今日は、ザンジバル級の動力を焦って調べて命拾いしました。
深く蒼い大西洋を眼下に、リリー・マルレーンは一定の高度を保ちながら、重々しく進んでいた。
北アフリカの焦熱を脱したとはいえ、リリー・マルレーンの消耗はすでに限界に達していた。
大気圏突入時の壮絶な摩擦熱によって歪んだ外装甲には、無数の熱割れと塗料の焼け焦げが痛々しく残り、艦底を這う高圧配管からは断続的に逃げ場のない不快な微振動が響いてくる。メイン推進系の不調による出力低下、枯渇しかけた対空弾薬と補修パーツ、そして何より、宇宙漂流から絶え間なく死線を潜り抜けてきた乗員たちの疲労は、肉体も精神も擦り切れさせていた。
ブリッジ内の空気は、海上を飛ぶ艦特有の湿気と、焦げたオイルの匂い、そして緊張に満ちた静寂で重く沈んでいる。
「――司令! 前方視界に巨大な構造物を確認!」
航海士の鋭い叫びが、低く響くエンジン音を切り裂いた。
「なに……?」
副官のデトローフが即座に前傾姿勢になり、光学モニターへ視線を鋭く走らせる。
「ザフトの海上移動基地か!? あるいは連合の極秘ドックか……! 全艦、警戒態勢。砲塔は旋回準備だけ。まだ撃つんじゃないよ」
ブリッジ内が一瞬で殺気立ち、赤い警報灯が旋回し始めた。だが――。
遠方の水平線上に靄を突いて姿を現したのは、軍事要塞の無機質な無骨さとは明らかに異質な、常識を遥かに逸脱した超巨大人工浮遊施設であった。
幾重にも組み上げられた高層のモジュール構造体、無数に張り巡らされた巨大な滑走路とトラス構造のクレーン群、その全容を一目では捉えきれないほどの莫大な規模。それはまるで、鋼鉄とコンクリートで出来た一つの独立した都市そのものが、そのまま大海原に漂っているかのようだった。
「……なんだい、ありゃ」
艦長席に座っていたシーマは、咥えていた煙草を指先で止め、開いた口が塞がらないといった体で目を丸くした。
宇宙のコロニーや小惑星基地を見慣れたシーマたちの面々にとっても、この大気と重力に満ちた地球の海上に、これほど巨大な人工島が何食わぬ顔で浮いている光景は、あまりにも異様で圧倒的だった。
「これが……ロウの言っていた、ギガフロートか……」
デトローフが息を呑んだ。
「司令、相手方の艦船識別信号および自動防衛システムのレーダー波を検出! 本艦を完全にロックオンしています!」
即座に、ブリッジのスピーカーから耳をつんざく警告アラームが鳴り響いた。
『警告。未確認の大型艦に告げる。こちらは海上フリーポート・ギガフロート防衛管理局である。直ちに進行を停止し、機関を停止せよ。本警告に従わない場合、自衛戦闘行動へ移行する』
ギガフロート側にとっても、この事態は異常事態そのものだった。
現れたのは、これまでギガフロート側が確認したどの軍事勢力の艦艇とも一致しない、重装甲で塗り固められた無骨極まりない未確認軍艦。ザフトの新型艦か、連合の秘密兵器か、あるいは新手の海賊集団か――防衛局の緊張感は最高潮に達していた。
「砲塔を向けられた! 司令、迎撃の許可を!」
「馬鹿いうんじゃないよ!」
立ち上がりかけた砲雷長を、シーマの怒声が一閃した。
「砲塔はそのまま固定! 火器管制レーダーを全部切れ! 主砲一発、ミサイル一発たりとも動かすんじゃないよ!」
「司令!?」
「あたしたちは借りを作りに来たんだ! 喧嘩を売りに来たんじゃないよ!」
シーマは己の荒い息を整えるように煙草の紫煙を吐き出すと、通信士に向かって短く顎をしゃくった。
「回線を開きな。挨拶と洒落込もうじゃないか」
『繰り返す! 未確認艦、所属と目的を明らかにしろ!』
ノイズ混じりの通信に対し、シーマは艦長席から一歩踏み出し、凛とした冷徹な声を叩き込んだ。
「こちら旗艦リリー・マルレーン。どこの国家にも属さない武装艦さ。仕事を請け負って生きてる。見通しの通り艦は手負いでねぇ。艦艇の修理と物資の買い出し、それに安全な足場を求めて取引に来た。一応、ジャンク屋の協力業者として登録されてるはずだけどねぇ。IDも送っとくよ。――ついでに言えば、ジャンク屋のロウ・ギュールって小僧から話を聞いてね」
一瞬の静寂。ギガフロート側のオペレーターが戸惑う気配が通信越しに伝わる。
『……ジャンク屋組合の登録IDを確認。確かに有効です。』
『そして、ロウ・ギュールだと……? だが、国家に属さない傭兵が、なぜこれほどの大型艦を?――』
その言葉を遮るように、通信回線に別の割り込み音声が跳ね込んできた。甲高くて威勢の良い、聞き覚えのある少年の声だ。
『ああ、そいつらなら俺が話を通してる! シーマさんたちは敵じゃねぇよ!』
「ロウ……!」
クララが通信端末の画面を見つめて声を漏らす。
『シーマさん! やっぱり来たな! 話は通しといたが、あんたらがあんまり物騒な顔して押しかけるから向こうもビビってんだよ!』
「相変わらず口の減らない小僧だねぇ。助かったよ」
シーマはフッと唇の端を吊り上げた。
ロウの強烈な口添えがあったとはいえ、ギガフロート側も警戒を完全に解いたわけではなかった。短い協議ののち、再び防衛局の厳格な声が戻ってきた。
『……了解した。ジャンク屋組合の仲介を受け入れ、最低限の接触を許可する。ただし、武装解除までは要求しない。その代わり砲塔固定・火器管制停止。そして許可するといった手前なんだが、まずは代表者による事前交渉を行う。指定のドックへ移動せよ』
通信が途切れると、ブリッジに安堵と緊張が混ざり合った空気が漂った。
「よし……デトローフ。いきなり入港させるわけにはいかないよ。まずはあたしとクララだけで上陸する」
「なっ……!?」
デトローフが目を剥いて食ってかかった。
「危険すぎます、司令! 相手は正体不明の無法者が集う巨大浮島です! お一人で乗り込まれるなど――」
「一人じゃないさ、クララがいるだろ」
「そういう問題ではありません! 司令が行くのは理解します。しかしクララ一人では――」
「だから連れていくんだよ。あの子には、あたしがいるうちに見せておきたいものがあるんでねぇ。第一、軍隊を引き連れて『交渉です』なんて顔ができるかい」
シーマはデトローフの肩をポンと強く叩き、静かに首を振った。
「クララ。あたしの荷物持ち兼、護衛として来な」
「は、はい! 隊長!」
シーマはクララを見た。まだ若い。だからこそ、連れていく。
自分の背中を見せられるうちに、見せておくべきものがある。
ギガフロートの指定ドックへ降り立ったシーマとクララ。
一歩足を踏み入れた瞬間、クララは息を呑んでその光景に圧倒された。
頭上高く組み上げられた無数のコンテナの山。火花を散らして蠢く巨大な溶接アーム。見たこともない異形のジャンクMSや作業用マシンが蠢き、油と潮風、煙草とスパイスの匂いが混ざり合った濃密な熱気が空間を満たしている。
商人、技術者、傭兵、何処かの脱走兵らしき男たち――異なる肌の色や服を着た人間たちが、あちこちで叫び合い、不敵に笑い、巨大なクレーンの下を慌ただしく行き交っていた。
「……すごい。無法地帯なのに……一つの巨大な街として、生きている……」
クララが感嘆の声を漏らすと、シーマはポケットに手を突っ込み、横目で雑然とした人波を見つめながら低く笑った。
「そうさねぇ。国家も正義も関係ない。ここじゃ誰も彼も、自分の生きる居場所を、己の腕と金で買ってるのかもしれないねぇ」
二人は防衛局の重装兵に案内され、簡素だが頑丈なスチール製の管理応接室へと通された。
待ち構えていたのは、顔に深い傷を持つ老練なギガフロートの責任者だった。彼は卓上に肘をつき、シーマを鋭い眼光で見据えながら、淡々と条件を提示した。
「単刀直入にいこう、シーマ司令。我々が提示する条件は以下の通りだ。一つ、艦艇の係留場所および修理設備の貸与。二つ、必要な部品・食料・水の売買許可。――ただし、すべての費用は正規の金品または同等の物資で支払ってもらう」
「当然だねぇ。タダほど高いものはない」
「三つ、施設内での許可なき発砲、および武装の不当使用の厳禁。四つ、いかなる勢力の軍事活動も当施設内に持ち込ませないこと。五つ、問題を起こした場合は、艦隊ごと即刻退去、拒否すれば全防衛システムをもって排除する。……以上だ」
過剰な制限ではなく、互いの生存を守るための極めて現実的なルール。シーマは即答した。
「了解したよ。あたしたちも余計なドンパチで無駄死にする気はないんでね」
「話が早くて助かる」
責任者が頷き、書類を閉じようとした時、シーマが静かに問いかけた。
「――一つ、聞き忘れてたよ」
「なんだ?」
「あたしたちの『素性』について、どこまで根掘り葉掘り聞く気だい?」
一瞬の静寂。責任者は鼻でフッと笑い、背もたれに体を預けた。
「どこから来たかは聞かない。誰に追われているかも、今は聞かない。だが、ここで何をするつもりなのか。それだけは聞かせてもらう」
その返答を聞き、シーマは満足そうに目を細めた。
「なるほどねぇ。ジャンク屋ってのは、話が早くて助かるよ」
責任者が続ける。
「故に特別扱いもしない。まず、艦を中央修理ドックへ入港させる。そして艦の修理状況と支払いの履行を見極めた上で、修理を行う。……これでどうだ?」
「異存はないよ」
シーマは迷わずその提案を呑んだ。こうして、シーマたちのギガフロート滞在が段階的に決定した。
交渉が成立し、手続きの合間にクララは責任者の許可を得て、ギガフロート内部のMS整備区画へと足を運んでいた。
「な……なに、これ……」
クララは絶句した。
そこには、地球連合軍のジャンクパーツ、ザフトのジンやシグーの装甲板、さらにはどこで手に入れたかもわからない改造機体や独自のカスタムMSが、所狭しと組み上げられていた。整然とした軍事ドックとは違う、荒々しくも泥臭い技術者たちの執念が渦巻いている。
「へい、ねえちゃん。あんたらが乗ってきたあの紫のMS……ずいぶん古い構造をしてるな」
油塗れのツナギを着たベテラン整備士が、搬入されたゲルググのデータを端末で眺めながら、半ば呆れたように吐き捨てた。
「フレームの規格が見たことねぇな。配管も妙だ。……これ、本当にMSなのか?」
「なっ……!」
クララは思わず拳を握り締め、胸を張って言い返そうとした。
「古くなんかありません! この機体は――」
「古いんじゃないよ」
背後から静かな、だが重みのある声が響いた。振り返ると、シーマが煙草を咥えながら歩み寄ってきていた。
「あたしたちが、長く使ってきたってだけさ」
整備士がシーマの鋭い眼光に圧され、言葉を呑み込む。
シーマ艦隊のゲルググMの傷だらけの脚部に、そっと手を添えた。
装甲には無数の傷がある。何度も削られ、継ぎ足され、塗り直されてきた跡もある。
それは、この機体が生き残ってきた時間そのものだった。
コズミック・イラの世界の最新鋭機から見れば、それはただの「旧時代の遺物」に見えるかもしれない。だが、この機体にも、何人もの仲間が乗り、何度も戦場を生き抜いてきた。その傷も、歪みも、修理跡も、全部が自分たちの生きてきた時間だった。
「……悪かったな、艦長さんにお嬢さん」
整備士は頭をかき、表情を改めた。
「だがな、構造が単純で頑丈な分、直しやすいのは確かだ。……これなら直せるぜ。このパーツならうちの加工機で削り出せる。こっちのプラズマ溶接機を使えば、予定より数日は納期を短縮できるな」
作業員たちが次々とゲルググや艦艇の損傷箇所へ集まり、手際よく計測を始めていく。
整備士はゲルググMを見上げながら、首を捻った。
(古いっていうか質実剛健って感じだな…いや、そもそも設計思想が違うのか?)
「整備の詳細については、うちの整備士連中と話をして進めてとくれよ」
「あいよォ」
その時、シーマの通信機が鳴った。デトローフからの定期連絡だ。
『……司令、修理班から報告です。主要機関の損傷状況が判明しました。少なくとも航行能力の回復には、数日の作業が必要とのことです』
シーマは通信機を耳に当てたまま、賑やかな工廠の熱気を見つめ、しばし沈黙した。
軍の基地のような冷徹な規則もなく、ただ「生きるための技術と金」が循環するこの場所。
「……悪くないねぇ」
シーマの口から、小さく、だが確かな実感を込めた呟きが漏れた。
ただの一時的な避難場所ではない。自分たちがこの世界で泥を啜りながらも立ち直るための、確かな「足場」として、シーマは初めてギガフロートを現実的に評価したのだった。
夜――。
人工島の最外郭に位置する展望デッキ。湿った夜風が波音とともに吹き抜けていた。
シーマとクララは、ギガフロートの手すりに身を預け、真っ暗な大西洋の海原を見つめていた。
「隊長……」
クララが夜風に髪をなびかせながら、ぽつりと問いかけた。
「ここ……私たちの、新しい居場所になりそうですね」
シーマはすぐには答えない。懐から煙草を取り出し、小さな火を点ける。赤い小さな火種が、暗闇の中で静かにゆらめいた。
「……まだ分からないさ」
一拍置いたのち、シーマは紫煙を海へと吹き出した。
「あたしたちがここを『居場所』だと思えるかどうかは、これから決めることさね」
シーマは振り返り、背後に広がるギガフロートの不夜城のような明かりを見上げた。
絶え間なく響く機械音、遠くの酒場の喧騒、生きるために汗と油に塗れる人間たちの気配。
「……だがね」
シーマの口元に、ほんの僅かだけ柔らかな笑みが浮かんだ。
「ここには……自分たちと似たような、生き場所を追い出された泥臭い連中が山ほどいる」
帰るべき故郷もなく、大義名分もなく、それでも明日を生きるために必死にしがみつく人々。その姿は、漂泊の果てにここに辿り着いたシーマたちそのものだった。
「少しくらい、休ませてもらおうかね」
夜風に舞う煙草の煙とともに、シーマの言葉が静かな海へと溶けていく。
漆黒の大西洋の上で、巨大な人工島は今夜も不夜城の光を放ち続けていた。