「スペちゃん、朝よ」
「んん……あと五分だけ……」
「六時にトレーナーさんと会うのでしょう?」
「……トレーナー!」
その一言を聞いた瞬間、布団の中でもぞもぞしていたスペが勢いよく跳ね起きた。寝ぼけ眼のまま枕元の時計へ手を伸ばし、表示された時刻を確認する。
午前五時四十分。
「た、大変! 寝過ごしちゃった!」
「待ち合わせまで、まだ二十分あるわ」
「あっ……そっか」
今にも部屋から飛び出しそうだったスペが、ようやく状況を理解して胸を撫で下ろす。その様子をベッド脇から見ていたスズカは、少しだけ楽しそうに笑った。
「スペちゃんは、本当にトレーナーさんのことが好きなのね」
「うん! 大好きだよ!」
「迷いなく答えるのね」
「だって、お兄ちゃんは私の一番大切な人だから」
そこまで言ってから、制服へ着替えようとしていたスペの手が止まった。
数秒遅れて自分の発言を理解したらしい。
「……スズカさん」
「なに?」
「今のこと、お兄ちゃんには言わないでね?」
「どうして?」
「自分で言うのは、ちょっと恥ずかしいから……」
さっきまで元気よく立っていた耳が伏せられ、頬も分かりやすく赤くなる。スズカはそんなスペをしばらく見つめたあと、穏やかに微笑んだ。
「分かったわ。いつか、スペちゃん自身の口から伝えられるといいわね」
「う、うん。日本一になった時にちゃんと言うから!」
「日本一になった時?」
「昔からの約束があるの!」
詳しい説明まで始めれば朝食の時間がなくなると思ったのか、スペはそこで会話を切り上げ、慌てて身支度を整え始めた。
「スズカさん、先に食堂行ってくるね!」
「走らないようにね」
「はーい!」
返事だけは良かったが、廊下へ出た直後から足音が速くなっている。
スズカは閉じた扉を見つめ、もう一度だけ小さく笑った。
◇
午前六時。
俺がトレーニングコースへ向かうと、少し離れた場所からスペが大きく手を振っていた。
「トレーナー、おはよう!」
「おはよう、スペ。よく眠れた?」
「うん! スズカさんと一緒だったから、思ってたより寂しくなかったよ」
「それならよかった」
「でも、電話を切ったあとは少しだけ寂しかった」
「少しだけ?」
「……本当は、もうちょっと」
スペは少し照れながら俺の服の袖をつかんだ。まだ早朝で周囲にほとんど人がいないこともあり、昨日までより素直に甘えているらしい。
俺はそんなスペの頭を軽く撫でた。
「今日も一日、一緒に頑張ろう」
「うん!」
嬉しそうに頷いたスペと並び、朝の芝コースへ向かう。
メイクデビューまで残り三週間。
模擬レースでは勝つことができたものの、課題はかなり多かった。ゲートが開く音への反応、集団の中での位置取り、進路を選ぶ判断、そして自分から仕掛けるタイミング。
スペには入学時点ですでに高い身体能力がある。
しかし、それだけで勝ち続けられるほど競走の世界は単純ではない。むしろ今の段階なら、身体能力に頼れば勝ててしまうことが一番危険だった。
だからこそ、デビュー前に最低限の競走技術は身につけておきたい。
「今日はゲート練習から始めよう」
「またあの中に入るんだね」
「怖い?」
「少しだけ。模擬レースの時、急に大きな音がしたから」
「怖いって感じるのは普通だよ。無理に平気なふりをしなくていい。その代わり、少しずつ慣れていこう」
「うん」
練習用ゲートへ移動し、最初は前後の扉を開いた状態で中へ入ってもらう。
「どう?」
「左右に壁があるから、ちょっと狭いかも」
「じゃあ、まずその感覚に慣れよう。目を閉じて深呼吸してみて」
ゲートの外から声をかけると、スペは素直に目を閉じた。
「今はレースのことを考えなくていいよ。北海道で一緒に走ってた時を思い出して」
「北海道?」
「朝の牧草地を走って、丘の上まで競争しただろ?」
「うん。お兄ちゃん、いつも途中からすごく苦しそうだった」
「ウマ娘と真面目に競争してたからね」
「それでも毎日一緒に走ってくれたよね」
「俺も楽しかったから」
会話を続けているうちに、スペの肩から徐々に力が抜けていった。忙しなく動いていた耳も落ち着き、ゲートの狭さを意識しすぎる様子もなくなる。
「大丈夫そう?」
「うん。トレーナーの声を聞いてると、怖くなくなる」
「じゃあ次は扉を閉めてみよう」
「分かった!」
一度ゲートを閉じ、数秒待ってから開く。
一回目は音に反応して上体が起き、一歩目が遅れた。
二回目は早く出ようと意識しすぎて、肩へ余計な力が入った。
そこで一度休憩を挟み、三回目。
「開く瞬間を当てようとしなくていいよ。呼吸を整えて、自分が動ける状態だけ作って待つ」
「開いたら?」
「音を聞いたら前へ出る。それだけ」
「うん」
スペは深呼吸し、前を見た。
ゲートが開く。
今度は上体を起こすことなく、自然な一歩目から滑らかに加速した。
「今のは?」
「良かったよ。さっきよりずっと自然だった」
「もう一回!」
「焦らなくて大丈夫だよ」
「でも、上手くできた感覚を忘れたくないの」
スペのやる気は十分すぎるほどある。
ただし、同じ練習は多くやればいいものではない。集中力が落ちた状態で続ければ、せっかく身につきかけている正しい動きを崩す可能性もある。
「あと二回だけにしよう」
「五回は?」
「二回」
「じゃあ三回!」
「交渉しても二回だよ」
「むぅ……」
「終わったら一緒に朝ご飯を食べよう」
「二回で!」
「切り替えが早いなぁ」
最後の二回。
スペはどちらも落ち着いてゲートを飛び出した。
すると、俺の視界に新しい表示が浮かぶ。
【スキルを習得しました】
【集中力】
【スタート時の出遅れを抑制します】
「スペ、今の感覚を覚えておいて」
「呼吸を整えて、ゲートが開く瞬間だけに集中するんだよね」
「そう。レースでも今と同じことができれば、模擬レースみたいな出遅れは減らせるはずだよ」
「これで一着に近づいた?」
「また一歩近づいたね」
「一歩ずつでも、ちゃんと日本一に近づいてるんだね」
「ああ。急ぐ必要はないよ」
俺が持つ力を使えば、スペに習得可能な技術を次々と教えることもできる。
けれど、それでは意味がない。
ゲートで失敗したから《集中力》が必要だと理解した。
最後の直線で追い抜く経験をしたから《末脚》を自分のものにできた。
経験して、考えて、必要性を理解してから身につける。
その積み重ねが、やがてスペ自身の走りになる。
◇
三週間は、あっという間に過ぎた。
メイクデビュー当日。
競バ場の更衣室で、スペは白い体操着と短パンへ着替え、胸元に五番のゼッケンを取りつけていた。
GⅠ以外では勝負服を着用しないため、今日の出走者も全員が同じ体操着姿だ。それでも模擬レースとは違い、今回は正式な競走として戦績へ記録される。
「ついに、本当のレースなんだね」
「緊張してる?」
「少し。でも、模擬レースの時よりは落ち着いてるよ」
そう答えながらも、耳は周囲から聞こえる実況や観客の声へ忙しなく反応している。
初めて訪れた本物の競バ場。
大勢の観客。
正式な出走者として与えられたゼッケン。
緊張しないほうがおかしい。
俺はスペの前へしゃがみ、靴や脚の状態を一つずつ確認する。
【スペシャルウィーク】
体調:絶好調
疲労:なし
故障:なし
スピード:B
スタミナ:B
パワー:B
根性:B
賢さ:B
芝適性:A
中距離適性:A
長距離適性:A
差し適性:A
先行適性:A
【保有スキル】
・末脚
・集中力
【メイクデビュー適応状態:良好】
「身体は問題なし。いつもどおり走れるよ」
「トレーナーがそう言ってくれると安心する」
「じゃあ、作戦を確認しようか」
「うん。スタートで慌てない。前に三人くらい置いて、その後ろを走る」
「今日は外側を意識しよう。模擬レースみたいに内で完全に囲まれるのを避けるために、多少距離を走っても進路を残す」
「最終コーナーの前には、外へ出られる場所を探す」
「そう。直線へ向いたら、周りより自分の走りに集中すること」
スペは何度も頷きながら確認していく。
「ブライトフェザーって子が一番人気なんだよね?」
「先行から抜け出すのが上手いらしい。選抜試験でも良い時計を出してるし、模擬形式の走行経験も多い」
「強い?」
「うん。今のスペにとっては、良い相手だと思う」
俺がそう答えると、スペの表情から少し緊張が消えた。
代わりに競争を楽しみにしている時の顔になる。
「負けないよ」
「ああ」
「私、お兄ちゃんと日本一になるんだから。ここで止まってられないもん」
「だからこそ、今までやってきたことを全部出しておいで」
俺は立ち上がり、スペの両手を握る。
「俺はゴールの近くで待ってる。結果を怖がらず、スペの今の走りをしてくればいい」
「うん!」
スペは力強く返事をしたあと、一度だけ俺へ抱きついてきた。
「行ってくるね、トレーナー!」
「行ってらっしゃい、スペ」
◇
『各ウマ娘、ゲートへお入りください』
十一人の新人ウマ娘が、順番にそれぞれのゲートへ収まっていく。
スペは五番。
事前評価一番人気のブライトフェザーは八番へ入った。
観客席の一角には、今日のレースを見に来たスズカとクラスメイトたちの姿もある。
「スペちゃん、頑張って」
スズカが静かに声援を送る。
「一流を目指すなら、メイクデビュー程度で躓いている場合ではありませんわ!」
「キングちゃん、それ応援なのかプレッシャーをかけてるのか分からないデース!」
「もちろん応援ですわ!」
「スペちゃんでしたら、きっと大丈夫ですよ」
グラスは穏やかに微笑んでいる。
セイウンスカイは芝コースを眺めながら、いつもの気の抜けた笑みを浮かべた。
「さてさて。オールBの期待馬が、本番ではどんな走りをするのかな」
ゲート内のスペと目が合う。
俺は胸の前へ手を置き、ゆっくり呼吸するよう合図した。
スペが一度頷く。
すべてのゲートが閉じた。
そして。
『スタートしました!』
十一人が一斉に芝へ飛び出す。
【集中力】
スペはゲートが開く音へ驚くことなく、自然な一歩目から滑らかに加速した。模擬レースの時に見られた上体の浮きもなく、周囲を気にしすぎて動きを乱すこともない。
「上手く出た」
最初に前へ出たのは一番枠のウマ娘。
そのすぐ後ろへブライトフェザーがつけ、スペは四番手を確保した。
レース序盤のペースは極端には速くない。先頭も無理に飛ばさず、ブライトフェザーも二番手で落ち着いて走っている。
スペは外から二頭目の位置を取り、周囲に余裕を残したまま四番手を維持していた。
横から聞こえる足音にも。
前から飛んでくる芝にも。
もう必要以上には反応しない。
たった一度の模擬レースでも、経験したことはきちんと身体に残っている。
「前回よりずっと余裕がありますね」
近くにいた担当教官が呟く。
「一度経験してますからね」
スペ自身が失敗から学んだ結果だ。
◇
千メートルを通過。
隊列には大きな変化がない。
スペは四番手。
呼吸も安定している。
その一方で、前方を走っていたブライトフェザーが少しずつ先頭との差を詰め始めた。
第三コーナー。
半バ身。
さらに前へ。
最終コーナーへ入る直前には、ほとんど先頭へ並びかけている。
「やっぱり上手い」
早すぎない。
かといって、周囲が動き始めてから慌てて仕掛けるわけでもない。
他のウマ娘より先に自分の進路を確保し、直線で前を塞がれない位置を取っている。
今のスペにはない、実戦経験から生まれた上手さだった。
スペはまだ四番手。
前には三人。
外側にも一人。
このままコーナーへ入れば、模擬レースと同じように動く場所を失う可能性がある。
その瞬間、スペが僅かに速度を上げた。
「気づいた」
外側にいた一人が完全に並ぶ前に、そのウマ娘の前へ出る。
まだ最適な動きではない。
けれど、前回のように空間が空くのを待つのではなく、今回は自分から直線へ向けた進路を作った。
それで十分だ。
最終コーナーを抜ける。
『ブライトフェザーが先頭へ!』
経験豊富な一番人気が、予定どおりの形で直線へ入った。
後続との差は四バ身ほど。
スペは三番手。
前に一人残っている。
「スペ、ここからだよ」
残り三百メートル。
スペは前の一人を外から抜き、二番手へ上がった。
それでも先頭のブライトフェザーまでは、およそ五バ身。
『五番スペシャルウィークが二番手へ上がった! しかしブライトフェザーとの差はまだ大きい!』
ブライトフェザーも止まってはいない。
先行から抜け出し、十分な脚を残したままゴールへ向かっている。
普通なら、ここから追いつくのは簡単ではない。
それでもスペには、まだ余力が残っていた。
【スペシャルウィーク】
残り体力:十分
筋肉疲労:小
呼吸:安定
【終盤出力余力:大】
スペがゴールの方向へ顔を上げる。
その視線の先に。
俺がいる。
「おいで、スペ」
聞こえなくても構わない。
スペは一度深く息を吸い、腕の振りを変えた。
肩の力を抜く。
脚だけで地面を蹴ろうとせず。
身体全体を前へ運ぶ。
模擬レースのあと、自分のものにした最初のスキル。
【末脚】
発動した瞬間、スペの走りが一段変わった。
『スペシャルウィークが伸びる! 外から一気に差を詰めてくる!』
残り二百メートル。
五バ身あった差が、三バ身まで縮まった。
「……来る!」
ブライトフェザーも後ろから迫る足音へ気づき、さらに速度を上げる。
それでも。
スペの勢いは止まらない。
二バ身。
一バ身。
残り百メートルで、ついにブライトフェザーの外へ並んだ。
「そんな……!」
「はあああああっ!」
二人が並んだのは、ほんの僅かな時間だった。
最後まで基礎体力を残していたスペが半歩前へ出ると、その差は一バ身、さらに二バ身へ広がっていく。
ブライトフェザーも最後まで追った。
それでも。
差は縮まらない。
スペシャルウィークが、そのまま先頭でゴール板を駆け抜けた。
『一着、五番スペシャルウィーク!』
『初めての公式戦を見事な末脚で制しました!』
『二着ブライトフェザーとの差は三バ身!』
メイクデビュー。
スペシャルウィーク。
初戦。
一着。
◇
「トレーナー!」
ウイニングランを終えたスペが、こちらを見つけた瞬間に嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「スペ、ゆっくりでいいよ!」
そう言ったものの、聞く気はないらしい。
勢いをある程度落としたところで、そのまま俺へ飛び込んでくる。
俺は両腕でしっかり受け止めた。
「勝ったよ!」
「うん。おめでとう、スペ」
「メイクデビュー、一着だった!」
「最後まで本当に良い走りだったよ」
嬉しそうに抱きつくスペの背中を撫でながら、同時に身体の状態を確認する。
【スペシャルウィーク】
メイクデビュー:一着
着差:三バ身
体調:好調
疲労:小
故障:なし
【公式戦初勝利】
【集中力:実戦使用成功】
【末脚:実戦使用成功】
脚にも関節にも異常はない。
純粋なレース後の疲労だけだった。
「スタート、上手にできてた?」
「模擬レースの時とは別人みたいだったよ。《集中力》もちゃんと使えてた」
「やった!」
「最後のコーナーでも、囲まれる前に外の位置を取ったね」
「模擬レースで前に出られなくなったの思い出したの。だから、今度は先に行こうって」
「それが大事なんだよ。俺が言ったからじゃなくて、スペ自身が前の経験を思い出して判断できた」
「私、自分でできた?」
「ああ」
そう答えると、スペは嬉しそうに俺へ抱きつく力を強めた。
「ねえ、トレーナー」
「どうしたの?」
「私、日本一に近づいた?」
「ああ。今日は正式な一勝だから、大きな一歩だね」
「大きな一歩!」
その言葉が相当嬉しかったらしい。
「じゃあ、いっぱい褒めて!」
「もちろん。スペは本当によく頑張ったよ」
頭を撫でる。
「もっと!」
「スタートも落ち着いていたし、位置取りも模擬レースよりずっと良かった」
「もっと!」
「最後に五バ身あった差を追いついて、そのまま三バ身まで広げたのは本当にすごかったよ」
「もっと!」
「まだいる?」
「今日は一着だから!」
「じゃあ最後に一つ。最後まで諦めずに自分の走りをしたスペは、すごく格好良かったよ」
「えへへ……」
ようやく満足したのか、スペの尻尾が大きく左右へ揺れた。
◇
「おめでとう、スペちゃん」
少しして、観客席から降りてきたスズカたちも合流した。
「スズカさん!」
「最後の直線、とても素敵だったわ」
「ありがとう!」
「まあ、メイクデビューとしては悪くありませんでしたわね」
キングが腕を組みながら歩いてくる。
「キングちゃんも応援してくれた?」
「と、当然ですわ! 同じクラスなのですから、それくらいはします!」
「ありがとう、キングちゃん!」
「ちょ、ちょっと! 急に抱きつかないでくださる!?」
スペに勢いよく抱きつかれ、キングが慌てる。
その横ではエルが大きく笑っていた。
「スペ! 見事な勝利デース!」
「ありがとう、エルちゃん!」
「ですが、世界最強への道はまだまだ遠いデスよ!」
「うん。私ももっと強くなる!」
「その意気デース! いつかエルとも本気で勝負するデース!」
「楽しみにしてる!」
グラスも二人のやり取りを見ながら微笑んだ。
「本当に良い走りでしたよ、スペちゃん。最後まで余裕を残せていたのも立派でした」
「ありがとう、グラスちゃん!」
「初戦から三バ身ねぇ」
セイウンスカイはいつものように気の抜けた笑顔で、スペを眺めている。
「セイちゃんとも、いつか一緒に走れるかな?」
「どうだろうねぇ。でも、その時が来たらよろしく」
「うん!」
口調は軽い。
それでも。
スカイの目は、先ほどのレースを思い返すようにスペを見ていた。
キングも。
グラスも。
エルも。
今は同じクラスの友達だ。
けれど、いずれ。
全員が。
同じゴールを目指すライバルになる。
スペも、それが嬉しいのだろう。
「みんなと走れるの、楽しみだなぁ」
「まだメイクデビューを一戦したばかりですわよ!」
「でも、いつか走るでしょう?」
「それは……まあ、そうでしょうけれど」
「じゃあ楽しみ!」
「本当に前向きですわね……」
キングが呆れたように言うと、グラスとエルが笑った。
◇
「日高トレーナー」
そんなやり取りをしていると、レース担当者から声をかけられた。
「スペシャルウィークの今後について、少し相談があります」
「はい」
差し出された資料には、次に行われる芝二千メートルの一勝クラスが記載されていた。
「今日の内容なら、次は一勝クラスへ進んでも問題ないでしょう」
「二千メートル……」
スペも俺の横から資料を覗き込む。
千八百メートルから二百メートル延びる。
今のスタミナなら距離そのものに不安はない。
むしろ中距離でのレース経験を積む意味でも、悪くない選択肢だ。
「まずは一勝クラスを経験して、そこから先を考えたいと思います」
「分かりました」
担当者が離れていく。
「次も走れるんだね」
「ああ。ただし、まず今日は休むこと」
「分かってるよ!」
「本当に?」
「……少しだけなら練習しても」
「今日は休み」
「はーい」
模擬レースの時よりは、少し素直になった気がする。
「次も一着を取れるかな?」
「取れるように準備するんだよ」
「うん!」
スペは資料をもう一度見てから、両拳を握った。
「次も勝つ。それで、もっともっと強くなる!」
俺はそんなスペを見ながら、今日のレース内容を頭の中で整理していた。
ゲート。
改善。
集団走行。
改善。
進路選択。
まだ粗さはあるが、自分で考えて動けるようになった。
そして。
終盤の《末脚》。
最大の長所は、やはり最後まで高い出力を残せる基礎能力だ。
この強みを伸ばす。
でも。
それだけでは足りない。
日本一を目指すなら。
もっと多くの技術を身につける必要がある。
◇
その日の夜。
レース後の施術と食事を終え、寮へ戻ったスペから一本の電話がかかってきた。
『お兄ちゃん!』
「どうしたの?」
『今日のレース、もう一回褒めて!』
「昼にいっぱい褒めたでしょう?」
『電話でも聞きたい!』
「そこまで?」
『だって初勝利だもん!』
どうやら一日中嬉しかったらしい。
「じゃあ、改めて。メイクデビュー一着、おめでとう」
『えへへ……ありがとう!』
「スタートも上手だったし、前回の失敗から自分で考えて走れたのも良かったよ」
『うん!』
「それと、三バ身差で勝ったからって油断しないこと」
『そこも言うの?』
「大事だからね」
『はーい』
少し不満そうな声になったあと、すぐ元へ戻る。
『でもね、今日走って思ったの』
「何を?」
『もっとレースしたい』
その声は。
純粋に。
楽しそうだった。
『前の子を追いかけて、追いついて、抜いた時、すっごく楽しかった。観客のみんなが応援してくれたのも嬉しかったし、最後にお兄ちゃんが待っててくれたのも嬉しかった』
「そっか」
『私、やっぱり日本一になりたい』
それは。
ずっと前から聞いてきた夢。
でも。
今日。
初めて公式戦を走ったことで。
少しだけ。
その意味が変わったのかもしれない。
「なれるよ」
『本当?』
「そのために俺がいる」
『うん!』
「一緒に一つずつ勝っていこう」
『約束だよ』
「ああ。約束」
電話の向こうで、嬉しそうな声が聞こえる。
メイクデビュー。
一着。
スペシャルウィークの公式記録に、初めて一つの勝利が刻まれた。
日本一への道は、まだ始まったばかりだ。
それでも。
確かに。
俺たちは。
その最初の一歩を踏み出した。