廊下へ出ると、宇宙艦艇特有の機械油と循環エアの冷たい匂いが鼻を突いた。
足音だけが静かに響く通路を歩きながら、シーマはパイロットスーツの襟元を少し緩める。
肩のあたりに重い鈍痛があった。あの赤い機体との交戦中、過度な高機動運動でGを受け続けたせいだろう。
(……相変わらず、嫌な戦いをさせるじゃないか)
ふと、自嘲気味な笑みが漏れた。
かつての「一年戦争」と呼ばれた地獄でも、自分たちは常に泥水をすするような撤退戦と補給不足に追われ続けていた。そしてこの未知の宙域に流されてなお、やることは何も変わっていない。
圧倒的な性能を誇る新鋭機相手に、弾薬を計算し、推進剤を惜しみ、修理部品のやりくりに頭を悩ませながら、泥臭く生きて帰る。
だが――決定的に違うものがひとつだけあった。
シーマは立ち止まり、格納庫を見下ろす窓の前で足を止める。
眼下では、照明の光を浴びて沈黙するガーベラ・テトラと、三機のゲルググMが並んでいた。
無傷の機体は一機もない。
ガーベラの左アームド・シールドは失われ、シュツルム・ブースターも損傷している。ゲルググも装甲を削られ、脚部やカメラを壊されていた。
整備兵たちが機体へ取りつき、焼けた配線を交換し、損傷した装甲を調べている。
それでも――帰ってきた。
「……上出来さ」
ガラスに映る己の鋭い瞳に向かって、シーマは低く呟いた。
「1発の弾丸、1リッターのプロペラント、あたしらの命も……そう簡単に捨ててたまるもんかい」
背後で、重い足音が近づいてきた。
振り向かなくても、その歩調で分かる。副官のデトローフだ。
「隊長。アークエンジェルから暗号通信です。……感謝の意と、今後の補給・合流ポイントに関する打診が届いています」
「ふん、律儀なこっちゃね。まあ、あっちもギリギリの綱渡りなんだ。助け合わなきゃ共倒れだからねぇ」
シーマは背を向けたまま、ヒラヒラと手を振ってみせた。
「ベッカーに言っておきな。今夜は手持ちの酒を解禁する。怪我人以外には、薄めたウイスキーでも一杯ずつ配ってやりな」
「……貴重な備蓄ですが?」
「生き残ったんだ。それくらいの景気付けがなきゃ、明日からのドロドロした修理作業なんてやってられないだろ?」
デトローフは一瞬呆れたように眉をひそめたが、すぐに口元をわずかに緩め、「了解しました」と深く頷いた。
「それと、デトローフ」
「はい」
「明日の朝イチで、あのPS装甲とかいう代物をどう料理するか、ベッカーと知恵を絞りな。次は……タダで逃がしてやる気はないからね」
シーマの目が細くなる。
「実弾は効かない。だが、衝撃そのものまで消してるわけじゃない」
「それに――」
シーマは先ほどの戦闘を思い出す。ビームサーベルを関節へ押し込んだ瞬間。
「関節は焼けた」
「……ええ」
「だったら、壊し方はあるってことさ」
シーマの口元がわずかに吊り上がる。
「次にあの連中とやる時は、もう少し楽に料理できるようにしときな」
「ハッ。了解」
デトローフが立ち去ろうとした瞬間、シーマは思い出したように呼び止めた。
「ああ、待ちなデトローフ」
「何でしょうか?」
「さっきの報告書……ブリッジと整備班の共有ファイルにも放り込んでおきな」
「……既に回してあります。それと、紙媒体の控えもブリッジのファイルに綴じておきました」
「手回しが良いこっちゃねぇ」
シーマはフッと口元を緩めると、デトローフが差し出してきた記録端末を受け取った。画面には、先ほど全機帰還の事実をもって承認したばかりの文書が、静かに光をたたえている。
戦闘報告書
件名: アークエンジェル周辺宙域における未知MS部隊との交戦
作成: デトローフ・コッセル
技術所見: ハロルド・ベッカー
最終確認: シーマ・ガラハウ
1.交戦概要
アークエンジェル周辺宙域において、ザフト所属と思われるMS部隊と交戦。
敵部隊は高性能MS四機を中心に、複数のジンを随伴。
当方はAGX-04 ガーベラ・テトラ一機、ゲルググM三機により迎撃。
交戦目的は敵部隊の撃破ではなく、アークエンジェルの離脱を支援すること。
敵部隊の進撃を阻止し、アークエンジェルが戦闘宙域から離脱する時間を確保した。
2.人的被害
死亡者なし。
負傷者複数。いずれも軽症
3.当方MS損傷状況
AGX-04 ガーベラ・テトラ
・左アームド・シールド喪失
・シュツルム・ブースター損傷
・左姿勢制御系損傷
・外装各部に被弾痕
・推進系に軽微な損傷
ゲルググM三機
・三機すべて損傷
・一号機:メインカメラ損傷
・二号機:右脚スラスター停止
・三号機:弾薬完全消費
・三機とも自力帰艦可能
4.敵MSについて
敵高性能MS四機は、既存MSとは異なる設計思想を持つと推定。
特に赤色MSについて、極めて高い実弾防御性能を確認。
110mm速射砲による複数回の直撃を受けたにもかかわらず、装甲表面に顕著な損傷を確認できず。
ただし、着弾時の衝撃は機体へ伝達されている。
また、装甲表面への損傷が認められない一方、ビーム兵器を関節部へ使用した際には内部機構への熱損傷を確認。
5.技術所見
敵装甲について、単純な高硬度装甲とは考えにくい。
実弾の衝撃を完全に打ち消しているわけではなく、装甲表面の損傷のみを抑制している可能性がある。
また、ビーム兵器による関節部への攻撃では内部機構の損傷を確認。
以上から、敵装甲には特殊な防御機構が存在する可能性が高い。
現時点では、その原理および材質を特定できない。
継続調査を推奨する。
6.戦術所見
敵MS四機は高い連携能力を有する。
単機での性能も高いが、特筆すべきは相互支援能力である。
一機が攻撃を行う際、別の機体が退路を制限し、さらに別の機体がその隙を狙うという戦術を確認。
正面からの撃破戦は推奨しない。
特に高速機であるガーベラ・テトラに対して、姿勢制御系を狙った攻撃が有効であった。
敵MSについても同様に、装甲そのものではなく、関節・推進系・センサー等の機能部位を狙うことを推奨する。
7.総括
本交戦における当方の目的は、敵部隊の撃滅ではない。
アークエンジェルの離脱時間を確保し、当方MS部隊を全機帰還させることであった。
人的被害は発生したものの、死亡者はなし。
全機帰還を達成したことをもって、本作戦は目的を達成したものと判断する。
【承認】シーマ・ガラハウ
「……『死亡者なし』、ねぇ」
端末の画面を消し、デトローフに返しつつ、シーマは再び格納庫を見つめた。
「何度読んでも、一番良い響きだよ」
「……ええ」
シーマは端末をデトローフへ返した。
「報告書はこれでいい。保管しときな」
「了解」
デトローフは端末を抱え直す。
「では、酒の件をベッカーへ」
「ああ。怪我人には飲ませるんじゃないよ」
「分かっています」
デトローフが通路の奥へ消えていく。
シーマは一人、キャットウォークに残った。
格納庫の向こう。小さな窓から見える暗い宇宙には、無数の星が浮かんでいる。リリー・マルレーンは、その中を静かに進んでいた。傷だらけの艦体を抱えたまま。それでも――止まらない。
背後では、相変わらず整備班の怒鳴り声が響いていた。
ガーベラも。
ゲルググも。
まだ戦える。
そして――人も残った。それだけでいい。
少なくとも今日のところは。
「……さて」
シーマは踵を返した。
「次は、あいつらにもう少し高くつけさせてもらおうかねぇ」
その声には、疲労の中にも確かな笑みが混じっていた。