最も恐ろしい敵は、優しさの面を被って現れる。 作:綾隆と先生を救いたい
人は誰しも、己の内に『救われたい』という醜い欲望を抱えて生きている。
どれほど冷酷な仮面を被ろうと、どれほど高潔な立場を装おうと、人は孤独であり、弱く、傷つきやすい。そしてその弱さを突きつけられた時、人は力による支配ではなく、自らの傷口を優しく撫でてくれる温もりへと容易に屈服する。
力で服従させた心は、より強い力によって破綻する。
脅迫で縛り付けた絆は、隙を見せれば背後から刃となって跳ね返る。
真の支配とは、屈服させることではない。
相手の『プライド』を守り、相手すら諦めていた『救い』をあたかも当然のように差し出すこと。
そうして与えられた甘美な救済は、どれほど甘い毒よりも深く、永遠にその魂を私の手の上に縛り付けるのだから。
※
太平洋を進む豪華客船。
学校から与えられた「夏休みの豪華クルーズ旅行」を楽しむ生徒たちの賑わいから遠く離れた――無人の劇場。
赤く重厚な観覧シートが静かに並ぶ暗がりの中、ステージからの微かな光を受けながら、1年Dクラス担任・茶柱佐枝は壁に背をあずけていた。
(……この少年を使えば、届くのかもしれない)
茶柱は胸中で暗い欲望を滾らせていた。『ある人物』からの連絡。それを切り札として使い、目の前の少年――綾小路清隆を強硬手段で従わせる。かつて自分が届かなかったAクラスという領域へ這い上がるためなら、教員としての倫理も誇りすらも捨てるつもりだった。
呼び出された綾小路清隆は、誰もいない客席と静寂に包まれた劇場で、無感情な瞳のまま茶柱を見つめている。
――わざわざこんな人目のつかない場所に呼び出して、一体何の用だ?
彼が茶柱の意図を図りかねていた、まさにその時だった。
「――あ、佐枝先生。こんなところにいたんですね」
重い扉がわずかに開き、静かな靴音とともに暗がりから姿を現したのは、肩にかかる綺麗な緑髪をストレートのミディ丈に切りそろえた女子生徒――常盤栞だった。
(……常盤栞?)
茶柱の脳裏に、彼女の存在が浮かび上がる。
普段のクラスでは前髪を重めに下ろし、大きな眼鏡の奥に瞳を隠して、教室の隅で息を潜めている大人しい生徒。成績も運動能力も目立たず、トラブルも起こさない。Dクラスという問題児の巣窟において、最も「存在感のない無害な生徒」として処理していたはずだった。
「……常盤か。今は大事な話をしている。邪魔をせず部屋に戻りなさい」
「すみません。でも、レストランの方で男子たちが少し騒がしくなっちゃってて……先生に確認してほしいみたいです」
常盤は一切の悪びれもない、ごく自然な立ち振る舞いで無人の客席の通路を進み、二人の間へと足を踏み入れた。その位置取りは、暗がりの中で茶柱の視線と綾小路を分かつ完璧な直線の上だった。
「綾小路くん、あとは私が先生に伝えておくから、先にみんなのところに戻ってて? 先生、少し根詰めすぎみたいだから」
「……そうか。わかった」
綾小路は即座に常盤の表情を観察する。何の裏もない、ただの気遣いから出た言動のように見える。だが、茶柱が本題を切り出そうとした直前で割り込んできたタイミングには、不自然なほどの隙のなさがあった。
――偶然か、それともこちらの思惑や茶柱の企みを勘づいているのか。
綾小路は思考を走らせつつも、不穏な呼び出しから逃れる機会を逃さず、静かに劇場の扉をくぐって去っていった。
薄暗い劇場に残されたのは、ステージの光を浴びる茶柱と常盤の二人だけ。
「……常盤。お前、わざと割り込んできたな」
茶柱は鋭い眼光で常盤を睨みつける。だが常盤は逃げる素振りすら見せず、ふわりと微笑んだ。
「佐枝先生。嘘をつく時、無意識に右の眉が上がる癖……船の上でも変わらないんですね」
「……何?」
「綾小路くんを脅して道具にしようとしても、先生の望むAクラスには行けませんよ。……そんな風に焦って生徒を追いつめるの、見苦しいです」
茶柱の手が強張る。
常盤はいつの間にか、教師と生徒という『絶対的な距離感』を容易く踏み越え、茶柱のすぐ隣に立っていた。眼鏡の奥の澄んだ瞳が、茶柱の胸の奥底にある傷を静かに見透かしている。
(なんなのだ、この圧は……。こいつは、本当にあの『おとなしい常盤栞』なのか……!?)
茶柱の記憶にある常盤は、いつも伏し目がちに教科書を開いている影の薄い少女だった。だが今、目の前にいる少女は、まるで教員の自分すら盤上の駒のように見下ろしている。
「ッ……! お前に何がわかる! 私はこのDクラスを――」
「わかります。先生がどれだけ過去の失敗に縛られて、一人で苦しんできたか」
冷酷な指摘。だが、直後に茶柱の腕に触れた常盤の手は、胸が苦しくなるほど温かかった。
「私、知っています。先生が本当は誰よりも真面目で、不器用な人だって。……だから、あんな男の子を脅して壊さなくても大丈夫です。先生の願いなら、私が叶えてあげますから」
「何を……戯言を……」
「戯言じゃありません。私が実力で、このDクラスをAクラスに引き上げてみせます。……だから、もう一人で苦しまないでください。佐枝先生」
スッと下の名前を囁かれた瞬間、茶柱の背筋に甘い痺れが駆け抜けた。
豪華客船の揺れと暗い劇場の静寂の中で、長年固く閉ざしていた心がぐらりと傾く。
(ああ……なんだ、これは……)
今まで誰にも見せまいと必死に隠してきた過去のトラウマ。Aクラスに届かず散っていった青春の未練。そのすべてを、この緑髪の少女は最初から知っていたかのように、容易く包み込んでしまった。
拒絶しようとすればするほど、彼女の体温と柔らかな言葉が胸の隙間に染み込んでいく。
弱みも、未練も、すべて握られている。
それなのに恐怖ではなく、包み込まれるような深い安心感が茶柱の心を満たしていく。
常盤は静かに手を離し、客席を後にしようとした。茶柱は無意識のうちに、その緑髪の少女の袖をキュッと掴んでしまっていた。
「……待ちなさい。お前の狙いは何だ。私を取り込んで、学校側の情報や裏でも引き出すつもりか?」
必死に理性を保とうと問い詰める茶柱に、常盤は振り返り、困ったような、愛おしそうな苦笑を浮かべた。
「そんなずるいこと、するわけないじゃないですか。私、先生の立場を困らせたくありません。学校のルールも、これからのことも、全部『公平』にやってください」
「……何?」
「先生に特別扱いなんてされたら迷惑です。私はただ――私たちが自力でAクラスに上がった時、一番に先生に褒めてほしいだけですから」
「――――」
茶柱は息を飲んだ。
(……情報を求めていない? 私を利用しようとしていたのではないというのか……?)
彼女は、自分の教員としての誇りと立場を守るためにあえて一線を引き、その上で自分の過去そのものを救うと宣言している。
狡猾で冷徹な計算の上に乗せられた、あまりにも誠実な情。
(この生徒は……一体なんなのだ……?)
無害な生徒の皮を被った底知れない怪物。だが、その怪物に頭を撫でられているような甘美な毒に、己の理性が溶けていくのを茶柱は止めることができなかった。
「じゃあ、失礼しますね。せっかくのバカンスなんですから、先生も少しは楽しんでくださいね?」
※
重厚な防音扉が閉まり、再び静寂が戻ったシアターの中で、茶柱佐枝は壁に背をあずけたまま、しばらく動くことができずにいた。
(……私は、一体何をされたのだ?)
手元に残る、あの少女の衣類の感触と、耳元に残された甘く冷徹な響き。
『あの男』からの連絡。それを盾に綾小路清隆を脅迫し、強硬手段で従わせる――それが、長年Aクラスへの未練を断ち切れずにいた自分が導き出した、なりふり構わない不退転の『賭け』だったはずだ。教員としての倫理も誇りも捨て、ただ過去のトラウマを拭い去るためだけに用意した盤面。
それを、たった一人の生徒に、最初からすべて見透かされていた。
常盤栞。
1年Dクラスの生徒。普段は重めの前髪で目元を隠し、大きめの眼鏡をかけてクラスの隅で息を潜めている、影の薄い少女。成績も運動能力も平均的で、トラブルも起こさず、担任である自分ですら「問題児の多いDクラスにおける、無害で手のかからない生徒」としてしか認識していなかったはずだった。
だが、あの暗がりの中で見せた眼差しは、到底「無害な生徒」のそれではない。
『佐枝先生。嘘をつく時、無意識に右の眉が上がる癖……船の上でも変わらないんですね』
『Aクラスに行きたいからって、生徒を脅して道具にするのは……少し、見苦しいです』
思い出すだけで、背筋に冷や汗が伝う。
自分の思考の癖も、焦燥も, 過去の失敗に縛られている弱みすらも、あの少女は完璧に把握していた。自分のすべてが暴かれ、剥き出しにされたような恐怖。
しかし、茶柱を真に混乱させているのは、その先の話だった。
弱みを握った人間が取るべき当然の行動――すなわち「教員を脅し返して裏情報を引き出す」ことも「学校に告発する」ことも、常盤栞はしなかった。
『そんなずるいこと、するわけないじゃないですか。私、先生の立場を困らせたくありません。学校のルールも、これからのことも、全部『公平』にやってください』
『私はただ――私たちが自力でAクラスに上がった時、一番に先生に褒めてほしいだけですから』
(……バカな)
一人でベランダに立った茶柱は、震える手で煙草に火をつけた。紫煙が夜の海風に溶けていく。
彼女の言葉に嘘は感じられなかった。
狡猾で底知れない計算高さの裏にあったのは、呆れるほどに真っ直ぐで、冷酷なまでに誠実な『教員としての自分を守るための気遣い』だった。
もしあのまま綾小路を脅していれば、茶柱は一線を越えていた。仮に綾小路を使ってAクラスに上がれたとしても、教員としてのプライドは永遠に損なわれ、歪んだ罪悪感に苛まれ続けたはずだ。
常盤栞は、茶柱の暴走を止め、教員としての矜持を守らせた上で、「自力で救ってやる」と宣言したのだ。
(あの子は……私を救うと言った。あの過去から、私を……)
ふと、自分の左腕に触れる。
劇場で常盤の手が触れた場所が、今でも嫌になるほど温かい気がした。
今まで誰も触れてくれなかった、触れさせなかった心の傷口。そこに土足で踏み込んでおきながら、あまりにも優しく、慈悲深く包み込んで去っていった緑髪の少女。
畏怖と、戸惑い。そして、長年孤独に戦ってきた心の隙間に、ぬるりと滑り込んできた不気味なほどの安心感。
「……常盤、栞……」
煙草の灰が落ちる。
翌朝、生徒たちの朝食の様子を少し離れた場所から観察しながら、茶柱の視線は無意識のうちに、クラスの隅で静かにパンを口に運ぶ緑髪の少女を探してしまっていた。
当の常盤は、相変わらず影の薄い「おとなしい生徒」として振る舞い、周囲の女子たちとささやかな会話を交わしている。昨夜のような圧倒的な存在感など微塵も見せない。
(あれが、すべて演じられた『仮面』だというのか……?)
茶柱佐枝は悟った。
自分はもう、あの少女の動向から目を離すことができない。指示を与える立場であるはずの担任教員が、すでに盤上で手玉に取られているのだと。
激しい動揺の裏で、茶柱の胸の奥底には、自分でも認めたくない小さな『期待』が冷たく芽生え始めていた。
※
――人間とは、実に扱いやすく、そして美しい生き物だ。
誰もが『自分だけを理解してくれる誰か』を求め、孤独に怯えている。
どれほど硬い殻に閉じこもっていても、その傷口を正確に見極め、静かに体温を与えてあげれば、それだけで自ら心をひらいて差し出してくれる。
暴力も、脅迫も、金銭も要らない。
必要なのは、ほんの少しの観察眼と、相手の尊厳を守ってあげるだけの過剰なほどの『優しさ』。
人はそれを『救い』と呼び、そしてやがて……私なしでは生きていけない『依存』へと変わっていく。
茶柱佐枝という果実は、これで完璧に嵌まった。
次は、どの傷ついた子を抱きしめてあげようか。
反応が多ければ続く、かもしれない……?