[DQ3]へんげのつえIF-トロルのメイド 作:ばっどぼーい
それからしばらく、何事も起こらない日々が続いた。
ベルタは夜明け前に起き、髪をまとめ、制服へ着替えた。食堂で朝食を取り、その日の担当を確認し、廊下を掃き、洗濯物を運び、厨房の買い出しへ出た。
パン屋へ寄れば、店の娘が笑顔で迎えた。
「おはよう、ベルタちゃん」
「おはよう」
「今日は黒パンが少しよく焼けてるよ」
「焦げたという意味か」
「違うってば。香ばしくできたってこと」
そんなやり取りをしながらパンを受け取り、城へ戻る。
仕事の合間にはメイド仲間と話し、失敗した新人を手伝った。重い荷物を頼まれれば運び、手の届かない場所の掃除を引き受け、裁縫では相変わらず苦戦しながらも、以前のように針を折ることはほとんどなくなった。
王子もたびたび顔を見せた。
最近読んだ本の話。
議会で持ち上がっている問題。
城下町で新しく始まった工事。
時には本当にどうでもよい話まで、王子はベルタへ聞かせた。
ベルタも、いつしかそれを当然のように聞くようになっていた。
王子が数日忙しく、姿を見せないことがあると、別に待っているわけではないと思いながら、廊下の足音へ何度も意識を向けた。
誕生日にもらった革の手袋は、力仕事の際に使っていた。
汚れるたび丁寧に手入れをし、縫い目がほつれればアンナに教わりながら自分で直した。
このまま、何も決めずに日々が続けばよい。
ベルタは、そんな考えを持ち始めている自分に気づかないふりをしていた。
王へ成り代わる機会は、今も探している。
中央棟へ入る道筋も以前より増えた。王子と親しくなったことで、王族の予定や城内の警備について、断片的ながら知ることもできるようになった。
計画は着実に進んでいる。まだ実行に移すべき時ではないだけだ。
そう理由をつければ、ベルタは毎日を続けることができた。
だが、猶予がいつまでも与えられるはずはなかった。
ある夜、仕事を終えたベルタが使用人寮へ戻ろうとしていると、城壁の外にある林の奥から、かすかな魔力の気配を感じた。
長く人間の身体で暮らしていても、それだけは忘れなかった。
魔物にしか分からない呼び声だった。
ベルタは周囲へ気づかれないよう進路を変え、使用人用の小門から城外へ出た。
月のない夜だった。
林の中へ入ると、城の明かりは木々に遮られ、足元さえ見えなくなった。だがベルタには、暗闇の奥に立つ影が見えていた。
赤い二つの目。
かつて、女に化けてメイドへ応募しろと命じた魔王の影だった。
「久しいな、ボストロール」
その名で呼ばれた瞬間、ベルタは胸の奥を強くつかまれたように感じた。
城では誰も、その名を知らない。
王子も、ミレーヌも、アンナも、ロッテも。
皆、彼女をベルタと呼ぶ。
「……何の用だ」
努めて低い声を出した。
「進捗の確認だ」
遣いの赤い目が、女の姿を上から下まで眺めた。
「潜入から一年近くが過ぎている。いまだ王へ成り代わったという報告はない」
「城内の警備は厳重だ」
「以前より内部へ近づけていると聞いている」
「聞いている?」
「我々が何も見ていないと思ったか」
ベルタは口を閉ざした。
「王子と親しくしているそうだな」
「あれは計画のためだ。王子を利用すれば王へ自然に近づける」
「その成果は?」
「王族の予定や中央棟の警備について、以前より多く知ることができた」
「いつ実行する」
即答できなかった。
実行できる機会が、まったくなかったわけではない。
王子から信頼されるようになった今、理由をつけて中央棟へ入ることもできる。王が一人になる時間も、以前より把握できている。
危険はある。
だが、それは最初から承知の上だった。
実行しない本当の理由は、別にある。
ベルタはそれを口にできなかった。
「まだ準備が足りない」
「一年を費やしてもか」
「王に化けたあと、疑われては意味がない。口調、習慣、政務、人間関係まで把握しなければならん」
「それほど慎重な魔物だったとは知らなかった」
遣いの声には、隠そうともしない疑念が含まれていた。
「人間の暮らしに馴染みすぎたのではないか」
「違う」
ベルタは即座に否定した。
「すべて潜入のためだ」
「誕生日まで祝われたそうだな」
息が止まった。
「どこでそれを」
「答える必要はない」
ベルタの拳が固く握られた。
誕生日の夜。
目からこぼれそうになった涙。
人間たちに囲まれ、生まれてきてよかったと言われたときの感情。
それを覗かれていたと思うと、怒りよりも先に恐怖が湧いた。
「俺は任務を忘れていない」
「ならば、結果を示せ」
影が木々の間で揺れた。
「魔王様は、サマンオサへこれ以上時間を費やすことを望んでおられない。内部からの支配が難しいのであれば、軍勢による直接侵攻へ切り替えることも考えている」
その言葉が何を意味するのか、ベルタにはすぐに理解できた。
城壁が破られる。
兵士と魔物が町中で戦う。
家々へ火が放たれる。
市場を走っていた子どもたち。
噴水のそばで鳩に餌をやっていた老婆。
毎朝パンを焼く娘。
使用人寮で笑う仲間たち。
彼らが、戦火の中へ投げ込まれる。
王子も剣を取るだろう。
この国を守りたいと語ったあの男は、最後まで戦う。
その先にある姿を想像した瞬間、ベルタの身体から血の気が引いた。
「待て」
「何だ」
「直接侵攻は、まだ必要ない」
「根拠は?」
「俺がやる」
「いつまでに」
ベルタは答えられなかった。
王を奪う期限を自ら決めれば、その日が今の生活の終わりになる。
だが、何も言わなければ、軍勢がこの国へ来る。
「もう少しだ」
「それは前にも聞いた」
「もう少しだけ、俺にやらせてくれ」
自分でも驚くほど、懇願するような声になっていた。
遣いはしばらく何も言わなかった。
赤い目だけが、ベルタの内側を見透かすように光っている。
「よかろう」
やがて影が答えた。
「だが、次も同じ言い訳が通ると思うな」
「分かっている」
「忘れるな。お前は人間の女ではない」
影が闇へ溶け始める。
「お前はボストロールだ。サマンオサを支配するために送り込まれた、魔王様の配下だ」
その言葉を残し、遣いは消えた。
ベルタは一人、林の中に立ち尽くした。
お前はボストロールだ。
以前なら、自分を確かめるために何度も唱えていた言葉だった。
だが今は、まるでベルタという存在を否定する呪いのように聞こえた。
翌日、ベルタはほとんど眠れないまま仕事へ出た。
いつも通り髪をまとめ、制服を着て、朝食を取った。
誰も昨夜のことを知らない。
ミレーヌは眠そうな顔でパンをかじり、アンナは今日の担当を確認していた。厨房では鍋が鳴り、廊下では新人のメイドが班長に叱られている。
何も変わっていない。
変わったのは、ベルタの中だけだった。
「顔色が悪いな」
午前の仕事を終えた頃、王子が声をかけてきた。
「眠れなかったのか」
「少し考え事をしていただけです」
「珍しい。君にも仕事以外で悩むことがあるのだな」
「私を何だと思っているのです」
「何でも力で解決しようとするメイド」
「最近はしておりません」
「最近は、か」
王子は笑った。
ベルタは、その笑顔を直視できなかった。
この男も、やがて自分が裏切る。
そう考えるだけで、昨夜から胸の奥にある重さが増した。
「そういえば、城下の外れで新しい井戸を掘っている」
王子は、ベルタの沈んだ様子を変えようとしたのか、話題を変えた。
「井戸?」
「あの辺りは高台になっていて、水場が遠い。住民は毎日、坂の下から水を運んでいる」
「ならば井戸を掘るのは当然だろう」
「掘るだけならな。水脈は見つかったが深くて、水を汲み上げるのが難しい」
王子は近くの机から紙を取り、簡単な図を描いた。
「そこで、風の力を使って水を汲み上げられないか試している」
「風の力で?」
「風車だ。羽根を回し、その動きを仕掛けへ伝えて、井戸から水を引き上げる」
ベルタは図を覗き込んだ。
技術的なことには詳しくない。
だが、大きな羽根が風で回り、その力で水桶やくみ上げ装置を動かすという考えは理解できた。
「面白いな」
思わず口にすると、王子が笑った。
「興味があるなら見に行くか」
「私が行って何になるのです」
「力仕事ができる者を探している。職人たちも、大きな部材を組むのに苦労しているらしい」
「それなら、役には立てる」
「今日の午後は休みだったな」
「なぜ把握しているのです」
「君と話そうと思って班長に聞いた」
ベルタは一瞬、何と返せばよいか分からなかった。
「……仕事を監視するためですか」
「君は放っておくと休みの日まで働くからな」
「暇よりはよいです」
「では、暇つぶしに風車を作りに行こう」
城下町の外れには、すでに高い木組みが建てられていた。
井戸の周囲には材木や縄、金具が散らばり、職人たちが大声で指示を飛ばしている。
風車の骨組みはできていたが、羽根を取り付ける作業が進んでいなかった。
長い木材は重く、持ち上げながら正確な位置へ固定するには何人もの手が必要になる。ところが狭い足場の上では、大勢が同時に動くこともできない。
「この女が手伝うのか?」
職人の一人が、ベルタを見て疑わしそうに尋ねた。
「城で一番の力持ちだ」
王子が答える。
「一番かどうかは知りません」
「少なくとも、メイドの中では一番だろう」
「兵士にも負けません」
「ほら、本人もこう言っている」
ベルタは職人から渡された厚手の作業着を制服の上へ着込み、誕生日にもらった革手袋をはめた。
最初に任されたのは、羽根へ使う長い木材を運ぶ仕事だった。
元の姿なら片腕で持ち上げられただろう部材も、今は全身を使わなければ動かせない。
それでも、女性の身体としては十分に力があった。
「持ち上げるぞ」
職人と声を合わせ、木材を肩へ載せる。
重さが腰へかかる。
足元を確かめながら歩き、決められた位置へ静かに下ろす。
以前のベルタなら、力任せに放り出していたかもしれない。
しかし城の仕事で、荷物は運ぶだけではいけないと学んでいる。傷つけず、邪魔にならない場所へ、次に使う者が扱いやすい向きで置く。
「丁寧じゃないか」
先ほど疑っていた職人が感心した。
「当然だ」
「城ではガサツで有名だと聞いたが」
「誰から聞いた!」
遠くで王子が笑っていた。
部材を運び終えると、今度は足場へ上がった。
羽根を支える枠を押さえ、職人が金具を打ち込む間、位置がずれないよう支える。
腕が震えた。
汗が額を流れる。
それでもベルタは歯を食いしばり、声がかかるまで手を離さなかった。
「あと少し右だ!」
「これでよいか!」
「行きすぎだ、少し戻せ!」
「最初から正確に言え!」
「動かすのが速すぎるんだ!」
「ならば早く固定しろ!」
怒鳴り合いながらも、作業は進んだ。
王子も地上で縄を引き、泥だらけになって働いていた。
身分を知っている者は止めようとしたが、王子は人手が足りないのだから構うなと言って聞かなかった。
日が傾く頃、最後の羽根が取り付けられた。
職人たちは足場を降り、固定具を一つずつ確認した。
風は弱かった。
大きな羽根はわずかに揺れるだけで、なかなか動こうとしない。
皆が見守る中、丘の向こうから風が吹いた。
最初に、一枚の羽根がゆっくりと下がった。
続いて反対側が持ち上がる。
木材が軋み、大きな風車が回転を始めた。
仕掛けへ力が伝わり、井戸の奥から何かが動く音が聞こえる。
やがて組まれた水路の先から、水が流れ出した。
「出たぞ!」
誰かが叫んだ。
職人たちが歓声を上げる。
近くで見守っていた住民たちも拍手をし、子どもたちは流れ出した水のそばへ駆け寄った。
まだ試運転にすぎない。
水量も少なく、仕掛けの調整も必要になるだろう。
それでも確かに、水は井戸の底から地上へ汲み上げられていた。
「成功だ」
隣に立った王子が、息を弾ませながら言った。
髪は乱れ、服には泥がついている。
それでも、その顔はベルタが今まで見た中で最も嬉しそうだった。
「君のおかげだ。あの部材をあれほど安定して支えられる者は、なかなかいない」
「職人たちが作ったものです。私は運び、押さえていただけです」
「それが必要だったんだ」
王子は動き続ける風車を見上げた。
「これで、毎日坂を下りて水を運ばずに済む者が増える」
住民たちが王子へ礼を言いに来た。
王子は身分を明かしていなかったが、工事を主導していた若者として、皆から感謝されていた。
ベルタにも、何人もの者が声をかけた。
「姉ちゃん、すごい力だったな」
「ありがとう。これで本当に楽になるよ」
「城のメイドさんなんだって? 立派な仕事をするんだねえ」
ベルタは、そのたびぎこちなく頷いた。
日が沈み始めると、王子は職人たちとの打ち合わせのため町へ戻った。
ベルタも一緒に来るよう言われたが、少しだけここにいたいと答えた。
理由は自分でも分からなかった。
一人になると、辺りは急に静かになった。
遠くではまだ住民たちの声がしている。
風車は一定の速度で回り続けていた。
風を受けた羽根が上がり、下がる。
木の軸が回り、その力が井戸の底へ伝わる。
水が絶えず地上へ運ばれてくる。
ベルタは、その光景を見つめた。
一年前。
自分は岩山の陰で、王に化ける計画が失敗したことへ腹を立てていた。
女に化けろと命じられ、人間の服を着ることも、頭を下げることも、すべて屈辱だと思っていた。
名前さえ適当に与えられた。
ベルタ。
存在しない農家の娘。
王へ近づくための仮面。
最初は、数日だけのつもりだった。
皿を洗い、床を磨き、洗濯物を運び、機会が来ればすぐに捨てる姿だった。
だが一年が過ぎた。
髪をまとめることに慣れた。
制服を着ることに慣れた。
人間の女の身体にも、仕事にも、毎朝同じ者へ挨拶をする暮らしにも慣れた。
初めて仕事を褒められ、嬉しいと思った。
王子と話すことを楽しみにするようになった。
城下町が暖かな場所だと知った。
パン屋の娘へ礼を言った。
仲間の誕生日を祝い、自分のためにも祝いの会を開いてもらった。
誰かが泣けば背中を撫でた。
困っている者がいれば手伝った。
そして今日、人間たちと一緒に風車を作った。
壊すのではなく、作った。
井戸から水を汲み上げ、人々の暮らしを少し楽にするものを、自分の手で完成させた。
風車は回っていた。
ベルタがいなくなっても、明日も、その先も回るだろう。
ここで暮らす人間たちへ水を届け続ける。
自分がこの国へ残したもの。
恐怖でも、死体でも、壊れた城壁でもない。
役に立つものだった。
「俺は……」
声が震えた。
俺はボストロールだ。
いつもなら続くはずの言葉が、出てこなかった。
魔王の命令。
王を奪う計画。
この町を恐怖へ落とす未来。
林の中で、もう少しだけやらせてくれと頼んだ自分。
あのとき守ろうとしたのは、計画を成功させる機会ではなかった。
この一年を失いたくなかっただけだ。
王子と話す時間を。
仲間と食事をする夜を。
パン屋へ通う朝を。
ベルタと呼ばれる日々を。
「俺は何をしているんだ」
頬に冷たいものが流れた。
手を当てる。
指先が濡れていた。
雨は降っていない。
風車から水が飛んできたわけでもない。
目から出ているのだと理解するまで、少し時間がかかった。
誕生日の日にも、涙は出そうになった。
あのときは必死にこらえた。
両目に紙の屑が入ったのだと嘘をつき、顔を背け、誰にも見られないようにした。
今日は止められなかった。
涙が次々に溢れ、頬を伝った。
喉が詰まり、肩が震えた。
魔物の軍勢で、泣くことは弱さだった。
痛みは怒りへ変える。
恐怖は敵を殺すことで消す。
悲しむくらいなら、原因を壊せばよい。
そうやって生きてきた。
だが今は、何を壊せばよいのか分からなかった。
王子を殺せば、この苦しみは消えるのか。
町を焼けば、何も感じなくなるのか。
仲間たちを牢へ入れれば、自分がボストロールだと思い出せるのか。
そんなことをすれば、苦しみが消えるのではなく、今ここにあるものがすべてなくなるだけだ。
ベルタは両手で顔を覆った。
手には、王子からもらった革の手袋がある。
その手袋で風車を作った。
贈った者を裏切るためではなく。
この国を壊すためでもなく。
人々を助けるために使った。
「嫌だ」
小さな声が漏れた。
「もう、嫌だ」
何が嫌なのか、言葉にはできなかった。
王を奪うことか。
魔王へ従うことか。
ボストロールだった自分を認めることか。
それとも、ベルタとして生きたいと願ってしまったことか。
分からない。
ただ、涙だけが止まらなかった。
風車は変わらず回り続けている。
夕暮れの空を背に、ゆっくりと、力強く。
水の流れる音が響いていた。
ベルタは一人、その前で泣いた。
今日は止められなかった。
そして初めて、止めようとも思えなかった。