魔法少女育成計画「青」 ―La Pucelle: Alive Chronicles 4― 作:神谷萌
5畳半の和室に入る。
部屋の窓はダンボールとアルミテープでガラス部分が塞がれ、さらにその内側が、黒く分厚い遮光カーテンで覆われている。
部屋の襖を閉めると、そちらも遮光カーテンで覆って、光が侵入しないようにする。
部屋の照明を消す。室内は見た目、真っ暗になっていた。
そこで、氷岡忍はディティック・ベルに変身する。
意識して眼の光感度を高める。米軍が使うGPNVG-18にも匹敵する暗視能力まで上げる。
これは魔法少女がもつ固有魔法ではなく、魔法少女に備わる身体能力のひとつをさらに研ぎ澄ませて、同時に、意図的に制御できるようにしたものだ。忍の本業の探偵で使える技能として、ベルが訓練してきたものだ。
本来は調査の最中、光の届かない場所でも現場を捜索し、証拠を回収する、といった活動ができるようにと会得した技だったが、銀塩フィルム写真を使うようになって、その現像にこの能力を使うようになった。
デジタルに対する銀塩フィルムカメラの最大のウィークポイントが、暗室作業を伴う現像処理が必要ということだ。特に、カラーフィルムのそれは、僅かな外光も許されないほどだ。
室内を見回し、隙間から光が漏れてきていないことを確認する。
眼の光感度の意識制御を解除する。視界の中は、色までは判別できないが、室内になにがあり、自分がどういう格好をして、何を持っているか、それらは普通に視覚として認識できる程度になった。
すでにAuto110から取り出した、Lomographyの110フィルムが手の中にある。現在でも割と銀塩写真フィルムとして知られている、所謂35mmフィルムのパトローネ(カートリッジ)と異なり、110フィルムのそれはカセットテープを思わせる2軸式になっている。
ベルはあぐらに近いラフな座り方で畳の上に座る。
手元には他に、銀塩写真フィルム現像用の「現像タンク」と呼ばれるものがあった。
カートリッジの裏紙を剥がす。Lomographyの110フィルムカートリッジはそうすることで、フィルムの一端が引き出せるようになる。
その一端を現像タンクのリールに巻きつけていく。
魔法少女の時間分解能で、手早く、ただし乱暴には扱わず。
最後にそっとカートリッジを切り離し、リールにフィルムを巻ききると、現像タンクの中にリールを収め、
それを確認してから、和室の照明を
現像タンクは遮光構造で、フィルムの装填されたリールを入れて閉めてしまえば、後はタンクが不意に開放されることに気をつけていれば感光することはない。
本来、現像作業には大量の水がいるため、普通、現像室にはキッチンのような水設備がある。だが、ここではそれは望めないため、タンクにフィルムを収めた後は、キッチンに移動して作業をすることにしていた。
即席暗室化した和室を出る。LDKも照明は消されていたが、本格的に遮光されているわけではないため、魔法少女の眼の光感度なら昼間と何も変わらないといっていいほどだった。
キッチンへの移動の最中、LDKの照明を点ける。
「…………」
ベルがキッチンに来ると、流し台に鍋が置いてあった。中には、研いで後は炊くだけの白米が、すでに水も測って準備されている。
ベルは、先にそれをガステーブルの標準バーナーの五徳の上に移す。それから、取っ手が取れた古い黄アルマイト鍋を流し台の中に置いた。
冷蔵庫を開け、さらにその中から密閉ケース2つを取り出す。密閉ケースの中に、粉末を水に溶かしてすぐに使用できる状態になっているCineStill Cs41 2液式現像キットの現像液、漂白定着液と、その他に希釈酢酸を取り出す。現像液は空気抜きができるベローズボトル、残りはオーソドックスなプラスチックボトルだ。それぞれのボトルを、一旦、鍋の中に入れておく。
一旦、脱衣所を通って浴室に向かう。
浴室の出入り口には、絵図入りで「一酸化炭素中毒による死亡の危険があります。ふろがま使用時は浴室外側の給気口を閉めないでください。浴室の扉は閉じておいてください」と書かれたアルミシールが貼られていた。
シールのとおりに換気口ガラリが開いていることを確認してから、パーパスTP-A36M風呂釜に向かう。ガス栓を開けて、器具栓ツマミに手をかける。のぞき窓を見ながら器具栓ツマミを回してまず“種火点火”まで進めると、バチン、と、圧電素子が叩かれる音がする。バチン、バチンと何度か繰り返し、のぞき窓の中でパイロットバーナーの小さな青い火が点いたのを確認してから、“シャワー・給湯”の位置まで進める。
浴室の扉を閉めてから、脱衣場を出てキッチンに立つ。
流し台に立って、2ハンドル水栓を開いて、入浴用には少し熱めの湯を出し、古い鍋に張る。
中古で購入した棒型の低温調理器を鍋の中に入れる。低温調理器のボディには黒いマジックペン ── 別に“魔法の国”製ではない ── で『現像用』と大きく書かれていた。電源を入れて、38℃を保つように設定する。
一拍置く。その間に、ガステーブルの、白米の炊飯が準備された鍋のかかっているバーナーの器具栓つまみを押し回して点火した後、“炊飯”ボタンを押した。ピッ、と音がする。
手元にスマートフォンを置いて、ロックを外し、時計アプリを起動して、カウントダウンタイマーにする。すでにセットしてある現像時間にする。
今度はかなりぬるく感じる程度のお湯を出して、一度現像タンク内にそれを注ぎ、タンクについている撹拌ノブを回して、軽く洗う程度でお湯を捨てる。
それから、もうひとつ、少し小さめの、やはりもう調理用としては使わないアルマイト鍋も流し台の中におく。
低温調理器が38℃になったことを示すまで待ってから、鍋からベローズボトルを取り出して、代わりにフィルムの入った現像タンクを入れる。
現像液のベローズボトルのキャップを開け、中身を現像タンクに注ぐ。注ぎきったところで、スマートフォンに手を伸ばしてタイマーのカウントダウンを開始させた。
ベローズボトルを閉じた後、撹拌ノブを回して、内部の液を均一化する。それを、数十秒ごとに数度繰り返す。
スマートフォンのカウントダウンタイマーがアラームを鳴らす。現像タンクから現像液をもうひとつの古鍋に移す。
CineStill Cs41はコダックC-41/フジCN-16互換現像キットだが、個人の自家現像向けにつくられた2液式だ。カラーネガフィルムの処理は通常、“現像”、“漂白”、“定着”の3行程で行われるが、2液式は漂白と定着をまとめて1液で行えるようにしたものだ。
ただ現像液はアルカリ性、漂白定着剤は酸性であるため、現像液を抜いた後すぐに漂白定着をはじめると、薬液の劣化が著しい。なので、この間に1.8%希釈の酢酸で一度フィルムやタンク内の現像液のアルカリ性を弱める“停止”行程を行うのを推奨だとする説明が多い。
その希釈酢酸を注いで、30秒の間ずっと撹拌する。これは終わったらそのまま捨てる。
そして、漂白定着液を現像タンクに注ぐ。
ここまでくれば、多少は気を抜いても大丈夫だ。
「ふぅ」
と、ベルは小さく開いた口から深く息を
「
「アラサー恐るべし」
とか、ランユウィやプリンセス・ライトニングあたりに言われそうだ。
一応9分のカウントダウンタイマーを仕掛けつつも、一度少し念入りに撹拌した後は、まず現像液をベローズボトルに戻す。現像液は品質管理が厳しいため、使い捨てを推奨する場合も多い。ベル、忍は完全な使い捨てではなかったが、キット内の漂白定着液1つに対して現像液は単品で3回分買い足す、つまり4:1になるように使っていた。
スマートフォンを手にとって、カウントダウンタイマーは作動させたまま、メモのアプリを起動して、現像液の管理メモにフィルム1本分の使用回数を足しておく。
温度ももうそこまでの厳密な管理はいらないので、低温調理器の電源を切って、古鍋から抜き、ざっと水洗いして片付ける。
現像液を戻した後の方の鍋を、少ししつこく水洗いしておく。
カウントダウンタイマーのアラーム音がなる。先程までとうってかわって緊張感のないのんびりさでそれを解除する。
現像タンクを持ち上げて、漂白定着液を現像タンクから抜く。そのまま、現像タンクを流し台の中に直接置いて、蛇口から流水を注ぐ。
漂白定着液をボトルに戻してから、薬液類のボトルをまとめて冷蔵庫に戻す。
現像タンクが浸かっていた方の古鍋のぬるま湯を捨てて、ざっと水洗いしてから、水をそちらに貯めはじめる。現像タンクを開けてフィルムリールを取り出して鍋の水に浸ける。流水でフィルムをしばらく洗った後、水から上げたリールを2分割状態にして、出来上がったネガを手に取り、現像できているかだけざっと確認する。ネガの1端に捲くれ防止の錘をとりつけ、フィルム用ハンガーにかけて、和室とのLDKの間の鴨居に吊り下げておく。
古鍋を水洗いして片付ける。薬液がわずかに溢れている調理台を台拭きで拭く。使った台拭きはそのまま流し台に置かず、脱衣所の洗濯機横のカゴに入れる。
「さて、と」
手に腰を当てた姿勢になる。そこで、変身を解除する。また、ふっ、と、さっきとは違った艶気のある息を
忍の姿に戻ってのそれはまたそれで、
「可愛い顔アラサーは繰々姫先生もですけど、ベルさんの場合はナイスバディで、その上でそのため息は反則ですよ」
とか、プシュケ・プレインスあたりに言われそうだ。
周囲を見回す。ご飯はすでに炊きあがっている。炊飯完了のアラームが鳴った覚えはある。
「んー……」
少し考えて、
── 今日は、手抜きでいいか。
と、結論づける。
鍋を開けて、少し冷めたご飯をかき混ぜてほぐしてから、タッパーを取り出し半分程はそれに詰めて、冷蔵庫の冷凍室に入れる。ついでに冷凍の唐揚げと温野菜サラダを取り出す。
几帳面な性格の忍だったが、社会人としての新人気分が抜けた今では、私生活までは常に緊張を保ってもいられない。
ボウル皿に適当に唐揚げと温野菜サラダを盛り付けて、温野菜サラダだけラップをかけて、電子レンジに入れて、オートのあたためボタンを押した。
お茶碗を手に、ご飯を少し多めによそる。
ついでに、冷蔵庫から冷えた350ml缶のドクターペッパーを取り出して脇に挟んで持つ。推理モノではないが、選ばれし者の知的飲料と呼ばれては飲まざるを得ない。
LDKの居住部分に移る。折りたたみ脚の小さな卓袱台にお茶碗を置いて、ささやかな食卓にする。
持ってきてあったラジカセの電源を入れる。文字通り1990年がその絶頂期だった、大型ラジカセ……を、再現した現代の製品だ。忍はどちらかというと、不況とデジタル化の流れでコンパクトオーディオが主流になってから物心ついた年代のはずだが、Amaz◯nでBluetoothスピーカーを探していて、つい見つけて買ってしまった。アナログ型VUレベルメーターが探偵道具のなにかに見えたのかもしれない。もちろんBluetoothレシーバーを搭載し、さらにUSBメモリ・microSDカード演奏もできる。…………おかしい、バブル期より機能増えてんじゃねぇか。それで4万切るのは当時は無理だっただろORION。
CDか、スマホで音楽をかけようと思ったが、それだけでも寂しいので、結局賑やかしにラジオにする。周波数は79.5MHzに合っていたのでそのままにする。
ピーッピーッピーッピーッ……
電子レンジの加熱終了音が聞こえてきた。忍は、台所に行って、
「あちち」
と、手に持つには少し熱くなった2つの皿を持ち、卓袱台のところまで戻ってくる。
「いただきます」
箸を手に取り、そう言って、まず唐揚げから手をつけはじめる。
ラジオの番組には、本来昼間の番組のレギュラーパーソナリティがゲストに来ているらしい。
電波越しの喧騒を聞き流しながら、忍は夕食を摂っていった。
「さて、と」
夕食後、食器をすぐに洗って水切りカゴに入れた後、忍は、白手袋をはめると、乾いたネガを回収する。
ネガを6コマごとに4本に切る。
パソコン用ローデスクの下から、ビニール袋を被ったフィルムスキャナとその110フィルム用ホルダーを取り出す。ネガをホルダーに嵌め、スキャナにセットする。スキャナの電源を入れる。
写真としてすべて銀塩で完結させるには、印画紙への焼付が必要だが、流石に場所取りの引き伸ばし機や印画紙現像用具は持ち込めない。なので、これで一気にパソコンに取り込む。
要は、現像後には光学的かつ可逆的に加工できないネガが存在することが重要なので、閲覧はデジタルでも構わないのだ。
取り込みを始める前に、休止状態のノートパソコンの復帰を始める。
20分ほどかけて、4本のネガをすべて取り込む。取り込みを終えたネガから、フィルムスキャナから外したネガフィルムシートに収める。プロの現像に出してもついてくる半光沢透明のビニールでできているアレだ。110用ではなく35mm用で、几帳面な忍には、幅がやたら余るのが気になるが、そこまで拘っていると流石に手間なのでそこはそのままにしている。
取り込んだSDカードを取り出して、それをノートパソコンに移した後、フィルムシートは折りたたんで、防湿剤の入った海苔の空き缶にしまっておく。
パソコンにパスワードを打ち込んでデスクトップ画面にした後、SDカードを開いて、ざっと数コマ、正常に閲覧できることを確認してから、フィルムスキャナの電源を切る。
パソコンで、気になった画像を拡大して見る。
「ナンバーは足立か……」
忍はそう呟いた。
東京23区内のナンバーは登録車の陸運局ごとの「品川」「足立」「練馬」に、ご当地ナンバーの(品川担当)「世田谷」、(足立担当)「江東」「葛飾」「江戸川」、(練馬担当)「杉並」「板橋」がある。
どのナンバーにしても何台登録されているんだって話だ。特に足立区は、23区内にしては交通の便の悪い所謂“陸の孤島”が多いため、今でも自家用車持ちの世帯がそれなりにいる。
自動車の形状が比較的よく分かる部分をコピペして、画像検索にかけてみた。出てきたのはUBS55FW型 初代 いすゞ ビッグホーン。グレードまで解った。スペシャルエディション バイ ロータスのロング ハイルーフ。年式は1990年式か1991年式しか存在しないらしい。
エンジンは直列4気筒のインタークーラー・ディーゼルターボとされているが……
── 普通のエンジンの音じゃなかったはず……
忍は自動車についてはパッパッと思いつくほどには詳しくなかったが、直列4気筒エンジンは、乗用車では割とメジャーなものであることぐらいは知っている。
── 改造車か……
構造変更認可を受けた公認改造車ならどこかで履歴が追えそうにも思えるが、いくら35年以上前のクルマでも足立ナンバー管内に何台あるかと考えると、公的に情報を閲覧できる警察ならともかく、私立探偵の手には負えそうにない。違法改造車ならほぼお手上げだ。
「しかしまぁ……」
思わず苦笑しながら声に出た。忍の思考は、そこで私的な部分に入り込んでいた。
自動車運転免許を持っているとすれば18歳以上だ。無免許の可能性も無視はできないが、それは、“魔法の国”絡みで活動しているのだとしたらリスクが大きすぎるだろう。
それなのに、
「……どう見ても中学生じゃない」
と、写真越しの鳩田守颯を見て、忍はなぜか、苦笑を辟易したようなものにする。
「私がある意味犯罪なのは自覚してるけどさ」
そこまで声に出た。
巳咲はほぼ中学生、結鍵と沙穂、奈美はそれよりは年上、稚奈と
とまれ、上に張り出し
「でも……────」
写真越しには伝わりにくい、直接見た時のあの、乾いた目。
「…………」
忍は、人生経験が豊富とまで言える年齢と経歴とは言えない。だが、様々な調査に出るようになって、いろいろな背景を持っている人間を見てきた。
佐藤木ノ実にも直感で刺さる部分はある。確かに抜けない意識に刺さった棘ではある。
だが、それ以上に。
「あの目は……────」
確証はない。忍は、確証なしに確信には到達しない主義だ。
けれど、直感が告げる。忍にとってはあくまで証拠を集めるための
「── 人殺しの目だ」
─☆──☆──☆──☆─
稚奈、沙穂、その2人のそれぞれのアパートがある最寄り駅から2つ、梅見崎中学校側に手前の駅で、私鉄線駅から道路を渡ってモノレールに乗り換え、駅5つ。
その駅のほぼ目と鼻の先、実測でも徒歩5分かからない場所にあるマンション。
間取りは2DK。もちろん、トイレ・風呂は独立していて、追い焚き付きのガス給湯。築浅で、きれいで、だからといって何かを引き換えにしたわけでもない、このシリーズ始まって以来の好物件。
だと言うのに、その部屋の中には、何もなかった。
辛うじて照明は付いていたが、それも消えたままだ。ただ、まだ宵の口と言っていい夜の街の光が、カーテンも引かれていない、いやそもそも着けられてもいない窓から入ってくる。
「そうそう、そう思うでしょ?」
ただ室内にあるのは、ブロック栄養食の空き箱だけ。
その傍らで、赤い魔法少女は、誰にともなく、しかし、まるで会話しているかのように声を出している。
「そうだよ、そう思うよね────」
「──────── リップル」
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