プラントを離れて数日。
宇宙の暗闇に、一機の白い異形が浮かんでいた。
フリーダム。
最新鋭の核エンジンと、ストライクとは比較にならないほどの高出力を備えた、まさに桁外れの性能を持つMSだった。
だが、そのパイロットであるキラ自身は、まだこの機体を完全には理解し切れていなかった。
高い推力。
複雑な多重ロックオンシステム。
多数の火器を同時に扱うための高度な火器管制。
そのすべてを、キラは短期間のうちに身につけなければならなかった。
そして問題は、機体の性能だけではなかった。
フリーダムの性能を限界まで引き出せば、それだけパイロットにかかる負担も大きくなる。
ストライクとは違う。
同じ感覚で操縦すれば、機体の圧倒的な過渡レスポンスに身体が追いつかなくなる可能性があった。
ましてキラには、軍人としての正規の訓練がほとんどなかった。
それを最初に指摘したのは、シーマだった。
リリー・マルレーンのブリッジ。
フリーダムの戦闘記録を眺めながら、シーマは胸の前で腕を組んでいた。
「……あの坊や、よく考えりゃ妙なんだよねぇ」
隣に立つ副官デトローフが顔を向ける。
「キラのことですか?」
「ああ」
シーマはモニターに表示された白い機体の姿を睨みつける。
「ストライクに乗ってた頃から思ってたんだけどねぇ」
煙草を咥え、ライターの火を点ける。
「……坊や、あんた、正規の軍事訓練なんて受けてないだろ?」
傍らでフリーダムのマニュアルを確認していたキラは、その言葉に困ったような顔を向けた。
「……はい」
「やっぱりかい」
シーマは苦笑した。
「動かせる」
「撃てる」
「しかも、とんでもなく上手い」
「だがねぇ……軍人が身につけるはずの基本が、ところどころ抜けてるんだよ」
「基本……ですか?」
「ああ」
シーマは指を折っていく。
「推進剤の管理」
「交戦距離」
「僚機との位置関係」
「撤退経路の確保」
「味方を孤立させないこと」
「敵を追うべきか、逃げるべきかの判断」
そこで一度、言葉を切る。
「何より――勝てるからって、戦っていいわけじゃないのさ」
キラは言葉を失い、静かに耳を傾けた。
「ストライクの頃から、あんたは機体の性能と自分の腕だけで戦場を切り抜けてきた」
「……」
「それで生き残ってきたんだから、文句を言うつもりはないさ」
シーマの鋭い目がさらに細くなる。
「だが、フリーダムは別だ」
キラが顔を上げた。
「この機体は、あんたの今までの戦い方をそのまま拡大して使うような代物じゃない」
「性能が高すぎる」
シーマは爪でモニターを突いた。
「だから一度、こいつを相手にしてみたいのさ」
「……僕を、ですか?」
「そうさ」
シーマはあっさり答えた。
「最新鋭機を直接相手にする機会なんて、そうそう転がってないからねぇ」
デトローフが重々しく頷く。
「確かに、我々にとっても得るものは大きいでしょうな」
「ああ」
シーマは紫煙を吐き出した。
「CEの最新鋭機が、どんな速度で動くのか」
「どれだけの距離から撃ってくるのか」
「どういう機動をするのか」
「そして、そんな機体を操るパイロットが、どう動くのか」
それは単なる訓練ではなかった。
シーマ艦隊にとっても、未知の戦場を生き抜くための情報収集だった。
これから先、彼らがこの世界で生きていく以上、同じような高性能MSと遭遇する可能性は決して低くない。
むしろ、今まで以上に高性能な機体と戦うことになる可能性すらある。
ならば――。
「一度、実際に手合わせをしておけばいい。もちろん実弾は無しで」
シーマは静かに言葉を続けた。
「フリーダムがどれだけ速くても、どういう動きをするか分かっていれば、次に似たような化け物と出くわした時の生存率は上がる」
「……なるほど」
デトローフが納得の声を漏らす。
シーマはそこで、少しだけ口元を緩めた。
「それにねぇ」
「はい?」
「坊や自身にも、悪い話じゃないさね」
シーマはキラを見つめる。
「フリーダムの性能に頼り切る前に、一度あたしらの戦い方を覚えておけばいい」
キラはしばらく沈黙した。
自分が戦えるのは知っている。
ストライクに乗ってから、何度も敵を撃破してきた。
だが、それが軍人として正しい戦い方なのかと問われれば、答えられない。
そもそも、正しい戦い方を教わったこと自体がなかったのだ。
「……お願いします」
キラはまっすぐにシーマを見つめ返し、静かに答えた。
「僕も、フリーダムをちゃんと使えるようになりたいです」
シーマは満足そうに口元を吊り上げた。
「決まりだねぇ」
それから数日。
フリーダムとガーベラ・テトラが、リリー・マルレーンの周辺宙域へと滑り出していった。
当然ながら、シーマ艦隊がフリーダムそのものを整備・改修することはなかった。
技術体系が根本から異なるうえ、機体の最終的な判断とメンテナンスはキラ自身が行うという取り決めになっている。
シーマたちが行うのは、あくまで戦闘訓練だった。
そして、それは双方にとって実戦に近い貴重な機会でもあった。
『さて、坊や』
通信越しに、シーマのハスキーな声が響く。
『まずは撃墜されない練習からだ』
キラが眉を寄せる。
「……撃墜するんじゃなくて、ですか?」
『違うねぇ』
シーマの喉を鳴らす笑い声が混じる。
『今のあんたが覚えるべきなのは、どうやって敵を殺すかじゃない』
一拍の間を置いて、言葉が飛ぶ。
『どうやって死なないかさ』
訓練でシーマが叩き込んだのは、単なる戦闘技術ではなかった。
推進剤の残量管理。
限界を超えない回避運動。
敵との適切な交戦距離。
味方艦との位置関係。
周囲全体の状況把握。
そして何より、冷徹な撤退判断。
無理な追撃をしない。
味方を孤立させない。
勝てることと、戦うべきことは別だと理解する。
それこそが、泥沼の修羅場を生き抜いてきたシーマ艦隊の生存思想だった。
最初の模擬戦で、キラは無意識のうちにフリーダムの圧倒的な性能へ頼りすぎた。
加速する。
追いつく。
火器を向ける。
それだけなら、ストライクの頃から身につけてきた直感で可能だった。
だが――。
ガーベラ・テトラが画面から消えた。
「……っ!」
次の瞬間、死角からビームが飛んでくる。
キラは反射的に機体を翻した。
『遅いねぇ』
ガーベラ・テトラが側面をすり抜けていく。
フリーダムの性能なら追いつける。
そう思った瞬間には、シーマはすでに次の回避機動へ移っていた。
『速いのは機体さ』
『あんたじゃない』
「……!」
その言葉が、キラの胸に鋭く刺さった。
フリーダムの性能と、自分自身の技量。
その二つを、初めて明確に切り分けて考えた瞬間だった。
慣熟訓練が中盤に差し掛かった頃。
「私がやります!」
クララが手を挙げた。
シーマが眉をひそめる。
『相手はフリーダムだよ』
「だからです」
即答だった。
『無茶するんじゃないよ』
「分かっています」
クララはゲルググMへ向かった。
「でも、私たちだって一度くらい、あの機体と戦っておくべきです」
シーマは黙った。
その言葉には一理あった。
フリーダムは、彼らにとって敵ではない。
だが、似たような性能を持つMSが敵として現れる可能性はある。
ならば、今のうちに経験しておく意味はある。
「……五分だけだよ」
「無理だと思ったら、すぐ戻りな」
『はい!』
ゲルググMが出撃する。
当然、機体性能では勝負にならない。
それでもクララは正面から挑まなかった。
デブリ帯を利用して射線を切る。
距離を保つ。
不利になれば退く。
追えると思っても追わない。
キラは、その動きに息を呑んだ。
クララは勝つためではなく、徹底して生き残るために戦っている。
それは、シーマが自分に叩き込んでいるものと同じだった。
訓練を終え、格納庫へ戻ったクララがキラに尋ねた。
「キラくんは……どうしてあんなに強いんですか?」
キラは少し考えた。
「……強いんじゃないと思います」
「え?」
「ただ……死にたくなかっただけなんですよ」
クララは黙った。
その言葉をすぐには理解できなかった。
だが、それがシーマ艦隊の戦い方とどこか重なっていることだけは分かった。
慣熟訓練がひと段落した頃、リリー・マルレーンに一本の暗号通信が入った。
発信元は、ラクスたちと行動を共にしている勢力からだった。
シーマは通信内容に目を通し、険しい顔で眉をひそめる。
「……アラスカ?」
傍らにいたデトローフが尋ねる。
「何かありましたか?」
「ザフトが、アラスカ基地を次の攻撃目標にするらしい」
「……あの地球連合軍の本拠地を?」
「ああ」
シーマは報告書を机へ置いた。
「どうやら、かなり大規模な攻撃になるようだねぇ」
その情報は、ほどなくキラにも伝えられた。
「アラスカが……?」
フリーダムの整備状況を確認していたキラの表情が強張る。
「はい」
「ザフトが大規模な攻撃を仕掛ける可能性が高いそうです」
「……」
キラはしばらく黙っていた。
「……行きます」
「キラ?」
「アラスカへ」
キラは静かにフリーダムを見上げた。
「まだ、何が起きるか分からない」
「でも……あそこにいる人たちが、何も知らないまま戦いに巻き込まれるなら」
拳を強く握りしめる。
「放っておけません」
慣熟訓練の最終段階、シーマは最後の模擬戦を提案した。
今回もシーマはガーベラ・テトラ、キラはフリーダムだった。
シーマ艦隊側は、フリーダムの整備には最後まで一切関与しない。
あくまで戦闘相手として立ち塞がるだけだった。
『フリーダムの性能なら、あたしのガーベラを落とすこともできるだろうねぇ』
「……じゃあ、勝たせてもらいます」
通信越しの頼もしい返答に、シーマは口元を吊り上げた。
『言うようになったじゃないか』
模擬戦の火ぶたが切られた。
かつてのキラであれば、圧倒的な機動力に任せて力押しでシーマを追い詰めようとしただろう。
だが、今のキラは違っていた。
自分ひとりの力で勝ち切ろうとせず、常に敵との距離を意識する。
味方艦の位置を視界の隅に捉え続け、無理な追撃は決して行わない。
引き時と見極めれば潔く退き、戦闘終了条件を満たした瞬間に自ら離脱行動をとった。
通信機にノイズが走り、シーマの声が届く。
『……覚えたねぇ』
「はい」
『フリーダムが強いから勝てる、じゃない』
「……はい」
『自分が何をするべきか考えて戦えるようになった』
『……それで十分さ』
キラにとってそれは、フリーダムを本当の意味で使いこなすための第一歩であり、同時に、シーマ艦隊の生き様を理解する最後の訓練でもあった。
訓練がひと段落した頃、ジャンク屋のロウ・ギュールから一通の暗号通信が入った。
『シーマさん、ちょっと話があるんだけどよ』
「今度は何だい?」
『モルゲンレーテから連絡が来てる』
シーマは嫌そうに眉をひそめた。
「……モルゲンレーテ?」
『ああ』
『シーマさんたちの艦艇やMSについて、技術的な話をしたいらしい』
「あんたはほんとに横のつながりが広いねぇ」
「それにしても技術交流、ねぇ……」
シーマは煙草を指先で弄びながら、しばらく黙った。
「あたしらの技術を見せろって話じゃないだろうねぇ?」
『そこは俺が間に入る』
『向こうも、こっちの技術を一方的に欲しがってるわけじゃねぇよ』
「……ふん」
こうして、シーマ艦隊がオーブへ向かう明確な理由が生まれた。
CE世界で今後も活動を続ける以上、艦艇やMSの補修部品、技術基盤の確保は生存に直結する。
モルゲンレーテとの技術交流は、彼らがこの世界で生き残るための現実的な回答だった。
一方、キラには向かわなければならない場所があった。
アラスカ。
ザフトによる大規模攻撃が予想される場所だった。
そこには、かつて共に戦ったアークエンジェルの人間たちがいる。
フリーダムの慣熟も一区切りついた。
ラクスたちと合流するという目的とは別に、キラには確かめなければならないことがあった。
あそこにいる人たちを、見捨てていいのか。
その答えを出すために、キラはアラスカへ向かうことを決めた。
出発の日の朝、キラは静かにフリーダムのハッチへと向かった。
シーマ艦隊はオーブへ。
キラはアラスカへ。
それぞれが、別の戦場へ向かう。
出発を知らせる警報が鳴ると、整備班の何人かが作業の手を止めた。
わざわざ見送りのために集まったわけではない。
それでも、フリーダムのハッチへ向かうキラを見つければ、誰からともなく声が飛んだ。
「キラ坊、向こうでもちゃんと飯食えよ!」
「分かってます!」
「無茶するなよ!」
「はい!」
技師長のベッカーは、最後までぶっきらぼうな整備士らしく声を張り上げた。
「機体の調子がおかしかったら、無理して飛ばすんじゃねぇぞ!」
キラは胸を熱くしながら笑顔を返した。
「はい、ベッカーさん!」
最後に、甲板の入口でシーマと向き合う。
「キラ」
「はい」
「覚えたことを忘れるんじゃないよ」
「……はい」
シーマは煙草の煙を吹き出し、言葉を重ねる。
「敵を倒すことじゃない」
ふっと口元を和ませる。
「生きて帰ることだ」
キラは力強くうなずいた。
「……シーマさんたちも」
シーマの眉が僅かに上がる。
「ちゃんと帰ってきてください」
一瞬の静寂がデッキを包み込んだ。
「……ああ」
キラはフリーダムのシートへと収まり、白い翼を広げて宇宙へ躍り出た。
ほぼ同時に、シーマ艦隊もまたオーブへ向けて静かに艦首を向ける。
それぞれが、別の空へ向かう。
キラにとって、シーマ艦隊はもう、ただ自分を助けてくれた親切な軍人たちではなかった。
共に食事をし、訓練をし、何度も言葉を交わした仲間だった。
そしてシーマ艦隊にとっても、キラはもはや拾ってきた患者ではない。
漆黒の宇宙へ消えていく白い機影を、シーマはしばらく黙って見送っていた。
「……死ぬんじゃないよ、坊や」
その声が届くはずもない。
それでも、シーマはしばらく視線を逸らさなかった。
やがてリリー・マルレーンの艦首が、ゆっくりと転じる。
向かう先は、オーブ。
キラとは、別の戦場だった。