北アフリカの熱砂を離れたシーマたちは、ジブラルタル海峡の狭隘な水域を滑るように抜け、深く蒼い大西洋の只中へと出ていた。
視界を遮るもののない広大な海原。そこに引き波の白い軌跡を描きながら、リリー・マルレーンが、黙々と進んでいく。
大気圏突入という死線を潜り抜けたとはいえ、艦隊の疲弊は限界に達していた。
重厚な装甲には無数の熱割れと摩擦傷が刻まれ、内部の配管や推進系からは、負荷に耐えかねた歪みの振動がブリッジの床底を通じて常時、伝わってくる。
湿り気を含んだ重い潮風が、錆と焼け焦げた油の匂いを艦内に運び込んでいた。
そして何より――。
「このまま海の上を走り続けるってのも、いつまでも続けられないねぇ」
リリー・マルレーンのブリッジ。
薄暗い照明の中、艦長席の深く沈み込むシートに身を預けたシーマは、低くかすれた声で呟いた。指先に挟んだ一本の煙草を唇にくわえ、ライターの小さな火を点ける。
立ち上る紫煙が、疲労の色を濃く残したシーマの横顔を揺らめかせた。
「その通りです」
副官のデトローフが、重々しく革の靴音を響かせて傍らに寄る。その瞳には、常に艦隊の生存率を弾き出し続ける軍人特有の硬質な焦燥が浮かんでいた。
「食料と飲料水については、先ほどの街で当面の分を確保できました。ですが、艦の根本的な修理と弾薬の補給には、まともな設備とまとまった時間が必要です」
「分かってるさ」
シーマは深く煙を吸い込み、吐き出した。煙はブリッジの排気口へ吸い込まれて消えていく。
「宇宙から落ちてきたあたしたちには、頼れる整備工場も、補給基地も……足を伸ばして寝られる床すらありやしない」
「しかも、巨大な軍艦です」
「そうさねぇ」
シーマの目が、卓上にホログラムで揺らめく海図へと落ちる。
「陸に上げれば、連合かザフトの衛星に一発で見つかる。だからといって海に浮かべたままじゃ、遠からず哨戒機の餌食になるか、機関がイかれてそのまま沈むかだ」
行き場のない焦燥が、ブリッジを満たす重低音のエンジン音に混じり込んでいく。シーマは唇の端を吊り上げ、苦い吐息をついた。
「そこで、ギガフロートですな」
デトローフが、海図の端に点滅するデータアイコンを顎で示した。
「ああ」
シーマの細い指先が、トントン、と海図上の座標を叩く。
「ロウから聞いた、あの巨大な浮島さね」
ギガフロート。
国家の枠組みに縛られない巨大人工浮遊施設であり、技術と物資、そしてアウトローたちが集うジャンク屋組合の海上拠点。
少なくとも、今のシーマたちが喉から手が出るほど欲している条件――巨大な船を繋ぎ止められる港湾、規格外のパーツでも強引に加工し直す技術、――それらが揃っているはずだった。
「本当に、我々のような異形かつ武装した艦隊を受け入れてくれるのでしょうか」
デトローフの問いには、僅かな疑念が混じっていた。
「さあねぇ」
シーマは背もたれに頭を預け、天井の鈍い光を見上げた。
「あたしたちだって、向こうの連中がどんなタマ揃いなのか知りやしない。いきなり押し掛けて『今日からここを使わせてもらうよ』なんてそんな馬鹿がどこにいるんだい」
「では、まずは慎重に接触と交渉を?」
「そういうことさ」
シーマは視線だけを動かし、通信席へ向けた。
「ロウに連絡を取るよ。あの調子のいい小僧なら、少しは顔が利くはずだ」
「了解!」
通信士の手元で、端末のキーが忙しなく弾かれる。
大西洋の分厚い大気を越え、短い雑音の後に、聞き慣れたけたたましい声がスピーカーから飛び出してきた。
『よう、シーマさん!』
「久しぶりだねぇ、ロウ」
『地球まで降りてきたって噂は聞いたぜ。大気圏突入を乗り切ったんだってな! 無事で何よりだ』
「おかげさんでね。死に損ないのしぶとさだけは一人前さ」
シーマは手元の灰皿へ煙草の火を押し付け、身を起こした。
「それでさ、ちょいと聞きたいことがあるんだよ」
『ギガフロートのことか?』
「話が早くて助かるねぇ」
『ああ。あそこなら、艦の修理やパーツ探しには困らねぇと思うぜ。地球の本拠地みたいなもんだからな』
「大型艦をまともに停められる場所はあるかい?」
『それなりの大型ドックはある。ただし……シーマさんたちのデカい艦をとなると、話は別だな。いきなりそんな艦が押し寄せたら、ギガフロートの防衛システムが作動しかねねぇ』
「だろうねぇ」
シーマは鼻で笑った。
『でも、あそこはジャンク屋の連中が集まってる場所だ。金になる仕事や、見たこともない面白い技術を持ち込む奴なら、無下には追い返さないと思う』
「面白い技術、ねぇ」
シーマの目が、すっと細くなった。己の艦隊が保持する「この世界に存在しない規格の技術」の価値を再計算する。
『シーマさんたちの乗ってる艦やMSなんて、あそこの研究バカや技師どもが見たら、目の色変えて大騒ぎになると思うぜ』
「そいつは勘弁してほしいねぇ。あたしたちは見世物小屋を開きに行くんじゃないんだ」
『だったら、見せ方と切り売りするネタを考えりゃいいのさ』
「……なるほどねぇ」
シーマは顎に手を当て、ほんの僅かに思考を巡らせた。
「ロウ。あたしたちがギガフロートを『安全な足場』として使えるよう、事前にならしの連絡を入れておいてもらえないかい?」
『いいぜ』
ロウの返事は拍子抜けするほど軽快だった。
『ただし、最終的な条件交渉はそっちで直接やってくれよ。俺が全部の責任を背負ってやるわけにはいかねぇからな』
「もちろんさね。誰かに自分の命を預ける趣味はないよ」
『なら問題ねぇ! ギガフロートの幹部連中に『でっかい掘り出し物を持った珍客が行く』って一言入れておく』
「助かるよ」
『それにしても、未確認艦か……』
通信の向こうで、ロウが少年のように屈託なく笑った。
『面白くなりそうだな!』
「面白がるのは勝手だけどねぇ」
シーマの口元が、歪んだ笑みを刻む。
「あたしたちは遊びに行くんじゃない。自分と部下どもが、明日も息を吸って生きるための場所を探しに行くだよ」
『……分かってるさ』
ロウの声から冗談めかした響きが消え、静かな重みが宿った。
『だったら、なおさらギガフロートは悪くない選択だと思うぜ。あそこは『行き場のない奴ら』が寄り集まって作った場所だからな』
ぷつりと通信が切れ、ブリッジに再びエンジンの重低音だけが響く静寂が戻った。
シーマはしばらくの間、海図の青い光を無言で見つめていた。その脳裏をよぎるのは、故郷を奪われ、宇宙を追われ、いままたこの未知の地球で漂泊する部下たちの顔だった。
やがて、彼女は息を深く吐き出し、ゆっくりと立ち上がった。
「ギガフロートへ向かうよ」
「了解しました」
デトローフが直立し、短く応える。
「ただし――」
シーマは背を向け、ブリッジの巨大な強化ガラス越しに広がる荒波を見据えた。
「あそこを『終の住処』だなんて、微塵も思っちゃいないよ」
「……はい」
「あたしたちが何者なのか。向こうがどんな化け物なのか。腹を探り合って上手くやれるのか……そもそも、異邦人のあたしたちをあの群れが受け入れてくれる保証なんてどこにもない」
シーマの背中に、長年死線を潜り抜けてきた者だけが纏う冷徹なリアルが宿っていた。
「そんなもん、行ってみなきゃ分からないさ」
そして、ふっと自嘲気味な笑みを吐き出す。
「だからこそ――まずは、この目で確かめに行くのさ」
デトローフが腹の底から声を張り上げた。
「針路、ギガフロート! 先行隊との連携準備に入れ!」
「了解! 面舵一杯、航路ギガフロート!」
艦橋内に伝令の呼応が次々と響き渡る。
旗艦リリー・マルレーンが巨大な車体を滑らせるようにして面舵を切り、波頭を砕いて進路を変えた。
かつて誰かに命じられた航路ではない。
帰る場所へ向かう航路でもない。
自分たちがこれから生きていくための場所を探す。
ただ、それだけのための航海だった。
その先に待つのは――ギガフロート。
果たしてそこが、自分たちの求める場所なのか。
それは、行ってみなければ分からない。
シーマは煙草を咥え直し、水平線の彼方を見つめた。
「……さて。どんな連中が待ってるかねぇ」
リリー・マルレーンは、ギガフロートへ向けて大西洋を進み続けた。