いっそ閑話にしようかとも思ったんですが、必要なことだよなぁと思い、本編としたいと思います。
今回もよろしくお願いします。
ギガフロートの仮設居住区。その一角にある簡素な部屋は、夜の静寂に満たされていた。
シーマはベッドから起き上がり、無音の足取りで窓辺へと歩み寄った。
開け放たれた窓の向こうには、夜の黒に塗りつぶされた大海原が広がっている。潮の匂いと、絶え間なく打ち寄せる重々しい波音。コズミック・イラの世界ではごく当たり前の、ありふれた海の光景だった。
シーマにとって、海そのものはどうでもいいことだった。
だが――部屋の隅の空調口から流れてくる、湿った消毒薬の微かな匂い。
壁の配管を伝って響く、鈍い排水音と一定の周期で刻まれる低い機械音。
昼間に歩いた、どこへ続くとも知れぬ無機質な閉鎖通路。
……鼻につく薬品臭。
一瞬だけ、あの頃の空気が戻ってきた。
あの閉ざされた密室。突然鳴り響いた警報。充満する白い霧。
マハル。
毒ガス。
そして――コックピットの中で、誰にも届かない懺悔を繰り返した時間。
マハルの情景を今さら事細かに思い出す気などない。だが、脳が忘れても、身体が忘れるのを許さない。肌にへばりついて離れない冷たい拒絶反応。それだけが、消えぬ傷として今も身体の奥底に燻っていた。
シーマは慣れた手つきで窓を大きく押し開けた。
夜の湿った潮風を、胸の奥深くまで吸い込む。冷たい風が肺を満たし、鼻腔にへばりついていた過去の匂いを追い払っていく。
「……馬鹿馬鹿しいねぇ」
呟きは、波音に消えた。
もうとっくに終わったことだ。そう己に言い聞かせる。
その時、背後のノックもなくドアがわずかに開き、静かな足音が聞こえた。デトローフだった。
「……まだ起きておられたのですか?」
デトローフは、暗がりの中でタバコもつけずに佇むシーマの背中へ、低く声をかけた。
シーマは振り向きもせず、いつもの口調に一瞬で切り替えた。
「あたしが寝坊したら艦隊が沈むだろ?」
デトローフはそれ以上、何も聞かなかった。深追いもしない。シーマが見せたくない暗がりには、絶対に足を踏み入れない。
「……そうですか」
それだけ言うと、デトローフはドアを閉じて去っていった。
翌朝。
陽光がギガフロートの巨大な構造物を照らし出すと同時に、昨日までの静けさは嘘のように吹き飛んでいた。
「……なんだい、このパン」
食堂のテーブルで、シーマは目の前の皿に載った褐色の塊を指先でつつきながら、露骨に顔を顰めた。
隣に座ったクララが、温かいスープを啜りながら答える。
「ギガフロート名物らしいですよ」
「硬いねぇ」
カツン、とフォークの背で叩くと、まるで木切れのような乾いた音が響いた。シーマが文句を言いながらもそれを口へ運ぶのを見て、クララがフッと微笑む。
「司令、昨日の夜より元気ですね」
「あたしはいつだって元気さ」
呆れ顔で吐き捨てるシーマの前に、油と煤に汚れたツナギを着たベッカーがドカリと腰を下ろした。
「そのパン、俺が焼いた」
シーマの手がぴたりと止まる。
「…………」
「どうだ?」
じっと感想を待つベッカーに対し、シーマは一秒の躊躇もなく言い放った。
「硬い」
「二回言うな」
ベッカーが不機嫌そうに鼻を鳴らす。
そこへ、向かいの席に座っていたデトローフが、ギガフロートの現地仕様だという怪しい黒い液体――C.E.式のコーヒーを一口啜った。
「…………」
数秒の沈黙。
デトローフはカップを静かに置いた。
「……これは、コーヒーと呼んでよい代物なのでしょうか」
シーマが横目で見る。
「あんた、それ昨日も言ってなかったかい?」
「昨日より酷いですな」
「淹れ方が悪いんじゃないのかい?」
「いえ。これは豆そのものに問題があるように思えます」
「豆が腐ってんのかねぇ」
「あるいは、最初からそういう豆なのかもしれません」
頭を抱えるデトローフを無視して、ベッカーが懐から伝票の山を取り出し、シーマの目の前へ叩きつけた。
「司令。買い出しの精算だ」
シーマは眉間によった皺を深めながら、そこに書かれた数値を追った。熱で膨らんだ数字を見て、シーマは一瞬で目を剥いた。
「何で工具だけでこんな金額になるんだい!?」
「必要経費だ」
開き直るベッカーに、シーマは伝票を指先で激しく叩いた。
「昨日も必要経費って言ってなかったかい!?」
「昨日のは昨日の必要経費だ」
「……あんた、あたしの財布を潰す気かい!?」
「整備ができねえで艦が落ちるよりマシだろ」
「言い訳だけは一人前だねぇ、この大バカ野郎は!」
朝から怒号と愚痴と悲鳴が飛び交う食堂。
昨夜の静けさや、過去の傷痕に浸っていた鬱屈とした空気など、微塵も残っていない。
呆れ返るデトローフ、伝票を奪い返そうとするベッカー、そして卓を叩いて怒鳴り散らすシーマ。
そのやり取りを横で見ていたクララは、小さく吹き出すと、何気ない様子でシーマに言った。
「でも、昨日より顔色いいですね」
シーマは怒鳴り散らしていた口を急に閉じ、眉をひそめた。
「……そうかい?」
「はい。やっぱり元気な方が司令らしいです」
クララが真っ直ぐな瞳で微笑みかける。
シーマは一瞬だけ呆けたようにクララを見つめ、それからフッと鼻で笑うと、少しだけ視線を逸らした。
「……なら、あんたのおかげかもねぇ」
「え?」
不意を突かれたクララが目を丸くする。
シーマはすぐにいつもの意地悪そうな笑みを浮かべ、顎で皿をしゃくってみせた。
「何でもないよ。ほら、飯食いな。硬いパンが冷めちまうだろ」
「冷めても硬いですけどね」
クララがクスクスと笑い、ベッカーが不機嫌そうに咀嚼音を立て、デトローフがまずいコーヒーに静かに苦悶する。
いつもの、やかましくも泥臭い日常。
シーマは硬いパンをもう一口噛み締めた。
昨夜のことは、まだ身体のどこかに残っている。
それでも――
日は昇る。
そして朝飯は食わなきゃならない。
「……硬いねぇ」
誰にともなく呟く。
「だから言っただろ」
ベッカーが鼻を鳴らす。
シーマは思わず笑った。