守月スズミは疲れていた。
スズミはキヴォトスでも有数、三大学園に数えられるトリニティ総合学園の生徒である。しかしながら、深夜トボトボと歩く小さな背中は気品を感じさせるものでもなければ、また凶暴さを印象付けるものでもなかった。
灰色のセーラー服。腰のベルトに閃光弾。頬には先ほどの戦闘でできた傷を隠すようにガーゼが貼られている。
市街地での急な遭遇戦だった。相手は不良と思われる3人の生徒。ライフルを使えばケリはついただろうが、地域住民が避難できていなかったこともあって使用を控え、閃光弾のみで応戦したのだった。
それがこの結果だった。
スズミは自らの右手を見た。
包帯で治療はされているものの、血が滲んでいるのを感じる。
「……でも、自分で決めたんだから」
そう呟くと、小さな英雄は下宿先の階段を上っていった。
スズミのアパートはトリニティ総合学園から少し離れた郊外にあった。8畳ほどのワンルーム。この部屋を見つけた時にはスズミも狂喜乱舞したものだったが、今の彼女にとってはやや空白を感じる広さだった。
スズミは2階に住み、1階には大家兼管理人の雀が住んでいる。
音を立てないように慎重にドアを開けると、女学生が住んでいるとは思えぬほど殺風景な部屋が広がっていた。
ベッド、机、そして机上のラジオ。小さなソファ。
彼女はラジオをつけると、制服のままベッドに倒れ込んだ。
『……続いてのニュースです。本日ティーパーティー主催の懇親会に参加するため、テミス王女殿下は大使館に到着されました……この訪問は非常に稀であり、約5年ぶりの……』
スズミは一種の嫉妬のようなものを胸の奥底に感じたが、疲労には勝てず、そのまま夢の海に漕ぎ出していった。
翌日の夜のことである。
大使館の貴賓室。天蓋付きのベッドには噂のテミスが寝ては……おらず、ネグリジェの裾がはためくのも気にせず、ぴょんぴょん飛び跳ねていた。
「テミス王女!」
部屋に入ってきた世話係は、その自由奔放なテミスを見ると真っ青になって叫んだ。
「なんです、別に悪いことはしていませんわ」
テミスは不平そうに呟くと、ベッドから飛び降りて椅子に座る。
「悪いことです!王女なのですからもっと自重を……」
「あーはいはいわかりました、でもこのネグリジェはなんとかしてくださらない?私、一度でいいから上下が分かれたパジャマというものを着てみたいですわ!」
世話係に、新雪のように美しい長い銀髪をとかされながら言った。
「あら?あれは何かしら」
テミスは窓の外にちらつく光を見ると、不意に立ち上がって窓辺に近づいた。
「殿下!急に立ち上がられては……」
窓からはやや遠くの方のマルシェで、人々が踊っているのが見えた。
「ねえ、あれ何してるの?」
「何、と申しましても……」
世話係はなんと説明しようかと口をもごもごさせる。
「私、あれに行きたいですわ!」
「いけません!」
「どうして?だってここで巡行は最後なのでしょう?最後くらい別に良いではありませんか」
「ですが王女様、もう少し自重を……」
「そんなものできないわ!私が行きたいと言っているのですよ!」
騒ぎを聞きつけた大使が、どうしたことかと顔を覗かせる。
「殿下、どうなさいました?ああ、それとこれは明日の懇親会でナギサ閣下との会談時の台本、そしてこちらは記者会見の……」
「ええそうね大使!『我が派閥は皆様の健康と平和をお祈りしていますわ』でしょう!じゃあ大使、私の健康は?平和は?こんな過密なスケジュールで私を使い潰すつもりなの?ああきっとそうなのね、皆様そのつもりなんだわ!!ああ神様!」
ヒステリックになったテミスを見ると、大使はどうしたものかと世話係を睨みつけた。
「い、いえ、殿下がどうしても外に出たいと……」
「外に出てもいいじゃない!私もう嫌ですわ!明日の懇親会も記者会見も行きません!もうどこへも行きませんわ!」
「これは大変なことだ。主治医を呼ぼう」
ヒステリックになった王女を落ち着かせようと、主治医が呼ばれた。その頃にはテミスもやや平穏を取り戻し、ベッドに横たわっていた。
「……ですから王女殿下、どうかお静かに。これが終われば帰れるのですから」
「ええ、そうですわねお医者様。おっしゃることはわかりますわ。だって私、そんなお馬鹿さんではありませんもの」
「一応、鎮静剤の注射を一本打っておきますから、これで落ち着くでしょう」
そう言うと主治医は王女の白い肌に針を刺し、鎮静剤を注入した。それと同時に、王女は深い眠りに落ちていった。
「おや、寝ましたな」
「ええ、寝ましたね」
「では邪魔をせぬよう下がりましょうか」
そうしてテミスは部屋に一人きりになった。
10分ほど経ったのち、テミスは部屋の外に気配がないことを察知するとガバッとはね起きた。クローゼットに入っていた真白のコットン・ブラウスにサーキュラースカートを穿くと、窓から屋根づたいに中庭へと躍り出た。
ちょうど、0時の鐘が鳴った。この大使館では、0時になると郵便配達のトラックが出ることになっている。テミスはそのようなことを知らなかったが、今にも出発しそうなトラックの後ろのステップに飛びつくと、そのまま重厚な門を抜けて新天地へと飛び出していった。
「まあ!なんて綺麗で、なんて楽しいのでしょう!」
素晴らしい速度で離れていく大使館を振り返り、道路の両脇に店が立ち並びテラスでドリンクを飲む人々を眺めた。
一部の者は、トラックにしがみついたテミスを不審そうに見ることもあったが、彼女にとってはすべてが新鮮で、何より自由だった。
トラックが公園の近くで停車すると、テミスは今だと言わんばかりにスカートを翻して飛び降りた。串焼きのいい匂いがした。すぐ近くで屋台が出ているのだった。
テミスはトコトコとやや危なげな足取りで屋台に近づくと、店主の柴犬に尋ねた。
「それ何?」
「ああ、牛肉の串焼きだよ、お嬢ちゃん。食べるかい?」
「ええ、いただくわ」
テミスは手を差し出した。
「いや、いただくじゃなくて、お代は?」
「お代?」
テミスは首を傾げた。
その時、屋台の隅に座っていた桃色の髪の少女がおかしそうにキラキラ光る翼を震わせながら言った。
「よくいるんだよねえ、こういう子!店員さん、この子の分は私が払ってあげるじゃんね!」
テミスはその時、もうすっかり睡魔に襲われていたため、その生徒のことをよく覚えていない。
「あら、どうもありがとう」
そう言って串焼きを受け取ると、またトボトボと歩き出した。
串焼きを食べ終えたテミスは、今になって効いてきた鎮静剤のせいで、もう歩きながら眠りかけていた。
ちょうど道路に面した場所にベンチを見つける。
テミスは銀色の長い髪をベンチの背もたれに垂らすと、すうすうと寝息を立て始めた。
守月スズミはこの日も、深夜の巡回に出かけていた。午前や午後の巡回にはスズミを慕う自警団の生徒もいるのだが、スズミはこの深夜の静けさを独り占めしたかった。夜の闇が自身の体に吸い込まれていくような安心感を覚えるからだ。
いつも通りにアパートを出て、いつも通りの巡回経路。……そう思っていたが、今日はどことなく足が向いて、普段は行かない本学近くの公園まで来てしまっていた。
そのため帰るに帰れず、タクシーを呼んで乗り込もうとした時である。
「……ん?」
見間違いであろうか。いや、そうであってほしい。この深夜に公園で寝ている生徒などいてほしくない。それにここはスズミが住んでいる下町地区ならまだしも、高級市街地とも言われている場所だ。ホームレスというわけでもあるまい。
目を擦ってみても、やはりいる。女学生がベンチで寝息を立てているのだった。
スズミはベンチのそばまで走っていき、長い髪が地面につきそうなのも厭わず眠っている、正体不明の美しい少女を見つめた。
服装はどこにでもいそうな女学生であったが、素人のスズミが見ても上質な生地が使われているのが分かった。
「ねえ、ねえってば」
揺り起こすと、テミスはうっすら目を開けてスズミを見た。
「あら、ご機嫌麗しゅう……我が派閥は貴方様を心より歓迎……」
「何言ってるの。あなた、名前は?お家はどこ?」
「名前……名前は……」
そう言うと、また眠りに落ちてしまう。
「こんなところで寝たら危ないですよ」
スズミは令嬢を無理やり立たせると、言い聞かせるように言葉を続けた。
「いいですか、どこの誰だかは知りませんけど、こんな夜中に公園で寝てたら何があるかわからないんだから、早く帰りなさい」
「ええ……殿下におかれましては幸多からんことを……」
スズミはため息をつくと、タクシーに乗り込む。
「いいんですか?あのままにして」
運転手がスズミを振り返り、不安そうにつぶやいた。
見ると令嬢は、立ったままの姿勢で寝ていた。
スズミは再度深くため息をつくと、令嬢の手を引いてタクシーの中に引きずり込んだ。
その後もスズミは何度も家や名前を尋ねたが答えは得られず、そうこうしているうちに自分のアパートに着いてしまった。
「運転手さん、この子の面倒見てもらえませんか?」
「いやですよ、私だって仕事がありますから……」
結局、スズミは自分のアパートに令嬢を連れ込むと、自分のパジャマを手渡した。
「さあ、これに着替えてください」
「薔薇の蕾のナイトガウンはないの?」
テミスは寝ぼけ眼で尋ねた。
「そんなもの持ってるわけないでしょう。さあ、着替えて」
「……ん」
テミスはスズミの手にあるパジャマに一瞥もくれず、無防備に身体を差し出してきた。
「嫌ですよ、そんなの自分で着替えてください」
「自分で?」
テミスは不思議そうに問い返す。
スズミは呆れつつもため息をつき、ブラウスのボタンを外し、スカートを脱がせてパジャマを着せた。
「上下が分かれてるパジャマだ……」
テミスは夢心地でつぶやいた。
そのままベッドに潜り込むと、呆然と立っているスズミに向かって手の甲を差し出した。
「よくやったわ。もう下がってもよろしい」
「はいはい、お嬢様」
スズミが呆れて言うと、テミスは満足そうに瞳を閉じて深い眠りについた。
陽光がアパートの窓から差し込み、少し狭くなった部屋を照らした。庭の鳥たちがちゅんちゅんと鳴き出す時間……はとうに過ぎ、任務の集合時間からすでに一時間が経過していた。
スズミは跳ね起きると、慌てて身支度整えた。
まだ眠っている令嬢を置いていくことには不安があったが、今日は宇沢レイサと任務を行う約束があった。レイサを怒らせると、いつ大声で鼓膜を破られるかわかったものではない。仕方なく、そのままアパートを飛び出した。
トリニティ総合学園のすぐ近くにある喫茶店。そこが、自警団のたまり場のような場所だった。いつもそこで集合し、任務に向かったり遊んだりしているのだ。
「ご、ごめん、遅れちゃって……」
「守月スズミ!!遅いですよ!!!」
ビリビリと喫茶店の窓ガラスが震えた。マスターが至極迷惑そうな顔をする。
スズミは焦ってマスターに頭を下げると、アイスコーヒーとパニーニを注文して席についた。
「ごめんなさい、レイサ。今日はちょっと忙しくて……」
「もしかして、今日の任務の下見に行っていたんですか?王女様が来る地区の巡回を……」
「え、ええ、そうなの。それで遅くなっちゃって」
スズミは咄嗟に嘘をついた。巡回していたのは事実だ。現に昨夜、王女が訪れる予定の地区を散歩……もとい巡回していたのだから。
レイサはニヤッと笑うと、さらに続けた。
「それで?王女様はどんなお顔だったんですか?」
「とっても気品があって、私なんかじゃ全然及ばない感じだったよ」
「ふーーーん」
レイサはなおもニヤニヤしている。
「何よ」
スズミが不機嫌そうに尋ねると、レイサは手に持っていた(おそらく喫茶店に置いてあったと思われる)新聞をスズミに見せた。
紙面には『ティーパーティー主催の懇親会中止』と大きな見出しが躍っていた。
「へえ、会ったんだねえ。それはそれは可愛らしかったんだろうねえ」
レイサは、珍しく嘘をついたスズミの反応を観察しながら楽しそうに笑っている。
しかし、当のスズミの視線は、その見出しの隣の写真に釘付けになっていた。
「これ……誰?」
見出しの横には、今も自分のアパートで眠っているであろう令嬢の写真がはっきりと掲載されていた。
「あ、それ?その人がテミス王女ですよ。見たんじゃないんですか?ダメだなあスズミ、嘘はいけません……」
「ちょ、ちょっと!」
「ん?」
「電話してくる!!」
そう叫ぶや否や、スズミは慌てて喫茶店を飛び出していった。
「……うーん?」
レイサは不思議そうに前髪をくるくると指で弄んだ。
一方その頃、スズミの部屋では毛布の中でテミスがようやく目を覚ましていた。
「んっ……ここは……」
見知らぬ、質素な白い天井。毛布も、自分の知っているものより薄く、どこか嗅ぎ覚えのない甘い香りが漂っていた。
部屋を見回すと、ベッドの他には机とソファしかないシンプルな室内。どうやら大使館ではないらしい。
「……!!」
テミスは自分が着ている服の正体(上下セパレートのパジャマ)に気づくと、一瞬喜んだものの、すぐさま自分の身体を触って確かめた。何事もなかったことを確認すると、ほっと息を吐き出した。
その時である。
ぎいっと軋んだドアがガチャリと開き、部屋の主が帰ってきた。
「あら、起きていたんですね」
スズミは内心冷や汗をかきながらも、努めて柔らかくテミスに微笑みかけた。
テミスはスズミを凝視すると、近くにあった枕をギュッと抱きかかえ、顔を隠した。この枕からも同じ甘い匂いがした。
「そ、その……シャワー、浴びられますか?」
「ええ」
そう答えると、テミスは枕を盾のように構えながらシャワー室まで後退し、最後に向こう側へ枕を放り投げて扉を閉めた。
スズミは自分の顔が熱くなるのを感じた。まさか自分が拾ってきたのが本物の王女だったとは、思いもしなかった。昨夜の言葉遣いや行動を振り返ればおかしな点ばかりだったが、まさかここまでとは……。
しばらくして、テミスは昨日のままの姿――プリーツスカートにコットン・ブラウスでシャワー室から出てきた。そして、スズミに向かって、
「助けてくれてありがとうございました。それじゃあ」
と言って、そのまま外へ出ていこうとした。
「あ、お待ちください!」
スズミは止めようとしたが、これから自由に外を巡れることを心から楽しみにしているようなテミスの爽やかな笑顔を見て、それ以上言葉が続かなかった。
かくして、テミス王女は護衛も付き人も伴わぬまま、トリニティの街へと一人飛び出していくのだった。
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