[DQ3]へんげのつえIF-トロルのメイド 作:ばっどぼーい
ベルタが城へ潜り込んでから、四か月ほどが過ぎていた。
今では朝の鐘が鳴る前に自分で目を覚まし、髪を手早くまとめ、制服の紐も鏡を見ずに結べる。洗濯物の仕分けを間違えることもなくなり、食器を運ぶ際には足音を抑え、廊下の角では人とぶつからないよう歩調を緩めることまで覚えていた。
もちろん、ほかのメイドたちと比べれば、まだ動作の端々に粗さが残っている。
重い荷物を運ぶときには、つい肩へ担ぎ上げる。薪を割らせれば必要以上に勢いよく斧を振り下ろし、土台の切り株まで割りかける。絞った雑巾から水が滴っていれば、もう一度丁寧に絞るのではなく、両手に力を込めすぎて布を傷める。
それでも、城へ来たばかりの頃と比べれば、見違えるほどだった。
ベルタ自身も、そのことには密かな自信を持ち始めていた。
もう自分は、前掛けを前後逆につけるような素人ではない。
任された区画ならば、ほかのメイドに助けを求めることなく掃除できる。衣類の畳み方も覚えた。簡単な料理なら、台所を煙で満たすことなく作れる。
このまま上役から信用を得て、王族の居住区へ配属されれば、ついに王へ近づく機会が生まれるかもしれない。
あくまで潜入計画のためだ。
仕事に慣れること自体が目的ではない。
ベルタはそう考えていた。
その日の午後、ベルタは中庭に面した回廊で、窓拭きをしていた。
春を迎えたサマンオサには珍しく、風の穏やかな日だった。冷たい日差しが磨き終えた窓に反射し、回廊の床へ淡い光を落としている。
ベルタは脚立の上に立ち、窓の最上部へ布を滑らせた。
以前なら手の届く範囲だけを拭いて終えていたが、今は違う。縁に残った僅かな曇りを見つけると、布のきれいな面へ持ち替え、力を入れすぎないよう丁寧に拭き取る。
「君がベルタか」
突然、背後から男の声がした。
ベルタは振り返りかけ、足元の脚立を揺らした。
咄嗟に窓枠をつかんで身体を支える。元の巨体ならば、この程度で体勢を崩すことなどなかった。だが今の身体では、均衡を失えば普通の人間と同じように落ちる。
「危ない」
下にいた男が脚立を押さえた。
「声をかけるなら、先に気配を出せ!」
ベルタは思わず怒鳴った。
男は目を丸くした。
その身につけている服が、一般の兵士や役人のものではないことに気づき、ベルタは口を閉じた。
上質な濃紺の上着。胸元にはサマンオサ王家の紋章を象った留め具がある。腰には装飾の施された剣を帯びているが、護衛の姿は見当たらない。
年齢は、今のベルタとほぼ同じくらいに見えた。
よく整った顔立ちには王と似た面影がある。
ベルタは、この男を城内で何度か遠目に見たことがあった。
サマンオサの王子だった。
王の唯一の息子であり、いずれこの国を継ぐ者。
そして今、計画の標的へ最も近い人間の一人が、自分の目の前に立っていた。
ベルタは脚立から飛び降りた。
着地した途端、床が大きく鳴った。
王子の眉が少し上がる。
「……失礼いたしました、王子殿下」
ベルタは慌てて腰を折った。
礼の角度は、この数か月で教え込まれている。以前のように頭だけを乱暴に下げることもない。
「声を荒らげてしまい、申し訳ございません」
「いや、こちらこそ驚かせた。先に声をかけたつもりだったのだが」
「窓を拭くことに集中しておりました」
「なるほど。ずいぶん熱心だ」
王子は磨かれた窓を眺めた。
ベルタは警戒しながら、その顔を見つめる。
この男を捕らえ、へんげのつえを使えば、王子に成り代わることができる。
王子であれば、王の私室へ近づくことは難しくない。親子だけで話す機会を作り、そこで本来の計画を実行すればよい。
一瞬、ベルタの頭の中に具体的な手順が浮かんだ。
人気のない場所へ誘い出す。
気絶させる。
王子の姿を奪い、本人はどこかへ隠す。
だが、すぐに問題へ気づいた。
王に化けた後もベルタと王子は隠し続ける以上、必ず騒ぎになる。
自分はまだ下級メイドとはいえ、毎朝の点呼もあれば担当の仕事もある。同室のメイドたちは、ベルタがいなくなればすぐに気づくだろう。
王子も同じだ。予定や護衛が管理されているはずであり、忽然と消えれば城中が捜索される。
ベルタは心の中で舌打ちした。
魅力的に見えた近道だったが、危険が大きすぎる。
王子を利用するなら、姿を奪うのではなく、王へ近づくための足掛かりにするべきだ。
「それで、殿下はなぜこちらへ?」
王子は少しだけ困ったように笑った。
「正直に言えば、君を見に来た」
「私を?」
「ああ。城の使用人たちの間で、妙な噂になっている」
ベルタの背筋が強張った。
正体を疑われたのか。
寝言で魔王の名を口にした覚えはない。へんげのつえは寝台の裏に隠してあり、誰にも触れられていないはずだ。
「どのような噂でございましょう」
「力持ちで美人だが、異常にガサツなメイドがいる、と」
ベルタは黙った。
王子は悪意なく続ける。
「水桶を一人で運び、薪割りでは切り株まで砕き、絨毯を叩けば埃と一緒に縫い目まで飛ばす。料理中に包丁を一本折り、扉を閉めたつもりで蝶番を壊したこともあるそうだな」
「……誰がそのような話を」
「いろいろな者から聞いた」
「誇張されています」
「包丁は折っていない?」
「一本だけです」
「扉は?」
「あれは元から蝶番が弱っていたのです」
「絨毯は?」
「少々古くなっておりました」
王子は堪えきれなくなったように笑った。
ベルタの眉間へ皺が寄る。
「何がおかしいのでしょうか」
「すまない。君があまりに真剣なので」
「私はいつでも真剣です」
「それも聞いていた。冗談がほとんど通じないそうだな」
ベルタは布を握り締めた。
異常にガサツ。
その言葉が、胸の奥へ妙に引っかかった。
城へ来たばかりの頃ならば、何とも思わなかっただろう。
人間の女がどう評価されようと関係ない。メイドとしての作法など、王に成り代わるまでの仮初めにすぎない。
だが今のベルタは、洗濯物を傷めずに洗う方法も、食器を音を立てずに置く方法も知っている。毎朝髪を整え、制服の皺を伸ばし、人から見られても恥ずかしくないよう身なりに気を配っている。
それを何も知らない王子に、ただのガサツな女だと思われている。
ボストロールとしての誇りとは別の場所が、強く刺激された。
「殿下」
「何だろう」
「この回廊の掃除をご覧ください」
「掃除?」
「私がどれほどガサツなメイドなのか、直接ご確認いただきます」
ベルタは脚立を壁際へ寄せ、掃除道具を手に取った。
普段ならば、王族が近くにいるときに大掛かりな掃除を始めることはない。しかし王子が止める暇もなく、ベルタは作業を再開した。
まず窓の残りを拭き上げた。
布を水へ浸し、固く絞る。ただし、以前のように力任せにはしない。布が傷まないぎりぎりの強さで水気を抜き、端をきれいに折り畳む。
ガラスを上から下へ、一定の幅で拭いていく。次に乾いた布で水の筋を消し、角に残った小さな汚れは指先へ布を巻いて取り除いた。
王子が傍らから興味深そうに眺めている。
ベルタは余計に意地になった。
窓が終わると、床へ移る。
塵を箒で集め、家具の脚や壁際まで残さず掃く。敷物は乱暴に持ち上げず、端をめくって下の埃を取り除いたあと、模様が廊下と平行になるよう慎重に戻した。
花台に薄く埃が残っていることへ気づき、飾られた花瓶を両手で持ち上げる。
以前なら片手で無造作につかんでいたところだが、今は底を支え、飾られた花を揺らさないよう静かに移動させた。
「そこまでしなくとも、十分きれいに見えるが」
「見えるだけではいけません」
ベルタは即座に答えた。
「窓枠の上や花台の裏は、放っておけば埃がたまります。目につかない場所まできれいにしてこそ掃除です」
口にしてから、ベルタはわずかに動きを止めた。
それは以前、班長から教えられた言葉だった。
今では自分が、当然のこととして王子へ説明している。
「なるほど」
王子は感心したように頷いた。
ベルタは花瓶を元へ戻した。位置が僅かにずれたことに気づき、正面から模様が見えるよう直す。
最後に掃除道具をまとめ、回廊の隅へ整然と置いた。
「終わりました」
ベルタは胸を張った。
磨かれた窓から光が差し、床には塵一つない。敷物の端も揃い、花台にも水滴一つ残っていなかった。
王子が辺りを見回す。
その顔から、先ほどまでの面白がるような笑みは消えていた。
「見事だ」
ベルタは鼻を鳴らしかけ、慌てて堪えた。
「当然です」
「君は確かにガサツではないな」
「最初からそう申し上げています」
「噂だけで決めつけたことは謝ろう。力仕事が得意というだけで、ずいぶん乱暴な人物を想像していた」
王子は窓枠へ指を滑らせた。
指先には埃一つついていない。
「これほど丁寧な仕事ができるとは思わなかった。美しく仕上がっている」
ベルタは少しだけ目を見開いた。
褒められることは、以前より増えていた。
班長や先輩のメイドから、仕事が早くなった、よく気づいたと声をかけられることもある。
それでも、先ほどまで自分をガサツだと思っていた王子から、正面から認められるのは格別だった。
「まあ、私ほどになれば、この程度は難しくありません」
ベルタは平静を装って答えた。
だが、声は少しだけ弾んでいた。
「それにしても、噂とはずいぶん違う」
王子は楽しそうに笑った。
「仕事は丁寧だし、話してみれば面白い。今日は来てよかった」
「私は面白いことなど申しておりません」
「そういうところが面白いんだ」
「理解できません」
「また話してもいいだろうか」
ベルタは答えようとして、止まった。
王子と親しくなる。
それは計画にとって有益なことだった。
王子の信用を得れば、王族の生活や予定を知る機会が増える。中央棟へ呼ばれるようになるかもしれない。運がよければ、王と直接顔を合わせることさえあるだろう。
王子本人へ成り代わるより、遥かに自然で危険も少ない。
断る理由はない。
むしろ自分から積極的に関係を築くべきだ。
そうだ。
これは潜入任務の一環にすぎない。
「計画に有益だ」
「何か言ったか?」
「何も申しておりません」
ベルタは咳払いをした。
「殿下が下級メイドと話すことを、周囲が問題にしないのであれば」
「その程度で問題にはならない。仕事の邪魔はしないと約束する」
「では、構いません」
「本当か」
王子の表情が明るくなった。
ベルタは、そのあまりに素直な喜び方に少しだけ面食らった。
王族というものは、もっと尊大で、使用人の返事など当然のものとして受け取ると思っていた。
「ありがとう、ベルタ。また近いうちに」
王子はそう言い残し、回廊の向こうへ歩いていった。
その姿が見えなくなってから、ベルタは小さく息を吐いた。
「これで王へ近づきやすくなる」
誰に聞かせるでもなく呟く。
「王子から情報を得られる。王族の区画へ入る理由も作れるかもしれん。極めて合理的な判断だ」
ベルタは掃除道具を抱え直した。
「別に、また褒められたいわけではない」
窓に映った女の顔は、隠しきれないほど得意そうだった。
翌日からベルタは、これまで以上に自分の仕事へ気を配るようになった。
王子がいつ現れても、ガサツだなどとは二度と言わせないためだった。
もちろん本人は、それもすべて計画を円滑に進めるためだと、固く信じていた。