目を背けたくなるような光景が広がっていた。
闇よりもなお深い漆黒の炎が、大地を焦がし、立ち上る熱気は空一面を覆う雲すらも焼き尽くす。何一つなすことができなかった凡愚を嘲笑うかのように、世界は残酷な現実を突きつけてくる。
「はっ……つ、ふ……っ」
息を吸い込むたびに、肺が焼けるように痛み、漏れだす声に鉄の味が混ざる。
俺――アルスは、視界に広がる現実に抗うこともできず、地に伏していた。身体は意思に反して指一本動かすことができない。
そばには、半ばから折れた長剣が転がっている。世界が与えた人類の希望として、俺と共に戦い続けた『勇者の聖剣』。今や元の輝きを失ったその刃は、希望の終焉を告げている。
「……キー、ス……」
かすれた声で、戦友の名を呼ぶが、返事が返ってくることはなかった。
視線を僅かに動かすと、岩塊に背を預けるように男が倒れていた。剣聖の
今のキースには、右腕と左脚がない。
断面から流れ出す血液は血溜まりを作り上げ、徐々に黒く固まりつつあった。眼は光を失い、もやは生きているかどうかすらわからない。
最後、この地に残ったの俺達だけだった。
人類と魔族の生存をかけた人魔大戦。
五百年前に勇者、剣聖、賢者、拳王の四英雄が魔王を打ち倒し、守り抜いた人類の平和。その平和は、五百年の時を経て誕生した新たな魔王により破られ、人類は再び剣を執った。
四天王との戦いの最中で、賢者と拳王を失い、犠牲を無駄にしないために突き進んでたどり着いた最終決戦の地。
その結末が、これだ。
カツン、カツン
地獄のような光景に不釣り合いな軽い足音が響く。砕けた瓦礫を踏みしめながら、静かに近づいてくる足音の主は、すぐ近くでその歩みを止めた。
俺は最後の力を振り絞り、閉じかけていた瞼を押し上げ、眼前を睨みつける。
視線の先に佇んでいたのは、魔族の首領。禍々しい漆黒のオーラを纏い、数多の人間を恐怖に陥れた絶望の象徴。
――魔王だ。
「……どうやら終わりのようね、勇者アルス」
黒炎燃え上がる戦場に、魔王の声が木霊する。
「人類が積み上げた抗いも、未来を掴むための犠牲も、全てはここで潰えたの。あなた達の負けよ。」
静かに告げられた言葉は、受け入れ難い現実を無理矢理にも理解させてくる。
――敗北。
俺達の、人類の敗北だ。
死に体となった身でも、意地で残した希望の心。その心をドス黒い絶望が塗りつぶしていく。
朧げとなった思考は、これまでの道のりを走馬灯のように駆け巡らせる。
十五歳の日、最初の犠牲と共にこの身に宿った『勇者』の
使命に従い、強くなるために生まれ育った町を離れ入った学園。そこで出会った仲間と数々の危機に直面してきた。
守れたものなんてほとんどなかった。いつだって敵は俺達の想像を越えて襲いかかってきた。
それでも、最後は報われると、皆んなの犠牲にも確かに意味はあったんだと、そう思える日が来ると信じて戦い続けた。
(……全部、無意味だったのか?)
俺の中で積み上げたものが崩れ去る音がした。
俺が弱かったから、俺なんかが勇者だったから。
仲間達が捧げてくれた命は、俺のせいで何一つとして意味のない、泡沫の希望に変えてしまった。
俺を信じてくれた人たちへの罪悪感と後悔に苛まれ、涙が血や泥と混ざり合いながら頬を伝う。
自身を呪う怨嗟の言葉が聞こえてくるようだった。俺にできることは、己の無力に嘆き、審判を待つことだけ。
その時だった。
「――無意味では決してなかったわ」
不意に、上空から声が降ってきた。
なぜ?
最初に思ったのはその言葉だった。
俺は一言も発してない。もはや、まともに声を出すだけの力すらなかったのだから。
身体は動くことを許さず、表情なんて血と泥にまみれて歪んでるはずだ。
それなのに、魔王は俺の心情を、想いの全てをそのまま読み取ったかのように、俺に言葉を投げかけてきたのだ。
戸惑う俺を見下ろしたまま、魔王は少しだけ声のトーンを柔らかくした。
「あなたが歩んできた道にも、これまでの犠牲も……すべてに、意味はあったわ」
仮面と漆黒の兜に覆われた宿敵。素顔すら伺えない状況では、相手の真意を読むことはできなかった。
勝者の傲慢か? 敗者への慈悲か?
未来のない人類に対して、その言葉に何の意味があるというのだ。
しかし、不思議な確信に満ちた声で、魔王は言葉を続ける。
「この決戦の地に辿り着き、死力を尽くして戦ったこと。そのすべてが、この『蜘蛛の糸よりも細い希望』を引き寄せる結果となったの。可能性なんて殆ど無かった。それでも、今この結末を迎えられたのは、あなた達のおかげよ」
魔王の言っている意味が、俺には理解できなかった。
敗北した俺たちに向けられる言葉としては、酷く不釣り合いな意味を持っている。
魔王はゆっくりと腕を上げた。
その指先から、禍々しい漆黒のオーラとは異なる、透き通った翠玉色の光が溢れ出す。
光は瞬く間に広がり、燃え上がる大地を、灰燼の空を、そして世界そのものを包み込んでいった。
「な……んだ、これは……?」
全身を襲っていた激痛が、遠のいていく。
痛みだけではない。焼け焦げた大地が、雲の流れが、すべて反対方向へ急速に巻き戻されていく。
不可逆であるはずの時間。その理を破壊し、世界そのものを巻き戻しているというのか!?
だか、なぜ魔王が時間を逆行させる必要がある。何のために……。
人智を超えた力。その力の奔流に飲み込まれていく俺には魔王の意図を知る術はなかった。光の中心に立つ魔王は、最後に不可解な言葉を残す。
『――ここからが、本当の始まりよ』
その声には、どこか優しい希望に満ちた響きを含んでいた。
(あいつは……一体……)
思考が徐々に途切れ、あたかも夢のような曖昧なものへと変わる。
身体の感覚は消え去り、もはや自分がどこにいるかも不明瞭となっていった。
――世界は、塗り替えられた。