Fate/alter Seven Sight ――the First Sight――   作:どっこちゃん

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四章-1

(水曜日・朝)

 

 薄暗い地下室の一角にある丸扉の輪郭に、淡い金の円環が現れているのを見つけて、私は未だ諸所に気だるさを残す身体を、重く、とろりとした香油で満たされたバスタブから引き上げた。

 

 日の光がここまで差し込んできているのだ。光量からして、とうに夜は明けていたらしい。

 

 丸一日をまどろんで費やした治療魔術は功を奏したようで、各所に出来ていた各々の傷は跡形も無く完治し、深かった足の傷も多少の痛みを残してはいるが、歩けないというほどではない。

 

 このように時間をかけずとも、瞬く間に傷を塞ぐ術というのもないことはないのだが、やはりこうやって時間と手間をかけて治癒したほうが傷口もしっかりと癒着するし、また綺麗に治るのだ。

 

 あれから丸一日、私は郊外の廃墟を無断流用した隠れ家――その地下室を改装して造ったこの簡易工房の一室で、全身を特性のアロマキャンドルの芳香と温む香油に浸しながらじっくりと思考を練っていた。

 

 初めて明確な勝利を収めたことで、心理的にも余裕というものができていたのだろう。思考は実にクリアだった。一番の焦点となるのは、やはり現在の趨勢についてである。

 

 一昨夜の戦闘でキャスターとバーサーカーが脱落したとするならば、残るサーヴァントは私のライダー、緒戦に対峙したランサー、そしてまだ見ぬセイバー、アーチャー、そしてアサシンである。

 

 一気に二人のサーヴァントを倒すことが出来たのは、思っても見なかった僥倖だといっていい。

 

 しかし、だからといっていつまでも浮かれているわけには行かない。残りの敵が数を減らすことは同時に総てのマスターとサーヴァントが動き出すということを意味する。

 

 今まで穴熊を決め込んでいた連中が野に放たれるのだ。闘いはここから一気に激しさを増していくだろう。

 いつまでも呆けている場合ではない。

 

 全身の香油を洗い流した私は、そのまま軽く身体を拭いただけですぐにバスローブを纏った。上方から漏れこんできた陽光には背を向けて一路、更に深い地下へと歩を進めた。

 

 気分が晴れやかなだけに朝日のひとつも浴びたいところだったが、ここは表向きには空き家ということになっている。下手に出入りして人目に付くようなことは厳禁だ。

 

 私は手にした燭台の織り成す影を燻らしながら、地下の深奥の一室に向かった。英霊召喚(サモン・サーヴァント)にも使った一番大きな広間で、基本的な居住に適するように改装を重ねてきた場所だ。

 

 なんとなれば、ニヶ月くらいはここで篭城だって出来るだけの備えをしてある。苦労した甲斐もあるというものだ。

 

 思えば、唯の物資貯蔵用の地下室を、半年もかけて拡張し、掘り進めて出来上がった苦心の隠し工房なのだ。

 

 儀式の終了と共に破棄してしまうのは惜しいくらいだ。ゆくゆくは正式に買い取って地上の建物諸共に自分だけの工房として使用するのも悪くないかも知れない。

 

 しかし、扉を開けると、そんなちょっとした誇らしげな気分を吹き飛ばすような酒の臭いに出迎えられた。

 

「おお、主よ。なんだなんだ、朝から頬を桃色に染めてとはらしくもないではないか。いやなんとも艶めかしい。ふむ? そうか風呂上りだったな。なんにしても酒の肴としては上々よ。

 

 どうだ足下(そっか)も湯上りに一杯。ささ、こちらへ来やれい、膝の上でもかまわんぞ、ほれ」

 

「……、……」

 

 無論のこと、容疑者は疑うまでもなくひとりだ。そこでは案の定頬に不健康そうな朱を兆した巨漢が酒瓶片手に朝っぱらから……なんと言おうものか「出来上がって」いた。

 

「おいおい、なんという顔をしとるんだ。足下はあれよな、なかなかどうして愛らしい顔をしとるくせに表情というものが硬い。いかんぞ。それではいかん。

 

 いいか、女というのはな、幼げ残す少女から熟れた婦人に至るまで、時にうっそりと、時に朗らかに、ころころとはにかんで笑顔を転がして見せるのが一番なのだぞ。それでこそ華は華として咲き誇るというものだ。

 

 若いゆえに硬いのは仕方がないことかも知れぬが、女というのは硬くてもよいことなどひとつもないのだからな。うむ、硬くて都合がいいのは男のほうだな? ヌゥハハハッ!」

 

 言葉もない。

 

 なんで私は気持ちも新たに再起しようと決意した朝に、己の従僕であるサーヴァントにセクハラされなくてはならないのだろうか? というか普通に余計なお世話だ。

 

 私は吐きたくも無い溜息を奮発して、眉間を押さえ込んだ。確かに一昨夜の勝利はこの馬鹿の手柄も考慮しないわけには行かないのだが、しかしこれをこのまま放免しては仮にもマスターとしての沽券に関わるし、それ以上にいろいろと問題だろう。

 

 このままでは被害が私だけで済むとは思われない。近隣住民に取り返しの着かない不幸が襲い掛かる前に、私が何とかしなければ……。

 

「……朝っぱらから何をしてるの、ライダー」

 

 言葉を無くして暫しの後、ようやく絞り出せたのがそんな文句であった。

 

「フン。何をも何も、足下がずっと風呂に浸かっておるので、おれは手持ち無沙汰で仕方がなく、こうして無聊をなぐさめているのではないか。いや、風呂桶の中で死んどるのかとおもったぞ」

 

 つまり朝っぱらからではなく、昨日の朝からずっとこうしているらしい。見れば一番広い地下室の一角に小高く積み上げられた酒瓶の量は私が用意していたものを明らかに超える量と見受けられた。

 どうやってそれを入手してきたのか訊くことも憚られる。

 

 そしてこの男を従えている以上、この場所での篭城は不可能であったことがここに判明した。食料の備蓄の大半がすでにつきかけていたのである。私一人分の備えとはいえ、ニか月分がもって一昼夜の酒のつまみとは……さすがに言葉もない。

 

「……いや、別にずっと遊んでろとはだれも……」

 

「何を言う、風呂に入る前にしっかと言ったではないか。フフン。勝手にどこぞへ攻め入るのはやめろ、問題だけは起すな、と繰り返してな」

 

 つまり、「攻めるな」=「何もするな」ということと受け取ったらしい。そして何処からか大量の酒類を強奪するのはこの男にとって「問題」ではないようだ。

 

 この男、本当に喧嘩以外は出来ないし、ヤル気もないらしい。私は朝から頭痛を起こしそうだった。

 

 後で何処からこれらの酒を持ってきたのかを聞きださなくてはならない。レッキとした盗難事件になってしまっているだろうが、仕方が無いので密かに代金だけでも置いてくるしかない。

 

「………………攻めないにしても、やることぐらいあるでしょう。偵察なり、警護なり、諜報なり……」

 

「まどろっこしい。攻め込んだほうが早かろう。フフン。さて、足下の傷も癒えたなら今から参じようか、次の狙いは何処だ?」

 

「……行かない。今度こそ行き当たりばったりは無し。ちゃんと作戦にしたがって」

 

 胡坐(あぐら)を掻いたまま酒瓶から手を放さぬ目下の巨漢を、私は備わる限りの威をもって睨みつけた。

 

 そして反駁を予想して身構えた。どうせまたごねはじめるに決まっている。このサーヴァントの相手をする場合、並大抵の気力では話にならないのだ。言うことを聞かせるのも一苦労だ。

 

「ふうむ……」

 

「……忘れたとは言わせない。一昨日勝てたのは私のおかげだったってあなたも認めたでしょ。なら、これから先は私の指示、作戦にしたがってもらうから」

 

「フン。よかろう」

 

「……え?」

 

 ライダーが以外にもあっさりと了承したので、私は拍子抜けしてしまった。

 

「足下の指示に従おうではないか。ほかにはなにかあるか?」

 

 今までは耳だけを私に向けていたのが、今度はいきなり私と面に向かって、

 

「どうだ? 何かあるのか」

 

「……ない、けど」

 

 酔いも全く冷めたかのような慄然とした顔を向けてきたのだ。先ほどから酔いどれていたのは腹ただしくもまだ予想のつくことではあったが、これこそ想定の埒外である。私は二の句も継げずに是と唱えることしか出来なかった。

 

「ぃよし! ――さて、フフン。そこで我が栄えあるマスターよ」

 

 ニヤリ、とばかりに極上の笑いを浮かべたその顔は凶兆を含んでいた。私はしまったと感づいた。交渉の席に、不用意に着いたのは私のほうだったのだ。

 

「足下こそ、忘れてはおらんだろうな」

 

「……なにを?」

 

「とぼけるでない。サーヴァントを討ち取った暁には、我が麗しの君に引き合わせるとの盟約だったではないか」

 

「……あー、」

 

 そういえばそうであった。どうやらライダーは飲んだくれていながらも、そのことを確約させるために虎視眈々と私を待ち構えていたらしい。

 

 その後の動乱に紛れて意に昇らなかったのだが、初めてバーサーカーと対峙した夜にもコイツはこういう手腕を見せていた。

 

 そういえば、馬鹿の中の馬鹿のクセに、時たまこういう奸智に長けるところを見せるから、昔の人もコイツの扱いに困っていたんだっけ。

 

 それを失念していたのだ。これは私のほうの失策であった。

 

「……確かにそうだけど。会うのは受肉してからって言ったじゃない」

 

「いや、そこで考えたのだがな、いきなり会うて求愛したのでは、向こうも驚かれることであろう。会うだけなら受肉していなくとも問題あるまい。

 

 そこでだ、今のうちに幾度か偶然を装って逢瀬を重ねておくのだ。そこではあえてこちらの心を見せずに関心の無い風を装ってな。そのあとで受肉の暁に、いよいよもってこの心の内を示すのだ。

 

 現世の言い回しで言えば「さぷらいず」というやつだ。いや、いつの世も女心というのはこういうのに弱いからなぁ」

 

「…………ああ、うん、そう。いいんじゃ、ない」

 

 私は夢見るような面持ちで虚空を仰ぐ馬鹿から目を逸らしつつ、そう適当な相槌を打った。他にどう言えばいいのであろうか。私は呆れるのを通り越して憐れにもなってきた。

 

「フフン。そうだろう、そうだろう!」

 

 ライダーは上機嫌でまた新しい酒瓶を手にとって、小枝でも折るかのように注ぎ口の部分をぺきり、と折り取って中身を一息に飲み干した。

 

 ライダーの機嫌は最高潮に差し掛かり、私はそれに反比例して偏頭痛のピークを迎えようとしていた。

 

「して、日程はどのようになっておる」

 

「……向こうの都合もあるから、……すぐにって訳には行かないと思うけど」

 

「ぬうぅッ! まだ待てというか。そうは見えぬかも知れぬがな、こちらの気はそう長くはないのだぞ!」

 

 言われなくともそう見える。見えすぎるくらい丸見えだ。

 

「……まあ、なんていうか、……奥手な娘だから」

 

 そう言うと、やおら激昂していたはずのライダーは一変して融解するかのようにだらしなく破顔した。

 

「ほうッ! そうか、そうかっ、それでは仕方がないやもしれぬなぁ。そうだな、あれほどの美女なれば、そうそう尻の軽いこともあるまいなぁ、うむうむ、なるほど……」

 

 グフフッ、と気色の悪い含み笑いを漏らしていた。

 

「……とにかく誘って見るから、おとなしく待ってて」

 

「フフン。心得た! 全ッ力で、待とうではないか!」

 

 コイツ、馬鹿なだけじゃなくて気持ちも悪いな。と、私はあらためて心の底から思っていた。

 

「……それから言っとくけど、まだ勝ちが決まったわけじゃないんだから、あんまり気は抜かないでよ」

 

「なぁに、そこはそれ、大船に乗った気でおればよかろう。残りの敵はあの槍使いの爺にどこぞの剣士に弓兵、あとは間者だけというではないか、つまりは何処からくるか解らん間者にだけ注意して置けば、フフン。後は何を恐れることが在ろうか」

 

「…………それは……そうかも」

 

 ライダー(馬鹿)にしては最もな意見かもしれない。確かにライダーの戦闘力を加味するなら、恐ろしいのはキャスターやアサシンといった搦め手を使うタイプの敵ということになる。

 

 実際、あのキャスターとの相性は最悪だった。しかしそれを下した今、残りの敵と正面から相対するならば、おそらくライダーにとってそれらは物の数ではないだろう。確かに、そう考えるなら前途は揚々と開けているのかもしれない。

 

「フン。そうと決まれば、祝杯の続きだな」

 

「……ちょっとは控えておいて、あんたが実体化してるだけでこっちは消耗するんだから」

 

「うむ、ほどほどに控えよう。吉報を待つぞ!」

 

 全力で霊体化して待機するようライダーに言いつけてはみたが、あの調子だと多分素直に霊体化はしなさそうだが、これ以上の問答は体力の無駄な浪費でしかない。

 

 私は手早く登校の用意を済ませ、外につながっている地下道に入った。

 表向き空き家になっているこの洋館から出てくるのはよくないので、人気の無い場所に通じている抜け穴を通って出入りするのである。

 

 私は勝利に浮かれるライダーに注意を促したが、しかし遺憾ながら、このとき私も勝利の余韻に酔って楽観視しすぎていなかったかといえば、嘘になるかもしれない。

 

 ――後で、それをひどく後悔することになるとは、この朝には思いもよらなかった。

 

 

 

 生憎の曇り空の中、未だ微かに刺すような痛みを残す足を引きずるようにして、私は平時通う学舎に向かった。

 

 足をかばってきたせいで時間はかなりギリギリだった。これで加減したというのだから凄まじい切れ味だ。しかしサーヴァントとの戦闘で受けた一番の負傷が味方から受けた傷だというのもなかなか情けない話ではないのだろうか。

 

 丸一日ぶりの教室は特に変わったこともなく、和んだ空気が私の渇いた心を癒してくれる……はずだったのだが、なぜか違和感のようなものがあった。

 

 教室そのものにではない。いつもの弛緩しきった緩やかで怠慢な空気が、なぜか今日に限って曇天の空の如く澱んでいるように思えた。

 

 今にも凍てつく雨に降られそうな、それを恐れているかのようなピリピリとした感覚も付き纏ってくる。

 

 級友たちの顔に浮かんでいるのは、なにやら得体の知れぬ焦燥や恐怖のようなものではないかと窺えた。

 

 何かあったのだろうか?

 

「クロ……」

 

 席について眉を顰めたところで、深刻そうな顔をした馬鹿がよってきた。腐れ縁の旧友、那須秋乃である。何事かというような顔色が窺えたが、私はあまり真に受け取ることはしなかった。

 

 たまにこういうことをするのであまり真剣に取り合う必要はない。……のだが、このときばかりは何処か違うようにも感じられた。教室の雰囲気と同じように、なにかが違っていた。

 

「……何かあったの」

 

「よかった……。昨日連絡つかなかったからさ、あんたにまで何か在ったのかと思って……」

 

 意味がよくわらないが、あんたまで、というからには私以外にも誰か連絡につかなくなった人間がいるのだろうか。

 

「……ちょっと、具合がひどくなって、風邪っぽかったから……」

 

「うん、そう思って昨日アパートまで行ったんだけどさ。まるで人気がなかったから、心配してたんだ」

 

「……薬飲んで寝てたから……」

 

 気付かなかったみたい、とやや苦しい言い訳を述べたが、咄嗟の事だけにあまり追及されると遁辞もうまく回らなくなる。

 

 昨日私はそのアパートにはいなかったのだから、それも当然だ。やはり安易に住所を教えたのは早計だっただろうか。

 

 しかし私の不審を気にとめることもなく、幸いにも秋乃はそれ以上の言及をしなかった。

 

「そっか、ならいいんだ。顔見れて安心した」

 

「……ほかにも誰か?」

 

「ねぇクロ……あのさ、あくまで噂っていうか、確かなことは解んないんだ。それ程のことでもないと思うんだけど、その、さ」

 

 珍しく歯切れの悪い悪友の言葉を待たず、私はざっと教室内を見回した。そういえば、いつもなら控えめな佇まいの中に余裕と優雅さを含んでいちはやく教室に来ているはずの優等生、百朶文目の姿がない。

 

 この教室の曇ったようなざわめきは、どうやら我がサーヴァント曰くところの麗しの君に関係があるらしい。

 

「……文(あや)ちゃんも昨日休んだって事?」

 

 彼女とは一昨日私のアパートで別れた限りだ。まさか彼女も昨日休んでいたとは思わなかった。

 

「……」

 

 秋乃は口を噤んでいた。それ以上なにも言わない。いや言えない(・・・・)のだろうか。

 

 そこで初めて、いやな予感というものが私にも感ぜられた。

 

 今、この街で行われている外法の儀式、そして、行方知れずになった級友。それがなにを示しているのか、私にも察するのは容易だった。

 

 しかし彼女は聖杯戦争には関係の無い一般人のはずだ。浮世離れした才人なのは確かだが、それがなぜ……それとも儀式とは関係ないのだろうか……。

 

 そのとき、担任の教師である島原耀子が教室に入ってきた。

 

 それを合図に皆己の席に戻った。いつもの光景だが、いつものように雑然としたざわめきは起らない。

 

 ひとつだけポツンと空いたあやめの席が、かえって皆の脳裏の不安を煽る形になったようだ。

 

 何よりも、いつもならば優しげな笑みを絶やさない担任の蒼褪めた硬い表情がこれから告げられる凶事を想わせて、室内は通夜のような静寂に包まれた。

 

 私はいつもの担任の顔を思い出して、ライダーの言う、常に微笑を絶やさぬ「よい女」というのはこういう人物のことなのかとぼんやりと考えていた。彼女に紹介するといってもライダーはヤル気になるだろうか、何せあやめに拒絶されたあとのライダーをどうやって誘導するのかは頭の痛くなる死活問題だったからだ。

 

 そういえば、このまえ出合った担任の妹について考えを及ばせていなかった。もしも彼女、島原夕子がサーヴァントを従えるマスターだったとしたなら、少しでも情報は集めておいたほうがいい。何も知らないにしろ、その姉である耀子には接触を図っておいて損はないだろう。

 

 教壇に立ったまま暫し口ごもっている島原女史を見ながら、私は叨々とそんなことを考えていた。

 

 後になって考えてみれば、この時、私は無意識にあやめについて考えるのを拒絶していたのかもしれない。

 

 そこで意を決したように口を開いた島原女史は、昨日から行方不明になっていたという生徒、百朶文目の死を、簡潔に告げた。

 

 

 

 一限目の授業はそのまま自習になった。

 

 担任はあまり動揺しないようにとだけ告げて、事故なのかなんなのかの説明もないまま退室した。

 

 おそらく教師たちの間でも動揺が広がっているのだろう。今頃は職員室で会議の真っ最中であろうか。

 

 教室内は静かなものだったが、それでもいつものように雑談する者、おとなしく自習する者などもいて、平時と同じように時は流れていた。特に泣き崩れるような者はいなかった。

 

 校内きっての才女であったあやめを奉ずる人間は少なくなかった筈だが、何よりも噂や担任の声から聞き及んだ僅かの情報だけでは、現実味を感じることが出来ないのだろう。

 

 普段身近に人の死というものを意識していない現代人にとっては、それが普通の感覚なのかもしれない。

 

 伝え聞いた言葉に現実味がないのではない。死から遠ざけられて育った彼らは死というものに対する感受性が著しく欠損しているのだ。

 

 死という言葉に、その情報にリアリティを感じることが出来ない。

 

 憐れなものだ。と、私は思った。それほどに彼らは鈍感なのだ。だから訪れて当たり前のものに不意に直面して取り乱したり、吶喊したりと無様を晒す羽目になるのだ。

 

 魔術とは死に接し、死を受け入れるところから始まる陰性の奇跡を統べる術である。故に私は彼らとは違った。

 

 血は浅くとも私は魔女だ。

 

 こんなことで動揺することはありえない。

 

 級友の死を告げられても、「まあ、そんなところだろう」というのが私の率直な感想だった。

 

 灯を失った冬の庭のような教室の雰囲気に反して、私の思考は冷静だった。

 

 行方不明が昨日から、と言うのは彼女が登校しなかったという事実から導かれた推察だろう。独り暮らしの彼女はたとえその前日に死んでいたとしてもそれに気づく者はいないのだ。

 

 ならば、私のアパートを後にしたときに何かがあったという可能性もあるだろう。むしろ日中よりも夜に何かがあったと考える方が妥当なのではないだろうか。――そう、彼女が私の部屋を訪れた、その帰り道に。

 

 私が意図して呼び寄せたわけでもないので、負い目など感じはしないが、調べて見る必要はあるかも知れない。

 

 一般人の彼女が儀式に巻き込まれるパターンとはどのようなものがあるのだろうか?

 

 ――やはり、サーヴァントの戦闘を目撃してしまい、秘密保持のために、というのがもっとも妥当な線だろうか。

 

「クロ……」

 

 また秋乃が席を立って寄って来た。気丈な彼女もさすがにショックなのだろうが、それに付き合ってともに嘆き悲しむ振りをするというのも面倒な話だ。

 

「……ごめん、今は」

 

 今は話したくない。とでも言ってしょげた風を装えば勝手に深読みして納得してくれるだろう。そう考え、私は顔も向けずに言った。

 

「いいよ。――無理すんな。あんた、こういうとき無理しちゃうからさ……」

 

 すると椅子にかけたままの私の肩に手を置いて、案の定お決まりの文句を吐き始めた。そう言って悦に入りたいのかもしれないが、こちらとしては面倒くさいことこの上ない。

 

「ねぇ、こんな、時まで、普通のふりとかしなくていいから……」

 

「…………」

 

 正直寒気がする台詞だが、まぁ、言わせておけばそのうち満足するのだろう。

 

 取り合わず、自習の用意でもしようとした手を秋乃の手が取った。

 

「……ちょっと、アキ……」

 

 さすがに文句のひとつも言おうとしたが、そのときやっと気がついたのだ。取られた手が、私の手がどうしようもなく震えている。

 

 瘧にでもかかったかのように、戦慄いて、止まらない。

 

 震えていたのは手だけではなかった。とっくの昔から、私の頬は雨に打たれかのように塗れていた。

 

 秋乃は呆然と動くことも出来ない私の震える手と肩に触れてくれた。私はその暖かい手と自分の身体を抱きとめるようにして、突っ伏すように身体を折り畳んだ。

 

 昔、子供のころ嫌なことがあるといつもそうやって縮こまっていたことを思い出していた。

 

 私はいつもそうやって泣いていたんだっけ。

 

 声を押し殺すようにして、私はずっと動くことが出来なかった。一度認識してしまうと、もう、止まらなかった。

 

 彼女の、あやめの死に、一番動揺していたのは私だったのだ。

 

 よく私を気遣ってくれた級友は死んだのだ。意識したことなどなかったから、気がつかなかったのだ。

 

 彼女はただの級友などではなく、れっきとした私の友人だったのだ。今の私を構成する一部だった。

 

 欠けてはならないものだったのだ。

 

 そして、あの日私が余計な事をしなければ、彼女が私の家にさえ来なければ、きっと何の罪もない彼女が巻き込まれることは無かった。

 

 確証など無いが、きっと、そうだ。

 

 つられるように、クラスの隅からは咽ぶような声が聞こえてきた。

 

 私は馬鹿だ。

 

 現実感がないから泣けないなんて嘘だ。本当はみんな涙と嗚咽をこらえていたのだ。己の弱さを幼子のように曝け出してしまわないように、歳相応の人間として己を抑えていただけだった。

 

 そして、それさえもできなかったのが、私だ。

 

 このなかで一番弱かったのが、私なのだ。

 

 周りの誰よりも誰かの死を恐れているくせに、何が死を諦観した魔女だ。何が陰性の奇跡を担う者だ。

 

 出来損ないの魔女、劣等生の小高森涅はどうしようもなく落ちこぼれだった。

 

 たった一人の友人の死に心乱されて、泣きじゃくることしか出来ないお粗末な小娘でしかなかった。

 

 まるで誘われたかのように、曇り模様だった空までもが、とうとう泣きだし始めていた。

 

 きっと、しばらくの間止む事はないのだろう。

 

 まるで石の涙のように降り続ける、この重苦しい灰色の帳は。

 

 

 

 その日は午前中だけで急遽放課の次第となった。

 

 あやめの死についてはそれ以上の理由は語られることが無かったが、誰も過度の説明を求める者は無かった。

 

 それはひとえにとある噂によるところが少なからず含まれているものと思われた。件の噂を信じるもの、荒唐無稽だと信じぬもの。とにかくそれ以上の言及を躊躇わせる何かがその生々しい噂――都市伝説には在った。

 

 それは古くからこの地方に流布していたという特に珍しくも無い都市伝説だ。この地域で数十年に一度、幾人かの子供が浚われ、女性が暴行を受けて殺害されるのだという。

 

 もっとも、類似のような話は数多くあり、昭和初期の東京は下町から、はては大阪まで広い地域にまで流布していたのだという。

 

 つまりは何処にでもありそうなただの噂だということだ。

 

 しかしただひとつ、この地域でのみ趣を異にする事柄が一つあった。なぜかこの山間部一帯でのみ、その噂話がこと現在に至るまで断続的に流布しているのであった。

 

 故に昭和初期に流行したはずのその怪談が、私達の年頃の人間の耳にまで馴染み深く浸透しているのであった。

 

 その噂が潰えることはなぜかないのだ。いつの時勢も忘れ去られたころになると何処からか流れてきて、まことしやかに囁かれるのであった。

 

 故に、いかなる世代であれこの辺りでその噂を知らぬものはいないのだ。曰く、――『怪奇の赤マント』――もしくは『赤い外套の悪魔紳士」と呼ばれる怪談の類であった。

 

 はたして、誰もが口にするでもなく、大きな疑念が横たわっていた。過敏すぎる教師陣の対応に、誰もがその由縁を、そしてその噂との関与を想像せざるを得なかった。

 

 彼女は、百朶文目は本当に事故によって命を落としたのだろうか、――それとも、何者かに命を奪われたとでもいうのだろうか。

 

 その日の落日の折、夕日のように紅く染まった、洒脱な外套を羽織った男の手によって――?

 

 何処へ帰るのかも判然とせずに帰途についた私は、廂(ひさし)のついた公園のベンチでぼんやりと、静かに降り注いでいる冷やかな雨粒を数えていた。

 

 誰も寄り道をせずに帰るように、とは厳命されたことであったが、誰もがこんな折に好きこのんで炉辺の夕暮れを拝もうとは思わないだろう。

 

 噂の真偽はさて置いて、この周囲で死人が出たことは確かである。噂話の怪人であれ、事故であれ、気の違った殺人鬼であれ、被害者からしてみれば同じことだ。

 

 なにがうろついているのにせよ、おとなしく自宅に逃げ帰るのが一番の対策であろう。

 

 だが私は暫くそうしていた。まだ日が暮れるには早い時間だったが、辺りには何者の姿も無かった。

 

 私はただ一人雨露の帳に囲まれて塞ぎこんでいた。

 

 今更だが、己の脆さに辟易していたのだ。十余年の魔道の修練は私のような凡俗には何の意味ももたらさなかったらしい。

 死んだ母もこれでは浮かばれまい。

 

 自嘲するように乾いた笑いを漏らして、私はいつまでも腰を上げることが出来ずにいた。どちらの隠れ家に帰るかも解らなかったし、帰っても素知らぬ顔でライダーに対応できるのかがわからなかった。

 

 事の次第を話せば、ライダーのモチベーションはまた著しく低下することだろう。あやめの死を告げることはそれ故に憚られるのだったが、しかしその事実を言下に隠匿したまま変わらぬ立ち振る舞いを続けることはひどく億劫だった。

 

 まるで嚥下しきれない毒礫を鳩尾に抱えたまま、享楽の席で快哉を装うようなことだと思えた。

 

 耐えられそうも無いとも思えた。こんな弱音を吐いたのは初めてのことかもしれない。

 

 このときばかりは己の凡庸さが恨めしかった。才ある魔術師ならこんなことは目蓋を伏せることと同然にやってのけることであろうに。

 

 考え込むうちに日は沈みかけていた。帰路につかざるを得なかった。朝には棘が刺さった程度にしか痛まなかったはずの足の傷が、このときばかりは鉛を捻じ込まれたかのように重く、爛れたように熱かった。

 

 幾ら雨に打たれても、その熱ばかりは、一向に消えてはくれない。

 

 

 結局、私はそこから近い方のアパートに向かった。当初の予定のとおり、ここから街の反対の隠れ家までの道すがらに異変の調査を行うつもりだった。

 

 毎日同じルートを回ればそれまで気付かなかった異変を探れる、という心積もり――だったのだが、今はやはりとてもではないがそんな気にはなれなかった。

 

 傷のことを言い訳に、今日はこのまま引き篭ろうかとさえ思っていた。

 

 アパートについて部屋に入ると、物音でそれを察して整列していた使い魔たちと、戦支度を整えた巨漢がちゃぶ台でお茶を啜りながら私を出迎えた。シュールな光景だ。

 

 私はまず濡れたまま使い魔たちに買い置きのネコ缶を開けた。いつもならおやつ代わりに何か用意してくるのだが、今日は寄り道する気になれなかった。

 

「……どうせなら、もっとちゃんとしたお茶を用意しておいたほうが良かった? 大陸式の……ちゃんとしたやつ」

 

 そしてタオルで身体を拭きながらライダーに声を掛けた。ぬれた服もそのまま脱ぐ。

 

 確か生前のライダーが生きた古代中国は後漢の時代、お茶はまだまだ希少な代物であり、庶民の口に入るものではなかったという。限りない贅をもとめるライダーのことだ、そういう要求があるのかとおもったのだが、

 

「む、構わんでよい。フン。もとより茶の機微などわからんのでな」

 

 そう言ってライダーはうまそうに買い置きの煎茶を啜った。

 

 即物的で物欲に正直なわりに、高級志向というわけではないらしい。物の値段や貴賎には興味がなく、実際に目で見て手にとった物の機能美にこそ価値を見出すきらいが、この男にはあるようだった。

 

 よく言えば物の外面に囚われぬ慧眼の持ち主だと言えなくもなかったが、裏を返せばそれは他人の指標を信じず、己の五感と直感とを駆使してことに当たるということで、へたをすれば人目には一人よがりな偏屈者と映ることもあるだろう。

 

 総ての濡れた衣服を脱ぎ去った私はすぐにシャワー室のバスタブに満たしてあった香油に全身を浸した。ひやりとした弾力のある液体の感触が、私の全感覚を塗り替えていく。しかし――、

 

「して、首尾はどうだった? 席捲の時期は如何に? 彼(か)の君は何時なりと仰ったか?」

 

 ちゃぶ台のライダーの嬉々とした声が聞こえた。この距離では聞こえぬ振りも無理だろう。

 

「……ちょっと、事情が変わった」

 

「ふむ?」

 

 当てが外れた。いつものように香油や煎薬で己の外面だけでも魔女としてつくろえば、気持ちの方も切り替わるのかと思ったのだが。

 

 どす黒い鉛のような毒礫は、今だ嚥下することが出来なかった。

 

「事情とは何のことだ? よもや会う前から拒絶されたとでも言うのか!? そこを言いくるめるのが足下の仕業ではないか! そもそもな、」

 

「死んだの」

 

 なぜなのだろう。言い訳を考える時間なら幾らでもあったはずなのに。私は嘘がつけなかった。

 

「……あの娘は死んだ。昨日、殺されたって……」

 

 ライダーはしばらく何もいわなかった。幾何の閑静、そして硬い声が問うた。

 

「なぜだ。なにゆえ、そのようなことが……」

 

「……おそらく、巻きこまれたんだと思う。この儀式はこの地の住人の安全を計算に入れていない。……きっと、魔術師(わたし)達の内の誰かが、ただ一方的な理由で、あの娘(こ)を殺したんだ……」

 

 とどめる間もなく、どこか自暴自棄な感覚も手伝って、私は独白するように言った。

 

 こんな率直な物言いは厳禁だったはずだ。事如何によってはライダーが爆ぜるやも知れない。

 

 そうなればこのアパートごと、下手をすれば私の命もないだろう。だが、どうにも気持ちが理性を押しのけて言葉を吐いていた。

 

 止めようがなかった。もしかしたら、私は自分を罰したかったのかもしれない。

 

 しかし、しばらくたっても、ライダーは物理的にも概念的にも爆発することはなかった。

 

 バスルームから出て見ると、何時の間にか不動尊の如く仁王立ちしたライダーは四肢を有らん限りに踏ん張り、打ち震えるようにして戦慄いていた。

 

 その眼光鋭き虎の目のような双眸からは、滂沱の如き涙が溢れかえっていた。

 

 呆気に取られてその様を見つめる私に、

 

「誰が――」

 

 とライダーは問いかけた。

 

「誰だ? 誰が、どの魔術師がやったというのか!!」

 

 苛烈な問いだった。真っ直ぐな他意の無い問いだった。

 

「……解らない。巻き込まれたっていうのも推測で……確証は、ない」

 

「そうか。……無念だ。無念だ…………」

 

 そう呟くように言って、また雪崩のように座り込んだ巨漢は吐き捨てるように言を重ねた。

 

 そうしてひとしきり嘆いたあとで、顔をあげると、

 

「して、なればこそこれよりの次第はどうなっておる」

 

 と、色のない声で訊いてきた。私は俯いて応えた。その先については本当に何の考えもなかった。

 

「……ごめん、代わりになるような人は、まだちょっと」

 

「そんなことを聞いてはおらぬわ!!」

 

 まるで本物の矢に射すくめられたような気がした。それは初めてこの男が私に向けた本気の怒りだった。

 

「なにを言い出すかと思えば、足下らしくもないではないか! なぜ仇を討たぬのだ? ああも仲むつまじくしておった(ともがら)であろうに!」

 

「…………私は、魔女」

 

 言われて、しかし私はライダーを睨み返した。

 

「……一々誰かの死におののいてなんていられない。死にとらわれてもいられない。魔女とは万象の陰性を司る者……だから、…………だから私は、――」

 

 己に言い聞かせるように呟く私の言葉を、打ち切ったのは深い溜息だった。

 

 まるで失望したような目を向けてくるライダーの視線に、私は己の顔に火が入ったような感覚を憶えた。

 

「フンッ。なんと、まあ……小賢しいことだな、なあ、小娘よ」

 

「…………うるさいッ」

 

「そんな建前を振りかざして、己の本心を覆い隠すつもりとはな。フフンッ! もう少しものの道理を弁えた手合いかと思ったが、俺様の見込み違いだったようだな。これを小賢しいといわずになんというのだ」

 

「……うるさいッ! そんなことあんたに言われたくない。あなたみたいな人間が仇討ちだとか、それこそ、らしくないじゃない!」

 

 鼻で笑うライダーに、私は吐き捨てるように言った。まるで毒を吐いたような気がした。いつもなら誰かに何を言われたって、私はこんな事を言ったりはしない。他人を害しようとする言葉は、結局同じように自分の喉を爛れさせるものだ。

 

 しかし座り込んでさえ殆ど私を変わらぬ高さの目線が、まるで見下すかのように私を見つめた。私の吐いた毒など何処吹く風だ。この男に何を言っても爛れるのは私の喉ばかりだ。

 

「なにを言う、当然のことだ。己のものにするのだと決めた女を亡き者にされたのだぞ!? それ即ち、この俺の五体に狼藉を働いたも同じことだ。生かしておけるはずがないではないか!」

 

「…………私は、違う。彼女にそんなことをする義理もないし、義務もない……」

 

 己の足元に言葉をこぼす私に、ライダーは一喝した。

 

「それは立場を盾に取った建前であろう! 足下の心はなんと言っておるのだ」

 

 私は息を呑んで押し黙った。――心、だなんて、この男から聞こえようとは思えない言葉だったのだ。

 

「……、……ッ」

 

 私は呆気に取られて、むせるようにただ息を吐くしかなかった。その無様な様にライダーは再び溜息を吐いて続けた。

 

「フンッ。いいか、我がマスターよ。人とはな、決して建前や理屈で動くものではないのだぞ。オレ様が生きた時代にも、本音よりもそんなものを後生大事にする手合いが幅を利かせていたのは確かだ。後世の小生意気な学者どもは、オレ様の生き方を理屈に合わぬとしてケチをつけとるようだが、ひとつ言っておいてやる! 

 人は理で動くものではない、情動によって動くものなのだ! 情動とは心であり、人の根幹たる欲だ。考える必要はないぞ。感じてみろ。今、この時、足下の芯たる己の欲するものはッ、何ぞや!!」

 

「…………私……は、」

 

 まくし立てられて、返す言葉がみつからなかった。それは、冷静に考えれば幾らでも反論の出来そうな拙い論説だったかもしれない。

 

 それでも、今の私には返す言葉がひとつも出てこなかった。魔女としての論理ではなく、私の私としての心は確かに、

 

 ――彼女の死を悼みたがっていた。

 

 その理不尽な死を、それを生み出したおぞましき者を、己の手で是正したかった。――否、正さねばならなかった。

 

「……私は、……私だって、このままにはしておきたくなんて、ない。……けど……」

 

 呟くようなか細い私の声を聞くと、ライダーは貌を一変させてにやりと笑った。いつものいやらしく小憎らしい顔だ。

 

 泣いて、怒って、すぐこれだ。なんとも切り替えが早い。私にはとても真似できそうになかった。

 

「ぃ良し。そうとなれば、後は簡単ではないか。フフンッ。疾く馳せなければなるまい。まずは怨敵を探し出すところからだッ!」

 

 そして……何時だって、人の話も聞かずに強引に話を進めてしまうやつなのだ。

 

「…………変なの、あんたみたいなヤツは殺されたって、泣いたりしないと思ってた」

 

 私は思わず肩の力を抜いていた。いつものことではないか。コイツを相手に熱くなっても無駄なのだ。そう思うと自然と身体から余計な力が抜けた気がしたのだ。

 

「なにを言う、泣きたいと思ったら泣くのが当然ではないか。なぜそれを捻じ曲げようとする?」

 

「……ほんとだね。何でみんな泣くのを我慢しようとするんだろう」

 

「泣きたい時に嘆き、喚くが良かろう。――フフン。ましてや女子供ならばなおのことだな」

 

「……うるさい」

 

 目をこする。私は、そんなに泣きたそうな顔をしているのだろうか。勝ち誇ったように言うライダーに私はうまく反駁出来なかった。

 

 それでも、いざ方針が決まると、それまで冷え切っていた体の芯に火がついたような活力が湧き起こってきた。

 

 心と体は未分別なものなのだろう、と今更ながらに思う。心の求めるところを建前で押し留めてしまっては身体の方にまで影響が出てくる。

 

 馬鹿の言ではあるが、理がないともいえなかった。

 

 私は魔女である以前に私なのだ。たとえ未熟と誹られようとも、それが今の私の答えだった。

 

 空からは、未だ冷ややかな雨が降り続いている。――しかし、それが私の心を凍えさせることは、二度となかった。

 

 

 

(水曜日・夜)

 

 

 

 今後の方針としては、まずあやめを殺した相手の特定が最優先だった。もっとも、未だ事故である可能性も無くはないので、私達はまず彼女の死体が発見されたという場所に向かった。

 

 生憎の曇り空だった天候は回復することなく、依然として街は暗鬱な雨の帳に囲まれていた。現場は私達のアパートからも程近いところであった。そこに到着するころには、周囲は夕刻を待たずして無明の暗夜へと変じていた。

 

 やはり、あの日彼女が私のアパートに寄ってくれた帰りに、何かが在ったのだろう。苦い感覚が湧き起こってきた。

 

 やはりあの日私が余計なことを言わなければ、彼女が死ぬことはなかったかも知れないということだ……。

 

 そこは工事現場のような場所だった。いや、発掘跡とでも言うのか、大きな畦のように掘り返された土がブルーシートに覆われて雨に濡れていた。

 

 住宅やアパートの多く密集する地区の境目にできた、洞のような場所だった。

 

 程近い場所には背の高いマンションが群を成すようにそびえており、なるほど、夜ともなればここは絶好の死角となるだろう。発見が遅れたというのもわかるような気がした。

 

 現場の仔細を知って私は心を痛めた。こんな寒々しい場所で、あやめは死んだのかと思うと暗鬱な気持ちが湧き起こってきた。

 

 夜半だからなのか、殺人現場にも関わらず人の姿は無かった。この場所そのものはあまり重要視されていないのか、それともおそらくは警察も何の情報もつかめてはいないのかもしれない。

 

 ……あるいは、これが儀式に関わる殺人であるがゆえに何らかの情報操作が行われているのかもしれなかった。

 

 そこでふと、剥き出しになった現場の端に不可思議な溝、というのか、妙な石畳が土中から覗いているのを見つけた。

 

 そうか、このせいで工事を中断して発掘調査が行われていたわけか。

 

 私はあやめが熱心に話していた古代道のことを思い出した。ここがそういう「古代道跡」なわけか。

 

 しかしなぜあやめはこんなところに来たのだろうか? 幾らこの遺跡に興味があったのだとはいえ、まさかそんな時刻にこれを調べに来たわけではないだろう。

 

 ならば、どういう可能性が考えられる? 誰かと待ち合わせだろうか? いや、呼び出されたということか? もしくは何らかの異変を感じてこの場所に近づいてしまった。

 

 ……しかしここは大仰なマンション群の翳になっており、往来からでは容易にはこの場所の様子を窺うこともできない。

 

 そこまで明白な異変とはなんなのか……もしもそれが魔術なら、その名残があってもおかしくはないのだが……。

 

 そう考えた私は地面を見つめたが、この雨ではそういった魔術の名残のようなものも流れてしまっていることだろう。情報が少なかった。これだけでは犯人に辿り着くことは難しい。兎角、足元の泥を採取しておいたが、方ひとつ、何らかの情報が欲しかった。

 

 取り急ぎ、私は軟膏を五体に塗りつけ、四つん這いになって周囲を探った。五感を鋭敏化させて魔術の遺留品や残留物といった痕跡がないかを調べるのだ。魔術の残り香、というやつだ。

 

 すでに警察の手によってこの現場は大分荒らされて(・・・・・)いるかとは思うが、それでもやってみ見る価値はあるだろう。

 

 当然だが、彼らは犯人が魔術師であるということを念頭において捜査をしてはいないはずだからだ。

 

 すると惹きつけられるようにして石造りの遺跡の隙間に何かが挟まっているのを見つけた。まるでこの石畳の内側から伸びているように見えた。妙だとは思いつつ、何かと思って手にとって見ると、ズルリと抜けた。

 

 こんな場所では鑑識も気付かなかったのだろうか。或いは関係の無いゴミとしか見なかったのか……。

しかし、それはたしかに「魔」の香りがした。魔術師の遺留品に違いなかった。私の嗅覚はそれを見つけ出したのだ。

 

 瞬間、火のような何かが私の中を通り抜けていった。やはり、彼女は魔術師の、いや、私達の都合によってこのような目に合わされたのだ!

 

 それは黒く、妙にけばだった布地の切れ端だった。これは……黒ラシャ地であろうか? 燕尾服(イブニングコート)などに使われる上等の布地だ。現代ではあまり多く使われるものではないのではないのではないだろうか?

 

 どういうことなのだろうか? これが、一体彼女となんの関係がある? なぜ彼女はこんな場所にいたのだろうか? 

 

 ……理由は想像できず、可能性も少ないが、もしも彼女が夜半にここに呼び出されたのだとしたら、それを行うことの出来る人間は誰であろうか。あやめは見ず知らずの誘いに簡単に応じてしまうようなタイプではない。

 

 それができるのは親しい人間だけだろう。そして彼女の交友関係はそれほど広くないはずだ。

 

 たしか、あやめは担任に師事してこの古代路の調査を手伝っていたのだといっていた。私達の担任の教師、島原耀子。何かを知っていると言うのか? 

 

 しかしその場合、何かあやめの死についての事情を知っていて、その上で何も語らなかったというのか? ありえない話ではない。もしそうだとしてもそれを生徒に伝えることはしないだろう。無駄に怖がらせるだけだ。

 

 彼女にアリバイはあるのだろうか? ――私の思考は困惑の極みに差し掛かった。しかし可能性はあるとしても、彼女に安易に接触するのは賢明なことではないと思えた。

 

 彼女自身は魔術の素養の無い一般人であることは確かだが、それでもあの(・・)島原の血筋なのだ。下手に手を出せば何があるか分からない。

 

 だがそれもやり方次第だろう。魔術師としてではなく、一生徒として友人の死について尋ねるくらいならなんとでもなるはずだ。何かを知っているのなら顔色の一つくらいは変わるはず。

 

 ……しかしそれもあまり唐突にやったのでは具合が良くない。何か口上の種になるものがあればいいのだが……。

 

『おおい、何時までそうしとる気だ。別にかまわんが、そんな格好で尻が冷えんのか? せっかくの尻ではないか。フン、もっと気を使わんといかんぞ、まったく』

 

 たしか、あやめもひとり暮らしだったと聞いている。申し訳ないが部屋を調べさせてもらおう。何か見つかるかも知れない。どうせ警察に荒らされたあとなのだろうし。

 

『おい、聞いとるのか?!』

 

「……移動する。ライダー。あの娘の部屋に行ってみよう」

 

 ライダーはそれを聞いて一瞬怪訝そうな気配を見せたが、すぐに思考を放棄したようで、

 

『いよし、ならば行くか!』

 

「……魔力の無駄だからタクシーでね」

 

 そう言って、矢庭に実体化しようとしたライダーを制した。また自分の愛馬を呼び出して私ごと移動するつもりだったのだろうが、そもそも魔術師とは意味の無い浪費や派手さというものを嫌うのなのだ。

 

 唯の移動のたびにいちいち伝説の英馬になんて乗っていられない。

 

 私は不満そうなライダーの気配を受け流し、往来に向けて雨にぬかるむ殺害現場を後にした。

 

 

 時刻もまだ深夜というほど深まっていたわけではないので、マンション郡を抜けた先の往来にも車の行き来が少なくなかった。私はほどなくして通りがかったタクシーを呼び止めた。

 

 礼装のまま乗り込むわけにも行かないので、このときの私は帽子を脱ぎ、黒いファーのついたような黒い上着を羽織っていた。

 

「へえ。……なんだいお嬢さん、こんなとこで? 彼氏にでも置いてかれたのかい?」

 

 膝から下は黒いブーツを履いてはいるが、太ももは殆ど丸出しである。さらに人相を変えるのに軽く化生もしていたから、その格好を見て顔に不健康そうな油を浮かべた中年の運転手が下世話な声をかけてきた。

 

 私は応えず、簡潔に行き先だけを継げてバックから携帯を取り出した。

 

「チッ、愛想のねぇガキめ……」

 

 ぶつぶつと漏らしながら、車を発進させた運転手はラジオの音量を上げた。私も人のことは言えた性質ではないが、どうやら客商売には向いていない人種のようだ。

 

 ちなみに、今私が羽織っている上着やバックは総て使い魔が変容したものである。携帯などの備品も、通常は帽子に変じているこの使い魔達が内包していてくれるものなのだ。

 

 しばらく携帯電話の番号にかけたのだが、出ない。まだ寝ているような時間ではあるまいし、……私は少し考えてオフィスのほうの電話にコールしてみた。するとすぐに出た。

 

 戦争の真っ只中だというのにあいも変わらず職場で残業しているのだから、わが師の傑物ぶりも相変わらずところだろうか。

 

「……先生。私です」

 

 実際のところ、あまり気は進まないのだが、背に腹は変えられない。この際、訊けることは訊いておくべきだろう。

 

『驚いたわ。本当に電話してくるなんて』

 

 声は軽かった。多少懸念もしていたのだが、向こうではまだ被害らしいものは出ていないようだ。

 

『けど、まさか降参の申し入れなのかしら? それとも決闘の事前交渉? だったらやめてちょうだい。しばらく家にも帰れてないのに、これ以上余計な手間を増やさないで』

 

「……また会社に泊まりこんでるんですか。アー君は心配してましたよ」

 

『あら、会ったの』

 

「……ええ、お見舞いに行くと言ってました」

 

 聞こえてきたのは溜息だ。

 

『そう……。実を言うとね。儀式が終わるまでは、私はこっちにいたほうがいいんじゃないかと思ってるのよ。アズルを危険な目にあわせるわけには行かないでしょう? アズルしかいない本家を襲うメリットは無いわけだし、もし攻め込んでくる輩がいても、アズルには指一本触れられないよう相応の準備はしてあるわ』

 

「……私がアー君を人質に取ったらどうするんですか?」

 

『あなたには無理よ。だって才能無いもの』

 

「…………はっきり言いますね」

 

 改めて再確認させられて自分でも声のトーンが落ち込んだのが分かった。いよいよ私は魔道の才覚がないことが証明されたような気になってくる。

 

『あら、何かあったの? こんなことでヘコむなんてあなたらしくないわね』

 

「……ええ、ちょっと」

 

『ふふ。気にしなくていいわ。私は優秀な魔術師(ひとでなし)の才能が無いからこそ、あなたを買ってるのよ』

 

 それはフォローになってるんだろうか?

 

「……使用人としての才能はあるってことですか?」

 

『真っ当な人間としての素養があるといってるのよ。……それで、何の用で電話してきたのか、いい加減教えてちょうだい』

 

「……ちょっと訊きたいことがありまして。今回の事に参加している魔術師についてです。先生には、大方の参加者の詳細は知れてるんですよね」

 

『勿論よ。貴女を含めて事前にね。……でも、ただ教えてといわれて教えるわけには行かないわよね。貴女は一応の師である私に噛み付いている最中なわけだし』

 

「……私が幾ら噛み付いても、痛くも痒くもないんじゃないですか」

 

『そうでもないわ。意外と困ってるのよ。――貴女がいないから屋敷の中がまるで片付かないし、それにほしいものが何処にあるのかも解らない。大体からして貴女以外の家政婦の料理じゃ、ともてもじゃないけど口にあわないの。どうしてくれるの?!』

 

 どうやら噛み付くことよりボイコットのほうが堪えるということらしい。予想していたことではあるが……。

 

「……でも、先生は忙しい時はろくなもの食べないじゃないですか」

 

『だからこそッ、たまに家に帰ったときくらいは落ち着いて良いものを食べたいのよ。だからさっさと降参して家の中を片付けに来てちょうだい。伸江(のぶえ)一人じゃどうにもならないわッ』

 

 ちなみにこの伸江さんと言うのは私と同じフュタウフェン家専属のメイドであり、同時に師が経営する会社の社長秘書でもある女性だ。

 

 生まれついて強力な魅了の魔眼を持つ異能者で、男を惑わす生粋の淫魔なのだそうだが、しかし以前にその力を使ってバカをやらかしたらしく、その折に師に命を救われ、それ以来半使い魔状態で使役されてしまっている。

 

 ……まぁ、一言で言うとかわいそう人である。

 

「……もしかして、仕事がどうこうじゃなくて、そのせいで家に帰りたくないんですか?」

 

『…………チッ』

 

 私がズバリ訊くと舌打ちが返ってきた。

 

 嗚呼、我が偉大なる魔道の師、ルベル・フォン・シュタウフェンは魔術師としても一社会人としても間違いなく一流であり、非の打ち所の無い傑物であるのは確かなのだが、……しかしその反面、どうしても不得手とする事柄がある。いわゆる家事全般というやつがそれで、その腕前はもはや壊滅的であった。

 

 それで見かねた私が自然と家事に手を出すようになり助手となったのだが、そのせいで師のプライベートでの出不精に拍車を掛けてしまったらしい。私が居ないと三日で私室が大変なことになるのである。

 

「……掃除とかどうしてるんですか?」

 

『仕方がないから通いの人間を増やして何とかしてるんだけど、ダメね。手際が悪くて見てるとイライラするわ』

 

「……あんまり通いの人たちを虐めないでください」

 

『人聞きが悪いわね。貴女と比べて手際が悪いといっているのよ? つまりあなたの責任ではなくて?』

 

 ……なんでやねん。

 

「……私は十年も住んでるんですから、比べるのはやめてください。そんなことだから折角来てくれた人たちが萎縮して辞めちゃうんですよ。……それにしても大丈夫なんですか? この時期に外部の人間を屋敷に入れたりして」

 

『ええ、問題はないわ。通いの人間の中に魔術師がいないことははっきりしてるから』

 

「……」

 

 どうやら師は、相手が魔術師でさえなければ警戒の必要もないと考えているらしい。その辺りの事を軽んじるのは、己への自負によるところからであろうか。私には真似できない。

 

『だいたい、私の部屋を掃除できるのは貴女だけでしょう? 困ってるのよ。そろそろ何がどうなってるのか私には訳が解らなくなってきて……』

 

 自分の生活している私室に対して、「訳がわからない」とはなかなかいえる台詞ではないと思う。

 

 にしても、ここまで豪快に掃除が出来ないと言い切るのも、ある意味さすがだとさえ言えるのではないだろうか。

 

「……率直に聞きますが、今先生の部屋はどうなってるんですか」

 

 もはや「散らかっている」などという表現では追いつかないのは明白だった。

 

『ふふっ、それは――見てから確認してもらうしかないわね。私は解らないわよ。しばらく何も見ないようにしてたから』

 

 ふふっ、じゃねぇだろ。とは声には出さなかったが。どうやら、今や師の私室は想像を絶する散々な有様となっているようだ。

 

 さすがに胸が痛んできた。日々私が愛情を持って磨き上げてきた高級な家具や調度品が、あろうことかその持ち主によって蹂躙され尽くしているとは、まったくひどい話である。

 

 なんだか、私も心なしか掃除をしたいような心持ちになってきたが、しかしこのまま屋敷に向かう訳にも行かない。そうできない理由が、今の私にはあるのだ。

 

『とにかく、それが解ったのならさっさと戻ってきて私のサポートにつきなさい。そこまでして聖杯が欲しいわけじゃないでしょう』

 

 私は、断固として即答した。

 

「……いいえ、少し事情が変わりました。それが片付くまで、降りれません」

 

『――涅、――何が、あったの』

 

「……」

 

『――――いいわ。でもただではだめよ、何か渡せるものはあるのかしら』

 

「……情報が少し」

 

「聞かせてみて、見合うだけのことには応えてあげる」

 

 私はこれまで体験した敵サーヴァント達の情報について、わかっている限りのことを簡潔に述べた。

 

 ――ランサーの宝具。そこから察せられた真名。バーサーカーの消滅。そのマスターの行方が知れないこと。キャスターの最後。そしてそのマスターの奇怪な死に様。そして教会との関連性。

 

 ――師が現在までにどれほど戦ってきているのは解らないが、情報はあって困るものではないだろう。

 

『驚いたわ。序盤から随分飛ばしてるじゃない』

 

「……私の意志ではないんですが……」

 

 今更だが、私が主導していればこんな苛烈な戦歴はできていなかったことだろう。

 

『解らなくもないわ。サーヴァントを御するのは並大抵なことじゃないわよね。まったく、言うことをきかないったら……』

 

 以外だった。魔術師として特級である師ですら辟易するとは、そのサーヴァントはどんなバケモノなのだろうか?

 

「……先生、それよりも」

 

『そうね。いいわ、キャスターとバーサーカーの脱落はともかく、未確認とはいえランサーの真名は大きいわね。充分な情報よ。で、何について聞きたいの』

 

 さて、こちらとしても問題の概要を捉え切れていない状況だ。下手に説明してもわかりにくくなるだけなので、私はまず、期待もせずに単刀直入に聞いた。

 

「……燕尾服を着た、あるいはそれに関係のありそうな魔術師について、心当たりは在りますか?」

 

『――――一人、いるわね』

 

 暫し返答の間が空いたことで、私は師が驚愕しているのだと知った。私の体温は一気に沸騰した。

 

「……教えてください」

 

 私は待った。息を殺して、その敵の名を。

 

『あなたも、名前だけは知っているはずよ。その男の名は夜鳴手――錐人』

 

「……それは、たしか」

 

『そう、私達シュタウフェン、島原と共にこの儀式を始めた御三家の一角よ。とはいっても、コイツは家門が代々聖杯戦争に参加しているんじゃなくて、本人が百年以上にわたり総ての聖杯戦争に参加し続けているのよ。

 

 今時燕尾服なんて着込んで往来を歩くのは、魔術師の中でもコイツくらいのものよ』

 

「……ヨナリデ・キリヒト」

 

 私は繰り返すように呟いた。それが、あやめを引き裂いた怨敵の名か!

 

『ひとつ忠告しておくけど、事を構えるつもりなら相応の覚悟が要るわ。文字通りのバケモノよ。できるなら、やめておくことを進めるわ』

 

 師の声に僅かだが重苦しい響きが宿った。その言葉が脅しでない事の証拠だ。

 

「……ありがとうございました。先生。ご恩は後日お返しにあがります」

 

『無用だわ。これはフェアな取引よ。――でも、かくまって欲しくなったときは何時でも私のところに来なさい。いいわね』

 

 そう言って、電話は切れた。

 

「……ありがとうございます、先生」

 

「着いたよ。お客さん」

 

 同時に、運転手の作ったような無愛想な声が聞こえてきた。車はいつの間にか停車していた。雨はまだ止んでいなかった。

 

 

 

 それなりにしっかりとしたマンションだった。あやめらしい、簡素でいてしかし決してみすぼらしくはない清潔感があった。

 

 降りしきる夜雨の中でも、小奇麗な印象を受けた。

 

 だが、住居の佇まいから窺えたのはその程度のことだけだった。私は足早に彼女の住んでいた一室に向かった。

 

 侵入するのはわけもない。魔術で開錠なぞしなくとも霊体化したライダーが内側から扉を開ければいいのだ。

 

 私は階段を駆け上がった勢いさえ殺さずに室内に滑り込んだ。ライダーも今日ばかりは指示するまでもなく行動した。何時になく殊勝なものだった。

 

「フン、しかしあれでよかったのか」

 

「……何が?」

 

 部屋の中も、簡素でいて整頓されており、主の人柄を窺わせるには充分すぎるほどであったのは見受けられたが、一見して異常が認められるようなものは何もなかった。

 

 室内の探索を私に任せて、窓の外に気を配りながら、ライダーは重ねて問うた。

 

「敵のことだ。足下の師とやらには名前しか聞いておらなかったではないか」

 

「……それでも充分。散々聞いてはいた名前だったから……」

 

「ふむ?」

 

 手早く整然と整頓された部屋の中を調べてみたが、結局使えそうなものはレポートの資料だけだった。

 

 まあ、いいだろう。案外容易に敵の目星もついたのだし、後は明日にでも担任教諭の耀子にこのレポートを、あの日あやめが忘れていったとでも言って話を聞きだそう。それで反応を見せないならそれまで、もしも何らかの反応を示したなら、そのときは……。

 

 そのときだった。レポートから程近い所に妙な物を見つけた。妙な形に切り抜かれた厚紙の束だった。それぞれに微妙に形の違う,それも結構な量あるものだった。何らかの工作だろうか? 

 

 私はしばらく訝しげにそれを見ていたが、とりあえずそれももって行くことにした。

 

「……もう行くよ。ライダー」

 

「暫し待たれい」

 

 訝しげに外を警戒しているライダーの顔には、何時になく険しい相が見て取れる。 

 

「……敵の、……気配とか?」

 

 警戒を強めて問うと、ライダーは静かに答えた。

 

「それほどはっきりしたものではないな。フン。ただ――この場と言うか、街全体の空気が変わったのだ。街そのものをえらく剣呑な殺気が覆っているような……とにかく尋常ではないな。気を抜くでないぞ。主よ」

 

「空気が変わったのは今? 今夜のこと?」

 

「否、一昨夜くらいから、そうだな、あのキャスター(優男)を討った後、程なくしてからなんとなしには感じ取っていたのだがな、はっきりと確認したのは今しがた、ということだ」

 

 一昨夜……、どういうことなのだろう。あやめが死んだ時刻と一致するということか?いや、つまりそれは、奴が活動を始めたから、ということなのだろうか? と、いうかそれよりも。

 

「……何で今朝のうちにそれを言わないの」

 

「ほかに優先すべき事柄があったではないか。それにこの殺気のほうは今憂慮しても仕方の無いことかも知れんぞ。先ほどから外に向けて此方から殺気を放ってみたが、何の反応もない。フン。この辺りには何がいるというわけでもなさそうだ」

 

 こいつにとっての優先事項とはつまり自分のことらしい。それにしても、家捜しもせずにおとなしくしていると思ったら、そんなことをしていたのか。

 

 普通なら気が効くというところなのかも知れないが、コイツがやるとその殺気だけで建物を倒壊させそうで不安になってくる。

 

「……なら、今日できることはもうない。帰るよ、ライダー」

 

「やれやれ、なんとも釈然とせんな。フンッ。全身がむずがゆくなってくるわ」

 

 そうは言いながら、この日はライダーもおとなしく指示に従ったので何事も無く帰路につくことができた。

 

 ただ、不安は降り積もる雨のように募っていった。這いずるような戦慄が私達の足許に迫っているかのようだった。

 

 




 戦闘はなかったですが、物語が動き出しました。
 御三家の一角、夜鳴手錐人。いったいいかなる魔術師なのか。
 
 ちなみに「赤マント」というのはほんとに流布していた都市伝説です。
 詳細は後ほど。
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