[DQ3]へんげのつえIF-トロルのメイド 作:ばっどぼーい
サマンオサ城を見下ろす岩山の陰で、ボストロールは腕を組み、苛立たしげに鼻を鳴らしていた。
本来ならば、今ごろ自分は城の最上階にある寝室で、柔らかな寝台に寝転がりながら、王の姿で酒でも飲んでいるはずだった。
計画は単純だった。
城の外へ出た王を襲い、へんげのつえでその姿を奪う。あとは本物を地下牢へ放り込み、自分が王として城へ戻ればいい。人間どもは、顔と声さえ同じならば疑いもしない。王の椅子に座り、気に入らない者を牢に入れ、逆らう者を処刑し、城の食料庫を好きなだけ空にする。
そのはずだった。
「なぜ王が、予定より半日も早く戻るのだ!」
ボストロールが地面を拳で殴ると、岩肌に亀裂が走った。
王が狩りから戻る道を待ち伏せしていたにもかかわらず、獲物が見つからなかったという理由で一行は早々に引き返してしまった。しかも城門の警備は、つい数日前から倍に増やされていた。どうやら近隣で魔物の目撃が相次ぎ、王自ら警戒を命じたらしい。
正面から押し入れば、城を壊すことはできる。
だが、それでは意味がない。
魔王から命じられているのは、サマンオサを滅ぼすことではなく、王国を内側から支配することだった。国を動かし、人間同士を疑わせ、恐怖によって従わせる。そのためには、王の姿と地位が必要になる。
ボストロールが再び唸ったとき、背後の暗がりから黒い影が伸びた。
影は人のような輪郭を作り、赤い二つの目だけを浮かび上がらせた。
「計画は変更だ」
感情のない声だった。
ボストロールは不機嫌そうに振り返る。
「変更だと? ならば夜に城へ忍び込み、王を叩き潰せばよい。壁くらいなら登れる」
「お前の巨体でか」
「……窓を広げれば入れる」
「それを侵入とは呼ばぬ」
ボストロールの額に太い青筋が浮かんだ。
相手がただの魔物であれば、その場で握り潰していた。しかし目の前の影は魔王直属の遣いであり、その言葉はほとんど命令に等しい。
「では、どうしろというのだ」
「城内へ正規の手段で入れ」
「兵士にでも化けるのか」
「兵士の募集は終わっている」
「商人か」
「城内へ自由には入れぬ」
「料理人」
「身元の確かな者しか採らぬ」
遣いはそこで、わずかに間を置いた。
「現在、城では住み込みのメイドを募集している」
風が止まった。
ボストロールは何も言わなかった。
「聞こえなかったか」
「聞こえた」
「ならば話は早い。女に化け、応募しろ」
もう一度、沈黙が落ちた。
ボストロールは城を見た。次に遣いを見た。そしてまた城を見た。
「庭師は」
「募集していない」
「厩番」
「募集していない」
「牢番」
「募集していない」
「なぜメイドだけ募集している!」
怒声が谷に響いた。
木々に止まっていた鳥が一斉に飛び立ち、遠くで小動物が逃げていく音がした。
遣いは少しも動じなかった。
「王妃付きの侍女が二人、相次いで退職した。城では人手が足りていない。採用されれば、王族の生活圏へ入れる可能性がある」
「俺に皿を洗えというのか」
「必要ならば」
「床を磨けと」
「必要ならば」
「人間の女どもの服を着て、頭を下げて働けと?」
「王に成り代わるまでの辛抱だ」
ボストロールは大きく息を吸った。
胸が膨れ、鼻から熱い息が噴き出す。握り締めた拳は震え、岩を砕きたくて仕方がないようだった。
しかし、やがてその手をゆっくりと開いた。
「……王になった暁には、城中のメイドを全員牢へ入れる」
「好きにしろ」
「採用係もだ」
「王になってから考えろ」
「この計画を考えた者もだ」
影の赤い目が細くなった。
「何か言ったか」
「何も言っておらぬ」
遣いが差し出したへんげのつえを、ボストロールは乱暴に奪い取った。
「姿は自分で選べるのか」
「ある程度はな。ただし、人間として不自然な姿になれば疑われる。若く、健康で、働き慣れていそうな女がよい」
「強そうな女にする」
「メイドの募集だ」
「背の高い女にする」
「目立つ」
「筋肉は」
「減らせ」
「牙は」
「消せ」
「角は」
「お前に角はない」
「たとえばの話だ!」
ボストロールは忌々しげにつえを掲げた。
先端の宝玉が鈍く光り、その巨体を紫色の煙が包み込む。骨が縮み、太い腕が細くなり、岩のような肩が狭まっていく。突き出していた腹は引っ込み、節くれ立った指は人間らしく小さく整えられた。
煙が晴れたあと、そこに立っていたのは二十代半ばほどの女だった。
背は人間の女性としてはやや高く、赤褐色の髪を後ろで束ねている。顔立ちは整っているものの、眉間には深いしわが寄り、目つきは獲物を品定めする魔物のそれだった。
遣いはしばらく眺めたあと、言った。
「笑え」
「笑っている」
「それは人を殺す直前の顔だ」
女の姿をしたボストロールは口角を持ち上げた。
「こうか」
「余計に恐ろしい」
「人間の笑い方など知らぬ」
「鏡を見て練習しろ。それから言葉遣いも改めろ」
遣いは一枚の紙を差し出した。
城の使用人募集を知らせる紙だった。応募者は翌朝、城の通用門へ来るよう記されている。
「名前も用意してある。ボ――」
「ボストロールでよい」
「よいわけがない」
「では、ボストロール子」
「人間を侮りすぎだ」
遣いは紙の隅を指した。
「ベルタと名乗れ。地方の農家で働いていたが、家族を失い、住み込みの仕事を探している。料理と洗濯が得意という設定だ」
「どちらもやったことがない」
「今夜中に覚えろ」
「俺は軍隊を率いる上位の魔物だぞ」
「明日からはメイド見習いだ」
女の姿をしたボストロール――ベルタは、紙を握り潰しかけ、辛うじて思いとどまった。
翌朝。
サマンオサ城の通用門前には、十数人の女たちが並んでいた。
皆、清潔な服を着て、緊張した面持ちで自分の順番を待っている。その最後尾に、誰よりも険しい顔をした長身の女が立っていた。
「次の方、お名前を」
受付の兵士に尋ねられ、女は低い声で答えた。
「ボス――」
背後の茂みから、赤い目が光った。
女は歯を食いしばる。
「……ベルタだ」
「ベルタさんですね。年齢は?」
「三百――」
茂みの影がわずかに揺れた。
「二十五だ」
「前職は?」
「人間を――」
赤い目がさらに強く光った。
「農作業で使っていた」
「何をですか?」
「……斧を」
兵士は一瞬、不審そうな顔をしたが、応募用紙へ記入を続けた。
「得意な仕事は?」
ベルタは昨夜、遣いから何度も暗唱させられた言葉を思い出した。
「料理と洗濯、それに掃除だ」
「なるほど。力仕事はできますか?」
その問いに、ベルタの表情が初めて明るくなった。
「得意だ。人間一人なら片手で――」
言いかけて、咳払いをする。
「米袋を三つほど持てる」
「それは頼もしい」
兵士は好意的に頷いた。
「では、簡単な面接と実技試験を受けていただきます。こちらへどうぞ」
開かれた通用門の向こうに、城内へ続く石畳が見えた。
ベルタは一歩を踏み出す。
この屈辱も、王になるまで。
皿を洗うのも、床を磨くのも、頭を下げるのも、すべてはあの玉座を奪うためだ。
そう自分に言い聞かせながら、未来の偽王は、ほかの応募者たちに交じって使用人用の入口をくぐった。
「ベルタさん」
案内役の侍女が振り返った。
「城内では静かに歩いてください。足音が大きすぎます」
ベルタは、自分の踏みつけた石畳に細い亀裂が入っているのを見下ろした。
「……善処する」
「それから、その話し方も直しましょうね」
侍女は朗らかに笑った。
ベルタは笑い返そうとしたが、侍女の顔が引きつったため、すぐにやめた。
王への道は、ボストロールが想像していたよりも、ずっと遠く険しいものになりそうだった。
実技試験が始まって間もなく、ベルタは思いがけず高い評価を受けた。
もっとも、それは皿洗いや裁縫の腕を認められたからではない。
「この桶を、洗濯場まで運んでもらえますか?」
試験官を務める年配の侍女が指したのは、水をいっぱいに張った大桶だった。普段なら二人で両側の取っ手を持って運ぶものらしく、ほかの応募者たちは顔を見合わせている。
ベルタは桶の前に立つと、両手で取っ手をつかみ、そのまま持ち上げた。
元の身体なら指先で放り投げられた程度の重さだった。しかし、人間の女へ化けた今の身体では、腕と腰に確かな負荷がかかる。以前のような魔物の怪力は失われ、力そのものは鍛えた成人男性と同程度にまで落ちていた。
それでも、細身の女が一人で大桶を運ぶ光景は、周囲を驚かせるには十分だった。
「まあ……ずいぶん力があるのね」
「これくらい、軽いものだ」
得意げに答えた途端、試験官の眉がわずかに上がった。
ベルタは昨夜叩き込まれた言葉遣いを思い出し、慌てて付け加えた。
「……軽いもの、です」
運んでいる途中で水をこぼし、廊下を濡らしてしまったが、それでも力仕事については文句なしの評価を受けた。
一方、容姿についても思いがけない追い風があった。
へんげのつえで作った顔は、魔王の遣いが潜入に適するよう細かく調整したものだった。赤褐色の髪は艶があり、目鼻立ちは華やかすぎない程度に整っている。背が高く、姿勢もよく、険しい目つきさえ抑えれば、凛とした美貌の持ち主に見えた。
王族の近くで働く使用人には、清潔感と見栄えも求められる。
料理は壊滅的、裁縫は針を二本折り、給仕では盆を傾けた。それでも、力仕事に向いた丈夫な身体と、城内に出しても恥ずかしくない容姿を買われ、ベルタは住み込みの下級メイドとして採用された。
採用を告げられた瞬間、ベルタは心の中で高笑いした。
城へ入った。
あとは王の寝室を突き止め、夜中に忍び込み、へんげのつえで姿を奪えばよい。
数日の辛抱だ。
ベルタは、そう考えていた。
ところが、城での生活は、ボストロールが想像していたよりもはるかに複雑だった。
まず、朝が早い。
夜明け前には起こされ、寝台を整え、顔を洗い、髪をまとめ、制服へ着替えなければならない。しかも制服は、身体を通せば終わりというものではなかった。下着を身につけ、ずれや皺を直し、紐を結び、襟を整え、前掛けをつけ、髪が落ちてこないよう留める必要がある。
最初の朝、ベルタは腰につけるはずの前掛けを背中側に垂らして食堂へ現れた。
「ベルタ。それ、前後が逆よ」
先輩のメイドに指摘され、慌てて直そうとしたものの、結び目を固く締めすぎてほどけない。
「なぜこんな面倒な服を毎日着るのだ」
「着るのです、でしょう?」
「……着るのです」
「不満そうな顔をしない」
「していません」
「しているわ」
髪を整えることにも慣れなかった。
元のボストロールには、寝癖を気にする習慣などない。泥がつこうが血がつこうが、乾けば終わりだった。しかし人間の女として暮らす以上、髪を乱したまま仕事へ出ることは許されない。
櫛を乱暴に通して髪を引っかけ、痛みに腹を立てて櫛をへし折ったこともある。
化けた身体の力が人間並みに落ちていなければ、櫛どころか化粧台ごと砕いていたかもしれなかった。
洗濯も難敵だった。
衣服を水へ放り込み、洗剤を入れて力任せに揉めばよいと思っていたが、布にはそれぞれ扱い方がある。色の濃い衣服を白い下着と一緒に洗い、すべて薄赤く染めたときには、洗濯場の責任者から一刻近く説教された。
「こんなもの、着られれば同じではないか」
「同じではありません!」
「汚れは落ちている」
「色が移っています!」
「少し赤くなっただけだ」
「王妃様の下着です!」
それを聞いた瞬間、ベルタは黙った。
王妃の衣類を台無しにした罪で城から追い出されては、潜入計画が終わってしまう。
結局、その日の自由時間はすべて洗い直しと染み抜きに費やされた。
食事の作法も、人間の女の生活も、何もかもが煩わしかった。
大股で歩けば注意され、椅子へ脚を開いて座れば注意され、食堂で骨つき肉を手づかみにすれば注意された。身体を清潔に保つために毎日湯を使い、爪を整え、制服へ汗の臭いを残さないよう気を配らなければならない。
さらにベルタを困惑させたのが、月に一度訪れる身体の変化だった。
ある朝、寝具についた血を見たベルタは、敵の襲撃を受けたと思い込み、まだ眠っていた同室のメイドたちを叩き起こした。
「起きろ! 何者かが部屋へ入り込んだ!」
「な、何……?」
「俺は刺されている!」
その叫び声で寮中が騒ぎになり、事情を理解した年長のメイドから、顔を真っ赤にしながら説明を受けることになった。
「病気でも怪我でもないから、落ち着きなさい」
「これほど血が出ているのにか?」
「女性なら誰にでもあることです」
「人間の女は毎月負傷するのか」
「負傷ではありません」
「ならばなぜ腹まで痛む!」
「そういうものなの!」
理不尽だ、とベルタは思った。
魔物の身体なら、剣で斬られても翌日には傷が塞がった。ところが今の身体は、何もされていないのに腹が重く、腰が痛み、機嫌まで勝手に悪くなる。
しかも、その状態でも仕事は休めない。
城へ侵入することには成功したものの、王へ近づく機会はまるで訪れなかった。
ベルタが配属されたのは、城の西棟と使用人区画を担当する班だった。王の居室がある中央棟へ入るには許可が必要であり、下級メイドが理由もなく近づけば、すぐに上役へ報告される。
夜に抜け出そうとしても、住み込みの使用人には点呼があった。廊下には夜警が巡回し、王族の区画には常に衛兵が立っている。
一度、掃除道具を抱えて中央棟へ入ろうとしたことがある。
「どこへ行くの?」
背後から班長に声をかけられ、ベルタは固まった。
「王の寝室を掃除しに」
「陛下の寝室は王付きの侍女が担当します」
「ならば、その侍女を手伝う」
「頼まれているの?」
「いない」
「戻りなさい」
「……はい」
別の日には、食事を運ぶ一団へ紛れ込もうとしたが、献立も配膳先も把握していなかったため、すぐに追い返された。
やがて数日が数週間になり、数週間が二か月になった。
ベルタは王に成り代わる機会を探しているはずだった。
しかし現実には、朝から晩まで床を磨き、洗濯物を運び、薪を割り、食器を洗っていた。
最初のうちは、仕事のたびに苛立っていた。
こんなことは魔物の将たる自分の役目ではない。人間の女に混じって、汚れた布や皿を洗うためにサマンオサへ来たのではない。
王を殺す。
王に成り代わる。
玉座を奪う。
毎晩、寝台へ入る前にそう唱え、自分が何者なのかを確認した。
それでも、同じ仕事を繰り返しているうちに、少しずつ身体が動きを覚えていった。
洗濯物は色と布地で分ける。
皿は音を立てずに重ねる。
床は力任せに擦るのではなく、木目に沿って布を動かす。
制服の紐も、一人で正しく結べるようになった。髪をまとめる時間も短くなり、櫛を折ることもなくなった。
ある午後、ベルタは長い廊下の掃除を任された。
窓から差し込む光の中には、細かな埃が舞っている。以前のベルタなら、目につく汚れだけを拭き取り、それで終わりにしていただろう。
しかしその日は、窓枠の隅に埃が残っていることへ自分から気づいた。
誰かに命じられたわけでもないのに脚立を持ってきて、布を絞り直し、窓枠の上まで丁寧に拭いた。床に残った水滴も乾いた布で取り除き、敷物の端が曲がっているのを直す。
作業を終えて道具を片づけようとしたところで、班長が廊下へ入ってきた。
ベルタは身構えた。
何か失敗を見つけられたのだと思った。
人間の使用人は、細かいことにうるさい。きっと窓の曇りか、布の畳み方か、歩き方について小言を言われるのだろう。
だが、班長は廊下を見渡したあと、静かに頷いた。
「きれいになったわね」
ベルタは目を瞬いた。
「……そうか」
「そうか、ではなく、ありがとうございますでしょう?」
「あ、ありがとうございます」
「窓枠の上まで拭いたのね。前は見えるところしか掃除していなかったのに、ずいぶん丁寧になったじゃない」
班長は指先で窓枠をなぞり、埃がつかないことを確かめた。
「最近は失敗も減ったし、仕事が早くなったわ。力があるだけじゃなく、きちんと周りも見られるようになってきた。よく頑張っていますね、ベルタ」
それだけ言うと、班長は次の持ち場へ向かっていった。
廊下に残されたベルタは、掃除道具を持ったまま動かなかった。
「よく、頑張っている……」
小さく繰り返す。
魔王の軍勢にいた頃、力を認められたことはある。
敵を何人殺した。
砦をいくつ壊した。
どれほど恐れられた。
褒められるとしても、いつもそうしたことだった。
床をきれいにした程度で褒められたことなど、一度もない。
「くだらん」
誰もいないことを確かめてから、ベルタは吐き捨てた。
こんなものは潜入のために仕方なく覚えた仕事だ。上達したところで、自分が偉大になったわけでも、強くなったわけでもない。
褒められて喜ぶ理由などない。
ないはずだった。
それなのに、胸の奥がわずかに温かかった。
口元が緩みそうになり、ベルタは慌てて頬へ力を入れた。
「俺はボストロールだぞ」
低い声で自分へ言い聞かせる。
だが、磨き上げた窓へ映った女は、ほんの少しだけ嬉しそうな顔をしていた。
その夜、ベルタはいつものように寝台の中で計画を確認した。
王を殺す。
王に成り代わる。
玉座を奪う。
そこまでは同じだった。
しかし眠りに落ちる直前、明日は洗濯場を任されていたことを思い出した。
今度こそ、一枚も色移りさせずに仕上げてみせる。
そんな考えが自然に浮かんだことに気づいたときには、ベルタはもう眠りに落ちていた。