[DQ3]へんげのつえIF-トロルのメイド 作:ばっどぼーい
風車の前で涙を流した日から、ベルタは何をするにも以前ほど迷いなく動けなくなっていた。
朝になれば起きる。
髪をまとめ、制服を着て、食堂へ行く。
班長から仕事を受け取り、廊下を掃き、寝具を整え、買い出しへ出る。パン屋の娘に挨拶をし、城へ戻れば厨房へ品を渡す。ミレーヌたちと食事を取り、王子に呼び止められれば話をする。
暮らしそのものは、何も変わらない。
だが、どの瞬間にも終わりが見えるようになっていた。
パン屋の娘が「また明日ね」と笑えば、本当に明日も会えるのかと思う。
アンナが次の休みに繕い物を教えると言えば、その日まで自分はここにいるのかと考える。
王子が新しい水路の計画を話せば、その完成を見ることができるのかと胸が痛んだ。
魔王の影はまだ現れない。
それが猶予なのか、見限られたのかは分からなかった。
直接侵攻という言葉は、いつも頭の片隅にあった。
自分が任務を果たさなければ、軍勢が来る。
だが、任務を果たせば、自分自身の手でこの国を壊すことになる。
どちらを選んでも、今ある日々は失われる。
ベルタは何度も、王へ近づく機会を探した。
実際には、もう探す必要さえないほど状況は整っていた。
王子の信用を得たことで、中央棟へ入ることも増えた。王が一人で書斎にいる時刻も知っている。夜警の交代も、侍従が席を外す短い時間も分かっていた。
へんげのつえを持って忍び込めば、計画を実行できる。
それでもベルタは動かなかった。
王を目の前にすればできるかもしれないと考え、一度だけ書斎へ続く廊下まで行ったこともある。
だが、扉の向こうから王と王子の話し声が聞こえた。
王は息子へ、風車の建設が成功したことを褒めていた。
王子は、職人や住民の協力があったからだと答え、その中でベルタというメイドが大いに役立ったと話した。
父親へ自分のことを語る王子の声は、誇らしそうだった。
ベルタは、扉へ近づくことさえできずに引き返した。
そうして、答えを出せないまま日々は過ぎた。
変化が訪れたのは、曇った空から細かな雪が落ち始めた日のことだった。
城門の方角が騒がしい。
普段なら鐘の音や衛兵の号令が聞こえるだけだが、その日は何人もの兵士が廊下を行き交い、城の正面玄関には侍従や役人まで集まっていた。
「何かあったのか」
ベルタが洗濯籠を抱えたまま尋ねると、通りかかったロッテが声を潜めた。
「勇者様の一行が来たんですって」
「勇者?」
「魔王を倒すために旅をしている方々よ。各地で魔物を倒しているって、前から噂になっていたでしょう」
ベルタは腕の中の籠を落としかけた。
「どうして、この国へ」
「さあ。陛下に大事なお話があるみたい」
ロッテは、勇者がどんな人物なのか見てみたいと言いながら玄関の方角へ顔を向けた。
ベルタは返事をしなかった。
勇者。
魔王軍に属する者ならば、その名を知らないはずがない。
魔物の拠点を次々と破り、幹部を倒しながら進んでいる人間たち。魔王の軍勢では、いずれ必ず討たねばならない敵として語られていた。
その一行が、なぜサマンオサへ来た。
偶然とは思えなかった。
「ベルタ?」
「何でもない」
「顔が真っ青よ」
「少し寒いだけだ」
「この籠、持とうか?」
「必要ない」
ベルタは洗濯籠を抱え直し、足早にその場を離れた。
勇者一行は、その日のうちに王との面会を許された。
本来ならば、下級メイドであるベルタが謁見の場へ近づく理由はない。
だが、気が気ではなかった。
仕事を終えると、ベルタは中央棟へ向かった。
王子との交流が増えたことで、以前なら呼び止められた廊下にも自然に入れるようになっている。それでも人目を避け、壁際を進み、会議室として使われる小広間の裏側へ回った。
そこには使用人が控えるための狭い部屋がある。
扉は閉まっていたが、配膳用の小窓がわずかに開いていた。
ベルタは息を潜め、そのそばへ立った。
室内には王と王子、勇者一行の声が聞こえる。
「つまり、我が国に魔物が潜んでいると?」
王の声だった。
「潜んでいるだけではありません」
若い男の声が答える。
おそらく勇者だろう。
「へんげのつえという魔法の品を使い、陛下に成り代わろうとしている魔物がいる。私たちは、その情報を得てここへ来ました」
ベルタの背中を冷たい汗が流れた。
握った手のひらへ爪が食い込む。
「父上に成り代わる?」
王子の声には、驚きと疑いが混じっていた。
「しかし、父上はここにいる。以前と何も変わらない」
「まだ計画を実行していない可能性もあります」
別の声が言った。
落ち着いた女の声だった。
「あるいは、すでに別の者へ化けて城へ入り込み、機会を待っているのかもしれません」
ベルタは壁へ背を押しつけた。
心臓の音が、部屋の中まで聞こえるのではないかと思うほど大きかった。
「証拠はあるのか」
王が尋ねた。
「これです」
勇者の声に続き、何かが机へ置かれる音がした。
「ラーの鏡と呼ばれる宝物です。人の姿へ化けた魔物や、魔法によって変えられた姿の正体を映し出す力があると聞いています」
ラーの鏡。
ベルタは、その名を知らなかった。
だが、説明を聞けば十分だった。
へんげのつえによる姿を見破る道具。
それを持って、勇者たちは城へ来た。
「まずは陛下へ使わせていただきたい」
王は静かに答えた。
「それで疑いが晴れるならば、試せばよい」
「しかし、父上」
「国の安全に関わる話だ。私一人の気分を優先することではない」
少しの沈黙があった。
ベルタは小窓から覗くことはせず、音だけに集中した。
「では、失礼します」
勇者が告げる。
次の瞬間、室内に微かな魔力の揺れが生じた。
人間には感じ取れないほど僅かなものだったが、ベルタには分かった。
清らかで、強い力。
へんげのつえが持つ歪んだ変身の魔力とは、まるで性質が違う。
ベルタの全身に鳥肌が立った。
あれを向けられれば、隠し通すことはできない。
「何も起きないな」
王が言った。
「はい。陛下は間違いなく人間です」
だが勇者たちは、安心した様子を見せなかった。
「念のため、王子殿下にも」
「私にもか」
「計画の標的が陛下だけとは限りません」
「分かった。早く済ませてくれ」
再び魔力が揺れた。
何も起こらなかった。
「殿下も人間です」
「父上にも私にも何も起こらない。この国は平和だ。魔物が入り込んだという騒ぎも起きていない。得た情報が誤っていたのではないか?」
「その可能性も否定はできません」
勇者はそう言いながらも、言葉を止めなかった。
「ですが、もし城内に魔物が潜んでいるなら、放置する方が危険です。王族の近くで働く者、最近雇われた者、身元が十分に確認できない者から、順に調べるべきです」
最近雇われた者。
ベルタの呼吸が止まりかけた。
自分だ。
地方から来たという経歴は、すべて作り話である。身元を保証する者はいない。採用されて一年ほどしか経っていない。
真っ先に疑われてもおかしくない。
王子が反対する。
「城中の者を疑うような真似をすれば、不要な混乱を招きます。長く仕えてきた者まで、魔物ではないかと鏡を向けられるのですか」
「明日からにしよう」
王が決めた。
「今日は皆も旅の疲れがあるだろう。城内の者へは、混乱が起きないよう私から説明する」
「父上、本当に全員を調べるのですか」
「必要な範囲でだ」
「使用人たちは怖がります」
「だからこそ、急に鏡を向けるのではなく、理由を説明する。何もなければ、それで終わりだ」
王子はしばらく黙っていた。
やがて、納得しきれない声で答えた。
「……分かりました」
「殿下のお気持ちは理解します」
勇者が言った。
「ですが、魔物が本当にいるなら、早く見つけることが、この城と町を守ることになります」
ベルタは、それ以上聞いていられなかった。
足音を立てないよう控え部屋を離れ、仕事に戻った。
「ベルタ、勇者様たちを見た?」
仕事中、知り合いのメイドに話しかけられる。
「見ていない」
「明日、変な鏡で城の人を調べるって。本当かしら」
「知らん」
「魔物なんているわけないわよね」
ベルタは答えなかった。
「ベルタ?」
「仕事へ戻れ。班長に叱られるぞ」
「そうね。またあとで」
メイドは何も疑わず去っていった。
ベルタはその背を見送った。
明日。
明日になれば、すべてが終わる。
勇者たちは、まず王族の近くにいる者を調べる。
侍従、侍女、衛兵、料理人。
そして最近雇われた、身元の怪しいメイド。
ラーの鏡を向けられれば、ベルタの姿は消える。
美しい人間の女ではなく、巨大で醜いボストロールが現れる。
王子は何を見るだろう。
自分を友人のように扱い、何度も話しかけ、手袋を贈った相手の正体が、父親を殺して国を奪うために来た魔物だったと知る。
ミレーヌたちはどうする。
誕生日を祝い、生まれてきてよかったと言った相手が、最初からすべてを騙していたと知る。
パン屋の娘は。
風車を作った職人たちは。
町の者たちは。
ベルタは城へ潜入した魔物として捕らえられるだろう。
勇者一行が相手なら、戦って逃げることもできない。
今の身体には、元のボストロールほどの力はない。へんげを解けば力が戻るのか、それともつえの効果が切れるまで人間並みなのかさえ、試したことがなかった。
仮に逃げられたとして、どこへ行く。
魔王のもとへ戻るのか。
任務を果たせず、人間へ情を移した裏切り者として。
あるいは王を捕らえ、今夜のうちに計画を実行するのか。
明日念のためといってもう一度ラーの鏡を向けられた時点で終わる。
勇者たちを殺すことも考えた。
だが、彼らが持つ魔力を感じた瞬間、勝てないことは分かっていた。
何より、王子や城の者を巻き込まずに戦うことなど不可能だった。
その日の夕食で、ベルタはほとんど何も食べられなかった。
「珍しいわね」
向かいに座ったミレーヌが、ベルタの皿を見た。
「肉を残すなんて」
「腹が減っていない」
「具合が悪いんじゃない?」
「違う」
「顔も怖いわよ」
「いつもだろう」
「いつもより怖い」
アンナも心配そうに顔を覗き込んだ。
「明日の鏡のこと?」
ベルタの指がぴくりと動く。
「別に怖がることはないでしょう。人間なら何も起きないんだもの」
「そうそう。勇者様たちも、確認したらすぐ次の場所へ行くって」
「むしろ本当に魔物がいたら怖いけどね」
ロッテが声を落とした。
「ずっと一緒に働いていた人が、実は魔物だったなんてこともあるのかしら」
「そんなこと、あるわけないでしょう」
ミレーヌは笑った。
「毎日一緒に食べて寝ているのよ。魔物なら分かるわ」
ベルタは俯いた。
「どうして分かる」
「何となくよ」
「何となくで分かるものか」
「だって、魔物は人間を嫌っているんでしょう? 私たちと一緒に働いたり、ロッテを慰めたりなんてできないわよ」
「余計な話を出さないで」
ロッテが恥ずかしそうに言い、皆が笑った。
ベルタだけは笑えなかった。
その夜、使用人寮へ戻ってからも、仲間たちは鏡の話をしていた。
勇者一行を間近で見られるかもしれない。
鏡には自分がどのように映るのか。
魔物が本当に城にいればどうなるのか。
やがて消灯の時間になり、一人ずつ寝台へ入った。
「おやすみ、ベルタ」
ミレーヌが言った。
「……おやすみ」
ベルタも答えた。
部屋が暗くなる。
しばらくすると、静かな寝息が聞こえ始めた。
ベルタだけが目を開けていた。
天井を見つめる。
明日の朝になれば、自分にも順番が来る。
逃げるなら、今夜しかない。
城を出て、森へ入り、遠くへ行く。
そうすれば少なくとも、正体を知られずに済む。
仲間たちは、ベルタが突然姿を消した理由を考えるだろう。裏切られたと思うかもしれないが、魔物だったと知るよりはましなのではないか。
しかし勇者たちは、いなくなったメイドを疑う。
やがてベルタが魔物だったことへたどり着くだろう。
王子も知る。
逃げても、何も隠し通せない。
では、自ら名乗り出るか。
自分はボストロールだ。
王を奪うために来た。
だが、もう国を壊したくない。
そう話して、誰が信じる。
一年間騙し続けた魔物の言葉を、王や勇者が信じるはずがない。
捕らえられ、殺される。
当然だ。
自分はすでに何人もの人間を殺してきた魔物なのだから。
城の者たちは優しかった。
だから許されると考える方が間違っている。
ベルタは寝返りを打った。
隣の寝台では、ミレーヌが眠っている。
薄暗い部屋の中に、仲間たちの持ち物が並んでいた。
アンナの裁縫箱。
ロッテが買った新しい髪飾り。
壁へ結びつけた、ベルタの誕生日祝いの紙飾り。
一年をかけて増えた、ささやかな暮らしの跡。
ベルタは布団の中で拳を握った。
「俺はボストロールだ」
小さく唱えた。
言葉は部屋の暗闇へ消えた。
以前のような力はなかった。
何度繰り返しても、自分を奮い立たせてはくれない。
「俺は……」
続きが出てこなかった。
ボストロールなのか。
ベルタなのか。
どちらも自分なのか。
それとも、どちらでもないのか。
考えても分からない。
だが明日になれば、ラーの鏡が答えを出す。
鏡は、ベルタを偽りだと断じる。
一年間働き、笑い、泣き、人から愛された姿を剥がし、最初から存在しなかったものとして消し去る。
それが怖かった。
捕らえられることよりも。
殺されることよりも。
王子や仲間たちの前から、ベルタという人間が消えてしまうことが。
ベルタはゆっくりと上半身を起こした。
誰も目を覚まさない。
裸足で床へ下りる。
足音を立てないよう、寝台の脇へ膝をついた。
手を伸ばし、床板の一枚へ指をかける。
僅かに浮かせると、その下には細長い布包みが隠されていた。
ベルタはそれを取り出した。
布をほどく。
中から現れたのは、一本のつえだった。
へんげのつえ。
この城へ来た理由。
王を奪い、国を壊すための道具。
そしてベルタという姿を作ったもの。
つえの先端に埋め込まれた宝玉は、暗闇の中でかすかな光を帯びていた。
一年前、これを受け取ったとき、ベルタは人間の女の姿を心底憎んでいた。
細い腕。
小さな身体。
長い髪。
面倒な服。
毎月訪れる痛み。
すべてが弱く、煩わしく、屈辱的だった。
今、その身体でつえを持っている。
床を磨いた手。
パンの籠を運んだ腕。
風車を組み立てた肩。
王子から手袋を贈られ、仲間から髪紐をもらい、誰かの背中を撫でた身体。
ベルタはつえを見つめた。
これを使えば、別の姿へ変わることができる。
城から逃げるために。
誰にも知られない顔となり、夜のうちに町を出るために。
あるいは、つえを折ることもできるかもしれない。
壊してしまえば、変身が解けるのか。
ベルタの姿のまま固定されるのか。
元の姿へ戻るのか。
何が起こるか分からない。
勇者たちへ渡すこともできる。
王へ差し出し、すべてを話すこともできる。
つえの宝玉へ、自分の顔が小さく映っていた。
泣きそうな顔をした女。
ベルタ。
ベルタは両手でつえを握った。
今夜、決めなければならない。
逃げるのか。
戦うのか。
名乗り出るのか。
それとも、最後まで嘘をつき通すのか。
答えはまだ出なかった。
けれどもう、寝台の下へ戻して何も知らないふりをすることだけはできなかった。
ベルタは眠る仲間たちを振り返った。
そして、へんげのつえを胸元へ抱き寄せた。