模擬レースで初めての一着を取り、《末脚》という最初のスキルを身につけた翌朝。
俺が中央トレセン学園の正門へ到着すると、待ち合わせ場所にはすでに大きな鞄を抱えたスペが立っていた。今日から本格的な授業が始まるだけでなく、学生寮での生活も始まるため、北海道から持ってきた荷物の一部も一緒に運んできたらしい。
「おはよう、スペ。ずいぶん早いね」
「おはよう、トレーナー!」
俺を見つけたスペは元気よく手を振ったものの、すぐに少しだけ頬を膨らませた。
「今日は待ち合わせより二十分も早く来たのに、トレーナーのほうが先にいると思ってた」
「俺も十分前には来たんだけどな」
「むぅ……一番に会いたかったのに」
そう小さく呟きながら俺の腕へ抱きついてくる。周囲には登校中のウマ娘や職員もいるのだが、幼い頃から俺との距離が近いスペには、今さらその程度のことを気にする感覚はあまりないらしい。
「今日から寮生活だけど、ちゃんと眠れそう?」
「たぶん大丈夫。でも……夜になったら、お兄ちゃんに会えなくなるんだよね」
公式な場では「トレーナー」と呼ぶ約束をしているものの、寂しさのほうが勝ったのか、自然に昔からの呼び方へ戻っている。ほんの少し伏せられた耳を見れば、寮生活への不安がまったくないわけではないことも分かった。
「朝も放課後も会えるよ。担当トレーナーなんだから、むしろ今までより毎日のように顔を合わせることになると思う」
「毎日?」
「もちろん」
「担当じゃなくても会ってくれる?」
「当たり前だよ」
そう答えた途端、伏せられていた耳が元気よく持ち上がる。
「じゃあ、毎朝会おうね!」
「朝のトレーニング前なら大丈夫だよ」
「約束!」
スペが差し出した小指へ自分の小指を絡める。幼い頃から何度も繰り返してきた仕草だが、本人にとって約束を交わす時は今でもこれが一番安心するらしい。
「約束だ」
「やった!」
満足そうに笑ったスペは、そのまま俺の腕を抱いたまま校舎へ向かおうとする。
「スペ」
「なに?」
「そろそろ腕を離してくれると助かるかな」
「どうして?」
「荷物もあるし、ちょっと歩きにくいんだ」
「じゃあ階段まで!」
「そこまで行ったら離すんだよ?」
「うん!」
たぶん階段へ着いたら、今度は「教室の近くまで」と言い出すのだろう。
昔からスペには少し甘い自覚がある。それでも、こうして嬉しそうにしている姿を見ると強く断れないあたり、俺自身もほとんど変わっていなかった。
◇
スペが所属するクラスには、今年入学した新人ウマ娘の中でも特に将来を期待されている面々が集まっていた。
「スペシャルウィークです! 北海道から来ました!」
教壇の前へ立ったスペは、緊張する様子もなく元気よく頭を下げる。
「日本一のウマ娘になるために中央トレセン学園へ来ました! まだ分からないこともいっぱいありますけど、よろしくお願いします!」
教室から自然に拍手が起こった。
昨日の能力測定や模擬レースについて、すでに噂を聞いている生徒もいるのだろう。興味深そうにスペを見る視線も多かったが、本人はあまり気にせず、指定された席へ向かった。
その途中、窓際で頬杖をついていた一人のウマ娘が、眠そうな顔のまま片手を上げる。
「よろしくねー。私はセイウンスカイ。スカイでもセイちゃんでも、呼びやすいほうでいいよ」
「じゃあ、セイちゃん! よろしくね!」
「おお、即決。元気だねぇ」
セイウンスカイは気の抜けた笑みを浮かべると、そのまま机へ突っ伏した。
「まだ授業まで時間あるし、ちょっと寝ようかな」
「学校に来てすぐ寝るの?」
「無駄に体力を使わないのも、立派な作戦だよ」
「そうなのかな……」
「真に受けないほうがよろしくてよ」
反対側から、よく通る気品のある声が飛んできた。
美しい縦巻きの髪を持つウマ娘が、背筋を伸ばして堂々と立っている。
「私はキングヘイロー。一流のウマ娘として、一流のレースをお見せするために中央へ来ましたの」
「一流……格好いいね!」
「当然ですわ。あなたも日本一を目指すと公言するのであれば、それに相応しい振る舞いを覚えることね」
「振る舞い?」
「まずは教室で必要以上に大きな声を出さないことですわ」
「あっ、ご、ごめんなさい!」
慌てて声量を落としたスペを見て、キングは満足そうに頷いた。
「それでよろしいですわ」
「それほど固くならなくても大丈夫ですよ」
今度は柔らかな声が聞こえた。
穏やかな笑みを浮かべたウマ娘が、スペへ軽く頭を下げる。
「私はグラスワンダーです。私もまだ入学したばかりですが、分からないことがあれば一緒に考えましょう」
「ありがとう、グラスちゃん!」
「はい。よろしくお願いしますね」
穏やかなやり取りが始まった直後、その空気を勢いよく吹き飛ばす声が背後から響いた。
「スペシャルウィーク! あなたの噂は聞いているデース!」
「わっ!?」
驚いて振り返ったスペの前で、覆面を着けたウマ娘が大きく両腕を広げる。
「エルコンドルパサー! 目指すは世界最強のウマ娘デース!」
「世界最強……!」
「そうデース! 日本一を目指すスペちゃんと、世界最強を目指すエル! いつかどちらが強いか、レースで決着をつけるデース!」
「うん! 私も負けないよ!」
「いい返事デース!」
二人が出会って数十秒とは思えない勢いで盛り上がる横で、キングが呆れたように額へ手を当てた。
「朝から騒がしいですわね……」
「キングちゃんも参加する?」
「誰がキングちゃんですの!?」
「じゃあキングさん?」
「そういう問題ではありませんわ!」
スペとキングのやり取りを見て、グラスが楽しそうに微笑む。セイウンスカイは机へ突っ伏したままだったが、尻尾だけは面白そうに左右へ動いていた。
どうやら心配する必要はなさそうだ。
昨日まで北海道から出てきたばかりだったスペが、新しい環境の中ですぐに話せる相手を見つけている。その様子を廊下から確認した俺は安心し、自分の仕事をするためトレーナー棟へ向かった。
◇
昼休み。
俺はトレーナー室で、来月予定されているスペのメイクデビューについて資料を確認していた。
模擬レースでは基礎能力の高さで最後に逆転できたものの、ゲート、集団走行、進路選択など課題もはっきりした。デビューまでの期間で何を優先して身につけるのかを考えていたところ、中庭のほうから聞き覚えのある声が響いてくる。
「美味しい!」
窓から外を見ると、スペが大盛りのご飯と山のように積まれたおかずを前に目を輝かせていた。
その向かい側では、キングが信じられないものを見るような顔をしている。
「ちょっとお待ちなさい。これ、本当にあなた一人分ですの?」
「うん。でも今日は少し控えめだよ」
「これで控えめ!?」
「スペちゃんはよく食べるのですね」
グラスは驚きながらも穏やかに笑い、自分の食事をゆっくり口へ運んでいる。
その横では、エルがスペへ対抗するように大盛りの丼を掲げた。
「食事でも勝負デース!」
「負けないよ!」
「食べる速度を競うのはおすすめしないかな」
俺が声をかけると、スペはすぐに顔を上げた。
「トレーナー!」
そのまま立ち上がろうとするので、慌てて手で制する。
「食事中なんだから、そのままでいいよ」
「一緒に食べる?」
「俺はもう食べたから大丈夫」
「じゃあ、これあげる!」
スペは自分の皿から人参を一本取ると、当然のようにこちらへ差し出した。
「スペの分が減るよ?」
「トレーナーと一緒に食べたほうが美味しいから」
「それじゃあ一本だけもらおうかな」
「うん!」
人参を受け取ると、スペはそれだけで満足したように笑った。
その様子を見ていたキングが、俺とスペを交互に見比べる。
「ずいぶん仲がよろしいのね」
「俺たちは幼馴染なんだ。家も近かったから、小さい頃から一緒に過ごしてきた」
「トレーナーは、私が小さい頃からずっと練習も見てくれてるんだよ!」
「では、昨日のオールBという能力も、その積み重ねの結果ですのね」
「うん! それに、トレーナーが私を日本一にしてくれるの!」
スペはまるで疑う余地などないという顔で言い切った。
そこまで信頼されているのは嬉しいが、日本一になるのはあくまでスペ自身だ。俺一人の力で何とかできるものではない。
「俺だけの力じゃないよ。今の能力だって、スペが毎日頑張ったから身についたものだ」
「でも、トレーナーがいなかったら私、どうやって練習したらいいか分からなかったもん」
「それなら、これからも一緒に頑張ろう」
「うん!」
そんな俺たちを見ていたセイウンスカイが、面白そうに口元を緩める。
「いやぁ、青春だねぇ」
「青春?」
「スペちゃんには、まだちょっと難しいかな」
「私、もう子どもじゃないよ!」
「そうやってすぐ反応するところが、また子どもっぽいんだよねぇ」
「むぅ……」
スペが頬を膨らませると、スカイだけでなくグラスやエルまで笑い出した。キングも最初こそ呆れた顔をしていたが、最後には小さく口元を緩めている。
これから日本一を目指す以上、今日同じテーブルを囲んでいる彼女たちと、いつか本気で一着を争う日が来るだろう。
それでも、レースで競う相手だから友達になれないわけではない。
互いの強さを認め、勝ちたいと思いながら、それ以外の時間では笑い合える。そんな関係を築けるなら、スペにとってこれ以上ない仲間になるはずだ。
「じゃあ、俺は戻るよ。午後の授業も頑張って」
「トレーナー、放課後は?」
「寮まで荷物を運ぶ約束でしょう?」
「覚えててくれた!」
「忘れるわけないよ」
「じゃあ、またあとで!」
大きく手を振るスペへ手を振り返し、俺はトレーナー室へ戻った。
◇
放課後。
約束どおりスペと合流し、学生寮へ向かった。
「本当に一人で持てるよ?」
「階段もあるから、少しくらい手伝わせて」
「じゃあ、この一番重い鞄をお願い!」
「最初から俺に持たせるつもりだったね?」
「えへへ……ばれた?」
「分かりやすすぎるよ」
俺が大きな鞄を受け取ると、スペは見るからに軽そうな荷物だけを持って満足そうに歩き出した。
寮の管理人へ挨拶を済ませ、案内された二階の部屋へ向かう。
扉の前には二人分の名前が掲げられていた。
スペシャルウィーク。
そして。
サイレンススズカ。
「スズカさんって、もしかして……あのサイレンススズカさん?」
「知ってるの?」
「もちろんだよ! 先頭を走って、そのまま誰にも追いつかせない、すごいウマ娘なんだよ!」
スペは少し緊張した様子で扉を見つめた。
クラスメイトとはすぐに仲良くなっていたが、今回は先輩であり、今日から生活を共にするルームメイトだ。さすがのスペにも多少の緊張はあるらしい。
扉をノックすると、中から静かな声が返ってきた。
「どうぞ」
「失礼します!」
スペが少し勢いよく扉を開ける。
部屋の窓際には、栗色の長い髪を持つ一人のウマ娘が立っていた。こちらへ振り返る動作は静かで、どこか穏やかな雰囲気を纏っている。
「初めまして。サイレンススズカです」
「は、初めまして! スペシャルウィークです!」
スペが勢いよく頭を下げた。
「今日から同じ部屋になります! よろしくお願いします!」
「そんなに緊張しなくても大丈夫よ。スズカって呼んで」
「はい、スズカさん!」
「……ええ」
緊張しなくてもいいと言われた直後から敬語のままだが、スズカも気にした様子はなく、小さく微笑んだ。
その視線が、俺の持っている大きな鞄へ移る。
「そちらの方は?」
「初めまして。スペの担当トレーナーをしている日高悠真です。今日は荷物を運ぶ手伝いに来ました」
「トレーナーで、幼馴染でもあるの!」
スペが嬉しそうに補足する。
「私が小さい頃から、ずっと一緒にいてくれてるんだよ」
「そうなのね」
スズカはスペを一度見てから、改めて俺へ視線を戻した。
「スペちゃんがあなたをとても信頼しているのは、よく分かりました」
「スペちゃん……」
名前の呼ばれ方が嬉しかったのか、スペの耳がぴくりと動く。
「じゃあ私も、スズカさんって呼ぶね!」
「ええ。よろしくね、スペちゃん」
「はい!」
サイレンススズカというウマ娘は、テレビや記事で見る印象どおり物静かだった。ただし冷たいというわけではなく、必要な時には自然に相手へ手を差し伸べられる穏やかさを持っているように見える。
これならスペとも上手くやっていけそうだ。
「スズカさん、スペをよろしくお願いします」
「トレーナー、それだと私が子どもみたいだよ」
「初めての寮生活なんだから、心配くらいするよ」
「大丈夫です。困ったことがあれば、私にもできる範囲で手伝います」
「ありがとうございます」
「私だってスズカさんの力になるよ!」
スペも負けじと胸を張った。
「掃除も洗濯もできます! 料理も……たぶんできます!」
「たぶん?」
スズカが僅かに首を傾げる。
「北海道ではお母ちゃんに少し教えてもらったから!」
「火を使う時は、慣れるまでスズカさんと一緒にね」
「トレーナーまで私を信用してない!」
「料理の腕についてはまだ評価材料が少ないからね」
「今度絶対作ってあげるから!」
「楽しみにしてるよ」
そんな会話をしながら三人で荷物を片づけていく。
スペのベッド脇の棚には、北海道から持ってきた写真が何枚か飾られた。育てのお母ちゃんと一緒に撮った写真、幼い頃に俺と並んで笑っている写真、それから自分の字で大きく「日本一」と書いた紙も、大切そうに見える場所へ置かれる。
「これで全部かな」
最後の鞄を片づけ終えた頃には、窓の外が夕焼けに染まり始めていた。
俺が時計を確認すると、スペもそれに気づいたらしい。
「もう帰るの?」
「寮の時間もあるからね。俺がいつまでも女子寮にいるわけにもいかないし」
「明日の朝も来てくれる?」
「もちろん。朝のトレーニングは六時半から始めよう」
「六時には?」
「準備があるから、そのくらいには近くにいると思うよ」
「じゃあ六時に会いに行く!」
「朝ご飯をちゃんと食べてからね」
「はーい」
スペは部屋の入口までついてくる。
「今日は授業もあったし、引っ越しもあったから早めに休んで。何か困ったことがあったら連絡していいからね」
「夜中でも?」
「本当に困ってるならいつでもいいよ」
そこまで言ったところで、スペが少し迷うような顔をした。
そして俺の服の裾をつまむ。
「お兄ちゃん」
「どうしたの?」
「寂しくなったら、電話してもいい?」
「もちろん」
「何か用事がなくても?」
「いいよ。スペの声が聞けたら俺も嬉しいから」
そう答えると、スペの頬が分かりやすく赤くなった。
「それなら……毎日かけるかもしれないよ?」
「毎日でも大丈夫だよ」
「本当に?」
「ああ」
ようやく安心したらしい。
スペは服の裾から手を離し、満面の笑みで手を振った。
「また明日ね、お兄ちゃん!」
「また明日、スペ」
最後にスズカへ軽く頭を下げる。
「スズカさん、それじゃあ失礼します」
「はい。また明日」
俺が廊下へ出ると、スペは扉が閉まる直前まで手を振っていた。
そのまま歩き出そうとしたところで、部屋の中からスズカの静かな声が聞こえてくる。
「本当に仲がいいのね、スペちゃん」
「うん! お兄ちゃんは、私の一番大切な人だから!」
思わず足が止まった。
振り返るより先に扉が閉じてしまい、その向こうから二人の話し声だけが微かに聞こえてくる。
「……まったく」
誰もいない廊下で、少し熱くなった頬を指先で押さえる。
昔からスペには素直な言葉を何度も向けられてきた。それでも「一番大切」と真正面から言われて、何も感じないほど俺も鈍くはなかった。
◇
その日の夜。
トレーナー寮へ戻った俺は、机いっぱいに広げた資料を眺めながら、スペのメイクデビューへ向けた準備を進めていた。
予定されているのは芝千八百メートル。
中距離適性A。
長年積み上げてきた体力を考えれば、距離そのものに大きな不安はない。
問題になるのは、やはり実戦経験だ。
模擬レースではゲートで反応が遅れ、集団内では進路を失った。最終的には身体能力の高さで二バ身差まで持っていけたが、公式戦では同じように上手くいく保証はない。
出走予定者は十一人。
いずれも今回が初めての公式戦となる新人ウマ娘で、昼間一緒に過ごしていたキングやグラス、エル、スカイの名前はなかった。彼女たちとの本格的な対決は、もう少し先になりそうだ。
「今回一番警戒するなら、この子かな」
出走予定表の一角に、一人だけ事前評価の高い名前があった。
ブライトフェザー。
栗東側の選抜試験で好時計を記録した先行型で、模擬形式の走行経験も豊富。基礎能力そのものはスペのほうが上だが、レースに慣れているという一点だけなら、現時点では明確に相手が上だ。
模擬レースのノーザンライトと同じく、今のスペが学ぶにはちょうどいい相手になるかもしれない。
そんなことを考えていた時、机の上に置いていた携帯電話が震えた。
画面に表示された名前を見て、思わず笑う。
「もしもし、スペ?」
『お兄ちゃん、まだ起きてた?』
「起きてるよ。ちょうどデビュー戦の資料を見てたところ」
『私のレース?』
「うん。強そうな子も出るみたいだよ」
一瞬だけ、電話の向こうが静かになった。
『……勝てるかな?』
「勝てるように、明日から一緒に準備しよう」
『うん!』
元気な返事が返ってきたあと、今度は少しだけ長い間が空く。
『ねえ、お兄ちゃん』
「どうしたの?」
『電話してもいいって言ってくれたからかけたんだけど……本当はね、用事があったわけじゃないの』
「うん」
『ただ、お兄ちゃんの声が聞きたかっただけ』
「そっか」
『……迷惑じゃなかった?』
「全然。俺もスペの声が聞けて嬉しいよ」
『えへへ……』
電話越しにも分かるくらい、嬉しそうな笑い声が聞こえてきた。
それからしばらく、今日の授業やクラスメイトの話を聞く。セイちゃんが本当に授業前に寝ようとして先生に注意されたこと、キングが何だかんだで面倒見が良かったこと、グラスが丁寧に校内を案内してくれたこと、エルとは昼食で妙な勝負になりかけたこと。
そして。
『スズカさん、すごく優しいよ。さっきも寮のお風呂の場所を教えてくれたの』
「それなら安心した」
『今度、一緒に走ってみたいなぁ』
「スズカさんはすごく速いからね」
『うん! 先頭を走ってるのに、もっと先に行っちゃいそうな感じがするの!』
スペらしい感想に、思わず笑ってしまう。
その時、電話の向こうから少し離れたスズカの声が聞こえた。
『スペちゃん、そろそろ消灯時間よ』
『あっ、もうそんな時間!?』
「初日から夜更かししたら駄目だよ」
『お兄ちゃんと話してたら時間が早かったんだもん』
「続きは明日聞くから、今日はもう休もう」
『うん。おやすみ、お兄ちゃん』
「おやすみ、スペ。また明日」
『また明日!』
通話が切れ、部屋が再び静かになる。
俺は携帯電話を机へ戻すと、改めてメイクデビューの資料へ視線を落とした。
模擬レースとは違い、次は公式に戦績として残る一戦だ。
勝てばメイクデビュー一着。
負ければ、その敗北もまたスペの競走生活の一部になる。
どちらにしても、ここからが本当の始まりだ。
ただ、どうせ始めるなら。
最初から一着を狙う。
「一緒に勝とう、スペ」
誰もいない部屋でそう呟き、明日から始めるトレーニングメニューへ手を伸ばした。
北海道で作り続けてきた身体に、模擬レースで初めて身につけた《末脚》。
次はそこへ、公式戦で勝つための走りを加えていく。
スペシャルウィークのメイクデビューまで、残された時間はあとわずかだった。