朱き蜉蝣の残光   作:ゆのじさん

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ここが書きたかったんです


第39話

 深夜。

 

 リリー・マルレーンの作戦室には、シーマ以外誰もいなかった。

 

 昼間まで、ここには人がいた。

 

 キラが端末を操作し、マリューが資料を確認し、カガリがオーブの記録を睨みつけていた。

 

 ムウがくだらないことを言い、バルトフェルドが笑い、ラクスが静かに話していた。

 

 コーヒーまで飲んだ。

 

 戦争の話をしていたはずなのに、最後には誰が何を飲むかという、どうでもいい話になった。

 

 そんな時間があった。

 

 戦場のすぐそばだというのに。

 

 人が死んでいるというのに。

 

 それでも、くだらない話をして、コーヒーを飲んで、笑っていた。

 

 シーマは、それを悪くないと思っていた。

 

 むしろ――少しだけ、気に入っていた。

 

 だからこそ。

 

 今の静けさが、妙に気に入らなかった。

 

 音がない。

 

 人の声もない。

 

 端末の操作音すら止まっている。

 

 残っているのは、換気装置の低い駆動音と、煙草の先で燃える火の音だけだった。

 

 シーマは一人、机に座っていた。

 

 その上に、一枚の写真がある。

 

 ジョージ・グレン。

 

 穏やかな笑顔。

 

 知性を感じさせる目。

 

 世界中から称賛された男。

 

 人類の可能性を広げた男。

 

 コーディネイターという存在を生み出し、その知識を世界へ公開した男。

 

 人類の未来を変えた男。

 

 シーマは写真を見つめた。

 

 煙草に火をつける。

 

 赤い火が、一瞬だけ暗い部屋を照らした。

 

「……あんたかい」

 

 煙を吐く。

 

「この世界を、こんなふうにしやがったのは」

 

 返事はない。

 

 写真なのだから当然だ。

 

 それでもシーマは、しばらく待った。

 

 当然、何も返ってこない。

 

「……死人に話しかけるなんざ、あたしも焼きが回ったねぇ」

 

 乾いた笑いが漏れる。

 

 だが、笑いはすぐに消えた。

 

 シーマは机の端末を操作した。

 

 資料が表示される。

 

 コーディネイター。

 

 遺伝子操作。

 

 身体能力の向上。

 

 病気への耐性。

 

 知能。

 

 肉体。

 

 人間の可能性。

 

 そこに並んでいる言葉は、どれも綺麗だった。

 

 綺麗すぎた。

 

 だから、気に入らない。

 

「人間の可能性を広げる」

 

 シーマが読み上げる。

 

「病を克服する」

 

 ページを送る。

 

「より優れた身体を得る」

 

 また送る。

 

「より良い未来を作る」

 

 鼻で笑った。

 

「……ご立派だねぇ」

 

 画面を閉じる。

 

 また開く。

 

 コーディネイターの存在が世界に知られた後の社会。

 

 反発。

 

 差別。

 

 政治対立。

 

 社会不安。

 

 そして――。

 

 ナチュラルとコーディネイターの対立。

 

 シーマの目が止まった。

 

「……ここだ」

 

 指で画面を叩く。

 

「ここからだ」

 

 煙草を咥える。

 

「人間を二つに分けた」

 

 ナチュラル。

 

 コーディネイター。

 

 たったそれだけの言葉で、人間を分けられる。

 

 そして。

 

 分けた人間は、必ず比較する。

 

 どちらが優れている。

 

 どちらが劣っている。

 

 どちらが正しい。

 

 どちらが間違っている。

 

 どちらが生きる価値がある。

 

「……馬鹿が」

 

 シーマの声が低くなる。

 

「人間ってのは、そんな簡単なもんじゃないだろうが」

 

 煙草の灰が落ちた。

 

 その先にある写真を見つめる。

 

「ナチュラルだから」

 

「コーディネイターだから」

 

「地球だから」

 

「プラントだから」

 

「連合だから」

 

「ザフトだから」

 

 一つずつ、吐き捨てるように並べる。

 

「……本当にくだらないねぇ」

 

 シーマは写真を睨んだ。

 

「そんなもん、死体になっちまえば全部同じだ」

 

 血を流す。

 

 息が止まる。

 

 身体が冷たくなる。

 

 目を閉じれば、最後に見えるものなんざ、人間が勝手につけた肩書きじゃない。

 

 兵士だろうが。

 

 民間人だろうが。

 

 ナチュラルだろうが。

 

 コーディネイターだろうが。

 

 連合だろうが。

 

 ザフトだろうが。

 

 死んじまえば、冷たい肉になる。

 

 それなのに。

 

 生きている間だけは、違いを付けたがる。

 

 生まれ。

 

 遺伝子。

 

 国。

 

 思想。

 

 所属。

 

 能力。

 

 血筋。

 

 それを理由にして、人間が人間を値踏みする。

 

 こいつは使える。

 

 こいつは使えない。

 

 こいつは優秀だ。

 

 こいつは劣っている。

 

 こいつは味方だ。

 

 こいつは敵だ。

 

 こいつは殺していい。

 

 こいつは生かしておけ。

 

 シーマの目が細くなる。

 

「……あたしも、さんざんやってきたけどねぇ」

 

 言葉が漏れた。

 

 シーマ自身が、その言葉に少しだけ驚いた。

 

 煙草を持つ手が止まる。

 

「使える奴」

 

「使えない奴」

 

「生き残れる奴」

 

「足手まといになる奴」

 

「命令に従う奴」

 

「従わない奴」

 

 ひとつずつ。

 

 自分が戦場で人間をどう見てきたか。

 

 思い出す。

 

 見たくもないものまで、勝手に浮かんでくる。

 

「……あたしだって、人間を分けてきた」

 

 自嘲気味に笑った。

 

「生き残るためなら、そうするしかないと思ってた」

 

「戦場じゃ、いちいち人間の値打ちなんぞ考えてられない」

 

「一秒迷えば、自分が死ぬ」

 

「誰かを助けようとして、自分まで死ぬことだってある」

 

 だから選んだ。

 

 だから切り捨てた。

 

 だから生き残った。

 

「……何人、見捨てたっけねぇ」

 

 返事はない。

 

「何人、殺した?」

 

 返事はない。

 

「何人、あたしの命令で死んだ?」

 

 返事はない。

 

 シーマは目を伏せた。

 

「……数えちゃいない」

 

 嘘だった。

 

 全部は覚えていない。

 

 だからこそ、たちが悪い。

 

 覚えていないということは。

 

 忘れたということだ。

 

 忘れられる程度には、自分の中で人の死が積み重なっている。

 

「死んだ奴の顔なんざ、全部覚えてたら眠れやしない」

 

 そう呟いた。

 

 だが。

 

 眠れない夜は、いくらでもあった。

 

 忘れたつもりになった夜も。

 

 酒で潰した夜も。

 

 煙草を何本も続けて吸った夜も。

 

 それでも、ふとした拍子に戻ってくる。

 

 声。

 

 顔。

 

 叫び。

 

 最後の目。

 

 マハル。

 

 シーマは目を閉じた。

 

 毒ガスの臭い。

 

 逃げ場のない空間。

 

 兵士たちの叫び。

 

 自分たちが何をされているのか理解した瞬間の顔。

 

 そして。

 

 命令。

 

 必要だった。

 

 仕方なかった。

 

 そう言われた。

 

 誰かが決めた。

 

 誰かが命令した。

 

 誰かが実行させた。

 

 そして。

 

 最後には。

 

 誰も責任を取らなかった。

 

「……あたしも、汚れてる」

 

 小さく呟く。

 

「知ってるさ」

 

 煙草の煙が、目の前を曇らせる。

 

「あたしが綺麗な人間だなんて、思ったことは一度もない」

 

「英雄でもない」

 

「正義の味方でもない」

 

「立派な兵士だったとも思っちゃいない」

 

「ただ――」

 

 シーマは一度言葉を切った。

 

「生き残っただけさ」

 

 その言葉だけは、妙に重かった。

 

 写真を見る。

 

「だからねぇ」

 

 シーマは苦笑した。

 

「あんたを責める資格が、あたしにあるのかって話さ」

 

 誰もいない部屋で。

 

 その言葉だけが、やけに大きく響いた。

 

「人間を二つに分けた」

 

「人間を分類した」

 

「優劣を作った」

 

「その結果、人間同士が憎み合った」

 

「……そんなことを言って、あんたを責める」

 

 シーマは自分を嘲るように笑った。

 

「じゃあ、あたしは何だい?」

 

「自分が何人殺したかも分からないくせに」

 

「自分が何人見捨てたかも覚えてないくせに」

 

「人の命を戦力だの損耗だのって数えてきたくせに」

 

「何を偉そうに、人間を語ってるんだろうねぇ」

 

 煙草の灰が落ちる。

 

 シーマはそれを見つめた。

 

 灰皿には、いくつもの吸い殻がある。

 

 一本。

 

 また一本。

 

 その一本一本に、意味なんてない。

 

 燃えて。

 

 灰になって。

 

 捨てられる。

 

 人間も同じだ。

 

 使われて。

 

 燃え尽きて。

 

 捨てられる。

 

「……そうさ」

 

 シーマは写真へ視線を戻した。

 

「あたしも同じだ」

 

 その言葉に、逃げ道はなかった。

 

「人を使った」

 

「人に使われた」

 

「人を殺した」

 

「人に殺されかけた」

 

「命令した」

 

「命令された」

 

「誰かを恨んだ」

 

「誰かに恨まれてる」

 

 煙草を指で揉む。

 

「だから、あんたを責めるのが正しいなんて思っちゃいない」

 

 長い沈黙。

 

 そして。

 

「……だけどねぇ」

 

 シーマの目が、写真へ向いた。

 

 そこに浮かぶ穏やかな笑顔を見つめる。

 

「それでも、あたしはあんたが嫌いだ」

 

 静かな声だった。

 

「どうしようもなく嫌いだ」

 

「吐き気がするくらいねぇ」

 

 シーマは写真を指で叩いた。

 

「なぜなら、あんたは自分が何をしたかも知らないまま、綺麗な言葉だけを残して死んだ」

 

「人類の未来」

 

「人間の可能性」

 

「病を克服する」

 

「より良い世界」

 

「……ご立派な言葉だ」

 

 笑う。

 

「本当に、ご立派だよ」

 

 だが、その笑顔には温度がなかった。

 

「でも、その言葉を信じた人間が何をするか」

 

「その言葉を利用する人間が何をするか」

 

「その言葉を盾にして、誰が誰を殺すか」

 

「そこまでは見なかった」

 

「……いや」

 

 シーマは首を振る。

 

「見ようとしなかったんだろう?」

 

 写真は答えない。

 

「知らないくせに、人間を語った」

 

「知らないくせに、未来を語った」

 

「知らないくせに、世界を変えた」

 

 シーマの声が低くなる。

 

「人間を作る?」

 

「人間を進化させる?」

 

「人類の未来だ?」

 

 乾いた笑いが漏れる。

 

「寝言は墓の中で言ってな」

 

 だが。

 

 そこでシーマは、また口を閉じた。

 

 怒りだけなら簡単だった。

 

 ジョージ・グレンを悪人にすればいい。

 

 全部こいつのせいだと言えばいい。

 

 そうすれば楽になる。

 

 自分たちは被害者。

 

 こいつが元凶。

 

 だから憎む。

 

 だから許さない。

 

 話は、それで終わる。

 

 ――だが。

 

「……違うねぇ」

 

 シーマは首を振った。

 

「あんた一人を悪者にすりゃ、話は簡単だ」

 

「でも、そんな簡単な話じゃない」

 

 ジョージ・グレンが確かに世界を二つに割った。

 

 それは事実だ。

 

 だが、その線をさらに深く刻んだのは、その後に生きた人間たちだ。

 

 恐怖。

 

 嫉妬。

 

 差別。

 

 政治。

 

 利権。

 

 憎悪。

 

 誰かが利用した。

 

 誰かが煽った。

 

 誰かが武器にした。

 

 誰かが人を殺した。

 

 そして、そのたびに誰かが言う。

 

 仕方なかった。

 

 国のためだった。

 

 仲間を守るためだった。

 

 命令だった。

 

 正義だった。

 

 シーマの目が冷たくなる。

 

「……ああ」

 

「そこが一番、腹が立つんだよ」

 

 写真を見る。

 

「悪意のある馬鹿なら、まだ分かりやすい」

 

「最初から人を殺そうとしていた奴なら、まだ憎める」

 

「でも、あんたは違う」

 

「人類を良くしたかったんだろう?」

 

「病気をなくしたかった」

 

「可能性を広げたかった」

 

「未来を良くしたかった」

 

 シーマは苦笑した。

 

「だからこそ、始末が悪い」

 

「善意で撒いた種だって、別の誰かが毒を撒くために使う」

 

「誰かが理想を語れば、別の誰かがそれを大義名分にして人を殺す」

 

「誰かが希望を語れば、別の誰かがその希望に値札をつける」

 

「誰かが未来を語れば、別の誰かが、その未来のために今いる人間を捨てる」

 

 シーマの指が、机の上でゆっくり動く。

 

「そして最後に死ぬのは――」

 

 言葉が止まった。

 

「……あんたじゃない」

 

 静かな声だった。

 

「そこが一番、汚いんだよ」

 

 シーマは立ち上がった。

 

 椅子が小さく軋む。

 

「始めた奴は安全な場所で未来を語る」

 

「利用する奴は権力を握る」

 

「命令する奴は責任を逃げる」

 

「理想を掲げる奴は、その言葉だけを残して死ぬ」

 

 シーマは机の上の資料を見下ろした。

 

「そして」

 

「実際に死ぬのは、何も決めちゃいない人間だ」

 

 マハルの記憶が蘇る。

 

 自分たちは命令された。

 

 必要だった。

 

 仕方なかった。

 

 そう言われた。

 

 その言葉を信じた。

 

 信じるしかなかった。

 

 そして最後には、誰も責任を取らなかった。

 

「……あたしらみたいなねぇ」

 

 シーマは目を閉じる。

 

「汚れた手だけ残されて」

 

「死んだ奴の名前だけ背負わされて」

 

「生き残った奴が、あとから意味を考える」

 

 目を開く。

 

「……ふざけた話さ」

 

 煙草を灰皿に押しつける。

 

 火が消える。

 

 だが、すぐに次の一本を取り出した。

 

 火をつける。

 

「だから、あたしはあんたが嫌いだ」

 

 今度は、はっきりと言った。

 

「綺麗な言葉を並べて」

 

「人類の未来なんて言って」

 

「その未来のために、何人が死ぬかも知らない」

 

 写真を見る。

 

「……知らないんじゃない」

 

「知ろうとしなかったんだろう?」

 

「自分の手が汚れるところまで、降りてこなかった」

 

「血の臭いを嗅がずに」

 

「死体を跨がずに」

 

「誰かの最期の顔を見ずに」

 

「それで、人間の未来を語った」

 

 シーマは鼻で笑った。

 

「そりゃ、綺麗だろうさ」

 

「汚れる理由がないんだからねぇ」

 

 その言葉に、自分自身のことまで刺さっていることをシーマは分かっていた。

 

 自分は汚れた。

 

 嫌になるほど。

 

 血も見た。

 

 死体も見た。

 

 仲間の最期も見た。

 

 命令もした。

 

 命令された。

 

 そして、生き残った。

 

 だからこそ。

 

 綺麗な言葉が嫌いだった。

 

 綺麗な言葉の裏側にあるものを、知っているからだ。

 

「……あたしは、自分が正しいなんて思っちゃいない」

 

「自分が善人だなんて、口が裂けても言えない」

 

「英雄なんざ、もっと御免だ」

 

 煙を吐く。

 

「でもねぇ」

 

「少なくとも、あたしは知ってる」

 

「人間が死ぬってことくらいは」

 

「人間が死んだあと、残された奴がどうなるかくらいは」

 

「死んだ奴の代わりに、誰かがその名前を覚えなきゃならないことくらいは」

 

 シーマは写真を見る。

 

「だから、あんたに言ってるんだよ」

 

「人間を二つに分けたところまでは、あんたが原因だった」

 

「その後、何をするかを決めたのは、あんた以外の人間だ」

 

「誰かが利用した」

 

「誰かが煽った」

 

「誰かが戦争にした」

 

「誰かが人を殺した」

 

「誰かが責任を放り出した」

 

 そこでシーマは、自分を指差した。

 

「……その中には、あたしもいる」

 

 言葉が落ちる。

 

「だから、あんた一人に全部押しつけるつもりはない」

 

「そんな都合のいい話にしたら、今度はあたしが同じ穴に落ちる」

 

「誰か一人を悪者にして」

 

「そいつを憎んで」

 

「そいつを殺して」

 

「それで全部終わったことにする」

 

 シーマは首を振った。

 

「そんなもんじゃない」

 

「人間が作ったもんは、人間が後始末するしかない」

 

「どれだけ汚れてようが」

 

「どれだけ嫌になろうが」

 

「誰かがやらなきゃならない」

 

 写真の笑顔を見る。

 

「……だから余計に腹が立つんだよ」

 

「こんなに面倒なものを残して」

 

「本人はもう死んでる」

 

「何も見ちゃいない」

 

「何も背負っちゃいない」

 

「なのに、あんたの名前だけは立派に残ってる」

 

 シーマの口元が歪んだ。

 

「英雄様かい」

 

「ご立派なもんだねぇ」

 

 しばらく、写真を見つめる。

 

 それから煙草を持ち上げる。

 

「……あたしはね」

 

「英雄なんざ、もう信用しないよ」

 

「正義も」

 

「理想も」

 

「人類の未来なんて言葉も」

 

 煙草を持つ指が止まる。

 

「自分で見て」

 

「自分で考えて」

 

「自分で決める」

 

「それしかないんだろうさ」

 

 それは、この世界に来てからシーマが少しずつ覚えたことでもあった。

 

 誰かの命令ではない。

 

 誰かの大義でもない。

 

 誰かに用意された正しさでもない。

 

 自分たちで決める。

 

 そして、その結果を自分たちで背負う。

 

 間違えたなら。

 

 間違えたと認める。

 

 人を殺したなら。

 

 殺したことを忘れない。

 

 誰かを助けたなら。

 

 そのことを勲章にしない。

 

 ただ、生きる。

 

 生きて。

 

 次の人間に渡す。

 

 それだけだ。

 

 シーマは煙草を灰皿へ向けた。

 

 だが。

 

 途中で止めた。

 

 視線が写真へ戻る。

 

「……けどねぇ」

 

 最後に一度だけ。

 

 ジョージ・グレンの顔を見る。

 

「それでも、あんたには一つ言っておきたい」

 

 シーマは写真を指で軽く叩いた。

 

「世界を二つに割った責任まで、全部あんた一人に押しつけるつもりはない」

 

「だけど」

 

 指が写真の上で止まる。

 

「最初の線を引いたのは、あんただ」

 

「その線が、どれだけ血で太くなったか」

 

「どれだけ人間を分けるために使われたか」

 

「どれだけの死体の上を通ったか」

 

「……その全部を、あんたに見せてやりたいくらいさ」

 

 シーマは煙草を見た。

 

 赤い火。

 

 小さな炎。

 

 その先端を、ゆっくりと写真へ近づける。

 

「でもねぇ」

 

「見せたって、あんたはもう死んでる」

 

「聞いたって、返事はしない」

 

「責任を取れと言ったって、取れやしない」

 

 煙草の先端が、写真の額に触れた。

 

「……だから」

 

 じゅっ。

 

 小さな音がした。

 

 黒い焦げ跡が広がる。

 

 穏やかな笑顔が、少しずつ黒く汚れていく。

 

 シーマは手を動かさなかった。

 

「これは罰じゃない」

 

 焦げ跡が頬へ伸びる。

 

「罰なんざ、死んだあんたには届かない」

 

 さらに黒くなる。

 

「これは、あたしが忘れないためさ」

 

 煙が立ち上る。

 

「人間を二つに分けた男がいた」

 

「そいつが残した言葉を、後から人間が利用した」

 

「それで、たくさん死んだ」

 

「その中には、あたしみたいな人間もいた」

 

 写真の顔が、ほとんど見えなくなる。

 

「……そして」

 

 シーマの声が、さらに低くなる。

 

「あんたを恨んでる人間の中には」

 

「自分自身を恨んでる人間もいる」

 

 自分の胸を指先で軽く叩く。

 

「それが、あたしさ」

 

「だから、あんた一人を悪者にして、あたしだけ綺麗なところへ逃げるつもりはない」

 

「そんな資格、あたしにはない」

 

 煙草の火を離す。

 

 焦げた写真を見つめる。

 

「……でも」

 

「許してやるつもりもない」

 

「忘れてやるつもりもない」

 

「なかったことにしてやるつもりもない」

 

 シーマは煙草を灰皿へ落とした。

 

「それくらいは、あたしにもできる」

 

 写真を見る。

 

 そこにあった笑顔は、もうほとんど残っていない。

 

「英雄様」

 

「ご立派な未来を残してくれたねぇ」

 

 乾いた声。

 

「その未来の後始末をするのは――」

 

 シーマは写真を指先で押さえた。

 

「……あんたじゃない」

 

「生きてるあたしたちだ」

 

 しばらく、何も言わなかった。

 

 やがてシーマは、焦げた写真を手に取った。

 

 紙は熱を失いかけている。

 

 指先が黒く汚れる。

 

 シーマはその黒い汚れを見た。

 

 拭わなかった。

 

 そのまま写真を握りつぶす。

 

 ぐしゃり、と音がした。

 

「……まったく」

 

 拳の中で紙が潰れる。

 

「あたしみたいな汚れた人間にまで、後始末を押しつけやがって」

 

 笑った。

 

 だが、それは笑いと呼べるものではなかった。

 

「とんでもない置き土産を残してくれたもんだねぇ」

 

 シーマは立ち上がった。

 

 作戦室の照明へ手を伸ばす。

 

 明かりが消える。

 

 暗闇が広がる。

 

 机の上には、黒く焦げた一枚の写真だったものだけが残された。

 

 シーマは振り返らなかった。

 

 扉へ向かう。

 

 一歩。

 

 また一歩。

 

 その背中には、英雄のような威厳もなかった。

 

 勝者の顔もない。

 

 正義を成し遂げた人間の顔でもない。

 

 ただ。

 

 汚れたまま生き残った女が、一人で暗闇から出ていく。

 

 それだけだった。

 

 扉が閉まる。

 

 作戦室には、誰もいなくなった。

 

 黒く焦げた写真だけが、机の上に残っている。

 

 その写真に写っていた男の顔は、もう分からない。

 

 それでも。

 

 シーマは忘れない。

 

 自分が何をしたかも。

 

 何をされたかも。

 

 何を見捨てたかも。

 

 そして。

 

 この世界が、何を忘れてはいけないのかも。

 

 全部抱えたまま。

 

 それでも、生きていく。

 

 生きている人間にしかできない、後始末をするために。

 

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