模擬レースは、担当契約を結んだ翌日の午後に行われることになった。
場所は中央トレセン学園の芝コース。距離は千八百メートルで、出走するのはスペを含めた六人の新人ウマ娘だ。
GⅠ以外では勝負服を着用しないため、全員が白い体操着に短パンを合わせ、胸元には番号の書かれたゼッケンを着けている。スペの番号は四番だった。
まだメイクデビューすら迎えていない新人の模擬レース。それでも、スタート地点の近くでコースを見つめるスペの横顔は、北海道の野原を無邪気に走り回っていた頃とは明らかに違っていた。
「トレーナー……」
「どうしたの、スペ?」
「ちょっとだけ、緊張してきた」
レース前の待機場所で椅子に座ったスペは、両膝の上で拳を握りながら何度も耳を動かしていた。昨日までは初めてのレースを楽しみにしていたものの、実際にゼッケンを着け、すぐ近くから他の出走者の声や芝コースの音を聞けば、これから勝負をするという実感も湧いてくるのだろう。
「初めてなんだから、緊張するのは普通だよ。それだけ今日のレースを大切に思ってるってことだからね」
俺はスペの前へしゃがみ、靴紐や足首の状態を確認する。昨日の能力測定で生じた僅かな疲労も睡眠と食事で完全に抜けており、筋肉の張りや関節の違和感もない。
【スペシャルウィーク】
体調:絶好調
疲労:なし
故障:なし
【レース前コンディション:良好】
「でも、スタートで転んだらどうしよう」
「その時はすぐに俺が迎えに行くよ」
「負けたら?」
「一緒に負けた理由を考えて、次は勝てるように練習する」
「……怒らない?」
「怒るわけないだろ」
俺が当然のように答えると、スペの耳から少しだけ力が抜けた。
「今までスペが頑張ってきたことは、今日勝っても負けてもなくならないよ。今日は初めて集団で走って、初めて他のウマ娘と競争する日なんだから、まずは最後まで無事に走って帰ってきてくれれば十分だ」
「でも、出るからには勝ちたい」
不安そうだったスペの瞳に、少しずついつもの強さが戻ってくる。
「私、お兄ちゃんと日本一になるんだもん。だったら最初のレースから、一着を目指したいよ」
「そっか」
俺は小さく笑い、スペの頭を撫でた。
「じゃあ一着を目指そう。ただし、勝つために身体を壊すのは駄目だよ」
「もう、心配しすぎだよ」
「スペのことだから心配するんだよ」
「えへへ……」
スペの尻尾が嬉しそうに揺れた。さっきまで残っていた緊張も、かなり和らいだようだ。
「今日の作戦は覚えてる?」
「最初から無理に前へ行かないで、三人か四人くらい前に置いて走る」
「そう。今日は後ろから他の子の動きを見る。前が塞がった時にどう感じるのか、横から足音が聞こえるとどうなるのか、前の子が急に動いた時に自分がどう反応するのか。まずは全部経験しておいで」
「差しの練習だね」
「差しを覚えるための最初の一歩、くらいかな」
これまでスペに教えてきたのは、あくまで競走をするための身体作りだった。
体力、筋力、柔軟性、バランス感覚。中距離でも長距離でも走り切れる基礎を作り、先行でも差しでも対応できる身体へ育ててきた。
しかし、集団の中でどこを走ればいいのか、前が塞がった時にどう進路を作るのか、どこまで我慢して、いつ仕掛けるのか。そうしたレースの技術は、今日から覚えていくものだ。
「前が塞がっても慌てないこと。無理に狭いところへ入ろうとせず、最後のコーナーまで周りをよく見る。直線へ向く時に空いている場所が見つかったら、そこへ出よう」
「それまでは我慢?」
「うん。スペなら最後まで脚は残るから、今日は焦らなくていい。それと、周りの足音や前から飛んでくる芝にも慣れておいで」
「ちゃんとできるかな……」
「最初から全部できる必要はないよ」
俺はスペの両手を包むように握った。
「俺がずっと見てる。だからスペは、今できることを全部出しておいで」
「うん」
「それと、初めてのレースなんだから楽しんで」
「分かった!」
スペは立ち上がると、一度だけ周囲を確認してから俺へ抱きついてきた。
「トレーナーが見ててくれるなら、私、頑張れる!」
「ああ。行っておいで」
「絶対に一着を取ってくるからね!」
◇
『出走するウマ娘は、ゲートへお入りください』
場内放送が流れ、六人の新人ウマ娘が順番にゲートへ向かった。
スペは四番ゲート。その内側の三番には、昨日こちらへ勝負を申し込んできたトレーナーの担当ウマ娘、ノーザンライトが入る。
ノーザンライトは先行を得意とし、入学前から参加していた模擬レースでは五戦四勝。基礎能力そのものではスペが上回っているが、他のウマ娘と競り合いながら走った経験には大きな差があった。
観客席には担当教官だけでなく、新人トレーナーや学園関係者も集まっている。昨日の能力測定でオールBを記録した新人が、実際のレース形式でどこまで走れるのかを確かめたいのだろう。
「能力が高くても、レースでは勝手が違うぞ」
ノーザンライトの担当トレーナーが、俺の隣で腕を組みながら言った。
「はい。スペにとっては全部が初めてですから」
「ずいぶん落ち着いているな」
「俺が慌てたら、スペまで不安になりますからね」
ゲートの中にいるスペと目が合う。
俺が笑って小さく頷くと、スペも一度深く息を吸い、少しだけ表情を柔らかくして頷き返した。
身体に問題はない。
北海道で何年も積み重ねてきた基礎が消えることもない。
あとはスペ自身が、レースというものを身体で知るだけだ。
六つのゲートが閉じ、コースに一瞬の静寂が訪れる。
そして、スタート。
『各ウマ娘、一斉にスタートしました!』
「わっ!?」
最も速く飛び出したのはノーザンライトだった。
ゲートが開くタイミングへ正確に反応し、滑らかに加速して二番手を確保する。
一方のスペは、金属音と周囲が同時に飛び出す気配に驚き、一歩目で僅かに身体を起こしてしまった。致命的な出遅れではないものの、六人中五番手からのスタートになる。
「まずはゲートからだね」
俺はスペの走りを細かく観察する。
一歩目で上体が起きたせいで加速に僅かな遅れが生じ、さらに左右のウマ娘を気にしたことで、身体の力を前方へ十分に伝え切れていない。普段一人で走っている時ならまず出ない乱れだった。
それでも数十メートルほど走るとフォームは安定し、スペは五番手の内側へ収まった。
前方では一人が逃げ、そのすぐ後ろをノーザンライトが追走。さらに二人が続き、スペはその後ろから集団を見る形になる。
ただし、レース前に説明したのと実際に走るのとではまったく違う。
前を走るウマ娘が蹴り上げた芝が飛んでくる。
すぐ横からは、自分以外の足音と呼吸音が響く。
少し進路を変えようとすれば、その先にも別のウマ娘がいる。
スペは何度か外へ動こうとしたものの、そのたびに横のウマ娘が視界へ入り、すぐ元の位置へ戻っていた。
「スペ、今はそのままでいい」
もちろん声が届く距離ではない。それでも、思わず口から言葉が漏れた。
集団の中で不安になるたび進路を変えていれば、必要以上に距離を走り、体力まで消耗する。しかしスペは何度か迷ったあと、レース前に話したことを思い出したのか、無理に動くのをやめた。
前に四人を置いた五番手。
その位置で呼吸を整え、周囲の動きを見ることへ集中し始める。
「へえ……」
隣のトレーナーが少し感心したような声を出した。
「初めてにしては、我慢するじゃないか」
「頑張ってますからね」
最初の失敗を引きずらず、自分で修正できた。
それだけでも、今日走った価値は十分にある。
◇
千メートルを通過した時点でも、先頭の流れは大きく変わらなかった。
逃げる一人をノーザンライトが二番手から追い、さらに二人が続く。スペは依然として五番手だが、基礎体力には十分な余裕があり、呼吸もほとんど乱れていない。
問題は位置だった。
前には三人のウマ娘がほぼ横並びになっており、内側には柵。さらに最後尾を走っていた一人がスペの外まで上がってきたことで、完全に進路を塞がれてしまった。
「あれでは出られないな」
ノーザンライトのトレーナーが言う。
「力が残っていても、進路がなければ使えない。新人にはよくある負け方だ」
「そうですね」
「認めるのか?」
「今のスペには、狭いところを抜ける技術も、数秒後にどこが空くのか予測する経験もありませんから」
それは事実だ。
能力が高いからといって、何も知らないままレースで勝てるわけではない。スペがこれから覚えなければならないことは山ほどあり、今日一度走っただけで完成するはずもない。
むしろ俺が今回経験してほしかったのは、まさにこういう状況だった。
走る力はある。
体力も残っている。
それでも前へ行けない。
その悔しさを実際に知れば、次から学ぶ位置取りや進路選択にも意味が生まれる。
第三コーナーを回る頃、スペの視線が何度も前と横を行き来するようになった。焦りは見えるが、力任せに割り込もうとはせず、前のウマ娘が動くのを待っている。
最終コーナーへ入る。
先頭争いが激しくなり、外を走っていた一人が早めに加速した。
その動きで集団の形が崩れ、スペの外側に僅かな空間が生まれる。
スペの耳がぴくりと動いた。
「そこだよ、スペ」
スペは一度僅かに速度を緩め、前のウマ娘との間隔を作ってから外へ進路を切り替えた。
決して上手い動きではない。
外へ出るまでに何歩も余計に使い、その間にも先頭との差は広がった。それでも、最終コーナーを抜けて直線へ入った時、初めてスペの前から障害物が消えた。
先頭までは、およそ八バ身。
ノーザンライトは二番手から満を持して抜け出し、残り三百メートルで先頭へ立っていた。
「ここからじゃ届かないだろ!」
「さすがに差が大きすぎる!」
観客席からそんな声が上がる。
普通なら、そう考えるのも当然だ。
八バ身。
残り三百メートル。
しかも相手は入学前から模擬レースで勝ち続けてきた経験者。
けれど俺には、スペの状態が見えている。
【スペシャルウィーク】
残り体力:十分
筋肉疲労:小
呼吸:安定
【終盤出力余力:大】
スペはまだ、本当の意味で全力を使っていない。
長い坂道を何度も走った。
雪の中で重心を崩さず走り続けた。
北海道の広い大地で、何年もかけて最後まで力を残せる身体を作ってきた。
レース技術は未熟でも、最後まで走り切るための土台だけなら、誰にも負けないくらい積み上げてきたつもりだ。
「大丈夫。スペならまだ走れる」
直線へ出たスペが顔を上げる。
前には四人。
その先に、先頭を走るノーザンライト。
さらに向こうにはゴール板。
進路を塞ぐものがなくなった瞬間、スペの走りから迷いが消えた。
「行く!」
そこからだった。
今まで残していた力を一歩ずつ解放するように、スペの速度が上がり始める。
五番手から四番手へ。
まず一人を抜く。
続いて三番手。
残り二百メートルに入る頃には二番手まで上がり、直線へ入った時には大きく開いていたノーザンライトとの差が目に見えて縮まり始めた。
「なっ……なんだ、あの伸びは!?」
隣にいたトレーナーが驚きの声を上げる。
スペは特別なスキルを使っているわけではない。
今まで長い時間をかけて作ってきた身体を、初めて本気でゴールへ向けて使っているだけだ。
「来ないで……!」
先頭のノーザンライトも後方から迫る気配に気づき、必死に速度を上げる。
それでも差は縮まる。
三バ身。
二バ身。
一バ身。
残り百メートルで、スペがついにノーザンライトの横へ並んだ。
「はあああああっ!」
「まだっ!」
二人が競り合った時間は長くなかった。
ノーザンライトも必死に脚を伸ばしたが、最後まで残していた力と基礎能力の差が、そのまま直線で表れた。
スペが半歩前へ出る。
そこから一バ身。
さらに二バ身。
最後まで速度を落とすことなく、スペシャルウィークが最初にゴール板を駆け抜けた。
『一着、四番スペシャルウィーク!』
『初めての模擬レースを二バ身差で制しました!』
ゴールしたスペはすぐに振り返り、遠く離れた俺の姿を探した。
目が合った瞬間。
満面の笑顔になった。
◇
「トレーナー!」
模擬レースが終わると、スペはまだ呼吸も完全には整っていないまま俺のところへ走ってきた。
「スペ、そんなに急がなくても大丈夫だよ」
そう言った直後には勢いよく飛び込んでくる。
俺は一歩だけ後ろへ下がりながら、スペの身体をしっかり受け止めた。
「勝ったよ!」
「ああ。おめでとう、スペ」
「私、一着だった!」
「うん。最後までよく頑張ったね」
嬉しそうに抱きつくスペの背中をゆっくり撫でながら、同時に状態を確認する。呼吸は速いが異常な乱れではなく、脚にも故障はない。
【スペシャルウィーク】
模擬レース:一着
着差:二バ身
体調:好調
疲労:小
故障:なし
【初レース経験:獲得】
何より、初めてのレースを最後まで無事に走り切れたことに安心した。
「トレーナーが言ってたとおり、途中まで我慢したんだよ」
「見てたよ。前を塞がれても無理に入ろうとしなかったね」
「本当は何回か外に出たくなったんだけど、動いたら疲れるって言ってたの思い出したの」
「最初のレースでそこまでできたなら十分だよ」
「じゃあ、私、日本一に近づいた?」
「今日はすごく大切な一歩を踏み出したと思う」
「一歩だけ?」
「日本一までは長いからね」
「むぅ……」
頬を膨らませるスペに思わず笑ってしまう。
「でも今日のスペは、本当に格好よかったよ。特に最後の直線は、見ていた俺も驚いた」
「本当?」
「本当」
「えへへ……」
不満そうだった表情が、一瞬で嬉しそうな笑顔へ戻る。
「ただ、今日走ったからこそ、これから練習することもたくさん見つかった」
「やっぱり?」
「まずゲート。今日は音に驚いて一歩目が遅れた。それから集団の中での位置取りと、進路を変える時の動き方。最後のコーナーでも外へ出るまでに何歩か余計に使ってたね」
「そんなにいっぱいあるの?」
「まだあるよ」
「まだ!?」
「仕掛けるタイミングもね。今日は進路が空いたから最後に全部使えたけど、本番ではもっと早く動く必要があるかもしれないし、逆に待ったほうがいい場合もある」
スペは少し難しそうな顔になった。
けれど、不安そうではない。
「でも、一度に全部覚えなくていいんでしょう?」
「ああ。一つずつでいい」
俺が手を差し出すと、スペは迷わず握り返してくる。
「これから一緒に覚えていこう」
「うん! トレーナーと一緒なら、何でもできそう!」
◇
レース後は、学園の施術室を借りることにした。
ベッドへ横になったスペの足首から太腿まで状態を確認しながら、練習とレースで張った筋肉を丁寧にほぐしていく。
「んん……やっぱりトレーナーのマッサージ、気持ちいい……」
「今日はいつもより肩にも力が入ってたね」
「横から足音がいっぱい聞こえたんだよ。それに前の子が芝を飛ばしてくるし、思ってたよりずっと近くにみんながいて……」
「少し怖かった?」
「少しだけ」
スペは素直に認めた。
「でも、トレーナーが見てくれてるって思ったら、最後まで走れたよ」
「そっか」
「ちゃんとずっと見てた?」
「もちろん。一度も目を離してないよ」
「本当?」
「スペの初めてのレースだからね」
そう答えると、スペは満足そうに目を細めた。
俺はその間も施術を続ける。
体内のどこへ疲労が残っているのか、どの方向へ筋肉をほぐせば回復が早まるのか。それらは状態を見る力と同じように、俺には不思議なほど自然に理解できる。
だからといって無理に回復させるつもりはない。
必要なのは、身体が本来持っている回復を助け、余計な疲労や歪みを残さないことだ。
十数分ほどかけて脚と腰、肩周りまで丁寧にほぐし終える。
【スペシャルウィーク】
筋肉疲労:小 → 極小
関節負担:なし
脚部異常:なし
【通常休養で完全回復可能】
「はい、終わり」
スペがベッドから起き上がり、何度か足を動かす。
「軽い!」
「今日はよく頑張ったからね」
「なんか、もう一回走れそう!」
「走らないよ」
「分かってるよ」
「本当に?」
「……少しだけなら?」
「今日はもうレースしたでしょう」
「はーい」
名残惜しそうではあるものの、スペは素直に頷いた。
ただし、そのまま完全に終わりにはしなかった。
◇
「今度は何するの?」
施術後。
俺たちは室内練習場へ移動していた。
「今日のレースでスペが感じたことを、身体が忘れないうちに少しだけ確認する」
「また走るの?」
「全力では走らないよ。ほんの短い距離だけ」
俺は床に引かれた線の前へスペを立たせた。
「最後の直線で、スペは一気に速度を上げたよね」
「うん。前の子に追いつきたいって思ったら、自然に速くなったの」
「あの感覚を、自分で使えるようにしてみよう」
「できるの?」
「今日のレースで一度経験したから、たぶんできる」
レース前のスペには、この感覚そのものがなかった。
けれど先ほどの直線で、残していた力を終盤にまとめて使い、一気に速度を上げる経験をした。
実際に一度身体で知った動きなら、それを技術として整理することができる。
「肩の力は抜く。地面を強く蹴ろうとしすぎなくていいよ。足だけじゃなくて、身体全体を前へ運ぶイメージ」
「身体全体を前に……」
「さっきノーザンライトを追いかけた時を思い出して。前の子に追いつきたいって思った時、どんな感じだった?」
「えっと……前しか見えなくなって、脚が勝手にどんどん速くなった感じ」
「その感覚を、今度は自分から作る」
スペは一度目を閉じ、先ほどのレースを思い出すように集中した。
しばらくして目を開く。
「やってみる」
「焦らなくていいからね」
「うん!」
スペがゆっくり走り出した。
最初は軽く身体を動かす程度に抑え、残り二十メートルへ入ったところで呼吸と姿勢を変える。
踏み込むたびに身体全体を前へ送り、無駄な力を使わず速度だけを引き上げていく。レース中ほどの出力ではないが、先ほどの直線で見せた動きと同じ感覚が、確かに再現されていた。
停止線を越えてゆっくり速度を落としたスペが、驚いたように振り返る。
「今の、さっきと同じだった!」
俺の視界にも、新しい表示が浮かんでいた。
【スキルを習得しました】
【末脚】
【レース終盤で速度を上げる基本技術】
スペシャルウィークが初めて自分の力で身につけた、レースのためのスキルだった。
「成功だよ、スペ」
「私、もうスキル覚えられたの?」
「ああ。今日のレースで一度経験したから、その感覚をちゃんと形にできたんだ」
「すごい……!」
スペは自分の脚を見つめたあと、嬉しそうに俺のところへ戻ってきた。
「ねえ、トレーナー」
「どうしたの?」
「これからも、こうやって教えてくれる?」
「もちろん」
「私が日本一になるのに必要なこと、全部?」
「全部を俺が教えるっていうより、スペと一緒に見つけていこう。スペがどんな走り方をしたいのか、どんなスキルが合うのかも、これからレースを経験しながら決めればいい」
「じゃあ、ずっと一緒に考えてくれる?」
「ああ。日本一になるまで、ずっとね」
「やった!」
スペが嬉しそうに俺の腕へ抱きつく。
その時。
「日高トレーナー、少しいいか?」
室内練習場の入口から声をかけられた。
振り返ると、先ほどの模擬レースを見ていた担当教官が立っている。手には一枚の書類を持っていた。
「スペシャルウィークの走りについて、学園側でも話し合った」
「何でしょう?」
「能力測定だけでなく、今日の模擬レースでも一定以上の走りを確認できた。本人と担当トレーナーに異存がなければ、来月のメイクデビューへ登録することを認める」
「来月!?」
俺の腕へ抱きついていたスペが、教官の持つ書類を覗き込む。
「私、もう公式戦を走れるの?」
「条件は満たしている。もちろん、出走するかどうかを決めるのは君たちだ」
俺はすぐには書類を受け取らず、スペを見る。
「スペはどうしたい?」
今日初めて模擬レースを走ったばかりだ。
怖さも知った。
難しさも知った。
だからこそ、次に進むかどうかはスペ自身に決めてもらいたかった。
スペは少しだけ考えるように書類を見つめた。
それから俺を見る。
「出たい」
答えに迷いはなかった。
「今日走って、難しいことがいっぱいあるって分かった。でも、もっと走ってみたい。もっと上手くなって、一着をいっぱい取りたい」
「うん」
「それに」
スペは俺の腕を握る力を少し強くした。
「トレーナーと一緒に、最初の公式戦を走りたい!」
「分かった」
俺は教官から書類を受け取った。
「それじゃあ、明日からメイクデビューへ向けて準備を始めよう」
「うん!」
初めての模擬レース。
初めて他のウマ娘と競い、初めての一着を手にした。
ゲートで出遅れ、集団の中で進路を失い、それでも最後まで残した力を使って二バ身差で勝利した。その経験は、スペに勝つ喜びだけでなく、これから身につけなければならない課題も教えてくれた。
そして、その日のうちに初めてのスキル《末脚》まで習得した。
北海道で何年も作り続けてきた土台の上に、競走ウマ娘スペシャルウィークとしての最初の技術が加わったのだ。
次は、メイクデビュー。
日本一へ向けた本当の公式戦が始まる。
この時の俺たちはまだ知らなかった。
そのメイクデビューに、スペと同じように将来を期待される一人の新人ウマ娘が、すでに出走を決めていることを。