朱き蜉蝣の残光   作:ゆのじさん

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第49話

それからどれほど時間が経ったのか。

 

クララのゲルググMから、リリー・マルレーンへ収容されたナタルは、医務区画で簡単な検査を受けた。

 

幸い、目立った負傷はない。

 

だが、身体が無事であることと、心が無事であることは別だった。

 

ナタルは簡易ベッドに腰を下ろしたまま、自分の両手を見ていた。

 

この手で、退艦命令を出した。

 

この手で、アズラエルを拘束した。

 

そして。

 

この手は敵に救われた。

 

「……私は」

 

声が漏れた。

 

「何をしている……?」

 

誰に聞かせるでもない。

 

答えなど返ってこない。

 

軍人として正しかったのか。

 

それとも、軍人として失格だったのか。

 

ドミニオンを守れなかった。

 

アズラエルを止めた。

 

部下たちを逃がした。

 

そして自分だけが生き残った。

 

そのどれが正しくて、どれが間違っているのか。

 

ナタルには判断できなかった。

 

やがて扉が開いた。

 

シーマが入ってきた。

 

パイロットスーツにはまだ戦闘の傷が残っている。

 

顔にも疲労が滲んでいた。

 

それでも煙草を咥えている。

 

「具合はどうだい」

 

「問題ない」

 

「そうかい」

 

シーマはそれ以上、何も言わなかった。

 

ナタルは顔を上げる。

 

「……なぜだ」

 

「何がだい?」

 

「なぜ私を助けた」

 

「またその話かい」

 

「私は連合軍人だ」

 

「知ってるよ」

 

「貴様らにとって敵だ」

 

「ああ」

 

「私は貴様らの艦隊とも交戦した」

 

「そうだったねぇ」

 

「ならば、なぜだ」

 

シーマは煙草を灰皿へ押しつけた。

 

「……あんたが艦長だったからさ」

 

「それだけか?」

 

「それだけだよ」

 

「理解できない」

 

ナタルの声には、苛立ちが混じっていた。

 

「敵艦の艦長を救う理由など、軍事的には存在しない」

 

「軍事的には、ねぇ」

 

「私は軍人だ」

 

「だから何だい?」

 

その言葉に、ナタルは詰まった。

 

シーマは笑っていなかった。

 

「軍人だから敵を殺す。軍人だから命令に従う。軍人だから死ねと言われれば死ぬ」

 

静かな声だった。

 

「あんたは、そういうもんだと思ってるのかい?」

 

「……そうだ」

 

「本当に?」

 

「……」

 

ナタルは答えられなかった。

 

シーマが一歩近づく。

 

「じゃあ、なんで退艦命令を出した?」

 

ナタルの呼吸が止まった。

 

「……」

 

「上からは戦えと言われてたんだろ?」

 

「……そうだ」

 

「それでも、あんたは乗員を逃がした」

 

「それは……」

 

言葉が出てこない。

 

シーマが続ける。

 

「軍人として間違ってたと思うかい?」

 

ナタルは目を伏せた。

 

「……分からない」

 

それが初めて出た、正直な言葉だった。

 

「私は……軍人として、命令に従うことを学んできた」

 

ナタルの声が震える。

 

「命令系統を守ること。任務を遂行すること。自分の感情を捨て、与えられた役割を果たすこと。それが軍人だと思っていた」

 

「……」

 

「だから、アズラエルの命令に逆らった自分が正しかったのか、今でも分からない」

 

ナタルは拳を握る。

 

「艦長としては、あれが正しかったと思う。乗員を死なせるわけにはいかなかった。戦闘継続に意味がないことも分かっていた」

 

一度、言葉を切る。

 

「だが、それは軍人として正しかったのか?」

 

シーマは黙って聞いていた。

 

「もし、あの命令が軍の正式な命令だったなら。私はそれに逆らった。結果としてドミニオンは沈んだ。私は艦を守れなかった」

 

「艦を守るってのは、艦そのものを残すことかい?」

 

ナタルは顔を上げた。

 

「……何?」

 

「船が残って、乗ってる奴が全員死んだら、それは『守った』って言えるのかねぇ」

 

「……」

 

「逆に、船を失っても人間が生き残ったなら?」

 

ナタルは答えられなかった。

 

シーマは肩を竦めた。

 

「軍人ってのは難しいねぇ」

 

「……貴様は軍人ではないのか」

 

「元、だよ」

 

「元……」

 

「あたしも昔は命令に従った。従わなきゃ生き残れない場所だったからねぇ」

 

シーマの目が、一瞬だけ遠くを見る。

 

だが、それ以上は語らない。

 

「けどね」

 

シーマはナタルを見る。

 

「あたしが今でも軍人だったとしても、最後に決めるのは自分だと思ってるよ」

 

「……それでは軍隊が成立しない」

 

「そうかもしれないねぇ」

 

意外にも、シーマは否定しなかった。

 

「だから軍隊は命令で動く。けど、人間まで命令だけで動いちまったら、そいつはもう兵士じゃない。ただの道具さ」

 

ナタルの胸に、その言葉が突き刺さった。

 

道具。

 

自分は、これまで何だったのか。

 

命令を受け。

 

任務を遂行し。

 

敵を撃ち。

 

部下を指揮し。

 

その繰り返しの中で、自分自身の判断とは何だったのか。

 

「……私は」

 

ナタルは呟いた。

 

「自分で判断したつもりだった」

 

「だったら、それでいいじゃないか」

 

「だが、怖い」

 

シーマが目を細める。

 

「何がだい?」

 

「もし私の判断が間違っていたら」

 

初めて、ナタルはその恐怖を口にした。

 

「軍人なら、命令に従っていれば責任を上官へ返せる。だが、自分で判断すれば、その結果まで自分で背負わなければならない」

 

声が小さくなる。

 

「私は……それが怖い」

 

シーマはしばらく黙っていた。

 

そして。

 

「そりゃそうさ」

 

「……」

 

「あたしだって怖いよ」

 

ナタルが顔を上げる。

 

シーマは笑った。

 

「自分で決めるってのは、そういうことだろ」

 

「……」

 

「だから、生き残った奴は背負うんだよ」

 

シーマは扉の向こうを指した。

 

「艦が沈んだ。仲間が死んだ。自分だけ生き残った。だったら、その先まで生きるしかない」

 

ナタルは息を呑む。

 

「それが嫌なら、死ぬしかない」

 

シーマは淡々と言った。

 

「でも、あんたは生きてる」

 

「……」

 

「だったら、生きてから考えな」

 

それだけ言うと、シーマは踵を返した。

 

ナタルは思わず呼び止めた。

 

「シーマ中佐」

 

「何だい?」

 

「私は……これからどうすればいい」

 

シーマは振り返らなかった。

 

「知らないよ」

 

あっさりとした返答だった。

 

「それを決めるのは、あんただ」

 

「……軍人としてではなく?」

 

「違うねぇ」

 

シーマは振り返り、ナタルを見る。

 

「軍人だろうが何だろうが、その前に人間だろ」

 

扉が閉じた。

 

一人残されたナタルは、長い間動かなかった。

 

やがて、ゆっくりと立ち上がる。

 

壁に掛けられた小さな鏡を見る。

 

そこに映っていたのは、ドミニオン艦長の制服を着た自分だった。

 

まだ軍人の姿をしている。

 

だが、その艦はもうない。

 

命令を出す艦橋も。

 

守るべき艦も。

 

従うべき上官も。

 

すべてが、あの宇宙に置き去りになった。

 

それでも。

 

自分は生きている。

 

ナタルは制服の襟元を正した。

 

それが何を意味するのか、自分でも分からなかった。

 

軍人として着ているのか。

 

それとも。

 

軍人だった自分を捨てきれずにいるだけなのか。

 

答えは出ない。

 

ただ一つだけ分かったことがある。

 

命令に従うことだけが、軍人ではなかった。

 

しかし。

 

命令に従わないことが、正しいとも限らない。

 

その矛盾を抱えたまま、それでも自分で決めなければならない。

 

それが、生き残った者の責任なのだろう。

 

ナタルは目を閉じる。

 

そして、初めて自分自身に問いかけた。

 

――私は、これから何を選ぶのか。

 

答えはまだ、出なかった。




この先、この先かぁ うーん
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