Fate/alter Seven Sight ――the First Sight―― 作:どっこちゃん
(金曜日・夕方)
暗い夜の道を、私は一人で歩いている。
長い、長い道のりだった。どうしてそんな所にいたのか、今ではおぼろげにしか思い出せない。
誰かに手を引かれている。
大きな手だったのだけを覚えている。大人の、男の人の手だった。
それだけがなんだかひどく印象に残っていた。そのまま車に乗せられて知らない街に行った。
しかし、なぜか私はそこから家に帰ろうと思って、夜になってから一晩かけて歩いて家に帰ったのだ。
長い道のりだった。帰ってから足がピリピリと痛んだのをおぼえている。
何でそんなことをしたのか、実はよくわからない。
それについての確かな記憶があるわけではないのだが、推察するに、あれは私の父だったのだろう。
おそらく、父は母から私を救い出そうとしたのだとおもわれる。
私の認識の上で、分かる限りではあるが、母のことを話そう。
社会的常識を踏まえて客観的に評するなら、母は落伍者であった。
生家はそれなりに資産を持っているところらしかったが、それゆえに母はそれまでの生涯において金銭以外の価値を自分の内に見つけることができなかった。
美しさと富とを天と両親に与えられて育った母は、ただおだてられて二十余年の月日を生き、そして自分の価値は総て外面的な部分に付属するものでしかないことに気付いたのだ。
それから母のとった行動をどのように評するかは個人の判断に任せるしかないだろう。
少なくとも私はそれを批判できない。私はその母の行為を起点としてこの世に誕生することになったのだから。
母は黒魔術に耽溺するようになった。己の内面的な価値を渇望する母はそのうちに己のルーツに希望を託すようになったのだ。
当初は己の血筋の起源に、何か他者とは隔絶した価値がないものかと躍起になって調べ始めたのが最初らしい。
もともとが古い家系だったこともあり、散逸していた文献だけでもかなりの量があったらしいが、母はしばらくの間社会との関係を絶ってそれに没頭した。
そして数百年前に、祖先の血に混じったとされる異邦の兆しを発見したのである。
その詳細についてまでは知りようがなかったらしいが、曰く、私達の祖には十三世紀から十四世紀に掛けて欧州から逃れてきた本物の魔女と交わった者がいたらしいのである。
何から逃れてきたのかは、記すまでもないことだ。
あの時代、まるで雑草でも刈るように魔女と名の付くものを、真偽さえ問わず皆殺しにした狂気の殺戮集団がいたことは今更語るまでもないことである。
どう考えても、普通ならそこであまりに荒唐無稽だと断じて、或いは笑って己が徒労に終止符を打つものだと思うのだが、母の場合は運が良いというのか悪いというのか、その同時期に見つけてしまっていたのだ。
本物の魔術師であるわが師、ルベル・フォン・シュタウフェンを。
母は狂喜したに違いない。そのままの勢いで母は魔道の探索へ乗り出すことになった。
ここからは師の証言に基づいてことである。母はその頃日本に来日して来たばかりだった師のことをどこからか嗅ぎつけ、単身魔術の指導を願ってきたのだという。
まるで何かに取り付かれたかのような眼をしていた、とは師の言であった。
本来ならそれは真っ当な魔術師が受けるはずの無い申し出だったが、師はこれを受け入れたという。
着の身着のままで来日したばかりだった師は弟子というよりもパトロンとして母を遇したのである。
それ以来、プライベートにおいてはどこかルーズなところのある師は自堕落な母とは悪友のような関係となり、母が死ぬまでその付き合いは続いた。
数年ほどそのような付き合いが続いていたその頃、師は本国にある家門の有力者たちからの薦めで次の代のシュタウフェンを生む義務を課されており、すでに処置が施されていた。
それを聞いた母もまた魔女としての血を繋いでくれる子供を欲しがった。
すでに予想はついているかとは思うが、そうして生まれたのが、私というわけだ。
母はそのために父と婚約したのだという。父は魔術のことについては何も知らない一般人でしかなかったが、遠縁ではあるもののあの島原の分家筋らしく、何代かに一人という割合で常人とは少々異なる人間が生まれるという、曰く付きの家柄だったそうだ。
しかし、――これは推察でしかないが、――父自身はそんなことは関係なく母を愛していたようだった。
父は母と旧知の仲で、平凡ではあるが誠実な人間だったという。しかし、というよりもそれ故に、というべきか。
破局はすぐに訪れた。
当然といえば当然だ。母の目的は後継者としての子供を手に入れることだけだったのだし、父は母が裏でやっていることを知りながら看過できるほど性根の太い人間ではなかった。
そしてあの日、寒い夜だった気がする。
あの日、決別した二人は私のことについて言い争っていた。そして声が聞こえなくなり、父が私の手を取って歩き出した。
おそらく父はそのころになって、ようやく母が幼い私に何をしていたのかを知ったのだろう。
加えて、率直に己の心を告白するならば、私はそれほど母が好きだったわけではないのだ。
いつもイライラして酒びたりで、私がいるのも構わずに平気で男を招きいれて昼間から淫猥な行為にふけるような人だった。
たまに優しいことがあっても、次の瞬間にはまるで嵐の夜のように様相を変えて怒鳴り始めたりもする。自堕落で、破壊的で、情緒が安定しないところがあった。
きっと、自分が魔女に連なる血筋ではあっても、それで魔女になれるわけではない。結局、自分はただそういうルーツを持っていただけの凡俗な人間なのだと思い知っていたからなのかもしれない。
それゆえに母は私を魔女にしようと躍起になっていたのだ。父の目には……それが虐待と映ったのかもしれない。
ただ、事実として、私は父の家から一晩かけて母のもとへ帰ったのだ。
私は、きっと、父のことを嫌っていたのではないと思う。父も、私という存在に対して邪悪な念を抱いていたわけではないのだと思う。
私の手を引いた、あの大きな手は掌は、とても暖かくて、優しげだった。
もしかしたら、それは、血の繋がりによるただの責任感でしかなかったのかもしれないし、事実を知らぬが故の的外れな憐れみでしかなかったのかもしれない。
それでもそれが父の愛情だったのだと、頭のどこかで、私は知っていたのだ。私は確かに愛されていたのだと、ちゃんと知っていた。
それでも私は帰った。そういうものを、丸ごと、振り切って。
朝方になって家に帰ってきた私を見つけて、母は子供のように泣きながら私を抱きしめた。私は泣かなかった。ただひどく満たされた想いがして、そのまま眠ってしまった。
……考えてもみれば、おかしな話だ。一晩かけて、何十キロも歩いて実の母のもとへ帰ってきた子供が泣きもせず、母を愛おしいとも思わず、ただ満たされた、とは。――
その後、父と母の間には師が仲介に入り、私達は師の屋敷に住み込むようになった。
晩年の行いのせいで私財を食い潰してしまった母には、もう何も残っていなかったのだ。
そしてそれから数年の後に、母は枯れるようにして逝ってしまった。そして時を同じくして、それを追う様に、父も事故にあってあっけなく死んだのだと、人伝に聞いた。
私はそのまま師の屋敷に留まることになり、正式に魔女の弟子となった。そして――今に至る。この、戦場に。
今も母を心から愛していたとは言えないと思う。ただ、あの時の充足感が在ったから、私はここまでやってこれたのだ。
母のために魔女になることで、またあの気持ちにめぐり合えるのではないかと思っていたのだろうか。
だとすれば、私も動機の不純な人間だ。結局は充足という名の快感を得たいがためにこんな外法の儀式に参加してしいるのだから……。
私が求めていたのはなんだったのだろうか、充足感。あの気持ちはいったいなんなのだろう。
父の庇護を蔑ろにしてまで、求めたものはなんだったのだろうか?
まるで手探りでその答えをさがるかのように問いを繰り返す内に、不意に柔らかな温もりを感じて、私は眼を覚ました。
暗い空間に横たえられている。周りを何か、馴染みのある柔らかな感触のものが取り囲んでいる。そして、とても暖かい。
丸くなった私の周囲を取り囲むようにしていたのは使い魔の黒猫たちだった。
それだけではない。顔見知りの使い魔予備軍の猫たちも勢ぞろいしている。皆、私のために集まってくれたらしい。
……映画であったな、こんなシーン……
ビルから突き落とされて致命傷を負った女が猫の集団に命を吹き込まれて復活し、猫女としてよみがえる――。
そんなことを曖昧に考えながら、猫たちに礼を言って身体を起こした。
「……なんてね。……みんな、ありがと」
しかし、そのせいで揺り起こされたり、私の上から転げ落ちたりした猫たちからは抗議の声が上がった。どうやら皆寝床が動くことがお気に召さないらしい。
「……おいおい」
ツッコミを入れてみる。まあ、仕方がない。猫とはそういうものだ。気をあらためて、礼代わりに猫たちを一通り撫でこすってまわる。
とにかく、おかげで私は凍えずにすんだのだから、いくら礼をしてもしたりないくらいだ。……まあ、寒空の下で湯たんぽ代わりにされていた感もないではないのだが……。
身体を調べてみる。取り敢えずはちゃんと生きているようだ。どうやら猫に跨がれて死体となった後に蘇ったというわけではないらしい。
映画の話だけではなく実際に九州や四国では猫にまたがれると死者が蘇るという話があるらしい。類似の寓話は中国にもあるそうな。
つらつらと、リハビリ代わりにそんな知識を回想してみる。どうでもいいことばかりではなく自分のパーソナリティや現在の状況等は滞りなく思い出すことができた。幸いにも頭の方は無事だったらしい。
使い魔達がそれぞれにストックしていた魔力を供給してくれたおかげで、枯渇しかかっていた魔力は補填されている。深かった傷のほうも取り敢えずは塞がっているようだ。
どうやら生き延びたらしい。ぼやけたままの頭を振ってようやくそれを確信できた。
私の使い魔たちは戦闘こそ行わないが、戦闘を行う場合は私の補給、補佐、後方支援等に徹するように想定してある。
時には私の眼となり耳となり、あるときは器物や衣服に変容して私の身を護り、そして私の魔力が枯渇したなら魔力の補給も行うことができるのである。
よって、私が使い魔を前衛に使わないのにはそういう理由もあるのだ。
ストックしている魔力の量は使い魔によってそれぞれ違う。
一軍(飼猫・幹部)の黒猫たちはほぼ私を満タンにできるだけの魔力をそれぞれにストックしており、二軍(半野良・正社員)三軍(顔見知り・パートタイム)以下はそれに順ずる形になる。
私自身の魔力の総量は微々たるものなので、本気で魔術戦をやろうと思うならこうした工夫が必要になってくるのだ。しかし魔力の総量が少ないということは逆に言えば完全回復にかかる魔力が少なくてすむということでもある。
物事には利点と難点とが背中合わせになっているものなのだ。
「……ありがと、グランパ。マーベルも来てくれたの? ……レオ、耀子先生は大丈夫だった?」
顔に近い位置に陣取っていた一軍の使い魔たちはそれぞれにニャ―ニャーと鳴いて私の労をねぎらってくれる。
中には隠れ家に置いて来たはずのお腹の大きな雌猫、マーベルの姿もあった。私の危機と知って駆けつけてくれたのだ。
レオに任せておいた担任教師の島原耀子も滞りなく病院に収容されたらしい。私はようやく安堵の息をはいた。
後は協会から派遣された魔術師達が、不可解な事故への事後処理等については万全を期してくれることだろう。
薄っぺらな毛布を羽織って外に出てみると、すでに辺りは夕刻の色合いを強めていた。少なくとも丸一日は経過している計算だ。私はかなりの時間眠り続けていたらしい。
ふと気が付くとせせらぎの音が聞こえていた。ここは何処なのだろうか? どうやら山間の木小屋のようだが、どうやってここまで来たのか記憶がはっきりしない。
そういえば、ライダーは何処へ行っているのだろうか? まだパスはつながっているが、しかし気配の所在がいまいちはっきりとしない。
私が寝かされていたのは、木小屋というよりも物置のような掘っ立て小屋だった。おそらくはかなり昔に使用されていた山荘の名残(・・)のようなものなのだろう。
小屋の近くには適度な広さの更地があり、諸所に使い古された感のある材木が横たわっていた。
どうやら、私達は必死で逃走を続ける内に笹ヶ谷市の東側を丸く取り囲んでいる連峰の奥深くに迷い込んでしまったようだった。
一昔前まではこの辺りに別荘なんぞを持ちたがる杞憂な人種がいたらしいのだが、今となってはこの辺りに入り込む人間もなく、山荘の辺りには人の踏み込んだ跡さえなかった。
私が状況把握に努めていると、背後から薪の爆ぜる音が跳ねた。振り向くと、小屋の陰になっている更地の隅で材木に腰掛けたライダーが私の寝床からあぶれたらしい猫たちと焚き火を囲んでいた。
「…………焚き火なんてしたら、ここにいるって教えるようなものだと思うけど」
私は朱色の火の中へ微動だにせず視線を注いでいる大きな背中に声を掛けた。
薄れかかった夕日と周囲を取り囲む木々の作り出す仄暗い薄闇のせいか、その炎はとろとろとありもしない風に煽られるかのように揺らめいていた。
まるでこの空間ではその朱色の翳りこそが陰であり、逆説的に影の代役を演じているかのようであった。
「フン。なんだ、ようやく眼が覚めたのか」
「……なんとかね……」
「火のことは気にするな。たいして煙も出てはおらんし、どうせこのまま隠れてやり過ごせるとも思ってはおるまい? ならば英気を養うほうが先決であろうさ」
ライダーが振り向くと、ぼんやりとした影法師のような光景は矢庭に現実味を帯びた。確かに――煌々と燃える炎からは殆ど煙も出ていない。
「それに、こうして丸一日火をたいても何事もないのだから、気に病むこともあるまい。今来ないなら夜までは何も来やせんぞ。……ほれ、たいして残っとらんが、どうだ? 今の内に食っておいたほうがいいぞ」
そう言ってライダーが四角い顎先でしめしたのは火にかけてある大鍋であった。私の目は芒とした炎の仄明るさにばかり眼がいってそれを失念していたのだ。
さて? 小屋にあったものだろうか? とにかく近くまで歩み寄ってみると、獣臭い油の臭いがしてきた。どうやら得体の知れない大量の獣肉を煮込んでいたらしい。
見れば、ライダーの足許に広げられた青いビニールシートの上には小山のように積み上げられた血まみれの残骸、魚で言うところのアラのようなものが大量に転がっていた。集まった猫たちはどうやらこれが目当てであるらしい。
「…………」
私がそれを無言で見つめると、視線に気付いたライダーは呑気そうな声で笑った。
「フン。心配そうな顔をするな。足下の大事な猫を食っていたわけではない。食ったのは、ほれ、こいつだ」
そう言ってライダーが掲げたのは馬鹿でかいイノシシの頭だった。
先ほどのライダーの言から、そも、なぜ丸一日火を焚き続けなければならなかったのかと訝ってはいたのだが、どうやらライダーは捕まえたイノシシを解体して延々と鍋で煮込んで貪っていたらしい。
「……呆れた」
私が心底脱力してそういうとライダーはガハハと声を上げて笑った。
「今朝まで生きとった新鮮な肉だ。ほぼ丸ごと食ったわけだからな、まあ、多少は腹と魔力の足しになったわい」
にしたって肉だけでも数十キロはあるだろうに、それをぺろりと平らげるとは、あらためてこの男の貪欲さには恐れ入る限りだ。
しかし私は何もいえなった。この事態のそもそもの要因は、私がライダーに充分な魔力を供給できていない事なのは明らかなのだ。
「さあ、足下も食え、食え。腹が減っていては反撃も何もままならんわ! フフン。実の戦でも、兵糧攻めほど恐ろしいものはない故な」
「……反撃……」
呟きながらも、私はズイッと力強く差し出された容器を受け取り猪鍋……とも呼べない煮込みを胃に流し込んだ。味のことはさて置いて、自分でも気が付かなかった空腹のおかげか、痞(つか)えることもなく肉と煮汁は胃に納まった。
飢えが満たされたことで、それまで寒気と共に体の諸所を蝕んでいた焦燥感やまるで底が無いかのような冷たい不安は薄れていった。
私は深く息をついて、ようやく顔に照り返してくる火の温度を感じることができた。
「そうだ。よく食い、よく眠る。……勝つための基本だな」
鍋の底をさらいながらなぜかライダーは嬉しそうな声で言った。しかし俯いた私の目には火の翳になったライダーの表情はわからなかった。
笑っていたのか、もしかしたら獰猛な獣のように牙を向いていたのかもしれない。私はじっと炎を見ていた。
穏やかなようで、 その内部は激しく躍動しているのが見えた。それは今目の前にいる男の押さえ込まれた内情を映していたのかもしれない。
「……この鍋は何処から持ってきたの?」
私はふと思い至って訊いた。それにこの妙に重い食器もそうである。箸まで金属製だ。というより、これは唯の金属の棒だというほうが適切だった。
「それなら、そこらにあったもので、適当に鍋を拵えたのだ。フン。やってみれば何とかなるものだな」
なるほど、つまりあの奇妙な形に引き延ばされている大鍋はもとは別の形をしていたらしいということか。おそらくはあの物置に放置されていた廃材か何かなのだろう。
バーベキューセットか何かだろうか? ライダーはそれを恐ろしい力で叩いて伸ばし鍋にしてしまったのだ。一見なんとも力技に思えるが、基本的に鉄の特性とは剛性ではなくいかなる形にも加工しやすいという、軟性にあるのだと聞いたことがある。
とある孤島に漂着した人間が、船の残骸から引き抜いた釘を石などで刃物や釣り針に加工して何年間もサバイバルしたという話もあるほどだ。
さすがは古代世紀に生きた男。いざという時には文明人とは違った妙な頼もしさがある。
――と、一時はこの男にしては意外にも気転を利かせたものだと感心したのだが、よくよく推察してみれば、おそらくはとりあえず捕まえてみたイノシシをどうやって食べようかを考えて、このバイタリティーを発揮したのではないか、ということは想像に難くなく。
加えて考察するなら食い気やら色気やらが絡むと凄まじい行動力を発揮するのがこの男の特徴なのであり、そもそも、実体化している事での魔力のロスを考えれば、霊体化していてくれたほうが良かったのではないかとも思うのだが……。
いや、どの道同じことだろう。たとえ完全に回復したのだとしても、あの敵に勝てる確率はほとんどない。
「……ライダー。今までの食事と休息でどのくらい魔力を回復できた?」
「まあ、五割というところだな」
小枝で作った爪楊枝を使いながらライダーは素っ気無く言った。私達は互いに火に視線を落としていた。
私は赤い炎の揺らぎの向こうに不可思議な錯覚を覚えていた。両者の間に火を挿むと、さほど離れてもいないはずの相手の顔が不意に芒とぼやけるような気がしてくる。炎の赤い照り返しと燻(くゆ)る陰翳が相対する人物をまるで別人のように彩ってしまうようだった。
今では対峙する巨漢の顔が、いつもの安っぽく雑然とした粗暴な姦雄のそれでなく、ひどく峻厳で頼もしい益荒男のようにも思えてくるのだ。そのせいなのだろうか、いつものように内心でライダーを馬鹿扱いすることが憚られた。
なぜこんな気持ちになるのかわからない。解る事と言えば、私とは違ってライダーの気力は微塵も衰えていないのだということ。その点については深い安堵の心があったのは確かだ。これでライダーにまで敗走の動揺があったのなら、正味な話、私には事態を収拾できた自信がない。
さすがは戦乱の世に名を残した凶(まがつ)の泰斗だ。きっとこの男は今すぐにでも戦えるのだろう。たとえ、どれほど傷を負い、消耗して追い詰められても、この男は安っぽく抵抗しながら最後まで足掻くのだろう。
――それが、私には無理なのかもしれない。あれほど圧倒的に打ちのめされて、また闘いに行くことが私にはできないかもしれない。
……なぜ、この男はそうまでして戦えるのだろうか?
「……ライダー、私は……」
私は不意に声を滑らせた。自分でも己が何を言おうとしていたのかわからなかった。
しかし、
「戦略の方は任せるぞ」
私の台詞を押しのけるかのように、ライダーはそう言った。私は俯くのを止めてライダーを見た。
「フン。せいぜい、俺様をうまく使って見せろ。そういう盟約だったからな。まあ、あの髭達磨のことは任せておけ、次やれば負けはせぬ」
「…………うん」
「では少し寝ておけ、夜が更けるまでは暫し時間がある」
「……ライダーも後は霊体化しておいて。見張りはこの子達がしてくれるから」
「おう」
そう言うと、ライダーは馬鹿でかい鉄鍋を杯のように軽々と掲げ上げ、中身を一気に飲み干して火を落としにかかった。
私は寝床に戻り猫を掻き分けて再び横になった。
弱音を吐かずにすんだのはありがたかった。あれがライダーなりの気の使い方なのだろう。本当に、馬鹿に気を使われてばかりのわたしが一番馬鹿のようだ。
本来なら、幾らでも死者に鞭打つような言葉を吐きそうなライダーが私にはそんなそぶりをついぞ見せなかった。
私の消耗振りはそれほど危機的だったということだろうか、なるほど、そんな小娘に再度闘いを促すにはできる限り穏やかにことを運ぶべきと、あの男をしてさえ思わせるほどに、私は怖気づいていると思われたのだろうか?
そう考えると悔しい。――が、事実としてそれは正しい。今も身体の芯から震えが来るのだ。
いくら身体を温めても、身を縮めても、体の奥から湧いてくるそのおぞましい物は消えなかった。
怯えるだけの自分が情けなかった。ライダーがまがりなりにも私を慮り、戦略の全権を託してくれているというのに、それに応えるだけの覇気が今の私にはないのだ。
勝てない。
あのバケモノには、夜鳴手錐人にはどうあっても――再戦するとは言っても、向こうはもうこちらの弱みも手に取るように把握していることであろう。
どうあっても、勝てない。せめて何らかの策がたてられればいいのだが、こちらには奴らの弱点らしい弱点の兆しすらつかめていないのだ。
ならばどうする? ――――逃げようか?
ふと自暴自棄気味な感覚が湧き起こり、あっという間に私の内容を満たしてしまった。身じろぎする暇すらなかった。
今ならライダーの宝具を使って師の屋敷まで移動することができる。そして、ライダーには自害させてしまえばいい。ライダーがいくら強力なサーヴァントでも令呪には抗えない。
そうすれば、もう戦うこともなく生き延びることができる。誰も責めはしないだろう。もとより荷の勝ちすぎる挑戦だったのだ。師もおそらくそう言ってくれるだろう。あれで温情に厚い人だ。しかし――――
しかし、それは、できない。
私は歯を食いしばって、その怖気を噛み殺そうと努めた。
ここで逃げれは、私は生涯それを悔いる。そうまでして生き延びて何になるというのだろうか。
その先に待っているのは暗黒の日々だ。母がそれに苛まれ続けたように、悔恨は死に勝る苦痛を生者に強いる。
そうは思っても、いくら己に言葉を掛けても、すでに私という器を隅々まで満たした諦めにも似た弛緩したような冷めた感覚は、消えようとはしなかった。
むしろ凍りつくように凄味を増して、私の五感と五体を腐らせ始めていた。
どうせ死ぬのだろう? おそらくだが、それは、もう確定だ。それが恐ろしかった。
とっくに観念していた筈なのに。あれは嘘だったのだろうか? ならば私は自分に嘘ばかりついていたことになる。自分を偽って、己の心を欺いて――そうして生きてきた結果が、これか。
自嘲の笑みさえ、私の乾いた唇からは生まれなかった。
私はなぜこんなことをしている? そうしなければならない必要もないのに。なぜ命まで掛けてこんなことをしているのだ?
なぜ? どうして、どうして、どうして――。
自分の身体を抱きすくめ、涙まで流して私は自問した。
眼を閉じるとまたさっきの夢のことが浮かんできた。そうだ。なぜというならば、私はなぜあの時母の元に戻ったのだろうか?
あのまま父の所へ行けば少なくともこんな場所で眼前に迫る死の気配に怯えることなく安穏と生きていけたはずなのに……。どうして私はそうしなかったのだろうか? どうして、今、私はここにいるのだろう?
私はもう一度あの時のことを思い出してみようとした。もしかしたら己を包む絶望感から逃げたかっただけなのかもしれないが、とにかくあのときの気持ちを思い出してみようとした。
死ぬかもしれないのなら、せめて自分の心くらいは知っておきたかった。私はなんのためにそうしたのだろう。何のためにそうしているのだろう。
あの時――そうだ、あの時だ。寒く長い道を通って、足からは血まで流して、道もわからなかったのに、それでも教えてもらったとおりに星の位置から方角だけを割り出して、それを目指して家に辿り着いた。
母に抱きしめられて、とても嬉しかったのをおぼえている。
しかし、それは母に抱きしめられたからではなかった。その家路についたとき、私は何も怖くなかったのだ。どんなに辛く、寒く、暗く、痛みを伴い、心細かったとしても、私は迷わずそうしたのだ。
そうしている間、何も怖いとは思わなかった。どうしてなのだろう。今はこんなにも怯えているというのに、どうしてあの時はそれを恐れずにすんだのだろう。
どうして? どうして――
そこで、不意に浮き上がるように、答えは、私の中から示された。
それは、――それは、――――そうするのが、正しかったからだ。
私はつぐんでいた眼を見開いた。
そうだ。私は正しいことをしたかったのだ。
あの時もそうだ。弱った母を、私に依存することでしか自分を保てなかった母を、そうだと知っていながら見捨てるのは正しくないことだった。
だから帰った。それが私にとっての正しいことだった。
正しいことを、したいのだ。
それが私の願いだった。正しさとは、他者から賛同を受けることではない。他者に何かを強制することでもない。
まして、誰かの愛や庇護に甘んじることでも、ない。己の行いに己が後悔しないということをいうのだ。
後悔は生を鈍らせる、それは正しさのために払われる労とは異質なものだ。耐えがたく、おぞましいまでの苦痛だ。人を生きたまま腐らせる毒だ。
どうしようもない母を置いていくことは正しくない。そして、友人を無残に殺した相手を知りながらそれを野放しにすることも、正しくない。
私は、そう思う。それを知りながら見過ごすのは正しくない。だから、私はそうしなかったのだ。
正しいこととは、己にとっての正しさに沿って生きていく事だ。それは幸福への道なのだ。
幸福とは、物質的に満たされて安楽に生きていくことではない。己の行動を後悔することなく、絶え間ない労を厭うことなく、自己の理想を少しずつ実現しながら切磋琢磨して生き、そして死ぬことなのだ。
それが、人が人として幸福であるということだ。
如何に財に溢れ、才に恵まれ、人から崇められようとも、その生が迷いと悔恨に満たされていたとしたら、それは死に勝る苦痛に苛まれ続ける人生でしかない。
幸福に背を向けて、怠惰で安楽な生を求める人間は一時の快楽でその苦痛を忘れようとする。だがそれは所詮一時のことでしかないのだ。快楽で己の悔恨という苦痛を覆い隠しても、それはなんの解決にもならない。
幸福を目指し、己を律して生きていくことでしか、人は己を幸福にすることは出来ないのだ。
母は生涯それにあえぎ続けたのだ。物質的に満たされ、快楽と怠惰で総てを塗りつぶそうとしても、結局残ったのは悔恨だけであり、すぐに生きたまま腐っているような自分を直視しなくてはならなくなる。
そして結局は、苦痛から逃げるように全身を麻痺させることでしか生きていけなくなるのだ。心まで弛緩させて、生きた屍となって生きていく。
そんな様を見ていたからこそ、私は思ったのだ。不幸にはなりたくないと。私は生きていることの総てに後悔したくないのだ、と。
だから正しいことをする。そして満たされて生きていきたい。
私は私の生きかたに妥協したくないのだ。せめて私の手の届く範囲、この五体そして私の心だけは、私の正しさで律したい。
それが、私が万能の願望器に望む、唯一の願いだ。
己の気持ちを明文化してみて、初めてわかった。私はずっと正しく生きたいと思ってきた。それは幸福になりたかったからだ。あの時感じた充足感は自分が正しいことを成し、幸福なのだということを幼かった私なりに感じていたのだ。
そうだ。正しさを求める限り、私は逸れる事のない、真っ直ぐな道の中にいる。その道を歩む限り、どれほどの苦痛に見舞われようとも、きっと自分は幸福の中で死んでいける。
そう思える。なら、もう迷う必要は何処にも――――――――ッ?!
私は猫達を跳ね飛ばしながら、弾かれるように身を起こした。
「――道? ……!? そうだ、道だ!」
『どうした』
弾けたような私の声に、霊体化したままのライダーが問いかけてきた。
「……見つけた」
『ほう? ――フフン。何をだ?』
「……あの怪物、夜鳴手錐人攻略の手掛かりを」
私は体の内から淡く、しかしその後の大火を予想させるような煌めきを秘めた種火が静かに灯るのを感じていた。