最も恐ろしい敵は、優しさの面を被って現れる。 作:綾隆と先生を救いたい……?
Bクラスのベースキャンプは、滝の音と虫の羽音だけが響く静寂に包まれていた。
電話の後戻ってきたテントの中で横たわっていた白波千尋は、そっと胸元を押さえた。
すぐ隣では……まだ大好きな帆波ちゃんを含め、クラスの女子たちが穏やかな寝息を立てている。昼間、帆波ちゃんが語っていた「みんなで助け合って、全員で笑って乗り越えよう」という眩しすぎる言葉。その善意と信頼が、今の白波には重く、耐えがたい圧力となって胸を締め付けていた。
(……やっぱり苦しい……っ……もう、息ができない……)
思い出すのは、勇気を振り絞って自分の気持ちを打ち明けた放課後のあの日のこと。
『ごめんね、千尋ちゃん。私は今クラスやみんなのことが大切だし……それに、同じ女の子同士でそういう風には見れないんだ』
優しく、どこまでも親愛を込めた困り顔で告げられた拒絶。帆波ちゃんは誰も傷つけないようにする「完璧な太陽」だからこそ、同性ゆえの一線を引かれ、白波千尋という一人の少女のある意味歪んだ愛を受け止めてはくれなかった。
ただ、その告白にたとえ傷つけたとしても真摯に向き合おうとする姿勢は感じ取ることが出来た。
……しかし。
あの日、特別教室で栞ちゃんに出会ってさえいなければ――失恋の傷に泣きながらも、時間をかければ、また『大切な友人』として笑って帆波ちゃんの隣に戻れていたかもしれない。
けれど、あの特別教室で常盤栞という甘い毒に触れてしまったせいで、自分は救われるどころか、もう二度と元には戻れないほど脆く、弱くされてしまった。栞ちゃんの体温や言葉なしでは息もできないほど、壊されてしまったのだ。友人に戻るための強ささえ、栞ちゃんに全て奪われてしまった。
同性であることすら関係なく、その汚い感情ごと甘く抱きすくめてくれた栞ちゃん。彼女の毒がなければ、一人ではもう立ち上がれない。帆波ちゃんの眩しさにも、キーカードを持つリーダーという重圧にも押し潰されてしまう。
その歪んだ恋情と依存心に身を焦がされた白波は、周囲を起こさないよう極限まで息を殺し、静かにテントのファスナーを下げて外へと抜け出した。
夜の無人島は、吸い込まれそうなほどの暗闇に包まれている。
冷たい夜風がジャージ越しに肌を刺すが、白波は立ち止まらなかった。向かう先は、先ほど密かに定めた約束の場所――Bクラスのベースから少し離れた、木々の影が深く落ちる海岸沿いの岩場だ。
暗闇の中で枝を踏み折る小さな音に怯え、心臓を激しく脈打たせながらも、白波は足を進める。
特別教室で自分を狂わせ、弱く仕立て上げた罪深い少女のもとへ。自分をさらなる深みへ落としてくれる、あの甘い体温を求めて。
やがて、木々の隙間から月光が差す開けた場所へ辿り着く。
海岸近くの木陰の太い幹のそばで、彼女を見つけた白波は荒い呼吸を整えながら、縋るようにその人影をじっと見つめた。
※
特別試験初日の深夜。
波音だけが暗闇を支配する海岸から少し離れた木々の影で、その密会はひっそりと行われていた。
「……あ、っ……ん……ぁ、っ……」
熱を帯びた吐息が、湿り気のある夜風に溶けて消える。
白波千尋の背中は、太い幹に強く押し付けられていた。目の前にいるのは、月光を背に受けて美しく揺れる緑の髪を持つ――栞だ。
栞の細い指先が、白波の濡れた目尻から頬、そして薄い唇へと滑り落ち、なぞるように割り込んでいく。
指先から伝わる甘い体温に、白波の身体が痙攣するように小さく跳ねた。
「かわいそうに……また帆波ちゃんのことを考えて泣いていたの? 千尋ちゃん」
耳元に唇を寄せ、吐息を吹きかけるように囁かれる蜜の声。その名を呼ばれた瞬間、胸の奥の傷口が甘く疼いた。
「ち、違う……私、は……っ」
「嘘。隠さなくてもいいんだよ。帆波ちゃんはみんなの『太陽』だから……誰か一人のものにはなってくれない。千尋ちゃんがどれだけ好きでも、どれだけ身体を壊すほど望んでも、あの人は千尋ちゃんだけを特別には愛してくれない」
「や……やだ、言わないで、栞ちゃん……っ」
首を振ろうとする白波の顎を、栞の柔らかい指先が強引に掴み上げ、逃がさない強さで固定する。
逃げ場を失った白波の視界を埋めたのは、夜の闇よりもなお深い栞の瞳だった。そこには憐憫と、底なしの慈愛、そして狂おしいほどの支配欲が濃密に蠢いている。
「いいんだよ、もう頑張らなくて。帆波ちゃんに選ばれなかった傷も、期待に応えられない苦しさも……私の胸の中で、全部解かしてあげる」
栞の身体が、いっそう強く白波に重なった。
ジャージ越しにダイレクトに伝わる、胸元と太ももの熱い柔らかさ。栞の濡れた唇が、白波の耳たぶを甘噛みし、首筋から鎖骨の窪み、そして大事な部分へと下りながら熱い痕を残していく。
「んぁ……っ……あ、栞、ちゃ……そこ、は……っ……んんっ!」
白波の口から、抑えきれない艶っぽい悲鳴と喘ぎが漏れた。
栞の手先が、薄手のジャージの隙間から滑り込み、白波の華奢な腰元や背筋を、熱をあぶるように撫で回す。
一之瀬帆波という光に拒絶された白波千尋は、その強い快感と背徳の熱に頭を白く染め上げられ、自ら好んで栞の体温に縋り付いていった。
「帆波ちゃんはね、優しすぎるから……本当の意味で千尋ちゃんを救ってはくれないの。……私だけでしょう? Bクラスのリーダーなんて過酷な重荷を背負わされた千尋ちゃんを、こうやって壊れるまで愛してあげられるのは」
「あ……っ、私……もう、栞ちゃんがいないと……ダメ、かも……っ。私なんかがリーダーだから……っ」
栞から与えられる体への快楽と甘美な言葉に完全に溶かされ、白波は溢れ出る涙とともに、自らポケットへ小刻みに震える手を滑り込ませた。
もう、何も隠す必要なんてない。帆波ちゃんにも見せられなかった汚い部分も、重圧も、秘密も、この目の前で自分を乱してくれる少女になら全てを捧げられる。
「これ……っ。私、これを持ってるのが怖くて……っ。栞ちゃん、私を……私の全部をあげるから……っ!」
白波が自らの意思で取り出し、震える指先で差し出してきたのは――Bクラスのキーカードだった。
「……見せてくれてありがとう、千尋ちゃん……よく頑張ったね。こんな大きな重荷を、たった一人で抱えていたんだね」
栞は妖しい笑みを浮かべると、白波の震える手を自分の胸元へと引き寄せ、キーカードを持つ彼女の指先ごと、ゆっくりと舌で舐め上げた。
「んっ……あ……っ」
指先へ伝わる温かく湿った感触に、白波の瞳は恍惚と快感で完璧に濁り切る。
栞は白波の耳元へ唇を密着させ、深く、重く囁きかけた。
「ねえ、千尋ちゃん。このカードの写真を、私に撮らせて? 私の端末の中に、千尋ちゃんの秘密を永遠に残させてほしいの」
「え……? し、写真……?」
「大丈夫。もし試験の中で何かあっても、私がこの写真を『証拠』として持っていれば、千尋ちゃんが壊れそうになった時にいつでも裏から助けてあげられるから。……千尋ちゃんを誰にも渡さないための、私と千尋ちゃんだけの、永遠の『お守り』。ダメかな?」
「栞ちゃんだけの……お守り……っ」
「うん。帆波ちゃんには絶対に教えない、私たちだけの秘密。千尋ちゃんの重荷も、心も、身体も……私に全部、預けて?」
「うん……っ、ダメじゃない……! 栞ちゃん……お願い、私のすべてを奪って……助けて、私をあなたのものにして……っ」
「ありがとう、千尋ちゃん……本当に、可愛い子」
白波が狂ったようにしがみつき、カードを栞の目の前に自ら掲げる。
栞は片手で白波の細い腰を強く引き寄せ、密着させながら、もう片方の手で端末を取り出し、白波の目の前でゆっくりとカメラをカードへと向けた。
――カシャ。
闇夜に響く、小さくも決定的な撮影の電子音。
画面に収まったのは、汗と熱気でじんわりと濡れ、爪先まで紅潮した白波の細い指先。その艶っぽく震える二本の指にきつく挟まれ、乱れた呼吸と赤くなった顔とともに鮮明に写し出されたのは、彼女の名前と、リーダーを示す証だった。
白波からすれば、それは「栞ちゃんに全てを捧げ、護られている愛の証」の撮影。
しかし常盤栞にとっては、Bクラスを文字通り奈落の底へ突き落とすための「完璧な毒針」の完成だった。
「これで大丈夫。……もう、何も怖がらないでいいからね」
撮影を終えた端末をポケットに収めると、栞はその両手を白波の細い肢体へと這わせた。
もはや自力で立つことも叶わず、栞の身体に全体重を預けるようにしなだれかかる白波の耳元に、甘い毒を含んだ唇を寄せる。
「ねえ、千尋ちゃん。カードの写真も撮ったし、秘密も共有できたね。……でも、千尋ちゃんは本当にあのBクラスに戻りたいの? 帆波ちゃんたちの期待に押し潰されながら、またあの優しすぎる嘘の中で苦しむの?」
「あ……っ、やだ……っ。もうほなっ……一之瀬さんたちの顔を見るのも、期待されるのも怖い……っ!」
「……なら……切り捨てちゃおうか、Bクラスなんて」
栞の酷薄な囁きが、白波の耳奥を甘く痺れさせる。
「千尋ちゃんを追い詰めたのはBクラスだよ。みんなが千尋ちゃんに重荷を押し付けたんだから……捨てちゃっていいんだよ。千尋ちゃんの心も、身体も、そしてBクラスの未来も……全部、私に頂戴?」
「あ……ぁ……っ……私……Bクラスなんて、どうなってもいい……っ!」
栞の指先が白波の顎を強く持ち上げ、濁りきった瞳を覗き込む。
一之瀬という眩しすぎる光への絶望と、目の前の暗闇が与える甘美な快楽。白波の心の中で、クラスへの忠誠心は完全に砕け散った。
「言ってみて、千尋ちゃん。誰の命令なら聞くの? 誰の所有物になりたいの?」
「栞ちゃん……っ。私はもう、Bクラスの白波千尋じゃない……っ。栞ちゃんの犬でも……奴隷でも何でもいい……! 私を捨てないで……あなたの好きに……私を裏切り者にして、壊して……っ!」
「千尋」は涙で濡れた顔を自ら栞の手に擦り付け、ひれ伏すようにしてその身を捧げる言葉を紡いだ。完全なる屈服。Bクラスを自ら裏切り、栞の奴隷となることを誓った瞬間だった。
「ふふ、よく言えたね……可愛い、私の奴隷さん」
栞は満足そうに微笑むと、「千尋」の唇を奪い、熱い息を塞ぐように深く深く口づけた。
「んぁっ……あっ、あぁ……栞ちゃん……っ! 好き……大好き……私を……もっと狂わせて……っ!」
拒絶の痛みを快感と従属の歓びで塗り替えるように、栞は抗う術を完全に奪われた千尋を抱きしめ続ける。
樹々のざわめきと打ち寄せる波音だけが、二人の重なり合う吐息と、甘美に満ちた背徳の時間を優しく包み込んで隠していく。
自らの手で写真を撮らせ、クラスを裏切る宣誓をし、心も肉体もすべてを差し出した千尋は、完全に「救われた」と思い込んだまま、二度と浮上することのできない甘い毒の深海へと、永遠に沈み込んでいった。
※
特別試験2日目、早朝。
無人島の空が白み始め、川辺のベースキャンプには朝の冷気が満ちていた。
昨夜、千尋を完璧な「奴隷」へと仕立て上げ、Bクラスのキーカード写真をその手に収めた栞は、何事もなかったかのように可憐な顔でテントから姿を現した。
(千尋ちゃんは、もう一生私のもの。あの子が私のためにBクラスを内部から引っかき回してくれる……ふふ、可哀想に、本当に愛おしいな)
栞は前髪を揺らし、朝の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込む。
だが、その平穏な空気は朝の点呼の最中に一瞬にして撃ち破られた。
「……高円寺くんが、いない……?」
集合した生徒たちの前で、人数を数えていた平田が顔色を変えた。
ざわめきが広がる中、点呼の確認に来ていた茶柱が、一切の感情を交えない冷淡な声で告げる。
「無駄だ、平田。高円寺なら早朝、自ら体調不良を申し出て本船へとリタイアした。すでに回収用のボートで船へと戻っている」
「え……っ、リタイア……!?」
茶柱の非情な宣告に、川辺のベースキャンプに激震が走った。
「おい、冗談だろ高円寺のヤツ! 勝手にリタイアしやがったのか!?」
「どうすんのよ平田くん!? 高円寺くんのせいで、私たちのクラス余計にマイナスになっちゃうじゃない!」
池や篠原たちの怒鳴り声と悲鳴が飛び交う。
ただでさえポイントを節約しようとギスギスしていたDクラスにとって、高円寺の独断によるリタイアは大打撃だった。
「みんな落ち着いて……! 高円寺くんにも事情があったんだと思うし、僕たちが今できることを……っ」
平田は必死に声を張り上げ、乱れるクラスをまとめようとする。だが集団のパニックを抑えきれず、その顔はかすかに蒼白になり、肩が不自然に震えていた。責任感という名の枷が、彼の精神を急速にへし折ろうとしている。
(あは……いい顔。平田くん、もう限界なんだね。可哀想に……)
栞の胸の奥で、甘い愉悦がフワリと咲いた。
だが、目立たない存在であるはずの自分が、あまり平田にばかり付き添っていては、松下のような勘の鋭い生徒や周囲に余計な勘ぐりを入れられかねない。
栞は騒ぎに狼狽する佐藤の肩にそっと手を添え、「きっと大丈夫だよ、佐藤さん」と不安そうにかばう素振りをみせつつ、慌ただしく動き回る平田とすれ違いざまに、小さく一言だけ声をかけた。
「……平田くん、無理しないでね」
目立たない女子の、ごく控えめなささやかな気遣い。
だが、逃げ場を失っていた平田の瞳には、その一言だけで十分な「救い」として甘く染み渡っていた。平田はすがりつくような視線を一瞬だけ栞に向け、力強く頷く。
(よし……これで十分)
そう思いながらスッと輪から身を引こうとしたその時――目の前に、ふわりと人影が立ちはだかった。
「……栞ちゃんって、本当に優しいよね」
親しみやすさと慈愛に満ちた、完璧な笑顔。櫛田桔梗だった。
櫛田は小首を傾げ、心配そうな、どこか探るような瞳で栞の顔を覗き込んでくる。
「平田くん、すごく辛そうだったもんね。静かに寄り添ってあげるなんて、すごく思いやりがあるんだね」
「……桔梗ちゃん。ううん、私なんて何もできてないよ。平田くん、ずっとクラスのために一人で頑張ってくれていたから……すごく心配で」
栞は可憐な困り顔をつくり、儚げに目を伏せてみせる。
普段は目立たないおとなしい女子生徒の顔。だが、ほんの十数センチの距離で重なる視線の奥で、甘い毒と冷徹な観察眼が静かに火花を散らしていた。
(櫛田桔梗……。クラスの全員から信頼を集めながら、裏では人間関係や感情の変化を完璧に把握しようとする子。目立たないはずの私が平田くんに近づいたことすら、見逃さずにチェックしにきたんだ)
「ううん、栞ちゃんのそういう配慮、すごく素敵だと思うな。……でもね、あんまり一人で抱え込みすぎちゃダメだよ? 何かあったら、私にも相談してね?」
「ありがとう、桔梗ちゃん。桔梗ちゃんがいてくれて、本当によかった……」
「みんなのアイドル」と「目立たないおとなしい少女」の仮面を互いに完璧に貼り付けたまま、微笑みを交わす。
櫛田が「じゃあ、私はみんなのフォローに行ってくるね!」と明るく去っていくのを見送りながら、栞は胸の中でくすりと小さく笑った。
(ふふ、警戒されちゃったかな? でも大丈夫。私が見つめているのは、Dクラスというちっぽけな枠組みの中だけじゃないもの)
栞は周囲に誰もいない木陰へと移動し、離れた場所から伊吹がDクラスの混乱を冷めた目で見つめているのを確認する。伊吹の存在もまた、いずれ平田やクラスへの決定的な追い打ちとなるはずだ。
※
点呼の混乱から少し時間が経ち、午前中の作業へと移行したDクラス。
高円寺のリタイアによる波紋は残っていたものの、なんとか激しい怒号は収まり、生徒たちは不満を漏らしつつもそれぞれの作業へと散っていった。試験はまだ始まったばかりの2日目。生徒たちの体力も気力も途切れてはいない。
「平田、次の水汲みのシフトどうするー?」
「あ、うん。僕の方で調整しておくから、少し待っててね」
クラスメイトからの問いかけに、平田は爽やかな笑みを浮かべてテキパキと指示を出していた。
朝の点呼でのパニックは凄まじかったが、すれ違いざまに栞から与えられた「甘い肯定と救い」の毒が、彼の折れかけていた心を優しく持ち直させていたのだ。
木の陰からその光景を静かに眺めていた栞は、可憐な唇の端をわずかに吊り上げた。
(ふふ……平田くん、がんばってる。私にあんな風に寄り添われたら、責任感の強い彼は『僕がしっかりしなきゃ』って、無理をしてでも元気になっちゃうよね。……可哀想だ。その頑張りが、後でどれだけ重い絶望になって跳ね返ってくるかも知らずに)
一見すると持ち直したように見える平田だが、その精神の芯は段々と栞の存在なしでは成り立たないほど脆くなっていくはずだ。一度与えた毒が時間をかけて浸透していくのを楽しめばいい。
※
一方、同じ午前中のBクラスのベースキャンプ。
「みんな、昨日はお疲れ様! 今日も焦らず、自分たちのペースで安全第一でいこうね!」
一之瀬の明るく透き通った声があたりに響き、クラスメイトたちが笑顔で応える。
その輪の少し後ろで、千尋はポリタンクを抱えたまま、ぼんやりと一之瀬の背中を見つめていた。
昨夜までの「白波」であれば、その光のような眩しさに救われ、縋り付いていたはずだった。
だが――今の「千尋」の胸の奥に湧き上がっていたのは、激しい違和感と、吐き気を伴う冷笑だった。
(……気持ち悪いな)
千尋は自分の内側から溢れ出すその感情に、恐れを抱くどころか、ゾクゾクとするような快感を覚えていた。
「千尋ちゃん? どうしたの、顔色が良くないみたいだけど……体調悪いの?」
一之瀬が心配そうに駆け寄ってきた。その瞳には、嘘偽りのない純粋な善意と気遣いが満ちている。
以前の千尋なら、その瞳に見つめられるだけで申し訳なさと愛おしさで押し潰されそうになっていた。
「ううん……大丈夫だよ、帆波ちゃん。ちょっと寝不足なだけだから」
「本当? 無理しちゃダメだよ。千尋ちゃんはただでさえ責任感が強いんだから、何かあったらすぐ私に頼ってね?」
優しく肩を叩き、微笑みかけて去っていく一之瀬。
その背中を見送りながら、千尋は口元を歪めた。
(一之瀬さんは何も分かってない。みんなの『太陽』でいることに酔って、私の本当の苦しみなんて結局一度も救ってくれなかった……。私を本当に救ってくれたのは、栞ちゃんだけ……)
千尋はジャージのポケットの上から、自らの胸元をギュッと握りしめる。
そこには昨夜、栞の指先と唇が触れた熱い感触が、今も焼印のように残っていた。
自分はもう、Bクラスの白波千尋ではない。常盤栞の犬であり、奴隷だ。
キーカードの写真を自ら撮らせ、クラスを裏切る誓いを立てた。その「取り返しのつかない決定的な背徳」が、千尋の壊れた心に甘美な安らぎを与えていた。
(私は裏切り者……栞ちゃんの忠実な奴隷……。Bクラスがどうなったっていい。一之瀬さんたちが絶望して泣き叫ぶ顔を……早く栞ちゃんに見せてあげたいな……)
一之瀬たちの優しい言葉を笑顔で受け流しながら、千尋の心は既に甘い毒の深海へと、しっかり浸かり込んでいた。
※
自らを警戒しているであろう綾小路が、堀北に連れられて他クラスの偵察に行ったのを見届けた後、栞はタイミングを見計らって周囲に誰もいない森の奥へと足を踏み入れ、木漏れ日が差し込む岩陰に腰を下ろした。
ジャージのポケットから取り出した端末の画面には、昨夜千尋の手で掲げられた「Bクラスのキーカード」の鮮明な写真が浮かび上がっている。
(この写真、どう使おうかな……)
栞の脳裏に、ふっと特定の男子生徒の顔が浮かんだ。
すでに自分の甘い毒にすっかり魅了され、自分を盲信している「あの子」。
(この特別試験の勝ち負けなんて正直どうでもいいけれど……誰かを手のひらの上で光へと押し上げて、英雄にしてあげるのも面白いかもしれない。私にすがりついてしか息ができないように、もっと深く、甘く、縛り付けてあげるために……)
詳しくはまだ誰かに話す必要も、焦ってカードを切る必要もない。
ただ、千尋から奪ったこの「完璧な毒針」があれば、どのクラスも、誰かの運命も、自分の指先ひとつでどうとでも書き換えられるだろうという憶測だけが、栞の胸を甘い愉悦で満たしていた。
「ふふ……あははっ……」
無人島の静かな森に、可憐な少女の小さな嘲笑が溶けていく。
自らの手で仕掛けた毒が、静かに、しかし着実に生徒たちを侵食し始めていた。
手元の端末には、昨夜の甘い毒によって完全に自我を打ち砕かれ、羞恥と依存に身を委ねた千尋の姿が鮮明に映し出されている。
その画面を愛おしそうに弄びながら、常盤栞は可憐な笑みを絶やさぬまま、次なる甘美な戯れの筋書きを思い描いていた。
白波ちゃんは可愛いですね……!
無人島試験の1位はどのクラスになると思いますか?
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Aクラス
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Bクラス
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Cクラス
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Dクラス