最も恐ろしい敵は、優しさの面を被って現れる。   作:五日市 律

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船上特別試験までは書き切りたいので初投稿です。


『真の密約は言葉ではなく、互いを見透かす瞳で交わされる。』

 

 

 

特別試験3日目、早朝。

無人島の夜明けは早い。森を満たす朝もやの中に太陽の光が差し込み、草葉に宿った露をきらきらと輝かせていた。

 

Dクラスの拠点では、朝食の準備が始まっていた。

簡易的なかまどの周りでは女子生徒たちが集まって、試験ポイントで購入したり前日に採集した食材での調理を進めている。

 

「う〜ん……やっぱり薪で火を維持するのって大変だね……! おしゃれなキャンプとは全然違うじゃん〜」

 

明るく髪をなびかせながら、佐藤が火の粉を避けるように小さく手で顔を覆った。

その隣で、手際よく包丁代わりのナイフで食材を切り分けているのは松下だ。

 

「まあ、無人島だからね。でも、ちゃんと温かいスープが作れそうなだけマシじゃない? 森さん、そっちの水量大丈夫?」

「うん! 鍋に入れる分はちゃんと汲んできたよ。……最初は不安だったけど、なんだかんだみんなで協力できてるよね」

 

森が川から汲んできた水を鍋に注ぎながら、ふうと安堵の息をついた。

初日の不穏な空気とは異なり、ルールや役割分担が定まってきたことで、Dクラスの雰囲気は少しずつ安定を見せていた。

 

そんな女子たちの輪の中で、栞もおとなしく野菜を洗う作業を手伝っていた。

 

(……佐藤さんに松下さん、森さん。みんな試験や自分のグループ、自身の関心事で心が満たされている。大きな『傷口』もないし、私が今、わざわざ手を出す必要はないね)

 

栞の冷徹で鋭い観察眼が、さりげなく三人の様子を分析していた。

彼女は誰彼構わず甘い毒を撒き散らすわけではない。

例えば、Dクラス内で綾小路への恋心に心を奪われている佐倉愛里のような存在や、あるいはAクラスで何かに異常な執着を燃やしていると見られる、葛城派と相対している坂柳有栖のような人物。そうした「すでに何かに強く囚われ、心が埋まっている者」には、わざわざ優先しては接触しに行かない。依存の隙間がなく、大きな傷口もない人間にちょっかいを出すのは効率が悪く、目立ってしまうリスクがあるからだ。

 

佐藤や松下のように、現状に相応の不満を持ちつつも自分の足で立ち、クラスの安定に安堵している生徒たちも同様だ。……もっとも、後者に関しては少しばかり興味があるが。

 

「……あ、みんなのスープ用の器、向こうの食器置き場から持ってくるね」

 

栞は控えめな声でそう言うと、少し離れた食器置き場の方へと歩き出した。

その華奢な後ろ姿を見送りながら、森が少し手元を止め、小さく口を尖らせる。

 

「……ねえ、常盤さんって、なんかちょっと鈍臭くない? 野菜洗うのもすごくスローペースだし、正直あんまり手際良くないよね」

 

ポツリと漏らされた森の陰口に、松下は苦笑いを浮かべて苦言も肯定も挟まない立ち位置を取ったが、佐藤はすぐにパッと顔を上げて森を制した。

 

「ちょっと、森ちゃん! そんなこと言わなくていいじゃん。栞ちゃん、力仕事が得意なわけじゃないのに、嫌な顔一つしないで一生懸命手伝ってくれてるんだからさ。大人しくて可愛いし、私、栞ちゃんのこと結構好きだよ?」

「え〜、まあ……意地悪でやってるわけじゃないのは分かってるけどさ」

 

佐藤に毅然と庇われたことで、森もそれ以上は追求せず、「悪気はないんだけどね」と気まずそうにスープの鍋に視線を戻した。

 

悪目立ちせず、周囲から「おとなしくて少し頼りない、害のない存在」として扱われること。そして佐藤のように勝手に親近感や庇護欲を抱いてくれる人間を作っておくこと。それこそが、栞の「完璧な日常の背景」としての護身術だった。

 

食器置き場から器を持って戻ってきた栞は、何事もなかったかのように可憐な笑みを浮かべ、スープの入ったマグカップを手にする。

 

 

 

そんな調理場のすぐ近くで、爽やかな笑顔を浮かべながら男子生徒たちに指示を出している平田がいた。

 

試験当初に漂っていた焦燥感は影を潜め、クラスの安定とともに彼のメンタルも着実に回復傾向にあるように見える。

 

(……平田くん、心が落ち着いてきたみたい。うん、良い傾向だね)

 

栞は静かに平田の方へと歩み寄った。

 

栞にとって、平田の心が回復しているのは決して悪いことではない。むしろ、前向きに自分を信頼してくれている状態のほうが、より自然に、誰にも疑われずに彼の意思決定に「そっと寄り添う」ことができるからだ。

 

一之瀬に恋い焦がれ、申し訳なさと無力感に苛まれていた白波千尋。

葛城の影であまり評価されず、優越感と承認欲求を拗らせている戸塚弥彦。

そして、クラスの平和を強く望み、自分の優しさに全幅の信頼を寄せてくれる平田洋介。

 

相手の感情の機微を見逃さず、求める言葉と安らぎを与えて自分の不可欠な存在にしていく。それが栞の「お仕事」の流儀だった。

 

「平田くん、温かいスープ淹れたよ。いつもクラスのためにありがとうね」

「あ、常盤さん。ありがとう、助かるよ」

 

平田は心からの感謝を込めてマグカップを受け取り、穏やかに目を細めた。

 

「ううん。平田くんが頑張ってくれているおかげで、みんなすごく安心してるみたい。……でも、無理だけはしないでね? 私はいつだって、平田くんの味方なんだから」

「ふふ、分かってるよ。常盤さんがそう言ってくれると、本当に心強いな」

 

平田の優しさと安らぎに満ちた表情。

その背後で、彼を繋ぎ止める信頼という名の不可視の糸がより強固になったことを確かめると、栞は満足げに可憐な笑みを残してその場を離れた。

 

 

 

——その去り際、少し離れた女子グループの輪から二人のやり取りをじっと見つめている視線があった。

 

軽井沢恵だ。

 

普段なら自分の周囲の女子とお喋りに花を咲かせているはずの彼女だったが、今は手元を止め、どこか不可解なものを見るような訝しげな瞳をこちらに向けている。

平田が栞に見せたあまりにも無防備で穏やかな表情と、そこにすっと溶け込んでいる栞の姿。

軽井沢は怪しむように眉をひそめ、腕を組んだまま、去っていく栞の華奢な背中をしばらく鋭い視線で追いかけていた。やがて、解せないといった様子で小さく息を吐くと、不満げに視線を逸らした。

 

(……ふふ。やっぱり軽井沢ちゃんは、勘が鋭いね)

 

背後に突き刺さる軽井沢の視線を肌で感じ取りながら、栞は誰にも気づかれないよう、胸の奥で愉悦の笑みを深めた。

 

軽井沢が抱いた小さな疑念や不信感など、今の平田には届かない。むしろ軽井沢が彼女として騒げば騒ぐほど、平田は『無害で優しい栞』を庇い、彼女との間に溝を作っていくことになるのだから。

 

 

 

 

 

 

朝食が終わると、Dクラスの拠点には今日の方針を決めるための短いミーティングの時間が訪れた。

 

「それじゃあ、今日も各自の役割分担通りに探索と拠点の維持を進めよう。何か体調に異変があったら、無理をしないですぐに教えてほしい」

 

平田が全体に向かって朗らかに呼びかけると、女子生徒たちを中心に「は~い!」と良い返事が返ってくる。男子生徒からも何人かが「おう!」と返している様子もあった。

クラスの士気は上々で、表面上は何の問題もないように見える。

 

——だが、その輪から少し離れた木陰で、一人ぽつんと地面に座り込んでいる少女がいた。

Cクラスの伊吹だ。

 

初日の夜、女子テントで「大木の枝の下の隠し場所」をピンポイントで示唆されて以来、伊吹の警戒心は極限状態に達していた。

キーカードを持つリーダーを探るため、Dクラスの生徒たちが自分に注意を向けていない隙を窺いつつも、彼女の視線は無意識に栞の姿を追いかけてしまっている。

 

(あの女……なんなんだよ。ただの偶然か……? いや、絶対に分かってて言ったんだ……っ)

 

まだ打撲痕の残る顔を歪め、膝を抱え込みながら牙を剥く野良猫のように身を硬くする伊吹。

龍園の粗暴な支配に不快感を示しながらも、クラスが上に上がるために必要だと自らを言い聞かせてきた彼女にとって、栞の見返りを求めない異質な優しさは不気味な底知れなさがあった。

 

(……ふふ、可憐で可愛い野良猫さん。すごく良い表情してる)

 

集団の輪の中に溶け込みながら、栞はチラリと伊吹へ視線を滑らせ、胸の奥で甘い歓喜を踊らせた。

 

栞にとって伊吹を糾弾して追放することなど、少し頑張れば造作もない。だがそれではあまりにもつまらないのだ。

龍園から送り込まれたこの刺客が、怯えながらも必死に役割を果たそうと暗躍する。その存在こそが、のちにDクラスを揺さぶり、平田やクラスメイトの心を内側から壊していく最高の劇薬になる。

 

(焦らして、追い詰めて……私の与える『居場所』がなければ息もできないくらいに包み込んであげないとね)

 

栞は手元にあった未開封のミネラルウォーターと、畳まれた清潔なタオル、昨日採ったいくつかの野いちごを手に取ると、一切の無駄のない足取りで伊吹の方へと歩み寄った。

 

「……ッ!」

 

近づく気配に気づいた伊吹が、弾かれたように顔を上げる。

周囲に悟られないよう抑え気味ではあるが、その瞳には刺すような殺気と激しい動揺が混ざり合っていた。

 

「……何の用だ。あっち行けよ」

 

噛みつくような伊吹の拒絶。

けれど栞は怯える素振りすら見せず、小悪魔のような愛くるしい笑みを湛えて、その場にすっとしゃがみ込んだ。

 

「ごめんね、怖がらせちゃって。……これ、良かったら使って? 朝露で少し冷えるでしょう?」

 

目線を伊吹よりも低く合わせ、水とタオル、野いちごの入った紙皿をそっと差し出す。

伊吹は唇を噛み締め、差し出されたボトルを睨みつけた。

 

「……いらないって言っただろ。白々しいマネすんな」

「ううん、白々しくなんてないよ。……だって私、伊吹さんのことすごく気になっちゃってるんだもん」

 

栞は柔らかい声で囁くと、伊吹の手元へゆっくりと顔を近づけた。

触れ合いそうな至近距離で甘い吐息を吹きかけながら、伊吹の固く握られた右手の甲へ、自分の細い指先を這わせる。

 

「……っ!?」

 

伊吹の背筋に、初日の夜と同じ冷たい悪寒が駆け抜ける。

栞のしっとりと熱を帯びた指先は、拒絶するように強張る手首の裏をなぞり、浮き出た脈動を愛おしむように確かめた。そのまま滑らせるようにジャージの袖口をゆっくりと押し上げ、露出した柔らかい肌と、そこに残る痛々しい傷跡へとなで回すように指を滑らせていく。

傷口の輪郭を優しく撫で上げ、熱い吐息を吹きかけるようなあからさまな撫で回し。

まるで『いつでもこの傷口を抉り潰せるよ?』とでも言いたげな、甘く濡れた歪んだ優しさに、伊吹の肌にはざわつくような鳥肌が立ちあがった。

 

「……ここに置くね。無理に話さなくていいから……ちゃんと休んでね、澪ちゃん」

 

『伊吹さん』から『澪ちゃん』へ。

急に距離を詰めた甘い親愛の毒を耳元に残し、焦らすようにすっと身を引く。

 

与えられた恐ろしいほどの理解と、甘いお預け。

伊吹は息を呑み、金縛りに遭ったかのように置かれた水と栞の去り際を見つめることしかできなかった。

 

(ふふ……あはは、本当にかわいい。あんなに尖っているのに、少し触れただけであんなに肩を揺らして……)

 

背後で伊吹が混乱と恐怖に苛まれている気配を感じながら、栞はうっとりとその瞳の奥の濃い愉悦をさらに深めた。

 

手中に収めようと糸を少し引くだけで、周囲の人間が滑稽なほど自分に翻弄されていく。その無防備さを愛でることこそが、彼女の歪んだ胸を満たす最高の快楽だった。

 

(大丈夫だよ、澪ちゃん。あなたの『役目』が終わったら……ちゃんと私が、傷ついたあなたを抱きしめてあげて『本当の居場所』になってあげるからね……ふふ、楽しみだな)

 

 

 

 

 

 

ミーティングが終わり、生徒たちが各自の担当場所へと散っていく中、栞は離れた木陰で静かに立ち尽くしている堀北へ視線を向けた。

 

堀北は一本の太い幹に背を預け、誰にも見られないよう手で額を覆っている。

浅く荒い息。強がりで塗り固められた肩はかすかに震えており、高熱による苦痛が彼女の身体を少しずつ、確実に蝕んでいた。

 

(……ふふ。本当に、可哀想なくらい頑なな女の子)

 

栞は小さく息を吐くと、手元に残っていたもう一本の冷えたミネラルウォーターを手に、足音を殺して堀北の隣へと歩み寄った。

 

「……堀北さん」

「っ!?」

 

不意に名前を呼ばれ、堀北は弾かれたように顔を上げた。

一瞬見せた弱々しい表情を瞬時に消し去り、いつもの冷徹で鋭い眼光を栞に向ける。だが、その瞳は熱で微かに潤み、焦点を合わせるのに一瞬の遅れが生じていた。

 

「……常盤さん。何の用かしら。私は今、次のスポット占有へのルートを考えるので忙しいのだけれど」

 

強張った声で威嚇する堀北。自分の弱みを一切見せまいとする強い自尊心が、その言葉に刺を生ませている。

けれど、栞はそんな刺々しい態度にも嫌な顔一つせず、どこまでも心配そうに眉をひそめて首を横に振った。

 

「ううん、邪魔するつもりはないの。ただ……見間違えかもしれないけど、すごく顔色が辛そうだったから。これ、少し冷たい水なんだけど、良かったら飲んで?」

 

差し出されたボトル。

堀北はそれを一瞥すると、冷ややかに鼻で笑ってみせた。

 

「余計なお世話よ。私の体調に何の問題もないわ。そんなことより、あなたはあのCクラスの伊吹さんに気を取られすぎているんじゃないかしら。彼女がスパイである可能性を捨てきれない以上、甘い態度は命取りになるわ」

「……そう……だよね。堀北さんは、いつもクラスのことを一番に考えてくれてるもんね」

 

栞は咎めることもなく、むしろ堀北の強がりを丸ごと受け止めるように優しく微笑んだ。

そして、ボトルを持ったままゆっくりと堀北との距離を詰める。

 

「……常盤さん?」

「いつも一人で頑張って、クラスを助けてくれてありがとう。それこそ、中間テストや須藤くんの事件の時とかね。でもね……辛いときは無理しちゃダメだよ? 頼りにならないかもしれないけど、私でよければいつでも話を聞くから」

 

耳元で囁くような甘く柔らかい声。

栞は細く華奢な指先を伸ばすと、堀北の首筋へと滑らせた。

汗ばんだ肌に触れる栞の指先は、ぞっとするほど冷たく、そして心地よかった。

 

「あ……」

 

熱に浮かされた肌に伝わる冷涼感に、堀北は思わず小さく息を呑む。

栞の指先は、脈打つ頸動脈のあたりを慈しむように優しく撫で上げ、そのまま首筋の体温を確かめるように静かに留まった。

 

拒絶しなければいけない。甘えてはいけない。

そう思考では理解していても、限界を迎えた身体は栞の与える不自然なほどの「優しさと冷たさ」に抗うことができず、堀北は一瞬間、身を委ねるように瞳を細めてしまった。

 

「ふふ、熱いね……無理しちゃ、嫌だよ?」

 

指先をそっと離し、栞は可憐に小首を傾げた。

与えられた一瞬の安らぎと、あからさまな「熱への指摘」。

堀北は自分が一瞬落ちかけたことに強い羞恥と恐怖を覚え、激しく呼吸を乱しながら栞から距離を取った。

 

「……無駄な心配は無用と言っているでしょう。さっさと行きなさい」

「うん、ごめんなさい。……お仕事、頑張ってね」

 

罪のない可憐な笑みを浮かべ、栞は静かにその場を立ち去った。

背後で、自尊心を保とうと必死に荒い息を整える堀北の気配を感じながら、栞の胸の奥には濃密な快感が広がっていく。

 

(誰も頼れない孤高の……いや、孤独の優等生さん。……もうすぐだね。そのプライドが粉々に砕けて、誰かに縋らずにはいられなくなる瞬間が、本当に楽しみ……)

 

 

 

 

 

 

正午過ぎ。太陽が高く昇り、森の中の湿気と熱気がピークに達する時間帯。

栞は夕飯用の薪集めという名目で、拠点から遠く離れた林の奥へと足を踏み入れていた。

 

周囲に人の気配はない。鬱蒼と茂る樹木が光を遮り、静寂が支配する空間。

その大きな木の陰から、足音もなく一人の男の姿が現れた。

 

綾小路だ。

 

無表情な瞳で栞を見つめる綾小路。栞もまた、いつもの可憐な仮面を少しだけ緩め、静かな笑みをたたえて彼と向き合った。

 

「ふふ……やっぱり来てくれたんだね、綾小路くん」

「食料探索の担当エリアがこの付近だったからな。……それで、何の用だ? わざわざ人目のない場所を指定してくるくらいだ。世間話というわけでもないだろう」

 

抑揚のない淡々とした声。

綾小路の言葉に、栞はくすくすと嬉しそうに喉を鳴らした。

 

「相変わらず冷たいなぁ。でも、そういう無駄のないところ、嫌いじゃないよ」

 

栞はゆっくりと歩み寄り、綾小路との距離を縮めた。

他者に見せる「守ってあげたい可憐な少女」の雰囲気は影を潜め、その瞳には底知れない闇と甘ったるい毒が揺らめいている。

 

「ねえ、綾小路くん。この特別試験……あなたは最終的に、どういう形で終わらせるつもりなの?」

 

単刀直入な探り。

栞の問いかけに、綾小路は眉一つ動かさず、ただ静かに彼女の瞳を見返した。

 

「どういう形、とはどういう意味だ。オレはただ、提示された特別試験のルールに従って、クラスの一員として試験を乗り切ろうとしているだけだ」

「ふふ、嘘をつくのが下手だね。ううん、嘘をつく気すらないのかな?」

 

栞は小悪魔のように可憐に微笑み、つま先立ちになって綾小路の顔へと顔を寄せた。

触れ合いそうな至近距離。熱を帯びた吐息が綾小路の首筋をくすぐる。

 

「Bクラスは順調そうに見えてそのうち『お守り』によって追い詰められるし、Aクラスも盤石の態勢で他クラスを迎え撃とうとしている。……そしてCクラスは、伊吹さんという劇薬をウチのクラスに放り込んできた」

 

栞の細い指先が、綾小路の制服の襟元へそっと伸びる。

布地越しに彼の胸元を撫で下ろしながら、栞は甘く毒を含んだ声で囁いた。

 

「各クラスの思惑がぐちゃぐちゃに交差して、みんなが必死に糸を引っ張り合ってる。……でもね、その全ての糸の結び目を、あなたはずっと特等席で見物してるでしょう?」

「買い被りすぎだ。オレにそんな大層な策はない」

「そう? なら……もし私がこの糸を弄んで、Dクラスを一寸先も見えないどん底に落としたらどうする?」

 

栞の指先が、綾小路の胸元でピタリと止まる。

彼女の瞳に宿るのは、純粋な悪意ではなく、相手の反応を心から愉しもうとする歪んだ愛着と知的な好奇心だ。

 

綾小路は栞の指先を拒絶することもせず、ただ平然とした態度で言葉を返した。

 

「お前が何をやろうと自由だ。だが……堀北が倒れ、平田が崩れれば、Dクラスが支払う代償は大きくなる。お前自身の『完璧な背景』という立場も脅かされることになるぞ」

「ふふっ……さすが綾小路くん。私のこと、本当によく分かってくれてるんだね」

 

栞は弾けたように可憐に笑うと、ぱっと指先を胸から引いた。

綾小路は、栞が「目立つこと」を極力避け、自分自身の安全圏を確保しながら他人の心を弄んでいることを正確に捉えている。そのフラットな理解が、栞にとってはたまらなく愛おしく、刺激的だった。

 

「安心していいよ。私はただこの箱庭を壊して、無残な瓦礫の山を作りたいわけじゃないの。……スポットライトを浴びた主役たちが舞台の上で踊り疲れて倒れていくのを、一番綺麗な特等席で見届けたいだけ」

「……戯曲の観客、というわけか」

「そう。でも、ただ観ているだけじゃつまらないでしょう? 幕が下りるその瞬間に、みんながどんな顔で幕間を迎えるのか……それを少しだけ、私好みに彩ってあげるの」

 

栞は両手を胸の前で軽く組み、愛おしい宝物を慈しむようにうっとりと目を細めた。

 

「目に見える明確な敗北の絶望なんて、このクラスにはあまりに単純で美しくない。……本当に甘くて深い毒はね、すべてが終わったと誰もが息を吐く、その一瞬の隙間に静かに染み込んでいくものなの。暗闇の中で差し伸ばされた私の手に、気づかぬうちに縋りついてしまう……そんな微かなさえずりこそが、私の欲しい一番のごちそうなの」

 

言葉の核心を煙に巻きながらも、背筋が寒くなるような甘美な企みを覗かせる栞。

何ひとつ手の内を明かさぬまま、ただ訪れる結末の「余韻」だけを慈しむように語るその姿は、恐ろしいほどに可憐で、美しかった。

 

「だから……ねえ、綾小路くん。あなたも私の描くシナリオを、特等席で静かに一緒に観ていてね? 舞台の邪魔をされるのは、劇作家として悲しいから」

 

甘い提案。だが、その言葉にはどこか甘えるような、自分と同じ領域に立つ男への密やかな共犯意識と執着が滲んでいた。

綾小路は小さく息を吐くと、静かに栞から目を逸らした。

 

「好きにしろ。……オレの平穏を侵さない限りは……黙認する」

「ふふ、約束だよ?」

 

栞は満足げに微笑むと、何事もなかったかのように可憐な少女の顔に戻り、くるりと背を向けた。

 

「じゃあ、怪しまれちゃうから私は薪集めに戻るね。またね、綾小路くん」

 

甘い余韻を残して去っていく栞の後ろ姿。

綾小路は遠ざかる彼女の背中を静かに見送りながら、心の内で小さく呟いた。

 

(常盤栞……恐ろしい毒を持った女だが、その毒すらも利用価値はある)

 

 

 

静寂を取り戻した森の中で、二人による暗黙の取引が、密やかに結ばれた瞬間だった。

 

 

 




……おかしい、原作主人公の機械化が進行している気がする……。

無人島試験の1位はどのクラスになると思いますか?

  • Aクラス
  • Bクラス
  • Cクラス
  • Dクラス
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