「オールB……?」
中央トレセン学園の基礎能力測定室に、担当教官の驚いた声が響いた。
入学したばかりのウマ娘なら、スピード、スタミナ、パワー、根性、賢さの五項目のうち、一つでもC評価へ届けば十分に優秀とされる。将来を期待される新人でも、得意分野だけがCやBへ届き、他はまだ成長途中ということが珍しくない。
ところが、測定台の上に立つ少女は違った。
【スペシャルウィーク】
スピード:B
スタミナ:B
パワー:B
根性:B
賢さ:B
芝適性:A
中距離適性:A
長距離適性:A
先行適性:A
差し適性:A
【保有スキル:なし】
突出した一項目だけが高いのではなく、五つの基礎能力すべてがB。さらに芝、中距離、長距離、先行、差しと、主要な適性まで軒並みA判定を記録している。
「機械の故障ではないのか?」
「念のため三回測定しました。ですが、すべて同じ結果です」
「身体能力だけではないぞ。適性までこれほど広いとは……」
教官たちの視線が、一斉に少女へ集まった。
紫がかった黒髪に、額の中央を通る白い前髪。大きな紫色の瞳を持つウマ娘――スペシャルウィーク。
俺にとっては、幼い頃からずっと一緒に過ごしてきた大切な幼馴染だ。
そんな周囲の驚きとは対照的に、当のスペは自分がなぜ注目されているのか分かっていないらしい。困ったように耳を動かしながら俺を見つけると、不安と期待が半分ずつ混じった顔で尋ねてきた。
「ねえ、これって良かったの?」
「うん。良すぎて、みんな驚いてるんだよ」
「本当!?」
意味を理解した瞬間、スペの表情がぱっと明るくなる。
「じゃあ、今までの練習はちゃんと意味があったんだね!」
「もちろん。スペが毎日頑張ってきた結果だよ」
「えへへ……」
褒められたスペの耳が嬉しそうに立ち、尻尾も左右へ揺れる。その姿は昔からまったく変わっていなくて、見ている俺まで自然と笑顔になった。
「ただ、日本一を目指すなら、ここからが本番だよ」
「やっぱり、まだ足りない?」
「足りないんじゃなくて、まだまだ伸びるってこと。今までは、どんな走り方にも対応できる身体を作ってきただけだからね」
少し不安そうになったスペの頭を軽く撫でる。
「これからはレースを覚える。位置取り、仕掛けるタイミング、他のウマ娘との駆け引き、それにスペ自身に合ったスキルも身につけていく。今まで作ってきた土台の上に、勝つための走りを積み上げるんだ」
「うん!」
迷いのない返事だった。
俺にとってはいつもどおりのスペだ。真っすぐで努力家で、少し食いしん坊で、褒められればすぐ嬉しそうな顔をする。
けれど周囲にとって、入学時点でこれほど完成された基礎能力を持つ新人は、決して「いつもどおり」で済ませられる存在ではなかったらしい。
「君が彼女を育てたのか?」
教官の一人に問われ、俺はスペの隣で頷いた。
「はい。幼い頃から、ずっと一緒に練習してきました」
俺――日高悠真とスペシャルウィークの挑戦は、今日始まったわけではない。
もう十年以上前。
北海道の小さな町で交わした一つの約束から、俺たちの物語は始まっていた。
◇
俺には、前世の記憶がある。
どこで生まれ、何歳まで生き、どんな人生を送ったのか。そうした細かな部分はほとんど残っていない。それでも、自分が一度死に、まったく別の世界へ生まれ変わったという感覚だけは、物心がついた頃から不思議なほどはっきりしていた。
そして、この世界にはウマ娘がいる。
人間とよく似た姿に、馬の耳と尻尾を持つ少女たち。常人を遥かに上回る身体能力を持ち、その才能を競うトゥインクル・シリーズは、この世界で最も人気のある競技の一つだった。
そんな世界で、俺の家の近所に住んでいた三歳年下の幼馴染もまた、一人のウマ娘だった。
「お兄ちゃーん! 競争しよー!」
当時四歳だったスペは、今日も北海道の広い牧草地を元気いっぱいに駆け回っていた。
「スペと競争したら、俺がすぐ負けちゃうよ」
「大丈夫! お兄ちゃんは先に走っていいから!」
「それでも追いつかれると思うな」
「じゃあ、私は後ろ向きで走る!」
「そこまでされると、ちょっと悲しいかな」
「あっ……じゃあ、ゆっくり走る!」
幼いなりに気を遣ってくれたらしい。
とはいえ、どれだけゆっくり走ると言っても相手はウマ娘だ。俺がかなり先に走り出しても、後ろから楽しそうな足音が近づいてきて、あっという間に隣へ並ばれる。
「お兄ちゃん、頑張って! もう少しだよ!」
「応援するなら、抜かさないでくれると嬉しいな!」
「それは無理かも!」
「即答なんだ……」
スペは楽しそうに笑いながら俺の横を抜き、そのまま前へ出ようとした。
異変が起きたのは、その直後だった。
右足の着地がわずかに外へ流れ、小さな身体がバランスを崩す。柔らかな草の上だったのが幸いし、大きな怪我にはならなかったものの、スペはそのまま一度転がってしまった。
「スペ!」
「いたた……でも平気だよ!」
すぐ起き上がろうとするスペの肩を支えた瞬間、俺の視界に突然、見たことのない情報が浮かんだ。
【スペシャルウィーク】
体調:良好
疲労:小
右足首:軽度の負担
【身体傾向】
走行時、右足の着地が外側へ流れる傾向あり
【現時点で重大な故障なし】
最初は何が起こったのか分からなかった。
けれどスペを見れば見るほど、表示されている情報が単なる数字ではないことが理解できた。右足首へどの程度の負担がかかっているのか、どの筋肉が張っているのか、走る時にどんな癖が出ているのかまで、まるで最初から知っていたかのように頭へ入ってくる。
これが、俺自身の持つ特別な力を初めて自覚した瞬間だった。
「スペ、右足を見せてくれる?」
「これくらい、本当に平気だよ?」
「うん。大きな怪我じゃない。でも少しだけ足がびっくりしてるみたいだから、今のうちに休ませてあげよう」
「足がびっくりしてるの?」
「さっき、いつもと少し違う着き方をしたからね。痛いところを我慢して走ると、本当に怪我するかもしれないよ」
「それは嫌かも……」
「だから見せて」
「うん」
スペの前へしゃがみ、右足首へ慎重に触れる。どこを押せば痛むのか、どの筋肉をどの方向へほぐせば負担が抜けるのかも、視界に浮かぶ状態と一緒に自然と理解できた。
「痛かったらすぐ言ってね」
「分かった。ひゃっ……!」
「痛い?」
「違う。くすぐったい!」
「それならよかった。もうちょっとだけ我慢して」
「でも、なんか気持ちいいかも……」
幼い手で無理をかけないよう慎重に筋肉をほぐし、関節の動きを確かめる。数分後にもう一度状態を確認すると、軽度だった負担はかなり改善されていた。
「一回、ゆっくり動かしてみて」
「うん……あっ!」
スペは足首を何度か曲げ伸ばしすると、驚いたように目を丸くした。
「痛くない!」
「よかった。でも今日はもう走るのは終わりね」
「えーっ!? まだ走れるよ!」
「今走れることと、走っていいことは違うよ。無理して明日走れなくなるより、今日は休んで明日また一緒に走ろう」
「明日も一緒?」
「もちろん」
「じゃあ今日は我慢する!」
さっきまで不満そうに垂れていた耳が、明日の約束を聞いた途端に元へ戻る。スペは俺の隣へちょこんと座り、その日は二人で牧草地を眺めながら家へ帰ることになった。
それから俺は、遊びの延長だったスペとの時間を、少しずつ「練習」へ変えていった。
◇
特別な設備など何もない北海道の田舎だったが、身体を作る方法はいくらでもあった。
丘の上まで一緒に走り、下半身と心肺を鍛える。軽い丸太を押して全身の力を連動させ、片足立ちで姿勢を保ちながらバランス感覚を養う。俺が掲げた色付きの布を見て決められた方向へ素早く走らせれば、反応速度と身体の切り返しも鍛えられた。
そして俺には、スペの状態を見れば、その日にどの程度の負荷をかけるべきかが分かる。
無理をさせれば疲労が蓄積し、怪我の可能性が上がる。反対に、楽をさせすぎても十分な成長は得られない。その二つの間にある「最も効率よく伸びる負荷」を見極められるのは、育成する側としてあまりにも大きな利点だった。
「今日は坂を三本走ろう」
「五本いけるよ!」
「スペが五本走れるのは知ってる。でも今日は三本が一番いいんだ」
「四本は?」
「三本を全部きれいに走れたら、お母ちゃんにご飯を一杯増やしてもらえるよう、一緒にお願いしてあげる」
「本当!?」
「うん。その代わり、一回ずつ丁寧に走ること」
「分かった! 三本、頑張る!」
単純と言えば単純だけれど、スペにはこれがよく効いた。
春は柔らかな土の上で走り方の基礎を作り、夏は森の坂道で脚と心肺を鍛える。秋は収穫の手伝いを通して全身を使い、冬は雪の上で滑らないための重心移動を身につけた。
走り終えたあとは必ず俺が身体を確認し、小さな張りや癖をその日のうちに取り除く。成長途中の身体へ余計な負担を残さず、必要な力だけを毎日少しずつ積み上げる。それを何年も続けた。
ただし、俺がこの時期に教えたのはあくまで基礎だけだ。
レースの中で他のウマ娘をどう見るのか、どの位置を取るのか、どこで仕掛けるのかといった競走技術には、ほとんど手をつけなかった。
スペにはまだ正式なレース経験がない。
スキルと呼ばれる特別な走りも、実際の競走や、それに近い環境を経験しながら自分のものにしていく必要がある。子どものうちから無理に型へ嵌めれば、せっかく広く育っている可能性を狭めることにもなりかねない。
だから俺が目指したのは、どんな戦術を選んでも対応できる身体だった。
先行でも。
差しでも。
中距離でも。
長距離でも。
スペ自身が将来選ぶ走り方を、身体が邪魔しない。
そのための土台を、何年もかけて作り続けた。
◇
スペが七歳になった頃。
二人でテレビのレースを見ていた日のことを、俺は今でもよく覚えている。
満員の観客席。
地面まで震えているような大歓声。
最後の直線で何人ものウマ娘が競り合い、その中から一人が抜け出して先頭でゴールを駆け抜ける。
普段ならレース中にも「あの子速いね!」だの「今すごかった!」だのと賑やかなスペが、その日は珍しく黙ったまま画面を見つめていた。
「スペ?」
「……私も、あそこを走りたい」
「中央のレース?」
「うん」
スペはテレビから目を離さず、今度ははっきりと言った。
「私、日本一のウマ娘になる」
育ててくれたお母ちゃん。
そして、亡くなったもう一人のお母ちゃん。
二人に胸を張ってもらえるようなウマ娘になりたい。
それが、スペシャルウィークが初めて自分自身で選んだ夢だった。
「お兄ちゃんも、手伝ってくれる?」
その言葉を聞いた時には、俺の答えもすでに決まっていた。
「手伝うだけじゃなくて、俺がスペのトレーナーになってもいい?」
「お兄ちゃんが?」
「うん。スペが日本一を目指すなら、俺も一番近くで支えたい。一緒に日本一を目指そう」
スペの耳がぴんと立つ。
「ずっと一緒にいてくれる?」
「もちろん。スペが夢を追い続ける限り、俺も隣で一緒に頑張るよ」
「本当に?」
「約束する」
「やったぁ!」
勢いよく抱きつかれ、まだ子どもだった俺はそのまま畳へ押し倒された。
「お兄ちゃんがトレーナーなら、私、絶対に頑張れる!」
「うん。スペならきっと強くなれるよ」
「じゃあ、もう一つ約束して!」
「どんな約束?」
俺の胸の上に乗ったまま、スペは満面の笑顔を浮かべた。
「私が日本一になったら、お兄ちゃんのお嫁さんになる!」
「……お嫁さん?」
「うん! 日本一になって、いっぱい褒めてもらって、そのままお嫁さんになるの!」
当時の俺は、それを幼いスペの可愛らしい思いつきだと思っていた。
けれど、スペ自身はどうやら本気だったらしい。まっすぐ見つめてくる瞳を前に、子どもの約束だからと適当に流す気にはなれなかった。
「じゃあ、スペが大きくなっても同じ気持ちだったら、日本一になった時にもう一度聞かせて」
「日本一になった時?」
「うん。その時は俺も、ちゃんと答えるから」
「分かった! 絶対に忘れないでね!」
「忘れないよ」
スペが差し出した小指へ、自分の小指を絡める。
「約束だ」
「約束!」
あの頃の俺は、まさか十年以上経ったあともスペがその約束を一言一句忘れず覚えているとは思っていなかった。
◇
スペが日本一を目指すと決めてから、俺自身の進路も決まった。
中央トレセン学園で正式に彼女を担当するため、俺はトレーナー養成機関へ進んだ。しかしスペとは三歳しか年齢が離れていないため、普通に課程を進んでいては彼女の入学へ間に合わない。
そこで必要な課程を可能な限り早く修了し、飛び級と特例試験を利用した。
解剖学。
栄養学。
運動生理学。
心理学。
レース戦術。
自分にはウマ娘の状態を見る力がある。
けれど、その力だけに頼って「分かったつもり」になる気はなかった。スペの身体だけではなく、夢と将来まで預かることになるのだから、俺自身も正しい知識を学び続けなければならない。
状態が見えるなら、その意味を正確に理解する。
身体の癖が分かるなら、どう直すのが最適なのかを学ぶ。
効率のいいトレーニングが分かっても、なぜそれが必要なのかを理論でも説明できるようにする。
スペが努力するなら、俺も同じだけ努力する。
それだけは最初から決めていた。
そうして十八歳になった年、中央トレーナー試験へ主席で合格した。
史上最年少の合格者。
周囲からは随分騒がれたが、俺にとってその記録自体に大した意味はなかった。
スペの入学に間に合った。
それだけで十分だった。
◇
そして迎えた、中央トレセン学園入学の日。
「お兄ちゃん!」
正門の前で待っていた俺へ、見慣れた少女が全速力で駆けてくる。
「スペ、危ないよ!」
「でも、ちゃんと受け止めてくれた!」
「受け止めるけど、転んだら大変だからね」
「お兄ちゃんがいるから大丈夫だもん」
「そういう問題じゃないよ」
苦笑しながらも、飛び込んできたスペをしっかり受け止める。
昔と比べれば随分背が伸びた。身体つきも、これから中央でレースへ挑むウマ娘らしく成長している。それでも俺の前では昔と変わらず、嬉しそうに距離を縮めてくる。
「入学おめでとう、スペ」
「お兄ちゃんもトレーナー試験合格おめでとう!」
「ありがとう」
「これからは本当に、ずっと一緒にいられるね」
「うん。一緒に日本一を目指そう」
「でも、学園でもお兄ちゃんって呼んでいいの?」
「公式な場ではトレーナーのほうがいいかもしれないね」
「じゃあ、二人きりの時はお兄ちゃん?」
「もちろん。俺もそのほうが嬉しいよ」
「本当?」
「ああ」
スペは満足そうに頷き、そのまま俺の腕へ自分の腕を絡めた。
「それとね」
「うん?」
「昔の約束も忘れてないからね」
「昔の約束?」
そう聞き返した直後、スペが少しだけ頬を赤くした。
「私が日本一になったら、お兄ちゃんのお嫁さんになるって約束」
思わず足が止まった。
「……覚えてたんだ」
「もちろんだよ。大きくなっても同じ気持ちなら、日本一になった時にもう一度聞かせてって言ったよね?」
「言ったね」
子どもの頃と違い、今のスペはその言葉の意味をきちんと理解している。
恥ずかしそうに頬を染めていても、こちらを見上げる瞳に迷いはなかった。
「じゃあ、スペが日本一になった時に、もう一度聞かせて」
「うん。絶対に日本一になるから、その時はちゃんと答えてね」
「約束するよ」
スペは嬉しそうに笑った。
それから数時間後。
俺たちは基礎能力測定室で、学園中を驚かせることになった。
◇
「これだけの能力を持ちながら、保有スキルが一つもないのか?」
測定結果を見ていた教官の問いに、俺は頷いた。
「はい。スペにはまだ正式なレース経験がありませんから」
「では、これまで行ってきたのは?」
「身体作りを中心にした基礎トレーニングです。走るための土台は十分に作ってきましたが、位置取りや仕掛けるタイミング、他のウマ娘との駆け引きといった競走技術は、これから本人に合ったものを探していくつもりです」
「意図的にレース技術を教えなかったと?」
「はい」
今のスペには、まだ明確な完成形がない。
だからこそ可能性がある。
高いスタミナを活かして前から押し切るのか。
パワーと末脚を磨いて後方から差すのか。
中距離を主戦場にするのか。
長距離まで広げるのか。
本人が実際のレースを経験し、自分の走りを知ったうえで決めればいい。
「今まで作ってきたのは、どんな走り方を選んでも耐えられる身体です。競走ウマ娘としてのスペシャルウィークを育てるのは、ここからだと思っています」
教官はしばらく俺とスペを見比べていたが、やがて納得したように頷いた。
「なるほど。オールBでありながら、まだ完成品ではないということか」
「はい」
「……末恐ろしい新人だな」
その言葉を聞いても、スペ本人はあまり実感がないらしい。少し照れたように笑っただけだった。
俺はそんなスペの前へ立ち、用意していた一枚の書類を差し出す。
「スペシャルウィーク」
「はい」
「俺と正式な担当契約を結んでくれる?」
「今さら聞くの?」
「大切なことだから、きちんとスペ自身に決めてもらいたいんだ。昔の約束とは別に、中央で走るウマ娘と、その責任を負うトレーナーとして」
スペは一度だけ契約書へ目を落としたあと、すぐにペンを取った。
迷いはなかった。
スペシャルウィーク。
自分の名前を書き終えると、契約書を俺へ差し出す。
「私のトレーナーは、ずっと前からお兄ちゃんだけだよ」
「スペ。今はみんなが見てる」
「あっ」
測定室のあちこちから小さな笑い声が聞こえ、スペの耳まで真っ赤になる。
それでも俺から手を離そうとはしなかった。
「じゃ、じゃあ改めて……」
少し恥ずかしそうにしながら。
それでも、まっすぐ俺を見る。
「私を日本一にして、トレーナー」
「うん」
俺も差し出された手を握り返した。
「必ず一緒に目指そう。スペが日本一になる、その瞬間まで俺は隣にいる」
「約束だよ」
「ああ。約束だ」
十年以上前。
北海道の小さな家で交わした約束。
日本一になること。
その隣に俺がいること。
そして、日本一になった時にもう一度聞かせるという、もう一つの約束。
そのすべてへ向けた、本当の第一歩がようやく始まった。
――そう思った直後だった。
「少し待ってくれ」
声をかけてきたのは、先ほどから測定を見ていた一人のトレーナーだった。手には模擬レースの申込書を持っている。
「能力が高いことは十分に分かった。しかし、実際のレースで走れるかどうかは別の話だろう」
その言葉に、測定室の空気が少し変わる。
「こちらの担当と一本、走ってみないか?」
相手は入学前から模擬レースへ参加し、何度も一着を取っている期待の新人らしい。
対してスペは、正式なレース経験が一度もない。
基礎能力だけなら十分に上だとしても、ゲートの緊張感、他のウマ娘と並んで走る圧迫感、位置取り、仕掛けるタイミングといったものは、実際に走ってみなければ分からない。
俺はすぐに答えず、スペへ視線を向けた。
「どうする、スペ?」
不安なら断っていい。
初日に無理をさせる必要はない。
そう伝えるつもりだった。
けれど、スペは笑っていた。
緊張していないわけではないだろう。それでも今の彼女には、不安よりも初めて本物のレースを走れる喜びのほうが大きいらしい。
「ねえ、トレーナー」
「うん?」
「私、最初の一着を取ってきてもいい?」
その瞳を見た瞬間、俺も笑った。
そこにいたのは、北海道の野原を無邪気に走っていた幼い少女だけではない。
日本一という夢を自分で選び、そのために何年も努力を続けてきた、一人の競走ウマ娘だった。
「もちろん」
俺は差し出された申込書を受け取った。
「今まで頑張ってきたことを、思いきり出しておいで。ただし無理はしないこと。何か違和感があったら、すぐに俺を見るんだよ」
「うん!」
スペは一度大きく頷き、これから走るコースの方角へ目を向けた。
「大丈夫。トレーナーが見ていてくれるなら、私、どこまでも走れるから!」
日本一への第一歩。
そして、スペシャルウィークにとって初めてとなる、本物の競走。
十年以上かけて作り上げてきた土台が、初めてレースという舞台で試されようとしていた。