それからどれほど時間が経ったのか。
クララのゲルググMから、リリー・マルレーンへ収容されたナタルは、医務区画で簡単な検査を受けた。
幸い、目立った負傷はない。
だが、身体が無事であることと、心が無事であることは別だった。
ナタルは簡易ベッドに腰を下ろしたまま、自分の両手を見ていた。
この手で、退艦命令を出した。
この手で、アズラエルを拘束した。
そして。
この手は敵に救われた。
「……私は」
声が漏れた。
「何をしている……?」
誰に聞かせるでもない。
答えなど返ってこない。
軍人として正しかったのか。
それとも、軍人として失格だったのか。
ドミニオンを守れなかった。
アズラエルを止めた。
部下たちを逃がした。
そして自分だけが生き残った。
そのどれが正しくて、どれが間違っているのか。
ナタルには判断できなかった。
やがて扉が開いた。
シーマが入ってきた。
パイロットスーツにはまだ戦闘の傷が残っている。
顔にも疲労が滲んでいた。
それでも煙草を咥えている。
「具合はどうだい」
「問題ない」
「そうかい」
シーマはそれ以上、何も言わなかった。
ナタルは顔を上げる。
「……なぜだ」
「何がだい?」
「なぜ私を助けた」
「またその話かい」
「私は連合軍人だ」
「知ってるよ」
「貴様らにとって敵だ」
「ああ」
「私は貴様らの艦隊とも交戦した」
「そうだったねぇ」
「ならば、なぜだ」
シーマは煙草を灰皿へ押しつけた。
「……あんたが艦長だったからさ」
「それだけか?」
「それだけだよ」
「理解できない」
ナタルの声には、苛立ちが混じっていた。
「敵艦の艦長を救う理由など、軍事的には存在しない」
「軍事的には、ねぇ」
「私は軍人だ」
「だから何だい?」
その言葉に、ナタルは詰まった。
シーマは笑っていなかった。
「軍人だから敵を殺す。軍人だから命令に従う。軍人だから死ねと言われれば死ぬ」
静かな声だった。
「あんたは、そういうもんだと思ってるのかい?」
「……そうだ」
「本当に?」
「……」
ナタルは答えられなかった。
シーマが一歩近づく。
「じゃあ、なんで退艦命令を出した?」
ナタルの呼吸が止まった。
「……」
「上からは戦えと言われてたんだろ?」
「……そうだ」
「それでも、あんたは乗員を逃がした」
「それは……」
言葉が出てこない。
シーマが続ける。
「軍人として間違ってたと思うかい?」
ナタルは目を伏せた。
「……分からない」
それが初めて出た、正直な言葉だった。
「私は……軍人として、命令に従うことを学んできた」
ナタルの声が震える。
「命令系統を守ること。任務を遂行すること。自分の感情を捨て、与えられた役割を果たすこと。それが軍人だと思っていた」
「……」
「だから、アズラエルの命令に逆らった自分が正しかったのか、今でも分からない」
ナタルは拳を握る。
「艦長としては、あれが正しかったと思う。乗員を死なせるわけにはいかなかった。戦闘継続に意味がないことも分かっていた」
一度、言葉を切る。
「だが、それは軍人として正しかったのか?」
シーマは黙って聞いていた。
「もし、あの命令が軍の正式な命令だったなら。私はそれに逆らった。結果としてドミニオンは沈んだ。私は艦を守れなかった」
「艦を守るってのは、艦そのものを残すことかい?」
ナタルは顔を上げた。
「……何?」
「船が残って、乗ってる奴が全員死んだら、それは『守った』って言えるのかねぇ」
「……」
「逆に、船を失っても人間が生き残ったなら?」
ナタルは答えられなかった。
シーマは肩を竦めた。
「軍人ってのは難しいねぇ」
「……貴様は軍人ではないのか」
「元、だよ」
「元……」
「あたしも昔は命令に従った。従わなきゃ生き残れない場所だったからねぇ」
シーマの目が、一瞬だけ遠くを見る。
だが、それ以上は語らない。
「けどね」
シーマはナタルを見る。
「あたしが今でも軍人だったとしても、最後に決めるのは自分だと思ってるよ」
「……それでは軍隊が成立しない」
「そうかもしれないねぇ」
意外にも、シーマは否定しなかった。
「だから軍隊は命令で動く。けど、人間まで命令だけで動いちまったら、そいつはもう兵士じゃない。ただの道具さ」
ナタルの胸に、その言葉が突き刺さった。
道具。
自分は、これまで何だったのか。
命令を受け。
任務を遂行し。
敵を撃ち。
部下を指揮し。
その繰り返しの中で、自分自身の判断とは何だったのか。
「……私は」
ナタルは呟いた。
「自分で判断したつもりだった」
「だったら、それでいいじゃないか」
「だが、怖い」
シーマが目を細める。
「何がだい?」
「もし私の判断が間違っていたら」
初めて、ナタルはその恐怖を口にした。
「軍人なら、命令に従っていれば責任を上官へ返せる。だが、自分で判断すれば、その結果まで自分で背負わなければならない」
声が小さくなる。
「私は……それが怖い」
シーマはしばらく黙っていた。
そして。
「そりゃそうさ」
「……」
「あたしだって怖いよ」
ナタルが顔を上げる。
シーマは笑った。
「自分で決めるってのは、そういうことだろ」
「……」
「だから、生き残った奴は背負うんだよ」
シーマは扉の向こうを指した。
「艦が沈んだ。仲間が死んだ。自分だけ生き残った。だったら、その先まで生きるしかない」
ナタルは息を呑む。
「それが嫌なら、死ぬしかない」
シーマは淡々と言った。
「でも、あんたは生きてる」
「……」
「だったら、生きてから考えな」
それだけ言うと、シーマは踵を返した。
ナタルは思わず呼び止めた。
「シーマ中佐」
「何だい?」
「私は……これからどうすればいい」
シーマは振り返らなかった。
「知らないよ」
あっさりとした返答だった。
「それを決めるのは、あんただ」
「……軍人としてではなく?」
「違うねぇ」
シーマは振り返り、ナタルを見る。
「軍人だろうが何だろうが、その前に人間だろ」
扉が閉じた。
一人残されたナタルは、長い間動かなかった。
やがて、ゆっくりと立ち上がる。
壁に掛けられた小さな鏡を見る。
そこに映っていたのは、ドミニオン艦長の制服を着た自分だった。
まだ軍人の姿をしている。
だが、その艦はもうない。
命令を出す艦橋も。
守るべき艦も。
従うべき上官も。
すべてが、あの宇宙に置き去りになった。
それでも。
自分は生きている。
ナタルは制服の襟元を正した。
それが何を意味するのか、自分でも分からなかった。
軍人として着ているのか。
それとも。
軍人だった自分を捨てきれずにいるだけなのか。
答えは出ない。
ただ一つだけ分かったことがある。
命令に従うことだけが、軍人ではなかった。
しかし。
命令に従わないことが、正しいとも限らない。
その矛盾を抱えたまま、それでも自分で決めなければならない。
それが、生き残った者の責任なのだろう。
ナタルは目を閉じる。
そして、初めて自分自身に問いかけた。
――私は、これから何を選ぶのか。
答えはまだ、出なかった。
この先、この先かぁ うーん