ホープフルステークスを制したスペシャルウィークは、三戦三勝の無敗GⅠウマ娘として新しい年を迎えた。
もっとも、GⅠタイトルを一つ手にしたからといって、日常生活が急に変わるわけではない。取材や周囲から声をかけられる機会は増えたものの、授業を受け、トレーニングを行い、寮へ戻るという基本的な生活は今までどおりだった。
ただし、一つだけ以前より厳しくなったものがある。
「トレーナー、おかわり!」
「今日はここまでだよ」
「まだ入るよ?」
「お腹に入ることと、必要な量は別だからね」
「うぅ……」
夕食を終えたスペが、空になった茶碗を持ちながら残念そうに耳を伏せる。
以前《太り気味》になってから、朝食と昼食は俺が作成した献立を学園の食堂へ渡し、夕食も可能な限り俺が用意している。今日も鶏肉と根菜の煮物、豆腐と野菜を入れた味噌汁、雑穀米、ほうれん草の胡麻和えを揃え、デザートには果物入りのヨーグルトまで付けていた。
ウマ娘として必要なエネルギー量は十分に確保しているので、決して少ない食事ではない。
スペの食欲が、それ以上に大きいだけだ。
「毎日こんなに美味しいものを食べてるのに、どうして太らないんだろう?」
「スペの運動量に合わせて、量と栄養のバランスを調整してるからだよ。前みたいに食事のあとでパン三つとデザートを追加しなければ大丈夫」
「あれはもう言わないでよ!」
「もうしないなら言わないよ」
「しないもん。……たぶん」
「最後の一言が少し不安だな」
俺が笑うと、スペも気まずそうに笑った。
「でも、トレーナーって料理もすごいよね。毎日違うものが出てくるし、どれも美味しい!」
「スペが美味しそうに食べてくれるから作りがいがあるんだよ」
「本当?」
「ああ」
スペの耳が嬉しそうに立つ。
「じゃあ、これからもずっと作ってね!」
「もちろん」
「本当にずっとだよ? 担当が終わっても、おばあちゃんになっても!」
「そこまで先の献立は、さすがに今から決められないかな」
「今から考えて!」
「ずいぶん先の話まで予約するね」
「だって、トレーナーの料理を他の人に取られたくないもん」
さらりと言われた言葉に、思わず返事が一瞬遅れた。
「取られたりしないよ」
「本当?」
「少なくともスペの食事は、これからも責任を持って見るつもりだよ」
「えへへ……約束だからね」
満足したスペは、残していたヨーグルトへ嬉しそうにスプーンを入れる。
向かい側で一緒に食事をしていたスズカは、そんな俺たちを穏やかな表情で眺めていた。
「本当に仲がいいのね、スペちゃん」
「うん! トレーナーは私の一番大切な人だから!」
「スペ」
「なに?」
「そういうことを恥ずかしげもなく言われると、俺のほうが困るかな」
「どうして? 本当のことだよ?」
本人は心の底から不思議そうだった。
昔からそうだ。
スペは自分が大切だと思ったものを、大切だとまっすぐ言葉にする。それが嬉しくないはずはないのだが、照れさせる意図すらなく言われるからこそ、余計に心臓に悪かった。
スズカは俺の反応を見て、少しだけ楽しそうに微笑んでいた。
◇
クラシック期最初の目標は、GⅡ・弥生賞。
皐月賞と同じ中山芝二千メートルで行われる、クラシック三冠へ向けた重要な前哨戦だ。
しかも今回は、ホープフルステークスまでとは意味が違う。
出走するのはスペだけではない。
一流を掲げるキングヘイロー。
普段は気の抜けた態度を見せながら、レースとなれば何をしてくるのか分からないセイウンスカイ。
同じ教室で笑い合ってきた二人と、初めて本気で一着を争うことになる。
「今日は二千メートルを走る時の感覚を、もう一段深く覚えてもらうよ」
「感覚?」
トレーニングコースへ簡易的な傾斜と目印を準備しながら説明する。
「ただ二千メートルを走り切るだけじゃなくて、どこで力を使って、どこで休むのかまで身体で覚える。今までやってきたペース配分を、中山の形に合わせる感じだね」
「皐月賞と同じところなんだよね?」
「そう。弥生賞も皐月賞も中山芝二千。コーナーの位置も最後の急坂も同じだから、ここで感覚を掴めれば本番にも繋がる」
「じゃあ絶対覚えないと!」
「焦らなくていいよ。今日は一周ごとに脚質も変えてみよう」
「差しと先行?」
「それだけじゃなくて、逃げと追込も」
「全部やるの?」
「ああ。得意な走りを強くするためには、他の脚質を知ることも大切だからね」
スペは先行と差しの適性が高く、その二つならすでにある程度自然に走れる。
一方、逃げは得意ではなく、追込も先行や差しほど身体に馴染んでいない。
だからこそ、実際にその位置から走らせる意味がある。
「前を走るウマ娘が、どんなことを考えながらペースを作るのか。後ろで脚を溜めるウマ娘が、どんな不安を抱えながら仕掛けを待つのか。それを自分で経験すれば、差しで走る時にも相手の動きが分かるようになる」
「相手の気持ちを知るってこと?」
「そんな感じだね」
「分かった! じゃあ最初は?」
「逃げから行こう。千メートルまでは一定のペースを守ってみて」
「うん!」
スペが先頭を想定して走り出す。
最初の三百メートルまでは悪くなかった。
しかし、普段のように目標となるウマ娘が前にいないため、少しずつペースが上がっていく。
「スペ、少し抑えて」
「えっ? そんなに速かった?」
「ああ。このまま走ると最後の坂で使う脚がなくなるよ」
スペはすぐに速度を落とし、指示したペースへ戻した。
「逃げって、前に誰もいないから簡単なのかと思ってた」
「むしろ自分で全部決めないといけないから難しいんだよ。速すぎれば自分が潰れるし、遅すぎれば後ろに楽をさせる。しかも誰かが迫ってきているかもしれない状況で、冷静に自分のペースを守らないといけない」
「……セイちゃん、すごいことしてるんだね」
「そういうこと」
続いて追込を試す。
今度は仮想集団から大きく離れた後方で脚を溜め、終盤まで我慢させる。スペは基礎スタミナも《末脚》もあるため最後の加速そのものには問題がないが、普段よりはるか後ろから走ると仕掛ける位置が分からず、前との距離を何度も気にしてしまった。
「まだ待つ?」
「もう少し」
「前、遠いよ?」
「それでも我慢」
「うぅ……」
スペにとって、こちらのほうが性格的にはつらいらしい。
最後の直線を想定した位置へ入る。
「今!」
「うん!」
合図と同時にスペが一気に加速した。
十分に温存していた脚を使い、最後の坂を想定した傾斜も勢いを落とさず駆け上がる。
設定したゴール地点を通過してから徐々に速度を落とし、俺のところへ戻ってきた。
「どうだった?」
「最後はすごく速く走れたけど、それまで前が遠くて落ち着かなかったよ。もし届かなかったらどうしようって、ずっと考えちゃった」
「それが追込で走る時の難しさだね」
「じゃあセイちゃんは、ずっと追いかけられるかもしれないって思いながら走ってるんだ?」
「スカイは逃げだから、追いかけられる側だね」
「あっ、逆だった」
本人は真面目に考えていただけに、思わず笑ってしまう。
「でも、その気づき自体は大事だよ。逃げる側には、いつ後ろから誰かが来るか分からない不安がある。差しや追込には、前へ届かないかもしれない不安がある。どちらも、自分のペースを崩したら負ける」
「弥生賞では、セイちゃんが逃げるかな?」
「可能性は高いと思う。ただ、本番で何をするかは本人にしか分からない」
「キングちゃんは?」
「キングはどの位置からでも走れる。あの子も当日まで読みにくいね」
「二人とも強いんだね」
「ああ。少なくとも、今までスペが走ってきた相手より簡単にはいかないと思う」
スペはその言葉を聞いても不安そうにはならなかった。
むしろ、楽しみだと言わんばかりに目を輝かせる。
「でも負けないよ」
「自信ある?」
「うん。二人がどんな走りをしても、最後に一番前にいるのは私だから!」
慢心しているわけではない。
ホープフルステークスまで無敗で来た実績だけを頼りにしているわけでもない。
自分がこれまで積み重ねてきた練習と、それを一緒に続けてきた俺を信じているからこその言葉だった。
「それじゃあ、本当に一番前へ行けるようにもう一本やろうか」
「うん!」
◇
弥生賞へ向けたトレーニングでは、走り方だけでなく芝の状態も意図的に変えた。
乾いた良馬場。
水分を含んだ稍重。
さらに芝を深くして、脚を取られやすくした重馬場。
内側の荒れた場所と、外側の比較的綺麗な場所も使い分け、どのような条件でも走りを崩さないための経験を積ませる。
「今日は昨日より走りにくいね」
「芝が柔らかいからね。強く蹴りすぎると、脚が沈んで力が逃げる」
「じゃあ、もっと強く踏んだら駄目なの?」
「逆。地面を押し込むより、足を置いた瞬間に身体を前へ運んでみて」
「足を置いたら、そのまま前へ……」
スペが重馬場を想定した芝へ入る。
最初の一歩は深く沈んだ。
そこで力任せに蹴るのではなく、二歩目から重心を少し前へ移す。三歩目、四歩目と進むうちに、足を必要以上に高く上げず、芝へ沈み込む前に身体を前へ送る動きへ変わっていった。
「そう。その走りなら余計な力を使わない」
「さっきより軽い!」
「その感覚を覚えて」
「うん!」
スペの強みは、単純な能力の高さだけではない。
教えられたことをまず素直に試し、その感覚を自分の身体へ落とし込むのが上手い。失敗してもすぐに嫌がらず、「どうすればできるか」を考えながら何度でもやり直せる。
その積み重ねに応じて、俺の視界に表示される適性も少しずつ変化していった。
【芝適性:A】
↓
【芝適性:A+】
そして、弥生賞まで残り二週間。
スペが重馬場を想定したコースを、フォームも速度もほとんど崩さず走り切る。
【芝適性が上昇しました】
【芝適性:A+ → S】
「スペ」
「なに?」
「芝への適応が一段上がったよ。もう多少状態が変わっても、今まで以上に自分の力を出せる」
「Sになったの!?」
「ああ」
「やったぁ!」
両手を上げて喜ぶスペ。
「これで雨が降っても大丈夫?」
「雨だから絶対有利になるわけじゃないけど、少なくとも馬場が変わっただけで大きく走りを崩すことは減るね」
「じゃあ一つ安心!」
芝への対応が完成してからも、中山二千メートルを想定したペース走を繰り返した。
序盤は無理に前を追わない。
コーナーでは《中距離コーナー○》を使って余計な減速を抑え、中盤に《栄養補給》で呼吸を整える。
終盤が近づいたら、前との距離と周囲の進路を確認する。
直線へ向くまでに《差し切り体勢》で加速の準備を作り、最後に《末脚》で前を捉える。
これまでは個別に習得していた技術が、何度も二千メートルを走ることで一つのレース運びとして繋がっていく。
「ラスト二百!」
「うん!」
【差し切り体勢】
身体の動きが終盤用へ切り替わる。
そこから。
【末脚】
スペが一気に速度を上げた。
最後の傾斜へ入っても勢いは落ちず、設定したゴールを通過してからゆっくり速度を落とす。
【中距離適性が上昇しました】
【中距離適性:A → S】
「トレーナー!」
スペは呼吸を整えながら俺のところへ駆け寄った。
「今の走り、すごく気持ちよかった!」
「どんな感じだった?」
「途中で、あとどれくらい力を使っていいのか自然に分かったの。最後に全部出しても苦しくなくて、まだ少し走れそうだった!」
「二千メートルのペースそのものが、身体に馴染んだんだと思う」
「じゃあ、弥生賞も勝てる?」
「勝つための力は十分にあるよ」
レースに絶対はない。
キングもスカイも、こちらが想定していない走りをしてくるかもしれない。
それでも、スペ自身の準備については自信を持って言える。
ここまでやれることは、すべてやってきた。
◇
弥生賞一週間前。
最後の強いトレーニングを終え、スペの身体を施術しながら現在の状態を確認する。
【スペシャルウィーク】
体調:絶好調
疲労:小
故障:なし
スピード:A
スタミナ:A
パワー:A
根性:B
賢さ:B
芝適性:S
ダート適性:D
短距離適性:C
マイル適性:B
中距離適性:S
長距離適性:A
逃げ適性:C
先行適性:A
差し適性:A
追込適性:B
【保有スキル】
《集中力》
《末脚》
《栄養補給》
《中距離コーナー○》
《差し切り体勢》
【習熟中】
《食いしん坊》
《全身全霊》
ジュニア期にオールBだった基礎能力のうち、スピード、スタミナ、パワーはすでにAへ到達した。
さらに芝と中距離はS。
入学前に何年も積み上げてきた身体の土台へ実戦経験と競走技術が加わったことで、スペの能力は想像以上の速さで形になり始めている。
「トレーナー、さっきから難しい顔してるよ?」
「スペが予想してたより強くなってて、ちょっと驚いてたんだ」
「トレーナーでも驚くの?」
「驚くよ。スペは、俺が思ってるよりずっとすごいウマ娘だからね」
「えへへ……もっと褒めて」
「練習を真面目に続けられるし、教えたことをすぐ身体で試せる。それに、GⅠを勝っても努力をやめなかった」
「もっと!」
「最近は食事管理もちゃんと守ってる」
「最近はって何!?」
「前に《太り気味》になったから」
「あれは忘れて!」
顔を赤くしたスペが俺の胸を軽く叩く。
「忘れたら、また食べすぎるかもしれないからなぁ」
「もうしないもん!」
「じゃあ信じるよ」
「最初から信じてよ!」
文句を言いながらも、スペはすぐに笑った。
施術を終えて立ち上がろうとしたところで、今度はスペのほうから俺の手を取る。
「トレーナー」
「どうしたの?」
「弥生賞、ちゃんと見ててね」
「もちろん」
「キングちゃんもセイちゃんも、今まで走った子たちより強いと思う」
「ああ」
「でも、絶対に勝ちたい。友達だからこそ、本気で走って勝ちたいの」
俺は握られた手を、そのまま握り返した。
「それでいいと思うよ。レースでは遠慮しなくていい」
「うん」
「二人がどんな作戦を使っても、スペは今日までやってきたことを信じて走ればいい」
「勝ったらいっぱい褒めてくれる?」
「頑張った分だけ、いっぱい褒める」
「約束だよ」
「ああ。約束」
スペは嬉しそうに笑い、少しだけ俺の肩へ額を預けた。
◇
弥生賞当日。
GⅡのため勝負服ではなく、出走者は全員が体操着とゼッケン姿だ。
スペの胸には七番。
初めてGⅠを制したホープフルステークスとは衣装も舞台の雰囲気も違うが、控室に漂う緊張感は決して劣っていなかった。
理由は単純だ。
今回は、これまでより明確に「負けたくない」と思える相手がいる。
地下通路へ向かおうと控室を出ると、廊下の先にキングヘイローが待っていた。胸元には三番のゼッケンが付いている。
「スペシャルウィーク」
「キングちゃん」
「今日こそ、一流の私があなたに勝たせていただきますわ」
「うん。私も絶対に負けないよ!」
「その余裕がいつまで続くか楽しみですわね」
「私もキングちゃんと走るの楽しみにしてた!」
「……どうしてあなたは、勝負を挑まれてそんなに嬉しそうなんですの?」
「だって友達と本気で走れるんだよ?」
「まあ、その点については……私も否定しませんけれど」
キングが少しだけ視線を逸らす。
その瞬間、二人の間へ横から顔を出したウマ娘がいた。
「いやぁ、二人とも元気だねぇ。レース前からそんなに力を使って大丈夫?」
「セイちゃん」
「スカイさんは緊張感がなさすぎますわ!」
「ちゃんとあるよ?」
セイウンスカイはいつもの眠そうな笑みを浮かべながら、芝コースの方向へ視線を向けた。
「さっきからずっと、どうやったら二人に追いつかれないか考えてるからね」
口調は軽い。
けれど、その目には普段の気の抜けた雰囲気がなかった。
どこでペースを上げるか。
どこまで後続を引きつけるか。
どこから逃げ切りへ入るか。
おそらく今この瞬間も、頭の中では何通りものレース展開を組み立てている。
スペもキングも、その変化を感じ取ったらしい。
先ほどまでの軽い会話が途切れ、三人の間に心地よい緊張が生まれた。
「それじゃあ」
スカイがひらひらと片手を振る。
「先にゴールで待ってるね」
「好きにはさせませんわ!」
「私も絶対追いつくよ!」
「怖い怖い」
そう言いながら、スカイは楽しそうに地下通路へ向かった。
キングもその背中を追いかける。
「ではスペシャルウィーク、レースでお会いしましょう」
「うん!」
キングが離れたあと、スペは一度だけ大きく息を吐き、俺を振り返った。
「トレーナー」
「大丈夫」
何かを尋ねられるより先に手を差し出す。
スペもすぐに握り返した。
「今日までやってきたことを信じよう。スカイがどれだけ前へ行っても、その距離だけを見て焦らないこと」
「うん」
「キングが先に動いても、つられて仕掛けない。スペが一番速く走れるタイミングまで待つ」
「最後まで、自分の走りをする」
「そう。それができれば、ちゃんと勝負できる」
「一番前まで行ける?」
少しだけ甘えるような聞き方だった。
俺は迷わず頷く。
「行けるよ。そのために今日まで練習してきたんだから」
スペの表情から、最後に残っていた緊張が消えた。
「行ってくるね、トレーナー」
「ああ。行っておいで、スペ」
七番のゼッケンを着けた背中が、二人のライバルを追って地下通路へ向かっていく。
無敗のGⅠウマ娘、スペシャルウィーク。
一流の誇りを胸に勝利を狙う、キングヘイロー。
気の抜けた笑みの奥で、誰より深く展開を読むセイウンスカイ。
同じ教室で笑い合ってきた三人が、初めて本気で一着を奪い合う。
クラシック三冠へ続く弥生賞。
黄金世代最初の三つ巴が、まもなく始まろうとしていた。