金床を探している、と店主に伝えると、店の奥を指さされた。
「あっちだ」
指された先には確かに、二つの金床がある。一つは小さすぎるし、赤さびが浮いている。もう一つは大きすぎる。
正直どちらも微妙に思えた。地質資料を叩き割るための台が欲しいのだが、そもそも店のイチ区画を占拠しているとも言える大きさは正直手に余る。
もう少しまともなのはないかと棚の奥を覗いていると、背後で甲高い音が響いた。
カン。
振り返ると、店主が作業を再開していた。細長い鉄板を台の上に置き、金槌で叩いている。
カン。
妙に甲高い音を立ててリズミカルに叩かれる金づちと、叩かれる鍬。しかし私が気になったのはそれらではなく、それが使われている台だ。
あれも金床だろうか。黒い。下半分は鉄枠の中に収まっていて全体の形は分からないが、上面は平らで、少なくとも棚にある錆びた金床より使いやすそうに見える。
「今使ってる方は売り物じゃないんですか」
店主は金槌の先で黒い台を示し、これは駄目だと即答した。
「同じものがあれば、それでもいいんですけど」
「ないぞ。こいつは買ったもんじゃない」
何を聞いても話がそこで切れてしまう。もう少しくらい説明してくれてもいいだろうに。
無いし買ってない……どこからか拾ってきたか。ここいらではよくあることだ。ジャンク品、廃品から部品を剝いで売り物にする。ここの店もそういった品を再加工した物品であふれている。植民惑星によくある光景である。
店主は鉄板を持ち上げ、目の高さで曲がり具合を確かめると、また台の上に置いた。カン。やはり音が高い。私は棚の金床に視線を戻した。錆びている方ならどうにか運べるだろう。ただ、この状態で買うのは少し嫌だ。中央居住区から交換部品を取り寄せれば十日。十日くらい別の作業をすればいいとも思うが、今掘っている試料を放置するのも困る。そもそも、試料加工台が割れるとは思わなかった。石を割る道具が石に負けてどうするよ。そんなことを考えている間にも、後ろでは金属音が続いている。
やっぱり気になって、もう一度振り返った。今度は台そのものを見る。店主はかなり強く叩いているが、表面にそれなりの打痕があってもよさそうなのに、遠目には凹凸が見えない。近くまで寄ってみた。
「ずいぶん長く使ってます?」
「店を継いだときには、もうあったな」
店主は金槌を置いた。年齢は六十を越えているように見える。ということは、少なくとも数十年。上面には煤なのか油なのか分からない汚れがこびりついているし、細かな金属粉も付着していた。それなのに、肝心の台そのものがほとんど削れていない。
「鉄には見えませんけど、材質は?」
「知らん。硬いから使ってる」
何十年も叩いて分かったのは、それだけらしい。
そこだけは知っていると言わんばかりの鼻息で話を切り上げられ、私はしゃがんで側面を覗いた。鉄製の枠で四方から押さえ込まれている。どうも最初から一体だったわけではなさそうだ。枠の方は普通の鉄で、溶接跡もある。サイズの合わない物体を無理やり固定したように見える。中に収まっているものは、上から下までほぼ同じ太さだった。普通の金床とは形が違う。角もある。少なくとも、鍛冶用に作ったものではなさそうだ。
「親父さんの代からここに?」
「もっと前だ。ヒイ爺さんが持ってきたって聞いたな」
少し興味が湧いた。
「船の部品だったんですか」
「さあな。廃船から持ってきたらしい」
店主の金槌が、店の外へ向いた。
「あっちの谷、昔は解体場だったんだ」
窓越しに指の先を見る。街の向こうに低い丘があり、そのさらに先は見えない。
「初期入植の頃ですか?」
「そこまでは知らん。俺が生まれる前にはもう閉まってた。ヒイ爺さんは若いころ、そこで船をバラしてたらしい」
「宇宙船の解体場ですか」
「この辺には海もないだろ」
まあ、確かに、この星には海がない。大きな湖ならいくつかあるが、少なくともここから一番近い湖までは千キロ以上ある。
廃船のどこから外した何の部品なのかは、店主にも伝わっていなかった。
また分からなくなった。とはいえ、宇宙船の部品だとすると少し変だ。宇宙船は重量にうるさい。特に初期入植期ならなおさらだ。必要のないものを何百キロも積んで恒星間航行する理由はない。私は立ち上がって上面を軽く叩いてみた。
「叩くなら金槌使え」
「いや、感触を──」
「手で分かるか?」
ペチペチと音を立てて叩くが、特にこれと言ってわかることもない。冷たいし、鉄と似たような感触としか答えようがない。
「分かりませんね」
店主に呆れた顔をされた。仕方がないので、鞄から携帯分析器を取り出す。
本来地質調査用だが、年代なり材質なりが大まかにわかればと思ったのだ。石……というには金属っぽいが、やってみるだけやってみようと思った。
「材質を測っても? 傷はつけません」
「好きにしろ」
側面に端子を当てる。測定が終わるまで数秒。画面を見る。いくつか数値が並んだ。もう一度測る。少し場所を変えて三度目。駄目だ。表面に付着しているものが多すぎる。鉄、炭素、ケイ素。その他にもいくつか拾っているが、これでは本体の組成なのか汚れなのか判断できない。
表面を拭いてもいいかと聞くと、壊さなければ好きにしろという返事だった。
店にあった布を借り、携帯していた洗浄剤を少し吹きかけて擦る。布がすぐ黒くなった。もう一度。何の汚れだか分からない層が少しずつ薄れ、その下から地肌が見えてくる。妙に黒い。汚れが残っているのかと思って別の布で擦ってみたが、色は変わらない。元からこの色らしい。光を当てて角度を変える。わずかに反射する。金属光沢というほどではない。かといって石の表面にも見えない。触ってみても粒子感がなく、ずいぶん均一だ。なんだろう。もう一度分析器を当てる。さっきよりはましな数字が出た。
ただ、結局よく分からない。私の持っている機械は地質調査用だ。未知の工業材料を当てるためのものではない。天然石ではなさそうだ、という程度なら言える。もっとも、宇宙船から出てきたのなら当たり前か。
「ちょっと削らせて──」
「駄目だ」
最後まで言わせてもらえなかった。
「ですよねぇ」
分析器をしまおうとして、光の加減か、石の側面に何かが見えた。傷だろうか?
指先でなぞってみると、確かに凹みがある。汚れにしては均一な線で、溝のようになっているのが指先から伝わる。
指先で擦ってみて、汚れは指に移るが凹みは変わらない。つまり汚れではないみたいだ。浅い溝になっている。そうして一本。その隣にもある。さらに横にも続いていた。布で周囲を擦ってみる。短い線が現れた。途中で折れている。その横には曲線らしいものもある。
「ここ、何か彫ってありますよ」
店主も覗き込んだ。
「傷だろ」
「傷にしては並び方が揃ってます。ほら、等間隔に」
端末を取り出し、照明を横から当ててみる。溝に影が落ちた。やはり規則がある。適当に引っかいた跡ではなさそうだ。何かを書いたように見える。
「文字かな……」
「ヒイ爺さんが彫ったもんじゃないのか?」
なるほど。それなら別に不思議ではない。昔の所有者が名前でも書いたのだろう。
「曽祖父さんが使っていたのは、今と同じ共通語ですよね。これは読めないから、本人が彫ったものではなさそうです」
店主が顔を寄せた。二人でしばらく眺める。
「……知らんな」
今日一番聞いている言葉だった。ただ、店主の曽祖父が刻んだのでないなら、もっと前ということになる。廃船になる前からあったのだろうか。写真を一枚撮る。拡大してみると、洗っていない部分にも溝らしい影が続いている。全部見てみたい。
「全部洗えば読めそうなんですが、一度持ち帰っても?」
「仕事で使う。駄目だ」
店主が金槌を持ち上げた。そうだった。これは彼にとって謎の宇宙船部品ではなく、現役の金床だった。店の奥を見る。棚には、さっきの二台がある。
「分かりました。では、棚にある方を代わりに買います」
好きにしろと言って作業へ戻りかけたので、私が使うのではなく、この店に置いていくのだと付け加えた。
金槌が止まった。
「は?」
「交換です。あっちの金床を私が買って、ここに置いていきます。代わりに、これを一日貸してください」
店主は何も言わない。私と棚の金床を交互に見る。
「借りて、何をする気だ」
「洗浄と測定です。正体不明の物質を見つけたら、地質屋でも気にはなりますよ」
半分は本当だ。残り半分については、店主に説明しても金床の値段は下がらないだろう。
壊した場合は弁償すると申し出たが、材質も知らないのに何を代わりに持ってくるつもりだと返された。
それは困る……同じものを用意しろと言われたら不可能かもしれない。
「壊さないようにします」
「大学の奴は前にもそう言った」
以前にも大学の人間が壊さないと言って、店の棚を壊したらしい。どうすればそうなるのかは本人も知らず、弁償もされていないという。
「それは大学が悪いですね」
「だろ」
そこで初めて話が合った。
*
とりあえず、弁償については別途問い合わせるという約束を取り付けて借りることができた。
研究所へ持ち帰って枠から外すと、店で見たときよりずっと細長く感じた。下半分が隠れていたせいだろう。余計な突起が一つもない。ただの直方体だ。運搬機から降ろして床に立てる。思った以上に重かった。
「先生」
声がした。振り返ると、入口にミナが立っている。視線は私ではなく、床の上の物体に向いていた。
「何ですか、それ」
「金床。借りてきた」
何のために、と続けかけたミナへ、調べるためだと先に答える。彼女は黒い台から私へ目を移し、しばらく黙っていた。
「私たち、地質調査に来たんですよね。古道具屋の仕入れじゃなく」
「これが終わったら戻るよ」
「仕事してください」
溜息をつかれた。洗浄を始める。店で試した洗浄剤なら表面を傷める様子はない。もっとも、金槌で何十年も叩かれて平気だったものを、布でどうにかできるとも思えない。少しずつ汚れを落としていく。煤や油、細かな金属粉、それに用途の分からない汚れまで付着している。場所によっては固着していて、何度か薬剤を馴染ませないと取れない。作業を続けているうちに、店で見つけた線の続きが姿を現した。やはり文字に見える。一列ではない。何段にも続いている。
気づけばミナが隣にいた。現れた溝が何に見えるか聞いてみると、彼女はそこへ顔を寄せた。地質調査で異物を見つけたときと同じように、私の口元も勝手に緩んでいたと思う。
ミナは溝へ顔を寄せ、しばらく目で追ったあと、「たぶん、文字?」と自信のなさそうな声を出した。
「私もそう思ってるところでね」
ミナが端末で撮影し、拡大した。
「こっちとそっち、別の文字じゃありません?」
示された場所を見る。確かに違う。片方は直線が多い。もう片方は曲線が目立つ。字体の違いというには差が大きい。刻み方も同じではなかった。一方は深さが揃っている。もう一方は場所によって線がぶれている。別々の道具で彫ったように見える。
「何人かで書いたのかな。移民船の寄せ書きとか」
「それならありそうだね」
船名や乗員名、出身地。何かの記念品だったと考えれば筋は通る。ただ、こんな重いものをわざわざ船に積む理由は分からない。船の構造材を記念碑代わりにしたのだろうか。さらに洗う。黒い面が広がっていく。汚れを取り除いてしまうと、物体の形は嫌になるほど単純だった。穴も継ぎ目もなく、固定具が付いていた跡さえ見当たらない。本当に何に使うものだったんだ。
ミナは今度は測定器を持ってきた。ついでに寸法も取るらしいので、そのまま任せた。
まず高さ。次に幅。最後に奥行き。測定値が端末へ送られる。私はその間も表面を眺めていた。文字のようなものは一面だけではない。隣の面にもある。それも同じ文字体系には見えなかった。
「先生、寸法の比率が変です」
端末を渡される。三辺の数字が表示されていた。別におかしな値には見えない。
渡された端末には、一対四対九と出ていた。ずいぶん綺麗だ。
「測定誤差じゃない? もう一度やってみよう」
測り直す。ほとんど同じ結果になった。製造時の誤差らしい差を除けば、ほぼ正確に一対四対九。
「船舶部品の規格でしょうか」
「そういうものがあるのかもしれないけど、何のためかまでは分からないな」
分からない。今のところ分からないことしか増えていない。ただ、専門外だから当然でもある。私は写真、寸法、簡易分析の結果をまとめ、中央大学の考古資料室へ送った。初期入植船から回収された可能性があること。用途不明であること。複数種類の文字らしい刻印があること。こちらで分かるのはそこまでだ。あとは専門家に任せればいい。明日は本来の調査に戻るとしよう。
*
端末の着信音で目が覚めた。暗い。時計を見る。午前三時十四分。こんな時間に誰だ。画面を見ると、知らない名前だった。中央大学歴史科学部、物質年代研究室。昼間送った件らしい。眠い目で本文を開く。
『現物をこれ以上洗浄しないでください。切削、加熱、薬品処理も行わないでください。可能であれば現在地から移動させないようお願いします』
一度読み返す。ずいぶん大げさだ。何か貴重なものだったのだろうか。続きを見る。
『確認したいことがあります。この物体は、本当に初期入植船から回収されたものですか』
貴重品かどうかではなく、初期入植船という来歴を気にしているらしい。
『所有者の曽祖父が廃船から回収したと聞いています。正確な船名は分かりません』
送信する。数分もしないうちに返ってきた。リアルタイムとは……。
『明朝、こちらから調査員を派遣します』
写真を送っただけで、もう人を飛ばしてくるらしい。続けてもう一件届く。
『入植以前の来歴について、何か資料は残っていますか』
指が止まった。入植以前。妙な聞き方だ。この星への入植が始まる前なら、当然この物体は別の場所にあった。初期移民船が持ち込んだなら、それで説明はつく。それを聞いて何になるのだろう。
『ありません』
返す。今度は少し時間がかかった。十分ほど待ったところで、新しいメッセージが表示された。
『承知しました。こちらでも測定結果に誤りがないか再確認します』
測定結果? 私は年代なんて測っていない。送ったのは写真と寸法、それに簡単な成分分析だけだ。添付ファイルがある。開いてみる。こちらから送った側面写真だった。一部が拡大され、赤い枠で囲まれている。昼間見た文字列の一つだ。その横に注釈が付いていた。
『既知の入植期文字との一致なし』
その下には『旧恒星間標準文字との一致なし』、さらに『偶発的な損傷ではなく、意図的に刻まれた記号列と判断しています』と続いていた。
そこまでは私たちも考えた。問題は、なぜ夜中の三時に研究者が連絡してくるほど慌てているのかだ。ベッドを出た。眠気はもうない。廊下を歩いて研究室へ向かう。照明を点けると、昼間置いた直方体は、そのまま床の中央に立っていた。近づいて、側面を見る。読めない記号が並んでいる。誰かが刻んだ。それはいい。問題は、誰が刻んだかでもない。
いつ刻んだ?
中央の研究者は、なぜ入植以前の来歴を気にしている? 黒い表面に手を置く。ひんやりしている。昼間まで、これは雑貨屋の金床だった。明日になれば返すつもりだった。私は端末を開き、翌日の予定表を表示した。午前七時、第三採掘地点へ移動。午後、試料採取。全部消した。どうやら石を掘っている場合ではなくなったらしい。
朝六時を少し回った頃、研究所の屋上に小型艇が降りた。早い。中央居住区からここまで普通なら四時間ほどかかる。夜中に連絡して、日の出とほぼ同時に到着した計算になる。本気で飛ばしてきたらしい。降りてきたのは三人だった。先頭の男は挨拶より先に身分証を見せた。
「中央大学歴史科学部、サイ・オルテガです。現物は?」
「中です」
「触っていませんね」
「夜中に連絡が来て以降はね。その前はちょっと洗剤とかで洗って──」
少し嫌そうな顔をされた。そもそも大事になるとは思ってなかったのだから仕方がない。研究室へ案内すると、三人とも入口で止まった。誰もすぐには近づかない。昨日まで鍬を叩いていた台にしては、ずいぶん丁重な扱いだ。
「これです」
オルテガは返事をせず、ケースから機材を出した。
「店では何年ほど使用されていたと?」
「正確には分かりません。現店主が子供の頃にはあったそうです」
「表面損傷が少なすぎる」
「そこは私も気になりました」
一人が光学計測を始め、もう一人は床に検査布を敷いている。私は邪魔にならない位置まで下がった。
「夜中に送ってきた測定結果って何だったんです?」
オルテガの手が一瞬止まった。
「まず確認させてください。あの廃船置き場はまだ残っていますか。船体か、せめて当時の記録だけでも」
「船は全部撤去されたと思います。跡地と、自治体の記録なら残っているかもしれません」
質問に答えてくれない。
「一体、何を測ったんです?」
もう一度聞く。今度は端末を見せられた。昨日の写真だった。文字ではない。黒い表面の傷の一つが拡大されている。
「この傷みたいなものが測定結果ですか」
「微視的な格子欠陥です。宇宙空間へ長期間さらされた材料には、特徴的な蓄積が出ることがあります」
なるほど。それで入植以前を聞いたのか。
「どれくらい宇宙にあったかも分かるんですか」
「昨夜は写真からの推定だったので、まだ信用していませんでした」
奥で測定していた女性が顔を上げた。
「再現しました」
測定音だけが残り、視線が奥の端末へ集まった。
「どれくらい古いんです?」
「材料の生成環境が分からないので、まだ年代には変換できません。ただ、この星への入植から三百年では説明できない」
千年くらいかと聞いても返事がなく、一万年まで増やしてみたが、やはり答えはなかった。
オルテガが口を開いた。
「廃船の記録を先に調べたい」
また避けられた。どうにも断定を避けている節がある。想定以上に古いのか。
その日の午前中、私たちは三番街の役場へ向かった。古い解体場について聞くと、職員は倉庫から紙の図面まで引っ張り出してきた。紙って。
本当に古いな。データ移行されなかった記録らしい。廃船置き場は入植開始からおよそ九十年後に作られ、百四十年ほど使用されている。解体された船舶一覧も残っていた。貨物船。採掘船。初期移民船を改装した軌道輸送船。軍の払い下げ。店主の曽祖父が働いていた期間も雇用記録から絞れた。
「この十二隻のどれかでしょうね」
職員が言う。オルテガは一覧を端末へ取り込んでいる。私は船名を眺めた。特に面白い名前はない。
「船ごとの部品管理記録は?」
「残っていません。解体用ですから」
当然か。午後にはダロの店へ行った。オルテガ、私、オルテガに同伴している研究員数人で押しかけたためか、こちらを見るなり嫌な顔をされた。
「増えたな」
「専門家です」
「金床一個に?」
「金床じゃないかもしれないので」
「俺には金床だ」
その主張は一貫している。オルテガは店の床、作業台、固定枠まで調べた。ダロの曽祖父が使っていた工具箱も残っていたが、文字を刻んだ形跡はない。
「これ、返ってくるんだろうな」
ダロが私を睨むが、そう睨まないでほしい。すまない。やっぱり返せないかもしれない。
「一応借り物なので」
「一応じゃない」
オルテガの目が、工具箱からダロへ移った。
「所有権については大学から正式に──」
「売らんぞ」
「まだ何も言ってません」
「大学は信用ならん」
棚の件がまだ効いている。夕方、研究所に戻ると、本格的な年代評価が始まった。表面から試料を取れないので、非破壊で測れるものだけを組み合わせる。宇宙線損傷。微小隕石の衝突痕。材料内部に残った同位体生成物。ひとつひとつは曖昧だ。それでも、どの方法も同じ方向を指した。
どの測定法でも、入植船の古部品という説明では済まない年代が出た。私は椅子に座って更新される数字を眺めていたが、十万年を越えたあたりでは測定ミスだと思い、百万年を越える頃には室内から冗談が消えていた。最終的にオルテガが表示した範囲は、下限が三千八百万年、上限は測定系の外だった。
「……何の数字です?」
聞く必要はないのだが、聞いた。
「最後に大規模な表面更新を受けてからの推定時間です」
「表面更新とは?」
「研磨、溶融、再加工。そういったものです」
昨日まで金床だった直方体は、隔離布の上で何も変わらず黒かった。
「つまり三千八百万年前から、この形だったってこと?」
「少なくとも表面の一部は」
ミナが下限年代の表示を覗き込む。
「人類、いましたっけ。その頃」
誰もすぐには答えなかった。知っている。現在の人類史はそんなに長くない。そもそも私たちが恒星間へ出たのは、さらに最近だ。
「……さすがに測定が間違ってるのでは?」
疑うような声が出た。オルテガは画面を閉じる。
「その可能性を潰すために、中央へ運びます」
「ダロさんが怒りますよ」
心にもないことを言っている自覚はある。
「所有者には説明します」
「棚を壊した大学の人間に言われて首を縦に振りますかね」
オルテガは口を開きかけたまま、返事を探して私と研究員と直方体とを見比べた。
中央大学へ着いた黒い直方体は、その日のうちに隔離室へ入れられた。ダロには三日かけて説明した。最後まで納得していなかったが、大学が代替の金床を二台置くことで話がついた。
「一台でいい」と言われたので、前に棚を壊した分だと説明したら受け取った。
大学側の借金を私が代わりに払ったようなものである。経費申請は確実に通させてもらう。
中央で最初に調べられたのは材質だった。主体は炭素とケイ素、それにいくつかの金属元素で、成分だけなら珍しくない。ところが内部は結晶でも普通の複合材でもなく、微細な層が方向を変えながら何万枚も重なっていた。調べれば調べるほど、既知の材料分類には収まらなくなった。
同じものを作れるか材料研究者に聞くと、露骨に嫌な顔をされた。設備を組めば小片くらいは可能らしい。そこで、隔離室を占領している直方体と同じ大きさならどうかと聞いてみた。
隔離室を占領している実物へ目をやる。研究者の視線も同じところで止まり、しばらく返事はなかった。
「やりたくもない」
できないではなく、やりたくないらしい。すんごい渋面をしていた。製造コストの話を聞いた瞬間に私も同じ顔になった。
それより重要なのは文字だった。四面のうち三面に刻印があり、合計で二十七種類の記号体系が確認された。二十七。寄せ書きにしては多すぎる。しかも刻まれた年代まで違う可能性が出た。後から付いた微細な衝突痕や化学変化を比較すると、刻印同士の間に大きな時間差がある。一番新しいものは数十万年前。古いものは測定不能。
「別々の時代に拾った連中が、そのたびに書き足したんでしょうか」
会議室でそう口にすると、言語学者のネイラが刻印の年代表へ指を置いた。
「その仮説が一番自然です。ただし、これまで一つも読めていません」
「二十七種類とも、既知言語には対応しない?」
「今のところは」
これだけあれば一つくらい近いものがあってもよさそうなのに。そこでネイラが一番新しい刻印を表示した。
「ただ、これはかなり規則的です」
記号列の途中に同じ並びが繰り返し出ている。数字らしい部分もある。円、線、点の組み合わせ。
「繰り返しているところは数字ですかね」
「たぶん。未知の文字を読むなら、そこから入るのが常道です。言葉が違っても、一個が一個であることまでは変わりませんから」
なるほど。そこから二週間、私は地質屋なのに言語解析班へ入り浸った。本来の調査報告書はミナがほとんど仕上げた。申し訳ないので食事を奢ったら、「一回で済むと思ってるんですか」と言われた。解析は進んだ。素数。元素番号。水素のスペクトル。恒星の質量比。物理量を固定して、そこから単位を導いている。そして単位が読めると、年代らしい数字が出てきた。数字の横に同じ記号が何度も付いている。最初は何を意味するか分からなかった。ところが、二つ前の記録にも似た構造がある。さらにその前にも。
ネイラが三つの文章を並べた。
「この三つ、たぶん同じ内容です」
「後の記録者が翻訳した?」
「部分的に。後の記録者が、前の記録を自分たちの言語へ置き換えている」
文章の長短はあるが、不完全ながら対応関係が取れる。一番新しい文章から一つ前へ、そこからさらに古いものへ、逆向きの辞書ができ始めた。最初に意味が取れた一文を、私は今でも覚えている。ネイラの指が画面の一行で止まり、そのまま動かなくなった。
「読めたんですか」
「たぶん」
彼女は一度、原文を確認した。それからゆっくり訳した。
「『我々も、これを発見した』」
椅子がいくつか軋み、視線が隔離室の黒い直方体へ流れた。我々も。つまり彼らも最初ではない。
その先も読めるか尋ねると、ネイラはまだ確定ではないと断ってから訳を続けた。
「『前の者たちの記録を確認した。理解できた部分をここに残す』」
背中がぞわっとした。これは記念碑ではない。誰かが作り、誰かが拾い、その次の誰かがまた拾った。そして見つけるたび、解読した結果を書き足している。
「これ、何回続いてるんです?」
部屋の端から、これが何回続いたのだろうという声がした。二十七種類の刻印をそのまま数えるなら、少なくとも二十七回。ただし、文字を残さなかった発見者がいた可能性もあるし、一つの文明が何度も追記したのかもしれない。最初の声が刻まれた場所へ目を寄せても、見えるのはただの線である。それなのに意味を知った途端、何十万年、あるいはもっと前に、同じものを前にして困っていた誰かが線の向こう側にいるように思えた。その日の夕方、二文目が読めた。
『発見時、本記録体は地中に埋設されていた』
「地中か」
となると、偶然そこに転がっていたものを拾ったわけではないらしい。誰かが埋めたのか、それとも長い時間のうちに埋まったのか。そこまで分かれば話も変わってくるが、残念ながら肝心の場所がまだ読めない。
「どこの地中でしょうね」
「それが分かれば苦労しないよ」
ネイラが解析中の文字列を表示する。場所らしい記述はその先に続いているが、今のところは記号の羅列にしか見えなかった。
三番目に新しい記録は、解読が進むほど変だった。文章そのものではない。時間だ。記録者は自分たちの暦だけでなく、物理定数を使った絶対時間らしい値を書いていた。誤差はある。それでも前後関係は取れる。二十七番目と二十六番目の間、およそ六十万年。二十六と二十五の間、九百万年。次は三百万年。そして一ヶ所だけ、桁が違う。一億二千万年。
「やっぱり読み違いじゃない? 零が一つ多いとか」
同じようなことを、私はもう何度も聞いていた。
ネイラは、またその話かと言いたそうに片眉をわずかに上げた。
「単位系を三通りで確認しました」
一億二千万年。誰もこの物体を見つけなかったのか。それとも文明そのものがなかったのか。そこは分からない。ただ、後の記録者も同じ疑問を持ったらしい。文章の一部に、長い空白について触れた箇所があった。
『前記録者以降、本地点に知的活動の痕跡なし』
地点。この言葉が出たことで、研究班は別の方向へ動いた。記録の中には天体配置らしい図もある。恒星。惑星。衛星。最初は記号にしか見えなかったが、数字が読めるようになると軌道半径や周期が取れた。
「いまの星表に該当する星系はあります?」
天文学班が検索した。一致なし。候補もなし。恒星の質量、惑星数、衛星の比率。どれも現在の星表に当たらない。
該当する星系そのものが消えた可能性を口にすると、天文学班は、これだけ時間があればあり得ると答えた。
私は天文学者ではないので、そこから先は任せた。代わりに材料表面の履歴を追う。面白いことが出てきた。黒い直方体には、一度だけ大きな衝撃を受けた跡がある。見た目では分からない。内部の層が局所的に崩れている。
「隕石、かね」
「可能性はありますが、それにしては方向が揃いすぎています」
解析担当者が断面モデルを出した。複数の高エネルギー衝撃が、ほぼ同じ方向から集中している。
「撃たれたか……」
冗談半分の声だったが、断面モデルを見たまま誰も口元を緩めなかった。その損傷の直後に、別の材質で補修された跡がある。つまり壊れたあと、誰かが直した。刻印の年代と照合すると、第十九記録と第二十記録の間だった。第十九の文章はほとんど失われている。砲撃痕がちょうどその部分を潰していた。第二十記録は比較的読みやすく、そこには短く書かれていた。
『前回の発見者は本記録体を破壊した可能性が高い。我々は回収可能な破片を再結合した』
「本当に撃ったんだ」
思わず口から漏れると、ネイラが鼻を鳴らした。
「理由は書いてません」
「気に入らなかったのかな」
「危険物だと思ったのかもしれません」
二十七文明分の記録が全部理性的である保証などない。そこに少し安心した。安心するところではない気もする。夕方、失われた星系の位置が推定された。銀河運動を逆算し、古い記録の恒星配置と照合した結果だ。現在は何もない。正確には、白色矮星が一つある。
「これが元の恒星だった可能性があります」
画面に小さな点が表示された。距離は二百七十光年。古い記録では、主系列星だった。今は死んでいる。惑星系も乱れている。
「この物体は、その星系から運ばれてきたんですか」
「少なくとも途中の記録はそう主張しています」
視線を黒い直方体へ戻す。雑貨屋から中央大学へ運んだだけでも大騒ぎだったこいつは、その前に恒星系を一つ越えているらしい。しかも、その故郷らしい星はもうない。急に距離感がおかしくなった。古い、という言葉では足りない。翌日、一億二千万年の空白の前後をつなぐ文章が読めた。空白の後に現れた文明は、自分たちより前の記録者についてこう書いていた。
『彼らが我々と同じ種であったかは判断できない』
私はそこを何度も読み返した。文明が違うだけではない。生き物まで違った可能性がある。それでも、同じ黒い板に文字を足している。ずいぶん長い伝言板だ。
失われた星系の第三惑星には、大きな衛星が一つあった。そこまでは前から分かっていた。問題は、その衛星の記述が異様に多いことだった。軌道半径。質量。表面重力。自転周期。そして、ある地点の座標。座標が繰り返し出てくる。
「繰り返し出てくる座標が、発見場所ですか」
ネイラは小さく顎を引いた。
「少なくとも複数の記録者がそう書いています」
衛星の地図を復元する。現在、その衛星は存在しない。白色矮星化の過程で軌道が乱れたのか、もっと前に失われたのかは分からない。ただ古い地形図は記録に残っていた。大きなクレーター。その近く。地下。
「最初は月に埋まってたんですね」
ミナが復元図の座標を指先で囲んでいる。最近は彼女も正式に解析班へ入っていて、地質調査報告書を完成させた功績で呼ばれた、と本人は主張している。反論しようとすると、未完成だった私の報告書が頭に浮かぶので、口を閉じておいた。
「月、か」
第三惑星の衛星。古い記録の音価を復元すると、どうも短い固有名があったらしい。まだ発音は確定していない。ルナに近い記録もあれば、ムーンに近いものもある。複数言語があったのだろう。
では、なぜ地下へ置いたのか。
そこが次の謎だった。第七記録には、発見時の状況がかなり詳しく残っている。彼らは地質調査中に人工物を検出した。掘削。回収。内部調査。そして先行記録を発見。ここまでは今の私たちと大差ない。ただし彼ら自身も、なぜ最初の製作者が地下へ埋めたか理解できなかったらしい。
『設置行為に宗教的意味があった可能性』
そんな訳文が出たとき、鼻からふっと息が漏れた。
「何です?」
ネイラが訳文から顔を上げる。
「いや、将来うちの大学の建物が発掘されたら、会議室にも宗教的意味があるって言われるのかなと思って」
「ある意味ではありますね」
否定されなかった。地下に置いた理由は、かなり古い記録まで遡らないと分からないらしい。一方で、月面から搬出された時期は特定できた。恒星が明るくなり、第三惑星の環境維持が難しくなった頃。記録者たちは衛星から黒い直方体を回収した。
『原位置での保存継続は不可能』
『記録体系の存続を優先』
そして恒星系外へ持ち出した。
「これ、文化財扱いだったんだ」
言葉にしてみると、雑貨店の油染みがついた姿との落差がいっそうひどい。
「少なくともその文明では」
「ダロさん、文化財で鍬叩いてたんだな」
ミナがケタケタと声を立てている。本人に言ったら怒るだろう。ただ、そこで一つ引っかかった。
「どうして持ち出すほど大事だったんだろう」
古い文明の記録があるから。それだけでも十分価値はある。でも、何億年も受け継いで、恒星系を離れる時まで持っていくほどか。
「内容だけなら、全部コピーして持ち出せば済みますよね」
ミナも同じことを考えたらしい。
原物そのものを残すことに、博物館の収蔵品に近い意味があったのだろうか。
ネイラが記録群の中から別の文章を開く。
「この辺が関係あるかもしれません」
かなり後世の記録だった。
『原物を保持すること自体が先行文明との約束である』
約束。
誰と誰の? さらに下。
『発見した者は記録を追加し、可能であれば再び埋設する』
唇を窄めたまま、しばらく次の行を眺めるしかなかった。
「見つけた後の扱いまで決まっていたんですか」
「後から成立した慣習でしょうね」
見つけた者が読み、自分たちの記録を足して、また埋める。それを何文明も繰り返していた。理由は最初の文章にあるはずだが、最古層は文字体系が違いすぎて、解読がほとんど進んでいない。後世の翻訳もそこだけ妙に不完全で、意味をそのまま移せずに困った跡が残っていた。その日の最後に出た古い単語の候補は、創作、あるいは虚構だった。画面の文字を見ても、なぜここでそんな言葉が出るのか見当がつかない。
「何でこんな言葉が?」
誰も分からなかった。
最古層を読む仕事は、言語学というより考古学に近くなっていた。分からない単語を一つずつ拾う。後世の翻訳を当たる。それでも意味が合わなければ、当時の概念そのものを考える。私は横で見ているだけのつもりだったが、いつの間にか毎日参加していた。
ミナに、私の専門は何だったかと改めて聞かれた。地質学だと答えると、最近まともに石を見ているかと重ねてくる。
「黒いのを毎日」
「それ人工物です」
知っている。翻訳班で一番苦しんでいたのはネイラだった。単語は読める。文法も少しずつ見える。なのに文章として意味が通らない。
「この語は『作品』で、その隣は見る、鑑賞する、投影する……でしたよね。映像作品ということはありません?」
「可能性はあります」
さらに人物名らしい固有名詞が二つ。その一つは何度も出てくる。キューブリック。音価をそう復元したとき、誰も反応しなかった。当然だ。知らない名前だ。もう一つ。クラーク。この二人が何者か分からない。王か。宗教家か。技術者か。
「二人で作った何か?」
そう口にすると、ネイラの指が文章の続きを追った。
「一人は……映像作品の制作責任者に近い。もう一人は物語の作者か共同作者」
「映画?」
ミナの口から零れた一語に、室内の物音が少し遠のいた。映画という言葉は今もある。形式は昔と違うが、意味は分かる。創作物、映像、物語。ここまでそろえば近い。
「この古代文明、映画の話を書いてる?」
つい黒い直方体へ目が戻った。
何億年も受け継がれた文化財。
恒星系から持ち出された記録体。そして最古層に映画の説明。どうつながる。その後、一週間ほとんど進まなかった。固有名詞が多すぎる。国家名。地名。年号。当時の暦。太陽系の惑星名。ただ、数字は読める。ある年が繰り返される。一九六八。その翌年に別の出来事。一九六九。
「これ、公開年と何かの達成年じゃないですか」
ネイラが一九六八の並びを指先でなぞる。
「人間が衛星へ到達した年、という意味ですか」
「そう読めます」
年号の順を頭の中で並べ直してから、映画の方が先なのかと聞き返した。
「一年先です」
「月へ行く映画を作って、その翌年に本当に行った?」
「正確には、この作品の筋はもっと複雑ですが」
面白い文明だ。急に遠い存在が少し近くなった。未来を想像して映画を作り、そのすぐ後に実現した。記録したくなる気持ちは分かる。だが黒い直方体との関係はまだ見えない。その夜、ネイラから呼び出された。私は食堂にいた。
『読めたかもしれません。来てください』
走って解析室へ行く。画面に原文と仮訳が並んでいた。ネイラは座ったまま動かない。
「訳が合ってるなら、私たち、ずっと勘違いしてました」
何を、と聞きながら画面を覗き込むと、彼女が一行を指した。
『この物体は、作品内に登場する人工物を模して製作された』
一度では意味が入ってこず、最初から読み直した。
「模して?」
「再現した、でもいいです」
「……本物じゃない?」
何の本物か、自分でも変な質問だと思った。だがネイラは口元一つ動かさなかった。
「最初からレプリカです」
何億年分の歴史の始まりが、急におかしな方向へ曲がった。
題名の解読には、さらに三日かかった。数字は簡単だった。二〇〇一。問題は、その後に続く語だ。宇宙。旅。移動。航行。文脈を合わせ、最終的にネイラが仮題を出した。
『二〇〇一 宇宙の旅』
「そのままですね」
ミナは題名と直方体を見比べながら、首を傾けた。
「そのままだから確定しづらかったんです」
確かに、古代文明の創作物の題名としては普通すぎる。解読された概要には、人類より古い知性が残した黒い直方体を月の地下で発見し、それが人類の進化や宇宙進出に関わる話だとある。一対四対九という寸法まで一致していた。途中で読む手が止まった。
「……これ、全部?」
ネイラが頷く。
「元ネタです」
口元が緩みかけた。ただ、まだ何かがおかしい。
「最初の人たちは、映画の真似をするために作って、わざわざ月へ埋めたんですか」
「その記述を今読んでいます」
数時間後、確定した。最初の製作者は、映画公開からかなり後の時代に生きた人々だった。月面旅行が一部の民間人にも可能になった頃。映画の記念事業として、作品に登場する黒い直方体を現実に作った。寸法比も作品に合わせた。そしてわざわざ月の地下へ埋めた。
何のためかは、もう分かったような気もした。それでもネイラに先を読んでもらった。
『将来の探査者が、物語と同じ状況でこれを発見することを期待する』
額を机へ押しつけた途端、腹の底から声が漏れた。止めようとしても肩が震える。
二十を越える文明に拾われ、一度は撃たれ、恒星が死ぬ前には系外へ持ち出され、最後は辺境の雑貨屋で金床になった。その何億年もの始まりが、映画の再現企画だった。
「先生、大丈夫ですか」
「いや、駄目だ」
目の端に涙が滲んだ。肩が震えすぎたせいだと思った。だが、次の文章を読んだところで分からなくなった。
『これを発見したあなたへ』
そこで文章の調子が変わる。展示用の説明ではない。相手を想定した文章だ。
『我々がまだ存在しているかは分からない。あなたが我々と同じ人類であるかも分からない』
さっきまで漏れる声を抑えきれなかったのに、急に喉が詰まった。
『それでも、あなたがこれを掘り出し、記号を情報として認識し、ここまで解読できたなら、我々の意図の大半は伝わっている』
ネイラの声が少し震えた。画面から目を離そうとしても、視線がそこへ貼りついていた。
『この物体は、我々の時代には娯楽作品に由来する冗談である』
息を吐くたび、また声が漏れた。今度は涙も一緒に出た。
『作品の中で、人類は月の地下から黒い物体を発見する。そこで我々も同じ場所に似た物体を埋めることにした』
馬鹿だ。大馬鹿だ。数億年後の誰かに向けて、こんなものを埋める。しかも本当に誰かが見つけてしまった。第2文明も。第3文明も。その後の連中も。そして私たちも。
『もしあなたが月の地下からこれを発見したのであれば、我々の企画は成功した』
喉につかえていたものが、今度は涙と一緒に声になって出た。周りを見る余裕もない。遥か昔の誰かが、こちらがこの文章を読むところまで想像している。顔も知らず、名前もほとんど残っておらず、住んでいた惑星すらもうない。それなのに冗談だけは通じた。どうにか息を整えて顔を上げると、ネイラも指先で目元を拭っていた。
「これ、最初に読むのが翻訳者なのは反則ですよ。情緒が持ちません」
それはそうだと思う。
最初の記録を読み終えたあと、後世の文章が急に違って見えるようになった。それまでは研究資料だった。文明Aが文明Bを翻訳し、文明Cがそれを訂正した。年代と語彙と材料の問題。ところが最初の冗談を知ってから読むと、全員が同じものを掘り当てた参加者に見える。第二記録は特にひどかった。解読できた部分をまとめると、ほぼこうなる。
『発見した。意味も理解した。あなた方の期待した場所から出てきた。非常に腹立たしいことに面白かった』
「これ、訳を盛ってません?」
ネイラは、まさかというように口の端を上げてみせた。
「最後の形容はもっと強いですね。多分、意訳するなら『クソ腹立つけど面白かったわ』ぐらいです」
ネイラ女史のスラングのキマった発言は珍しかったので周りの研究者がいっせいに彼女を見た。
「え、な、何よ。割と正しい訳だと思ってるわよ⋯⋯?」
話を元に戻すと、古代の翻訳者も同じ目に遭ったらしい。第三記録は真面目だった。第一記録の文化的背景を分析し、当時の映像技術や宇宙開発史を推定している。第四記録は第二の翻訳ミスを訂正した。第五記録は自分たちの言語との対応表を大量に追加している。ここで現在の私たちがかなり助けられた。第七文明は博物館へ収蔵した。第九文明は、その博物館跡から再発見した。第十一文明は、一度地上文明が崩壊したあと、月へ再進出した際に見つけている。第十二文明は自分たちを「継承文明」と呼んでいた。
前の文明との直接連続性があったらしい。第十九は撃った。第二十は直した。第二十三は砲撃についてかなり怒っていた。
『理解不能を理由に破壊を選択した先行者について、我々は記録上の文明番号を付与することに反対した』
「番号飛ばしてやればよかったのに」
ミナが少し意地の悪い笑みを浮かべる。
「でも残したから分かるんですよ」
ネイラは刻印の欠落箇所を指しながら、言う。確かに。撃ったことまで記録になるのだ。第二十八に相当する文明は、恒星の増光が進む中で月から搬出し、書き残した。
『原位置での継承はここで終了する。以後の発見者は、場所ではなく記録体そのものを継承地点とされたい』
月から掘り出す、という最初の冗談はそこで終わった。ただ、別の習慣が残った。発見したら記録を追加する。それを次へ渡す。いつしか黒い直方体そのものが文明間の往復書簡になっている。
「私たちも書くんですよね」
ミナが追加板の予定図からこちらを覗き込む。返事より先に、原物へ刃を入れるところを想像してしまった。科学者としては怖すぎるし、保存担当も当然反対した。
「文化財に勝手に文字を彫るんですか?」
会議で言われた。
「勝手じゃなくて、これ自体がそういう文化財です」
「だからといって二十八文明目の慣習を現代法より優先できますか」
正論だ。揉めた。三週間。最終的に、原物への直接追記は最小限にし、同材質に近い追加板を接合する案になった。ただし接合も可逆的にする。
追加板へ何を書くかが議題に上がったとき、私は最初から決めていた文を出した。
『我々はこの物体をノヴァ・セティ第三居住区で再発見した』
ここまでは普通。続ける。
『発見時、本品は雑貨店において金床として使用されていた』
会議室のどこかから忍び笑いが聞こえてきた。つられて保存担当の肩まで震えている。顔、真っ赤だぞ。だが、これだけは残すべきだと思う。何億年分の威厳を、最後に金床が全部持っていった。
第一記録に出てくる第三惑星の固有名が確定した。
地球。
音としてはもっと古い複数の呼び方があったが、後世の翻訳群ではこの意味に統一されている。人類発祥の惑星。今はない。正確には、惑星だった物質の一部は白色矮星の周囲に残っている可能性がある。それでも地球と呼べるものは存在しない。
地球の跡へ探査機を送れないか天文学班に聞いてみたが、二百七十光年という距離より先に、予算をどこから出すのかと返された。
現実的な話をされた。ただ、この発見が公表されれば話は変わる。そして公表は近かった。最初は学術的な年代異常として始まった。今では、人類史そのものを書き換える資料だ。現在文明以前に少なくとも何十回もの文明段階があり、その一部は人類ではなかった可能性もある。しかも最初の記録者は、現人類と遠い祖先関係にあったらしい。人類という言葉をどこまで広く使うかでも揉めている。記者会見の日、私は端に座るつもりだった。発見者という理由で中央に置かれた。嫌だ。質問は予想通りだった。
「これは地球外文明の証拠ですか」
「地球外で発見された文明資料ではありますが、最初期の製作者は地球起源と考えられます」
「人類以前の文明ですか」
「現在の年代体系でいう人類文明より遥かに古い記録を含みます。ただし生物学的連続性はまだ不明です」
「なぜ雑貨店に?」
これが一番多かった。私はダロの話をそのまました。古い移民船。解体場。祖父が拾った。硬かったから金床にした。最前列で口元を押さえる記者がいて、その後ろからも小さく息が漏れる音が続いた。黒い直方体の来歴を説明するには、これ以上簡潔な話もない。会見後、ダロから連絡が来た。
「テレビ見たぞ。なんで俺の名前を出さなかった」
「許可をもらってませんから」
「店の宣伝になったのに」
そっちか。
金床が返ってくるかも確認されたので、たぶん無理だと答えた。少し黙ったあと、なら新しい方は自分のものだなと言う。
「二台ともどうぞ」
「最初からそのつもりだ」
通話が切れた。数日後、地球跡への探査計画が本当に立ち上がった。到着は何百年も先になるので、結果を待つには私の寿命がいくらあっても足りない。この物体に関わった連中も、ずっと自分の後に読む相手を知らないまま記録を残してきたのだろう。第一記録の最後には、短い文章があった。
『我々について知る必要はない。ただ、我々があなた方と同じように、物語を作り、笑い、遠い未来を想像したことが伝われば十分である』
私はこの一文が好きだった。国家名も王の名も戦争もなく、自分たちの偉大さを訴えてもいない。映画を作り、馬鹿な企画を実行した連中がいた。その生活の跡だけは、出来すぎた英雄譚より信じられた。
追加板の製作には一年かかった。黒い直方体ほど頑丈にする必要はない、という意見もあった。私は反対した。
「次に見つけるまで一億年空くかもしれないんですよ」
保存担当が頭を抱えた。
「あなたは一億年を普通の保管期間みたいに言わないでください」
でも前例がある。最終的に、材料班が妙な意地を出した。原物と同じ構造は無理だが、可能な限り長期安定する積層材を作る。月面保存も検討された。現在の月ではない。ノヴァ・セティには衛星が二つある。片方は地質活動がほとんどなく、地下保存には向いている。
月面保存案を見たミナは、本当にまた埋めるのかと呆れた。そういう話になっている、としか答えようがない。
原物の履歴を考えると、展示し続けるより地下の方が長持ちする。ただし一定期間は博物館で公開され、当然のように観光地になった。私も何度か見に行ったが、照明と隔壁に囲まれ、監視員まで付いた姿は雑貨店で見たものとは別物に見えた。説明板には何億年の歴史を持つ人類最古級の記録体とあり、その脇に発見時用途として「金属加工用金床」と小さく添えられている。そこまで読んだ見学者は、まず黒い直方体を見直す。次に隣の者と顔を見合わせ、どちらからともなく口元が崩れる。離れ際まで肩を揺らしている者もいた。追加記録には、現在文明、使用言語、生物学情報、星系位置、年代、物理単位と、解読結果をまとめることになった。
最後に一段落だけ、私が書いた文が残った。
『我々は先行記録者の意図を理解した。少なくとも、理解したと思っている。我々にも、この冗談は通じた』
ネイラは文章を読み返し、末尾へ一文加えた。
『翻訳作業中、複数名が笑い声を抑えきれず、一部は涙を流した』
「そこまで書きます?」
「一次資料です」
強い。さらに、ダロの店についても詳しく残した。発見者の祖父が古い移民船から持ち出した可能性。数世代にわたって用途不明のまま保管され、最終的に作業台となったこと。上面に金槌の痕跡はほとんど残らなかったこと。ふと思い立ち、私はもう一文追加した。
『所有者は最後まで、本品を金床として返却するよう求めた』
これは削られた。さすがに冗談が多いと言われた。仕方がない。埋設式の日、ダロも招かれた。彼は黒い直方体を見て言った。
「綺麗になったな」
「元からです」
「俺が磨いたんだ」
「鍬で?」
「毎日な」
否定できない。彼の店で何十年も叩かれた時間も、もう履歴の一部だ。輸送船が離陸し、黒い直方体を衛星へ運んでいく。今回は埋設地点も公開されず、地図には関係者用の封印記録が一つ増えただけだった。
ミナは空へ消えていく輸送船を見ながら、今度も誰かが見つけるだろうかと呟いた。私には、さあとしか言えなかった。
一万年か。一億年か。誰にも見つからないまま星系が終わるかもしれない。それでも埋める。最初の連中もたぶん同じ気分だったのだろう。馬鹿みたいだと思いながら、少しだけ期待する。
いつか誰かが掘る。
追加記録の埋設から四十年後、私は三番街へ戻った。仕事ではない。引退して暇になったからだ。ダロの店はまだあった。店主は変わっていた。孫だという。
「昔ここに黒い金床があったんですが」
聞くと、すぐ分かった。
「ああ、あれ。爺さんがずっと文句言ってましたよ」
「返ってこなかったって?」
「新しい金床二つもらったくせに」
店の奥を見る。本当に二台ある。片方はよく使い込まれていた。もう片方は棚になっている。金床の上に商品を積むなと思うが、口には出さない。壁に古い写真が飾ってあった。ダロと、黒い直方体。まだ作業台に固定されていた頃の写真だ。説明書きもある。
『人類最古級の歴史資料を金床として使用していた店』
完全に観光資源になっていた。
「これ、客来るんです?」
「たまに。黒い金床見に来たって言われても、もうないんですけどね」
「でしょうね」
「だからレプリカ作ろうかって話があるんですよ」
嫌な予感がした。数年後、本当に作られた。一対四対九の黒い直方体。もちろん普通の材料だ。店の前に置かれた。観光客が写真を撮る。そのうち誰かが金槌で叩き始めた。歴史は妙なところで繰り返す。私はその光景を見ながら、最初の文明について考えた。彼らもたぶん、こんな感じだったのではないか。映画が好きな人間が集まる。月へ行けるようになった。じゃあ本当に作って埋めよう。最初は観光企画。記念イベント。少し悪ふざけ。それが何億年後には文明史の基準点になる。何が残るかなんて誰にも分からない。
大事に作った記念碑が千年で消える一方で、雑貨屋の金床が恒星の死を越える。何を残せるかは選べなくても、消えにくくする手間ならかけられる。私たちが追加記録を埋めたのも、その程度の抵抗だった。帰り際、店の孫が聞いた。
「先生、本物はいつ掘り出すんです?」
「予定はないですよ。次に必要になるまで、かな」
何のために埋めたのか分からない、と店主は首をひねった。必要になるのは、むしろ来ない方がいい日だった。
文明が続けば、場所は記録されている。わざわざ掘る必要はない。文明が途切れ、記録が失われ、それでも次の誰かが月まで来たとき。そこで初めて、また役割が生まれる。つまり、あの黒い板が再発見される日は、私たちが忘れられた日でもある。それは少し寂しい。でも、その日にも古い冗談が通じるなら悪くない。
*
その日が訪れたのが何年後だったのか、リオたちの暦で数える者はもういなかった。
その黒い石がいつから店にあったのか、店主は知らなかった。古い輸送船の部品だった、と祖父から聞いたことがある。その祖父も、さらに前の持ち主から譲られただけだった。何でできているかは分からない。ただ硬い。だから便利だった。店主は曲がった金具を石の上へ置き、槌を振り下ろした。澄んだ音がする。客が一人、棚の向こうから顔を出した。
澄んだ音の正体を尋ねられ、店主は黒い台を槌で示した。近寄ってきた客は若く、服装を見る限り軌道港から来た旅行者ではない。調査員か技師らしかった。
「変な形の金床ですね。普通はこんな直方体じゃないでしょう」
「叩けりゃ同じだ」
相手はしゃがんだ。側面を見る。
「側面に文字みたいなものがありますよ」
「傷だろ」
店主は続きを聞かなかった。何十年も使っている。読める文字ならとっくに誰かが読んでいる。客は指で表面をなぞった。
「読めないな。どこから来たものなんです?」
「昔の船らしいが、それ以上は知らん」
客の口元が緩んだ。
「分かってることは?」
「硬い。それで足りてる」
店主は槌を持ち直した。仕事が残っている。ところが客は動かなかった。携帯端末を出し、側面を撮影している。
「邪魔だぞ」
「すみません。傷はつけないので、少し調べさせてもらえませんか」
壊すなと念を押され、客は携帯端末を台へ近づけた。
昔にも誰かが同じことを言ったのかもしれない。もちろん店主は知らない。客が表面の汚れを拭う。黒い地肌が現れる。その下に、幾つもの文字列。古いもの。新しいもの。途中で砕け、補修されたもの。最後の一枚には、比較的浅い刻印が残っていた。客はその規則性に気づいた。数学らしい。数字。物理定数。言語対応表。そして、ずっと古い文字へ続く翻訳の鎖。まだ何も読めない。それでも、これは情報だと分かる。客は立ち上がった。
「一日だけ貸してもらえませんか。代わりに、あっちの金床を買って置いていきます」
店主は眉を寄せ、自分に買うのかと棚へ目をやった。客が頷くと、その視線は棚の金床と客の顔、黒い石の間をゆっくり往復した。
「お前、変な奴だな」
「よく言われます」
*
最初の翻訳に成功するまで、百四十三年かかった。その文明には、地球という言葉も、月という言葉も残っていなかった。太陽系は古い星表の中に、既に消滅した恒星系として載っているだけだった。翻訳者は最初、記録体を宗教施設の一部だと考え、次には文明間の条約碑を疑った。さらに研究が進み、何十もの文明が同じ物体へ記録を書き足していることを知る。そして最古層へ辿り着いた。題名。二〇〇一。宇宙の旅。失われた映像作品。黒い直方体。月の地下。そこまで読み上げた唇が閉じ、研究室には機器の低い駆動音だけが残った。
周囲の研究者が続きを待つ。彼はもう一行読んだ。
『もしあなたがこれを月の地下から発見したのであれば、我々の企画は成功した』
月ではなかった。
雑貨店だった。しかも金床として使われていた。翻訳者の喉から最初は小さく息が漏れ、やがて堪えきれない声になった。周囲は意味が分からず見ている。目尻にはいつの間にか涙が溜まっていた。何億年も前の生き物が仕掛けた冗談だった。その生き物の惑星はない。恒星もない。文明も言語も残っていない。それでも冗談だけは届いた。彼は片手で顔を覆い、肩が収まるのを待ってから、最も新しい記録を読み返した。そこには、自分たちより前にこの物体を発見した文明の文章が残っていた。
『我々はこの記録体を辺境居住区にて発見した。発見時、本品は雑貨店において金床として使用されていた』
翻訳者は口元を押さえたが、肩の揺れまでは隠せなかった。どうやら前にも同じことがあったらしい。研究が終わったあと、彼らは長い議論をした。博物館へ置くべきだという意見、地下へ戻すべきだという意見、宇宙へ運ぶべきだという意見が出て、最終的には一枚だけ新しい記録を追加することになった。
『我々もこれを発見した』
その次に、彼ら自身について書いた。自分たちの星。身体。言語。時代。そして最後に一文。
『発見時、本品は再び金床として使用されていた』
金床の一文は削った方がいいという声も出たが、翻訳者は譲らなかった。結局、そのまま残った。黒い直方体は再び梱包され、まだ行き先も決まっていないうちから、次に見つける誰かのための辞書が同梱された。
次に開かれるのが百万年後なのか一億年後なのか、あるいは二度と開かれないのかは分からない。最初に月へ埋めた者たちにも、その先を確かめる方法はなかったはずだ。それでも彼らは作って埋め、後から来た者は読んで書き足した。新しい辞書を収めた箱が閉じられ、黒い直方体はまた、行き先の決まらない荷物になった。