魔族の襲撃という未曾有の危機から、季節は巡った。
町は不安を抱えながらも、世界には希望に満ちた新生活の『春』がやってきたのだ。
今日から俺は、王都にある『王立学園』に入学する。
人々の希望、五百年前の英雄と同じ『勇者』として。そしていずれ訪れる人類の命運を賭けた人魔大戦に向けて、国中から集まる猛者たちと戦力を整えなければいけない。
「……よし。とうとうこの日が来たか」
自宅の自室で荷物をまとめながら、俺は気を引き締めるように小さく呟いた。
部屋の入口からその様子を伺っていたユナが、どこか心配そうな目を向けてくる。
「にぃに……大丈夫?」
その言葉に、俺の胸はジンと熱くなった。
普段は何かと辛辣で、俺を『アホス』などとバカにしてくる妹だが、やっぱり血を分けた兄妹なのだ。生まれ育った家を離れ、遠く王都の学園へ向かう俺の身を案じてくれているのだろう。
「心配いらないぞ、ユナ。兄さんは学園に行っても、持ち前の根性でしっかりやってみせるさ!」
妹を安心させようと頼もしく胸を張ってみせた。しかし、ユナは心底不思議そうな顔で首をかしげた。
「えっ……? そういう意味じゃないんだけど……。春先って頭がおかしい人が増えるから、にぃには大丈夫なのかなって……」
「まさに今、お前の言葉で俺の頭がおかしくなりそうなんだが!?」
「……やっぱり。もう手遅れだったんだね……」
ユナは「かわいそうに……」と言いたげな悲しげな目で見つめてきた。
(『やっぱり』ってなんだよ! 俺がおかしい前提で会話を進めるんじゃない!)
一人で勝手に傷つきながら食卓へと向かうと、母さんがほかほかの湯気が立つ朝食を運んできてくれた。
「ほら、アルス。温かいうちに食べなさい。……今日でしばらく、あなたに温かいご飯を作ってあげられなくなるのね……」
珍しく、母さんの声にしおらしい響きが混ざっていた。
そのどこか寂しげな横顔を見て、俺は思わず青ざめた。
「か、母さん……どこか頭でも強く打ったのか……!?」
「……どういう意味かしら、アルス?」
ピキッと音が聞こえそうなほど、母さんの額に鮮やかな青筋が浮かび上がった。
いや、だって仕方ないだろ! いつもなら「残さず食えよ!」と背中をバシバシ叩いてくる母さんから、そんな儚げでしおらしい言葉が出てくるなんて異常事態だ。疑うなという方が無理である。
「お、落ち着いてくれ母さん! 誤解だ! ただ『魔族が化けている』って言われた方が、まだ100倍納得できるなって思っただけで――」
「何がどう『誤解』なのか、詳しく聞かせてもらおうかしら……?」
母さんの笑顔から光が消え、威圧感が倍増していく。弁解すればするほど墓穴を掘っている気がする。
見かねた父さんが、苦笑しながら助け船を出してくれた。
「アルス、それはお前の誤解だよ。母さんはお前の出発が寂しくて、本当に心配しているんだ。普段はあまり表に出さないけれどね」
「ちょっと、あなた……!? 余計なことを言わないでちょうだい……!」
父さんに内心を暴露され、母さんは顔を少し赤くして焦りを見せた。
(そうだったのか……)
母さんとの思い出といえば、血反吐を吐くような地獄のスパルタ特訓ばかりだったから、そんな風に思ってくれているとは思いもしなかった。
特に世力が覚醒してからは、特訓の度に本気で死にかける日々だったのだ。そのおかげでかなり強く離れたんだけど。
母さんは気まずそうに咳払いをすると、ツンと顔を背けた。
「……もういいから、冷めないうちに早く食べなさい!」
「……うん。ありがとう、母さん」
母さんのぶっきらぼうな優しさに、俺は心からの感謝を込めて微笑んだ。
朝食を終え、家族総出で王都行きの馬車が待つ町の北門へと向かった。
キースも一緒に行くはずだが姿が見当たらない。恐らく、さっさと先に馬車へ乗り込んでいるのだろう。
北門の前に停車していたのは、王都から派遣された大型の馬車だった。
外観には細やかな金の装飾が施されており、一目で高級品だと分かる意匠をしている。こんな派手な馬車で移動していたら野盗に目を付けられないかと心配になるが、馬車の周囲には王都の精鋭騎士たちが重厚な鎧を纏って八名も目を光らせていた。これなら襲撃の心配はなさそうだ。
「気をつけて行くのよ、アルス」
「無理だけはしないでね、にぃに」
「何かあったら、いつでもこの町に帰ってくるんだぞ」
家族からの温かい言葉が、じんわりと胸に染み渡っていく。
こんな風に優しく送り出してもらえるなんて、いつ以来だろうか。みんなの期待と優しさに応えるためにも、絶対に無事で、立派になって帰ってこなければと決意を新たにした。
「みんな、ありがとう――」
別れを告げようとしたその時、町の雑踏の方から聞き覚えのある声が響いた。
「アルスーーッ!」
振り返ると、人混みを掻き分けるようにしてアイがこちらへ走ってくるのが見えた。
息を切らしながら俺の目の前で足を止め、膝に手を突いて肩を上下させている。
「アイ……見送りに来てくれたのか?」
「はぁ……はぁ……ええ。しばらく会えなくなってしまうもの……」
「そうか……来てくれて嬉しいよ、ありがとう」
お礼を口にしたものの、アイの表情はどこか固く、深刻な色が混ざっていた。
何か言いたいことでもあるのだろうか。
(……まさか、これは噂に聞く『旅立つ幼馴染への愛の告白』というイベントなのでは……!?)
考えてもみろ。長年一緒に過ごした幼馴染であり、いまや五百年前の英雄『勇者』の再来として将来性も抜群。このアホ面も、見方によっては愛嬌とも言える。条件は完璧に揃っている。
俺が一人で浮足立っていると、アイは意を決したように意を決した瞳で俺を見つめ、口を開いた。
「……アルス。貴方は、神を信じるかしら?」
「このタイミングで教会の勧誘!?」
まさかの宗教勧誘。俺の甘い淡い期待は一瞬で打ち砕かれた。
(恥ずかしい……! 誰だいま『愛の告白』とか言ったやつ! 出て来いよコンチクショウ!)
自暴自棄になりかける俺を見て、アイは慌てて手を振った。
「あ、違うの! そういう意味じゃなくて……!」
「そういう意味じゃないって……じゃあ、どうしたんだよ?」
複雑な表情を浮かべるアイに尋ねる。彼女自身も、自分の胸中をどう説明すべきか測りかねている様子だった。
「わからないの……。ただ、何かすごく嫌な予感がして……胸がざわついて、不安でたまらなくて……」
「不安……?」
アイの抱く予感の正体までは分からない。けれど、不安がる彼女を安心させてやりたかった。俺は少し考えてから、不敵に笑ってみせた。
「うーん……アイの問いに答えるなら、俺は神様なんて信じてないよ。神頼みして奇跡を待つくらいなら、自分のこの手で未来を勝ち取りたいしな」
それを聞いたアイは、一瞬呆けたあと、クスッと柔らかく微笑んだ。
「……ふふ、アルスらしいわね。……ええ、そうね。貴方は神様なんて信じなくていい。アルスは貴方自身と、貴方が信じる仲間の力を信じて進んでいってほしいの」
「仮にも教会のシスターが、そんな神不信なこと言っていいのかよ?」
「ふふっ、確かにそうかもしれないわね」
アイの顔から先ほどまでの暗い不安が消え、いつもの温かな笑顔が戻っていた。
すると不意に、アイが歩み寄り、ポスんと俺の胸元に小さく頭を預けてきた。
ふわっと、優しい花の香りが鼻腔をくすぐる。
「……気をつけて行ってきてね、アルス」
突然の距離感に心臓が跳ね上がったが、俺は悟られないよう努めて冷静に、彼女の背中を優しく叩いた。
「……ああ。アイも、元気でな」
離れがたい空気の中、馬車の御者席に座っていた上品な女性――王都からの使いである御者が、丁寧な声で呼びかけてきた。
「アルス様、そろそろ出発の刻限でございます。お乗りください」
「あ、はい! すぐ行きます!」
俺はアイと家族に向き直り、大きく手を振った。
「みんな、行ってくるよ!」
「「「「行ってらっしゃい!」」」」
みんなの笑顔に見送られ、俺は後ろ髪を引かれる思いを抱えながら豪華な馬車へと乗り込んだ。
扉を閉めて座席に腰を下ろすと、向かい側に座っていたキースが、盛大に不機嫌な顔でこちらを睨みつけていた。
「遅いで、アホス」
開口一番、不満を隠そうともせずに吐き捨ててくる。
「大丈夫だキース、俺も今来たところだから!」
「……それ、待たされた側が言うセリフちゃうんか?」
「あれ? そうだっけ?」
キースの呆れ果てた視線を浴びていると、ゴゴゴと重い音を立てて北門が開かれた。
ゆっくりと馬車が動き出す。見慣れた生まれ故郷の街並みが、窓の外へとしだいに遠ざかっていった。