僕は十三日後に来る洗礼式の日を楽しみに待っていた。ドクンドクンと高鳴る鼓動は頭の中で響き続けて、洗礼式という光を想起するように瞼の裏で光が点滅していた。
ついに十五歳になることで成人として認められ、家業の手伝いをすることが出来る。早まる心臓を自覚しながらも、心のままに僕は木のノブを回す。
――――ガチャリ。木のノブは僕の手に張り付くような感触を与え、すぐにその感触も消え去る。
「おはよう、シオン。」
「お兄様。おはようございます。」
中にいた少女が僕の方へと振り返る。すると、その美しい黒髪がふわりと舞い、カサブランカにも似た甘ったるい匂いが僕の鼻をかすめた。少女特有の匂いに僕は安心感を覚えながら、すっと息をする。
彼女は双子の妹であるシオンだ。子供のころからどこか大人びていて、でも僕には甘える姿も見せてくれる可愛い妹だ。
「いよいよ洗礼式だね。楽しみだよ。」
「……そうですね。ようやくです。」
「シオンも待ち遠しかった?」
――――ギギィ。僕がいつものように部屋にある椅子を引くと、シオンの吸い込まれるような鮮やかな紫の目と合わさる。
しかし、すぐにシオンが視線を外すと、僕の引いた椅子に座り込み身体を背もたれに預けた。シオンの髪を手で掬うと体温が伝わってくるように、僕の手が熱を持つ。じんわりと心地よい熱に身体を数瞬硬直させるが、すぐに熱を銀色の櫛で梳かしていく
銀色の櫛はシオンの柔らかい髪にすっと抵抗なく入り込み、髪を梳かすたびに心地よい感触と匂いを僕に与えてくれる。
「ええ、ずっと、ずっと待っていました。」
「ははは、意外だな。シオンがそんなに大人になりたがっていたなんて。」
シオンの強い言葉に僕は驚く。大人びたシオンが大人になりたいなんて願っているようには見えず、待っていたなんて言うとは思わなかった。
それに、いつも冷静沈着な彼女は感情というものを滅多に見せてはくれず、甘えてくる時以外で強い感情を見たのは初めてのことだった。
「私にも……願いはありますから。」
「へぇ、シオンの願いかぁ。教えてよ。」
「秘密です。……洗礼式の日に教えますね。」
どこか重さの感じる声に彼女の想いの強さを感じる。
シオンの願いというのが何か気になるところではあるけど、洗礼式に教えてくれるというのだ。それまで楽しみに待っておこう。
「ますます洗礼式が楽しみになるね。……髪梳けたよ。」
「いつもありがとうございます。」
シオンはお礼を言うと僕の体に抱き着いてくる。妹とはいえ急に女の子に抱き着かれるのはびっくりする。女の子らしい柔らかい質感には確かにシオンとしての熱や弾力感があり、それが僕を心地よくもする。
僕の来ている服とシオンの押し付けられる服がさわさわと音を立ててお互いに押し合う。やがて、服と服の擦れあう音は消えて、二人の服はくちゃりと少しばかりのしわを作っている。
シオンから漂う清楚な百合の様でありながら、本能を刺激する濃厚で甘ったるい匂いはシオンの存在を確かなものにして、僕の脳みそにまで刻まれる。僕の胸にうずめる頭からは熱、匂い、質感。それが奇麗に融和して僕へと悠然とシオンの存在を伝えた。
シオンは僕の首筋へ回した手に力を込めており、必然的に僕とシオンの身体が密着するようになっている。それがより一層シオンの匂いを強めている。
「どういたしまして。……もう離してよ。」
「……分かりました。」
シオンは僕の胸にうずめていた顔をあげるとその鮮やかな紫色の瞳を僕に向けながらも、名残惜しむように首筋を手で撫でて離れていく。シオンが指を滑らすたび、僕はぞくりとした感触を得ながら、どこかでそれを待ち望んでいたようなそんな気にさせる。
シオンに撫でられた場所が不思議な熱を持ち、すぐに消えていく感覚に喪失感を感じる。だが、それも僕の熱に合わさってすぐに消えていった。
「僕はもう行くね。」
「……はい。また後で会いましょう。」
――――パタン。
お兄様が部屋の外へと出ると、その姿を見えていた私はじっと扉を見つめる。部屋と廊下を区切る扉は重く、無機質だけどすぐに開けてしまえる通行場所。お兄様が居なくなった後の部屋は静寂だけが包み込んでいる。
「お兄様。お兄様。お兄様。お兄様。お兄様。」
お兄様がいたという微かな残滓を感じ取り、私は狂ったようにお兄様を呼ぶしかできない。頭では先ほどまで触れていたお兄様がフラッシュバックするように浮かんでは消え、私の頭をこれでもかと占領する。
お兄様に触れられた髪。お兄様を触れた手。お兄様から与えられた熱。その全てがあまりにも稀薄すぎて、もうお兄様という存在を感じたくなってしまっている。
だから、お兄様の感触が残るうちに私はその感触を完全に味わい尽くす。触れられた髪を手でなぞり、お兄様に触れた手をそっと唇へと持っていく。お兄様の熱は残っていないはずなのに、お兄様の熱を私の心と身体は感じ取り、ぶるりと身体を震わす。
「お兄様。私の半身、もう逃がしたりはしません。」
室温が心なしか上がっている。それと共に広がるカサブランカの香りがお兄様の香りと交じり合い、そして上書きしていく。
私の香りに混じっていくお兄様の香りに恍惚としたものを感じながらも、お兄様のいた痕跡がさらに希薄になることに堪らない嫌悪感が湧き出てくる。相反する二つの感情に頭がくらりとする。
「洗礼式の日に私たちは一つになるんですから。」
私は紫色の瞳に黒い色を乗せて無機質な扉へと視線を向ける。彼が出て行ったその扉はまだ閉まっているが、すぐに開かれるだろう。
洗礼式の日にきっと、私の宿願が叶うのですから。
「父さん。おはようございます。」
「ノエル、おはよう。」
僕がシオンの部屋を出てエトワール家のダイニングへ向かっている途中、父さんであり、現当主のノルがやってきた。僕を呼ぶ声には確かな愛情がこもっており、優しく微笑む父さんを見るとこんな人になりたいと思う。
そんなノルは過去に黒蹄帝国ゲシュタルトとの戦争で活躍をしており、ただ優しいだけじゃなく強く、人を率いることも出来る人だ。
家族としての父さんと仕事としてのノル。同一の人間かと思うほどだけど、そのどちらも僕は好きだ。
「洗礼の日は近いな。……不安じゃないか?」
「いえ、僕は嬉しいくらいです。ようやく家業を継ぐ準備が出来るわけですから。」
「ははは、そうか。」
洗礼の日。それは十五歳になったエトワール家が正式に家名を継ぐために行う儀式だ。儀式を通して僕とシオンの二人が成人することで、より深くエトワール家の枠組みに入ることが出来る。
これを熟すことで家業を手伝えるようになるから、僕はずっとその日を待っているのだけど、どうしてか父さんは僕を心配げに見つめていた。普段の父さんからは一歩離れてしまったような距離感を感じて、疎外感を感じる。
洗礼の日という儀式が過酷なものなのか、僕がどこかへいってしまうと思っているのか。不安げな瞳だけでは分からないけど、僕はその日を無事に乗り越えられると信じている。
「なぁ、ノエル――――――。」
「――――お兄様、先に行くなんて酷いです。」
「えっ、うん。ごめん。」
父さんとシオンの僕の呼ぶ声が重なり、不協和音のような違和感を感じる。シオンが父さんの言葉を遮り言葉を発する。本来なら起きえないことが目の前で起きて驚いた。
シオンが声をかけるタイミングが悪かったのだろう。シオンは父さんの瞳に目を合わせている。心なしかドロッとした空気感が場に広がり始めて、僕は二人をきょろきょろと見比べることしかできない。
シオンから発せられるいつもの甘ったるいカサブランカの香りと、父さんから漂う重く、枯朽なカサブランカの香りが混じり合う。どこにも行き場のない重厚な香りがその場を支配して、重苦しく固定していた。
「ごめんなさい。お兄様との話を遮ってしまい。」
「いや、いい。ノエルとはまた話せるからな。」
「「……。」」
重苦しい空気が二人の間に落ちる。お互いの紫の瞳が色濃くなり真意を測るように見つめ合っている。瞳の色が濃くなるたび二人から放たれるカサブランカの香りが濃厚に凝縮されていく。
その凝縮された香りはどこかこの空気の温度を上げて、どんよりと居心地の悪い湿度をその場に形成していた。
急激な空気の変化に僕は付いていけず、二人の顔を交互に見ることしかできない。そんな僕の腕をシオンは掴んだかと思うと、僕を連れて優々と父さんの横を通り過ぎてダイニングへと足を進めた。
「行きましょう。お兄様。」
「……うん。」
お父さんを横切る時、僕はシオンから発せられるいつもより濃く、熱く、甘ったるい匂いに引き寄せられていた。
シオンに引っ張られて歩いていると、ふと朝抱き着いたときに移ったシオンの甘ったるいカサブランカの香りがして、今の濃く、熱く、甘ったるい匂いとはまた別の香りも身体全体で感じていた。
「「「……。」」」
食事はとても静かなものだった。ぽつりぽつりと会話はあるものの、全体的に湿度の高い空気を纏っていて、僕も口を開くのを躊躇ってしまう。ごくりと食べ物を飲み込むが、変に喉に残っているような感覚があり、僕はフォークへと目を落とす。
視線を二人に戻すと父さんが食事の手を止めており、じっとシオンの顔を眺めている。そんな父さんの様子にシオンも視線を送りつつ、食事の手は止めないでいる。二人の本来なら紫色の瞳に黒い色が浮かんでいるようで、僕は目の前の食事へと手を付ける。
静かながら重く、湿度の高い空気は父さんとシオンを包み込み、大きな溝が会話というものを塞き止めている。
「シオン。洗礼の準備は済んでいるのか?」
「……はい、心置きなく。」
「そうか、ならいいが。」
父さんの問いにシオンは簡潔に答えるが、洗礼の準備とは何のことだろうか。僕は洗礼に準備が必要であるとは聞いておらず、困惑の視線を父さんへと向ける。
だけど、父さんとシオンはお互いに目線を送っており、こちらの困惑に気が付いていないようだった。そればかりか、先ほどよりも重く、湿った空気は二人の底知れない溝を見ているようで、思わずごくりと生唾を飲み込んだ。
「洗礼の日に何かあるんですか?」
「ん、ああ。シオンには少し仕事を頼んだんだ。そのせいで準備が遅れてしまっていたら悪いだろう。」
「ええ、お父様の言う通りです。」
仕事……。洗礼前なのにシオンは仕事をしており、それも順調に出来ているらしい。
シオンは大人びており、仕事も上手くこなすことが出来るのは知っているが、それでも僕に仕事を振られたわけじゃなくて、疎外感を感じてしまう。
「……そうなんですか。」
「ははは、ノエルも洗礼の日を過ぎれば変わるさ。」
「洗礼の日が遠いです……。」
シオンとの距離が離れているようで、僕は寂しさと焦りを感じていた。身体に残るシオンの残り香が嘲笑うように僕の鼻をくすぐり、シオンが遠くに行ってしまう様な感覚に眩暈をする。
父さんは洗礼の日を過ぎれば変わるとは言うけど、逆にシオンと突き放されてしまいそうでそれでも洗礼の日が来ないことには家業を手伝うことも出来ない。
「ふふっ、お兄様も洗礼の日が待ち遠しいようですけど、急がなくてもいいんですよ?あと十三日なんてあっという間です。」
「そうかな……。」
「はい、そうです。」
十三日。その期限がある限り、焦っても仕方がない。それは分かっているけど、どうしてか僕は焦燥に駆られている。その焦燥感がシオンの残り香と今朝の感触を思い出させるのだ。
シオンが洗礼前に仕事をしていることも、それに拍車をかけているのかもしれない。それでも十三日間をシオンが残した熱と共に、生きていくしかないんだろう。
――――コンコン。夜遅く僕がベッドの上で休んでいる時に扉をノックする音が聞こえた。こんな時間にノックするのはシオンくらいしかいない。
「はい。」
「……お兄様。今大丈夫でしょうか?」
「うん、どうかした?」
――――ガチャリ。音を立てた扉の先にいたのは案の定シオンであった。明かりのない暗い廊下に立つシオンの顔は見えないけど、不安からか声が震えている。
僕が意識して微笑みを浮かべるとシオンが心なしか安らいだように見えた。シオンが僕に近づくたびカサブランカの香りが部屋に広がっていく。
「……。」
「シオン?」
僕の隣に座ったシオンの髪がふわりと舞い上がり、頬をかすめていく。こそばゆいような感覚が頬を、頭を包み込む。
――――ぎしり。座ったシオンの重さでベッドが軋んだ。
シオンは僕の隣に座りながらも何故か言葉を発することはなく、黙ったまま俯いていた。隣に座っているはずなのに、熱が、匂いが、存在さえも感じられないシオンに心配と不気味さを感じる。
「何があったか分からないけど、僕は君の味方だよ。」
「……本当、ですか?」
震えた声を出すシオンはやはり俯いたままで、その瞳の色を伺うことが出来ないけれど、きっと不安に思う時もあるのだろう。シオンのギュッとつかんだ両手を痛々しく思う。
こういう時こそ家族として、兄としてシオンを支えないと。
「もちろん。」
「なら……もし、私が世界中を敵に回しても、お父様を裏切ることになっても、私の隣にいてくれますか?」
「え?」
シオンが急激に熱をあげて、カサブランカの濃厚な匂いが立ち込める。圧倒的に存在感が増したシオンの両手は強く、強く掴まれており、不安に思っている感情に変化はないのだろう。
でも、分からない。シオンがどうしてそんな問いをするのか、父さんが僕たちを害することはないだろうし、世界中を敵に回すなんてそれこそ考えにくい。
だけど、どうしてかシオンが本気で言っているようで。
――――ぎしり。またシオンの重さでベッドが軋む。
「……お兄様?」
僕が答えないからだろうか。シオンの身体の震えは部屋に入ってくる時よりも大きくなっており、それに呼応するようにシオンのカサブランカの匂いが部屋へと広がっている。暗い黒を帯びた瞳を見ていると、僕はどうしようのなく辛い。
不安そうな声で僕の服を引っ張るシオンを見ていると、家族として、兄として、そして人として。シオンを支えないといけないと思う。
シオンは弱弱しく震える身体とは対照的にこれでもかと強く両手を握りしめており、僕はそんなシオンに痛々しく思うことしかできない。
「う、うん。僕は君の味方だよ。」
「私だけの、味方……。」
――――ぎしり。安堵からか、シオンが僕にさらなる重みを預け、ベッドが深い悲鳴を上げる。
「うん、君だけの味方だよ。だから、安心して。」
シオンに僕の意志を伝える。しかし、シオンの身体の震えは止まらない。そればかりか身体の震えが大きくなっている。俯いてしまった顔から僕は彼女の表情を読み取ることが出来なくて、もしかして回答を間違えたのかと不安になる。
困惑に僕がシオンの顔を覗き込もうと顔を近づけると、その時シオンが顔をあげた。すると、廊下の暗さを宿した紫の瞳と目が合わさり、視線を下げると口元に笑みを浮かべているのが見て取れる。
「お兄様、嬉しいっ。」
「わっ……!!」
シオンの笑みを見るに慰めることに成功したようだ。シオンは嬉しさのあまり僕へと抱き着いてきた。今朝と同じようにシオンの質感、体温、香りを僕の身体全体で受け止める。
僕とシオンの重みでさらにベッドは軋み、抱き着いてきたシオンからは部屋中を満たすようにカサブランカの濃く、熱く、濃密な甘ったるい匂いが充満していた。
僕は正面から彼女を抱きとめて、背をぽんぽんと軽く叩いてやる。震える身体はおさまらず、今も不安を消しきれないのだろう。僕は彼女の身体から震えが無くなるまでぽん、ぽんとリズムよく軽く叩く。
「これからも、ずっと、味方でいてくださいね。」
「うん。僕は味方だよ。」
僕はシオンの陶酔したような声を耳元で聞きながら、彼女を安心させるように背を軽く叩きながら、シオンの言葉に肯定した。
陶酔したシオンの声が僕の頭の中で反響し続ける中、シオンに触れるたび熱を纏う手と強く押し付け合う身体に心地よい一体感を感じていた。
いつしか、ぽん、ぽんと叩くリズムがシオンの心臓の鼓動と一致して、シオンは僕に心地良さそうに身を預けている。全体重を預けてくるシオンをしっかりと支えながら、僕はぽん、ぽんと背を叩いてあげる。
「ふふふ、ありがとうございました。」
「大丈夫だよ。また不安になったら来ていいからね。」
「はい。私はもう行きますね。」
数分か、数十分か。シオンを慰めていた体感時間は恐ろしく長いような、そんな気がしていたが、実際にはそれほど長い間ではなかったようだ。
まだ、若干の震えが残っているシオンだけど、もう一人でも落ち着いたようで、僕と目を合わせるとにこりと微笑みを作った。
相変わらず濃密な甘ったるい香りが僕の嗅覚をいっぱいにしており、綺麗に微笑み彼女に僕もまたにこりと微笑みを返す。
「おやすみ。」
「おやすみなさい。」
シオンが去ってからもカサブランカの香りは僕の部屋に残り続けて、終ぞ寝るまでその香りが僕の肺に残り続けたのだ。