最も恐ろしい敵は、優しさの面を被って現れる。 作:綾隆と先生を救いたい
無人島の浜辺に設置された、教員専用のベースキャンプ。
テントの影でパイプ椅子に腰掛け、冷えたペットボトルを手にしていた茶柱佐枝の元へ、軽い足取りで星之宮知恵が歩み寄ってきた。
「ねえねえ、佐枝ちゃ~ん。今回の特別試験、Dクラスはさっそくパニックになってるみたいだけど……なんか今日の佐枝ちゃん、いつもと雰囲気違わない?」
星之宮は意地悪く目を細めると、茶柱の顔を覗き込むように距離を詰める。
「……何のことだ、知恵。私はいつも通りだ」
茶柱は視線すら合わせず、淡々と冷めた声を返す。しかし、星之宮は面白がるように首を傾げた。
「嘘だ~!なんていうかさ、いつもの『どうせウチのクラスはDクラスだし…』みたいな投げやりな悲壮感が薄れてるっていうか……なんだか変に吹っ切れたような顔してるよ?昨日の夜、船の上で何かいいことでもあったの?」
「下らない勘繰りをするな。生徒たちのサバイバルが始まり、教員としての監視業務に集中しているだけだ」
茶柱は一切の隙を見せず、氷のように冷ややかな瞳で星之宮をあしらう。
(……昨夜の出来事を、この女に感づかれるわけにはいかない)
茶柱の脳裏に浮かぶのは、昨夜、客船の人気のない劇場で起きた出来事。
自分自身の焦燥と過去のトラウマを常盤栞にすべて見透かされ、甘く残酷な「救い」によって掌の上で転がされた記憶。昨夜常盤に釘を刺された通り、茶柱は今、完璧な「公平な教師」を演じ切らねばならないのだ。
「ふ~ん……まあいいけどさ。Aクラスを目指すのは勝手だけど、ウチのBクラスも容赦しないからね?」
「好きにしろ。私は自分の仕事を全うするだけだ」
茶柱はそう言い捨てて立ち上がると、星之宮に背を向けて歩き出した。
その胸中にあるのは、教員としての責任感以上に――自分を侵食したあの緑髪の少女、常盤栞に対する底知れぬ畏怖と、どこか狂おしい依存の芽生えだった。
※
「じゃあ、東側エリアの軽い探索と水場の有無の確認は、佐藤さん、松下さん、常盤さんにお願いしていいかな?決して無理はしないで、少しでも危険を感じたらすぐに引き返してきてほしい」
ひとまずの待機場所である木陰での休憩が一段落した頃、平田の呼びかけによって結成された女子探索班。
気弱な自分を気遣ってくれる佐藤麻耶と、少し落ち着いた様子で髪をいじる松下千秋。女子3人で構成されたその班の最後尾を、栞は「体力のなさそうな少女」として控えめについていく。
「う〜、まさか私たちが探索班に選ばれるなんて……。常盤ちゃん、体調は大丈夫?森の中、足元悪いから気をつけてね!」
「うん、ありがとう佐藤さん。私、足を引っ張らないように頑張るね……!」
申し訳なさそうに身を縮める栞に、佐藤は「常盤ちゃんは可愛いなぁ」と微笑む。
その二人のやり取りを、少し前を歩く松下が振り返り静かな目で見つめていた。
松下千秋――普段は流行に敏感なギャルグループの一員として振る舞っているが、その本質は高い観察眼と実力を隠し持っている少女。同年代の女子とは一線を画すその聡明さに対し、栞は以前からわずかな「同類の気配」を感じ取っていた。
(松下さん……この子も、自分を偽って『平凡な女子生徒』を演じるのが上手な子だよね)
鬱蒼と茂る木々をかき分け、不快な湿度と暑さが立ち込める森の中を進みながら、栞は前髪の奥で密かに瞳を細める。
(でも――どれだけ賢く立ち回ろうと、この無人島という極限状態の中では、人間は必ず『誰か』に甘えたくなる。あなたのその冷静な仮面も、いつまで保つか見ものだね)
「ねえ二人とも!なんかあの辺、木が途切れてない?もしかしたら開けた場所があるかも!」
佐藤が指差す先へ足を進めながら、栞はあえて不器用そうに足元を滑らせてみせた。
「きゃっ……!」
「わ、常盤ちゃん大丈夫!?」
すかさず佐藤が手を伸ばして肩を支える。栞は胸を押さえ、頼りなげで愛くるしい笑みを浮かべた。
「ご、ごめんなさい……ちょっと足元が見えてなくて。佐藤さんがいてくれてよかった……」
「もう、ほんと無理しないでよね!私がしっかり常盤ちゃんを守らなきゃ」
完全に「無害で守るべき存在」として佐藤の庇護欲を刺激し、心理的な安全基地としての地位を確立していく。相手の善意や誇り、優越感をくすぐり、自発的に動かしていく手法は、栞にとって息をするのと同じくらい容易い。
「常盤さん、大丈夫?怪我してない?」
振り向いた松下が心配そうに声をかけてくる。しかしその瞳の奥には、栞の挙動を注意深く見定めるような冷静な光が宿っていた。
「うん、松下さん、ありがとう。擦り傷もないみたい。……私、運動苦手だから……二人ともごめんなさい」
「ううん、気にしないで。こんな森の中、試験で歩かされる方が異常だしさ」
松下は軽い調子で笑いながらも、栞の手元や、先ほどから見せる「過剰なまでの謙虚さと気配りの自然さ」に、どこか説明のつかない違和感を抱いていた。
(常盤栞さん……大人しくて影が薄いと思ってたけど、なんていうか……隙がなさすぎるのよね。佐藤さんを手懐けてる感じも、なんだか……)
互いに「偽りの自分」を演じながら進む、不穏で静かな探索。
だが、松下がどれだけ勘の鋭い生徒であろうと、栞が裏で張り巡らせている愛の毒の全貌に気づく術など、流石にありはしないだろう。
「常盤ちゃーん!こっち、やっぱり行き止まりだったー!」
遠くから手を振る佐藤の声に、栞は一瞬で毒気のない、可憐で控えめな笑顔を貼り直した。
「今行くね、佐藤さん――!」
一通りのエリア探索を終え、3人が最初の待機場所へと戻ろうとしたその時、栞の持つPHS端末が微かに震えた。画面を確認すると、平田からの合流連絡が入っている。
「佐藤さん、松下さん。平田くんから連絡が来たよ。えっと……須藤くんたちがベースキャンプにぴったりな川辺のスポットを見つけてくれたみたい。私たちが待機場所に置いていった荷物も、待機組がそのまま川辺まで運んでおいてくれるって。……私達も、そっちに合流しよう?」
「本当!?やったぁ、重い荷物運ばなくて済むのは助かる〜!川辺なら涼しそうだし水もあるよね!早くいこ!」
嬉しそうにはしゃぐ佐藤に優しく微笑み返しながら、栞は静かに森の奥へと視線を巡らせつつ歩き始めた。
※
「みんなお疲れ様!無事でよかったよ」
「うわぁ、すごい……!本当に水が流れてる!ここなら全然過ごしやすそうじゃん!」
平田の安堵した声に迎えられ、栞たち女子探索班は須藤たちが見つけた川辺のスポットへと到着した。
そこは木々に囲まれた開けた川辺で、清涼な水音と冷気が漂う、確かに拠点としては格好の場所だった。すでに待機組の手によって運ばれた大量の荷物が一箇所にまとめられており、男子生徒たちが疲労困憊の様子で木陰に座り込んでいる。
佐藤が歓声を上げ、松下も「まあ、さっきの木陰よりはマシかもね」と少し表情を緩める。
栞は二人のかたわらで「すごいです、平田くん、須藤くん……!」と小さく胸の前で手を合わせ、感銘を受けたような瞳を平田へ向けた。
「いや、僕じゃなくて須藤くんたちが見つけてくれたんだ。本当に助かったよ」
平田は謙虚に微笑みながらも、その目元にはかすかに疲労の色が滲んでいた。
クラスをまとめ上げ、男子と女子の不満をなだめ、ベースキャンプの設営や役割分担を取り仕切る――「全員で乗り越える」という理想を掲げる彼にとって、この無人島特別試験の重圧はあまりにも大きすぎる。
(ふふ……平田くん。その綺麗な心、いつまで折れずに保てるかな?)
栞は前髪の奥で、可憐な笑みの下に隠した毒を静かに躍らせる。
穏やかな空気も長くは続かなかった。川の水を覗き込んでいた篠原たち女子生徒から、不安混じりの声が上がり始めたのだ。
「ねえ平田くん……この川の水って、本当にそのまま飲んでも大丈夫なの?お腹壊したりしない?」
「そうだよ!目に見えない細菌とか寄生虫とかいたらどうするのさ!ポイント使ってミネラルウォーターか、せめて浄水器を買ってよ!」
篠原たちの強い訴えに、池が苛立ったように声を荒げる。
「はぁ!?見ろよ、こんな綺麗な川の水だぞ!腹なんて壊すわけねえだろ!水なんかに貴重なポイント使うわけないじゃん!」
「あんたは平気でも私達は、無、理、な、の!お腹痛くなったら責任取れるわけ!?」
瞬く間に激化する口論。怒号と叫び声が飛び交い、川辺の空気は一気に険悪なものへと変わっていく。
そこに堀北も静かに割り込み、「川の水は煮沸消毒すれば飲むことは可能よ。……安易にポイントを消費して飲料水を購入するのは愚策だわ」と冷淡に言い放ち、女子たちの火に油を注いでしまう。
「みんな落ち着いて……!みんなの心配も分かるし、堀北さんや池くんの言うことも理解できるから……!」
間に入って必死に場を収めようとする平田。だが、双方の主張は平行線をたどり、クラスの亀裂は深まる一方だった。
「……ハァ、始まったよ。水くらいで熱くなりすぎでしょ、みんな」
松下が少し呆れたように息を吐き、髪を弄りながら栞の隣に並ぶ。栞は困惑したように身を縮め、怯えた声で呟いた。
「どうしよう、松下さん……みんな、喧嘩になっちゃいそう……」
「常盤さんが気にすることじゃないって。放っておけばいいのよ、どうせ平田くんがなんとかするんだから」
松下は少し冷めた口調で返しつつも、チラリと栞の顔を横目で伺う。
争いに怯える可憐な少女――完璧なリアクション。だが、松下の直感は、栞の瞳が一瞬たりとも「本気で揺れていない」ことを見逃さなかった。
(やっぱりおかしい……。普通、こういう空気になったら本気で焦ったり引いたりするはずなのに、常盤さんの怯え方には……どこか『作られたもの』を感じる……)
松下の探るような視線を感じ取りながらも、栞は気付かないフリをして佐藤の腕に縋り付いてみせる。
「あ……ごめんね、佐藤さん。私、こういう雰囲気がちょっと怖くて……」
「大丈夫だよ常盤ちゃん!ほら、あっちでちょっと休んでよ?」
佐藤が庇うように栞の肩を抱き、争いから遠ざけてくれる。
庇護欲に駆られた佐藤という盾を使い、巧みに松下の視線の遮断を行う。
(松下さん……観察眼が鋭いのは大いに結構だけど、私を暴こうとすればするほど、あなたもこの沼から抜け出せなくなるんだよ?)
やがて平田の決死の説得と提案――まずは鍋や火を使って川の水を煮沸し始め、一方でアウトドアやキャンプ経験のある池が自らそのままの水を飲んで、体に異変がないか様子を見る、という落としどころで一旦の着地を見た。
「任せとけって!俺が証明してやるよ」と威張る池に対し、不満を飲み込んだ篠原たちが毒づきながら作業に戻り、堀北は輪から離れて一人木陰へと歩み去っていく。
疲弊しきった平田が、川辺の岩にぽつんと腰を下ろし、少し頭を下げて溜息をついた。
(……そろそろ、かな)
栞は周囲の様子をうかがい、佐藤が他の女子生徒とおしゃべりに夢中になったタイミングを見計らうと、静かな足取りで平田の元へと歩み寄った。
「平田くん……大丈夫……?」
控えめで、柔らかく、包み込むような声。
顔を上げた平田の疲弊した瞳に、心配そうに眉をひそめる栞の姿が映り込んだ。
「あ……常盤さん。ごめんね、情けないところを見せちゃって。僕がもっと上手くみんなをまとめられればよかったんだけど……」
「ううん、そんなことないよ。平田くんはすごく頑張ってる。みんなのために一生懸命考えてくれてるの、私はちゃんと分かってるよ……」
栞は腰を落とし、平田と目線を合わせると、前髪の隙間から温かな「救い」の光を宿した瞳を向けた。
「みんな、急な無人島サバイバルで心に余裕がないだけだから……平田くんが自分を責める必要なんてないんだよ?……私、何もできないけど……平田くんの味方だからね」
「常盤さん……」
その言葉は、責任感という重圧に押し潰されかけていた平田の心に、あまりにも甘く、優しく染み渡っていく。
平田の瞳が一瞬、栞という少女への深い救済と安らぎに揺れた。
(そう……いい子だね、平田くん。このままみんなのリーダーとして壊れるまで戦って……限界が来たら、私の胸の中で全部諦めて楽になって……)
その光景を、少し離れた木の影から見つめる人物がいた。
綾小路清隆。
彼は無表情のまま、平田の心を静かに侵食していく常盤栞の立ち回りと、彼女が放つどこか歪んだ気配を、底知れぬ瞳で静かに見つめていた――。
※
川の水を巡る不毛な小競り合いが一旦の収束を見せ、生徒たちが思い思いに散っていった後も、オレはその場を離れずに木陰の暗がりから川辺の光景を眺めていた。
視線の先には、岩に腰掛けたまま頭を抱える平田洋介と、その目の前に優しげに屈み込み、語りかけている緑髪の少女――常盤栞の姿がある。
距離があるため、二人が具体的にどんな言葉を交わしているのかまでは聞き取れない。だが、平田の緊張しきっていた肩の力が徐々に抜け、どこか縋るような、あるいは救いを見出したかのような瞳で常盤を見つめ返している変化は、遠目からでもはっきりと見て取れた。
(……見事な手際だな)
オレは心の中で静かに呟く。
常盤栞。
Dクラスにおいて、彼女の存在感はこれまで決して強いものではなかった。成績は中の下、身体能力に至ってはクラスでも最下層。大人しく、自己主張を好まず、可憐だがどこか頼りない「守られるべき少女」というのが、周囲の共通した認識だったはずだ。
だが――オレの観察眼が正しければ、その可憐さも、儚さも、すべて計算され尽くされた、櫛田のような「仮面」に過ぎない。
この無人島という極限状態において、人間は心理的な余裕を急速に失っていく。クラスをまとめようと奔走する平田のような人間ほど、その重圧によって内側から摩耗していくものだ。
常盤はそのタイミングを完璧に見極めていた。過剰な主張をせず、平田の苦労を全面的に肯定し、静かに「安全基地」としてのポジションを提示する。人間が最も弱っている瞬間に差しのべられる甘い肯定――それは、過酷な状況であればあるほど抗いがたい中毒性を持つ。
平田が抱く責任感と善意。それ自体は尊いものだが、常盤はその美徳すらも利用し、彼を心理的に依存させようとしている。
さらに言えば、彼女の張り巡らせている網はクラス内部にとどまらない。
オレは船に乗る直前の、あの劇場での出来事を思い出していた。
茶柱先生がオレに対して、何か探るような目線を向け、不穏で厄介な話を持ちかけようとしていたあの瞬間。
あの不穏な空気感を、常盤は絶妙すぎるタイミングで割り込み、何事もなかったかのようにその場を自然に収めてみせた。
(あの時、茶柱先生の不穏な空気を自然に遮ってくれたことには、正直助かったと言うべきだろう)
あのまま茶柱先生に教員という立場から余計な話へ巻き込まれるのを防いでくれたことに対しては、オレとしてもささやかな感謝を覚える。
だが……常盤が単なる善意や偶然であんな真似をしたとは到底思えない。あの介入もまた、茶柱先生の意識をオレから逸らし、同時に教師である彼女の弱みや動揺を分析するための計算された、一石だったはずだ。
今朝見かけた茶柱先生の、どこか悲壮感の抜けたような異様な雰囲気。
劇場で茶柱先生の口を封じ、裏で何らかの接触を図って懐へ入り込む――常盤による「介入」の結果だとしたら、彼女の影響力はクラス内にとどまらず、すでに他クラスや他の教師にすら及んでいる可能性がある。
(他人のトラウマや欲望、心の隙間を見抜き、そこに甘く残酷な『救い』を与えることで完全支配する……か)
堀北鈴音のように直線的な正論で人を動かそうとするタイプや、龍園のように暴力と恐怖で人を服従させるタイプとは根本的に異なる。
彼女のやり方は、まるで無色無臭の遅効性の毒だ。侵されている本人は救われていると錯覚したまま、いつの間にか思考の自由を奪われ、彼女の手のひらの上で踊らされることになる。
現に、先ほど探索から戻ってきた際の佐藤の態度が良い例だ。
佐藤は完全に常盤を「守るべき妹」のように思い込み、自発的に彼女の盾となっていた。そして、勘の鋭い松下が常盤に抱いた違和感すらも、佐藤という障壁をうまく挟むことで自然に遮断してみせた。
松下千秋という存在も興味深い。普段はギャルグループに混ざって目立たないように振る舞っているが、彼女の本質は非常に冷徹で、観察眼に長けている。その松下ですら、常盤の完璧な「無害な少女」の演舞と、巧みな視線誘導の前に、攻め手を欠いている状態だ。
常盤の恐ろしいところは、自分が疑われるリスクを極限まで減らしながら、他者を「自主的に」動かすことができる点にある。
平田からPHS端末を手に入れたのもそうだ。「みんなの連絡係として協力したい」といった名目でも立てたのだろう。平田の善意を利用して確保したその端末を使えば、Dクラスの状況をリアルタイムで把握できる。
……いや、それだけではない。
実際に接触している現場を目撃したわけではないが、彼女の立ち回りを見ていると、ある疑問が浮かぶ。この無人島という特殊な環境で、彼女がDクラスだけに満足しているだろうか。
他クラスの不満分子や孤立している生徒――そういった心の隙間を持つ存在に、彼女がすでに密かに接触し、何らかの「毒」や「種」を撒いている可能性も十分にある。もしそうなら、この特別試験の裏側はオレや堀北たちの知らないところで急速に侵食されていることになる。
(平田や櫛田、堀北が表のリーダーとしてクラスを引っ張っているように見えて、実質的な主導権も、試験の鍵も、すでに彼女の手の中にあるのかもしれない……ということか)
オレは堀北との約束を思い返す。
堀北に協力し、DクラスをAクラスへと引き上げる手助けをする――それがオレの交わした取り決めだ。
だが、今盤面を事実上支配しつつあるのは、堀北でも平田でもなく常盤だ。もし彼女の支配が暴走し、クラスや他クラスとの関係を自分の歪んだ欲望のために破滅へ導くようなことになれば、堀北との約束も、この無人島試験での勝利も潰えかねない。
(……だが、逆に言えば)
常盤のこの圧倒的な支配力と、他クラスにまで伸びているかもしれない毒の網。
これをうまくDクラスの勝利のために利用できれば、オレ自身が表立って動くリスクを最小限に抑えつつ、他クラスを極めて効率的に潰す強力な「駒」になり得る。
要は、彼女の毒の手綱を誰が握るかだ。
堀北には到底手に負えないだろう。平田はすでに毒に呑まれかけている。彼女が本気を出したら、櫛田もどこまで対抗できるか全くの不透明だ。
ならば、オレが裏から盤面をコントロールし、常盤の動向をオレの計算内に収めてやる必要がある。
ふと、常盤が平田との会話を終え、立ち上がるのが見えた。
平田はどこか吹っ切れたような、しかし同時に自覚のない疲労を宿した瞳で作業に戻っていく。
常盤はゆっくりと振り返り、川のせせらぎに視線の先を落とした。
その一瞬、彼女の前髪の隙間から覗いた瞳に、温かな光などは微塵も存在しなかった。そこにあったのは、すべてを自分の思い通りに配置し終えた盤面を眺めるような、冷ややかで、狂おしいほどに甘い支配者の色彩だった。
常盤の視線が、ふとオレの潜む木陰の方向へと向けられる。
距離にして十数メートル。オレが影に潜んでいることに、彼女が気づいた節はない。
だが、彼女は誰も見ていないはずの暗がりへ向けて、可憐で、けれどどこかすっと背筋が凍るような、毒のある笑みを静かに浮かべてみせた。
(なるほど……面白い)
オレは表情を変えずに、その視線を正面から受け止める。
劇場で茶柱先生の話を遮ってくれたことへのささやかな借りを返しつつ、堀北との約束を果たすためにも――オレはこの常盤栞という強力で危険な毒を、どう組み込んで特別試験を制するか、思考を巡らせ始める。
常盤が撒き散らす甘い毒が、他クラスをどう蝕み、そしてオレの描く盤面にどう嵌まっていくのか。
オレは静かに息を潜めながら、緑髪の少女が仕掛ける罠の次の一手を、冷静に見極めることにした。
主人公が『気づきました』。