と見た光景だ。誰かが船を新しくしたり、誰かの子供が本土の学校に合格したり、その度に島中で祝っていた。

「詩織のこと、本当に感謝してる。あいつらも反省してるみてぇで最近は大人しくしてるわ。」

「それは良かったです。」

海渡は苦笑混じりに返した。詩織も含めて島の子どもたちは元気が有り余っているタイプで、それが大人しくしている様子を想像すると何だか可笑しさを感じるのだ。

「その、なんだ、翔子さんのこと、残念だったな。」

「ありがとうございます。ただ、軍人というのはそういうものですから、本望ではなかったにしても彼女もそれなりの覚悟はしていたと思います。幸いなことに、彼女のおかげで多くの命が救われました。」

「そうか、その分長生きしねぇとな。」

「ええ、そのつもりです。」

場にそぐわないしんみりとした空気が流れた。茂はそういうのが得意な性格ではなかったが、惜しむべきは惜しむのだ。

 

 

 

橘は薄暗い部屋でガラス越しに『あまぎ』唯一の生存者の証言を聞いていた。調査員の質問に意外と明瞭に答えており、彼の精神力の強靭さをうかがえたが、それでも『あまぎ』のこと思い出そうとするのは苦痛なようで、用意された水に何度も口をつけて飲みきっていた。

「つまり、敵は艦尾側から入ってきたと?」

「たぶん。正確にはわかりません。艦尾の乗員との連絡が取れなくなり、それを見に行った時には格納庫はクモの巣のようになっていて、周りのものを何でも捕まえて巨大化していく様子を見ました。」

小さな声だったが、明瞭だった。

「それはいつ頃でした?」

「えっと、『いずみ』が攻撃を受ける前だったかと思います。指揮所に戻った後にその連絡が入っていたような。」

周囲の国防省の官僚や研究員たちが交わす議論を聞き流しながら、橘は持っているコーヒーを飲んだ。

「その後はどうでした?」

「後ろから徐々に連絡が途絶えていったと思ったら急に艦橋も静かになって、そしたらもうみんなパニックになりました。後はみんなひたすらに逃げていて、気づいたら私は外に出ることができて、最上中尉に助けてもらえました。」

「その最上中尉が、あなたが出てきた途端にその通路からタコのようなものが生えてきたという話を聞いているのですが、何か気づいたことはありますか?」

「そういえば、後ろから何かを引きずるような音に追いかけられていたような気がします。艦内の電力が落ちていたので、それが何かを目視することはできませんでしたが。」

「そうですか。ありがとうございます。」

橘は重要な情報を得られなかったことに多少の時間的に無駄を感じたが、とりあえず海渡に持ち帰る話が増えたことは確かだった。結局のところ、海軍の中では彼が一番奇怪な敵との戦闘経験が多く、彼の私見に頼らざるを得ないことがあった。もちろん研究所の方が詳しいこともあるだろうが、大泉の顔を思い出すと共有しようとする意思は消え去るのだった。どうせそのような義務もないのだから。

 

 

 

海渡に言われ、先に家に向かっていた吹雪たちは道中の砂利道で思い出を話しながら歩いていた。吹雪は海渡から渡された墓花に奇妙な重さを感じつつ、割れ物を扱うような神経になっていた。木漏れ日の間を進むうち、たった数ヶ月前なのにどこか懐かしさを感じていて、約三年間住んでいた家の姿を想像した。島の外周を沿うように作られた道から家が見えるようになると、思わず感嘆の声が漏れた。

家の前の畑は雑草が生い茂り、野菜のほとんどは虫や鳥に食い荒らされた後がある。植物が家に這うように絡んでおり、空き家の末路がどのようなものであるかを表していた。扉はほとんど固着していて、開けるのに多少の苦労があった。

彼らが大淀らに連行されたあと、彼らの家は隅々まで調べ上げられ、艦娘や軍隊に関する全てのものは回収された。要するに全てである。遠慮の欠片もなく踏み荒らされていて三人は怒りを覚えたが、後から諦めの感情も湧いてきてため息と共に怒りは鎮火された。とは流石に靴を脱いで上がる気にはなれず、少し逡巡してから靴を脱がずに家に入った。台所、居間、廊下、寝室と懐かしさを感じながら見て行く。一体何を探していたのか判断に悩むような有様で、皿一枚すら残っていない。

「僕らから放射線が出てるとでも思ってたのかな。」

その過剰なまでの回収具合に最上が嫌味を漏らしたが、後になって自分たちの痕跡を完全に消そうという意図が感じられるようになると、大なり小なり復讐を考えたのだった。自分たちが今生きていることを否定しようとする様は、暗い感情を煽った。艤装をしまっていた地下に至っては、扉は破壊された岩の中の空洞に成り下がっている。ネジや釘の一本もない様は苦笑すらも出なかった。家の惨状に辟易した彼女たちは、当初の予定だった家で自堕落に待つことを止めて、先にお墓参りをすることにした。

家から少し歩いたところに岬があり、墓はその少し手前にある。近場にあったそれらしい形の石を削って作ったそれは墓石にしては無骨すぎたが、彼女たちには重要ではなかった。遺骨どころか遺品すらないが、それでも『はるか』乗員と金剛たちの墓なのである。

吹雪が花を添え、三人は手を合わせた。ここに鳳翔が加わってしまったことを改めて認識させられ、三人はそれぞれに悲しみが体外に表れた。

「海渡さん、この後どうするんだろう。」

最上がポツリと漏らす。鳳翔を失ってもなお戦うのだろうか。あまり深い意味はないささやかな疑問だった。

「このまま続けるらしいよ。何か考えがあるみたい。なんか変にやる気出していた。」

「そっか。じゃあ僕たちもついていかないと、だね。」

「そうですね。」

吹雪は短く返して同意した。彼がどんな選択をしようともついていく。それは三人の中で決まっていることだった。反対など最初から浮かびようもない。彼のいるところが、家なのだ。しばし無言で時間を過ごしていると、海渡が小走りで向かってきた。

「遅くなって悪い。家、酷いことになってたな。」

海渡は少し酒気を帯びた顔を締めて墓に手を合わせた。その表情は少し決意が満ちていた。吹雪にはそう見えた。

「海渡さん、何をお話したんですか?」

「これからのことを少しな。」

「なになに?何言ったのさ。」

「恥ずかしいから言わんぞ。」

三人からの問答を適当にあしらった。それが落ち着いた後、最上は海渡に聞いた。

「これからどうするの?」

「そうだな。もう少し積極的に動いてみようかと思ってな。これから忙しくなるかもしれん。改めて言うのも恥ずかしいんだが、もう少しだけ一緒についてきてくれ。」

「少しでいいの?」

「ある程度区切りがついたら、自由になれるはずだ。その後は、任せる。」

風が吹いて墓花を揺らし、髪がなびいた。

「急にそう言われてもねぇ。」

「僕はその時になったら考えようかな。」

二人は苦笑して返した。少し遅れて吹雪が言った。

「私は…」

 

 

 

薫は憂鬱な気持ちで軍病院の廊下を歩いていた。この日は飛龍のカウンセリングに同席する日だ。海戦からの帰還後、半分近い乗員と艦娘に後遺症のような症状が見られた。多少寝付きが悪くなる程度から日常生活に支障をきたすまで様々だったが、特に飛龍は重症であった。会話が成立しないことがしばしばで、外的刺激に対する反応が非常に鈍くなっていた。薫は上官として彼女の進退を判断しなければいけない立場にあり、同席を義務付けられていた。これは三度目だったが彼女の変貌っぷりは一向に慣れることができず、可能ならば同席を拒否したかったが、指揮官としての義務を放棄するわけにはいかない。今までそうしてきたように今もそうすべきなのだ。薫は扉をノックして病室に入った。その頃には曇り空から雨が降り始め、窓を強く叩き始めた。病室の雰囲気には奇妙に合っていたように感じたが、薫の憂鬱な気分はさらに煽られた。

既に部屋には医師や看護師がおりカウンセリングが始まっていた。薫は用意されていた椅子に座り、ベッドで虚ろな表情をしている飛龍を眺めやった。頭や腕に巻かれた包帯もなかなかに痛ましいが、医師の問いかけに反応せず、時折口から出る言葉が返答になっていないような独り言のようなものに比べれば些細なことだった。

それが十分、二十分と過ぎていくうちに、薫の憂鬱さはストレスに変わり始めた。機動部隊の主力とあろうものが何たる無様なんだろうか。男所帯の中で後ろ指を指されても仕事をこなし、必死に努力して中佐の待遇を手に入れた者として、飛龍のその様は許せないものと感じ始めた。自分がそうしたように、飛龍もそうすべきだ。薫はそう思っていた。

「飛龍、私だ。わかるか?」

それが我慢の限界に達した時、無意識に言葉に出していた。医師と看護師は驚いて振り返った。そして珍しく飛龍もわずかに反応を示し、窓の外に向けられていた顔が薫に向けられた。比較的美人な顔と艶のあった髪は見る影もなく、やつれて傷んでいる。

「いつまでそうしているつもりだ。どうしたいんだ。」

飛龍は全く反応しなかった。医師が呆気に取られていることを良いことに、薫はさらに続けた。

「お前は栄誉ある機動部隊の一員だろう。もっとしっかりしろ!私はそんなに長く沈んだりしないぞ。」

「中佐殿、おやめください。そのように追い詰めては。」

医師が制止に入ったが、火がついた彼女は止まらなかった。

「いつまでも気に病むのをやめろ。彼女は帰ってこないぞ。」

薫はあえて個人名を伏せたが、それを聞いた瞬間に飛龍の表情が崩壊して悲鳴を上げた。そして、終わらない謝罪が始まった。看護師が慌てて寄り添って宥める中、医師は薫に厳しい視線を向けた。

「中佐殿、彼女は今非常に不安定なのです。そのような物言いはいけません。」

「軍人があの程度で務まるものか。」

私はそうはならないぞ、とまでは言わなかったが、医師はその言葉を表情から読み取った。この人はなんとプライドの高いことか。

「自らの価値観を押し付けてはいけませんぞ。彼女はあなたではありません。」

「だが、最低限求められるものがあるだろう。」

「中佐殿、詳しくは聞いておりませんが、戦に敗退した悔しさを部下に当たっているように見えます。」

薫の怒りはさらに増したがそれを口にすることはせず、病室を出ていった。医師は二人の様子をみて、飛龍の除籍は免れないものとしても指揮官の方も何かしら対処が必要なのかもしれないと感じた。

医師の指摘は核心をついていたが、薫は受け入れられなかった。そんなことはない。飛龍が軍人として情けないのは事実なのだ。薫は過去に何度もきいた言葉が幻聴として頭に響いた。

「所詮は"女"か。」

 

 

 

飛龍の様子に比べれば赤城たちは軽症だったが、外傷の全治までは約三ヶ月が必要であった。精神はほぼ問題なく、悲しさよりも悔しさが勝っており、復帰までの時間が長いことを嘆く元気はある。この頃の加賀は、右腕の代わりをどうしたものか、一日中悩んでいた。義手を手配しても、艤装と同調できなければどうしようもないのだ。

「それにちゃんと回復しても同調できるかどうかわかりませんよ?」

ある時、右腕の相談のために病室を訪れていた明石が言った。

「どういうことかしら?」

「結局メンタルの問題なので、それが安定してなければ動かせません。」

「精神的には何も問題ないわ。」

「心の底からそう思ってます?いいですか。深層心理に不安が埋まっていたらそれだけで大問題なんですからね?別に煽るつもりはないですけど、あんなことになって平気な人はなかなかいないと思うので。」

加賀は少し考え込んだが、そんなものを自覚できるなら苦労はしないだろうと思い、それ以上考えるのを止めた。

「ま、快復したらテストしましょう。」

「その前にできないかしら?」

「少なくとも自力で歩けるようになって、お医者さんに許可をもらえたら、です。」

「ずいぶん先ね。」

加賀はため息交じりに独語した。

「仕方ないでしょう。また戦える可能性があるだけ良いと思ってくださいよ。」

明石は別に他の誰かを意識したわけではなく深い意味はなかったのだが、赤城たちは飛龍のことが頭に浮かび少し憂鬱になった。

「明石さん、飛龍のこと何か聞いてますか?」

「いえ何も。私は医者ではないですから。ただ、あれはかなり厳しそうですね。」

明石は一度だけ見た様子を思い出していた。あまりの痛ましさに目を反らしてすぐに部屋を出てきてしまった。明石はもともと暗い雰囲気が苦手だったが、飛龍のそれは輪にかけてつらいものだった。

「やっぱり、除隊になっちゃうんですか?」

蒼龍は遠慮がちに聞く。その顔は否定されることを期待しているように見える。

「うーん、悪くするとそうなるかもしれないですね。何も知らない私が言える話ではないですけど。」

一層病室の雰囲気が暗くなった。しかし、逆にその方がいいかもしれない、と赤城は思う。様々に手を施したとして治ったとして、再発の可能性や彼女のトラウマを再刺激することを考えると、よりつらいだろう。

「もしかしたら海渡さんが何かやってくれるかもしれないですよ。知りませんけど。」

「何かあったんですか?」

「あの人、何か考えてるみたいで、休み前に私に色々頼んでったんですよ。おかげで最近残業続きですよ全く。あと一週間で終わらせないと帰ってきちゃうし。」

何やら鬱憤が溜まっているようで明石はぶつくさ言っている。赤城と蒼龍は苦笑した。

「酷い人ね。上に言いつけたら?」

「いや、良いんです。代わりにシャルロッテに連れて行ってもらう約束したので。そのためだけに頑張ってますよ。」

しっかり交渉しているあたりが明石の抜け目の無さが表れていたが、赤城たちにとっては別に重要なことがあった。明石の発言を聞いて三人はベッドを大きく揺らして目を丸くした。

「本当ですか?あのお店全然予約取れないじゃないですか。」

「そうなんですよー。でもさっき予約とったって連絡来たので、すっごく楽しみです。」

赤城の興奮気味な言葉に、明石は感情を隠すことなく表情に出して返答した。赤城ほどではなかったが、加賀も蒼龍も目を輝かせて明石を見ていた。

「じゃあ私海渡さんからのお願いを片付けないと行けないので、戻りますね。お大事になさってください。」

明石はやや上機嫌で病室を出ていった。赤城たちは、一度も行けていないカフェにどうにか海渡に貸しを作って連れて行ってもらえないか、しばらく悩んでいた。

 

 

 

二週間の休暇を終えて基地に戻ってきた海渡は、工廠、資料室、執務室を往復する忙しい日々を過ごしていた。どうせしばらく出撃はない、と高をくくっていたのだが、実際その通りで海軍は部隊の再編をようやく終えて打撃部隊と機動部隊の出撃準備が整ったところであり、さらに大敗を喫したこともあり積極的攻勢を控えているようだった。政府も戦死者に対する保障が急に発生したことで、その姿勢に同調した。

そんな中、艦娘の指揮官たちに飛龍の予備役編入が通知された。彼らの反応は様々だったが、これが除隊のための前準備であることは誰もが察するところであった。彼女の症状から見て仕方のないことだが、それでも今まで共に戦ってくれたことを思うとやるせない気持ちを抱いた。だが、海渡だけは例外だった。彼は他の指揮官ほど彼女と一緒にいたわけでもないし、鳳翔のこともありあまり友好的な気持ちになれずにいた。別に不幸になれだの祈ることはしないでも、自業自得だろうと思う程度には冷めていた。

「何を考えているんですか?」

吹雪はカフェオレを差し出しながら質問した。執務机で文字通り資料に埋まる海渡は、受け取ったカップのスペースを雑に用意し置いたあと、執務室を一度見渡して海渡の体内の異物を知るものしかいないことを確認した。

「この先半年くらいの予定をな。ちょっと気になることがあって、『むーんらいと』と『はるか』を調査したいんだ。」

「『むーんらいと』?」

「早苗が乗っていた客船だ。」

その言葉にソファに座って本を読んでいた北上と最上が手を止めて海渡を見た。

「最近、体の中を何か蠢く感覚があるんだ。そいつをどうにかするために、手がかりが欲しくてな。あいつらに頼るのだけは死んでもごめんだ。」

「そうですね。」

大泉に強引に情報を抜かれたことを思い出し、吹雪は怒りを抱いた。

「大丈夫なのそれ?」

「今のところは。とにかくそのために明石に母艦を用意してもらったから、準備が終わったら行くぞ。」

「いつ出るの?」

「三日後だ。」

「急だねぇ。」

北上は苦笑したが、否定的な考えはなさそうだった。三人ともそれについていくことは当たり前だと思っている。

「よく引き受けてくれましたね。」

「まぁな。代わりにカフェに連れて行けって言われたが、まぁその程度ならってことで。」

「デートですか?」

吹雪は少し食い気味に反応した。北上と最上はそれを見て苦笑したが、海渡は資料に夢中なのか反応を示さなかった。

「そんなわけないだろ。お前らの分も予約しているから一緒に行けよ。」

「いいの?てか、もしかしてその店ってシャルロッテ?」

「よく知ってるな。」

「大井っちと木曾が言ってたんだよ。全然予約取れないって。人気らしいよ。」

「鈴谷も言ってた。ケーキが美味しいとか。」

「よく予約とれましたね。」

「電話したら普通に取れたぞ。」

「そうなの?みんな大げさだなぁ。」

最上は訴えるように話していた鈴谷と熊野を思い出していた。海渡の話との温度差に驚きつつも、棚ぼたを齎した明石に感謝した。

そこへ、ノックもなく勢いよく扉が開いて大きな音を立てて四人を驚かせた。入ってきたのは患者衣を着た飛龍だった。息を荒げて服も乱れていたが、それ以上に彼らを驚かせたのはやつれて大きなクマを目の下に作り、包帯を巻いて傷だらけの姿の方だった。以前の活発な姿は完全に失せており、見たものの言葉を失わせるに十分だった。

海渡たちが呆気に取られて反応できずにいると、飛龍はその場に崩れてひたすらに「ごめんなさい」を繰り返した。海渡は鼻白みつつも対処に悩んでいると、そこへ数人の看護師と医師が入ってきた。

「すいません。すぐに連れていきますので。」

「どうしたんですか?」

「移送中だったのですが、急に走り出してしまって。すぐに連れていきますので、お騒がせしてすいませんでした。」

医師が海渡に弁明して頭を下げている間、看護師は飛龍を連れ戻すために格闘してた。飛龍の強い拒否の意思によって上手くいっていないようだ。海渡はあまり気にしていなかったのだが、他の三人は別だった。鳳翔のことであまり好意的ではなかったのだが、今の飛龍の様子を見て自分の過去を幻視したのだ。そういえば海渡さんが来たての時、こんなことばっかりやって迷惑かけていたな、と。特に吹雪は海渡に初めて会った時の自分が飛龍に重なりいたたまれなくなった。

「あの、少しお話したいので外で待っててもらっていいですか?」

吹雪は医師に声をかけた。ほぼ反射的な行動で医師は驚きを表情に出したが、海渡が止めないことを見て吹雪の言に従い執務室を出た。医師らが退出するのを待ってから飛龍に優しく声をかけた。

「飛龍さん、吹雪です。わかりますか?」

飛龍が無限に繰り返されるかと思われた謝罪を止め、涙でぐしゃぐしゃになった顔を吹雪に向けた。当たり前の反応に見えるが、医師が見たら驚愕すること疑いない。

「ソファに座ってください。少し話しませんか?」

飛龍は数秒の後に肯定の反応を示して、その通りにした。最上は彼女用にココアを作って渡し、北上はテーブルに散らかっていた漫画やら雑誌やらを片付けた。誰がどう言ったわけではないが、三人とも同じ心境で自然とそれに従った。

飛龍を座らせたあと、吹雪は記憶を探った。あのとき、海渡さんはどうやったんだっけ、と。優しく声をかけられて、全く関係ない雑談をしながら昼食を食べたんだ。そう思い当たったが、ここでそのままは真似できない。どうしたものか。

「吹雪、自分の思う通りにやってみな。」

海渡はそれを察して助言を入れた。吹雪は大きく息をついて、飛龍に話しかけた。

「飛龍さん、もう謝らないでください。私たちはもう大丈夫ですから。」

「でも、私のせいで――」

「いいんです。」

吹雪は短く言った。少しばかり恨む気持ちが湧いたが、このような状態の相手を責める気にはなれない。海渡が優しくしてくれたように、自分もそうすべきなのだと。

「ありがとうございます。でも、それでも自分が許せません。自分勝手に人を死なせた自分がのうのうと生きることに、耐えられません。」

飛龍は手も声も震えていたが、しっかりと会話ができていた。医師とも薫とも会話が成り立たなかったこと聞いていた海渡は、飛龍がそれなりに自我を保てていることに気づき思案を巡らせた。その逆に吹雪はかける言葉を失っていた。

「それなら艦娘として戦うことだ。」

海渡は資料を読むことを止めて飛龍に顔を向けた。飛龍は俯いたままであったが、言葉は届いているようで、表情がこわばったのが横からでも見て取れた。

「欠員を出した分をお前が埋めるんだ。そして、あれを倒せ。唯一の罪滅ぼしだ。」

飛龍はわかっている。その方法が一番であると。

「ですが、私はもう戦えません。艤装が動かないんです。」

「ならもう一度動かせるように手伝ってやる。」

海渡は飛龍の言葉に特に驚くことなく言った。飛龍は思わず顔を上げて発言者の顔を見た。自信があるというより当たり前の常識を語ったような態度だ。吹雪たちは「そんなこともあったね」と内心思い、北上は口から漏れていた。

「少なくとも六人はできるようになったぞ。」

飛龍の表情には期待と恐怖が混ざっている。判断に迷っているようだった。それの終わりが見えないことを悟った海渡はため息をついて立ち上がった。

「手続きしてくる。」

「お願いします。」

吹雪の言葉は少し明るかった。飛龍は何か言いたげであったが、最後まで何も言わなかった。

海渡が執務室を出ると医師と看護師が待っていた。海渡は彼らに一言挨拶をしてから「うちで預かるからよろしく。」と言うと、医師が困った様子で海渡を引き止めた。

「彼女は戦える状態ではないのですよ。」

「今はね。ただ、聞いていた状態よりもずっと良い状態じゃないですか。ちゃんと会話もできてます。」

医師の表情が驚きに満ちた。「なんでおれが会話できて専門家のあんたが会話できないんだ」と内心思い呆れた。と、医師の顔を眺めていると見覚えがあることに気づいた。記憶の中を探っていると、一つ思い当たるものがあった。吹雪を拐われたときだ。海渡は自身の中で急速に憎悪が燃え上がるのを自覚したが、今ここで問題を起こすのは不利益しかない。ただ、感情を完全に隠すことはできず、意地の悪い笑みで海渡の表情が満たされた。

「なるほど。飛龍の心神喪失は都合が良かったというわけか。」

医師も海渡の表情を見て身分が露呈したことに気づいた。

「さっさと行け。二度と来るな。」

海渡は遠慮のない威圧的態度をとり、自称医師と看護師を追い返した。しかし、飛龍は本当に運が良かったと言うべきか。こんな陰謀があったとは思いもよらなかった。一層気をつける必要があるな。海渡は気を引き締めて橘の私室へ向かった。

 

 

 

海渡の働きにより、およそ二時間後には飛龍は遊撃部隊へ転属になった。相談を持ちかけられた橘は特に反対しなかったが、海渡の面倒を平気で抱え込もうとする態度に苦言を呈した。「お前は相変わらずだな」と。ただ、最近の海渡には妻を無くす前の活力が戻ってきているように見え、安堵した面もあった。何が彼をそうさせたのかは完全に洞察しえなかったが、前を向いて進んでいるようになったのは何にせよ良いことだ。

その通知を受けた頃、佑輝と薫は今後の任務について話し合っていた。衝撃のあまり薫は持っていたコーヒーカップを床に落とした。

「それは、本当か?」

「はい。橘大将からの直々のご命令です。」

薫は苦虫を噛み潰したようだった。その様子を見ていたもう一人は「余計なことしやがって」とここにいない同僚に小声で悪態をついた。彼女のプライドの高さは誰もが知るところであり、このようなことになれば彼女が冷静でいられなくなるのは自明の理だった。特に、薫が会話すらできなかった飛龍を数十分で立ち直らせたというのだから、その怒りは相当なものである。ただ、橘も配慮に欠けていた面があり、海渡から受けた偽の医師の件を二人には伝えなかった。あまり広まってはいけない話と判断したからだが、そのおかげで薫を宥める要素は皆無となった。

連絡に来た准尉が退室したあとも薫はしばらく立ち尽くしていた。

「まぁ、とりあえず座ったらどうだ?」

彼女は全く動かず、佑輝の言葉は届いていないように見える。

「あいつのことを気にしても仕方ないぞ。」

「わかっている。わかってはいるが、ここまで的確に私を蔑ろにすることがあるか?」

「あいつはいつもそうだったろ。」

佑輝は敢えて薫に触れなかった。実際、飛龍との会話に失敗しているのは艦娘の指揮官として能力不足だと佑輝は確信していたが、それを言って自ら火に飛び込むほど酔狂ではない。

「生きていたことは良かった。だが、戻ってきてからのあいつと艦娘たちは何なんだ。私の努力は、ぽっと出のあいつに劣っているというのか。」

「別に無為に過ごしていたわけじゃない。あいつの話聞いただろ。」

「そうだが、なぜ真っ当に過ごした私よりも――。」

それ以上は言葉にならなかった。佑輝もそれを追求しなかった。薫に治してほしいところの一つではあるが、今指摘するのは憚れる。

薫は、仕事はできるが愛嬌があまりなかった。それは本人が女性を理由に報酬を受け取りたくないがための行動で、元々男勝りの性格もあって口調もだんだんそれっぽくなっていった。海渡と佑輝と共に士官学校を出る頃には今の薫になっていたが、彼女自身は女性としてそれなりの美貌があったこともあって女性的仕草を周囲に期待されたことが少なくない数あった。結局その頑固な性格と無愛想の所為で煙たがられることの方が多くなったが。佑輝はそれを気にかけており、その世渡りの下手さを過去に何度か指摘したが全て無視された。

海渡がいなくなった後はしばし活力が失われたが、その後艦娘の指揮官に抜擢されたことでそれもほぼ解消された。ただ、軍内の女性だけの部署の女性指揮官という立場と彼女の性格と理念がおかしな化学変化を起こしたことで、よりコンプレックスが強くなったようにも思える。大きな戦果を挙げ続けることで築かれた彼女の自信と矜持は、吹雪たちの強さと活躍によって約三ヶ月で大きく傷つけられ、その所為で海渡を恨みつつあるのが最近の佑輝の悩みのタネになりつつある。

海渡は薫のこのような部分を十分に知った上で意図して無視している。彼は佑輝に言ったことがある。

「おれは薫のそこが嫌いなんだよ。」

佑輝は全面的ではないがそれに同意した。

薫は佑輝の対面に戻ってきてやや乱暴に座った。

「まぁ落ち着け。飛龍が元気になったのなら良かったじゃないか。」

「じゃあなぜ私のところに戻ってこない?なぜあいつのところなんだ?」

「鳳翔のことで負い目を感じているからだと思うが。」

「私たちから離れることには負い目がないと?」

佑輝は思わずため息をついた。薫のこの思考方法に問題がある。いい加減気づいてくれ、と内心嘆いた。

「もうやめろ。みな肉体的にも精神的にも疲れている。指揮官のお前がそんな不安定でどうするんだ?翔鶴や瑞鶴たちが不安がるぞ。『いずみ』がドック入りして出撃は遠のいたにしても、出撃そのものがないわけじゃないんだからな。」

「なんでよりにもよって今なんだ。戦果を稼がなければ、あいつに負けるじゃないか。――まさかそれを狙っての救援のタイミングだったのか?」

一瞬、薫が真理を見つけ誇ったような表情を佑輝は見逃さなかった。そして悪寒に襲われた。

「やめろ!お前自分で何言ってるのかわかってるのか?」

佑輝は思わず声を荒げた。これは重症だな、と思う。療養が必要なのは薫の方かも知れない。

「そうだな。すまん。」

薫は我に返ったような反応をして反省した。

「もう今日は終わりにしよう。そんなんじゃ計画なんて立てられん。」

佑輝はそう言って解散した。執務室を去っていく薫を見送りながら、どうしたものか、と独語した。

 

 

 

海渡は出撃の前日、明雄から奇妙な相談を受けた。

「その、折り入ってご相談がありまして。」

二十時を回った頃、吹雪たちが帰宅して海渡だけになった執務室をノックし、遠慮がちに入ってきた明雄に言われた一言目がこれである。深刻そうな話ではないようだが、何やら悩み続けているようだった。海渡は後輩の見たこともない様子に終始困惑した。

「どうした?」

明雄は海渡に勧められてソファに座った。海渡の問いに対して五秒ほど時間をかけてから口を開いた。

「川内に、その、告白されまして。」

「おめでとう。」

正直、海渡は拍子抜けし、内心ため息をついた。成人したいい大人が何を学生みたいに悩んでいるんだ。

「それで、どうすればよいか、判断に困っているのです。」

「断りたいのか?」

「いえ、そういうことではないんですが、年齢も年齢ですし、上司と部下がそういうのはいかがなものかと。」

明雄は真剣に悩んでいた。海渡としても、嘲笑する気は全くなく、この後輩が仕事一筋で生きてきたものだから、それ以外の分野になった瞬間、途端にポンコツになるのはよくわかっていた。

「じゃあ受け入れればいいだろ。その辺の些事はあとから気にならなくなる。」

「すごいこと言いますね。」

「自分で言うのもなんだが、結婚する時にかなり苦労したんでね。」

「そう言えばそうでしたね。」

二人で苦笑する。海渡の場合、年齢も近かったし上司と部下でもなかったが、親が雲の上の階級だったことがかなりの問題だった。

「正直に言いますが、あまり自信がないのです。ずっと仕事だけしてきたものですから、彼女の期待に添えるかどうか…。」

海渡は「なるほどね。」と内心呟いた。

「すぐ結婚するわけじゃないんだろ?じゃあこれから期待に応えればいいんだよ。付き合うっていうのはお互いの性質をすり合わせる時期なんだから、最初から合致している必要はないぞ。」

その悩み方もわかるが、一応の経験者としてそれは意味がない悩みであることを伝えた。ただ、明雄と川内でそのようなすり合わせが必要なのかは疑問だった。彼ら二人の息の合い方が優れたものであることはよく知られていたからだ。明雄が生真面目なためにそれを自覚できていないのかも知れないが、端から見ている分には不要に思えた。

「川内が好きか?」

「ええ、まあ、それは、はい。とてもいい子です。」

百九十センチの男が尻すぼみで萎縮しているのは何だか滑稽だったが、海渡は笑わなかった。

「じゃあそれでいいだろ。」

「…そうですね。」

明雄は決意を固めたようだ。海渡はそれ見て解決したことを理解したが、ふと疑問に思うことがあった。

「そう言えば、なんでおれのところに来たんだ?」

明雄の執務室からここまではかなり遠い。途中で佑輝の執務室もあり、海渡と違って彼は今も既婚者なのだから、そちらに聞いても良さそうなものだと思った。

「先輩の方が詳しいと思いまして。その、艦娘との恋愛について。」

海渡は閉口した。「お前もそれを言うのか」と内心思いながら、明雄を睨んだ。

「おれが詳しいかは置いといて、艦娘もただの人間だぞ。特別何かが必要なものはないだろう。」

「いえ、その、彼女や妻が部下で、戦場に出すことについて、正直抵抗があるのです。そういう感情を仕事に持ち込まない自信があまりなくてですね。」

海渡は意図を読み違えたことに気づいた。確かに、並大抵の精神ではできないだろうな、と思う。

「…別に付き合っているわけじゃないことを承知の上で聞いてほしいんだが、川内がそれを望まない限りは耐えるしかない。それで感情を持ち込んだら、彼女たちの居場所を取り上げることになる。別に艦娘じゃなくても、同じ職場で気を回されて業務から外されたら嫌だろ。」

「そうですが、鳳翔中尉の件が頭をチラつくんです。先輩は怖くなかったのですか?」

ここが本当に聞きたいところだろう、と海渡は洞察した。恋人を死地に送る。これができるのか。

「怖かったさ。だが後悔はしていない。おかげで大勢が助かったというのに、彼女に失礼すぎる。」

本当のところは、飛龍がやらかさなければ助かっていたのに、と思っていたが、今更言っても意味がない。海渡は姿勢を正した。

「いいか、川内の生死を決める最たる要因はお前の指揮だ。それを忘れなければ大丈夫だ。」

「…そうですね。その通りです。忘れていました。」

明雄は悩みが解消したようで、いつも通りの明瞭さを取り戻し、海渡に礼を述べて出ていった。

一人になった執務室で、海渡は急に吹雪のことがチラつき、頭を振った。なぜここで吹雪がよぎるのか、海渡にはわからなかった。

 

 

 

「言われた通りちゃんと作りましたからね。」

海渡は予定通り新母艦での出撃のため工廠にいた。明石が目の下にわずかにクマを作っており、多少の申し訳なさを感じる。

「ありがとう。ゆっくり休んでくれ。橘大将に話は通してある。」

「優しいんですね。でも、今日の出撃は私も行きますよ。ちゃんと自分の目で確かめたいので。処女航海ですからね。」

「そうか、まぁ無理はしないでくれ。」

「はい。」

明石は建造中だった潜水空母『みらい』に海渡の要望に合わせて、艦娘用カタパルトデッキや試験的装備を追加した。軍隊としてはあまり例を見ない一点ものの艦船である。これを依頼した時の橘の顔は拒否の色が強かったが、海渡の戦果と大敗による艦娘部隊の再編の都合から許可した。要するに、本隊が動けない間に色々働かせる便利屋に落ち着いた。

「本日からよろしくお願い致します。」

そこへ睦月と如月が挨拶に来た。遊撃部隊の人員補充の名目で明雄の部隊から転属になったのである。駆逐艦の艦娘を募集していると聞いた時に二人が最も早く志願した。吹雪たちとの作戦に二回参加した経験もあって、即座に決まった。

「こちらこそよろしく頼む。」

海渡はそう言って二人を艦内へ入るよう指示した。潜水艦に乗るのは初めてだったため、期待と不安がないまぜになっているようだが、遠足前の小学生のような雰囲気で周りの乗員たちに明るさを振りまいていた。

「いいですね。」

「そうだな。」

それを明石とぼんやりと眺めて癒されていると、後ろから陸奥に声をかけられた。

「待ったかしら?」

「あ、ああ。大丈夫だ。」

海渡は面食らったように返答した。

昨日、佑輝から陸奥の転属の連絡があり度肝を抜かれた。打撃部隊の主力がなぜ?としばらく悩んだが、

「元帥からの口添えだぞ。」

と言われては何も言えないのだった。

「職権乱用じゃないのか。」

「あら?あなたが言うの?大淀の釈放の件、聞いてるわよ。義理なのに親子そっくりね。」

「うるさいぞ。」

海渡は強引に話題を終わらせた。南西沖海戦の後、大淀の扱いが宙に浮いた。まだ刑期が残っていたが、艦娘の希少性と任務への貢献から即座に再収監とはならなかった。海渡はもらえるものはもらっておこうということで、各所に口添えして軍役に就いて罪を償うことを条件に釈放となった。法治国家としてはあるまじき状態だが、大敗により浮足立った政府と国民としては艦娘が一人増えるだけでも良いニュースなのであった。

最終的に遊撃部隊の陣容は、吹雪、睦月、如月、北上、最上、大淀、陸奥、飛龍、そして『みらい』搭乗員五十名となった。

『みらい』の戦闘指揮所に入ると副長の松葉中佐が待っており、目的地を尋ねられた。

「東海岸沖二百キロメートルのこのポイントだ。今回の任務は沈没船のサルベージだ。」

「不思議な任務ですね。潜水艦でやることなんでしょうか?」

「まぁ色々とな。『みらい』の装備の確認と試験航海も兼ねているから、気を楽にしてくれ。」

「了解しました。」

実直そうだがどこか掴みどころのなさを感じる緩い雰囲気の松葉は、海渡の指示を受けて出港準備に入った。

「艦長より達する。今回はまぁ、お使いみたいなものだ。戦闘は極力回避する方向で進めるからあまり気をはらずに頼む。以上。」

海渡は三年ぶりの責任感に懐かしさを感じつつ、気を引き締めた。

 

 

 

目的地までたどり着くまでの時間は、主に飛龍のリハビリを兼ねた全体訓練に充てられた。『みらい』の艦上部は、前方は艦娘用カタパルトデッキ、後方は八機のVLSで構成されており、乗員たちが繰り返し手順を確認し、攻撃、防御、被弾時の対応などの訓練を行った。飛龍は遊撃部隊に転属になった次の日から少しずつリハビリをして、海上に立って進むまでに回復したが、航空機の発艦はまだ難しい。攻撃の瞬間に被弾したせいでそれがトラウマになったのだ。弓を構えると手が震えだして悲鳴を上げそうになっているのを吹雪と最上が宥める光景が何回か続いた。それでも彼女は訓練を止めなかったし、トラウマが蘇ってもなお同調率を六割程度に保っているのは、本人の意思の強さを証明するものだった。

海渡は艦上に出て吹雪たちの訓練を眺めていた。睦月と如月は共に戦闘した経験があるとは言え、吹雪のペースに付いていくのは難しく多少手間取っているが、それも最初の頃に比べればずっと良くなっている。意外なことに北上と最上が二人のことを気にかけており、年長者として振る舞っていた。流石に大淀、陸奥、飛龍が遅れを取ることはなかったが、吹雪の指示通りに動くのは労力がいるようで、終わった頃には肩で息をして汗だくになっていた。

「艦長も外の空気を吸いに来たのですか?」

海渡は後ろから松葉に声をかけられた。

「まぁな。潜水艦は初めてなんだが、少し息苦しいよ。」

「そのうち慣れますよ。それでもこの天気は外に出たくなりますがね。」

そう言って松葉は空を見上げた。空は晴天で遠くに見える入道雲が夏を感じさせる。これで客船に乗っていれば完全に旅行であっただろう。

「貴官はなぜこの艦に?」

海渡は雑談がてら話しかけた。

『みらい』乗員の選定は橘から話を聞いた光政が行った。光政は引退する前に共に任務についた信頼のおける部下たちを選んだ。海渡や吹雪の事情から特に口の固い連中でなければ駄目だと判断したのだ。多少の公私混同ではあったが、橘は光政と同意見だったので光政に礼だけを述べた。橘からその話を聞いた海渡は微妙な表情をしたが、ありがたいことには違いなかった。

「虎に依頼されたら断れませんよ。とてもお世話になりましたから。それに――」

「それに?」

「虎の子が面白いことをやるというんですから、拝見させてもらおうかなと。」

海渡は黙った。ここでもそれか。

「そろそろ本任務の本当の目的を教えてください。ただのサルベージではないんでしょう?」

松葉の質問が終わった頃、吹雪たちが戻ってきた。最後尾の吹雪が『みらい』に入る際に海渡と目が合い、お互いに小さく手を振った。

「そうだな。もういいだろう。幹部と吹雪を士官室に集めてくれ。」

そう言って海渡は『みらい』の中へ戻り、松葉も続いた。

士官室とは言え『はるか』よりも窮屈で、その狭さに海渡は慣れなかったが顔には出さなかった。逆に吹雪は小柄なこともあってあまり気にしていなかった。全員が揃ったところで海渡は口を開いた。

「本任務の目的は、約四年前に事故で沈没した客船『むーんらいと』の一部を回収することだ。先の敗戦で護衛艦に起きた事象を解明するために、実際に侵食されたものが必要だからだ。」

場が静まり返った。それも当然である。侵食された部品を海軍が回収するなど前代未聞であったし、そもそも侵食部位に触れるなど危険行為も甚だしい。それの所為で『みらい』そのものが侵食されたらどうするのだ?そのような感情が幹部たちの中に渦巻いた。

「あのもぐら共ではなく我々が出向くということに、何か意味があるのですね?」

松葉の質問は多少幹部たちを落ち着かせる効果があったようで、姿勢を正した後視線を海渡に向けた。

「まず大前提として、おれは研究所のやつらを信用していない。これっぽっちもな。今年の六月、そこにいる吹雪が拉致されて危うく解体されかけた。」

急に視線を向けられた吹雪は一瞬固まって姿勢を正した。

「言いたいことはわかりますが、公私混同ではないですか、艦長。」

「まぁそうだな。だが不思議に思わないか?護衛艦が前例のない被害を受けたというのに、あいつらは黙っている。『いずみ』や『あさぎり』の乗員に何も聴取を取っていない。いつも五月蝿さが嘘のようだ。」

感情的にならないように意識し、一息つく。

「あいつらは何か隠している気がする。実際に戦うのはおれたちだと言うのにな。まぁ元々そんな協力的なやつらじゃない。だから自分たちの命のために自ら情報を集めた方が良いと思ってな。」

「何もなかったらどうするのですか?」

「それはその時でいいだろ。御大層な経歴を持ったやつらが自らの無能っぷりを示すことになるだけなんだからな。どっちに倒れても、おれたちとしては得だな。」

小さな笑いがそこかしこで起きた。

「艦長、一つお聞きしたいのですが、今回の任務は本部からの命令ではないですよね?ということは、私たちは艦長の私兵も同然ではないですか?」

「そうだが、それを知っていて貴官らは来たんじゃないのか。あの退役元帥が乗員を決めたことに疑問を持ったと思うんだが。」

砲雷長の四島の生真面目な質問に正直に答える。義父が用意してくれた人員を信じようではないか。幹部たちが図星を突かれて表情を崩した。海渡もやや表情を崩して続ける。

「虎の威を借りていると思われても結構。貴官らは口が固いと聞いている。これから奇異な任務が続くが、よろしく頼む。」

「了解です。」

副長の返事とともに解散となった。吹雪は部屋に残って幹部たちが出ていくのを見送った。一人残った海渡に近寄る。

「つらくないですか?」

「大丈夫だ。ありがとう。」

これから赴く先はただの客船の残骸でない。彼の妻の墓標なのだ。その客船の凄惨な状態を見た時海渡は耐えられるだろうか、吹雪は心配していた。いや、耐えられるだろうが、つらい気分になることは疑いない。向かっている今も無感傷ではないはずなのだから。

「いつでも頼ってくださいね。」

吹雪は言ったあとで少し恥ずかしくなったが、顔には出さなかった。自分はこの人と対等に生きていたい。一方的に心配されて守られて、それはもう卒業しなければならない。

「ありがとう。」

海渡は彼女が背伸びをしているようにも感じた。だが、海渡は自戒した。このように子供扱いすることは彼女に失礼だ。

 

 

 

吹雪は海渡と別れ、艦娘用居住区に戻った。中央に付けられた簡易椅子を出して座ってため息をついた。吹雪は悩んでいた。相変わらず海渡が何も言わず背負い込んでいるように見える。特に任務の内容が内容だけに、弱音の一つくらい言ってくれても良いものなのに。それとも、これも決めつけなんだろうか。

「何を悩んでいるの?」

そこへ陸奥が入ってきた。同じように簡易椅子を出して座る。

「海渡さんのこと、考えてるのね。」

「わかりますか?」

「顔に出てるわよ。」

吹雪は苦笑して顔を正面に戻した。

「あの人、また一人で抱え込んでいるような気がして。」

「そう?むしろ吹っ切れたように見えるけど。」

確かにそう見える。鳳翔さんが亡くなった後、少し沈黙の後に精力的に動いているようには見える。だが、何か追われているような、無理をしているような、そんな気がする。

「ずっと一緒にいた吹雪ちゃんが言うならそうなのかもしれないわね。」

「昔を知ってる陸奥さんに言われると、自信なくしちゃいますけど。」

「知ってるって言っても全部聞いただけよ。実際に見てきたあなたとは違うわ。」

だれも気づいていない事実として、この時点で海渡と接している時間が最も長いのは故人を除くと吹雪なのである。北上と最上もほぼ同一だが、吹雪ほど彼と共に行動していたわけではないため多少の差がある。もちろん最も接しているからと言って最も知悉した存在かどうかは別なのだが、吹雪はそれにあぐらをかいていたわけではないので、海渡を最もよく知る人物の一人となっていた。

「おやおや、恋バナですか?」

明石が睦月と如月を連れて入ってきた。相変わらずこの手の話になると好奇心をむき出しにした顔で首を突っ込んでくるのである。

「そんなところです。」

吹雪は特に隠しもせずに肯定する。今更どうということもない。

「素敵です。デートとか誘ってみましょうよ。」

睦月が明るい表情で言う。明石ほどじゃないがこちらも楽しんでいるようだ。

「そのうち誘います。」

吹雪は少し照れくさくなりながら「そういえばこの前のお墓参りはデートだったんだろうか」と思ったが、心の内に留めた。

「手伝えることがあれば言ってくださいね。クレーンで強制連行するくらいはできます。」

「あの人は船じゃないですよ。」

明石がやけにやる気を出しており笑いが起きたが、吹雪は言った後で疑問に思った。海渡の持つ力は明らかに人を超越したもので、むしろ自分たちに近いのではないだろうか。そうだとしたら、船じゃないという表現は正しくないのではないか。それを考えていくうち、なぜだか急に恐ろしい気分になり慌てて蓋をした。

 

 

 

 

予定海域に到着して艦娘たちを海上で警戒に当たらせつつ『みらい』は潜航して『むーんらいと』の残骸の捜索を開始した。沈没座標と海域の海流情報からおおよその位置を把握し、捜索用の水中ドローンを放つ。柏原軍曹は二本のスティックを器用に操作して、ドローンに海底を舐めるように泳がせた。そして、何回か旋回してライトを照らした先に巨大な岩のようなものが姿を表した。表面に海綿やらコケムシやらが蔓延っており、生き物の楽園に見えたそれは、ドローンをスライドさせていったところで急に巨大な口のような穴を露わにした。事前に得ていた特徴と一致する箇所を数個見出し、それが『むーんらいと』であることを柏原と共に海渡は理解した。

「これが沈んだ原因ですね。酷いやられようだ。」

口のように見えたそれは、沈没の直接的原因になったと思われる船底に空いた穴であった。船底の面積の五割にも達するかのような巨大な穴は、無限に続くかのような奥行きがあるように見え、見たものに恐怖を植え付けた。

「このまま中に入れるか?」

「任せてください。」

柏原は恐怖を振り払うように自信満々に言ってみせた。ゆっくりと前進して中に入ったところで、急にカメラの視界が遮られ柏原は椅子から飛び上がった。少しして、それが魚の群れであることがわかり柏原は胸を撫で下ろした。

「アポなしで入ったせいで機嫌が悪いのかもしれんな。」

「そうですね。ここはもう彼らの家です。」

落ち着かせるために海渡は冗談を言い、柏原もそれを汲んで返した。

さらにドローンを前進させ船底の中央辺りまで来たところで九十度左に旋回した。水密隔壁が映ったところで海渡は違和感を覚えてライトの明るさを上げるよう指示した。柏原も遅れてその違和感を共有し、明るさを上げるとより広い範囲がカメラに映って違和感の正体が表れた。

「これ、何がどうなったんでしょうか?」

「わからん。」

映された隔壁は船体上部から下部にかけて真っ直ぐに切断されているように見え、しかもドローンが入れそうなほどの幅がある。

「両端の形状から察するに、向こう側からこちら側に破られたと思われます。」

「先に進んでくれ。」

「ア、アイ・サー。」

柏原はあまり気乗りしなかった。この先に進むと後悔するのではないか、そのような胸騒ぎがした。海渡も同様だったが、早苗の死の原因が違うのではないかという期待感の方が強くなっていた。

さらに進むと新たな隔壁が見えてきたが、それも同様の状態だった。段々と不安が足音を大きくしながら近づいてくるのを二人は感じた。最終的に全ての隔壁を確認したが、どれも同じ状態だった。途中車両デッキに通じるであろう穴があったが、ミニバンがそれを塞いでいたため進むのを断念した。

「艦長、気になることがあるのですが。」

「おれもだ。」

「ここまでまだ、侵食の痕跡がありません。なぜでしょうか。」

「詮索は後だ。落ち着いて作業を続行しろ。」

深海棲艦に襲われて沈没、みなそのように聞いていたし、当時のニュースもみなそう言っていた。それなのにどこにもその痕跡がない。長い間沈んでいてそれが消えたのだろうか。そんなことがあるのか。海渡は考えた。船底から出て船体を見返すと、船底に空いた穴は中から外側に向かって大きな爆発によって空いたようにも見える。

「この穴は大きすぎる。深海棲艦にこれほどの破壊力が出せるのか?」

海渡は独語した。まさか、意図的に沈められたのか?海渡の脳内をその考えが走り回り、混乱を生んだ。早苗は事故死ではなく殺されたのか。急激に怒りが湧いたが無理やり抑え込んだ。今はそんな場合ではない、ここで考え込んでも仕方がない。本来の目的である侵食の痕跡の回収を断念し、そのまま調査を続行するように柏原に指示した。その指示を受けつつ柏原は海渡に振り返り、質問しようとしたところで止めた。目に飛び込んできた光景が、彼の呼吸を一時的に止めた。

「どうした?」

「艦長、その左目は一体?」

海渡は反射的に左手で隠してたじろいだ。柏原の顔は驚愕に占められていた。しまった。海渡は真っ先にそう思うと同時に、過去に二本角に言われたことを思い出した。

「我々の本質は、憎悪と憤怒、そして後悔だ。お前も同様だ。」

まさか先程の怒りの感情に反応したのか。思考が先行して気を抜いていたのかも知れない。

「艦長、話して頂けますか。我々があなたの私兵である以上、その権利があると認識しています。」

海渡はしばらく悩んだ。いつか話さなければいけない内容ではあったが、まさかこのような形で露呈するとは思っていなかった。

「わかった。捜索が完了して浮上したら話す。」

「ありがとうございます。」

海渡は操縦室を後にした。今更ながら、これを見て叫んだり取り乱したりしないのは驚嘆に値した。

 

 

 

結局ドローンは『むーんらいと』を二周ほどしたが深海棲艦の痕跡は見つけられなかった。調査した内容だけで言ってしまえば「船底で何かが巨大な爆発を起こして沈没した」と判断するのが妥当だろう。

海渡はドローンで得た情報の全てを幹部たちに公開した。彼らの反応は様々であったが、一つだけ共通していたのは「これを公にするのは避けたほうが良い」という認識だ。誰とはまだわからないが、明らかにこれが公開されることで不利益を被るであろう人もしくは集団があり、それをつつくことは藪蛇もいいところであった。

「もし誰かが意図的に沈めたとして、一体誰が何の目的が?」

松葉がみなの疑問を代表して口に出した。

「わからん。船そのものを沈める必要があったのか、何か沈めるべき貨物があったのか、それとも――」

船を沈めて乗客を殺すことに意味があったのか。おぞましい予想のため最後は口にしなかったが、その場にいる者は理解した。

「任務の目的は達成できなかった上に知らざるべからずを知った、か。とりあえず、この情報は乗員以外には他言無用だ。」

海渡の言葉にみなが了解の意を示した。そして、海渡はばつが悪そうに話題を転じた。

「あー、乗員みなに伝えなければいけないことがあるんだ。浮上後に、可能な範囲で乗員をカタパルトデッキに集めてくれ。」

柏原以外は不思議そうな顔をした後に了解の返事をして出ていった。そして明石を呼び、

「前に言った情報共有用のヘッドセット覚えているか?浮上後に使うから準備しておいてくれ。」

と指示した。明石はわずかに疑問を頭に浮かべたが、忘れ去って快く了解して去っていった。

「復讐の機会が生まれるのは、幸か不幸か。」

海渡はこの『むーんらいと』の不可思議な状態について、先入観から大泉が絡んでいるのではないかと考えていた。もしそうだとしたら、大泉は海渡から何もかも奪っていったことになる。妻を奪い、『はるか』と乗員を奪い、金剛たち艦娘を奪った。腸が煮えくり返りそうなほどの怒りが生まれ、彼の精神を興奮させ始めたところで急に両肩に軽い衝撃を感じた。

「海渡さん、大丈夫ですか?左目に出てますよ。」

気づいて顔を上げると吹雪が心配そうな顔で立っていた。海渡の両肩に手を置いて現実に引き戻そうとしているように見えた。

「ああ、すまん。ちょっと考え事をしていた。」

「『むーんらいと』に何かあったの?」

吹雪の後ろから声がし、除くと北上と最上がいた。海渡は吹雪を離しつつ、三人に『むーんらいと』の調査について話した。吹雪を除いてはあまり表情の変化はなかったが、それは話に興味がないというより聞きながら考えているようだった。

「あの大泉とかいうのが一枚かんでる可能性ない?」

最上の鋭い一言に海渡は返答しなかった。彼自身もそう思ったが、あまりにも先入観が強いのではないか。そうだとして、艦娘研究所の人間が一般市民が乗る船を沈める必要があるのか、皆目見当もつかない。しかし、あの外道なら何かやりそうな雰囲気だけはある。この場にいる四人に共通した認識だった。

「今回ばかりは先入観でものを言うのは危険すぎる。最上、他には言うなよ。」

「わかってるって。みんなの前だから言っただけだよ。」

最上がへらへらと笑って返す。こんなときでも締まりがないのが彼女らしさであるので、海渡はわざわざ注意することはない。

「とにかく、深海棲艦による事故じゃない可能性が出てきたってことだ。良いのか悪いのかわからんが。」

「前向きに考えようよ。ちゃんと奥さんの復讐ができるかもしれないってことじゃん?」

北上の言葉に驚き思わず顔を凝視した。本気なのか冗談なのかどちらと取ってよいかわからない表情だ。

「お前の中ではそれは前向きなのか。」

「そうだよ?そしたら海渡さんの気持ちが少しは晴れるんじゃない?そしたらあたしたちも嬉しいし。」

ここで"たち"とつけて断定する辺りに彼らの結束の強さがある。海渡は『みらい』乗員や新しく転属した艦娘たちを信頼しているが、ここにいる三人に向けているものはその比ではないのだ。

「まぁ、そうだな。」

ただ事故で失っただけではない、というのはある種の救いかもしれない。

「ああ、それはそうと、少し厄介なことになってな。」

そう前置きして左目の異様を柏原に見られたことを話した。三人は共通して「やらかしたね」と表情に出したが、もう見られてしまったことは仕方がなく、この先共に任務をこなすなら教えておいたほうが良さそうと判断したことも話した。

「いいんじゃない?海渡さんが決めたなら。何かあったらすぐ言ってよね。」

「ありがとう。ただ、すぐに暴れまわったりするなよ?お前血の気が多いんだから。」

「ふふん、人を守るってそういうことよ。」

北上は自信満々に言う。それにつられて三人は笑った。

 

 

 

日没まで一時間迫った頃、周囲の安全を確認した後『みらい』は浮上した。集められたものの理由を聞いていない乗員たちは何事かと浮き立っている。事情を知っている吹雪、北上、最上は周囲の警戒のためこの場にはおらず、他の艦娘たちも甲板に立って周りを眺めていた。

「今から起こることを口外することは禁止する。もし破れば、いくら元帥に選ばれたものでも降りてもらう。」

そう言って海渡は明石からヘッドセットを受け取って頭につけ、コードをタブレットに接続した。

「いや、それ艦娘用なんですけど。」

「質問は最後に受け付ける。とにかく黙っていてくれ。」

海渡はさらにそう付け加えて、甲板から勢いよく飛び降りた。誰もが「気でも狂ったのか」と思い、そして即座に撤回した。海渡が海上に立っているではないか。さらに数歩歩いて、海渡は両手を海面につけて大きく呼吸した。すると、左目に白い炎が宿ると同時に、タブレットに周囲の情報が流れ込んだ。それが徐々に半径を拡大していき、最終的に半径二百キロメートルになって本土近海を航行する客船やそれを護衛する艦娘たちが映り込んだ。南側五十キロメートル辺りに深海棲艦の駆逐艦二隻が迷子のようにふらついているのも映された。

「こちらCIC!一体甲板で何やってるんですか?急にレーダー情報が入ってきてますよ。」

艦内に残っている乗員が通信機越しに叫んでいる。海渡はそれを無視して、柏原を見た。

「先ほどのドローンでの捜索中に、柏原軍曹におれのこの白い炎を見られた。だから、全員が知っておくべきだと思い、集まってもらった。話すよりも実際に見てもらったほうが早いだろうしな。」

未だ炎が揺らめく中、海渡が淡々と話す。動揺や混乱は起こらなかったが、さすがに言葉にならないらしい。

「吹雪、北上、南側の駆逐艦の二隻を排除してくれ。北上はレールガン持ってるな?それを使ってくれ。」

「あいあいさー。」

あまりにも静かで質問がないため、海渡は吹雪たちに指示を出した。

「あー、何か質問はあるか?」

自分で呼んでおいて気まずくなってきていた。海渡の言葉に乗員同士顔を合わせた後に、質問が飛び交った。

「いつからそのような状態になったのですか?」

「苦痛というか痛みはないのですか?」

「訓練すればできるようになるんですか?」

海渡は一つ一つに回答していった。恥ずかしさも感じつつ、可能な範囲で誤魔化すことのないようにした。それが一通り終わった後に、副長の松葉が言った。

「艦長は人間ですか?」

乗員も艦娘も敢えて避けていた質問を彼は投げた。

「そう思うか?」

「半分ほど。」

「では半分だけ人間ということにしておこう。自分でもよくわからないからな。」

そう言って海渡は解散させた。軽蔑されるかと思いきや、意外にも乗員たちには受け入れられ「艦長が深海棲艦の艦なんてこれ以上面白いことがあるか?」とむしろ好意的だった。

一方、迎撃を命じられた吹雪と北上は多少の心配をしていた。大淀がまた裏切るのではないか、と。

「もし帰って通報されたらどうしましょう。」

「そしたらもうみんなで逃げるしかないね。またお尋ね者になっちゃうけど、海渡さんがいなくなるよりマシだよ。」

「そうですね。また、違うところで暮らしましょう。」

そんな話をしながら、レールガンの射程に敵が入ったことを確認して、北上は射撃体勢に入る。

南西海戦の際に吹雪が使っていたものを北上に合わせて少し大型化したもので、何回かの明石との議論の結果、主砲が貧弱な北上が持つ方が良いということになり彼女の装備となった。狙撃はあまり得意ではなかったが、やればできるもので数回の射撃練習で見事にものにした。海渡が今回迎撃を任せたのは、それのテストという面もあった。

偏差をとり引き金をひく。金属同士が激しく叩きつけられたような音が鳴って発射された弾は、十キロメートルを約四秒で駆け抜けて駆逐艦を直撃した。弾の勢いにより、穴ができるだけでなくその周囲も吹き飛ばし、敵は一瞬で沈んだ。もう一隻の敵が気づいたが、北上は弾を再装填して再度構えて撃ち、一隻目と同じ運命を辿らせた。

「いいねぇ。」

砲撃戦で歯がゆい気分を味わっていた北上は嬉しさを超えて感動すらしていた。吹雪は電探とレーダー情報の両方で周囲に敵がいないことを確認し、レールガンを撫で回す北上にため息をつきながら「帰りますよ」と言い、二人揃って『みらい』に帰投した。

『みらい』は日が沈んだ海を進み港へ戻った。出撃してから二日後のことである。

 

 

 

港へ戻ると海渡は急ぎ足で橘の部屋へ向かった。二十一時を回った頃だが、報告を受けるために光政と共に待っているというからには、気分も足も前のめりになるというものだった。

ノックして中に入ると二人ともソファに座りコーヒーを飲んでいた。海渡の気分とは真逆でゆったりとした空気が漂っていた。

「やっと来たか。」

「これでも急いだほうですよ。」

海渡はやや不満げに橘に返答して、ドローンの記録が入ったDVDを手渡した。

「予想外の事態が起きましたので、まず中の映像を見てください。」

二人は唸って機械にDVDを入れて再生した。海渡は立ちながら何も言わずに見ていた。最初は多少会話していた二人であったが、徐々に無言になり海渡と同じ違和感を覚えたようだった。およそ一時間の記録だったが、粘性のある何かが彼らに纏わりついたように体を重くした。

「これを知っているのは?」

「『みらい』乗員だけです。」

「そうか。ならいい。」

橘は短く返して終わった。

「さて、これをどう読めばよいか。」

「どう読むだと?殺された以外に何かあるというのか!」

橘の独り言に光政が吠えた。机に拳を叩きつけ、猛々しい怒りを炸裂させる。

「元帥閣下。どうか落ち着いてください。その可能性があるというだけで、証拠も何もないのですよ。」

「だが明らかにあやつらの仕業ではないではないか。事故ならまだ諦めようがあるものが、これを知っているやつらからすれば私は良い笑いものだろう。」

彼の怒りは最もであったので、彼自身を除いて誰も制止もしなかった。

「沈没原因が深海棲艦だと決めたのは誰だ?」

「確か、事故現場に最初の到着した『かなた』に乗艦してた調査員だったかと。…もう一度洗い直しましょう。」

光政は何も言わなかったが、橘はその意図を汲み再調査を決めた。

「私もお手伝いしましょうか?」

「いや、志ノ方、お前はいつでも動けるようにしておけ。あと、吹雪たちを見ておくんだ。おれの勘、だが、お前はヘビより恐ろしいものをつついたな。まぁお前はいつもそうだったような気もするが。」

「恐縮です。」

「思ってもいないくせに言うな。」

「全く無いわけではありません。本当です。」

海渡の言葉を橘は一笑に付した。

「とりあえず追って指示する。彼女たちのところへ戻ってやれ。」

海渡は素直に指示を受け入れて、部屋を出ようとした。そこに光政が声をかけた。

「海渡。」

「なんです?」

「…ご苦労だった。」

「はい。」

海渡が退室して遠くに行ったことを確認して橘は口を開いた。

「良いのですか?」

「ふん、今更言わなければならんほどの間抜けに娘をやった覚えはない。」

橘は「そうですか。」と軽く返した。当人に自覚があるのか不明であったが、端から見ている橘としては光政の変わりようには面白いものがあった。あれほど嫌っていた海渡に、実の息子のように厚い信頼を寄せている。海渡と早苗が結婚してからしばらくの間、今まで娘の話しかしていなかった光政が海渡の話もするようになったのは海軍の中でもかなり驚きを持って迎えられた。橘からすれば、あれほど扱かれたにも関わらず話題に出なかったら海渡が不憫だな、とは思っていた。

目の前の虎は数年前の怒りと悲しみを思い出して復讐に燃えている。海渡もそれを感じただろうし、彼自身も思っているだろう。だから言葉は不要なのだ。

 

 

 

不可思議なことがありながらもみな怪我なく帰還したため、予定通りシャルロッテに行くことになった吹雪たちはあえて現地で待ち合わせることにした。「その方がお出かけ感が出るじゃないですか。」と明石が言ったためである。

一方、それに呼ばれてない飛龍は赤城たちの病室に向かった。南西海戦から一度も顔を合わせていなかったため、挨拶を兼ねたお見舞いである。

「元気そうね。」

病室に入って挨拶を済ませると、加賀が優しく笑顔を作って言った。

「はい。お陰様で。恥ずかしいところお見せしてしまい申し訳ありませんでした。」

「区切りをつけられたなら良かったわ。新しい部隊には慣れた?」

「まだなかなか。ギリギリついていけてますけど、吹雪さんの指示がキツいんです。」

「まぁ、そうでしょうね。」

吹雪は無理を言っているつもりはないのだろうが、それに合わせて動くのは的確に艤装を制御する必要があり、少しでも加減を間違えると指定された位置に間に合わなかったり、通り過ぎたりしてしまう。特に怒られることはないが、一応元機動部隊の一員だったという誇りが傷つくのである。

「でも、何だか雰囲気が変わりましたね。前より楽しそうで。」

赤城の言葉に少し照れくさくなった。だが何となく自覚はあって、ちゃんと変われていることに嬉しくなった。

「そういえば潜水艦乗ったんでしょ?どうだった?」

「狭かったけどそこまでじゃなかったよ。ちょっと怖かったけど。」

「水上艦の艦娘が海の底に潜るなんて、なんだか縁起が悪いように思えるわ。」

「私は狭いの苦手なので無理ですね。」

蒼龍も合わせて雑談に花が咲いた。多少外に出られるとは言え、未だ傷が癒えない入院の身のため飛龍からの情報は刺激になった。いくら翔鶴と瑞鶴がいるとは言え、母艦の『いずみ』は未だにドッグにあるため、迎撃の任は遊撃部隊と打撃部隊に頼ることが大きかった。今日は非番だったが、これが終わればまた忙しく出撃を繰り返すことになる。今の遊撃部隊の立場はそのようなものだった。そんな中で提督たちの話になり、飛龍が気になったことを口にした。

「そういえば、椎名提督は元気ですか?」

「まぁ、元気と言えば元気ね。最近はちょっと怖いけれど。」

加賀が一瞬置いて話す。

「何があったんです?」

「どうやら提督は貴方を志ノ方提督に取られたと思っているようで、競争心が強く刺激されたようなんです。あの人、負けず嫌いだから。」

飛龍は苦笑したが、思いの外深刻なようでそれにつられて笑う者はいなかった。

「すいません、私のせいで。」

「あなたが謝ることはないわ。結果的に立ち直れたのですから。しばらくは出撃の機会もあまりないでしょうから、その間に落ち着くことを祈りましょう。」

赤城の慰めを見るに、自分にできることはなさそうである。結局薫自身の問題であり、下手に首を突っ込むことは避けたほうがよさそうだ、と飛龍は判断した。

「志ノ方提督は何か言ってなかった?出撃前に会ってるらしいんだけど。」

「何も言ってなかったよ。というかあの人のことだから何も言わないと思うけど。私に、でしょ?」

三人とも「まぁ確かに。」と納得した。

「何か考えてる風でもなかったけど、海渡さんなら自分でどうにかしようとするんじゃないの。」

「あら、いつの間にか呼び方が変わってるわね。」

「周りの人がずっとそう呼んでるから、つられちゃって。そっちの方が呼びやすいんですよ実際。」

「まぁ長いわね。志ノ方提督、は。」

赤城の言葉に笑いが起きた。とにかくお互いに元気であることがわかり安堵し、飛龍は病室を後にした。

 

 

 

吹雪たちは駅前に早めに集合し、洋服を買うため駅ビルの中を歩き回った。それぞれが自由に選んで購入したが、吹雪の服選びがやや難航したため、北上、最上、明石による着せ替えが始まり途中からそれが主題になっていた。

「海渡さんってこういうの好きですかね?」

「いや、丈は長いほうがいいと思う。部屋に飾ってあった奥さんの写真の服がそんな感じだったよ。」

「でももうロングスカートは持ってるでしょ。むしろめっちゃ短くしてショートパンツとか、どうよ?」

実際に着る本人を他所に三人は大いに盛り上がり、最終的に二着に定まって買い物は終わった。

「あとで、ちゃんと海渡さんに見せてあげてくださいね。」

「明石さんそういうのちょっと止めてください。」

吹雪が顔をわずかに赤くして明石を制止する。ただ、不快ではなかった。普通の友人と普通に遊び普通にふざける。ただそれだけがとても心地良い。

その後、予約したカフェ、シャルロッテに向かった。それは駅前の大通りから少し外れた道を進み坂を登ったところにある。丘の上に佇む少し古めの平屋の古民家で、名前とは裏腹に年季の入った和風の建物である。いわゆる居抜き物件らしく、店内も畳にローテーブルが置いてあり、洋風なのは出てくる食事と店名だけだ。海渡は苦労しなかったが予約を取るのは争奪戦の様相を呈し、予約開始の時間になるとみなで電話をかけて通じることを祈るらしい。三人はそんな話をシャルロッテに来るまでの間に明石から聞かされた。

「海渡さんも来ればよかったのに。」

「まさか予約した本人の分は取ってなかったとは思わなかったな。」

海渡は予約をする際に自分を除いた人数を伝えた。曰く「若い女性たちだけで楽しんでこい。」だそうである。実際、シャルロッテの中に入った四人はそれで良かったと感じた。全ての客が若い女性で男性は一人もいなかったのである。ここにこようものなら居心地の悪さたるや凄まじいものだろう。

案内された席に座り、各々好きなものを注文した。明石は多少迷ったものの、季節限定の文字に負けてタルトを選んでいた。

「そういえば海渡さん今日何してるんだろう。」

「寝てるって言ってました。最近ずっと日付回るまで仕事してたらしいので。」

海渡が一人で過ごす姿を想像できず、最上が独り言のようにつぶやくと、吹雪が生真面目に返した。「よく知ってるね。」と最上は口ではなく顔に出して吹雪を見た。

「昨日帰り際に聞いたんです。みんなで楽しんでおいでって言ってました。」

「完全に親心のやつですねそれ。」

「でも海渡さんが一日寝てるってめっちゃ珍しくない?」

「確かに。」

北上の発言に他三人が同意した。彼女たちの海渡に対するイメージは精力的に動き回り、吹雪達の面倒を見たり、各所から情報を集めたり、作戦計画を思案したり、と忙しいものだった。

「あの人、副官雇うなり誰かに仕事頼まないの?」

「うーん、そうねえ、やらないんじゃないかな。たぶんそれ自体思いついてないと思う。それに吹雪がいるからね。」

「わ、私ですか?」

「吹雪がって言うか、あたしたちがいるから知らない人を雇うってことはしないと思うなあ。特に吹雪が副官やってるようなもんだし、ないだろうね。」

明石と最上が声に出して頷く。吹雪も意見そのものに異論はなかったが、自分が足枷になっているような気分になった。

「他の人達ってどうしてるんですか?」

「赤城さんと川内さんはよく書類のまとめとか処理してるって聞きますね。決裁だけ提督がやればいいような感じに。長門さんはわからないです。あの人がデスクワークやってるところ、見たことないかも。」

「じゃあその二人に聞いてみたら?海渡さんの仕事手伝えるかもよ。」

「はい。やってみます。」

最上は何食わぬ顔で吹雪の仕事を増やしたが、吹雪自身は海渡の負担を減らせるかもしれないことに喜んでおり、そのことに気づかなかった。

そこへ注文した品が届き、仕事の話は終わり何気ない雑談に移行した。ケーキを食べ終え、雑談もそこそこに切り上げた頃には十六時を回っていた。

 

 

 

橘は副官の榎本大尉に『あまぎ』唯一の生き残りである桐野中尉の再聴取を指示した。とは言え、内容が内容だけに公然と取調室を使うことは避けるべきであったため桐野を別名義で確保した小会議室に呼び出した。桐野は昼間だというのにカーテンが閉じられている様を見て警戒レベルを一つ上げて、榎本に何事かと尋ねた。

「もう一度『あまぎ』の状況について話してほしい。」

榎本に言われた時、桐野はそんなに秘匿すべき何かなのだろうかと疑問に思ったが、勧められるままに椅子に座って話し始めた。彼にとってこれは合計五回目の聴取でうんざりさせられていたが、とにかくさっさと話してさっさと終わらせる、という意図があったからだ。他の聴取でも答えたように粗方話した後、榎本が別の質問をした。

「当日、戦闘が始まるまでの間に何かおかしなことはなかったか?乗艦前から思い出してくれ。」

桐野は一瞬戸惑いを顔に出した。今までの聴取で聞かれたことのない質問だったからだ。少し考えた後、起床して朝食をとって、と朝からの行動と風景をなぞりながら思い出していると、一つ気になったことがあるのを思い出した。

「そういえば、見たことのないコンテナが格納庫にありました。」

「見た目や大きさは覚えているか?」

「確か、青みがかったやつでした。コンテナというには少し小さかったかと思いますが、見た目はそれっぽかったです。」

「中身はわかるか?」

「いえ、担当外でしたし扉は閉まっていたので見ていないです。」

榎本は新しい情報を得たことに多少の喜びを感じていたが、同時に中身を確認することが不可能ということも判明し、それ以上追求しようのないものという落胆もあった。なにせ、乗員は全員死んでいるのだ。榎本はそのコンテナを桐野に簡単にスケッチさせ、お礼を言って彼を帰した。

それらの情報をまとめて橘へ報告すると、彼はそれらを受け取りつつ新しい指示を出した。このデザインのコンテナの管理者と、当日の『あまぎ』の荷物の積み込み状況を調査するように命じた。特に警戒して調査にするように、と付け加えて。『むーんらいと』の件を聞かされていたわけではなかったため、不可思議な命令だなと思いつつも異論なく承諾した。

榎本が執務室を去るのと入れ違う形で、当時の『むーんらいと』の事故調査資料のコピーが届いた。事故現場を見て原因を判断したのは大泉の命令で派遣されていた研究員だったらしい。なぜ彼らが同乗していたのかは全く不明だったが、現場の浮遊物の状況からそのような判断が下されたようだ。当時の浮遊物として記録されている写真には確かに侵食されたような跡があるが、海渡が撮影してきた船体には何もない。この矛盾はどういうことなのか。とにかく光政や海渡たちと共に感じた「研究所もしくは大泉が何らかの企てにより介入している可能性」がいよいよ形を成してきていた。

それらの情報をまとめた資料を海渡に届けるために彼の執務室に向かったが、途中で彼が休みを取っていることを思い出して自室に戻った。これは直接渡した方が良い、と勘が警報を出したのだ。

 

 

 

日が暮れたあと、吹雪は海渡の執務室に戻って執務机の上に置かれている書類を眺めていた。シャルロッテで話してから、何か手伝えることがあるかも、と思ったのだ。そう意気込んできたのは良いものの、多数の紙束の内容は理解できないものばかりだった。厳密には書いてあることは何となく理解できるのだが、これをどうすればよいのかわからなかった。その内少し疲れてきて、近くにあった海渡の執務椅子に無意識に座った。結局眺めてもよくわからなかったので書類を元の位置に戻して、落胆のため息をついた。

「もっと役にたてないかな。」

戦闘以外ではあまり役に立っていないのではないだろうか、と思う。お墓参りの時に繋いだ手は、確かに親子や上司と部下ではない何かを感じたが、まるで夢だったように今では何もない。少しの寂しさを感じて大きめの椅子の上で膝を抱えた。色々悩んでいる内に、扉がノックされて大淀が入ってきた。

「あら?吹雪さんでしたか。てっきり提督がいらっしゃるのかと。」

手ぶらの私服姿で入って来た彼女は少し固い表情で言った。

「海渡さんに何か用事でしたか?」

「ええ、まぁ。でも、吹雪さんにもあるんです。」

「なんでしょうか?」

吹雪の問いに対して、大淀は姿勢を正して表情をさらに引き締め頭を深く下げた。

「本当に、申し訳ありませんでした。」

吹雪は少し困った。許せない感情はあるが、同時に憐れみの感情もあった。あれだけ大泉に協力していたのに、いざ所業がバレたら知らぬふりを決め込まれ捨てられた彼女に同情した面もあった。

「もう大丈夫です。止めてください。」

そのため、吹雪は余計なことは言わず短く返した。自分の感情を発露させるのは避けたかった。海渡が彼女を引き入れた以上、問題を起こしてはいけない。吹雪はそう考えた。

「許していただけるんですか?」

「違います。海渡さんをあんな目に合わせたことは絶対許しません。それでも海渡さんが決めたのです。だからもうこの話はしないでください。」

「わかりました。」

大淀は少しの悲しさを含んだ表情をした。吹雪の「許さない」という発言に恐怖を覚えたが、万事言葉で解決できるものではないと自分に言い聞かせた。海渡にも警告されたように自分本意にならないようにしなければ。と、大淀はあることを思い出して口元をほころばせた。

「何が可笑しいんですか。」

「すいません。海渡さんと両思いなんだなって思いまして。」

「な、なんですか急に。」

大淀は思い出したことを話した。以前海渡との会話で同じ話題になったとき、海渡は「吹雪を傷付けたこと」に怒っていて「自分が傷付けられたこと」には一切言及しなかったのだ。その時はまるで気にならなかったのだが、吹雪が同じように「自分のことよりも海渡のこと」を優先し、奇妙な一致を見せたので思わず表情を緩めてしまった。それを聞いた吹雪は顔をわずかに赤くして黙った。

「そういえば、何をされていたんですか?」

吹雪の赤面を抑える目的も兼ねて話題を変えた。吹雪は自分の目的を正直に話した。大淀ならそういう経験があるかもしれないと期待したためだ。

「なるほど。やり方は提督それぞれですので、直接聞かれたほうが良いと思いますよ。この書類の並びも志ノ方提督的に意味がある並びかもしれません。」

大淀は執務机の前に来て、書類を覗きながら言った。

「そうなんですね。難しい。」

「始めたての時はみんなそうですよ。それにしても。」

「なんですか?」

「いえ、幸せそうですね。」

吹雪はまた言葉を失った。無自覚だったが、悩みながらも表情は緩んでいたのだ。その様子を見て大淀は微笑んだ。「またからかわれた」と吹雪が内心へそを曲げた時だった。廊下から何やら足早な足音が聞こえてきた。それは徐々に大きくなってきて執務室に近づいてくるのがわかる。大淀は「誰か近づいている」程度の認識だったが、吹雪は全身に悪寒を覚えた。理由はわからなかったが『かなた』の格納庫で紺野に迫られた時に似ており、今歩いてきているのが紺野だと直感した。

「大淀さん!隠れて!」

大淀の腕を引っ張って執務机の下に二人で隠れた。大淀の不思議そうな顔に対して「音を立てないでください」と言った瞬間に扉が開いた音がした。そして、誰かが中にゆっくりと入ってきた。ヒールのような高い音がする。それが余計に吹雪を恐怖に陥れた。そして、

「他の女の匂いがする。最悪。」

と敵意むき出しの声が聞こえ、それが紺野であることがわかった。紺野が執務机の前まで来るとわかり、吹雪は改めて大淀をより机の下に隠そうとした。百六十センチメートルある身長と長い脚はモデルにも負けない長所だったが、この場では完全に短所であった。どうにか収まった頃に、紺野が机の上を物色し始めた。あれだけ海渡に執着しておきながら彼の所有物には興味がないようで、敬意の欠片も感じない完全な家探しだった。それが早く終わることを祈りながら耐えていると、別の声が聞こえた。

「もう少しバレないようにやれないのか。散らかしすぎだ。」

「いいんですよ。私のものでもあるんですから。」

誰の声だろうか。吹雪は思案したが、その後の紺野のあまりにも無茶苦茶な論理に悪寒が増した。紺野という人物は想像以上に狂っている。

「というかこんな煌々と明かりをつけてやるやつがあるか。」

「最初からついてましたよ?」

そこで吹雪と大淀は心臓が跳ねた音を聞いた。咄嗟のことでそこまで頭が回らなかった。見つかったらどうする?取り押さえるか?そう考え始めたときだった。

「先輩のことだからつけっぱなしにしちゃったんじゃないですか?」

「まぁ、あいつはその辺よくやらかしてたからな。」

紺野ともう一人はあまり深く考えずに納得してその話を終わらせた。吹雪と大淀は安堵した。さらに物色が続いた後に、

「駄目ですね。ないです。」

「まだ届いていないということか。」

「わかりません。桐野の聴取が昼間にあったそうなので、それもありそうですね。橘大将が持っているんだったら、さすがに手を出すのは無理ですし。」

「もう渡っていたらどうするんだ?」

「その時は別の方法を考えましょう。先輩が知ったからと言ってすぐに問題にはならないですし、今回のは予防線と言うだけですから。まったく、余計なことを調べ始めちゃって。私が一緒ならそんなのから遠ざけてあげるのに。」

「そうか。」

紺野の利己的思考は大泉のものとはまた違った意味で恐怖を覚える。自分のやること全てが海渡のためになっていると思っている。それは果たして愛や好意と呼べるものなのか。吹雪は嫌悪せざるを得なかった。

「じゃあもう用はないので行きましょう。」

「そうだな。」

二人の足音が執務室を出ていき扉が閉まった音が聞こえた。大淀はようやく解放されたと思い立ち上がろうとしたが、

「まだ駄目です!」

吹雪が小声で言いながら大淀の腕を引っ張り机の下に戻した。その直後。大きな音を立てて扉が開いた。

「どうした?」

「いえ、もしかしたら、誰かいるかと思いまして。気の所為でしたね。」

その後もう一度扉が閉まり、今度こそ足音が遠のくのを確認して机の下から出た。

「今の、紺野提督でしたよね?あと、おそらく椎名提督だと思いますが、一体何を探していたんでしょうか?」

整理されていた執務机の上の書類が散らかされている。本当に遠慮がないほどに。

「わかりません。でも海渡さんに伝えないと。」

「そうですね。ただ、すぐに部屋から出るのは避けたほうが良さそうです。」

「はい。」

そう言って彼女たちはしばらくの時間を置いてから明かりを消して執務室を出た。

 

 

 

紺野たちが海渡の執務室に入る数時間前に遡る。薫は大泉から連絡を受けて彼の私室にいた。軍内での大泉の評判は、海渡の彼に対する評価と同じ方向を向いていたが、海渡のように憎んでいる人間はいなかった。兵器開発と研究に関する実績は認められており一定の評価はあるもの、人格的に評価に欠けているため積極的に関わろうとする者はいなかった。そのような評価を受けている大泉からの連絡を受けて承諾したのは、海渡の独断専行に対する協力要請を受けたからだ。協力するかどうかはさておき、一体海渡が何をしているのか気になっていた彼女にとっては僥倖だった。

「中佐殿よく来てくれた。さあかけてくれ。」

そう言われてソファに浅く座る。薫が大泉の私室に来たのは初めてであったが、特に何かあるわけではないのに室内の空気が微妙に淀み粘性があるかのように絡んでくるように感じ、非常に不快だった。彼の思考の淀みが部屋に充満していると言われても納得できる。

「まず詳細をお聞かせ頂けますか?」

薫はすぐさま本題に入った。彼と雑談を楽しむ気は微塵もなかった。さっさと済ませてこの部屋から出たいという欲求が強まっていた。

「ああ、そうだね。准将が潜水艦の艦長に着いたことは知っているね?」

「ええ。」

「その艦なんだがね。我々が入手した情報によると、建造中のものに彼個人の要望を入れて仕様を変更させたらしいのだ。しかも、山本元帥と橘大将の口添えでね。しかも、先日までの試験航海では妻が乗っていた船の調査をしていたそうなのだよ。酷い職権乱用だと思わないかね?」

大泉はわざとらしく訴えるように話した。薫は返答しなかった。というよりできなかった。彼女の想像以上に海渡は軍内で幅を利かせていることに、強い憤りを感じていたからだ。飛龍の件もそれの一環であると断定し、彼に対する嫌悪が更に強くなった。

「中佐も部下を強引に取られたそうじゃないか。しかも、弱っているところにつけ込んで籠絡する。人として恥ずべき行為だ。」

「それで、私に何をしろと。」

「いや、中佐に命令する気はない。ただ、協力してほしいのだ。私たちも迷惑していてね。彼の得た様々な情報がフィードバックされず、敵の情報ももらえず、装備開発に支障をきたしているのだよ。だから、彼の専横を止めるために共に戦ってもらえないだろうか。」

「具体的には?」

「まず、彼らが独自に集めている情報を入手する必要がある。元帥も大将も相手取るには物的証拠が必要だ。それを以って、制裁ないし楔を打ち込もうではないか。彼女も協力してくれる。入りたまえ。」

大泉の合図で部屋に入っていたのは紺野だった。なぜか笑顔を作っており薫は不気味さを感じた。

「彼女も我々と共に秩序の回復に努めてくれる。」

「しかし、元帥も大将も彼の味方だとしたら、それを軍部の意向として強行される可能性があるのではないですか。」

「大丈夫だ。こちらは国防大臣、ひいては政府からの要請だ。軍隊が勝手に行動するなどシビリアンコントロールの欠如も甚だしい。それを止めるために我々で対抗するのだ。」

予想よりも大事で薫は表情に出さずに驚いた。

「承知した。ただ、彼らの武力に対抗する手段が欲しい。いくら彼らが私兵と化したとしても武力が消えるわけではない。吹雪を始め、彼らには力がある。」

薫は直接的に協力の意思を示したりはしなかったが、同志になるというならば敬語は不要だと言わんばかりに口調を変えた。その意図は大泉と紺野に正確に伝わり、二人の内心で邪悪な笑みが浮かんだ。

「それはわかっている。だから君の部隊に優先的に装備を配給するように手配しよう。試験段階のものも多いが、少なくとも彼らに対抗するために役に立つはずだ。」

「感謝する。」

薫の要望通りの内容を確約した。大泉は薫の弱さを正確に理解した。「いくら大臣の命令とは言え、優先的に武器が配給されることが越権行為でなくて何なのだ。」と大泉は内心ほくそ笑んだ。この馬鹿な女は他人の不正には敏感だが自分の不正には鈍い。特に感情に動かされている時は尚更だ。それをここ数日の薫の動きから看破し、彼女の海渡に対する怒りと肥大したプライドを大義名分でくすぐってやることで協力者として仕立て上げることに成功した。

「とりあえず先輩の部屋にそのようなものがないか調べましょう。」

紺野の勧めに薫は無言で同意し、二人で部屋を出ていった。あまりにも上手く事が運び大泉は笑いを堪えるのに必死であった。

 

 

 

吹雪と大淀は急ぎつつも静かに海渡の部屋へ向かった。紺野だけでなく薫まで来たとなると、一体誰が敵なのか疑心暗鬼に駆られた。今すれ違っている軍人たちに実は監視されているのではないかと思ったが、そのような心配をしてもどうしようもないことなので、とりあえず目立たずに行動することを第一とした。

二人が海渡の部屋の前につき、インターホンを鳴らした。いつもはすぐ出てくるのに全く反応がない。まだ寝ているのだろうか。既に二十時を回っているのに。二人は不思議に思い顔を見合わせて、もう一度鳴らした。しかし反応がない。そこで吹雪、大淀と次いで嫌な予感が頭に流れ込み始めた時、中で物音が聞こえたと同時にドアが開いた。

「ああ、えっと、なんだ?」

まさに寝起きといった風体で寝巻きにくしゃついた髪、半分だけ開いた目、いつもの様子とは全く違っていて別の意味で二人は驚いた。吹雪ですら見たことがなかった。

「もしかして、今起きたんですか?」

「あ、ああ。なんというか、すまん。」

「おはようございます。」

「…おはよう。」

海渡は少し恥ずかしそうに返した。吹雪は珍しいものを見た感覚で浮ついていたが、大淀が咳払いをしたため表情を締めた。

「提督に、お話があります。盗聴の危険があるため、なるべく外でお伝えしたいのですが。」

大淀は小声で、しかし海渡にはしっかり伝わる音量で話す。海渡は相変わらずぼんやりした表情だったが、少し考えた後に、

「支度するから中で少し待っててくれ。」

と言って二人を部屋に招き入れた。海渡は二人を外で待たせることも考えたが、外で目につくほうが厄介だと判断したためそのようにした。

大淀は中に入ると予想以上に質素な部屋で驚いた。備え付けのテーブル、椅子、ベッド、本棚、ナイトテーブル以外存在せず、このまま部屋を出ていったとしてもすぐに別の人が入居できそうなほどだ。唯一ナイトテーブルの上にあるいくつかの写真立てだけが例外だった。見てはいけないと思いつつも、それ以外に目が止められそうなものがないので自然と目が行ってしまう。海渡は二人に麦茶を出した後、着替えを持って洗面所に入った。少ししてシャワーの音が聞こえてきた。

「こんなに生活感がないのは、ちょっと意外でした。」

大淀は椅子に座って驚きを隠さずに言った。対面に座った吹雪は麦茶を一口飲んでから返答した。

「海渡さんは、趣味という趣味がなくて、必要がなければ物を買わないんです。」

「悪い意味ではないのですが、少し寂しい感じがしますね。」

「はい。ただ、私たちがいるからそうなんだと思います。私たちの面倒を見るのに忙しかったので、あまり自分のものを買わなくなって、それがいつの間にか板についたんだと思います。」

「そうなんですね。」

大淀は返答に悩み定型的な返事をした。そして、唯一の私物と思われる写真立てにもう一度目を向けた。吹雪はそれに気づいて、説明を始める。

「あれは、奥さんや私たちと撮った写真です。」

「あれが、例の。」

以前光政が言っていた写真はあれのことか。本当に飾ってあることに少し驚きつつも、彼の心情を少し察せた。

「無私というのはこういうことを言うのでしょうね。」

「私は、海渡さんのそこが苦手です。申し訳ない気持ちになります。」

吹雪の気持ちは容易に理解できた。例え好意を抱いていなくても、この部屋の有様をみたら恐怖を覚える人もいるであろう。もしかしたら彼は思い出したくないがために何も持たないようになったのかもしれない、と大淀は推察した。それでも写真だけ捨てられずに残っている、そんな風に見える。

「でも、こんな時間まで寝てるなんて、意外でした。」

少し暗くなった雰囲気を変えるために大淀は話題を転じた。

「今日は一日寝てる、とは聞いていたんですが、ここまでとは思いませんでした。海渡さんにしてはとても珍しいです。さっきの姿なんて初めて見ました。」

「吹雪さんでも見たことないものがあるんですね。あんまりにもだらしなさ過ぎて驚きましたよ。」

二人で笑い合っていると、洗面所のドアが開いて海渡が出てきた。身だしなみを整え、いつもの海渡であった。

「待たせたな。じゃあ行くか。」

「お風呂上がりにすく服を着るなんて、暑くないのですか?」

「暑いに決まってるだろ。不快だが仕方ないだろう。」

「そうですね。すいません。」

大淀は雑談がてら話したが、原因が主に自分にあることを、言った後で気づいた。三人は部屋を出て基地の近くにある公園へ向かった。

 

 

 

公園には街灯がそれなりの数並んでいるため、夜でもそれなりに人通りがあり、散歩やジョギング、仕事帰り、門限ギリギリまで話し込む若者など、様々である。その公園の中頃に噴水のある池があり、そこには複数のキッチンカーが出店している。池の周りでの雑談のお供にフライドポテトを買ったり、ベンチに座ってハンバーガーを食べたり、とにかく多少の賑わいを見せていた。

海渡はそこで今日初めての食事となるハンバーガーのセットを頼み、少し離れたベンチに三人で座った。

「それで、一体何があったんだ?」

海渡はハンバーガーをかじりつつ言った。

「先程まで提督の執務室にいたのですが、途中で紺野提督と椎名提督が入ってきまして、何かを探していました。結局見つからずに出ていったのですが、何か心当たりはありますか?」

大淀の説明を受けて、海渡は考え込みながら食事を続けた。

「紺野と薫が、ね。今のところはないな。何を探していたかわかるか?」

「いえ、ただ、書類か紙束か、とにかくそれに準ずるものだと思います。"桐野さんの聴取"がどうとか、"橘大将から渡ったら"とか言ってました。」

海渡は一瞬だけ手を止めたあと、残りを口の中にやや強引に放り込んで飲み込んだ。

「なるほど。思ったよりも反応が早いな。」

「心当たりがあるのですか?」

「ある。」

「それは?」

「…そうだな。言う前に一つ確認させてほしいことがある。」

「なんでしょう?」

「いや、話す必要はない。ただじっとしててくれ。」

大淀は言われている意味がよくわからなかったが、吹雪は理解した。大淀の中を覗く気だ、と。そして同時に安心した。海渡が無条件に大淀を信用しているわけではないことに。

海渡は立ち上がって手を洗い、拭いてから大淀の手を軽く握った。

「な、なんですか!?」

「いいから動くな。」

急に手を握られ慌てる大淀を他所に業務的な指示を出した。吹雪は考えを読むためには触る必要があることにそこでようやく気づいた。大淀とは別の焦りが湧き始めた。しかし、海渡の予想に外れて何も起きなかった。海水でないと駄目なのか、場所が良くないのか、一旦手を離して考え込んだ。そして、

「ちょっと失礼する。」

海渡は大淀の頬に触れた。設置面積が広いほうが良さそうと考え、手の平を当てて包むように触った。そして彼女の目をじっと見た。大淀の動揺は一瞬で頂点に達したが、海渡の真剣な顔から目が離せず固まった。実際に海渡が見ていたのは、大淀の記憶であり彼女自身を見ていたわけではないのだが、それを知る由もない大淀はただただ顔を赤くした。それとは逆に、吹雪は経験したことのない焦燥感と絶望感に襲われた。そこまでする必要あるのだろうか、自分もされたことないのに、など頭の中をグルグルと疑いの感覚が走り回った。

海渡は一通り見た上で、大泉との関係が完全に断絶していることを確認した。それと同時に全く関係がないいくつかの大淀の恥ずかしい過去が流れてきたが無視した。しかし、と彼は思う。以前は頭が割れそうになるくらいの痛みがあったというのに、今は体調に問題なく処理できており、自分が人間から遠ざかっている事実にうんざりした。海渡は手を離し「大丈夫そうだな。」と独り言のように言い、座り直した。

「この前の試験航海で確認した『むーんらいと』は深海棲艦に襲われて沈没したことになっているが、実際に海底に沈んでいたやつには深海棲艦の侵食痕がなかった。それについて橘大将に再調査をお願いしたんだ。おそらく二人はそれを嗅ぎつけたんだろう。」

「何か問題があることなのですか?」

大淀はどうにか自分を落ち着かせて海渡に聞く。

「問題はあまりなかったが、問題があることのようだ。」

大淀と吹雪は察した。相手が動いているということは、何かあるのだ。

「あいつら自身が直接関与しているとは考えにくい。大泉、もしくはそっちの流れを組む誰かの意図で動いていると考えたほうが自然だろうな。」

「でもなぜあのお二人が協力してるんでしょうか?」

「そこまではわからん。何か得になることがあるのかもしれないが、見当もつかないな。」

吹雪の疑問に明確な答えは返せなかった。海渡も持っていなかったし、予想するための材料もなかった。しかし、この時の海渡は鈍かった。少なくとも薫が飛龍の件で彼に敵対的になっていたことを思い出すべきであった。彼自身はまさかそのような些事で部屋を物色されるとは考えてもいなかったのだ。

「赤城さんや三隈さんたちもなんでしょうか。」

「考えにくいが可能性はある。彼女らの部下全員がそうということは流石にないと思うが、気をつけた方がいい。」

「了解です。」

「とりあえず報告ありがとう。二人とも気をつけてくれ。何かあったらすぐ連絡しろ。いいな。」

「はい。」

海渡はこんな大事になるとは思っていなかった。大泉あたりが嫌な顔をして怒鳴ってくるくらいがせいぜいだと思っていたため、露骨に情報を隠蔽してくるとは予想もしていなかった。ただ、『むーんらいと』の件は大当たりをひいたようだ。海渡や橘の予想通り、ただの事故ではない可能性が非常に高まった。期待感が高まると同時に、明確な敵が身近にいることを認識させられた。深海棲艦だけでも面倒だというのに、後背にも敵がいるとは。海渡はため息をつきつつも、吹雪たちに危険が及ばないようにより意識しなければ、と覚悟を決めた。

 

 

 

夜の空と海は宇宙の一部のように見える。境界線が曖昧になり、それぞれが溶け込んで無限の広がりを見せている。二本角は特に意味はなくそれをずっと眺めていた。ただ、この先千キロメートルに早苗の夫がいると考えると、何となくその方角を見てしまう。

「シロ、また海を見てるの?」

背後から話しかけられ目線だけそちらに向ける。黒い一本の角を生やした白い長髪の女性が立っている。温厚そうな見た目と話し方とは対照的に両手の巨大な鉤爪が目を引く。

「シロお姉ちゃん、風邪ひいちゃうよ!」

その後ろから少女が飛び出して言う。腰までの白い髪に子供らしい丸い目。早苗に編んでもらったミトンを両手にはめている。お気に入りらしいが、暑くないのだろうかと思う。

「私たちは病気になったりしない。」

シロと呼ばれた女性は風で乱れた髪を直しながら答える。二本の角がこのような時微妙に邪魔だが、もはや慣れたものだった。

「早苗の様子は?」

「もう寝たよ。さなちゃん、今日は疲れちゃったって。」

「そうか。海渡に会える期待感で興奮しすぎたか。」

「そうかも。連れてくるの?」

「まだだめだ。ここの存在に気づきもしていない。」

シロは最近の海渡とその周りの人間の蠢動を気にかけていた。特に所長になった大泉のやり方が横暴になってきている。海渡と吹雪が"完成する"のが先か、大泉が"完成させる"のが先か。後者が先になった時かなり絶望的な状況になるが、今は黙ってみているしかない。

「自分でここを見つけられるかしら。」

「あいつならやる。どうやら『むーんらいと』の件に気づいた。」

「この前言ってた調査のやつ、できたんだ。良かったね。」

「そうだな。だが、このまま大泉とマコのやつに殺されたら意味がないが。」

「ほっぽ、マコお姉ちゃん嫌い!」

一本角の女性の後ろで怒りを露わにした。シロは薄く笑って、

「そうだなシノ、私も嫌いだ。」

と返した。最近は南方棲戦姫などと呼ばれて少し調子に乗っているようで、シロたちとしては警戒を強めていた。あれが自分を完全に抑えられなくなった時、こちらにも害が出るのは明白だった。

「あの人、自分から飲まれに行っててちょっと怖いよ。」

「いつか私たちにもあの敵意を向けるだろうな。その前に海渡に対処してほしいものだ。同類で争うのは避けたい。」

「そうね。彼が旗艦個体になったら、私たちもついていくの?」

「早苗より優れていれば、そういうこともあるかもしれない。」

何となくまた海の向こうを見た。今度は三人揃って。そして数十秒たったあと、シロは一つため息をついた。

「戻ろう。早苗のそばにいなければ。」

他二人が頷き、三人は早苗が眠る建物へ入っていった。

「早く気付け、そして来い。」

シロは内心で強く念じた。別に海渡に届くわけもないのだが、自分を取り巻く状況からそう思う回数が増えていた。そして、そのことに本人は気づかなかった。

 

 

 

次の日、海渡は寝すぎたあまり、逆に体の節々が軽い痛みを訴えるのを引きずりながら橘の執務室に向かった。部屋に入ると橘は挨拶もそこそこに本題に入って、報告書を海渡に手渡した。

「昨日、紺野と薫がこいつを探しに私の部屋に来たようですよ。」

「手が早いな。大泉あたりの差し金か。」

「わかりません。ただ、予想より重要そうですね、こいつは。」

海渡は許可をもらって椅子に座り報告書を眺めた。概ね予想通りの内容だが、桐野の聴取のところで手を止めた。知らない貨物の記述を読み「本命はこいつか。」と確信した。

「その貨物の出どころを探らせている。どうせ大泉のものだと思うがな。」

「でしょうね。」

しかし、一体何が入っていたというのか。もしこれが原因で『あまぎ』があのような事態になったのであれば、彼がやっていることは非人道的とかそういうものを超越した境地にあるような気がする。そして、それをやって一体何の意味があるのか。ただ興味本位でやったのだとしたら救いようがない。結果的に海軍の力を弱めるだけになった。では、何を得ようとしたのか。

「しかし、私の部下を当たり前のように使役するとは。後ろに控えているのは、最終的には国防大臣あたりになるかな。」

橘は不機嫌を露わにしながら話す。

「つまり、吹雪たちのことは大泉個人、もしくは研究所の意思ではなく、国家ぐるみでの計画だったという可能性があるということですね。これを無関係とはとても思えません。」

「そうだな。そうなるとこれは思っているより壁は厚そうだ。お前は本当に面倒なものを見つけてきたな。」

「それにしてはずいぶん積極的じゃないですか。」

橘は一笑して執務机へ前のめりになり、肘をついた。

「あのタヌキめを詰る機会を逃すわけにはいかないのでな。」

大泉に対し相当な鬱憤が溜まっていることを察した。海渡も似たようなものであるが、自分のことは棚に上げてそう考えるのだった。

 

 

その頃、海渡の執務室ではちょっとした喜劇が起きていた。『あまぎ』から生還した桐野が、最上へのお礼として花束を持ってきたのだ。桐野の態度は典型的な固い動作に終止して、渡し終わるとさっさと帰ってしまった。吹雪と北上はそれを見て「綺麗ですね」と「良かったじゃん。」と普通の贈り物をもらったように反応していたが、飛龍はにやにやしながら何も言わず、陸奥に至っては一人で納得したように考えを先走らせていた。なにせ、受け取った花束は薔薇なのだが、多数のピンク色の縁に三本だけ赤いものが混じっているのだから、深読みしてしまうのも当然であった。

そこへ睦月と如月が入ってきた。薔薇の香りに表情を緩ませながらその元を見た。

「綺麗ですね。何かのお祝いですか?」

「いや、この前助けてくれたお礼にってもらったんだ。桐野中尉?だっけかな。」

睦月は「そうなんですね。」と返すと同時に赤い薔薇を見つけて目を丸くした。そして一秒過ぎた頃に如月が軽く睦月を制した。

「睦月ちゃん、だめよ。」

「やっぱりそういうこと、だよね。」

最上の不思議そうな顔を横目に二人は笑いあった。

「ただいま、ってなんだこの匂い。」

さらに海渡が橘の執務室から戻ってきた。入るやいなや薔薇の香りが鼻腔を満たして驚いた。海渡は花束を見て一瞬だけ考えて、

「桐野中尉にもらったのか?」

「そうだよ。よくわかったね。」

「まぁ、そりゃあな。しかし、何というか今どきそんな古風なことがあるんだな。」

海渡は自分の椅子に座り、もらった報告書を読み始めた。そこで机の上が片付いていることに気づいた。

「散らかっていたので勝手にまとめちゃいましたけど、大丈夫でしたか?」

「ありがとう。助かるよ。」

海渡の視線に気づいて吹雪は薫たちのことは言わずに遠慮がちに海渡に聞き、彼は優しく礼を言った。

「ねえ海渡さん、何が古風なの。」

「最上、花言葉って知ってるか?」

「うん、当たり前でしょ。」

「じゃあ、それ、調べてみるといい。」

吹雪と北上も一緒になってケータイで調べ始めた。何やら「色んな意味があるんだね」とか「色によって意味が違うんだ」とか、かなり呑気な話し声が聞こえたため、海渡を始め周りは「早く気付け」という雰囲気を出し始めた。

「あ、これじゃない?」

やっと目的地に辿り着いたようで三人で画面を見ながら、吹雪が音読していく。海渡は気になってそれを見ていたが、読み進めるうちに尻すぼみになって、ついには声に出さなくなった。それに正比例するように最上の表情がむず痒いものになっていき、最終的にはわずかに頬を赤くしていた。

「ね、ねえ、海渡さん。どうすればいいかな?」

最上は努めて平静に言った。海渡は長い付き合いから内心が混乱しているのを察し、返答に少し悩んだ。

「手紙でも書いてみたらどうだ?早とちりかもしれんし。」

「いや絶対早とちりじゃないでしょ。これみよがしに三本あるんですよ?」

飛龍が反射的に言った。吹雪達三人を除いて飛龍の意見に同意だったが、最上にいきなり事を勧めさせるのは止めたほうが良いと判断した結果の助言であった。

「え?本数にも意味があるの?何か書いてあった?」

「最上さん、これ見て。」

北上が見せると、最上はついにか細い鳴き声しか出さなくなった。ただただ「うーん」と「困るなあ」と「どうしよう」の反復が聞こえる。そこで唐突に陸奥が口を開いた。

「虎の娘を落とした人からアドバイスはないのかしら?」

そこで全員の視線が集中した。もはや光政や早苗との関係がここにいる艦娘全員に知れ渡っていた。『みらい』乗員はみな光政のことをよく知っており、海渡のことも虎の一人娘を落とした人物として有名なため、先日の任務の行き帰りの際の雑談でこの場の艦娘たちにも知れるところとなった。

「あー、まぁ、そうだな。とりあえずお茶でもしてみれば?お互いに何も知らないんだし。」

「えー、でもどうやって?」

「声かけるなり手紙書くなりすればいいんじゃないか?真面目な話、もしその気がないならそれはそれで伝えた方がいい。今ボールを持っているのは最上だしな。」

「それは、そうだね。ちょっと考えてみるよ。ありがとう。」

最上は表情を少し締めて礼を言った。

「ちなみに海渡さんは初めて会ったとき奥さんとどんな話ししたんですか?」

「覚えてないな。罰ゲームで飲まされてからの声掛けだったから記憶がなぁ。」

「それでよく結婚できたわね。」

「それはその通りだ。」

最上は「参考にならないなあ」とため息をついた。そこへ大淀が入ってきて似たような問答が繰り返された。海渡たちの時と違い、花束の意味を理解した上での説明は恥ずかしいことこの上なかったが、大淀はからかうことなく真剣に聞いて最後は微笑んで「頑張ってくださいね。」と一言添えて最上を励ました。

その日の夕暮れ、仕事が終わった最上は花束を抱えて部屋に戻った。薔薇の花束の色彩が基地内のどの建物よりも鮮やかだったため、すれ違う人みな無意識に最上を目で追っていた。そして、そのすれ違う女性の大半は「あらあら」と言った微笑を浮かべるのであった。それが少し恥ずかしかったため最上は小走りで、しかし花束を傷めないように帰った。

「花瓶なんてあったかなあ。」

部屋に戻り花束をテーブルの上に置いたあと、押入れの中を半ば物色するように探し、無色のガラス製の花瓶を見つけ、それに花束を生けた。それを青葉のカメラから現像した写真たちの隣に置いて数秒眺めた。そして桐野の顔を思い出す。一切の恥ずかしさを感じさせないやや畏まった態度の所為で、まさかこのような意味があるとはその時は思いつかなかった。

「ちゃんとお礼言ったっけ?」

無意識に返したのかもしれないが記憶の中になかったため、少しだけ不安になった。もし言っていなかったら相当失礼だな。最上は一息ついて椅子に座り、これからの事を考えた。もしかしたら思い過ごしかも知れないともわずかに思う。桐野の態度は、まるでそういうものとは無縁のように見えたからだ。

とりあえず明日会って話してみよう。海渡が言っていた次の出撃は五日後だったはず。それまでに一区切りつけておきたい。そう決めた後、この話を頭の隅に追いやってシャワーを浴びた。

 

 

 

次の日、昼前に最上は桐野の現在の所属である護衛艦『かなた』に向かった。『かなた』が港にいることは海渡に確認済みである。ただ、一つ見落としていたことがあり、『かなた』についた後どうするかを考えていなかった。それに気づいたのは『かなた』に着いてからであった。そこで困り果てて「どうしようか」と悩んだ結果、とりあえず近くの人に声をかけて桐野の居場所を聞いた。最上は基本的にあまり悩まずに行動するタイプであるため、このように対応するのだが、その後になって、

「なんか、僕が会いたがってるみたいになってるな。」

自身の行動を振り返って少し恥ずかしい気分になるのであった。

声をかけた相手に聞いた工廠に入ると、ちょうど出てこようとした桐野と対面した。最上は面食らって動きが止まったが、桐野の方はあまり意に介していないようで、

「おや、大尉、こちらに御用が?」

と昨日と同じ声色で話しかけた。

「うん、君に用があって。」

「しばし待って頂けますか?仕事に区切りをつけてきますので。」

そう言って桐野はまた工廠の中に戻っていき、最上は入口で待つことにした。八月の日差しは強く少し肌が痛い。それでも場所を変えないのは、この時の最上が普段とは違う思考で行動していた証左であろう。とにかくこの時の最上は、頑固に変わらぬ場所で彼を待つ気分であった。十分ほどして桐野が出てきた。

「お待たせしました。ここは暑いですから、中の休憩所に行きましょう。」

桐野に案内され、近くの建物の中にある休憩所で椅子に座った。自動販売機が三台とテーブルが四つあり、その奥には喫煙用の部屋がある。最上は目のやり場に迷って自動販売機の商品をぼんやり眺めた。

「それで、ご要件はなんでしょうか?」

桐野が相変わらずの態度で話すので、最上はそれにむっとして語気を強めて返した。

「あのさ、わかってて聞いてるよね?僕だけ悩んでるの、なんかずるいよ。」

「いえ、それは違います。」

「何がさ。」

「小官、いえ、私も迷いました。私だけ舞い上がっていたら嫌だなと。」

「…顔とか声に出ないタイプなの?」

「ポーカーフェイスは得意な方でして。よく上官にも言われます。」

最上はテーブルに突っ伏した。自分だけでなかったという安堵と「やっぱりそういう意味の花束だったんだ」という恥ずかしさが一気に最上にのしかかった。

「ご迷惑でしたか?」

「わからない。でも、花は嬉しかったな。ありがとう。…昨日も言ったかな?」

「はい、聞きました。喜んでもらえたなら何よりです。」

その後しばらく無言が続き、桐野の「連絡先を伺っても?」という積極的な態度に「いいよ。」と短く返して番号とメールアドレスを交換した。

「もっと普通の口調で話してほしいんだけど。」

「一応階級が上ですので。」

「あんなことしておいてそれはおかしいと思う。」

別れ際の会話で桐野が最後に少し表情を崩したのを最上は見逃さなかった。

 

 

 

『みらい』の出撃日時の二日前に新装備の試験を兼ねた出撃命令が『かなた』に下った。薫以下機動部隊を搭載し、東海岸周辺の哨戒と必要であれば敵の殲滅である。『いずみ』以外の艦に乗って艦娘を指揮するのは初めてでCICの勝手がやや異なることにストレスを覚えたが、大泉の口添え通り優先的に配備された装備の試験のために慣れる努力をした。彼女は要領は良い方だったためすぐに覚えた。

「嬢ちゃん、覚えがいいな。」

「その呼び方、止めてください。」

榛原は薫が艦娘の状態を表示する端末を操作し終えたところで話しかけた。榛原は現場からの叩き上げて今の役職にいる。光政とは年齢が近いことがあって親交があり、彼からしてみれば薫は娘同然の年齢である。彼は過去様々な部下の面倒を見てきたこともあり、海渡とはまた違った意味で薫のことも気にかけていた。

「ふっ、虎の子が同期だと大変だな。」

榛原は薫の焦りの確信を突いた。彼は彼女が海渡に対抗心を燃やして焦っていることを簡単に見抜いた。この程度のことは経験を重ねてきた彼には造作もないことである。薫は押し黙った。

「おれは山本とは同期じゃねえからまだ救われたのかもしれんな。ま、あんま気張ってもいいことねぇぞ。自分と他人は違うんだからな。」

榛原は笑いながら言ったが、薫にはあまり慰めにならなった。

「いつも比較される身にもなってください。」

薫は目つきを鋭くしたが、榛原には全く意味はなかった。彼はため息をついた。

「あのな、比べられてると思ってんのはお前さんだけだろ。どっちが優れてるなんて話、聞いたことねぇぞ。」

「それはこの艦だけの話しだろうに。」と心のなかで悪態をついただけで、薫は何も返答しなかった。

「用が済みましたのでこれで。」

薫はそう言って敬礼して退室した。その背中を見送ってから榛原は椅子に座った。

「あれは苦労しそうだな。」

「若さ、ですな。」

隣に立つ砲雷長の神崎少佐が榛原の独り言に似た問いかけに答えた。

「そうだな。だが、もうちょい若い時に経験しておけばもっと良かったな。それに女であの気の強さは厄介だ。なかなか治らんぞアレは。」

「人間歳をとるとなかなか考え方を変えられませんからね。」

「本当にな。」

榛原はわずかに笑って同意する。自分にもそういう時期があったな、懐かしい気分になった。

「ちゃっちゃとやることやって帰ろうや。嬢ちゃんもその方が良いだろ。」

「了解です。」

一方CICを後にした薫は艦娘の出撃まで時間があったので士官室で予定の確認をしていた。そこへ紺野が入ってきた。形の良い笑顔を作っており不気味さを感じる。

「あんまり怒ってても良いことないですよ。せっかく装備もらってるんですから笑顔にならないと。」

「お前、何が目的で大泉と組んでいるんだ?正気の沙汰と思えないぞ。」

薫は紺野の言葉を無視して言い放った。紺野もあまり気にしていない様子で、わずかに目を細くしただけだった。

「そんなの決まってるんじゃないですか。先輩についた邪魔な虫を殺すためですよ。」

「吹雪のことか?」

「全部ですよ全部。北上も最上も大淀も陸奥も飛龍も。全部先輩を誑かす酷いやつです。私が先に愛してたのに後からしゃしゃり出てきて本当にムカつく。」

紺野の海渡に対する入れ込みようは度が過ぎているとしか言いようがなく、薫は恐怖を覚えた。もちろん表情には出さなかったが、内心冷や汗をかいた。

「てか、私のこと言える立場じゃなくないですか。椎名先輩だって所長と組むことにしたじゃないですか。」

「私は別に組んだわけじゃない。利害の一致で一時的に同じ側にいるだけだ。」

「ふぅん。」

紺野はわずかに侮蔑を視線に混ぜた。自分のことを棚に上げるその態度、いつまで持つだろうか。崩れた時見ものだな、と内心ほくそ笑んだ。

「海渡が大人しく普通の軍務に戻れば特に言うことはない。」

「命を助けてもらっておいてよく言いますね。その独断で助かったのに。」

薫は黙った。それはその通りだ。だが、それでもそれを止めさせて規律を正す必要があるのだ。少なくともその方が良いはずだ。

「ま、お陰でお邪魔虫が一人いなくなってありがたかったですけど。」

「お前は本当に海渡のことしか考えてないんだな。」

紺野の発言にため息をついた。

「当たり前じゃないですか。やっと帰ってきてくれたんですよ。」

言葉の後ろに「私のために」と付きそうな勢いで、実際そう思っているんだろうなと容易に想像できる。この点においては海渡に同情を禁じえない。もはやこの紺野という人物は海渡に対する生きる呪いのように見える。

「さて、そろそろ行くぞ。」

「はーい。」

薫たちは士官室を出てCICへ向かった。

その後の新装備の試験は全工程を無事に完了した。翔鶴を始め、紺野の三隈たちも含めて新しい艤装について満足いっているようだった。ただそれを終えた後、瑞鶴が軽い頭痛を訴えたがすぐに収まったため忘れ去られた。そのため特に原因の究明はされなかったが、それが実際の脅威となって彼女たちに現れるのはもう少し後である。

 

 

 

最上と桐野の関係は出撃までに特に進展しなかったものの、日常会話程度の内容を頻度低めにやり取りしていた。最上のその様子を北上や飛龍がいじっていたが、海渡は一言も触れずにいて、吹雪も何となく海渡にならって何も言わなかった。大人が口を挟むべきではない、と海渡は考えていた。このようなことは自分で悩み、自分で相談相手を見つけ、自分で解決すべきなのだ。

今回の任務の内容は、とりあえず周辺海域を警備しながら深海棲艦に積極的に攻勢をかける、というものであった。

「以前とはまたずいぶん毛色が違いますね?」

「こちらのやりたいことだけやってると流石に睨まれるからな。今回は上層部からの普通の命令だ。」

CICでの松葉と海渡のやり取りであるが「軍隊というものはそもそも命令されて動くものだろうに」と四島以下砲雷科員はその話を聞きながら内心思った。

海渡としては、南西海戦の際にいた識別不明艦を発見できれば御の字、と考えていた。識別不明艦の能力や装備が把握できておらず、現在の海軍の大きな脅威となっているため、その調査ないし撃沈を行う気でいた。特に鳳翔の仇という面が強かったが、それを前面に押し出してとやかく言うことはしなかった。

そして作戦期間である七日間を無事生き残って帰投した。飛龍はほぼ以前と同じに戦えるようになり、海渡もそれなりに力の制御ができるようになった。識別不明艦や南方棲戦姫には遭遇できず、海渡は消化不良気味だったが、乗員が全員無事であったことに比べれば些事だった。

帰投した彼らに次の任務が下令され、十日後に同様の任務を二週間にして実施するように言われた。

「ずいぶんこき使ってくれるじゃないか。」

執務室で海渡はつぶやきつつも、公に出撃の機会を貰えることには感謝した。あと数回こなしたら、橘にお願いして『はるか』のサルベージに取り掛かるか、と決めた。

しかし、この時ある凶事が発生していた。それは海渡が不眠に悩まされ始めたことだ。海渡自身は任務のストレスか何かだと考えていたが、実は体内の『はるか』の部品による侵食で弱いながらも深海棲艦の怨嗟の声を常時受信し続け始めており、それによって脳が起きっぱなしのようになっていたのだ。しかも、なぜか疲労をあまり感じず海渡自身の認識としては「寝ていないが健康そのもの」程度だったため、まさかそのような事態が発生しているとは夢にも思わなかった。

帰投した次の日、海渡が通常通り執務室にいると部屋に入ってきた大淀が少し興奮気味に話しかけてきた。

「私たち、すごい話題になってますよ。」

「何かあったのか?」

海渡は訝しげな目で大淀を見た。

「昨日までの任務で、深海棲艦の撃沈数覚えてますか?」

「正確には覚えてないが、百隻くらいじゃなかったか。」

「百五十一隻です。たった五日間でこれだけ戦果を上げたのは初ですよ。」

「そうか。」

大淀はどうやら成し遂げた快挙に喜んでいたが、海渡にとってはどうでも良いことだった。

「なぜそんなに冷めているんですか?」

「あんまり気にしても仕方ないしな。それに、面倒なことになるから薫を刺激したくない。」

「…確かにそうですね。」

大淀は彼女らが執務室を物色したときのことを思い出した。また、何か起きるのではないかと考えると少し怖くなった。彼女は自分用にお茶を作ったあとで、海渡に飲み物がないことに気づいて彼の分も作り渡した。何となく自分だけ飲み物を飲むのが気が引けたのだ。

「どうぞ。」

「ありがとう。」

湯呑を渡した際、海渡の顔を無意識に一目みた。いつもより眉間に皺がよっており、目の隈も増えているように見える。少し悩んだ後、それについて聞いた。

「そんなにか?歳かもな。」

「体調に問題がないならいいんですけど、先週はなかったような気がしたので。」

先週は、というより今まで彼の顔になかったような気がしていたが、そこまでは言葉にしなかった。それに、何かあれば吹雪が気づくだろう。そう思いあまり深く考えなかった。

そして次の任務が始まり、折り返し地点に立った時だった。海渡の体調が急激に悪化した。とは言ってもそれに気づいたのは本人ではなく周りであった。彼の隈がより一層酷くなり表情がやや虚ろになり始めた。どことなく焦点が定まっていないように見え、声にも反応するがまともに相手を見ていないように見える。それなのに、彼はいつも通りなのである。さすがの『みらい』乗員たちも困惑を隠せなかった。

「海渡さん、少し休みましょう?顔色が酷いですよ。」

「大丈夫だ。ありがとう。」

吹雪の散々のお願いも丁重に断り続けていた。この時、彼の脳内に反響する怨嗟の声がより一層強くなり、幻聴と現実の音の区別が曖昧になり始めていた。また、指揮のやり方にも違和感が生まれ始めた。指揮そのものには問題なかったが、徐々に素っ気ないものになっていった。口調はより業務的になり、私語が激減した。

吹雪は海渡が戦闘の度に海上に出て力を使っていることが原因だと考えていた。そう思い彼を止めようと何度も試みたが、徒労に終わった。ただ、少なくとも五回は同じ事を言ったはずなのに、毎回答えは、

「心配するな。」

だった。最後の方はしつこく言ったことを怒られる覚悟があったが、それもなかった。吹雪はあまりの不気味さに寒気がしたし、海渡が急激に変わっていってしまっていることに酷く悲しくなった。しかし、誰一人として対処法がわからなかった。

任務を完了して帰還したころには海渡の瞳は白く白濁し始めていた。もはや口数はなく、焦点も定まらず、しかし足取りだけはしっかりしている。あまりの不気味さに誰も声をかけない。

吹雪、北上、最上の三人は彼の後についていき、執務室に入った。執務室は傾き始めた夕日が差し込んでいる。いつもはこの幻想的な雰囲気が好きであったが、今日はただただ不気味だった。椅子に座ってぼんやりし始めた海渡が夕日に照らされ表情が影になって見えない。

「海渡さん?」

しかし反応はない。目線すら動かさず、手も動かさず、まるで吹雪たちなどいないかのように。吹雪は自分が声を出していないのではないかと疑い、もう一度声を出した。

「海渡さん!!」

「…どうした?」

「どうしたじゃないですよ!聞こえてないんですか?」

それに対する反応はなかった。吹雪たちは考えた。どうにか海渡を助けなければ。恐怖と悲壮を脳内から必死に追い出しながら考え、ある一つの方法を思いついた。

「二本角に聞けば教えてくれるかも知れない。」

三人は前に海渡が二本角を呼び出した海岸へ向かった。穏やかな波が打ち寄せている。当たり前だが誰もいない。

「今更だけど呼び方わかる?」

「わかりませんけど、とりあえず真似してみましょう。」

吹雪は裸足になって波打ち際に立った。打ち寄せる波が足元の砂をさらう。吹雪は見様見真似で目を閉じて彼女の姿を頭に浮かべ、心の中で「答えて」と必死に唱えた。数分待った頃、それが来た。海面が少し渦を巻いたあと、彼女がそこに現れた。多少の喜びを感じつつ質問しようと口を開こうとした時、二本角が先制した。

「海渡はどうなっている?呼びかけに全く応じない。」

いつも通りの無表情だが、声には明らかに焦りが含まれていた。

「私も聞きたいです。話しかけても全然答えてくれなくて、何だかぼんやりしているし、隈は酷いし、目は白くなっちゃってて…。何が起きているんですか?」

「なに?海渡は今何をしているんだ?」

吹雪は最近の任務中の態度について二本角に説明し、吹雪は自分の考えも話した。戦闘のたびに海上に出ていることが気になっている、と。それは当たっていたようで、二本角は吹雪に同意した。

「おそらくアレは声を聞きすぎた。その様子では力を使うことに関わらず常に聞こえている。」

「どうすればいいですか。」

「どうにか声を止める必要がある。あいつを海から遠ざけろ。」

「わかりました。」

吹雪が返事をして考え込み始めた。そこへ最上が二本角に話しかけた。

「そっちも海渡さんがああなるのは困るんだ?」

その問いかけに彼女はわずかに目を細くしただけで答えなかった。

「ねぇ、協力しようってんだから、もうちょっと情報くれないの?」

さらに北上が続いた。数秒の無言のあと、二本角は答えた。

「まだだめだ。」

それだけ言い、彼女は消えた。

「まだってことは教えてくれるタイミングがあるってことなのかな。」

最上の言葉に、二人は肩をすくめた。そう聞こえもするが、とてもそれが実現するようには思えなかった。

彼女の忠告に従い彼を海から離す計画を立てた。今日は官舎に連れていって、明日以降休暇をもらって山の方へ出かける。ありきたりだが、とりあえずそれを実行に移すことにした。

吹雪は橘の私室へ行き、海渡の状況を話して許可をもらった。とは言っても流石に深海棲艦の部品が埋まっていることは言えないので、適当に濁したが。

「その前に病院に行く必要があるんじゃないか?」

「飛龍さんの件もあるので、軍病院はちょっと。明日別のところに連れていきます。」

「君の言うとおりだな。」

吹雪が敬礼をして部屋を去ったあとで、橘は「あいつには勿体ないくらいいい子だな。元帥の御息女の時もそうだったが。」と独り言をこぼした。

吹雪たちは計画のために様々準備をしたが、次の日の朝にそれは頓挫した。国防大臣の直々の命令で海渡の出撃命令が出たのだ。橘はこれに反対した。

「他にも指揮官はいるでしょう。なぜ彼なのですか?」

「彼が適任だと思ったからだ。何か問題があるのか?」

「適任であるという根拠はなんでしょうか?」

「答える必要は認めない。君たちは軍人だろう。指示に従い給え。」

国防大臣のいつもよりも強気な態度に不気味さを感じつつ、結局意見を覆すこと叶わず苦虫を噛み潰しながら退室することになった。

作戦目標は第一次南西海戦の際に出現した識別不明艦の撃沈である。それを聞いた艦娘に関わるあらゆる人物は「まぁ妥当だろう」と考えていた。二回の任務で総撃沈数は三百を超えており、南西海戦の際にも彼は救世主であったのだ。当然だろう、と考えるものもいたに違いない。

この命令を受諾した海渡は『みらい』共々出撃準備を整えて出航した。『みらい』幹部も吹雪たち艦娘も揃って反対したが、海渡の反応は「そうか。それで?」と氷点下のような冷たさだった。相変わらず焦点の定まっていなさそうな白濁した瞳が拍車をかけた。それを見た松葉と吹雪は「この人は本当に自分たちと会話しているのか」と同じ不安にかられ、二人で話し合った結果、とりあえず海渡を海上に出さずに戦闘することを決めた。幸い今回の相手はレーダーが無効にされないことがわかっている。それならばやりようはある。

ただ一つ、『みらい』乗員が見落としていた点が一つだけあった。それは海渡を含めた『みらい』乗員しか知らないはずの識別不明艦の出現を察知できたか、ということだ。それを吹雪たち理解したのは数時間後のことだった。

 

 

 

予定海域に到着する一時間前、艦娘たちに出撃が下令されて『みらい』は戦闘態勢に入った。今のところレーダーに障害はなく、南方棲戦姫の出現は確認されていない。飛龍の航空索敵により敵の位置を確認した彼らは、進路を変更し敵の北側から攻撃を加えることにした。そして接敵まで三十分というところで、当たり前のように海渡が『みらい』を浮上させて外に出ようとしたのだ。松葉は行く手を塞ぎ抗議した。

「艦長、今日はやめてください。自分の身体のこと、わかっているのですか?」

「他に誰がやる?おれ以外にできるのか?」

海渡の死んだような目から白い炎が上がり、怒りが揺蕩った。松葉はわずかにみじろいだが食い下がった。

「あなたは乗員と艦娘に対して責任を持つ立場でしょう。今日は行かせるわけにはいきません。」

海渡は反応しなかった。無視を決め込んだように無理やり押し通ることを選んだ。松葉はそれなりに鍛えており体も大きいはずだが、海渡の人外の力の前では無力だった。松葉は後ろに投げ飛ばされて床を転がった。

「本当に死んでしまいますよ!吹雪さんに何と申し開きするつもりですか!」

松葉は感情的になって叫んだ。この場においては業務的な対応よりも感情に訴えるほうが正解だったように思えた。それを通信機越しに聞いていた艦娘たちは固唾をのんだ。しかし、海渡は松葉に一瞥して、

「それがどうした?」

そう吐き捨てて歩き去った。そこへ吹雪から通信が入った。

「海渡さん、本当にやめてください。お願いです。」

悲痛な叫びのような訴えだった。吹雪の声なら止めるのではないか、そう誰もが期待した。

「うるさいな。出来もしないのに。」

だが変わらなかった。その言葉は吹雪だけでなく聞いているもの全てのものの心に冷水を浴びせかけた。

「…海渡さんなんて、嫌いです。」

吹雪の泣きそうな声が通信に流れたが、海渡は何も言わなかった。

この時、海渡の頭の中ではあの声がさらに大きくなっていた。意識は「敵を探知する」という一点に張り付き、それ以外の言葉は届いていなかった。松葉の言葉は口の動きで何となく察していたようだが、吹雪の声だけの通信はほぼ聞こえていなかった。故に吹雪への返答と重なったのは、単なる独り言に過ぎなかっただが、それを彼女たちが知ることは不可能だった。

 

 

 

大泉は所長室で小心者の国防大臣の相手をしていた。彼は所長室に急ぎ足でやってきて開口一番、

「私に人殺しをさせる気か!」

と響く声で叫んだ。

「どうしたんです?そんな慌てなくても良いじゃないですか。」

「准将の体調についてなぜ何も言わなかった?まるで死人のようだと言うじゃないか。そんな人間を戦闘海域に派遣するなど正気の沙汰ではないぞ。」

国防大臣は大泉の前の長机を強く叩きながら訴えた。しかし、訴えられた側にはまるで効果がなく至って平静であった。

「しかし、貴方は私の進言を受けて命令を出したではありませんか。私は強制した覚えはありませんよ。」

大泉の正論に閉口した。結局責任を取るのは大臣の方であって所長ではない。所長には指揮権がないのだから。ただ、大臣が焦っているのは部下の生命のことではなく、『みらい』に何かあった時の責任の取り方についてであるのは明らかであった。大泉はそれを知っていた。だからこそ、この男は容易に操れると確信し、それをずっと利用してきた。

「君の依頼を受けなければ、全て話すつもりだろう。実質脅迫ではないか。」

「そんなことはありません。考えすぎです。」

大泉は気味の悪い笑みを浮かべて大臣を見た。反省も後悔もない顔に怖気づき、無言で部屋を出ていった。足取りには不満が出ていたが、大泉は意に介さなかった。入れ違いで彼の秘書である井手川が入ってきた。

「彼も気の毒ですな。自業自得ですが。」

「権力やら功績を信仰するやつは簡単に踊ってくれる。それなりの立場にあるくせに責任というものを理解していない。」

大泉はそういう類の人間を操ることが簡単であることに、主任になった時に気づいた。自分の手を汚さないようにしつつ、自分の都合に巻き込み、汚職や不正を背負わせコントロールする。そしてそういうやつは自罰意識は皆無で、罪を隠すために次の罪を犯すのだ。

「しかし、准将は本当に殺してしまって良いのですか?サンプルとしては貴重ではないですか?」

「その予定だったのだがな、あれは"完成"に近すぎる。懐柔もできんしな。」

大泉は苦い顔を浮かべた。井手川は表情を変えることなく机の前に立っていた。井手川は長年協力してきた彼の上司の顔を見る。残念そうに外を見る顔には、海渡を材料としか見ていないことが明白だった。

「対処はレイに任せましたが、彼女で大丈夫でしょうか?」

「自分でやると言ったのだ、やってもらおうじゃないか。それにアレは殺意が強い。小僧の精神を潰すにはちょうどいい。まさか男で適合するやつが出るとは予想外だったが、もう残す必要もない。第一世代の化石どももな。」

大泉は吐き捨てるように言った。目の上のたんこぶがやっととれることに気分が上がっているようにも見える。

「大淀たちを失うのは損失ですがね。」

「五人程度ならすぐに調達できる。それに長門や川内のような強力な個体が使えればいい。川内は特に最近色恋沙汰に目覚めたからより期待できる。」

徐々に"完成"の目処が立ち始めている。あと少しなのだ。彼は逸る気持ちを抑えつつ秘書に目線を移して指示を出した。

「『かなた』に例の計画を実行させるように手配しろ。」

「良いのですか?予定よりずいぶん早いですが。」

「何もかもあの小僧のせいだ。要らんことに気づきおって。虎と橘にこれ以上嗅ぎつけられる前に"完成"させなきゃ全て水の泡だ。」

「承知しました。」

「必ず人員を入れ替えることを忘れるなよ。あれの艦長は虎の知り合いで頑固だから必ず邪魔になる。ただし、桐野とかいう中尉は残しておけ。目撃者を自由にはできん。」

「ええ、もちろん。」

井手川は頭を軽く下げた後部屋を出ていった。"完成"が待ち遠しい。子どものように高揚していた。

 

 

 

海渡が予定通りに海上に出て『みらい』に潜航させ、予定通り力を使うと『みらい』と艦娘たちの端末にレーダー情報が入り始め敵の位置が表示された。事前に報告を受けた通り、識別不明艦が一隻いる。そして、随伴として正規空母一隻、重巡洋艦二隻、駆逐艦三隻を確認した。海渡はいつも通り指示を出すために立ち上がって時だった。

「オマエガ、カイトダナ?」

聞こえていたどの声よりも明瞭で巨大な声が響き、頭を殴りつけられたような衝撃が走った。

「オマエヲ、コロス。」

次の声で海渡は視界が真っ白になりそのまま海上に膝から崩れ落ち、微動だにしなくなった。その瞬間、全ての情報端末が停止して情報を受け付けなくなり警報を発し始めた。

それを受けた『みらい』乗員は一瞬だけパニックになったがすぐに平静を取り戻し、復旧作業を開始した。一度全ての情報端末との連携を遮断したあと、再起動して事なきを得た。しかし、得られる情報はほとんどなく何もないレーダー画面を見ることになった。艦娘たちも端末を再起動し、自らの電探情報だけは共有できるように切り替えた。

「一体何だったの?」

みな陸奥と同じような疑問を持っていたが、吹雪、北上、最上は瞬時に原因を察した。最も近い位置にいる吹雪が海渡のところへ駆けつけると、膝をついて動かない彼がいた。

「北上さん、最上さん、海渡さんが、海渡さんが!」

「だから言ったのに!」

最上は口に出し、北上は舌打ちして二人とも海渡に合流した。

「起きてください!海渡さん!目を覚まして!」

今度は正真正銘の悲鳴だった。肩を何度揺すっても顔を覗き込んでも全く動かない。死んでしまったのか?彼女たちは急激に不安に駆られたが、彼はまだ沈んでいない。ならまだ生きているはず。そう思い自分を奮い立たせた。三人は何度も海渡に声をかけ、体を揺らし、頬を叩いたりしたが、一向に改善されない。そこへ松葉から通信が入った。

「吹雪、艦長の容態は?」

「だめです。全く反応してくれません。」

「一旦浮上して艦長を回収する。この状況では戦闘は無理だ。」

「だめです。会敵まで時間がなさすぎます。今浮上したら『みらい』が攻撃を受けてしまいます。それだけは、だめです。」

吹雪の意見は至極真っ当だった。母艦を犠牲にしては彼女らは帰ることができなくなる。

「とにかくこちらで艦長を運びます。」

「吹雪、言いたくはないが、彼を――」

「絶対に嫌です。」

「わかった。無情なことを言った。許してくれ。」

「大丈夫です。でも、私たちが生き残るのは松葉さんが言う方法が一番だと思います。」

吹雪は強い意志で松葉の言葉を封じた。海渡を捨て置く。そうだ。それが一番助かる確率が高い。でも、それだけは本能から拒絶した。そこへ二本角が姿を現した。最上は少し驚いて「よほど海渡さんに何かあるんだな」と察した。

「なぜここへきた?」

「そういう任務だからです。」

「…なるほど、全て大泉の手の平の上というわけか。私の意図も海渡のことも全て知られていたのか。」

二本角は初めて表情を大きく変化させ、苦虫を噛み潰した。

「いいか吹雪、こいつを助けるためには方法は一つしかない。とにかく陸地へ行ってこいつに聞こえる声を消すことだ。海の上では響きすぎるし、今はレイの圧力が強すぎる。おそらく脳がパンクしている。」

「でもそんな時間ないよ。どうすんの。」

北上は苛立ちを露わにした。海渡に対するものよりも、問題に対して無力な自分に苛立っている。

「どちらにせよ早く動かないと追いつかれるよ。」

最上の言葉に海渡と吹雪以外が同意した。しかし吹雪は動かず、

「二本角さん、海渡さんの頭の中の声を消せばいいんですよね?」

吹雪は海渡を見つめながら聞いた。

「その呼び方はやめろ、真白だ。」

「それでどうなんですか。」

真白は露骨に顔をしかめて言ったが吹雪はそれを無視した。彼女の態度を見て抗議を諦めた。

「そうだ。」

「私が起こします。」

そう言って彼女も膝をつき、海渡の海水で濡れた両手を掴み自らの両頬にぴったりとくっつけた。そして焦点の合わない白い目をまっすぐ見つめた。彼女は様々伝えたいことがあった。しかし、今は伝える必要があるのは一つだけと知っていた。だからそれを心の中で強く何回も繰り返した。

他三人は一瞬何か言おうとして止めた。

 

 

 

海渡は薄暗い沼を歩き続けた。枯れ木が並木のように立ち並び、一筋の道だけが続いているように見える。背後から聞こえる声から逃げるため、泥がついた重い足を必死に持ち上げて歩く。終わりが全く見えず、追いつかれるのも時間の問題だと認識しながらもそれをやめることはできない。そうして歩く内に、今度は正面からも声が聞こえるようになった。足を止めて逃げ道について考え始めた時、足首を掴まれて沼に倒れ込んだ。反射的に振り向くと、金剛が彼の右足首に絡みついていた。海渡の鼓動が速くなり、急激に息が詰まる思いがした。

「まだこっちに来ないノ?」

彼女は崩壊した体を引きずりながらそう言った。次に左足を掴まれた。

「みんな待ってるんですよ。」

頭が半壊した青葉が語りかけてくる。さらに胸が締め付けられ、呼吸がおぼつかなくなる。そして後ろから深雪に抱きつかれ、右腕を龍驤に掴まれ、完全に身動きが取れなくなり、視線の先から『はるか』の乗員たちがゆっくり歩いてきて彼をさらに深くへ引きずり込もうとする。そして頭まで完全に埋まってさらに沈んだところで、底が抜けたように重力によって自由落下して浅い水辺に叩きつけられた。周囲を見渡すと、相変わらず薄暗く場所の判別ができない。どうにか立ち上がると、今度は上から強い力で叩き伏せられた。黒い機械のような塊が自分を押さえつけていることに横目で確認し、その上に一糸纏わぬ白い女性が立っている姿が視界に入った。その女性は白い長い髪を一本に束ねており、肘から先と太ももから下だけが黒い。

「ハヤクシニナサイ。」

それが不気味に話す。さらに力がかかり、胸骨が悲鳴を上げて肺が潰れ、呼吸が止まりそうになる。助かりたい、そう思ったがそれは一瞬で消え去り、これが報いか、と諦めの感情が彼を満たした。『はるか』乗員を助けられず、金剛も、龍驤も、青葉も、白雪も深雪も初雪も、そして鳳翔も。大口を叩いた割に自分は何もできなかった。そうだ。これでいい。目を閉じて体が潰れゆく感覚に身を任せた。

「戻ってきて。」

そこで急に声が聞こえた。

「戻ってきて。」

一回目は何かが聞こえたように感じただけだったが、二回目が聞こえた時はっきりと理解した。聞き慣れた声だ。彼を押しつぶしてた何かは怯んで拘束を解いた。海渡は無意識に立ち上がり、それから逃げた。そうだ、帰らなければ。

「戻ってきて。」

そして三回目が聞こえた時、ある一点が明るく光り始めた。海渡は夢中で走った。背後から巨大な何かが迫ってくる音が聞こえる。そして、それの巨大な腕が伸びて海渡を掴もうとすると同時に、彼も光に腕を伸ばした。彼は光に包まれ温かさの中で意識がとんだ。

 

 

 

「あと二十分で接敵するわよ。どうするの?」

陸奥の通信がとぶ。吹雪が海渡を起こしにかかって十分が過ぎていたが進展はない。さすがに全員に焦りが見え始めた。吹雪だけは動じておらず必死に海渡に心のなかで語りかけていた。

「吹雪、もう限界だぞ。」

松葉の声が聞こえる。しかし吹雪はその意見を却下した。

「大丈夫です。声が聞こえます。あともう少しです。」

吹雪の強い口調が通信機を介して全員にとぶ。なぜかはわからないが、その意見を完全に否定する人間はいなかった。大なり小なり海渡の可能性について信じていた。彼が海軍に正式に配属されてから今まで、みなを助けてきた。超常的なものを信じたがる一部の人間からは守り神だの軍神だのと言われていた。

真白は全く別の驚きに襲われていた。彼女は海渡を旗艦個体とするために様々な企てをしていたが、まさか適正があったのは吹雪の方なのか、そんな予感が脳裏をよぎった。海渡の声を聞くことなど、真白にすらできないことだったのだ。

「レ、レーダー情報回復!」

砲雷科の一人が叫んだ。

「こっちも来てます。」

大淀が端末を操作して海渡からの情報であることを確認し、表情を喜びで満たした。だが、海渡は未だに動かない。吹雪がさらに目を閉じて祈り始めたときだった。弱い息遣いが聞こえた。思わず顔を上げると、海渡の目に光が戻っている。

「雪奈。」

「はい。私です。」

海渡はまだわずかにぼんやりしているようだったが、はっきりと話している。吹雪は涙が溢れた。

「雪奈の声、聞こえたよ。ありがとう。」

「はい。」

それを見ていた北上と最上は「さすが」と小声で漏らした。そして何人かは彼の口調がいつもと違うことに違和感を覚えたが、陸奥だけは古い記憶が蘇った。あまり強くなさそうで慈愛の成分が多い、海渡が早苗と話す時にだけ使った口調だ。

海渡は立ち上がって全員に通信を入れた。

「みんな、迷惑かけてすまなかった。」

海渡が正気に戻ったことに安堵した。

「状況は?」

松葉は海渡に対して手短に説明した。それに対して「わかった」と短く返して作戦を指示した。『みらい』には潜航を維持させ、艦娘たちは大きく距離を取って敵の第一波の攻撃に備えるようにした。

「海渡、それ以上力は使うな。また壊れることになる。」

「対処方法は?」

「レイの圧力に負けない程度の声が必要だ。それがあれば十分程度ならいける。」

「具体的に。」

「誰かに手を握ってもらえ。そうすれば多少対抗できるはずだ。」

海渡はわずかに思考して、

「じゃあ、頼んだ。」

そう言って海渡は真白の手を握った。

「…なぜだ。」

真白は予想外といった顔だ。

「暇なのはお前だけだ。」

「…真白だ。」

「真白、よろしく。」

海渡は真白の手を掴んでレーダーの維持に努めた。

海渡が指示した作戦はこうだ。まず、敵の『みらい』の頭上まで帯び寄せる。そして『みらい』の対艦攻撃による奇襲をかけたあとに、艦娘たちを肉薄させて砲戦ないし近接戦に持ち込む、というものだ。しかし、これには一つ大きな問題があった。敵の航空機のタイミングがずれてしまうと、艦娘たちは航空機の相手で砲戦するどころではなくなるし、援護がなければ敵の対潜攻撃で『みらい』も沈むのである。海渡はちょうどよいタイミングで発艦させるために自分たちの速力の調整に気を配っていた。

「両舷微速に。」

海渡の指示で全員が速力を下げた。

「航空機に追われてる中で速力下げるなんてほんと怖いねえ。」

北上がやれやれと言った感じでぼやく。苦笑が起きた。

「敵航空機の数はざっと八十だ。対空戦闘よろしく。飛龍は攻撃隊を準備しろ。おれが合図したら出せるようにしておけ。」

難しいことを簡単に言ってのけ、全員が準備に入った。そして敵攻撃隊が海渡たちを有視界領域にとらえ降下を開始した。この瞬間はいつも緊張する。空を埋めるような数の敵が自分たちを目がけて群がってくる。海渡は自分自身が攻撃対象に含まれているのは初めてであったが恐怖よりも「こんな光景を毎回見せてるのか。自分は嫌な仕事をしているな。」とため息が先に出た。

接近する敵攻撃隊に対してまず飛龍の戦闘機隊が横から機銃で殴りつける。一部が撃墜されたが怯まずに突進を続けている。その後敵戦闘機の群れと空中戦が開始され、飛龍の戦闘機隊は自衛で手一杯になった。さらに接近する敵攻撃隊に対して輪形陣を組み対空射撃が開始された。三式弾と機銃の弾幕が張られ、次々と撃墜するが、それでも仕留めきれない。海渡は真白と手を繋いだまま回避行動しつつ指示を出す。

「睦月は速力を下げて左転舵、陸奥と最上は右側から撃ち落とせ。」

海渡の指示はまるで敵の攻撃タイミングを完全に把握しているようだった。睦月はそれによって爆撃を回避し、陸奥と最上は雷撃されることなくやり過ごした。そうやって指示を出しながら、

「レイとかいうやつ、ずっと五月蝿いんだが、平常運転か?」

「お前を殺せと言われているからな。執着しているんだろう。」

「元気だな。」

彼の頭にはずっとレイと呼ばれる識別不明艦の声が聞こえていたが、ただただ「うるさい」という程度で済んでおり、異常は起きていなかった。ただ、海渡は「真白の手は冷たすぎる」と思っていて、逆に真白は「人間の手はこんな熱かったか?」と考えていて、お互いに微妙な不快感があった。

そこへさらに攻撃隊が水平に飛び込んでくる。如月と大淀が主砲を構えたが、海渡が「そいつらは無視して良い。」と言ったので、正気を疑いつつ指示通りにするとそれらは何もすることなく頭上を飛び越えていった。

「弾がないやつでの脅しだ。思ったよりもかしこいらしい。」

とは言え八十を相手にするには骨が折れた。吹雪たちは撃墜ペースの遅さに焦り始めていたが、海渡はむしろそうなるように指示を出していた。あまりにもはやく撃墜すると、予定地点まで誘導し切る前に第二次攻撃が発艦してしまい、予定が狂ってしまう。それを達成するため、吹雪達に被害が出ないようにしつつ撃墜ペースを下げるという芸術を披露していた。舵、速力、攻撃対象を細かく指示し続け、そして、敵が予定地点にたどりつく直前に撃墜ペースを上げた。すると、敵は予想通り第二次攻撃の準備を始めたので、全員へ攻勢に転じるよう命令した。

『みらい』乗員は冷や汗が止まらなかった。水上から聞こえるスクリュー音がまるで死神の足音のようで、どうか気づかないでくれと祈った者もいる。海渡からの命令で、今まで堪えていた気分を爆発させるように動き出した。VLSを開き、対艦ミサイルを八発発射した。敵側もVLSへの注水音で気づいて対潜攻撃を仕掛けてきた。

「副長!爆雷の投下音が!」

「かまうものか。敵ごと全部破壊してくれる!」

松葉の予想通り、『みらい』の対艦ミサイルと敵の爆雷が衝突して大爆発を起こした。その爆発は『みらい』の船体を揺らしたが損害はなく、逆に深海棲艦の方は駆逐艦二隻と重巡洋艦一隻が大破した。本目標のレイにはダメージを与えられなかったが、衝撃の所為で態勢を崩して航空機の発艦に失敗し、何機かが海中に没した。再度発艦のために態勢を整え始めたところに、飛龍の攻撃隊が殺到して側面から魚雷が殺到して半数が当たり大きく態勢を崩した。

「生意気ナァ!」

レイは叫びを上げた。彼女が対空砲を起動して応戦しようとしたところへ、吹雪が飛びかかり航空甲板に載った艦載機を踏み潰した。それらは爆破炎上してレイナの脚部に燃え移った。吹雪は即座に主砲を構えたが振り払われ海上を二回転がったあと足で踏ん張って立ち上がった。

そこで初めてレイの姿を確認した。彼女自身は肘と腿の先が黒くなっているだけの肌が真っ白の人間のような見た目だが、彼女が乗る何かは以前南方棲戦姫が乗っていた黒い怪物を彷彿とさせる。彼女の両脇から二本の飛行甲板が生えており、さらにその脇に砲身と思われるものが数本ずつ生えている。そして、飛行甲板の下には巨大な口が開き炎が漏れていた。

「吹雪、貴様ノ所為デ、全テ台無シダ!」

叫ぶレイを他所に吹雪はさらに接近する。随伴の重巡洋艦と駆逐艦が飛びかかる吹雪に主砲を構えたが、そこへ陸奥と最上の弾が着弾して大破させた。さらに睦月、如月、北上の魚雷が流れ彼女らの陣形を荒らした。敵正規空母はその魚雷の波に飲まれ、轟沈した。

「相手は空母系だ。だから近距離戦闘に持ち込んで航空機を無力化する。」

海渡は作戦前にそう言った。海渡の絶妙なタイミングの計算により、第二次攻撃を阻止しつつ先制攻撃を浴びせることに成功した。とは言え、レイも主砲がありそれを応射した。吹雪はそれらを最短距離で回避するため、砲弾の間をすり抜け、短剣を艤装から取り出して逆手で切りつける。レイは回避が間に合わず右側の飛行甲板が切断された。そこで吹雪が一旦距離を取ると、砲弾の雨がレイナを襲った。その雨が過ぎた直後に北上のレールガンが彼女の無事な方の飛行甲板をぶち抜いた。弾薬が誘爆を起こし、黒い化物の左半分が千切れた。

「真白ォ!裏切リ者メ!ナゼ邪魔ヲスル!」

「貴様が大泉に従順すぎるだけだ。そもそも私は最初から協力者ではないぞ。」

レイの表情が怒気で満たされたが真白は一笑に付した。この時初めて真白は愉悦という感覚を覚えた。

「飛龍、トドメだ。」

海渡の合図で待機していた第二次雷撃隊が突入する。日が落ちてきており、これが最後の航空攻撃の機会である。飛龍は高ぶる神経を必死に落ちつせながら雷撃隊を操作する。そして、

「友永隊、頼んだわよ!」

飛龍の掛け声とともに魚雷が投下され、真っ直ぐレイに向かっていく。当てるための放射状の雷撃ではなく、全弾当てるための集中線のような投下によりその全てがレイの右舷側に当たり、何度も水柱を立ち上げた。

「鳳翔さんの仇です。」

黒い化物が完全に沈黙して沈み始めた。しかしレイ自身は未だ健在で、化物を放棄して海中に逃げ去った。

「くっそぉ。逃げられた。」

最上が悪態をついたのもつかの間、海渡が即座に指示を飛ばす。

「追撃戦だ。絶対に逃すな。」

わずかに怒りを含んだ低い声であった。その言葉を聞いて全員が高揚した。

「『みらい』、前方に魚雷を放射状に撃て。この当たりは比較的浅いからそれでどうにか海上に引きずり出すんだ。」

「アイサー!」

日が完全に落ちきった夕方と夜の狭間が世界を支配している中、それは即座に実施された。

「位置は把握できているから安心してくれ。飛龍以外は夜戦の準備だ。」

その指示を受け、彼女たちは主砲や魚雷の装填を行いながら最大戦速で前進していった。

「私はどうすればいい?」

残された飛龍はどうにか攻撃隊を着艦させて海渡の隣に来た。

「おれと一緒にいろ。危ないから。」

「ありがと。」

敵は海中をまっすぐ逃げるように動いているが、そこへ『みらい』の魚雷が追いついて爆発した。直撃はしなかったもののレイは海上方向に浮き上がった。どうにか耐えて再度移動を開始しようとしたその時、体に鎖が巻き付いて海上に釣り上げられた。それが吹雪の錨だと気づいたのは吹雪たちに囲まれた後であった。

「ワ、私ハ頼マレタダケナンダ。」

明らかな命乞いだったが、この場にいる誰もそれに同情はしなかった。みな冷ややかな視線を投げている。

「奇遇だね。僕たちもなんだ。」

そう言って最上は間を置くことなく主砲を撃ち、レイの脳天を吹き飛ばした。破片が飛び散り海面に音を立てて落ちた。彼女の体は徐々に沈み始めた。

「そいつの体を回収してくれ。」

海渡からの指示は少し珍妙でみな疑問を抱いたが、指示通りに回収して『みらい』に戻った。かくして、鳳翔の仇は討たれた。皆気持ちが僅かに軽くなり、飛龍は抱えてた荷物が一つ減ったのを感じた。

 

 

 

『みらい』が帰路についている間、海渡は衛生科の櫻井大尉と真白と共に格納庫でレイの死体を調べていた。櫻井は海渡が自分の身体のためにこれを調査したいというのは知っているが、それでも明らかに女性の体を見える物体を彼が何の抵抗もなく触っていることにやや嫌悪した。

「感触はほとんど人間だな。」

真白は何も言わずに彼らを見ていた。なぜ自分まで乗艦させられているんだとやや困惑しながらも、情報提供のためにいるように海渡に言われその指示に従っている。彼女は彼女で海渡を観察する目的もあったため、その点においては好都合だった。彼女の見立てでは海渡は間違いなく旗艦個体としての覚醒を果たしている。だが、まだ"完成"ではないように見える。その理由がわからず悩んでいた。

さらに海渡は死体の中に金属片などがないかを触ったり押したりして調べた。自分と同じなら何か入っているはずだ、と考えたがこれも何もなかった。

「大尉、これの背中開けるか?」

「で、できますけど。」

「じゃあ頼む。」

櫻井は渋々了承して実行した。開いた際に流れ出た液体は血というよりも油のような印象を受けた。

「何もない、か。」

海渡は考え込んだ。艦娘とも異なる構造なのか、それとも生まれつきなのか。判断がつかなかった。海渡は真白に視線を向けたが、

「何も教えんぞ。」

と言われては黙るしかなかった。ここまで来てなぜ何も言わないのか気になりはしたが、言い争いになりそうだったため海渡は追求しなかった。

「大尉、それを遺体袋に詰めておいてくれ。」

「了解しました。」

海渡はそう指示して格納庫を去った。櫻井はため息をついた後、真白を見た。その視線の意味が分からず、真白は少し目を丸くした。

「袋に詰めるの、手伝ってくれない?」

「…そのくらいなら。」

乗員みな真白の存在は気になりはしているものの、大騒ぎするほどのことはなかった。ただ、「『みらい』の乗員に深海棲艦が増えたぞ。」くらいの認識であった。

戦闘が終わった後、さすがに艦娘たちは疲れ切っておりそれぞれ自分のベッドに戻ってすぐに夢の中に入った。海渡は疲れてはいたが、久々の"ちゃんとした"疲れを感じることが心地よかった。ここ二週間はあまり記憶がなく、ぼんやり動き歩いていたような感覚しかない。艦長室でコーヒーを飲みながらのんびりしつつ、今後のことを考えていた。レイの発言からもはや大泉との戦闘は不可避であると判断していたが、大泉を弾劾する物的証拠は今だ乏しい。レイの遺体から何か決定的なものが得られれば文句はないのだが、如何せん潜水艦の中ではそれを特定する設備がない。港に戻ってから考えるしかない、そう決めて頭の隅に置いた。

次の問題として、乗艦直前に真白が言っていたことを思い出した。

「しばらくは一人で寝ないほうがいい。以前のように声に潰される可能性がある。」

海渡は助言を聞いて困惑した。

「じゃあ雑魚寝でもするか。」

「違う。吹雪に添い寝してもらえ。」

「なんで彼女限定なんだ。」

「お前を呼び戻したのは吹雪だろう。彼女には力がある。また無意識の内に声に飲まれるようなことがあってみろ。何が起きるかわからんぞ。とにかく、一人でいるときに意識を落とすことはするな。」

真白としてはここまで育てた旗艦個体をわざわざ失うのはどうしても避けなければならなかったし、このまま本当に壊れてしまったら早苗との契約が達成できない。どうにか手を打つ必要があった。

「そう言われてもな。」

思わず独り言が漏れた。意外にも一人で寝ることに恐怖はなかった。謎の自信があったからだが、彼女が言っていることは一理あることは認めている。海渡の性質について真白の方が詳しいことは明白だった。とは言え、自分からそんなお願いなどできるわけもない。恥ずかしいにも程がある。

海渡はとりあえず帰るまでは起きていれば大丈夫だろう、と考えていたが、体の方はそれに従う気がなかったようでいつの間にか船を漕ぎ始めてしまった。しかし、彼はもう少し深刻に考えるべきであった。ここはまだ海の只中であるのだから。

 

 

 

入港直前に真白が「ここで降ろせ」というので、松葉は『みらい』を浮上させ彼女を海に帰した。海上に飛び出してそのまま海中に消える姿をそれを見て「便利で羨ましい限りだ。」と口に出して言い、その後、午前十時過ぎ頃に入港を果たした。

海渡の件や初の特殊個体との正面戦闘は乗員たちの神経を異常な速度ですり減らしたが、それを乗り越え帰還を成し得たことで強い喜びを感じていた。また、特殊個体を撃沈したことはまたたく間に軍内に広まって祝賀ムードを沸き立たせたが、大泉や薫などの一部の人間は酷いストレスに苛まれた。特に大泉は計画に大きな修正を加える必要を迫られたために、その怒りも大きかった。レイに対して思いつく限りの侮蔑を口に出してどうにか落ち着きを取り戻した。

唯一の例外は海渡だった。彼は艦内で眠ってしまったがために酷い頭痛に苛まれていた。もちろん恨み辛みの声が響いている所為である。幸いなことに、以前と異なり自身に起きている現象を正しく"異常"であると認識できていたがあまり慰めにはなっていなかった。予想以上の痛みに「素直に忠告を聞くんだったな」と内心反省したが、それを実行するのは躊躇われるのであった。ただ、官舎へ戻る間頭痛は増すばかりで一向に弱まる気配がなかったため、吹雪を探すことにした。探す間に声のかけ方を考えていたが、睦月と如月と別れた吹雪を見つけるまで何も浮かばなかった。

「吹雪、ちょっといいか。」

「なんでしょう?」

彼は頭痛を態度にも表情にも出していなかったので誰にも体調不良を気づかれずにここまで来たが、吹雪は見抜いたようで声を掛ける前の笑顔が消えた。

「大丈夫ですか?」

「ああ、大丈夫…、じゃないんだ。ちょっとお願いがあって。」

彼は言い淀んだ。マシな表現はないか悩んだが、強烈な頭痛の前ではほぼ無意味な努力で、最終的に、

「一人で寝るのが怖いんだ。一緒にいてほしい。」

というまるで子供の我が儘めいた言葉が出た。言った後で「やらかした。」と彼は後悔したが、吹雪は笑わずに優しい表情を作って、

「はい、いいですよ。」

と快諾した。

部屋に戻るまで、子供を引率するかのように吹雪は海渡と手を繋いでいた。誰にも遭遇しなかったことに海渡は安堵しつつ、吹雪と手をつなぎ始めてから驚くほど症状が改善したため、ありがたいという感謝の気持ちと情けないという落胆の感情を抱えた。

部屋に戻ったあと、海渡は手短に入浴を済ませた。

「先に寝たほうが良かったんじゃないですか?」

「布団が汚れるからやだ。」

頭痛に苛まれながらも、それだけは海渡の主義に反するのであった。余裕の無さからいつもの調子が出ずおかしな口調になったが、吹雪にはとても新鮮で面白おかしかったため、もっと聞きたいからちょっとだけ構ってもいいかなと思った。

海渡自身は入浴後の気持ちよさと安心感からか酷い睡魔に襲われ始め、瞼が閉じかけていた。およそ二週間の間まともな睡眠を取らなかったことに対するツケでもあった。

「ほら、こっち。」

吹雪はわざと保護者っぽく振る舞ってみたが、海渡の脳はもう寝ており返答がなかった。無抵抗に手を引かれるまま案内されてベッドに倒れ込んだ。そして即座に寝た。吹雪は未だに隈が残るやややつれた顔をしばし眺めていた。そしてこの後どうしようかと悩み始めた時、ふいに腕を引っ張られてそのまま抱き枕よろしく抱え込まれた。吹雪は動転して脳が真っ白になった。だが、海渡が安らかに寝息を立てているのを感じ、「眠れているなら良かった」と安心したところで彼女の意識も夢の中に落ちた。

 

 

 

海渡と吹雪が夢に入り始めた頃、松葉は橘に任務完了を報告していた。彼もやや眠気を残していたが、海渡は自身の体調が芳しくないため、やむを得ず報告を彼に頼んでいた。橘は松葉を座らせて、自身はその対面に座った。

「なるほどな。色々ご苦労だった。まさかアレとグルだとは流石に予想外だった。」

松葉は任務中に起きた出来事をつぶさに報告した。

「物的証拠がないのが残念ですが。」

「全くだ。」

「准将がDNAと指紋の照合を望んでいますので、ご手配お願いできませんか?軍内で正式に手続きするとなると、モグラがしゃしゃり出てくること疑いありませんので。」

「良かろう。知人にできるやつがいるから頼んでみよう。検体は?」

「まだ『みらい』艦内です。」

橘はしばし考えて、検体を運び出すのではなく知人に『みらい』まで来てもらい、そこで必要な処置をしてもらうことを決めた。外に出すのは危険すぎる。それを松葉に伝えて、彼もそれを了解した。

「しかし、本当に志ノ方のやつは大丈夫なのかね。」

橘はコーヒーを一口飲んで落ち着いた口調で言った。海渡がおかしな様子だったのは彼も把握している。松葉の報告でそれが落ち着いたことは承知したが、軍隊に戻ってきてからというもの彼とその周りには色々起きすぎてる。そしてこれからもそうだろう。それを予測しての発言である。

「さあ。今回に限って言えば吹雪さんのおかげで助かりましたよ。」

「吹雪がねぇ。」

橘は軽く顎をさすった。四年前の出来事から現状に至るまで誰が想像できただろうか。施設で育った戦うしか能がなかった娘が社会に溶け込むまでになっている。正直、あのまま兵器として生きて朽ちる物だと思っていたが、海渡に意外な才能があったのだなと一人納得した。

「大将、吹雪さんは一体何者なのですか?准将とは相当仲が良いように見えますが。」

「まぁ、中佐になら話しておいても良いだろう。」

橘は一つ置いて続ける。

「吹雪はな、一番最初の艦娘なんだ。少なくとも記録上はそうなっている。志ノ方との付き合いは四年前、あいつが失踪扱いになってからだな。それからずっとあいつの指揮下で戦っている。指揮官というよりあれはお守りの類だったが、まぁとにかくやっていたな。」

そこで区切ってまたコーヒーを飲んだ。

「最初の、ですか。何か特別なのですか?」

「いや、そういうことはないと思うが、気になった点が一つだけあって彼女だけ経歴がなかったんだよ。北上、最上、鳳翔には艦娘になる前の経歴があったが、彼女は空白だった。それが何か関係あるかと聞かれたらあるとも思えるし、ないとも思う。当時は十二歳で小学生相当だったから、それを嫌ってのことかもしれんが。」

松葉は少し気分が沈んだ。彼は結婚して子供がいたので、我が子が小学生で戦場に出される様を想像してしまった。

「あまり好ましい話ではありませんね。」

「全くだ。国防の観点から仕方ないとは言え、義務教育を終えていないような子供を使い始めたらおしまいだ。彼女たちは本当によくやってくれている。」

お互いにわずかにため息をつく。気が重くなる話だ。

「大人としては、彼女たちが解放される時が来てほしいものです。」

「そうだな。若い娘に戦わせて、情けないものだ。」

言い終わる頃に昼の合図が流れた。その橘は苦笑して立ち上がって話を切り上げ、松葉は念押しで検査の件を伝えて執務室を出た。

 

 

 

帰投したあと其々入浴や食事を済ませて、吹雪を除く艦娘たちは海渡の執務室に集まった。特に理由があるわけではないのだが、彼女たちは何となくそうしていた。

「あれ?吹雪は?」

最後に最上が部屋に入った時に吹雪がいないことに気づいた。

「さあ?部屋で寝てるんじゃない?」

北上が紅茶を飲みながら応じる。

「なんかここって、他の執務室と違うよね。ゆるすぎじゃない?」

それを見た飛龍が苦笑しながら言う。

「あなたもその一員ですからね。」

大淀が釘を差した。彼女だけは海渡宛てに溜まっている書類の束を相手にしていた。

昼過ぎのやや暑い時間、セミの鳴き声と扇風機の首を振る音が部屋に流れている。みな諸々済ませてきたとは言え、疲れが抜けておらずやや眠気を残しており、睦月はソファに座って船を漕いでいた。海渡がいない以上やることがないのだが、海渡がいたとしても彼は「訓練に行け」だの「トレーニングしろ」だの言ったことは全く無いため似たような状況なのは変わらないだろう。強いて言えば、一応上司のためわずかに部屋に緊張感がある程度である。他の指揮官たちに比べて明らかに緩いが、それは海渡が艦娘というものを戦う人間と言うよりも保護しなければいけない人間と捉えている面があるからであった。彼からすると、今までの吹雪たちへ対応方法が基準に置かれており、佑輝や明雄たちと決定的に異なるところであった。

「司令官は、結局大丈夫だったんでしょうか。」

如月が読んでいた本を置いて誰にともなく呟いた。

「最後の方は元気そうだったし、大丈夫なんじゃない?」

北上は本を読む手を止めずに話す。表情に変化も見られない。

「でも、正直すごく怖かったです。戻ってくれて本当に安心しました。」

如月の声で目を覚ました睦月が異常な海渡を思い出しながら呟く。そこで全員が手を止めて静まり返った。

「もしあのままだったら、どうしようって思いました。」

「まぁ逃げればいいんじゃない?僕は一緒にいるけど。」

「逃げればって、そんな薄情なことできないです。」

「良いんだよ薄情で。睦月と如月があの人に責任を感じる必要はないよ。僕と北上と吹雪は海渡さんに恩があるから離れないってだけさ。」

最上はやや真剣さを欠いた表情で言った。最上なりの彼女たちへの配慮だった。

「え?あたしは逃げたいんだけど。」

「本気?」

「…ちょっとだけ。」

最上と北上は苦笑した。

「私たちはだめなの?」

窓辺で立っていた陸奥が最上の言葉で除外対象から外れたことを冗談めかして最上を見る。

「少なくとも大淀と飛龍はその権利はないんじゃないかな。陸奥だって自分からここに来たわけだしね。」

「ええそうね。」

陸奥は柔らかい表情を崩さずに言った。飛龍と大淀はやや表情を固くして黙っている。少なくとも自覚はあるようだ。

「ま、解決したからいいんだよ。それより、この後どうするんだろうね。何も予定ないけど。」

最上は一つ伸びをして声のトーンを少し上げて話した。暗い話題は性に合わない。

「…たぶん、大きな争いになると思います。」

大淀が書類の束を粗方片付け終わって静かに話した。全員の視線が集まったことに気づかぬまま、話を続けた。

「先の任務で手に入れた情報はあまりにも決定的です。所長と揉めることになるでしょうし、悪くすれば艦娘同士で戦うなんてことになりかねません。」

「なんで?」

「…見てしまったんです。所長と椎名提督と紺野提督が共謀しているところを。」

全員が息を呑んだ。大淀は彼女たちがここで何かを探していたことを思い出す。当時は恐怖以外感じなかったが、改めて思い出すと明らかに二人とも自発的に行動しており、背筋に冷たいものが走った。陸奥ですら表情を改めていた事から相当な衝撃であることが伺い知れる。

「いや、そうだとしても翔鶴や三隈たちがそれに従うとは思えないんだけど。」

「私もそう思います。ですが、所長の研究の一つに兵器の自動化というものがあります。言わばドローンのようなものなのですが、あの人はそれにひどく執心していました。そこまでしか知りませんが、あの人なら、やりかねない気がします。」

彼女たちの想像を絶する話であった。其々が恐怖を表情に出した。風物詩でしかないセミの鳴き声が少しだけ不気味になった気がする。

「艦娘の自動化なんてできるの?人間だよ?」

「いや、あいつならやるね。あたしたちにしたことを考えたら、その程度は余裕でやろうとする。」

飛龍の苦笑いに北上が真顔で応じた。最上と共に表情に怒りの感情が微量に含まれている。

「ま、そうなったらその時考えよう。海渡さんが何とかしてくれるよ。」

最上が頭を振りながら言う。

「すごい他人任せですね。」

「でも実際そうとしか言いようがないね。僕たちは命令通りに戦うしかないんだから。それに、今までそうしてきたからね。」

それには皆同意した。彼はそういう役回りだし、おそらく何か考えているんだろう。皆そう思っていた。

 

 

 

日が少し傾き始めた頃、『かなた』の出撃準備で工廠はてんやわんやであった。同行する輸送艦『あらかわ』に指定された資材を粗方積み込み終えたところに追加で命令が来て、最後に巨大なコンテナを搬入するというのだ。『あらかわ』は空母のような全通甲板を供え、輸送機の発着が可能であり、エアクッション艇のためのウェルドッグを持つ。巨大なコンテナはそこに収容するよう指示があったのだが、とにかくコンテナのサイズが大きいため作業はやや難航した。とは言え、さすがに熟練たちの手に掛かれば予定時刻には間に合わせるのは造作もないことだった。

「何に使うんでしょうねこれ。」

「さあ?艦娘の支援装備か何かか?」

積み込んだ青色のコンテナを見ながら明石が工廠の同僚と話す。とは言え別に中身にそこまで興味があるわけではなかった。二人とも「最初から言ってくれればこんな苦労せずに済んだのに。」と不満げで、その作業を終えた満足感の方が強かった。

「さて、通常業務に戻りましょうか。」

明石の合図で解散になり、それぞれが持ち場に戻ろうとした時、翔鶴、瑞鶴、三隈の三人が来た。

「おや、どうしたんですか?」

「たまたま近くまで来たので、見ておこうと思いまして。」

翔鶴の長い銀髪が揺れ、やや幻想的な雰囲気を醸し出した。物腰柔らかい少し高めの声が上品さを物語っている。

「お疲れ様です。最近忙しそうですね。艤装の試験に迎撃任務と、ちゃんと休めてます?」

「ご心配なく。しっかりと休ませてもらってますよ。遊撃部隊の皆さんの方が大変そうです。」

明石は苦笑した。確かにそれはそうだ。

「ねぇ明石さん、私たちの艤装は?」

瑞鶴がやや前のめりに聞く。こちらはやや灰色掛かった短めのツインテールが揺れている。同型の翔鶴とは違ってこちらは少女を思わせる元気っぷりである。

「もう積み込みましたよ。何か御用でした?」

「ちょっと見ておこうと思って。最近改修が多いから。」

「これで三度目でしたっけ?すごい優遇されてますね。」

「赤城さんたちが怪我しちゃったからその分もってことかもね。」

「要はもっと働けと言うことですね。」

「その言い方はなんか嫌だな。」

表情にあからさまな不快を表し、少し大げさに反応する。

「そういえば、椎名提督の調子はどうですか?最近出撃がまた増えたから元気になったんじゃないかと思うんですが。」

明石自身は雑談としての話題だったが、翔鶴たちの方はそうではなかったようだ。翔鶴は悩んで少しだけ唸ってから話しだした。

「元気といえば元気なんだけれど、前と様子が違う気がするのよね。少し怖い感じがするの。何を考えているのかわからない時があるわ。」

「最近のあの人はちょっと複雑ですからねぇ。海渡さんの所為でしょうけど。」

「明石さん、提督の前で絶対志ノ方提督の話しないでね。」

瑞鶴が厳しい顔で明石に迫った。明石は一歩たじろいで「わかった、わかったから。」と繰り返した。

「あと、紺野提督の前でも、お願いしますね。」

三隈が苦笑しながら言った。

「あの人は、そうですね。海渡さんへの執着がすごいですからね。」

明石は以前の出来事を思い出した。紺野の前で話題にした時悲惨なことになったのだ。まさか名前を出しただけであんなに詰め寄られるとは思いもしなかった。

「海渡さんはモテますね。良くも悪くも。」

「ホントだよ。あの人が来てから話題に事欠かなすぎるもん。」

それは全員が同意するところであった。彼が発見されて軍隊に編入された五月からたった約四ヶ月、それなのに良くも悪くも様々起きた。翔鶴たちの預かり知らぬところで陰謀が働いているところも含めて。

「みんな守り神なんて呼ばれてますね。例の特殊個体を撃沈したことで特に。」

「戦う身としては神頼みは避けたいところです。気持ちはわかりますけどね。」

誰もが生きて帰りたいと思う一方、戦場というのはそれの願いを簡単に砕く。特に南西海戦はその事実を再認識させた。その中でも救援を行って生き残り、かつそれの元凶と思われる敵を倒した。彼に対する無責任な信頼は日々増すばかりであった。

翔鶴たちはその後多少の雑談の後出ていった。出港は明日の九時で、それまでの自由時間を悔いのないように過ごす。赤城達の怪我と鳳翔の喪失は、そのような形で残っていた。

 

 

 

吹雪はインターホンの音で目が覚めた。暗がりの中時刻を確認すると二十時を過ぎた頃であった。ずいぶん寝てしまったと思いつつ体を起こして手櫛で髪を整えた後、扉を開けた。

「はい、なんでしょうか?」

扉の前には長門と陸奥が立っていたが、二人とも表情を驚愕で満たした。長門は部屋番号を二回ほど確認して、陸奥は片手で口元を隠した。吹雪は不思議そうな視線を二人に向けたが、

「あー、志ノ方提督に用があるのですが。」

長門の一言でようやく自分の部屋でないことを思い出した。さすがの長門でも歯切れが悪い。頭の中で何かが破裂する幻聴を聞いて数秒して、

「呼んできます。」

とか細い声を出して寝ている海渡を起こした。海渡がなかなか起きず多少手間取ったが、彼は多少ぼんやりしつつ寝巻きのまま長門と陸奥を部屋に迎え椅子に座らせた。

「ずいぶん眠そうね。」

「最近眠れてなかったからな。ようやくまとまった時間眠れたよ。」

海渡は三人分の麦茶を用意してみなに配った。自分自身は眠気覚ましのために熱い緑茶を作った。

「そんなに寝ていなかったのか?確かに酷い顔をしていると思ったものだが。」

「まぁ、色々あってな。」

「で、その眠れる方法が吹雪ちゃんってわけ?」

「それで、要件はなんだ?」

海渡は陸奥の言葉を無視した。長門は「これを届けるように言われた。」と前置きをした後、紐付き保存袋を取り出した。海渡はそれを受け取り中身を出すと、『かなた』の人事変更と薫たちの最近の任務内容について書かれていた。

「誰に言われた?」

「ついさっき提督に渡されてな。必ず手渡ししろと。」

「あいつが直接来ればいいじゃないか。」

「なにやら忙しいらしいぞ。」

佑輝がなぜ長門を経由したのかイマイチ理由がわからなかった。海渡としてはこのように色々調べていることについて光政と橘以外に知られたくなかった。佑輝が信頼できないわけではないが、薫が味方でないとわかっている以上、どこに敵がいるのか判断がつかないからだ。

「佑輝は誰からこれを?」

「ずいぶん出処を気にするな。そんなに問題がある資料なのか?」

「誰からだ?」

海渡はやや尋問する口調になった。寝巻き姿故に迫力にかけたが、目は鋭さが増した。長門は一瞬だけ身震いした後、姿勢を正して答えた。

「橘大将からと聞いている。」

「…なるほどね。」

一種の脅迫のようなものかもしれないと思考した。橘は佑輝をこちら側に巻き込む気でいるのだろう。そうだとすれば、大泉たちが相当に活発になっているのだろうと推察した。受け取った資料を読み進めるうちそれは確信に変わった。

「陸奥はどうしてここに?」

「長門が執務室に来たの。それであなたに用事があるっていうからここまで案内したのよ。」

「手間かけさせて悪かったな。」

「おかげで珍しいものを見れたわ。」

陸奥の楽しそうな表情と裏腹に海渡はため息をついた。

「しかし面倒なことになってるな。」

読み終えた資料をテーブルにおいて唸った。これほど大泉側に人事を操作する力があるとは思っていなかった。『かなた』の艦長と艤装系乗員を軒並み交代させてしまっている。薫と紺野が配属されているのも偶然ではないだろう。

「何か、試しているのか。」

最近の任務は装備の試験が多い。大泉の良からぬ何かを実験しているのか。

「志ノ方提督、先程から何を考えているのだ?」

「なぜこれがおれに送られてきたのか、理由をな。」

そこで急に声が聞こえ始めて頭痛が再発した。身構えていなかったせいで思わずテーブルに突っ伏してうめき声が出た。長門が何事かと声をかけたが、それは彼には届かなかった。吹雪は即座に状況を把握して海渡の右手を両手でとった。十秒ほどおいてようやく収まった。

「体調が芳しくなさそうだが、大丈夫か?医者を呼んだほうが良いのでは。」

「いや、大丈夫だ。これはもう何というか、そういうものなんだ。」

「吹雪さんが一緒にいるのはそういう理由か。」

「そんなところだ。」

長門は手を握る吹雪を見て瞬時に理解した。そして一笑して記憶にある似た光景を思い出した。

「懐かしい気分になるな。私にもそういうことがあった。」

「旦那さんのことですか?」

「ええ。最近は待機命令が多く会えていませんが。」

吹雪の純粋な問いかけに答える。表情は記憶を懐かしんでいるような柔らかさがある。

「すまない。間接的に迷惑をかけているな。」

「何、これも仕事だ。気にするな。彼も理解している。」

艦娘唯一の既婚者は強い精神と強い結びつきによって成り立っているように思えた。ただ、海渡はそこを掘り下げる気はあまりなく、吹雪は墓穴を掘りそうな気がしたので話題を敢えて広げなかった。陸奥一人が海渡と吹雪の心情を察してわずかに表情を崩した。

「翔鶴や瑞鶴たちに体調不良とかそういう話は聞かないか?」

「いや、聞いてないな。しかし特に問題はないんだろう。そうじゃなければ明日の任務が割り当てられることもないだろう。」

「明日も出るのか?」

「そう聞いているが。」

資料に書かれた内容を合わせれば三回目になる。海渡は眉をひそめた。

「そういえば大淀が少し気になることを言っていたわ。所長の研究に兵器の自動化があるのと何か関係があるんじゃないかって。」

陸奥が麦茶を飲みつつ肘をついて話す。海渡はそれで合点がいった。大泉、薫、紺野が組んでいる理由は不明だが、大泉が翔鶴たちで何をやろうとしているのかはおおよそ見当がついた。

「あいつは艦娘を外部から操作する気でいるな。まぁ昔から艦娘の不安定さに不平を鳴らしていたから当然と言えば当然だが。」

「そんなことできるのか?」

「おおよそな。艤装との同調というのは、艤装と人間の間に通訳みたいなものを挟んで意思疎通することだ。どっちの側かわからないが、そこに一枚かませて"あたかも本人ではない人間の意思が介在している"ようにすれば、艦娘の意思はおそらく無視できる。結局のところ、電気信号のやり取りに過ぎない。」

海渡の言葉で静まり返った。そして、長門と陸奥は苦い表情を浮かべたが、吹雪は無表情だった。「あいつならそのくらいやる。」ということを身を持って体験したからで、今更驚くべきことではない。

「なぜそうと言えるの?」

「四年前に吹雪達の面倒を見る上で一応全部調べたからな。機構があの時と大きく違わないなら可能だろう。」

海渡は緑茶をすすった。未だに熱い所為でわずかに舌を火傷した。

「…しかし、それだとせいぜい電源を落とすくらいのことしかできない。洋上でやられたら即水没だろうから脅しぐらいにはなるが、アレがこれ満足するとは思えない。」

「それでも十分怖いぞ。」

流石の長門も寒気がしたらしい。表情が強張った。

「そうだな。どうにか、同調率を意図的に操作できるなら、一方的に艦娘を動かせるかもしれん。ふざけた話だが。」

「その時の私たちの意思はどうなる?」

「わからんが、意識はあるが体の自由は聞かない、みたいなことになるのかな。流石にそこまではわからない。」

「ぞっとしないな。」

「本当にな。いっそロボット兵に搭載して完全に無人にしてくれたほうがありがたい。吹雪たちを戦場に出さずに済む。」

「その可能性はないの?そのためにデータを取ってるとか。」

陸奥が呆れながら言った。先程から眉をしかめっぱなしである。

「さあな。アレの性格を考えると人間の方が安上がりとか考えてそうだ。」

海渡は大きくため息をついた。

「嫌な話をしたな。すまない。まぁそうなると決まったわけではない。ただ、この話は他言無用にしてくれ。」

「ここが盗聴されてたらどうするの?」

「その時は向こうからおれたちにアクションしてくるだろうし、それを逆手にとればいい。」

「何かあったらお願いね。」

「わかっている。」

陸奥がわざとらしくポーズを取った。海渡は苦笑しつつ礼を言って二人を見送った。

部屋には海渡と吹雪だけになった。

「吹雪は戻らないのか?」

「戻っていいんですか?」

玄関前の廊下で少し問答になった。吹雪は少し微笑み、海渡は意図するところを理解して返答に窮した。

「私は大丈夫ですよ。」

笑顔で言われてさらに追い詰められた。また一人で寝るのは些か恐怖心があったが、ここは地上だから平気なはず、と自身に言い聞かせていた。

「だから、そうじゃなくて。」

「じゃなくて?」

一方の吹雪は海渡が返答に困る様を見て楽しんでいた。彼を追い詰める気はさらさらなかったのだが、このまま引き下がる気もなかった。彼が義務や理性を優先するのは自分が遠慮してそれを受け入れている所為なのでは、と思うのだ。

「流石にまずいだろう。長門の表情を見なかったのか?」

「見ましたよ。海渡さん、正直になりましょう?」

吹雪は意地の悪い笑みを浮かべて言った。完全にペースを握られてしまっていて、握られっぱなしの未来が見える。海渡は悩んだ。

「どこで覚えたんだよそういうの。」

「ここには先生がいっぱいいますから。」

心当たりが多すぎる。海渡はため息を吐いた。

「わかった、わかったよ。おれの負けだよ。」

海渡はそう言って吹雪を見たが、吹雪はさらに次の言葉を待っている様子だった。海渡は表情が定まらぬまま、全面降伏を決めた。

「まだ一緒にいてくれると助かる。」

「はい、素直なのは良いことです。じゃあちょっと支度してきますね。」

そう言って吹雪は笑顔を作って部屋を出ていった。海渡はおかしな疲労感に包まれ、居間に戻ってやや乱暴に椅子に座った。

「なんで三十にもなって十代に翻弄されているんだ。」

海渡は顔を両手で覆って独語した。独り言にしては大きかったが彼以外だれも聞いていなかった。

 

 

 

明くる日、橘は早朝に『みらい』の格納庫にいた。海渡が持ち帰った深海棲艦の死骸の調査を行うため、彼の古い友人で解剖医の榊原を連れて来たのである。

「こんな朝っぱらから呼びつけやがって。何が"明日頼む"だよ。」

ボサボサ髪をかき回しながら不平を慣らす。細い目がさらに細くなり眠気を称えている。

「悪いな。緊急で必要だったんでな。今度酒を一杯奢ろうじゃないか。」

「だめだな。最低でも三杯だ。」

そう言って精神を仕事に切り替え手際よく準備する。初めは身元の特定という話だったが、橘は検体が深海棲艦ということもあり可能な範囲で検査してもらえるよう頼んだ。榊原は不機嫌を声に出したが、文句を言いながらもその要望に答えるために大荷物となった。

作業の前に手を合わせて黙祷し、作業に取り掛かる。榊原はまさか深海棲艦の死骸だとは思っておらず、格納庫に入って案内された時一歩後ずさったが、橘に理由を尋ねるようなことはしなかった。彼から私的に依頼が来る時は面倒事と決まっているので、必要上に関わらないようにするためにいつもそうしているのだ。

独り言ぼやきつつ榊原が触診している。そして、次に関節の動作、全身の状態の確認、と進めていった。橘はそれを少し離れた場所で壁に寄りかかりながら見ていた。静かな格納庫で彼の作業音だけが響く。そこからさらに三十分ほど経過して、彼がポータブルタイプのエコー検査を始めたとき、彼の手が止まった。

「何か入っているな。金属か?」

彼は死骸の胸部周辺を集中的に操作し、異物が何であるか特定しようとした。直径十センチメートル程度の円形の物体であることがわかった。

「どうする?取り出すか?」

「できるのか?」

「当たり前だろ。」

榊原は一瞬だけ得意げな顔を披露した後、作業を開始した。肋骨の内側にあるようで、多少時間がかかったが取り出すことに成功した。あまり長く触っていたいものでもなかったため、彼は手早く透明な袋に入れた。かなり古い金属のように見え、彼女の肉と同化しているかのような奇妙さがあるが、何より目を引いたのは文字が彫られていたことである。

「これ見てみろ。」

彼は橘を呼び、作業台のライトの光量を上げて円形の物体を晒した。何度も浅く傾け”No.002:Rei Iwase”と彫られていることが判明した。

「わかるか?」

「わからんが調べさせる。誰にも言うなよ。」

「わかってるって。こっちも早死はごめんだね。」

事情を知らない榊原でもこれはかなり危険だと理解した。さっさと済ませて帰りたいという欲が一気に吹き出した。橘は執務室で待機させている榎本に連絡を入れて彫られていた名前について調査して海渡に報告するよう命令した。

「榊原、DNA検査に必要な分を取り出したら終わりでいいぞ。長居はしないほうがよくなった。」

「そうさせてもらおう。気味が悪い。」

榊原は検査に必要なものを取り出して容器に詰めたあと、準備の時よりも早く片付けを済ませた。

「今更なんだが、侵食されたりしないよな?」

榊原がやや不安そうな声で聞く。一応直接敵な接触はしていないはずだが、体内にまで手を入れて金属片を出したためか、不安が拭いきれていないようだ。

「今のところそれで発症したというのは聞いたことがないな。」

「何かあったら五杯にしてもらうからな。」

「その程度なら構わんぞ。」

榊原の怪訝な顔を橘は一笑した。あまり本気で心配しているわけではなさそうなので、橘は取り合うのを止めた。

 

 

 

海渡はいつも通りの時間に起床していつものように準備をして部屋を出た。いつもと違ったのは吹雪が起床時から付き添っていることだった。

「眠れましたか?」

「お陰様で。ありがとう。」

目覚めた時は後悔が心に流れ込んできたが、部屋を出る頃にはそれらは全て一掃されており、『かなた』の出撃のことが頭の中を巡っていた。

「『かなた』のことを考えているんですか?」

執務室までの歩く中で吹雪が聞いた。彼女も表情を引き締めて昨晩から今日の朝にかけての感情は残っていない。

「ああ。とは言え今は何もやることはないな。彼女たちが戻ってきたあとで、翔鶴たちの艤装を見れば全てわかる。さすがの大泉も公に無為に死なせることしないだろう。」

吹雪は海渡の言葉の後ろに「おれたちと違って」と言葉を聞いた気がした。実際海渡はそのような気分だったし、危うくつけかけた。

執務室に入って大淀が処理した書類を、吹雪に補佐してもらいながら決裁していると、遊撃部隊の艦娘たちが断続的に入ってきた。

「おはようございます。」

「おはよう。吹雪は昨日海渡さんとずっと一緒だったの?」

入ってきた最上が欠伸をしながら聞いた。

「はい。不在ですいませんでした。」

「大丈夫だよ。あんなことがあったら休みたくもなるさ。」

吹雪はさも当然という表情と態度で返し、最上もそれに何も言うことはなかった。最上は「ようやく吹っ切れたかな」と内心呟いた。

全員揃ったところでスケジュールの確認をしていると、扉をノックして榎本が入ってきた。厳しい表情を浮かべており室内の全員が何事かと驚いた。

「准将、橘大将から依頼された件で報告に来ました。お時間よろしいですか?」

海渡は了承して報告を促した。海渡は背筋に嫌な汗が流れるのを感じた。報告の内容はおそらく検体の件だろうが、検査結果が出るにはあまりにも早すぎる。

「大将から"レイ・カワセ"という人物について調査して報告するよう言われましたので、報告書をお持ちしました。」

海渡はそれを机越しに受け取ったが、榎本の口から出た人物と思しき名称に衝撃を受けていた。彼はそれをわずかに表情に出したあと、報告書の中を見て確信した。そこには"川瀬玲"という女性について書かれていた。元海軍研究所員で十五年前に事故で亡くなったとある。

「今"レイ"って言った?」

「まさか、嘘でしょ?」

艦娘たちがそれぞれに小声で話し始めた。海渡はそれを視線で制しつつ、榎本に言った。

「ありがとう。誰かにつけられなかったか?」

「その点はご心配なきよう。慣れておりますので。」

榎本はわずかに自信を表情に出して言った。

「具体的にどうとは言えないが、しばらくは身辺に気をつけてくれ。」

「了解しました。もし大将に御用でしたら、ケータイに連絡してください。今は不在ですので。」

海渡は礼を言って榎本を下がらせ、すぐに橘に電話をかけた。その様子を艦娘たちは固唾を呑んで見ていた。

「報告書、ありがとうございました。」

「もう届いたか、榎本にまかせて正解だったな。」

挨拶もそこそこに本題に入った。

「あの女性の名前、どのように入手しましたか?」

「検体の胸の中に円形の金属片があってな、そこにローマ字で掘ってあった。"002"という番号と一緒にな。」

「…彼女は元所員だったそうで、十五年前に事故死しているとありました。どうも想像の何倍も危険な事態ですね。」

「それはいよいよまずいな。SPでも雇うかな。」

冗談めかして言っているが、本心がかなり多量に含まれているように思えた。

「お気をつけください。」

「お前もな。」

そう言って海渡は通話を終わらせた。海渡は険しい表情のまましばし無言だった。

「報告書を読んでも?」

「いいぞ。」

吹雪は海渡から受け取って中をめくった。他の艦娘たちが続々と彼女の後ろに並んで覗き込んだ。全員が同様に表情を厳しくした。

「十五年前って深海棲艦が出るよりずっと前だよね?どういうこと?」

最上が声に出した。大淀が「ちょっと声が大きいですよ。」と釘を刺し、ジェスチャーで謝罪した。

「吹雪は確か今年で十六だったよな?」

「はい、そうらしいです。」

海渡は吹雪の経歴書が空白だったことを思い出した。まさか、吹雪の体にも何か入っているのか?そうだとすると深海棲艦の出現前から何かしていたことになる。さすがの海渡も理解に苦しんだ。そして、それだけは勘弁してほしいと個人的に願った。

「まさか吹雪を疑ってるの?」

「そんなわけないだろ。ただ、歳が近いのは偶然なのか、と思ってな。今のところわかるのは十五年前に研究所で何かあったことだけか。もし予想通りなら、その頃から深海棲艦か艦娘の研究をしていたことになるが、深海棲艦が出現した時期と大きく違うのは一体何なんだ。」

北上のやや敵意を含んだ視線を真っ向から否定して退けた。そして、海渡の疑問は共通して抱いているものだった。

「まさか、アレは艦娘だったのか。」

海渡はある仮説が頭に浮かんで思わず口から漏らした。彼は艦娘の存在が先で、深海棲艦の出現が後なのではないかという仮説を立てた。玲はその実験の失敗の結果、あのようなことになったのではないか。執務室全体が暗い雰囲気に没しかけた時、また扉がノックされ、今度は明石が入ってきた。

「おはようございます。あれ?皆さん暗いですね。どうしたんですか?」

「おはよう。ちょっとな。というか、朝から元気だな。」

明石がいつもの笑顔で入ってきたのを、海渡は少し呆れつつ対応した。吹雪たちがそれぞれに挨拶し終えた後、明石は思い出したように海渡に迫った。

「そう、聞いてくださいよ。めっちゃ大変な仕事があったんですよ。」

「なんだ急に。まさか愚痴を言いに来たのか?」

明石が意気込んできたため海渡は身構えたが、どうも重要な話ではなさそうだ。

「え?だめですか?」

「ここを何だと思ってるんだ。」

「茶飲み場。」

「持ち場に戻れ。」

「酷いですね。」

「それはこっちの台詞だろ。」

おそらく暇を持て余して遊びに来たんだろうと判断し、海渡は投げやりに対応した。報告書の内容を思考したい彼にとって正直邪魔だった。

「聞くだけ聞いてくださいよ。そしたら戻るので。」

「わかったわかった。」

明石はわざとらしくせがみ、海渡は渋々応じた。陸奥と如月は「意外といいコンビね」と内心苦笑した。北上と最上は「相変わらずこの人は世話焼かれたい人間に好かれるな。」と思った。

「昨日『かなた』の出撃準備していたんですけど、途中で追加で荷物が届いて『あらかわ』の荷物を積み直すハメになったんですよ。しかもめっちゃでっかいコンテナ持ってきて。最終的に間に合わせましたけど、ほんと参っちゃって。」

明石が機嫌よく話しているのを聞いて海渡は引っかかるものを感じた。

「コンテナ?どんなのだ?」

「普通のやつですよ。青いの。」

海渡は抽斗から一枚の紙を取り出した。桐野が描いたコンテナのスケッチだ。

「こいつか?」

「これですこれです。ってなんでこんなの持ってるんですか?」

「ありがとう。」

明石は不思議を表情に満たしたが、海渡を始め吹雪たちの表情は非常に険しかった。時刻は十時半を回ったところだった。

「みんな出撃だ。吹雪は『みらい』乗員を集めてくれ。」

「了解です。」

海渡の意図するところ察してみな迅速に行動を開始した。『みらい』が準備を整えて出港したのは、『かなた』が出港してから二時間半が経過したころだった。

 

 

 

『かなた』は道中に深海棲艦との戦闘を四回行って目的地にたどり着いた。薫は知らされていなかったが、その目的地とは『はるか』の沈没地点であり、それのサルベージないし部品の回収が今回の任務の主目的であった。天候は厚い雲が覆う曇天で、奇しくも『はるか』が沈んだ日と同じであった。『かなた』と『あらかわ』は停船して作業の準備に取り掛かった。翔鶴たちは護衛のため周辺の警戒にあたった。この日の編成は翔鶴、瑞鶴、三隈、鈴谷、熊野、天龍、龍田という、駆逐艦不在の珍しいものだったが、同乗している大泉としては駆逐艦のデータはもう取り終えているため、敢えて編成させなかったのである。試験データにノイズが混じるのは良くないという思考からの判断だったが、相変わらず自らの都合しか考えていない。紺野は別件のため不在で、代わりに大泉と助手の阿久津が乗っていた。阿久津は見た目こそ大泉と違ってやや痩せ型の長身の男だったが、中身は似たり寄ったりという評価だった。薫としてはこの二人を招かれざる客として非常に不快に思っていたが、装備の試験データの収集のためと言われては面と向かって拒否するわけにもいかず、彼らのおかげで彼女の戦果はそれなりに増えていたのは事実だった。

「一つ聞きたいんだが、『あらかわ』に積んだあのコンテナ、いつ使う気だ。一体何のために持ってきたんだ?」

「その時が来れば使う。今回は出番がないかもしれんがね。」

薫の質問を大泉はのらりくらりと流した。明らかに今までの貨物とは一線を画す存在が気にかかっていた。作業を開始して一時間が経過したころ、水上レーダーに反応があり、識別信号からそれが『みらい』だと判明した。

『みらい』はここまでほぼ最大戦速で一直線に向かってきた。途中深海棲艦とは遭遇しなかったおかげで予定よりも早く『かなた』を捉えた。薫と大泉はそれぞれ別の思考で嫌悪という同じ感情に達した。

薫が無線機のスイッチを入れて『みらい』へ警告を入れようとした時、それよりも先に『みらい』から通信が飛んだ。『かなた』と『あらかわ』の両方に向けられたものだった。

「『みらい』艦長の志ノ方准将だ。輸送艦『あらかわ』に警告する。貴艦の貨物にある青色のコンテナは、『ゆきなみ』と『あまぎ』を沈める要因となったものと同一のものである可能性が非常に高いため、即時投棄されたし。」

その連絡は大泉とその部下以外には何事か理解できず沈黙が流れた。コンテナの所為で艦船が沈んだ?

薫は無線機を手に取ったまま固まり、そして大泉を見た。海渡に対抗心を燃やしているとは言え、大泉と海渡のどちらを信用するかと言われれば海渡と即答する程度には信用が残っているからだ。

「あのコンテナの中身はなんだ?」

「ただの新装備だよ。彼は自分の功績が害される可能性を危惧してデタラメを言っているだけだ。まさか、ここまで来て怖気づくのかね?また彼に先を越されてもいいのか。」

薫はひどく渋い顔をして悩んだ。

一方の『あらかわ』では艦長を始めとした乗員と乗り合わせている研究員で言い合いになっていた。

「あの准将が言ってるんだ。早く捨てたほうがいい。」

「ただの新装備が入っているだけだ。放言に惑わされるな。」

そうして五分過ぎても返答がなかったため、海渡は吹雪たちを出撃させて『あらかわ』に向かわせた。それに合わせて海渡も海上に出つつさらに通信を入れる。

「コンテナの中身を検めさせてもらう。」

その言葉を聞いて『あらかわ』の乗員たちはより一層パニックになった。その様子を通信機越しに聞いていた大泉は不機嫌な顔を薫に向けた。

「翔鶴たちに対処させたまえ。」

あまりにも予想外な発言に薫は驚愕した。

「何を馬鹿な。艦娘同士で争えというのか?」

「あれは敵だよ中佐殿。わかるかね?キミの功績や信用を奪う敵だ。」

薫は返答に窮した。敵ではない、が、純然たる味方でもない。感情がそう叫び、返答を邪魔した。

「そうか。所詮はその程度か。」

大泉は侮蔑の感情を露骨に表した。

「阿久津、例のやつを使え。」

「承知しました。」

そう言って阿久津はCICを出て行った。薫はそこで意識を戻して大泉を問い詰めた。

「何をする気だ?」

「役立たずを役に立つようにするのだよ。」

大泉の悪魔にも似た笑みを浮かべた表情に、薫は背筋が凍る思いがした。

 

 

 

翔鶴たちは海渡からの通信は聞こえていたが、薫たちの会話は聞こえていなかった。海渡への返答がないことに不安を覚えつつ、待機を維持していた。

「翔鶴姉、どうする?」

いつも元気で明るい声に陰りを感じる。

「とりあえず現任務を遂行しましょう。変更の指示は受けていませんから。」

翔鶴は冷静に妹に連絡し、三隈たちにもそのように言った。そこへ阿久津から通信が入った。

「『あらかわ』が狙われている。全員現任務を放棄して吹雪たちを迎撃しろ。」

「断るわ。あなたは提督じゃないし、そんな命令聞けるわけ無いでしょ。」

翔鶴が言うよりも早く瑞鶴が怒りを含めながら返答した。それに対して阿久津は大きなため息をついた。

「これだから艦娘ってのは信用できないんだ。兵士のくせに何故自我を持つのだ?これは命令だぞ。」

「阿久津さん、さすがに今の言葉は聞き流せません。」

翔鶴は感情を抑えながら話した。

「せいぜい頑張ってくれよ。兵器諸君。」

しかし、阿久津はこちらの声を聞いていないようだった。

阿久津の合図を受けて『あらかわ』では研究員たちが船体後部のランプドアを解放して、コンテナの開封作業を開始していた。乗員たちの制止を無視し、阿久津からの命令を忠実にこなした。そして開封が終わってコンテナの扉を開けた時、その功績は死によって報われた。

『あらかわ』に向かっていた吹雪たちの目の前で、突如それは爆散した。船体後部が破片を撒き散らして粉々に砕けると、前部は数メートル浮き上がった後、着水とともに海中に没した。それはあっと言う間に出来事で、乗員の救助を考えている間に海上から姿を消した。油と多数の破片だけが漂っている。

「何が起きたの?」

飛び散る破片から身を守りつつ言った最上の言葉に誰も返答できなかった。

「触られる前に隠蔽を図ったのかもしれません。」

大淀が数秒空けて言った。いくらなんでも乱暴すぎるのではないか。乗員の退避も許さないほどにまずい代物なんだろうか。そう考えていると海渡から慌てた様子の通信が入った。

「全員下がれ!『あらかわ』から出てきた何かがお前らに近づいてきている。」

「全艦離脱してください!」

吹雪は海渡の指示を反復する形で指示を出した。それぞれがそれを実行した瞬間、先頭にいた吹雪の足元から巨大な黒い腕が飛び出して吹雪を掴みかかった。それを間一髪でかわし、距離取った。

海中から姿を表したのは南方棲戦姫や玲奈が乗っていたような黒い化物だった。だが、彼女らのものとはまた形状が異なっていた。体長二メートルほどで今まで見た中で一番小柄だった。背中に飛行甲板を背負い、頭部では大きな口が開いているが、力なさそうにぼんやり開けているように見える。体そのものは他と比べて筋肉質ではなく、やや女性的な印象を感じさせる。

「迎撃許可を。」

「許可する。」

吹雪と海渡は短く会話して、吹雪たちは戦闘態勢に入った。北上がレールガンを構えたと同時に、その化物が大きく咆哮を上げた。吹雪たちはそれに一瞬怯んだが、これによって異変が発生したのは翔鶴たちであった。咆哮の直後、翔鶴を始めとした『かなた』の艦娘たちの艤装から聞いたことのない駆動音が聞こえ、その後まるで高周波にも似た音が出始めた。

「なんだよこれ!」

天龍の叫びを皮切りに翔鶴たちに極度の動揺が走った。そして、自分の意思とは無関係に体が動き始めた。

「提督!一体何をしたのですか!」

一方、『かなた』のCICでは翔鶴の声が通信機を通して反響した。CICでは彼女たちが吹雪たちに向かっていく様を確認できていたが、その原因は把握出来ていなかった。

「大泉貴様!言え!」

薫は反射的に大泉に掴みかかった。即座に彼らの部下が小銃を取り出して薫の頭に突きつける。

「君が望んだことだろう。戦果を稼げて好都合ではないか。」

しかし大泉の顔は涼しさそのものだった。その態度はさも当然かのようである。

「違う!」

「何が違う?部下との信頼も築けないような無能に選択肢があるのかね?」

「そんなことは…。」

薫は反論を試みたが最後まで言葉にはならなかった。

「いいかね?私は信頼だの友情だのを信じる気はないが、それでも事実は理解しているつもりだ。志ノ方を見ろ。彼は部下との信頼を完璧に構築して、意のままに操っているではないか。部下の方は心の底からそれに従っているときた。君がやりたいことが全部できているわけだな。それでいて戦果や功績などに微塵も価値を感じていない。だからこそそのような関係が築けるのだろうな。その所為で我々は非常に困っているわけだが。」

大泉は最後に苛立ちを混ぜて言った。

「それが出来ない君はこの方法しかないのだよ。受け入れ給え。離してやれ。」

最後は自らの部下に話しかけた。彼らは銃を下ろして一歩下がった。薫にはもう抵抗の意思はなかった。

 

 

 

海渡は自身の索敵能力によって翔鶴たちに起きた異変を即座に察知した。

「全員備えろ。翔鶴たちが来る。」

「一体さっきから何なの?」

「その化物の声に反応して翔鶴たちの艤装に何か起きたんだ。彼女たちの艤装から聞いたことのない声が聞こえる。」

「それって要は…」

「翔鶴たちは操られている。」

吹雪たちは絶句した。だが海渡の声はいつも通りであまり絶望を感じさせない。

「艤装のアンテナだけ狙え。そこを破壊すれば一時的かもしれないが、行動を止められる。」

「あんな小さい的に当てろなんて無茶言うなあ。」

「可能な範囲でいい。今対策を考える。」

北上の冗談交じりの返答を海渡は真面目に返した。しかし、それによって多少和んだ。

「いいか、もしだめな時は自分の命を優先しろ。これは絶対だ。わかったな。」

海渡はみなが抱えていた不安に逃げ道を用意した。それで肩の荷が降りるわけではないが、彼女たちはいくらか落ち着きを取り戻した。

「気が利くわね。」

「責任者はそういうもんだろ。」

陸奥が明るい言葉に苦笑交じりに返した。

「全員翔鶴たちの迎撃に当たれ。そのデカブツは動く気がないようだから一旦置いておけ。ただ、頭の隅には入れておけよ。」

海渡の指示に全員が返答してその通りに行動する。黒い化物はただ海面に立ち尽くしているように感じる。無気力に近い心情が海渡に流れていたが、それが返って不気味であった。

吹雪は"海渡が対策を考える間防御に徹して耐える"ことを全員に指示した。それがどれほど実行可能かは未知数だったが、それしか方法がなさそうであった。飛龍は戦闘機を発艦させ翔鶴と瑞鶴の航空機の迎撃、睦月と如月は飛龍と北上の護衛、最上、陸奥、大淀、吹雪で前面で牽制し、北上は後方からレールガンを発射可能状態で待機、とした。

まず翔鶴と瑞鶴の航空機が襲いかかってきた。飛龍の戦闘機隊による迎撃を掻い潜り最上と陸奥に殺到する。吹雪たちの対空射撃と最上と陸奥の回避運動により、被害は軽微でおさまった。

「重巡と軽巡の発砲を確認した。前衛は回避に専念しろ。」

海渡からの連絡を受けて吹雪たちは忠実に実行したが、周りと比べて機動力で劣る陸奥が細かい被弾を繰り返した。致命傷ではないもののそれなりの損傷を受けた。

「大丈夫か?」

「戦艦を舐めないでよね。そんなことより対策に専念しなさい。」

「それだけ元気なら大丈夫そうだな。」

被弾直後に来た海渡からの連絡を軽くあしらう。全くこんなときでも、と陸奥は苦笑した。

天龍と龍田がさらに接近しついに近接武器を抜いた。「吹雪ちゃん避けて!」という言葉とは裏腹に、龍田は全力で槍で薙いだ。吹雪はそれを跳躍で回避したが、さらに追撃で槍が頭上から叩きつけられたため、吹雪も短剣を抜いてそれを受けた。

「艦娘同士で近接戦闘する日が来るなんて、想像もしていませんでした。」

「本当ね。」

龍田の言葉から感じるいつもの余裕はこの時微塵も感じられなかった。唯一の救いは意識は依然として本人のままであることだった。どうにか助けたい。吹雪はそう強く思った。そこへさらに天龍が刀を抜いて切りかかってくる。吹雪は槍を弾いて刀を体を捻って回避した。それに合わせて今度は天龍と龍田が両側から挟むように武器を振るうと吹雪は低く構えてそれを短剣で受けて流した。天龍と龍田が驚愕したのは、このような防御をしながらも翔鶴たちの航空機が接近するとそれに合わせて対空防御をこなすという芸当を平気でやっている点だった。小柄な体で文字通り壁を張って最も前衛で耐えていた。

最上、陸奥、大淀は三隈、鈴谷、熊野との砲戦に入っていた。特に最上は仲の良い姉妹艦の歯痒さを感じとっていて、主砲も巨大な追加武装も全てしまって回避に専念していた。

「三隈、僕は大丈夫だから泣かないで。」

通信機を介して伝わる三隈のすすり泣く声が最上の心を震わせた。そしてそれはそのまま紺野への怒りに変換された。海渡への態度から、この惨状に紺野が絡んでいることは想像できたからだ。これは微妙に矛先が違っているのだが、それに気づくのは不可能だった。最上たちもひたすら回避に専念して海渡の指示を待っていた。というより、同じ艦娘相手に主砲を撃てるはずもなく、回避以外にできることがなかったという方が近い。

それを繰り返す内、ついに海渡から指示がきた。

「北上と最上は長距離精密射撃の準備に入れ。陸奥、大淀は最上の前に出て時間を稼げ。」

それぞれが準備に入る。北上はレールガンの状態を再確認し、最上はマウントしていた巨砲を取り出して稼働させた。

「『かなた』の短距離通信アンテナが艦橋上部にある。そいつをぶち抜け。そうすれば彼女たちを解放できる。」

「了解!」

光明が見えたことに二人は感情が昂った。

『かなた』はサルベージ作業が完了し、『はるか』の一部の回収に成功した。そして即座に主機を稼働させて移動を開始した。偶然にもそのタイミングが重なったため、北上と最上の一射目を意図せず回避したのだった。

北上と最上は同じタイミングで舌打ちして二射目を装填して構えた。

「攻撃を即刻中止せよ。」

その時、聞き覚えのある声が通信機を介して吹雪たちに流れた。大泉の声だと、誰もがわかった。

「今更そんな命乞いに意味があると思ってるの?」

北上は怒りを混ぜて言う。

「思っているさ。少なくとも最上にはな。」

「は?僕?」

全く心当たりがなかった最上は困惑した。その直後に銃声が聞こえて男性のものと思われるうめき声が聞こえてきた。

「なかなか我慢強いな君は。最上、聞こえたかね?彼の呻きが。」

「今更人質なんて無意味――」

その時最上の頭に一人の顔がよぎった。確か、彼の現在の所属は『はるか』だった。

「まさか、桐野さん?」

最上の声が全員の鼓膜を強く打った。最上は息が詰まる感覚に支配された。

「申し訳ありません。どうか私のことは気になさらず撃ってください。」

前にも聞いた冷静で抑揚の薄い声だった。最上はしばし思考の海に沈んだ。しかし、吹雪が白雪や青葉を撃ったときとは違う。吹雪にできて自分ができないのでは情けないではないか。ぐっと堪えて射撃体勢に入った。

「自分たちの命を優先しろって命令だからね。」

最上は明らかに自分に言い聞かせていた。そして引き金を、ひけなかった。最上がいくら力をかけても艤装はそれに答えなかった。それに困惑する最上を察し、大泉の高笑いが響く。

「馬鹿が。艤装は本心に従って動作することに今まで気づかなかったのか?救いようがないな。お前は仲間よりも男を選んだんだよ。」

頭の中が真っ白になった。呼吸が早くなり視界が揺れる。それでも最上はもう一方の砲を構えて同じ用に引き金に力を入れたが、全く反応しなかった。

「なんで…。なんでだよ!!」

最上の叫び声が響いた。

「大泉、貴様の要求を飲もう。だからそちらも攻撃をやめろ。」

「いいだろう。」

海渡の声は淡々としていた。その声から感情を読むことはこの場の誰もできなかった。

「全員武器を収めて帰ってこい。よくやった。」

今度の声は慈愛に満ちていた。大淀と陸奥は戻り際、最上に近づいて声をかけた。

「さ、戻りましょ。」

みな最上の感情は察するに余りあった。

「みんなごめん。海渡さんごめんなさい。」

「つらい思いをさせたな。おれもそこまで気が回らなかった。悪かった。」

最上は泣きながら『みらい』に帰艦した。

みなが敗北に打ちひしがれている中、海渡はむしろ好機かもしれないと考えていた。そのため、最上たちには少し奇異に映っていた。海渡の感情を理解していた吹雪だけは露呈しないように無表情を貫いていて、それが返って最上を不安にさせた。

「吹雪、また撃てなくて、ごめん。」

「気にしないでください。海渡さんも言ってたじゃないですか。」

まだ涙が止まらない最上の謝罪を型どおりに受けて返した。

「うん、わかってる。わかってるけど。」

「次の指示を待ちましょう。」

吹雪は諭すように言った。吹雪は海渡が何らか行動を起こすことを確信してた。だから、次の指示を待つことに何ら焦りはなかった。

 

 

『みらい』は武装解除して、『かなた』の百メートル後方に浮上した。吹雪たちは主砲や魚雷発射管などの武装を全て外して『みらい』の甲板に置き、『みらい』周辺で待機した。『みらい』乗員も最低限の人員を艦内に残してみな甲板に出た。彼らを敗北感が覆っていた。今まで公式でも非公式でも任務を達成し続けてきた彼らの初めての敗北であった。しかし、彼らの表情は暗くない。艦長とそれに付きそう艦娘が何かを待っているかのような期待感を持った表情をしていたからだ。それは表情に非常に薄くしか出ていなかったが、彼らには十分だった。艦長はまだ諦めていない。その思いを共有し、表面上は悔しさを演じて大泉たちを騙す必要があると心得ていた。

海渡は武装解除を決め『みらい』を浮上させる間、真白へ通信を飛ばした。とは言え海面に立って念じただけであるが、いつもはこれで呼びかけることができたため、それと同じ要領で試みた。もちろん届いたかどうかは不明だったため、この場に限って言えば本当に神頼み的な面があった。

そこへ武装兵を満載した内火艇が来た。それを見た海渡は「本格的に『かなた』はダメそうだな。」と思い、次に「薫のやつ大丈夫なのか?」と心配になった。心配された彼女は生きてはいたが、士官室に軟禁される身となっていた。

武装兵たちが海渡と艦娘に特製手錠をかけ、『みらい』乗員たちに銃を向けた。そしてさらにその外側を翔鶴たち『かなた』の艦娘たちが包囲した。それら処理が一通り終わると、三隻目の内火艇に乗って大泉本人がやってきた。以前見たときより少し痩せたように見えるが、恰幅がいい体型からは外れていない。周囲の空気に粘り気を出して陰気な雰囲気を出すのは相変わらずのようで、四年前を知る海渡たちの感情を過激な程に逆撫でした。

「やっとの対面だな、ええ?貴様には本当に苦労させられた。おかげで全てが台無しになるところだったよ。しかしそれも今日で終わりだ。やっと枕を高くして寝られるというものだ。」

達成感で表情が緩みきっている。海渡たちはその表情におぞましさを感じた。

「あんたがそんな軟弱だとは思わなかったな。犠牲の死体の上で寝るくらいはするかと思ったが。」

「相変わらずの減らず口め。まぁいい。今日は許してやろう。」

勝者が慈悲を与えてやると言わんばかりの態度であった。大泉は『みらい』の甲板に立ち、海渡の前まで歩いてきた。『みらい』の甲板は艦娘が出撃できるようにするために他の潜水艦よりも位置が低い所為で多少の波でも甲板に海水がかかり彼の足を濡らしたが、それすらも気にならないほどの余裕が彼にはあった。

「まさか貴様が旗艦個体になるなど夢にも思わなかったが、"完成"する前に対処できて本当に嬉しく思うよ。」

「その前に桐野を見せろ。彼が無事であることを証明しろ。」

大泉は出鼻をくじかれた様子で鼻白んだが、その要求に従い『かなた』の飛行甲板に桐野を連れ出した。大泉の部下二人が両脇を抱えており、桐野は右股に包帯を巻いている。

最上は桐野と視線を何度か交差させたが、桐野のやや厳しい視線に耐えきれず顔を背けた。とりあえず桐野の無事を確信し、海渡は安堵した。

「それで、何の話だ?」

海渡にはうっすら自覚があったが、知らぬふりを決め込めばこの男のことだ、勝手に喋り始めて時間を浪費するだろう。そう考えた故の返答だった。

「何にも知らないで今まで生きていたのか。本当に無知で恥知らずだな。」

そして海渡の読み通り彼は喋り始めた。衒示欲を上手くくすぐったようで、海渡は無表情に笑いを堪えた。

「私の目的は、人為的に旗艦個体を作って艦娘と深海棲艦を意のままに操ることなんだよ。…まず、旗艦個体はわかるな?」

一瞬不安になったのか海渡に確認を求めてきた。

「深海棲艦の群れで意思決定をする個体のことだろ。」

「そうだ。さすがに知っていたか。だが、艦娘まで操作できることは知らなかっただろう。」

「それがさっき翔鶴たちにやったことの真相か。あのデカブツがお前ご自慢の旗艦個体とやらなのか。」

「…察しが良いな。」

自分で全て披露する気でいたらしく、海渡の理解力は彼の機嫌を少し悪くした。海渡はあまりの苛立ちに我慢できずに言ったが、これでは時間を稼げないではないか、落ち着け、と自分に言い聞かせた。

「だがあれはまだ完全ではない。意思疎通が図れないのではまるで意味がない。私の意のままに、というところが重要なのだからな。そこに貴様が先に完成してしまうと、指揮権を全て奪われてしまう。それだけは阻止しなければならなかったというわけだ。」

そう言ったあと龍田を呼び出した。彼女は表情でも態度でも拒否を示したが、艤装はそれを了解して彼女の意思を無視して従わせ、海渡の前に来た。

「私も男での試験は何度もしたのだが、貴様ほど完成した者はいなかった。もちろん水の上に立つことはできても、他人に指揮したり会話したりするような芸当はとても不可能だった。」

「じゃあおれは貴重なサンプルなわけだな。」

「だが不要だ。」

その言葉と同時に龍田が槍を海渡の腹部に突き出して彼を押し倒した。

「貴様は私に従う気がないのだからな。危険物は早めに除去する必要がある。」

海渡は激痛に耐え、涙も泣き言も言わない。ただ、龍田が拒絶しているにも関わらず強制されている状態に彼女自身が困惑と後悔を表情に出しているのを見て、

「龍田、大丈夫だ。お前のせいじゃない。」

腹部から湯水のように溢れる血を抑えつつ話しかけた。

「こんなときでも他人の心配か!高貴だねえ。」

大泉の高笑いが響く。

「貴様はすぐに殺さん。私の邪魔をし続けた罰だ。十分に苦しませてから殺してやる。」

「止めてください!!」

大泉が言い終わる前に吹雪が叫んだ。武装兵が銃を押し付けるようにして制止を促した。

「相当愛されているな志ノ方准将。だが、見ていて本当に滑稽だった。まさか人形相手に正義感を振りかざして無茶するとはな。」

海渡は苦痛と出血で言葉が出なかった。ただ、視線を大泉に向けた。大泉の表情が今まで以上に邪悪な笑みで歪んだ。

「吹雪は私が作ったんだよ。艦娘の器としてな。これの同調率がやたら高いことに何の疑問も抱かなかったのか?」

その言葉で場の空気が凍り、言った本人と彼の部下以外の視線が吹雪に集まった。

「お前は人形なんだよ吹雪。お前が今抱いている感情は全て嘘だ。そんなものは設計の段階で入れていないんだからな。白雪と青葉の時に、引き金を引けただろう。最上と違ってお前には他人を思う感情なぞないのだよ。」

吹雪は急激に自分が自分でなくなる感覚に襲われた。思考は完全に停止し、白雪と青葉を撃った時の記憶が蘇り、そうだっただろうか、と自問自答した。

「吹雪、お前が恋愛みたいなことをしているのはただの模倣だ。そうだな、たぶん鳳翔のだろうな。一番近かったからな。」

吹雪は外界の情報を閉ざした。聞きたくない。見たくない。そんなのは嘘だ。

「本当に、ほんっとうに楽しませてくれたよお前は。いや、お前たちは。」

大泉の癖のある非常に不快な笑い声をあげた。誰もが嫌悪の視線を投げる中、弱い笑いが聞こえた。大泉はなぜかそれが非常に耳に障り、誰の声かと探すと、槍に刺されたまま腹部を押さえている海渡だった。もはや出血量は致死量を超えており、海水に拐われることで塞がる見込みもない。

「何がおかしい。」

「お前、おれが知らないと思っていたのか?」

「なんだと?」

完璧な演劇に泥を塗られたように大泉は怒りを露わにした。海渡はその様子を見て「本当に気分の上がり下がりが激しいな」と一笑に付した。

「全部、そう、全部知っていたさ。」

海渡の言葉は三割ほど嘘だったが、この際は嘘をつくことにした。大泉に対抗するためではなく、吹雪が辛くならないように。実際、吹雪の経歴が空白だったり、年齢が研究員の失踪時期と重なったりしているのは偶然ではないだろうという確信はあった。さすがに人造人間だとは想像できなかったが。

「それを知ってて一緒にいたんだ。一つ貴様に問うが、貴様は何を持って感情がある、と言ってるんだ。子供が大人の真似をするように、みな誰かを真似して生きている。真似して、自分なりに悩んで、少し違う形で自らの感情になるんじゃないのか。それとも、貴様は生まれてから一度も誰の真似もしていないと言い切れるのか?」

海渡は柄にもない説教をする気はなかった。ただ、時間が欲しかった。彼は合図を待っていた。それを聞いている大泉は震えながらそれを聞いていたが、海渡の視界には映らなかった。

「雪奈は、いい子だ。とても。おれよりもずっと感情が豊かで、一生懸命で、そしてとても心が強い、普通の人間だ。」

海渡は徐々に苦しさが強まってきていた。だが、まだだ。まだ合図がない。海渡は無理やり息を吸って続ける。いつの間にか、ここにいる全ての人が海渡に視線を向けていた。

「引き金を引けたのは覚悟があったからだ。みなを守りたいという強い覚悟が。感情がないからじゃない。おれにはわかる。」

海渡の言葉を大泉は一笑に付した。

「負け惜しみはそれで終わりか?死にぞこないが。」

大泉の合図で龍田が刺した槍をひねる。さらに痛みが走って血が吹き出す。しかし、海渡は話を続ける。吹雪の心が壊れないように。その時、彼の左目に火が灯った。

「雪奈。おれは、そんな雪奈が好きだから。だから、気にするな。」

吹雪はこころの蟠りが一瞬にして消え去るのを感じた。そしてその瞬間、通信機から合図が届いた。

「海渡、桐野の回収に成功した。」

 

 

 

その少し前、『かなた』の飛行甲板では格闘戦が起きていた。海渡から連絡で真白は波留と詩乃を連れて海面から飛び出して飛行甲板に着地し、桐野を囲む兵士たちをなぎ倒した。詩乃は人間で言えば五歳程度の女児のような見た目だったが立派な深海棲艦であり、跳躍で兵士に飛びかかりミトンをつけた手で平手打ちを繰り出すと、それを受けた相手は五メートル程度吹き飛んで転がった。さすがに死にはしないものの気絶は免れなかった。

それぞれ肉弾戦でひとしきり倒すと、真白は気絶している兵士から通信機を奪った後に座り込んでいる桐野に近寄って問いかけた。

「お前が桐野か?」

「そ、そうです。」

ポーカーフェイスで評判の桐野も流石に困惑を露わにした。真白は桐野を担ぎ上げて飛行甲板のふちまで走った。そこへ武装兵が到着し銃を構えた直後、波留が艤装の鉤爪で甲板を畳返しよろしくめくり、銃撃を防いだ。そしてその隙に飛び降りた。武装兵が追いすがって海面を覗くと、それに合わせて跳躍した詩乃の頭突きが炸裂して三メートルほど浮き上がった後甲板に叩きつけられた。

真白たちは速やかに『かなた』から離れて『みらい』との合流を目指しつつ海渡に通信を入れた。

「海渡、桐野の回収に成功した。」

その通信は全員に流れたため、当然大泉にも届いた。

「殺せ!!」

大泉は叫んだ。怒りで表情を満たして。龍田が意思とは無関係に槍に力を込めようとした時、海渡も同じように叫んだ。

「『はるか』!ECMを作動しろ!」

その場にいた誰もがこの命令を理解できなかった。しかし、変化は起きた。龍田は我に返ったように落ち着き払い、槍を抜いた。自分の意思で体が動く。当たり前だが龍田を感動が満たした。

「なぜだ、なぜだ!」

大泉がさらに吠える。もはやその様子は子供が駄々を捏ねる様子に等しいように見える。次の合図で武装兵が銃を海渡に向けた。しかし、弾が出ることはなかった。それよりも早く海中から巨大な黒い腕が飛び出しそれらを薙ぎ払った。さらにもう一本腕が姿を現して大泉を横から鷲掴みにした。そして、それはゆっくりと海上に姿を現した。かなり人型に近く、筋肉が隆起した腕に目のない頭、そして体より長い一本の尾。

それは甲板に転がっている海渡に顔を近づけると、舌で海渡を舐め始めた。すると、徐々に傷が塞がっていき、見た目は元通りになった。海渡は大きく息を吸い込んで力を込めて立ち上がったが、失血が多かったためにふらついた。吹雪が反射的に飛び出して彼を支え、目があうと二人は微笑みあった。

場にいる全員がその巨大な化け物を見ていた。ただ、恐怖というより好奇の目に近かったかも知れない。

「副長、全員を収容して全速離脱だ。」

「了解しました。主機起動!」

それぞれが準備に取り掛かる中、艦娘たちは武器を再装備した。

「最上、今度は撃てるな?」

「もちろん。」

最上は飛び切りの笑顔で返して即座に巨砲の引き金を引いた。今度はそれと共に轟音が鳴り響き、徹甲弾が飛翔したあと排莢のための駆動が起きた。その弾が『かなた』の短距離通信設備を根こそぎ吹き飛ばしたことを確認して、海渡は『はるか』のECMを止めた。

「貴様ら!こんなことしてただで済むと思うなよ!」

掴まれたままの大泉が喚いている。誰も彼を助けようとはしない。翔鶴たちですら侮蔑の視線を向けている。

「一つ聞きたいことがある。『むーんらいと』を沈めたのはお前か?」

海渡は大泉を睨みつけて言った。大泉は固有名詞を思い出すために多少思考したあと、気味の悪い表情を浮かべた。

「ああ、お前の嫁が乗ってたやつだな。滑稽だったよ。誰も事故を疑わないなんてな。どうだった?数年で結婚生活が終わった時の気分は。」

「潰せ。」

海渡が抑揚のない言葉で言うと、『はるか』は『みらい』の甲板に大泉を叩きつけたあと平手で彼を文字通りに潰した。血と肉片が大量に飛び散った。流石に大多数の人間はその光景を直視できずに目を背けたり手で目を覆ったが、それを酷いだのやりすぎだのと思う者は一人もいなかった。

そこへ真白、波留、詩乃の三人が桐野を連れてきた。真白は桐野を甲板に下ろし最上に預けた。二人はやや複雑な視線を合わせつつ、『みらい』の中に入っていった。

「この土壇場で"完成"するとは出来過ぎだな。狙ったのか?」

「まさか。たまたまだ。失敗したらおれは死んでたよ。」

吹雪に支えられながら苦笑した。『はるか』は機嫌の良い犬よろしく行儀よく海面に座っていた。とは言え体長が三メートルもあると迫力がありすぎ、乗員や艦娘たちはたじろいだ。

「龍田たちはどうする?」

海渡は問いかけた。判断に迷っているようだったが、翔鶴がそれに答えた。

「提督をおいてはいけません。」

「そうか。じゃあ薫も回収するか。」

彼はあっさりと決めて吹雪と最上、そして『はるか』に指示した。二人と一隻は了解の返事をして『かなた』に向かった。

「後はおれたちに任せて『みらい』に入っていてくれ。」

翔鶴に諭すように言った。少しの間のあと、翔鶴たちは『みらい』に入っていた。ただ、その際に自分たちの艤装をどうするかという問答になったが、天龍が「あんなのもう捨てたぜ。気味が悪い。」と言って非武装で格納庫に入っていったので、翔鶴たちもそれに従うことにした。

「艦長!何をしているんですか。そんな余裕はないですよ。」

そこへ松葉が来た。

「だが、彼女たちの安心ために必要だ。少し時間を稼げ。」

「そんな感情優先で戦えるわけないでしょう。」

「じゃあ止めるか?」

「いえ、こちとら伊達と酔狂で艦長についてきたんですからね。言ったからにはちゃんとこなしてくださいよ。」

松葉は不平を鳴らすだけ鳴らして艦内に戻った。

「彼は反対なのか賛成なのかどっちなんだ。」

「賛成に決まっているだろう。」

真白は理解できないという表情をした。

 

 

 

『かなた』の中はてんやわんやだった。艦長の薫は軟禁状態で、実質的に指揮していた大泉は死亡し、副長は残っていたものの、混乱の中で即座に方針を決められなかった。そこへ阿久津が入ってきて「対潜戦闘用意!」と言ったので、わずかに悩んだ後彼らはそれに身を任せてしまうことにした。

しかし、それよりも早く『みらい』の魚雷が発射された。彼らは死が迫りくるのを感じたが、その魚雷は『かなた』を逸れて鼻先をかすめるだけですんだ。『かなた』乗員が安心したところ、その魚雷が自爆して『かなた』を揺らした。浸水警報が響き、ダメコンによって回復したが、艦首下部のソナーは完全に沈黙し対潜戦闘は実質的に不可能となった。

その混乱の最中、『はるか』は吹雪と最上を背に乗せて『かなた』の側面に飛びつき、士官室の場所を探した。そして最も近い位置に辿り着いた時、吹雪は短剣で壁に穴を開けて中に入って通路を走っていき、護衛を気絶させて薫の回収に成功した。

「吹雪、どうしてここに。」

「話は後です。翔鶴さんたちが待ってます。」

それだけ話し、吹雪は薫を抱えて入ってきたところから出て『はるか』の背に乗って全員で離脱した。そして、『みらい』の艦内に戻った。それを確認した後、『みらい』は潜航を開始して姿を消した。海渡は潜航直前に『あらかわ』から出てきた化物を見やった。結局ずっと呆けていたようで、最初に吠えた以外はほぼ何もしていなかった。ただ一つ海渡は気になっていることがあった。どの化物にも、人間の形をした何かが付き添っていることだ。レイとかいうやつも、南方棲戦姫も、自分も。ではあれは一体何が付き添っているのか、と。

 

 

 

帰路についた『みらい』は丸一日潜航し続けながらゆっくりと前進していた。主に『かなた』と『あらかわ』から出てきた化物を警戒してのことだった。その間、艦内は戦闘を終えたあとの小休止の時間がゆっくりと流れていた。ただ、海渡は極度の血液不足のために医務室で輸血をされながらささやかな眠りについていたし、吹雪は真白たちの紹介や情報交換のために士官室で『みらい』の幹部相手に話し合いをしていた。

「私が真白だ、こっちが波留で、この小さいのが詩乃だ。よろしく。」

多少の困惑はありつつも、新しい乗員を『みらい』の幹部たちは歓迎した。今更深海棲艦が三人増えたところで慌てるような人間たちではなかった。真白たちの方は正式に乗員になる気はさらさらなかったが、今後は海渡を中心に協力することは度々あるだろうと考えてこのような場に参加した。一通りお互いに自己紹介を済ませたあと、砲雷長の四島が切り出した。

「先ほどの"旗艦個体"というのは一体なんなのですか?」

「簡単に言えば、意思決定を行う個体のことで、深海棲艦の群れの中心となる存在です。私たちや志ノ方さんもその旗艦個体です。」

波留がおずおずと説明する。額から黒い角が生えていることと肌がやたら白いことを除けば、やや垂れ目の気の弱い女性に見え、性格も概ねその印象と同じだった。

「艦長とあなたたちは人間なのか?」

「私たちは深海棲艦だが、海渡はわからん。アレが一体どっちに属しているのか判断がつかない。私たちのように表皮が変わってはいないが、明らかに深海棲艦としての能力を供えているのでな。」

松葉の質問に真白が淡々と答える。彼女は二回目の乗艦なので余裕がある。

「あの、貴方たちは元々人間だったという話を聞いたのですが、本当ですか。」

四島が別の質問を口にした。真白たちはお互いに少し視線でやり取りをして答えた。

「そうだ。海渡と同じように体に設備の一部が入っている。海渡に仕込んだのは私だが、私たちにそれを入れたのは今日死んだ大泉だ。」

沈黙が流れ、幹部たちは顔を見合わせた。『みらい』の甲板で叫んでいた大泉は相当狂っているという印象があったが、それがさらに強まった。

「その、詩乃ちゃんも?」

「親のいない子供によくもまぁやったものだ。」

真白は当時を思い出しながら話した。今となってはどうでもいいことだが。

「結局、所長の目的は達成されたのか?」

「わかりません。先程のことを考えると一歩届かなかったように思えます。志ノ方さんが先に目覚めたので、このあと何かあったとしても頓挫するでしょう。」

「そうか。それなら良いんだ。あんなもの、達成されたらおぞましすぎる。」

それはこの場にいるもの全員が首肯するところだった。その後も何回かやりとりがあり、その後解散となった。

 

 

 

最初は静かだったが、睡眠から覚めた鈴谷と熊野の言動は高校生のそれで、艦内の雰囲気が徐々に修学旅行のようになっていったのは彼女たちが元凶である。いつの間にかそこに龍田、睦月、如月が合流して燃え盛る炎に酸素を供給するように雰囲気を急速に拡大した。彼女たちが話題にしたのは、主に二つだった。それは、最上と桐野の関係と海渡と吹雪の関係だった。前者は最近新しく咲いた花のような話になったが、後者の方は昨年買った花が時期を過ぎても咲かないといったタイプの話で、前者とは全く雰囲気が違った。

そのような状況を無視して、海渡は医務室で桐野に会っていた。桐野はベッドで半身を起こして、海渡に『かなた』で起きた彼の知りうることを全て話した。桐野は銃創があり一時期危険な状況だったが、櫻井の賢明な対応で事なきを得た。

「以上が、報告できることの全てです。」

「ありがとう。しかし災難だったな。申し訳ない。」

「恐縮です。」

海渡は、大泉が目撃者である桐野をわざと『かなた』に配属させたと認識していたが、人質にすることまでは気が回らなかった。

「あの、少しお聞きしてもよろしいでしょうか?」

「なんだ?」

海渡の返事は保護者が子どもの質問に答えるような口調だった。実際桐野が聞きたいことはそういう類のものであったし、海渡はそれを察していた。

「その、最上大尉のことなのですが、彼女の今回の行動について、どのようにお考えなのか、聞かせて頂けませんか?」

「中尉はどう考えているんだ?」

桐野の質問に海渡は答えを避けた。ここでの回答は軍人だからどうとかそういうものを求められてるわけではないからだ。ただ、海渡の作戦からすればあの時撃てなかったのはむしろありがたかったが、それと彼らの心境は別である。

「私は、軍人として恥ずべき行為だったと思います。ですが…」

彼はそこで言葉を区切った。自分を落ち着かせるために深呼吸した。

「ですが、個人としてはそのおかげで助かりましたので感謝しています。今後彼女と話す時、どちらの感情で会話すればいいのか、迷っています。」

海渡は数秒考えて返答した。

「中尉、逆に好きな相手からどう対応されたい?」

「…」

桐野は黙った。最上のことを思い出して、思考しているようだった。

「それと同じだと、おれは思うね。老婆心ながら、好きな相手には恥ずかしくても素直になったほうがいい。時間は有限なんだからな。」

「ありがとうございます。精進致します。」

桐野は表情には出さなかったが、シーツを掴む手の震えから決意を感じた。

「呼んでこようか?」

「いえ、准将閣下にそのような私的なことをしていただくわけにはいきません。」

「生真面目だな。それも良いところかもな。」

桐野はこの期に及んで軍隊の規律を重んじていた。海渡は内心呆れつつも、一応長所かな、と思った。

「ま、頑張ってくれ。」

「ありがとうございます。」

海渡が立って医務室から出ると、ちょうど最上がそこに立っていた。

「あ、えっと、桐野中尉と話したいんだけど、いいかな?」

「お前はいつも先に体が動くタイプだったな。おれはもう用事は済んだから、どうぞごゆっくり。」

最上がわずかに上気していたので、海渡は少しからかいつつ医務室を後にした。

「怪我は平気なの?」

「ええ、お陰様で。歩くのはしばらく無理なようですが。」

最上はベッドの隣にある椅子に座ったが、そこで重大なことに気づいた。潜水艦故に部屋が狭いため、椅子に座ってベッドと正対すると異様に距離が近いのだ。ただ、この時の二人の感情は「やや近い」という距離を「やたら近い」と誤認するほどには状況認識能力が欠如していたこともある。

「元気そうで良かった。」

「ありがとうございます。」

最上はそれに気づかない振りをした。桐野も同じように対応した。その後しばらく沈黙が流れたあと、桐野が先に口を開いた。

「その、今日のことは本当に助かりました。お陰で怪我だけで済みました。」

彼は女性である最上に気を遣わせるわけにはいかない、と自分を叱咤した。

「どういたしまして。でも、恥ずかしいというか情けないところ見せちゃったな。あれだけ大見えきったのに、撃てなかったよ。」

「いえ!そのようなことは…」

桐野は思わず声を大きくした。驚いた最上は、反射的に顔を上げた結果桐野と目があった。

「そのようなことは、全くありません。正直に申し上げますと、とても嬉しかったです。貴方が私のこと思ってくれていると、よくわかりましたので。」

桐野は視線を外さずに言い切った。名高いポーカーフェイスも完全に崩れ、上気した顔が視線を外さないよう必死に理性で固定した。

「ずるいなあ。ずるいよ。本当に、君は。」

最上は恥ずかしさを誤魔化すために苦笑した。

「ね、手、握っても良い?僕、寂しがりだから。」

端から見たらかなり強引な理由だったが、当人たちには関係のないことだった。

「最上さんもですか。私もです。」

桐野は自分から最上の手を握った。想像していたよりも柔らかく温かい手だった。

「名前、光佳留って言うんだ。そっちで呼んでくれない?」

「…精進します。」

「締まらないなあ。」

最上は流れに身を任せて突撃したが、桐野は気圧されて回答を避けた。ただ、むしろ彼らはその方が楽しかった。その後も緩いペースで話し続けたが、手はお互いにずっと握ったままだった。

 

 

 

最上と桐野の話が即座に艦内をかけることはなかったが、何人かは医務室に向かっていく最上を見ていたため時間の問題であるように思える。

海渡は医務室を後にしたあと、艦長室で薫と会っていた。彼女の部屋がないため、一時的に艦長室を貸しているのだった。ちなみに、真白たちは士官室を貸し与えられている。

薫は反省と後悔から気分が沈みっぱなしで、一向に回復気配がない。海渡は彼女に飲み物を用意しつつテーブルの対面に座った。

「なぜ助けたんだ?私は翔鶴たちばかりでなく、お前にもひどい迷惑をかけたんだぞ。あのまま『かなた』にいて、牢にぶち込まれた方が良かっただろうに。」

薫は陰鬱な表情を浮かべ俯きながら話す。

「翔鶴がお前を放っておけないというからな。彼女に感謝しろよ。」

海渡はわざとらしくため息をついた。

「なあ、柄にもないこと言いたくないんだが、もう少し素直に生きたらどうなんだ?息苦しいぞ。」

「お前は自由でいいな。」

薫は海渡の言葉を一笑に付した。顔は俯いたままだったが、わずかに嘲笑の意図が見て取れる。

「やりたいこと好きなようにやった上で評価される。羨ましい限りだ。」

海渡は対応に悩んだ。彼の基準から言えば認知が歪んでいるように見え、それを修正すべきか放置すべきか。海渡は彼女に対して責任を負う気は全く無かったし、薫もそれは望まないだろうことは知っている。ただ、彼は友人として気にかけていた。

「そう見えるのか。まぁ、そういうこともあるか。」

海渡は自らの思考に沈む同僚を見やりつつ、自分用のコーヒーを飲んだ。櫻井に「まだ血が足りないんですから刺激物は控えるように。」と言われたことを思い出してすぐに頭から追い出した。

「なぜそんなに艦娘たちに好かれるんだ?」

薫が視線を下げたまま言った。海渡は一瞬独り言かと思ったが、どうも質問だったことに数秒経ってから気づいて思考した。飛龍のことを言っているんだろう、と推察した。

「さあな。意識したことないからわからん。ただおれは、彼女たちにつらい思いはしてほしくないし、死んでほしくないと思ってるだけだ。」

「立派だな。理想主義と言っても良い。それとも、男だからなのかな。」

海渡は正直に自分の心情を吐露したが、薫には届いていないように思えた。ただ、彼女の最後の言葉は海渡を非常に不快にさせた。

「お前はおれが籠絡したとでも言いたいのか?」

薫は顔をわずかに上げて海渡を見た。嘲笑が彼女の表情を満たしていた。海渡にはそのように見えた。

「女扱いされたくないなんて言っていたが、一番性別を意識しているのはお前だろうが。ふざけるのも大概にしろよ。おれの部下でそんなやつは一人もいないぞ。」

「飛龍はお前に流されただろうに。」

薫の一言は海渡を絶句させた。

「・・・お前、最低だよ。」

彼女の言葉は飛龍を侮辱している。薫はもう少しまともかと思っていたが、この発言は致命的だった。海渡は席を立って艦長室から出ていった。もはや彼女と話す意味を見出せなかった。しばらくは放置したほうがいい。

部屋に一人残された薫は、特段残念がることも怒ることもなかった。ただ、「そのとおりだ。私は最低だよ。」と一つ呟き、一連の自分の罪を思い返していた。

 

 

 

海渡は浮上を命令した。艦内にも彼個人にも新鮮な空気が必要だった。『みらい』が浮上した後、ハッチとカタパルトデッキを開いて艦内の換気をするとともに、非直の乗員が一斉に甲板に出て外の空気を味わった。真夜中のため周囲は黒一色で自分の存在を見失う錯覚に囚われそうになるが、星空と満月がそれを阻止していた。

桐野は潜水艦が初めてだったこともあり気分的不調を訴えたため、気分転換にと櫻井に許可をもらい最上と共にカタパルトデッキに出た。周囲――特に鈴谷と熊野――が持て囃して祝った。どんな状況にせよ明るい話題は乗員を元気づけた。

もう一方の話題の種となっている海渡は『みらい』後方百メートルの位置で索敵にあたっていた。とはいえ旗艦個体となった彼に襲いかかるのは、南方棲戦姫などの旗艦個体か人間くらいのものなのだが、形式的にでもこれをやっておくことで乗員の不安が解消されるのを知っているので、彼は自然にこれをやることを明言して『みらい』から出ていった。自らの艤装になった『はるか』共に。

『みらい』から出る際に吹雪に声をかけずに出ていったため艦内に落胆の空気が満ちたが、彼が何かを避けるように考え込んでいたためそれを揶揄する人間は一人もいなかった。

もう一方の当事者は複雑な心境だった。浮上したと思ったらさっさといなくなってしまっていたので声をかけるタイミングすらなかったことで不満が募っていたが、それを表立ってやることは当然憚れるため結局何も言わないでいた。だが、それはそれとして海渡を一人にすることへの恐怖と心配が嵐となって吹雪の心を乱していたため、彼女はほとんど本能に近い動きで艤装をつけて海面に降りた。

「行かないほうがいいと思うけど。」

呆れを含んだ微笑を向け北上が甲板上から忠告した。

「心配なので。」

吹雪の方は浮ついたような印象は一切なく、事務的な表情で顔を固めている。暗に邪魔をしてないでほしいと言っていた。

「そう。ま、好きにしたら?」

北上は形式上言っただけで確実に止める意思はなかった。海渡が声をかけなかったのはそれなりに意味があるはずだが、それは吹雪も承知していること理解しているからだ。吹雪は返答せず走り去った。それを別のところから見ていた最上は北上の隣にきてぼやいた。

「大丈夫かな。」

「さあね。気持ちはわかるけど、焦り過ぎだよアレは。」

「まぁ、あんなことがあったあとだし。」

最上も苦笑して小さくなる吹雪の後ろ姿を見送った。

「しかしまぁ、吹雪も物好きだねえ。海渡さんの相手なんて絶対面倒くさいじゃん。」

「でも気持ちはわかるかも。僕も我慢できないと思う。」

「二人とも先に体が動くもんね。それの所為で困ってそうだけど。」

北上は最上に視線を向けて口角をわずかにあげた。それを見て最上は一瞬たじろぎつつ反論する。

「いやまぁ、僕は困ってないよ?」

「医務室の前で扉開けずにいたじゃん。どう見ても勢いで来たけど何言おうか迷ってたって感じだったけど?」

「あー、聞こえない聞こえない。」

恥ずかしさのあまり耳を塞いだ。顔が赤くなったのが自身でもわかるほどである。北上は笑ったあと吹雪がいなくなった方向に視線を転じた。

「まぁ、吹雪なら上手くやりそうだからいいけどね。」

「あとは海渡さん次第じゃない?そうなったら僕はどうしようかな。」

二人が結ばれるのは賛成だが、そうなった場合の自身の居場所をどうすればよいか見当がつかない。四年も一緒にいた場所から離れることはそう簡単ではない。

「あたしは今まで通りの予定だよ。そういう約束でしょ。」

「そうだけど神経太すぎるよ、それは。」

最上は苦笑したが否定しなかった。今の海渡ならそうするだろうことは容易に想像できるが、吹雪と一緒になった場合はどうだろうか。さすがに拒否されるような気もするが、断定できないところが彼の彼たる所以であった。

 

 

 

吹雪が海渡の元に到着した時、彼は『はるか』の頭の上であぐらをかいて考え込んでいた。吹雪が『みらい』を出た時、既にそれを察知しておりやや不快な気持ちになっていた。だが、十五の子供相手にそれを正直に話すようなことはしなかった。

「どうした?」

「二人の方がいいかなって思って。」

「いや、必要だったら声をかけているから大丈夫だ。また戦闘になったときのために休んでてくれ。」

吹雪は返答しなかった。「好き」と言われて焦っているのは自分だけなのだろう。海渡にはそのようなつもりはないということも薄々わかっている。だが、どうしようもなく感情が乱されるのだ。そして体がそれに振り回される。

「一緒にいたいんです。だめですか?」

海渡は目を丸くし、少し悩んだあとで

「いいよ。」

と返した。海渡は吹雪の心情を察し、『はるか』に『みらい』で待機するように命じた。『はるか』は小首をかしげたが、素直に命令に従った。海渡は着水し、吹雪に手をひいてもらう状態となった。

「ありがとうございます。」

「大丈夫。」

海渡は思わず「何かあったのか?」と聞きそうになった。そんなもの答えはわかっている。だがそれを話題に上げたくない。海渡はできれば知らずにいたかった。彼の意識には早苗が未だにいて、自分を妻がいる既婚者だと認識していた。少なくともそう律していた。そのため、誰だろうと好意を向けられてもありがたいと思うことはあれど、それに応える気は無いし感情が反応することもなかった。

だが吹雪だけは違った。応える気がないのは同じだったが、吹雪には感情を乱された。自身の半分の歳の子供に何を馬鹿なと自分を嘲っていたが、感情はそれに従う気がないようだった。

「あの、昼間のこと、ありがとうございました。すごく嬉しかったです。その、好きって言ってくれたこと。」

吹雪は遠慮がちに言ったが、伝わらなかった時の不安から最後に明確に付け足した。

海渡はやや複雑な気分だった。彼はあの場で吹雪の精神が壊れないようにすることだけを考えていた。そのため、最も効果があると判断した結果、自然とその言葉が口をついて出た。海渡は後悔はしてなかったが、この発言によって発生する様々なことにどう対処すべきか悩んでいたのだ。特に、吹雪に対する責任の取りようについて。

「どういたしまして。あんなやつが言っていたことは気にするな。今更何を聞かされても驚くこともない。」

海渡の返答を聞いた吹雪はやや不満であった。明確に自分の言葉に対する答えをもらえなかったような気がしたからだ。実際、海渡は逃げの手を打っていており、この不満は正当なものだった。

「私も海渡さんのことが好きです。」

だから吹雪は逃げ道を奪った。焦燥感と感情の昂りがそれを後押しした。偶発的とは言え、添い寝をした時と同じように、彼女を強気にさせていた。

「ありがとう。」

海渡はさらに答えを避けた。ここで明確に拒否できない甘さを認識していたが、いつもと違って感情を乱されていたために、本能的に拒否という選択肢を排除したのだ。それに、無自覚ではあったが、海渡自身も拒否したくないという感情がわずかに心にあった。

「海渡さん。」

「はい。」

「答えてください。」

吹雪はしびれを切らして直球で詰め寄った。海渡は怯んだ。最近の彼女の積極性から来るだろうとは想像していたが、身構えていても駄目なものは駄目であった。

「吹雪、頼む。これ以上は止めてくれ。」

本心から懇願した。表情の選択すらできず、情けないことこの上なかった。

「何をですか?」

「困るんだ。これ以上おれを乱さないでくれ。」

海渡の表情は憂いを帯びていたが、それでも吹雪は止めなかった。

「嫌です。私、知ってるんですよ。海渡さんをそうやって困らせられるの、私だけだって。」

吹雪は三割ほど当てずっぽうで言ったが、当たっていた。海渡は完全に閉口した。最近の吹雪の行動によって、彼はある種困り続けていたのだ。

「お返事、待ってますね。」

強引であったもののそれで十分であった。海渡は答えを決めきれぬまま考え込んだ。十五歳に翻弄されている自分に嫌気が差し、また、吹雪に告白されたことに感情が反応してしまっていることも認めたくなかった。

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。