ロードバイクが好きだった。
最初に乗ったのは五歳の時だ。親と一緒に行った自転車屋で、俺はそいつを見つけてしまった。
他とは違う、細くて高くて尖ったフォルム。沢山の自転車が所狭しと並んだ店内で、一番高い位置に飾ってあったソレ。壁に貼ってあるデカいポスターではどこの誰かは分からないムキムキのお兄さんが、それに乗ってカッコよく空へと浮かび上がっていた。
俺は一時間ぐらい泣きわめき、子供用のロードバイクを買ってもらった。
それに乗るために、血だらけになった。三輪車しか乗ったことがなかったから。だから、補助輪を外すという難題に加え、バランスのとり辛いロードバイク特有の高い重心に慣れるのに、三週間と絆創膏2箱を費やした。
それでも、乗ったその一瞬から、俺はロードバイクを買ってもらえてよかったと、心底親に感謝した。
最初はロードバイクというもの自体が好きだった。
他の自転車と違い、きらきらでピカピカで、強そうだったから。
けれどそれに乗り、成長していく内に、好きなものがたくさん増えた。
例えばそれは、どんなに疲れた時だって、ロードに跨ってちょっとサイクリングに行けば、楽しくなれるところとか。
友達が見たことも来たこともないような場所に、自分一人の力で行って帰ってくることが出来ることとか。
たまに出会う同じロードバイク乗りの人達と、ただ同種のものに乗っていると言うだけで仲良くなれることとか。
レースが始まる前の、あの何とも言えない、ヒリついた空気とか。
いつアクションをかけてまわりを出し抜こうかと考えている、集団内の雰囲気とか。
先頭で誰もいない道を走り、観衆の声援を一手に受けている時とか。
表彰台に乗って、握手をして。そんな時、笑顔を向けながらも、俺を悔しそうな目で見ている奴とか。
そんな生活をしている内に、俺にとって、ロードバイクはなくてはならないものになった。
俺にロードを教えてくれた父さんは、これは愛だと言った。
そう、愛だ。俺はロードバイクを、ロードレースを、そこに関わる全ての人と物を愛してる。
だが、愛だけでは人は生きていけないと、父さんは言った。
お金を稼ぐ。社会的身分を手に入れる。大事な人を養う。周りの人を幸せにする。
そういった生きるためにこなさなければならない沢山の課題が、愛の前に立ちはだかるのだと言われた。
父さんは、昔、陸上競技の実業団に入っていたらしい。
走ることを愛していて、ずっとこれで生きていきたいと思っていた。
けれど勝てなかった。結果が残せなかった。
一周400mのトラックこそが自分の世界だと信じていたはずなのに、そこに立つのが苦しくて仕方がなくなって、その空間で吸う空気が重くなって苦くなっていって、辞めるしかなかったのだと言った。
だから俺は、結果を残さなければならない。
それが出来なければ死ぬしかない。
父さんは立派な人だったから、走るのを辞めても生きていけた。
けれど俺は無理だ。ロードバイクから離れて生きていける自信がない。
毎日乗りたいし、これ以外は考えられない。考えたくない。
だから、結果を残さなければいけないんだ。
ちゃんと胸を張って、ロードバイクで生きて良いのだと。
そう誰かから認められて、初めて俺の人生はスタートできる。
だから、俺は、俺は、どうしても、この大会で優勝しなきゃいけなくて――――
***
「――――ぁ……?」
リノリウムの白い天井が、目に入った。
どうやら眠っていたらしい。
天井を見たまま、しばらくぼーっとする。意識の前後が嚙み合わない。
というか、なんか、怠い。疲れてる。脳が止まっているような感じがする。
視界を右にズラすと、テーブルに突っ伏して寝ている女がいた。
女子高生だろうか。うちの学生服ではないな。
ピンクのガーディガンと、それから長い金髪が目に入る。
校則緩いところの人だろうか。っつーか金髪て。ギャルかよ。
ギャル、怖いんだよな。
うちの学校にはいないが、街中で見かけると結構怖い。
理由は単純で、一度ロード中にトイレに行って帰ってきたら、俺のロードバイクに跨って写真を取られていたからだ。盗まれなかったから良いのだが、しかしアレがあってから、心のどこかでひっそり俺はギャルが怖くなっていた。
そもそもなんでギャルと同室?
っつーかここどこだよ。訳が分からん。
深呼吸をし、ベッドから起き上がろうとして――なんだか右腕に引っかかるものを感じ、そちらを見る。
チューブがつながっていた。
これ、アレだ。点滴チューブ。熱中症で倒れた友達の見舞いに行ったときに見たことがある。
それが、刺さっている。どこに? 俺の腕に。なんでだ? んーーー? 分からん。
というか、チューブはそれだけではなかった。
胸の上あたりと、腹から、伸びている。あと多分、下半身の――俺の大事なところにも、ある。
なん…………なんだこれ? っつーか、腹? 腹。いや、あるわ。腹になんか刺さってる。左手でサスサスしてみるも、管のようなものは腹の中央あたりから生えているのが確認できる。
こわ……。
え、なんだこれ。点滴って腕じゃないのか? 次点で口とか鼻だろ。そっちがなくてなんで胸とか腹に繋がってんの? 怖すぎる。
引き抜いて……引き抜いたらダメだよな。じゃあ俺どうすんの? トイレ行きたくなったらチューブと、それからチューブの先にある変なデカい機械と一緒に行かないとダメか? こんなつれションしたくねえぞ。
どうしたもんか。
ヤバすぎる現状にちょっと冷静になってきた。っつーかここ病院だよな。白いし、ベッドでかいし、点滴あるし。なんで俺はここに……?
疑問ばかりが浮かぶ中、もぞもぞと視界の端でギャルが動いた。
「んー…………え?」
「?」
「ヤバ。え、嘘。起きてるんですけど。超ウケる」
俺は、俺を見て驚くギャルに対し言った。
「勝手にウケんな。っつーかお前誰だよ」
そう、言ったつもりだった。
しかし、喉が引っ掛かって、声が出なかった。
焦る。こんなの初めてだ。思ったように口が動かない。喉が震えない。当たり前のようにやっていた声を出すという行為が、どう頑張っても、行えない。
あうあうあう、と、自分が出したとは思えない声モドキが漏れる。声にならない。壊れた楽器より尚、酷い。
そんな俺を見て、ギャルが手元に持っていたものを押した。
ピーーーと細い音がなる。ボタンだ。何のボタンだろう。そういえば、うちの妹が防犯ブザーを買ったな。試しに鳴らしてみたが、あれは凄まじい音だった。ということは、防犯ブザーではないか。
「えーっとぉ……小鳥遊だとウチと一緒か。トバリさん、でしたっけ?」
「ぁう……」
「あ、ごめんごめん。声出ないんですよね? 大丈夫っす! えーっと……起きた時、起きた時……あぁ、叔母さんに連絡しないとか」
訳の分からない独り言をつぶやきながら、手元の手帳をせわしなく捲るギャル。
彼女はスマートフォンを少し叩いた後、椅子を俺のベッドの枕元まで寄せてくると、言った。
「えー……落ち着いてください。焦ることはありません」
「あなたにお話があります。いいですね?」
「どうか、落ち着いて聞いてくださいね。落ち着いて、落ち着いて」
「あなたはずっと、こーま……こーまって何? 昏睡状態か。昏睡状態、でした!」
…………。
…………?
ギャルが何を言っているのか、全く分からない。
全く分からないままに、ギャルは続けて言った。
「あなたが眠っていたのは……9年です」