[DQ3]へんげのつえIF-トロルのメイド 作:ばっどぼーい
夜が深まるのを待って、ベルタは使用人寮を抜け出した。
黒い外套を制服の上から羽織り、頭から深くフードを被る。手には布で包んだへんげのつえを握っていた。
隣の寝台ではミレーヌが眠っている。
部屋を出る直前、ベルタは一度だけ振り返った。
このまま戻れないかもしれない。
勇者たちに捕らえられるかもしれない。
つえを渡したあとで正体を暴かれ、その場で討たれる可能性もある。
それでも、誰にも別れを告げることはできなかった。
何と言えばよいのか分からなかった。
一年間ありがとう。
自分は本当は魔物だった。
王を殺し、この国を奪うために来た。
だが、今はお前たちを死なせたくない。
そんな言葉を、眠っている相手へ残す勇気はなかった。
ベルタは音を立てずに扉を閉めた。
城の外へ出ること自体は難しくなかった。
長く城内で働いたことで、夜警がどの道を巡るかも、使用人用の小門がいつ開くかも知っている。
本来なら王へ近づくために集めた知識だった。
今夜は、王を守るために使っている。
城下町は静かだった。
昼には人と荷車で埋まる通りも、今は月明かりに照らされているだけである。店の戸は閉まり、住民たちは家の中で眠っている。
パン屋の前を通ったとき、ベルタは足を止めかけた。
明日の朝、店の娘はいつものようにパンを焼くだろう。
ベルタちゃん、と呼ぶだろう。
自分が戻らなければ、不思議に思うだろうか。
だが、今は立ち止まれなかった。
勇者一行が滞在している宿は、町の中央広場から少し外れたところにあった。
すでに灯りの消えた窓も多いが、二階の一室だけはまだ明るい。明日から城内の調査を始めるため、打ち合わせでもしているのだろう。
ベルタは裏口へ回った。
宿の主人を起こさずに入る方法を探していると、二階から微かな話し声が聞こえた。
窓が少し開いている。
一瞬、壁を登ることも考えた。
元の身体なら容易だった。
しかし今の身体では、二階まで登るには足場が必要である。落ちれば騒ぎになる。
結局ベルタは、正面から戸を叩いた。
しばらくして、寝間着の上へ上着を羽織った宿の主人が現れた。
「こんな夜中に、どちら様で?」
「勇者たちへ用がある」
「明日にしてもらえませんかね」
「明日では遅い」
低い声になりすぎたことに気づき、ベルタは少し声を和らげた。
「王国の安全に関わることです。どうか、取り次いでください」
宿の主人は怪しんだものの、王国の安全という言葉に押され、二階へ上がっていった。
間もなく、階段の上に勇者が姿を見せた。
腰には剣を帯びている。
その後ろには、仲間の戦士と賢者、魔法使いらしい者たちもいた。
夜中の訪問者を警戒しているのだろう。全員、眠っていたとは思えないほど緊張した顔をしている。
「あなたが話をしたいという人ですか」
「ああ」
「顔を見せてください」
「それはできない」
勇者の手が剣へ伸びた。
「なら、話だけ聞くわけにはいきません」
ベルタは争うつもりがないことを示すため、ゆっくりと両手を上げた。
右手には、布に包まれたつえがある。
「これを渡しに来た」
「何です?」
「へんげのつえだ」
宿の空気が変わった。
勇者たちは即座に武器を構えた。
階下にいた宿の主人が、小さく悲鳴を上げて奥へ逃げていく。
「動かないでください」
勇者が鋭く告げる。
「そのつえを床へ置いて、ゆっくり離れて」
ベルタは言われた通り、床へつえを置いた。
布がほどけ、宝玉のついた一本のつえが姿を現す。
勇者の仲間である魔法使いが、警戒しながら近づいた。
つえへ直接触れず、杖先で転がし、魔力を調べる。
「間違いないと思う。強い変化の魔力を感じる」
「では、本当にこれが」
勇者はベルタへ視線を戻した。
「誰から手に入れたのです」
「答えられない」
「城へ潜んでいる魔物を知っているんですね」
「……知っている」
「どこにいます」
「それも言えない」
「あなたは、その魔物の仲間ですか」
ベルタは沈黙した。
勇者は剣を抜いた。
「私たちは、この国を守るために来ました。隠すなら、あなたも敵として扱います」
「それで構わない」
ベルタは静かに言った。
「ただし、先に頼みを聞いてほしい」
「頼み?」
「魔王軍が、この国へ直接侵攻する可能性がある」
勇者たちの顔から、さらに緊張が増した。
「いつです」
「分からない。だが、近いかもしれない」
「なぜそんなことを知っている?」
「魔物の計画が失敗しているからだ」
ベルタはフードの中で拳を握った。
自分のことを語っている。
それでも、最後の一線を越えることができない。
私はその魔物だ。
そう言えば、すべて終わる。
だが口は動かなかった。
「へんげのつえは渡す。もう、王に成り代わる計画は実行できない」
勇者は何も言わず、続きを待った。
「だから魔王軍は、別の手段を選ぶかもしれない。軍勢で攻め込めば、城だけでは済まない。町にも被害が出る」
「それを止めてほしいと?」
「ああ」
ベルタは頭を下げた。
人間へ向けて、これほど深く頭を下げたのは初めてだった。
「この国と共に戦ってくれ」
勇者たちは顔を見合わせた。
「あなたの正体も、目的も分からない」
賢者らしい女が言った。
「私たちが信用するとでも?」
「信用しなくていい」
ベルタは顔を上げなかった。
「ただ、攻め込まれたときは戦ってくれ。この町を守ってほしい」
「なぜです」
勇者が尋ねた。
「なぜ、あなたがそこまでこの国を守ろうとするのです」
答えは分かっていた。
王子が好きだから。
仲間たちが好きだから。
城下町が好きだから。
自分をベルタと呼ぶ者たちを失いたくないから。
だが、それを口にする資格が自分にあるのか分からなかった。
「……一年、ここにいた」
ベルタはそれだけ答えた。
「それで、壊したくなくなった」
勇者たちは黙った。
誰も剣を下ろしてはいない。
だが、すぐに襲いかかることもなかった。
「その魔物は」
勇者が慎重に尋ねる。
「まだ城の中にいるのですか」
ベルタは答えなかった。
「あなたは――」
「ベルタ」
背後から声がした。
ベルタの身体が凍りついた。
その声を聞き間違えるはずがなかった。
振り返る。
宿の入口に、王子が立っていた。
外套を羽織っているが、その下は寝間着に近い簡素な服だった。急いで城を出てきたのか、髪も整っていない。
「なぜ……」
ベルタの喉から掠れた声が出た。
「なぜ、ここにいる」
「今日の夜、君と大事な話をしようと思っていた」
王子はゆっくりと宿の中へ入った。
「部屋へ行ったら、ちょうど君が外へ出ていくところだった。呼び止めようとしたが、ずいぶん思いつめた様子だったから……悪いとは思ったが、ついてきた」
ベルタは後ずさった。
背中が壁へ当たる。
フードの奥で、血の気が引いていく。
聞かれた。
どこから聞いていた。
へんげのつえという言葉を。
魔物の計画を。
一年この国にいたという話を。
すべて聞かれたのか。
「殿下」
勇者が王子へ声をかける。
「この人をご存じなのですか」
「知っている」
王子はベルタから目を離さなかった。
「城で働いているメイドだ」
ベルタは胸元で外套を握り締めた。
「帰ってください」
「ベルタ」
「帰れ!」
宿中へ響くほど大きな声が出た。
勇者たちが身構える。
王子は立ち止まったが、逃げなかった。
「来るな」
ベルタは震えながら言った。
「俺を見るな」
「フードを取ってくれ」
「嫌だ」
「ベルタ」
「その名で呼ぶな!」
声が裏返った。
王子の表情が痛みを帯びる。
ベルタは、もう何も隠せないと分かっていた。
それでも、王子の口から決定的な言葉を聞きたくなかった。
お前は誰だ。
騙していたのか。
父上を殺すつもりだったのか。
この国を滅ぼすために近づいたのか。
そう問われれば、否定できない。
王子が向けてくれた信頼も、笑顔も、手袋も、すべて自分が奪ったものだったと認めなければならない。
「最初から、俺は……」
ベルタは息を吸った。
「最初から、王を殺して、この国を奪うために――」
「知っていた」
王子が言った。
ベルタの言葉が止まった。
宿の中が静まり返る。
「……何を」
「君が普通の人間ではないことを」
ベルタは王子を見つめた。
フードの影から見える顔は、理解できないものを前にしたように固まっている。
「嘘だ」
「嘘ではない」
「いつからだ」
「最初からではない。だが、かなり前から疑っていた」
王子は、困ったように少し笑った。
「異様なほど力が強い」
「人間の男程度だ」
「人間の女性としては十分異様だ」
ベルタは何も言えなかった。
「動作はひどくガサツで、言葉遣いもたびたび変わる。人間の生活習慣を何も知らなかった。女性の身体についてさえ知らなかったそうだな」
「誰から聞いた」
「城の噂は、意外とよく届く」
「噂好きなやつらめ……」
「農家で育ったと言う割に、作物の育て方も分からない。故郷の場所を尋ねれば、話すたび少しずつ変わる。父親は病気で死んだと言った翌月には、野盗に襲われたことになっていた」
ベルタは唇を噛んだ。
その場を切り抜けるためだけに作った過去。
自分でも覚えていないほど曖昧で、食い違いだらけの作り話。
「ならば」
声が震えた。
「なぜ黙っていた」
王子は答えなかった。
「なぜ、王へ報告しなかった!」
ベルタはフードをつかみ、自分から脱ぎ捨てた。
赤褐色の髪がこぼれる。
宿の灯りに、青ざめた女の顔が晒された。
「俺が何者か分からなかったのだろう! 城へ何をしに来たのかも! 王族なら、国を守るなら、すぐ捕らえるべきだった!」
「ああ」
王子は静かに答えた。
「そうするべきだった」
「なら、なぜだ!」
「君が好きだったからだ」
ベルタは絶句した。
勇者一行も、全員が言葉を失った。
宿の奥から様子を窺っていた主人が、音を立てないよう扉の陰へ引っ込んだ。
王子は自嘲するように笑った。
「国を守る王になりたいと言っておきながら、怪しい者を黙って城へ置いた。王子失格だな」
「何を、言っている」
「君が現れるのを待つのが楽しかった」
王子は一歩、ベルタへ近づいた。
「仕事を褒めたとき、嬉しそうにするのを見るのが好きだった。私が話したことへ真剣に怒ったり、驚いたり、時には笑ったりする君が好きだった」
「俺は、お前を騙していた」
「知っている」
「父親を殺そうとした」
「それも今、聞いた」
「国を滅ぼすつもりだった!」
「だが、滅ぼさなかった」
「できなかっただけだ!」
「そして今、へんげのつえを勇者へ渡した」
ベルタは歯を食いしばった。
「俺は魔物だぞ」
「君はベルタでもある」
「違う!」
「違わない」
王子の声は強かった。
「一年間、城で働いたのは君だ。風車を作ったのも、仲間の誕生日に贈り物を選んだのも、パン屋の娘へ礼を言ったのも君だ」
「それは潜入のためで」
「最初は、そうだったのだろう」
「全部、嘘だった!」
「では、今ここで国を守ってくれと頼んだのも嘘なのか」
ベルタは答えられなかった。
王子はまた一歩近づいた。
もう手を伸ばせば届く距離だった。
「ベルタ」
「来るな」
「怖いのか」
「黙れ」
「私は怖い」
王子は言った。
「君が今夜いなくなるかもしれないと思った。二度と会えないかもしれないと思った」
「その方がよい」
「よくない」
「俺がいれば、国が危険になる」
「君がいなくても、魔王軍は来るかもしれない」
「ならば俺を殺せ! 魔物を捕らえたと示せば、侵攻を遅らせられるかもしれない!」
王子の顔から、僅かな笑みが消えた。
「それはできない」
「国を守るのだろう!」
「君も守りたい」
「そんなことが許されると思うのか!」
「思わない」
王子は苦しそうに息を吐いた。
「正しいとは思っていない。父上へ話せば叱責では済まないだろう。国民へ知られれば、王子としての資格を疑われる」
「なら――」
「それでも、君を見捨てることはできない」
ベルタは王子を見つめた。
この男は愚かだ。
王族として、あまりにも愚かだった。
怪しいと気づきながら黙っていた。
敵かもしれない女を好きになった。
国の安全より、個人的な感情を優先した。
それを自分でも分かっている。
分かっていながら、今もこちらへ手を伸ばしている。
「お前は……本当に、王子失格だ」
ベルタの声が掠れた。
「ああ」
王子は寂しそうに笑った。
「そうだな」
その顔を見た瞬間、ベルタの中で何かが崩れた。
一年間こらえてきたもの。
自分は魔物だという意地。
ベルタは偽物だという恐怖。
好かれる資格などないという諦め。
すべてが、一度に形を失った。
ベルタは王子の胸元をつかんだ。
勇者たちが反射的に身構える。
だが、ベルタは王子を殴らなかった。
引き寄せた。
額を胸へ押しつけ、そのまま両腕を背中へ回した。
王子も、何も言わずベルタを抱き締めた。
強くもなく、逃がすまいと拘束するようでもなく。
ただ、そこにいることを確かめるような抱擁だった。
ベルタの肩が震えた。
涙が王子の服へ染み込んだ。
「俺は、お前を殺そうとした」
「うん」
「国を壊そうとした」
「うん」
「皆を騙した」
「うん」
「それでも、好きだと言うのか」
王子の腕に力が入った。
「ああ」
ベルタはそれ以上、何も言えなかった。
王子も言わなかった。
二人はただ抱き合った。
宿の中には、ベルタの押し殺した嗚咽だけが響いていた。
しばらくして、勇者の仲間である戦士が、気まずそうに小声で言った。
「……俺たち、外へ出た方がいいか?」
「つえを置いていくわけにはいかないでしょう」
魔法使いが同じく小声で返す。
「しかし、これはどう見ても二人だけの場面では」
「我慢してください」
賢者が真顔で言った。
「国の安全に関わる重要な証言の途中です」
「重要な証言は、今止まってないか?」
勇者は剣を下ろしながら、深く息を吐いた。
「一応、聞いておくべきでしょうね」
ベルタは王子の胸へ顔を埋めたまま、低く唸った。
「……忘れろ」
「無理です」
勇者が答えた。
「全部聞きました」
「殺すぞ」
「今のあなたでは、たぶん私たち全員には勝てません」
「分かっている!」
ベルタが顔を上げる。
涙で目元を濡らしながら怒鳴る姿を見て、王子は思わず笑った。
「笑うな!」
「すまない。いつものベルタに戻った気がして」
「今すぐ離れろ!」
「嫌だ」
「お前は本当に――」
ベルタは言い返そうとしたが、王子の腕がまだ背中へ回っていることに気づき、結局離れなかった。
勇者一行は揃って視線の置き場に困っていた。
床には、へんげのつえが置かれている。
国を奪うために使われるはずだった道具。
そのすぐそばで、王子と魔物は互いを抱き締めていた。
勇者は額へ手を当てた。
「明日、陛下へ何と説明すればいいんでしょう」
「正直に話すしかないのでは」
「王子殿下が、国王暗殺を企てていた魔物の正体に感づきながら、好きだったので黙っていました、と?」
「事実です」
「言葉にすると、想像以上にひどいな」
王子はベルタを抱いたまま答えた。
「私もそう思う」
「殿下は少し反省してください」
「十分している」
「その顔はしていません」
王子の顔には、困難がすべて解決したわけでもないのに、安堵が浮かんでいた。
ベルタはそれを見て、再び目を伏せた。
明日になれば、王へすべてを話さなければならない。
本当の姿を晒すことになる。
許される保証などない。
魔王軍が攻めてくる可能性も残っている。
むしろ、戦いはこれから始まる。
それでもベルタは、もう一人ではなかった。
王子の胸元をつかむ手から、力を抜く。
「離れるな」
ベルタは小さく言った。
「離れない」
王子が答えた。
勇者たちは、ますます気まずそうに黙り込んだ。