[DQ3]へんげのつえIF-トロルのメイド 作:ばっどぼーい
それから王子は、たびたびベルタの前へ姿を見せるようになった。
最初のうちは、本当に仕事ぶりを見物しに来ているだけだった。
ベルタが窓を磨いていれば、前回より早くなったと感心し、花瓶の水を替えていれば、花の名前を尋ねた。ベルタが知らないと答えると、王子は自分も詳しくないと言いながら、その場で二人して近くの庭師を呼び止め、説明を聞いた。
廊下で重い荷箱を運んでいるときには、王子自ら片側を持とうとした。
「殿下がそのようなことをする必要はございません」
「君一人に持たせるより早いだろう」
「私一人で足ります」
「そう言って、また扉へ箱をぶつけるのではないか」
「あれは一度だけです」
「二度だったと聞いたが」
「二度目は扉のほうが寄ってきたのです」
「扉は動かない」
王子が笑い、ベルタは不満げに眉をひそめる。
そんなやり取りを重ねるうちに、ベルタは王子の足音を覚えた。
遠くから近づいてくれば、振り返らなくとも分かる。ほかの貴族のように急かす歩き方でもなく、兵士のような重い足取りでもない。王子は人へ声をかけながら歩くことが多く、通り過ぎるたび、使用人や衛兵の返事が続いて聞こえた。
王子はベルタを見つけると、身分を忘れたように気軽に話しかけてくる。
最近覚えた料理は何か。
城で一番苦手な仕事は何か。
どうしてそれほど力が強いのか。
ベルタはそのたび、嘘と本当を混ぜて答えた。
料理はまだ煮込みしか作れない。
裁縫は今も苦手だ。
力があるのは、農家で働いていたからだ。
故郷や家族について尋ねられると、魔王の遣いから与えられた設定を思い出しながら答えた。地方の小さな村で生まれ、家族を失い、仕事を求めてサマンオサへ来た。
すべて作り話だった。
だが、王子は一度も疑わなかったように見えた。
「苦労したのだな」
むしろそう言って、同情さえしてきた。
ベルタはそのたび、胸の内で王子を嘲った。
人間は愚かだ。
少し悲しそうな顔を作り、声を落とせば簡単に信じる。
この男も同じだ。
いずれ父親を奪われ、国を乗っ取られ、自分の無力さに絶望することになるとも知らず、正体不明の魔物を友人のように扱っている。
だからこそ利用しやすい。
ベルタは何度もそう自分へ言い聞かせた。
それでも、王子が現れない日は、少しだけ仕事が長く感じられるようになっていた。
ある日の午後、ベルタは王子に呼び止められた。
「明日の休みは、何か予定があるか」
「洗濯と、制服のほつれを直す予定です」
「では、それが済んだあとで構わない。少し付き合ってくれないか」
ベルタは訝しげに王子を見た。
「どちらへ」
「城下町だ」
「城下町なら、私も買い出しで何度も行っています」
「仕事ではなく、ゆっくり見て回りたい。君と」
王子は、わずかに声を落とした。
「ただし、お忍びで」
翌日。
ベルタは城の裏手にある小さな門の前で、平民の服を着た王子を待っていた。
王子は目立たない灰色の外套を羽織り、王家の紋章がついた留め具も外していた。腰の剣も、普段の装飾品ではなく、町の護衛が持つような簡素なものへ替えられている。
「どうだ。王子には見えないだろう」
「立ち方が王族です」
「立ち方で分かるものなのか」
「分かります。胸を張りすぎです」
「君はずいぶん堂々と歩くが」
「私は農家の女ですから」
本当は魔物だからだが、ベルタは当然のように答えた。
王子はそれ以上追及せず、少し肩を丸めた。
「これならどうだ」
「怪しい男に見えます」
「難しいな」
ベルタは吹き出しかけ、寸前で堪えた。
二人は人目の少ない門から城を出た。
護衛は遠くからついてくるだけで、表向きは二人きりだった。
城下町は、ベルタが普段買い出しで訪れる場所と同じだった。
しかし、仕事のない日に歩くと、違った町に見えた。
買い出しのときは、決められた店へ行き、必要な品を受け取り、数量と代金を確認して城へ戻る。それ以外のものを見る余裕はほとんどなかった。
今日は急ぐ必要がない。
通りには露店が並び、果物や布、木工品が売られていた。店主たちは声を張り上げ、道行く人々を呼び止めている。子どもたちは人の間を駆け回り、母親に叱られて笑いながら逃げていた。
鍛冶場からは金属を打つ音が響き、食堂の前には香辛料と焼いた肉の匂いが漂っている。
道端では、旅の楽師が古びた弦楽器を奏でていた。上手とは言えなかったが、周りには何人かが足を止め、小銭を投げ入れている。
ベルタは、それらを黙って見ていた。
「いつもより静かだな」
王子が横から顔を覗き込む。
「人が多いから、警戒しているだけです」
「何を警戒している?」
「……財布を盗まれぬように」
「君から盗もうとする者は、よほど勇敢だ」
「私を何だと思っているのです」
「力持ちで美人だが、少しガサツなメイド」
「もうガサツではありません」
「少し、と言った」
「少しもです」
王子は楽しそうに笑った。
二人は市場を抜け、町の中央にある広場へ向かった。
広場の中央には古い噴水があり、その周りで多くの人が休んでいた。商人たちは取引の話をし、兵士は巡回の合間に水を飲み、老婆が鳩へパン屑を投げている。
王子は噴水の縁へ腰を下ろした。
ベルタも隣に座る。
「私は、この町が好きなんだ」
不意に王子が言った。
ベルタは横目でその顔を見た。
王子は広場を眺めていた。
そこには城で見せる気軽な笑みとは違う、穏やかで真剣な表情があった。
「城の中にいると、国というものが書類や報告の中だけにあるように感じることがある。収穫量がいくら、税がいくら、兵士が何人。そういう数字ばかりだ」
「王族の仕事とは、そういうものではないのですか」
「もちろん必要だ。だが、数字の向こうにいる人々を忘れたくない」
王子は、広場を走っていく子どもたちへ目を向けた。
一人が転び、仲間たちが笑いながら引き起こす。
「この国には、ここで暮らす人がいる。朝になれば店を開き、働き、食事をして、家族と話し、明日のことを考える。私は、そういう当たり前の暮らしを守れる王になりたい」
ベルタは何も言わなかった。
「父上は立派な王だ。厳しいところもあるが、国のことを真剣に考えている。私はまだ父上には及ばない。それでも、いずれ王位を継いだとき、この国を今より少しでもよくしたいと思っている」
「よい王に、なりたいのですか」
「ああ」
王子は迷いなく頷いた。
「この町が好きだ。この国が好きだ。だから守りたい」
ベルタは広場へ視線を戻した。
人々の笑い声が聞こえた。
露店の女が客と値段を言い合い、その隣では若い夫婦が買ったばかりの布を広げている。パンを抱えた子どもが走り、父親らしい男が危ないと声を上げた。
暖かな活気に満ちた、ごく普通の町だった。
ベルタは、この町を知っているつもりだった。
魔王の命令を受けたとき、サマンオサはただの標的だった。
王へ成り代わり、恐怖で国を支配する。
気に入らない者を牢へ入れ、逆らう者を処刑する。
国民同士を疑わせ、希望を奪い、最後には誰もが王の機嫌だけを窺って生きる国へ変える。
その未来を、ベルタは何度も想像していた。
王宮で人間たちが震える姿を思い浮かべ、愉快だと感じていた。
だが、その想像の中に、この広場はなかった。
転んで笑っている子どもも、店先で声を張り上げる女も、鳩へパンをやる老婆もいなかった。
そこにいたのは、顔のない「人間ども」だけだった。
王子が守りたいと語った町。
自分が恐怖と絶望の底へ沈める予定の町。
ベルタは初めて、その二つが同じものなのだと理解した。
「ベルタ?」
王子に呼ばれ、ベルタは顔を上げた。
「どうした。気分が悪いのか」
「何でもありません」
「顔色がよくない」
「人が多くて、少し疲れただけです」
王子は心配そうにベルタを見た。
「少し休むか」
「必要ありません」
「無理をするな」
「私は丈夫です」
「丈夫な者でも疲れる」
王子は近くの露店から果実水を二つ買ってきた。
一つを差し出され、ベルタは受け取る。
冷たい器が手のひらへ触れた。
「ありがとうございます」
自然に礼が出た。
王子は微笑んだ。
「どういたしまして」
ベルタは果実水を飲んだ。
甘酸っぱい味がした。
町は変わらず賑やかだった。
何も知らない人々が笑い、働き、未来の話をしている。
ベルタの胸の内で、これまで感じたことのない重さがゆっくりと広がっていった。
翌朝。
ベルタはいつものように城の厨房から買い出し籠を受け取り、町のパン屋へ向かった。
昨日歩いた道と同じだった。
だが、店々の見え方が少し違っていた。
道具屋の主人は、毎朝同じ時間に店先を掃いている。
八百屋の女は、売れ残りそうな野菜を近所の食堂へ安く譲っている。
広場の噴水では、昨日の老婆が今日も鳩へパン屑を投げていた。
ベルタはパン屋へ入った。
店の奥から、香ばしい匂いとともに店主の娘が出てきた。
「おはよう、ベルタちゃん。今日はいつもの数でいい?」
「ああ。黒パンを二十と、白パンを十だ」
「はいはい。ちょうど焼けたところ」
娘はベルタと同じくらいの年齢だった。
最初の頃、ベルタはこの娘をほとんど人として見ていなかった。
パンを渡す者。
代金を受け取る者。
それ以上でも以下でもなかった。
娘のほうは、無愛想なベルタにも毎朝変わらず話しかけてきた。
今日は寒い。
城の仕事は忙しいか。
髪型が上手になった。
以前より顔つきが柔らかくなった。
ベルタは大抵、短い返事しか返さなかった。
話す必要がなかったからだ。
娘は大きな籠へパンを詰めていった。
「最近、注文が増えたね。お城で何かあるの?」
「来客があるらしい」
「大変そう」
「別に、この程度なら問題ない」
「さすが力持ち」
娘は笑いながら、最後のパンを籠へ入れた。
「はい、これで全部。数えてみて」
ベルタはいつも通り中身を確認した。
黒パンが二十。
白パンが十。
焼き加減も揃い、焦げたものはない。
代金を渡し、籠を持ち上げる。
そのまま店を出ようとして、ベルタは足を止めた。
昨日、王子が言った言葉を思い出す。
朝になれば店を開き、働き、食事をして、明日のことを考える人々。
目の前の娘も、その一人だった。
毎朝早く起き、粉をこね、パンを焼き、自分が来るのを待っている。
この娘も、ベルタが計画を実行すれば、いずれ王を恐れ、暮らしを壊されるかもしれない。
ベルタは籠の持ち手を握ったまま、しばらく動かなかった。
「どうしたの?」
娘が首を傾げる。
ベルタは、言葉を探した。
別に難しい言葉ではない。
城へ来てから何度も口にしている。
上役にも、同僚にも、王子にも言った。
それなのに、今はなぜか喉につかえた。
「……いつも」
「うん?」
「いつも、パンを用意してくれているな」
「そりゃ、パン屋だからね」
「そうではなく」
ベルタは少し眉を寄せた。
自分でも、何を言おうとしているのか分からなかった。
ただ、何も言わずに立ち去ることが、昨日までとは違って感じられた。
「その……ありがとう」
娘は一瞬、目を丸くした。
ベルタも、自分の口から出た言葉に驚いていた。
今まで代金を払っているのだから、それで十分だと思っていた。
礼を言う必要などない。
それでも言いたかった。
娘の顔に、明るい笑みが広がった。
「どういたしまして」
そして少し身を乗り出し、親しげな声で続けた。
「ベルタちゃんも、お城のお仕事頑張ってね」
ベルタは返事ができなかった。
頑張って。
その言葉は、何気ないものだった。
娘はベルタが何者なのか知らない。
城で何をしようとしているのかも知らない。
ただ毎朝パンを買いに来る、少し変わっているが真面目なメイドだと思っている。
だからこそ、その笑顔が重かった。
「……ああ」
ベルタはようやく答えた。
「頑張る」
店を出る。
籠の中の焼きたてのパンは温かく、その熱が腕へ伝わってきた。
城へ戻る道を歩きながら、ベルタは考えた。
自分は何を頑張るのだろう。
王へ近づくことか。
国を奪うことか。
この町を恐怖へ落とすことか。
それとも、パンを傷めず、時間に遅れず、頼まれた数をきちんと厨房へ届けることか。
これまでなら、答えは明らかだった。
だが今は、胸の中に二つの答えがあり、互いにぶつかっていた。
城門が見えてくる。
その向こうには、王子がいる。
班長がいる。
自分の帰りを待つ厨房の者たちがいる。
ベルタはパンの籠を抱え直した。
昨日までよりも慎重に。
一つも潰さないように。
その日、ベルタは予定より少し早く城へ戻った。
厨房の責任者から「今日はずいぶんきれいに運べたわね」と褒められたとき、ベルタはいつものように得意げな顔をしなかった。
ただ小さく頷き、静かに答えた。
「当然です。パン屋が、きれいに焼いてくれましたから」