最も恐ろしい敵は、優しさの面を被って現れる。   作:五日市 律

8 / 9
原作主人公の機械化が進行している気がするので初投稿です。


『偽りの光から逃れ、少女は甘美な悪意に身を捧ぐ。』

 

 

 

息苦しい。

 

テントの薄布一枚を隔てた外から、微かに波の音が聞こえてくるというのに、この空間に充満している空気は、それとは比較にならないほど澱んでいて重い。

 

一之瀬帆波という名の眩しすぎる光の周りに群がり、その温もりだけに頼って思考を止めているBクラスの面々。その光景を目にするたび、私の胸の奥には冷たい不快感と、どうしようもない焦りがこみ上げてくる。

 

『誰も見捨てない』『みんなで助け合って、無事にこの試験を乗り切ろう』

 

そんな綺麗な言葉を並べて、この学校の厳しさから目を背けているだけじゃないか。傷つくリスクから逃げ、互いを甘やかし合っているだけの生ぬるい空間。

けれど、誰もその甘さに気づかないし、気づこうともしない。現実を見ようとせず、五月のCクラスの嫌がらせにやられっぱなしだった時のように、傷をなめ合っているだけの空間に身を置いていると、私の正気まで少しずつ狂わされていくような拒絶感を覚える。

 

こんな綺麗事と絆ごっこだけで、激しい特別試験、そしてその先のクラス間競争を勝ち抜いていけるわけがない。優しさという麻薬に酔いしれたまま、このクラスは遠からず限界を迎えて崩壊するんじゃないか――そんな冷めた予感と不快感が、私の胸にずっとへばりついて離れない。

 

――最近、一之瀬によく懐いていた白波の様子がおかしい。

本来なら、クラスの誰よりも一之瀬を全幅の信頼で愛し、その『太陽』のような光に依存していたはずのあいつだ。6月に一之瀬に告白したという噂もあったし、気まずくなりながらも今までの信頼からリーダーという重荷を背負い、一之瀬の期待に応えようと必死に余裕を失っていくならまだ理解できる。

 

なのに、最近の白波、特に特別試験2日目以降の彼女は何処か気味が悪いほど静かで、そして……決定的に何かが狂っている。

 

一之瀬を見つめるその瞳は、以前のような純粋な崇拝ではなく、どこか焦点の合わない虚ろな熱と冷たさを同時に孕んでいる。自分の内側にある歪んだ満足感や、得体の知れない陶酔に浸っているような……そんな底知れぬ気味の悪さを纏っているのだ。

 

一番一之瀬を好きだったはずのあいつが、一番一之瀬から遠い場所に精神を置いているような異質さ。

 

周りの連中は「千尋ちゃんは成長しているんだね」なんておめでたい顔で白波を褒め、その致命的な違和感にすら気づいていない。クラス全体が崩壊へと向かって足元から揺らいでいるような危うさを抱えているのに、誰もその異変を疑おうともしない。あんな不自然な空間にずっと閉じ込められていたら、私まで客観的な思考を失って、いつかあの気味の悪い人形たちと同類になってしまうだろう。

 

寒気すら覚える。

私の中に広がるのは、他者への絶望と、どうしようもないほどの退屈、そして底知れない孤独感だった。

誰も私の本音なんて理解してくれない。私がどれだけ一之瀬たちの綺麗事を軽蔑し、この空間に息苦しさを感じていようとも、それを表に出せば「ひねくれ者」「協調性のない奴」として排斥されるか、あるいはあの過剰な善意の波で押しつぶされるかのどちらかだ。

 

誰にも言えない。誰にも見せられない。

私のこの冷めきった猜疑心も、歪んだ思考も、すべてを隠して、冷ややかな仮面を被り続けなければここにいられない。

 

 

 

――そんな時だった。

あの時、暗闇の中でそっと私に手を差し伸べてくれたのは。

 

 

 

一之瀬の光でも、クラスの仲間たちの連帯でもなく、もっとドス黒くて、もっと冷たくて、けれど不思議なほど心地よい毒を持った少女。

 

――常盤栞。

 

 

 

彼女だけは違った。

私の冷めた視線を「ユキちゃんは賢いね」と肯定し、一之瀬たちの偽善を「退屈だね」と笑い飛ばしてくれた。

「無理に笑わなくていいよ」「無理になれ合わなくていいよ」と、私が心の奥底で求めていた甘い諦めと、全肯定の居場所をくれたのは、今は協力関係にあるとはいえ、敵でありライバルのDクラス所属――あの緑髪の少女だった。

 

 

 

彼女と秘密裏に連絡を取り合うようになってから、私の日常は奇妙な彩りを帯び始めた。

一之瀬たちの理想郷がいかに空虚で、脆弱な砂の城であるかが手に取るようにわかる。そして、それを裏で巧みに操って遊ぼうとしている栞の底知れない、悪意と毒と計算の美しさに、私はいつしか抗いがたいほどの魅力を感じるようになっていた。

 

怖いとは思わない。

むしろ、この息の詰まる世界を壊してくれるなら、どんな手でも使ってくれていい。

私が軽蔑するすべてのものを、あの少女が鮮やかに踏みにじってくれるのなら、私は喜んでその盤上の駒になってもいい。

 

いや、むしろ――もっと深く、彼女に汚されたいとすら思っている。

 

 

 

テントの隅で、私はそっと息を殺して周囲の様子を伺う。

私は布団の隙間に手を入れて光を隠しながら、ジャージのポケットからPHS端末を抜き取ると、画面の明かりを慎重に遮って素早くメッセージを打ち込んだ。

 

返信を待たず電源を切ると画面の光が消え、胸の奥で冷たい高揚感が広がる。

誰も私の気配に気づいていない。疲労困憊で眠りこけている愚鈍な仲間たち。その隙間を縫うようにして、私はそっと寝床から身を起こした。

体調不良を装うための言い訳なんていくらでも作れる。この息苦しい牢獄から抜け出し、あの静寂の森へ向かうための理由など、どうとでも作れる。

 

闇に紛れ、私は音もなくテントのファスナーに手をかけた。

 

 

 

……その、瞬間だった。

 

 

 

背後から刺さる視線に、ぞくっと首筋の毛羽が立つ。

振り返ると、暗闇の中で白波がゆっくりと体を起こしていた。

 

 

 

ぐっすりと眠っているはずの他の女子生徒たちの中で、あいつだけが完璧に意識を保っていた。

視線の先にある暗闇の中で——白波は、私に向かって静かに口元を歪め、妖しく不気味な笑みを浮かべていたのだ。

 

自分のクラスを裏切り、秘密の密会へ向かおうとする私を咎めるでもなく、止めようとするでもない。

ただ、すべてを察し、見透かし、あいつ自身が既に毒の深海に沈み切っていることを誇るかのような……甘く恍惚とした、されど冷ややかな微笑み。

 

(……気味が悪すぎる……っ)

 

私は冷や汗をかきながら、白波から弾かれたように目を逸らし、逃げるようにテントの隙間から夜の闇へと滑り出した。

 

行かなくてはならない。

あの一面的な光に満ちた偽りの空間から離れ、私を本当の意味で「救い出してくれる」――あの冷たくて甘い毒の待つ場所へ。

 

 

 

※

 

 

 

静まり返った無人島に、湿った夜風が吹き抜けていた。

3日目の日中は表面上、何の問題もなく過ぎ去った。Dクラスは平田を中心に順調に拠点を維持し、周辺のスポットを確保した。伊吹は周囲を警戒しながら潜伏を続け、堀北は熱を隠したまま意地で役割を果たし終えた。

 

だが、夜が深まり、女子テントの中で誰もが疲労から深い眠りに落ちた頃——栞は静かに身を起こした。

 

息を殺し、周りの生徒を起こさないよう静寂に紛れてテントのファスナーを押し開ける。暗闇に乗じて拠点をすっと抜け出した栞は、夜の森を足音もなく進んでいった。向かったのはBクラスの拠点に近い、鬱蒼と茂る樹木の陰だ。

 

そこには、大木の幹に背を預け、身を縮めながらPHS端末の画面を見つめている一人の少女がいた。

 

Bクラスの姫野ユキだ。

 

彼女もまた寝床を抜け出すことで、Bクラスの目を盗んでこの静寂の森へとやって来ていた。

 

「……遅いよ、常盤」

 

だるそうに肩を落とし、浅い溜息を吐く姫野。

いつもの冷めた瞳には微かな焦燥と、それ以上に「ここへ来なければ正気を保てなかった」と言わんばかりの強い依存の色が混ざり込んでいる。

 

一之瀬が掲げる「誰も見捨てない、みんなで協力する」という理想郷。

善意で塗り固められたその空間は、冷めた現実主義者である姫野にとって、夜の静寂の中でも呼吸が苦しくなるほどの息苦しさ。だからこそ、自分の本音を理解し、「無理に笑わなくていい」と甘く諦めさせてくれた栞の存在だけが、今の姫野にとっての唯一の酸素だった。

 

「ううん、気にしないでユキちゃん。抜け出すのに少し時間がかかっちゃって……ごめんね。連絡してくれて嬉しかったよ。……一之瀬さんの『仲良しごっこ』、やっぱり辛かった?」

 

栞は一切の拒絶も見せず、可憐で柔らかい笑みを浮かべながら姫野の隣へそっと寄り添った。

その声は、熱を持たない冷たい水のように、夜の暗闇の中で姫野の荒んだ心を静かに浸たしていく。

 

「……ほんと、吐き気がする。みんな一之瀬の言葉に酔っちゃってさ。……それに、見といてくれって頼まれた白波のやつもなんか不気味で気持ち悪いんだよね。一之瀬のことを誰よりも好きだったはずなのに、どこか虚ろな目で気味の悪い満足感に浸ってるような顔しててさ……。一之瀬も周りもそんな違和感にすら気づかないで『千尋ちゃんは偉いね』なんて称えてる。あんな気味の悪い空間にずっといたら、私まで頭がおかしくなりそう」

 

姫野は自分の腕を固く抱きしめ、不快感を隠そうともせずに吐き捨てた。

白波が見せ始めた「甘い中毒者のような薄気味悪い落ち着き」と、それに気づかずおめでたく共鳴し合うBクラス全体への拒絶。端末でのやり取りだけでは抑えきれなくなった不満と寂しさ。それらをすべて受け止めてもらうように、姫野はすがるような視線を栞へと向ける。

 

栞はくすくすと可愛らしく微笑むと、細く美しい指先を伸ばし、姫野の頬へ優しく触れた。

夜の冷気を含んだ指先から伝わる冷涼な触感に、姫野は思わず小さく息を呑み、逃げるどころか気持ちよさそうにその手に自ら頬を寄せた。

 

「……かわいそうに。ユキちゃんは凄く頭が良いから、周りの愚かさが目について余計に疲れちゃうんだね。大丈夫だよ……私がちゃんと、ユキちゃんの居場所になってあげるから」

「……常盤……」

「よしよし、頑張ったね。辛かったら、いつでもこうして甘えていいんだよ?」

 

栞は姫野の頭を抱き寄せ、その柔らかい髪を慈しむようにゆっくりとなで回した。

甘い体温と香りに包まれ、姫野の瞳からすっと緊張が抜けていく。栞の腕の中だけが、自分の偽りのない本音を晒せる唯一の聖域。気づいた時にはもう、姫野はこの毒のような安心感なしでは生きていけないほど、深く手中に収められていた。

 

十分に「可愛がり」、姫野の心が完全に解けた瞬間を見計らって、栞は甘い耳打ちをするように囁いた。

 

「ねえ、ユキちゃん。息詰まるBクラスの劇を観ているのに飽きたなら……ちょっと面白い『お仕事』を手伝ってくれないかな?」

「……お仕事?」

 

姫野が栞の胸の中から顔を上げ、不審そうに首を傾げる。

栞は悪戯が成功した少女のように可憐に微笑み、姫野の耳元へと顔を寄せた。

 

「うん。……Aクラスの葛城くんの右腕の戸塚弥彦くん、知ってるでしょう? 彼をね、今回の試験で最高の『英雄』にしてあげたいの」

「は……? 戸塚って、あの葛城の金魚フンみたいな奴? なんであんなのが英雄に……」

「ふふ、理由は知らなくていいよ。ユキちゃんにはね、後で連絡する指定したタイミングと場所で、『あること』をしてほしいの。そうすれば、一之瀬さんたちの『完璧な絶望』と、戸塚くんの『華々しい活躍』が綺麗に重なるから」

 

栞の言葉に潜む、底知れない冷徹さと計算。

普通ならば恐怖を覚えるはずの歪んだ提案に対し、毒に既に侵された姫野の心は、むしろ怪しい高揚感で満たされていった。

 

自分が陰ながら見下していた一之瀬たちの「偽善の居場所」が崩れていく。そして、それを裏で操っているのは、自分を抱きしめてくれているこの少女なのだという優越感。

 

「……私がそれをお手伝いしたら……常盤は、もっと私を可愛がってくれる?」

 

姫野の瞳に宿ったのは、正義でも野心でもなく、純粋な「栞への執着」だった。

栞はその欲しがるような瞳を愛おしそうに見つめ、「ユキ」の唇のすぐ近くに吐息を吹きかける。

 

「もちろん。ユキちゃんが私のために良い子にしてくれたら……試験が終わったあと、誰にも邪魔されない場所で、たっぷり甘やかしてあげる。……約束するね」

「……分かった。あんたの言う通りにする。……指示を頂戴」

 

迷いは完全に消え去っていた。

一之瀬の理想主義に背を向け、退屈と虚無に苛まれていた少女は、自ら進んで栞の盤上の駒となり、甘い毒の虜となって暗闇の中で秘密の契約を交わしたのだった。

 

「ふふ、良い子ね……ユキちゃん。……でもその前に……」

 

静まり返った夜の森で、また一つ、栞の張り巡らせた糸が確実に対象を締め上げていく。

 

「んっ……ぁ……常盤……っ」

 

湿り気のある夜風が吹く樹々の影で、熱を帯びた吐息が静かに漏れ出した。

栞が爪の先で胸元を触りつつ、ジャージのジッパーを少しずつ下げていく。

言葉のやり取りを終えてもなお、栞は離れようとはしなかった。気が付けば、ユキの背中は冷たくごつごつとした大木の幹へと、緩やかに押し付けられていた。

 

目の前にいる栞の細く柔らかい指先が、ジッパーを滑り降ろしたジャージの隙間から滑り込み、露わになった華奢な首筋から鎖骨の窪み、そして熱を孕んだ双丘へとゆっくりと這っていく。

触れられる先から伝わる甘い体温に、ユキの身躯が小刻みに痙攣するように跳ねた。夜風に晒された肌と、指先が接触する熱の対比に、頭の奥がじんわりと痺れていく。

 

「あ……ぁ、っ……」

「かわいいね、ユキちゃん。こんなに冷たい夜なのに、体がこんなに熱くなってる……。一之瀬さんたちのクダらない『仲良しごっこ』に付き合わされて、ずっと息が詰まりそうだったんでしょう? 誰もユキちゃんの本質を見てくれない場所で、一人でずっと寒がっていたんだもんね」

 

耳元へ唇を密着させられ、吐息を直接吹き込まれるたび、ユキの胸の奥で甘い痺れが広がっていく。

普段なら冷めた瞳で他者を突っぱねるはずの防壁が、栞の優しくも強引な追及の前に、みるみる崩壊していく。首を振って照れ隠しのように逃げようとするユキの顎を、栞の指先が優しく、けれど拒絶を許さない強さで持ち上げた。

 

「や……っ、言わないで……っ」

「隠さなくてもいいんだよ。ユキちゃんがどれだけ『クダらない』って冷めてみせても、本当は誰にも理解されない孤独に苛まれて、退屈で壊れそうになっていたこと……私には全部わかってたから。無理に強いフリなんてしなくていいんだよ」

 

逃げ場を失ったユキの瞳を捉えたのは、夜の闇よりも深い、栞の底知れない眼差しだった。

そこにあるのは憐憫と慈愛、そして静かに蠢く支配の熱。その美しくも恐ろしい瞳に見つめられるだけで、ユキの思考は白く染まり、抵抗する意志を完全に奪われていく。

 

栞の身体が、いっそう深くユキへと重ね合わされる。

薄い服の生地を挟んでも誤魔化せない胸元の柔らかさと、密着した太ももから伝わる熱量。栞の唇が、ユキの耳たぶから首筋、そして柔らかい双丘へと、甘い温度を押し当てるように滑り落ちていく。

 

「んぁ……っ……あ、とっ……栞……っ……そこ、は……っ!」

 

ユキの口から、抑えきれない艶っぽい悲鳴と吐息が溢れ出た。

今まで誰も立ち入らせなかった「冷めた防壁」が、栞の甘い追及と肌の接触によって、跡形もなく溶かされていく。熱い指先が背筋を撫で上げるたび、ユキは自ら背中を反らせ、栞の体温を貪るように求めてしまう。

 

「いいんだよ、もう強がらなくて。みんなに合わせて笑わなくてもいい……私といる時くらい、全部諦めて、楽になりなよ。私がユキちゃんの全部、受け止めてあげるから」

「あ……っ……私……もう、あんたがいないと……退屈で……狂いそう、かも……っ。一之瀬たちの顔を見るのも……あの白波の気味が悪い笑顔を見るのも、もう耐えられない……っ」

 

栞から与えられる密やかな体温と甘美な言葉に心が完全にほどかれ、ユキは潤んだ瞳のまま、自ら栞の首元へ細い腕を固く回した。

自分を退屈な現実から救い出し、真の本音を受け止めてくれた少女。この甘美な毒を与えてくれる相手になら、どんな秘密も、どんな悪事も差し出せる。指先を栞の服にきつく食い込ませ、これ以上離れないようにと全身で縋り付いた。

 

「お願い……私を、ここから連れ出して……っ。あんたの好きにしていいから……私を、もっと深く甘やかして……っ」

「ふふ、よく言えたね……本当に良い子、ユキちゃん」

 

栞は満足そうに口元を歪めると、すがるようにしがみつくユキの顎をすくい上げ、その熱い唇を逃がさない強さで優しく塞いだ。

吐息を直接流し込むように深く深く重ね合わされる口づけ。唇が離れるたび、密やかな余韻と細い銀の糸が夜の闇に消えていく。

 

「んっ……ぁ……っ、ふ……っ!」

 

夜風に晒された肌と、重なり合う互いの体温。

一之瀬の眩しすぎる光に背を向け、退屈な虚無を抱えていた少女は、自ら進んで栞の与える熱の中へと深く沈み込み、二度と解けない背徳の契約を結んだのだった。

 

 

 

※

 

 

 

重なり合った吐息が夜の冷気に溶け、しがみつくような熱がようやく引いていく。

ユキはまだ微かに身体を震わせながら、大木の幹に背をもたれかけ、荒い息を整えていた。ジッパーを上げ直す指先はおぼつなく、熱を持った首筋に夜風が触れるたび、ゾクゾクとした余韻が全身を駆け抜ける。

 

栞は優しくその手元を助け、ジャージの衿元を整えてやると、何事もなかったかのように可憐な笑みを浮かべて数歩下がった。

 

その完璧すぎる余裕と、どこまでも冷ややかでされど甘い眼差し。自分をここまで弄んでおきながら、一瞬で「普段の常盤栞」に戻ってみせる姿に、ユキは胸の奥をキュッと締め付けられるような焦燥感を覚える。

この少女の底知れなさに改めて呑まれそうになりながら、ユキは乱れた呼吸の合間に、ずっと胸に引っかかっていた疑問を口にした。

 

「……ねえ、栞」

「なぁに、ユキちゃん?」

 

首を少し傾げ、愛らしく微笑み返す栞。その瞳の奥には、やはり何の感情の揺らぎもうかがえない。その瞳に魅せられて、いつの間にか自身が栞を名前で呼んでいることにも気づかない。

 

「……白波のことなんだけど」

 

ユキは小さく息を吐き出し、テントを抜け出す直前に見た、あの不気味な光景を思い返して背筋を凍らせた。

 

「あいつ、最近絶対におかしい。一之瀬のことを誰よりも好きだったくせに……急にリーダーなんて任されて、焦るどころか、どこか虚ろで気味の悪い満足感に浸ってる。それに……さっきテントを抜け出す時、あいつ起きてた。私が出ようとした時……あの薄暗がりの中で、気持ち悪い笑顔で見送ってきたの」

 

自分の体に残る栞の体温を確かめるようにジャージの胸元を固く握りしめながら、ユキは縋るような目を栞に向けた。

 

「……白波にも、何かしたの? あいつのあの狂ったみたいな落ち着きも、栞……あんたが仕組んだことなの?」

 

一之瀬の理想主義とは明らかに異なる、白波が見せる異質な変質。

もしや、自分と同じように――あるいはもっと別の、歪んだ形で白波もまた栞の毒に侵されているのではないか。そんな嫌な予感と執着が、ユキの口から問いとなって漏れ出していた。

 

栞は一瞬だけ瞳を細めると、くすくすと鈴の鳴るような声で可愛らしく笑った。

そして、ゆっくりと歩み寄ると、不安に揺れるユキの顎を細い指先で優しく持ち上げ、秘密を共有するように唇を寄せた。

 

「ふふ、どう思う?」

「……栞……っ」

「……白波さんもね、ユキちゃんと同じだよ。一之瀬さんの大きすぎる『光』に押し潰されそうになって、自分の居場所を探していたの。だからちょっとだけ、彼女が一番欲しがっていた『救い』と『特別なお仕事』を与えてあげただけ」

 

指先でユキの唇を優しくなぞりながら、栞の瞳に深い支配の熱が宿る。

 

「でも、心配しなくていいよ。白波さんはただの使い捨ての『舞台装置』。ユキちゃんみたいに、こうして直接抱きしめて、甘やかしてあげたりなんてしないんだから」

「……っ……」

「……まぁ、今後白波さんがどうなろうと、ユキちゃんは私の言うことだけを聞いていればいいの。……ね?」

 

耳元で囁かれた密やかな答え。

白波もまた、既にこの少女の張り巡らせた蜘蛛の巣に絡め取られ、操り人形と化しているという決定的な事実。その悪意の深さに冷や汗が流れると同時に、ユキの胸は「自分だけが特別に愛でられている」という噓で塗り固められた甘美な優越感で満たされていく。

 

「……分かった。白波のことは、もう気にしない」

 

ユキは栞の指先に自ら頬を寄せ、完全に毒に冒された瞳で深く頷いた。

一之瀬たちの待つ偽りの寝床へ戻る恐怖は消え去り、ただ栞の描く破滅のシナリオに従うことだけを、心に誓うのだった。

 

 

 




手羽先って美味しいですね。

無人島試験の1位はどのクラスになると思いますか?

  • Aクラス
  • Bクラス
  • Cクラス
  • Dクラス
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。