朱き蜉蝣の残光   作:ゆのじさん

23 / 25
今回の話結構難産でした。
いっそ閑話にしようかとも思ったんですが、必要なことだよなぁと思い、本編としたいと思います。
今回もよろしくお願いします。


第20話

ギガフロートの仮設居住区。その一角にある簡素な部屋は、夜の静寂に満たされていた。

 

シーマはベッドから起き上がり、無音の足取りで窓辺へと歩み寄った。

 

開け放たれた窓の向こうには、夜の黒に塗りつぶされた大海原が広がっている。潮の匂いと、絶え間なく打ち寄せる重々しい波音。コズミック・イラの世界ではごく当たり前の、ありふれた海の光景だった。

 

シーマにとって、海そのものはどうでもいいことだった。

 

だが――部屋の隅の空調口から流れてくる、湿った消毒薬の微かな匂い。

 

壁の配管を伝って響く、鈍い排水音と一定の周期で刻まれる低い機械音。

 

昼間に歩いた、どこへ続くとも知れぬ無機質な閉鎖通路。

 

……鼻につく薬品臭。

 

一瞬だけ、あの頃の空気が戻ってきた。

 

あの閉ざされた密室。突然鳴り響いた警報。充満する白い霧。

 

マハル。

 

毒ガス。

 

そして――コックピットの中で、誰にも届かない懺悔を繰り返した時間。

 

マハルの情景を今さら事細かに思い出す気などない。だが、脳が忘れても、身体が忘れるのを許さない。肌にへばりついて離れない冷たい拒絶反応。それだけが、消えぬ傷として今も身体の奥底に燻っていた。

 

シーマは慣れた手つきで窓を大きく押し開けた。

 

夜の湿った潮風を、胸の奥深くまで吸い込む。冷たい風が肺を満たし、鼻腔にへばりついていた過去の匂いを追い払っていく。

 

「……馬鹿馬鹿しいねぇ」

 

呟きは、波音に消えた。

 

もうとっくに終わったことだ。そう己に言い聞かせる。

 

その時、背後のノックもなくドアがわずかに開き、静かな足音が聞こえた。デトローフだった。

 

「……まだ起きておられたのですか?」

 

デトローフは、暗がりの中でタバコもつけずに佇むシーマの背中へ、低く声をかけた。

 

シーマは振り向きもせず、いつもの口調に一瞬で切り替えた。

 

「あたしが寝坊したら艦隊が沈むだろ?」

 

デトローフはそれ以上、何も聞かなかった。深追いもしない。シーマが見せたくない暗がりには、絶対に足を踏み入れない。

 

「……そうですか」

 

それだけ言うと、デトローフはドアを閉じて去っていった。

 

翌朝。

 

陽光がギガフロートの巨大な構造物を照らし出すと同時に、昨日までの静けさは嘘のように吹き飛んでいた。

 

「……なんだい、このパン」

 

食堂のテーブルで、シーマは目の前の皿に載った褐色の塊を指先でつつきながら、露骨に顔を顰めた。

 

隣に座ったクララが、温かいスープを啜りながら答える。

 

「ギガフロート名物らしいですよ」

 

「硬いねぇ」

 

カツン、とフォークの背で叩くと、まるで木切れのような乾いた音が響いた。シーマが文句を言いながらもそれを口へ運ぶのを見て、クララがフッと微笑む。

 

「司令、昨日の夜より元気ですね」

 

「あたしはいつだって元気さ」

 

呆れ顔で吐き捨てるシーマの前に、油と煤に汚れたツナギを着たベッカーがドカリと腰を下ろした。

 

「そのパン、俺が焼いた」

 

シーマの手がぴたりと止まる。

 

「…………」

 

「どうだ?」

 

じっと感想を待つベッカーに対し、シーマは一秒の躊躇もなく言い放った。

 

「硬い」

 

「二回言うな」

 

ベッカーが不機嫌そうに鼻を鳴らす。

 

そこへ、向かいの席に座っていたデトローフが、ギガフロートの現地仕様だという怪しい黒い液体――C.E.式のコーヒーを一口啜った。

 

「…………」

 

数秒の沈黙。

 

デトローフはカップを静かに置いた。

 

「……これは、コーヒーと呼んでよい代物なのでしょうか」

 

シーマが横目で見る。

 

「あんた、それ昨日も言ってなかったかい?」

 

「昨日より酷いですな」

 

「淹れ方が悪いんじゃないのかい?」

 

「いえ。これは豆そのものに問題があるように思えます」

 

「豆が腐ってんのかねぇ」

 

「あるいは、最初からそういう豆なのかもしれません」

 

頭を抱えるデトローフを無視して、ベッカーが懐から伝票の山を取り出し、シーマの目の前へ叩きつけた。

 

「司令。買い出しの精算だ」

 

シーマは眉間によった皺を深めながら、そこに書かれた数値を追った。熱で膨らんだ数字を見て、シーマは一瞬で目を剥いた。

 

「何で工具だけでこんな金額になるんだい!?」

 

「必要経費だ」

 

開き直るベッカーに、シーマは伝票を指先で激しく叩いた。

 

「昨日も必要経費って言ってなかったかい!?」

 

「昨日のは昨日の必要経費だ」

 

「……あんた、あたしの財布を潰す気かい!?」

 

「整備ができねえで艦が落ちるよりマシだろ」

 

「言い訳だけは一人前だねぇ、この大バカ野郎は!」

 

朝から怒号と愚痴と悲鳴が飛び交う食堂。

 

昨夜の静けさや、過去の傷痕に浸っていた鬱屈とした空気など、微塵も残っていない。

 

呆れ返るデトローフ、伝票を奪い返そうとするベッカー、そして卓を叩いて怒鳴り散らすシーマ。

 

そのやり取りを横で見ていたクララは、小さく吹き出すと、何気ない様子でシーマに言った。

 

「でも、昨日より顔色いいですね」

 

シーマは怒鳴り散らしていた口を急に閉じ、眉をひそめた。

 

「……そうかい?」

 

「はい。やっぱり元気な方が司令らしいです」

 

クララが真っ直ぐな瞳で微笑みかける。

 

シーマは一瞬だけ呆けたようにクララを見つめ、それからフッと鼻で笑うと、少しだけ視線を逸らした。

 

「……なら、あんたのおかげかもねぇ」

 

「え?」

 

不意を突かれたクララが目を丸くする。

 

シーマはすぐにいつもの意地悪そうな笑みを浮かべ、顎で皿をしゃくってみせた。

 

「何でもないよ。ほら、飯食いな。硬いパンが冷めちまうだろ」

 

「冷めても硬いですけどね」

 

クララがクスクスと笑い、ベッカーが不機嫌そうに咀嚼音を立て、デトローフがまずいコーヒーに静かに苦悶する。

 

いつもの、やかましくも泥臭い日常。

 

シーマは硬いパンをもう一口噛み締めた。

 

昨夜のことは、まだ身体のどこかに残っている。

 

それでも――

 

日は昇る。

 

そして朝飯は食わなきゃならない。

 

「……硬いねぇ」

 

誰にともなく呟く。

 

「だから言っただろ」

 

ベッカーが鼻を鳴らす。

 

シーマは思わず笑った。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。