今回もよろしくお願いします。
キラがリリー・マルレーンの食堂へ足を踏み入れるようになったのは、艦内でのリハビリが許可されてからのことだった。
当初、艦内を歩くキラに、叩き上げの兵士たちは遠巻きな視線を向けていた。
地球連合軍の元パイロット。
そして、あの最新鋭機フリーダムを預かる存在。
荒くれ者の集まりであるシーマ艦隊の乗組員にとっても、その肩書はあまりに異質であり、どう接していいものか誰もが掴みあぐねていた。
だが、どれほど戦いの中で牙を剥こうとも、宙を漂う鉄の箱の中では誰もが等しく胃袋を満たさねば生きていけない。
数日も経つと、冷ややかだった空気は少しずつ、だが確実に変わっていった。
「おい、キラ。そこ空いてるぞ」
不意に投げかけられた無骨な声に、キラは顔を上げた。
「……ありがとうございます」
トレイを置いて慎重に腰を下ろすキラの向かいで、パイロットのひとりが眉をひそめて皿を覗き込む。
「お前、食う量少なくないか? 骨と皮ばかりになっちまうぞ」
「……これでも増えた方なんです。まだ、病み上がりなんで」
「ああ、そういやそうだったな。あんだけのドタバタを生き残ってきたんだ、無理もねぇか」
会話の端々に上るのは、生き殺しの戦場の悲惨さではない。
合成スープの妙な味付けや、居住区の空調の気まぐれさ、あるいは日々の過酷な訓練に対する軽口や愚痴といった、他愛もない日常の一片だった。
そうした言葉を交わすうち、キラの心の中にあった頑なな警戒心は溶けていく。
彼は少しずつ、シーマ艦隊という存在を冷徹な「軍隊」としてではなく、懸命に今日を生きる「人間の集まり」として認識し始めていた。
ある日の午後、静まり返った食堂で、シーマがひとりカップを手に深煎りの香りを漂わせていた。
一歩踏み込んだキラは、鼻腔をくすぐる濃厚な芳香に足を止める。
「……それ、苦くないんですか?」
煙草の代わりにグラスを傾けていたシーマは、細めた目をキラに向けた。
「マンデリンだよ。香ばしい香りと独特の癖と苦味が強くてねぇ……一口飲んでみるかい?」
「……いただきます」
差し出された小ぶりなカップを受け取り、おずおずと口をつけた瞬間、キラの表情が派手に歪んだ。
「……っ、苦い……です」
「ハッ、当たり前だろう。大人の飲み物さね」
シーマは喉を鳴らして楽しそうに笑った。
こうした気取らない息抜きや、何気ない日常のくだらないやり取りこそが、今のキラにとって何よりも必要な毒消しだった。
硝煙と叫び声に満ちた戦場を離れ、温かい食卓と人間らしい温もりに触れる時間。
それは、戦争という狂気の中で奪われ続けていた彼の「普通の感覚」を、少しずつ手元へと取り戻させていく貴重な時間となっていた。
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リリー・マルレーンの格納庫には、常に金属の打撃音と溶接の火花が飛び交っていた。
リハビリ訓練を終えたキラは、決められたように医療区画へ戻るルートを外れ、吸い寄せられるようにこの活気ある現場へと足を向けるようになる。
ただし、彼らが回収し保管しているフリーダムの格納ブロックにだけは、決して足を踏み入れようとはしなかった。
キラ自身、あの機体が持つ圧倒的な力と破壊の意味を誰よりも理解しているからこそ、そこには明確な一線を引いていた。
「フリーダムのことは、僕がやります」
そう告げたキラに対し、シーマ艦隊側も余計な口出しはしなかった。
あの機体に触れるのはキラ自身。
その領分に、彼らが踏み込むこともない。
逆にキラも、シーマ艦隊のMSを勝手に弄ることはしなかった。
「これ、見てもいいですか?」
「構わねぇが、触るなら持ち主に一声かけろ」
「はい」
それが、いつの間にか艦隊内での暗黙の了解になっていた。
その代わり、彼の純粋な好奇心を刺激したのは、この艦隊で運用されている異世界の兵器群だった。
真紅の曲線を纏うガーベラ・テトラ。
重厚な装甲と無骨なフレームを持つゲルググM。
どれもがキラの知るCEの技術体系とは根本から異なる、独自の構造と思想によって構築されたMSだった。
分解されたゲルググMの脚部フレームと向き合っていた技師長のベッカーが、背後に立つキラに気づいて声を張り上げる。
「CEのMSとは、制御系からして根本的に別物だ。お前さんみたいな専門のパイロットが見ると、どう映るんだ?」
キラはベッカーから手渡された情報端末を受け取り、流れるコードと数値を食い入るように見つめた。
「……ここ、入力補正が二重になっちゃってます」
「なんだと?」
「操縦者の入力を一度フレーム側で補正して、それを姿勢制御のOS側でもう一度再計算してます。この世界の技術と組み合わせて運用した時、操作に対してほんのわずかに追従の遅延が出るかもしれません」
ベッカーは端末の画面に顔を近づけ、提示された数値を食い入るように凝視した。
「……おい、お前さんは確か、ベッドから起きたばかりの重病人じゃなかったか?」
「はい、病み上がりです」
「なんで整備士の俺よりシステムに詳しいんだよ!」
専門的な指摘を即座に叩き出されたベッカーの困惑に、キラは困ったように苦笑した。
「昔から、こういうプログラムを触るのが好きだったので」
その日を境に、キラが整備班の作業スペースに顔を出す頻度は爆発的に跳ね上がった。
「キラ坊! こっちの出力ログの整合性を確認してくれ!」
「はい、すぐ行きます!」
「このゲルググ、右脚のスラスター反応だけ妙に引っかかるんだよ!」
「ちょっと待ってください……あ、これプログラムのバグじゃないです。センサーの物理的な接触不良かもしれません」
「根拠は?」
「このログです。入力値が一瞬だけ飛んでます。OS側で補正されてるから表面上は正常に見えるけど……」
ベッカーが端末を奪うように覗き込む。
「……なるほどな」
「コネクタを確認してみた方がいいと思います」
「よし。お前ら、配線引っ張り出せ!」
専門知識と驚異的な処理能力を発揮しながらも、決して威張ることのない素直な少年に、職人気質の整備班員たちは瞬く間に魅了されていった。
その評判は、やがて整備班の外にも広がっていった。
訓練から戻ったゲルググMのパイロットが、機体から降りるなりキラへと駆け寄ってきた。
「おい、キラ! さっき教えてくれたOSの調整、マジで抜群だったぞ!」
キラは作業を止め、嬉しそうに微笑んだ。
「本当ですか? 旋回時の慣性殺しを少しだけ滑らかになるよう、OSのパラメータ数値を書き換えてみたんです」
「おかげで旋回速度が段違いだ! 次の出撃じゃ背後は絶対に取らせねぇよ」
「はは、でもあんまり無理な機動をしすぎないでくださいね。関節駆動部の消耗が早くなっちゃいますから」
パイロットたちが、自分たちの機体についてキラに意見を求めるようになった姿に、最初は疑わし気にキラのチェックを行っていたベッカーも大口を開けて笑う。
もはや誰も、彼を「よそ者のパイロット」として見る者はいなかった。
パイロットの癖や好みを聞き取り、整備士たちと一緒に操縦性を詰めていくキラは、現場の誰もから引っ張りだこの存在となっていた。
「そういやキラ坊、飯は食ったのか?」
「あ、まだです……」
「バカ野郎、じゃあ先に食堂行って腹になんか詰め込んでこい!」
「でも、このメインバッファの調整を終わらせないと――」
「作業より飯が先だ! 病人に倒れられたら俺たちが司令に怒られるんだよ!」
「一緒に行くぞ!さっきヴァルター隊長も向かってたから、まだ何か残ってるだろ」
「……はい。ベッカーさん、食事してきます」
「おう。いってこい」
艦内にやってきた当初、誰もが彼を「連合のパイロット」として遠巻きに見ていた。
次には、絶大な戦力を秘めた「フリーダムのパイロット」として警戒交じりに接していた。
そしていつの間にか、その複雑な肩書はすべて剥がれ落ち、彼はただの「手伝いのキラ坊」としてこの艦に溶け込んでいた。
もはやベッカーに至っては、彼を自分の腕のいい一番弟子のように扱い、誇らしげに呼びつける始末だった。
「おーい、キラ坊!」
「はい!」
「ちょっとこの配管押さえててくれ! 締め込むぞ!」
「分かりました!」
ヴァルターでさえ、
「キラ君。この間、調整してもらった姿勢制御系なんだが、参考として部隊でもパラメータを共有したい。データはあるか?」
「こっちにまとめてあります」
キラが端末を差し出す。
ヴァルターは画面に目を通し、静かに頷いた。
「……本当に仕事が速い」
しばらくデータを確認してから、何気ない調子で続ける。
「どうだ。うちに来ないか?」
「え?」
「好待遇で迎えるよう、私から司令に掛け合ってみよう」
「あはは……」
キラは困ったように笑った。
「ありがとうございます。でも、僕は……」
「分かっている。冗談だ」
ヴァルターはそう言って、ほんの僅かに口元を緩めた。
「だが、君のような人間がいてくれると、我々も本当に助かる」
「……はい。ありがとうございます」
キャットウォークの上から、声がかかる。
「ヴァルター。お前さん、随分と大胆な勧誘をするようになったねぇ」
「優秀な人材を確保するのは、隊長の仕事であると愚考します」
「あたしに相談もなしにかい?」
「今、相談しました」
「……屁理屈を覚えたねぇ」
シーマは手すりに肘を預け、汗をぬぐいながら整備作業を手伝う少年の姿を、煙草の煙越しにじっと見つめていた。
「……まったく」
シーマは小さく鼻を鳴らした。
「いつの間に、あんなに馴染んだんだかねぇ」
傍らに立つ副官のデトローフが、苦笑しながらやれやれといった風に肩をすくめた。
「ベッカーなど、完全に自慢の弟子扱いです。作業の効率が段違いだと喜んでおりました」
「フン。いいじゃないかい」
シーマは煙草を取り出しかけて、ふと思い直したように箱へ戻した。
「……ああやって笑ってる方が、あの坊やには似合ってるよ」
それだけ言うと、シーマは踵を返した。
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リリー・マルレーンの艦内を巡る日常は、鉄とオイル、そして生活の匂いに満ちていた。
リハビリを終えたキラの生活領域は、医療区画から食堂、シャワー室、MSデッキ、さらにはブリッジへと少しずつ広がっていく。
出撃も戦闘もない静かな非番の日、狭いシャワー室で湯気を浴びながら、隣のブースから叩き上げの兵士が声をかけてくる。
「キラ、今日の訓練どうだった?」
壁越しに投げかけられた軽い問いかけに、キラは頭の泡を洗い流しながら苦笑した。
「今日の模擬戦、シーマさんにまた負けました」
一拍置いて、少し悔しそうに付け加える。
「……『撃墜判定』じゃなくて『戦場離脱判定』で……」
「そりゃそうだろ」
「……即答ですか」
「司令だぞ? 実戦で修羅場くぐってきた場数が違うんだ、ハハッ!」
そんな他愛もない軽口を交わせる程度には、キラと乗組員たちの間にあった壁も、いつしか低くなっていた。
食堂での賑やかな昼食を終え、当直の合間や整備作業の休止時間になると、キラは自然と整備班やパイロットたちの会話に混じるようになった。
艦内の雑談で上るのは、過酷な軍務の話などではなく、合成肉の妙な歯ごたえや、居住区の空調の気まぐれさといったくだらない文句ばかりだった。
時にはデトローフに誘われ、艦隊の航行記録の整理を手伝うためにブリッジの見学を兼ねて足を踏み入れることもあった。
整然と並ぶ航路データを見つめるキラに、デトローフは静かに語りかける。
「皆、MSばかり見るがね。艦は勝手には動かない。燃料、食料、水、弾薬。誰かが計算して回ってるんだ」
「……はい。皆さん、すごく真面目に生きているんだなって思います」
デトローフは目をわずかに和ませ、小さくうなずいた。
気が付けばキラは、暇さえあればMSデッキへ顔を出すようになっていた。
技師長のベッカーや整備班の面々に混じり、汗をぬぐいながらゲラゲラと笑い合い、工具を手にMSのフレームへ潜り込む。
パイロットたちも自分の機体の操縦性やスラスターの反応についてキラに相談に訪れ、「博士」といじりながらも全幅の信頼を寄せていた。
そんなある日の午後、静まり返った食堂でシーマがひとりコーヒーを飲んでいた。
漂う深煎りの香りに気づいたキラに、シーマは気取らない態度でマンデリンの入ったカップを差し出す。
一口飲んで派手に顔をしかめるキラを見て、シーマは喉を鳴らして笑った。
「大人ぶるには、まだ早かったかい?」
「……まだ苦いです」
「そうだろうねぇ」
シーマは楽しそうに笑った。
「無理して飲むもんじゃないさ。あたしの好みと、あんたの好みは違うんだからねぇ」
「でも、もう一口だけ」
「好きにしな」
シーマはそれ以上何も言わず、再び自分のカップへ口をつけた。
彼女はキラを、病院の患者としても、地球連合軍の元パイロットとしても、あるいはフリーダムという絶大な兵器の所有者としても扱わない。
ただ艦内に居合わせた、ひとりの生意気で素直な若者として普通に接していた。
そしてキラ自身もまた、意識の変化を感じていた。
最初は、自分を助けてくれた人たちだった。
今では、食事を共にし、整備の手を借り、何気ない言葉を交わす人たちになっている。
それが何を意味するのか、キラ自身にもまだ上手く言葉にはできなかった。
ただ――
この艦にいる間だけは、少しだけ肩の力を抜いていられる。
それだけは、確かなことだった。