仏の口にも刃   作:こたつでみかんを食べる

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勝利の余韻

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Side:神崎 隆二

 

 

 『力を持っていながら、それを使わないのは愚か者のすることだ』

 

 俺が憧れたあの人は、そう言った。その言葉を、俺は今でも信じている。あの人のようになりたいと思ったきっかけの一つであり、今の俺が何かを成すときにも、無意識のうちに判断の基準としている言葉だ。

 

 だからこそ――。

 

……日向優慈。視線の先にいる男を見て、俺は小さく息を吐いた。

 

 

 6月1日。

 

 中間テストを終えて数日が経った朝、教室に着いて端末を確認すると、クラスポイントが振り込まれていた。

 

 以前より多少減ってはいるものの、こればかりは致し方ないだろう。人間、常に完璧に生活できるわけではない。遅刻程度ならまだしも、体調を崩してしまえば、本人がどれだけ気をつけていたとしても欠席してしまうことはある。

 

 無論、俺自身はそうならないよう努めている。自分の不注意で周囲に迷惑をかけるようなことは避けたいからな。

 

 しかし、それを他人にまで押しつけるつもりはない。誰にだって事情はあるし、全員に俺と同じ基準を求めるのは間違っているだろう。

 

 それに、試験当日に欠席者が出ることはなかった。であれば、今回のポイントの減少をそこまで問題視する必要もないだろう。あまり規則や結果にばかりこだわって厳しくしすぎれば、今度はクラスの結束に影響が出る可能性もある。

 

 この先、進めば進むほど、他クラスとの競争は激しくなっていくはずだ。そのとき、俺たちのクラスにとって大きな強みになるのは、一之瀬を中心とした団結力だろう。

 

 ならば、今はこれでいい、そう自分に言い聞かせながら、俺は改めて教室を見渡した。

 

 試験を終えた直後ということもあって多少の緊張感は残っているものの、教室全体の雰囲気は比較的穏やかだ。試験前のように机に向かって黙々と勉強している者もいれば、友人同士で今回の問題について話している者もいる。少なくとも、今の様子を見る限りでは、赤点を取った者がいるような空気には見えなかった。

 

 それだけの結果を出せるようにするための準備もしてきたという自負もある。

 

……俺一人の力ではないがな。

 

 そう考えると、今回の勉強会に協力してくれた一之瀬や浜口、二宮、それに白波たちの存在は大きかった。最初はまとまりのなかった勉強会も、最終的にはかなりの人数が集まり、それぞれが自分のできることをやっていた。こうして試験を終えた今、教室に漂っている空気を見ていると、少なくとも無駄ではなかったのだと思える。

 

 それにしても――。

 

 本当に、いい雰囲気だ。

 

 登校する途中に通り過ぎたDクラスの教室など、まるで命綱なしで綱渡りでもしているのかと錯覚するほどの緊張感に包まれていた。廊下まで張り詰めた空気が漏れ出していたくらいだ。

 

 それと比べれば、このクラスは随分と落ち着いている。

 

……Dクラスは、過去問を手に入れられなかったのだろうか。

 

 そんな疑問が浮かぶ。

 

 結局、試験前にこのクラスへ過去問のことを聞きに来た者は一人もいなかった。一之瀬はDクラスのことを心配していたが、俺としては特に問題ないと思っている、言い方は悪いがライバルが減るならそれに越したことはない。

 

 そもそも、こちらから情報を渡すつもりもなかったからな、星乃宮先生のいうことが確かであれば、Dクラスでは過去問に気づくのも難しかっただろう......いや、油断はすべきでないか。

 

 とはいえ、答えの分かっている問題が出題される可能性があると知っていて、それでも赤点を取るようなことは、さすがに考えにくい。

 

……やはり、あの空気を考えるに手に入らなかったのかもしれんな、そう結論づける。

 

 そして、改めて今回のことを振り返る。

 

 日向が姫野に渡した過去問は、あの勉強会の後、一之瀬が先輩を通じて確認したことで、本物だと判明した。少なくともあいつにはこちらを罠にはめる気がなかったようだ。

 

 そして予定通り、試験前日に全員に過去問を解かせてみると、結果は想像していたよりも良かった。50点を下回る生徒は一人もおらず、大多数が80点前後まで取れている。中にはそれを下回る者もいたが、それでも赤点には届いていなかった。Bクラスに選ばれただけあって、全体的な学力は平均よりも高いのかもしれない。

 

 けれど、この学校では、試験の結果次第で退学にまで繋がる。大袈裟な話ではなく、学生にとってはそれこそ自分の将来を失うことにもなりかねない。たかがテストと軽く考えるわけにもいかなかった。

 

 そこで、間違いの多い問題は一之瀬や浜口たちが時間をかけて解説し、それほど多くなかった問題は必要な部分だけを個別に指導していった。全員が完全に理解できたわけではないだろうが、少なくとも赤点を回避するための準備としては十分だったはずだ。

 

 手間はかかった、それでも、赤点を出さないという目的は十分に達成できたと思っている。俺自身も、あの問題なら全て正解できているだろう。

 

……だが、それよりも、今の俺には気になっていることがある。

 

 俺はもう一度、教室の中にいる日向へ視線を向けた。

 

 あいつは今回、その過程はどうあれ、過去問を姫野に渡した。その結果として、クラス全体が救われた形になっている。

 

......悔しいが、過去問という発想自体、俺には出てこなかった。この学校が過去問を残している可能性を考え、それを実際に利用するという発想に至ったことだけを見ても、やはりあいつは俺より一枚上手なのだろう。

 

 誰がどう考えても、協力したとしか言いようがない。本人は以前、Aクラスを目指すために協力するつもりはないとはっきり宣言していたにもかかわらずだ。そして、それが嘘とも思えないが、結果として見ればクラス全体に利益をもたらすような行動を取っている。

 

……本当に、よく分からない男だ。

 

 それは今、このテスト結果を明かされる直前の姿を見ていても同じだった。

 

 周囲には結果を気にして落ち着かない様子の生徒もいれば、友人と話しながら妙に浮ついている者もいる。そんな中で、日向だけはいつもと何も変わらない。浮かれた様子もなければ、逆に緊張しているようにも見えない。ただ自分の席に座り、いつもの無表情で時間が過ぎるのを待っている。

 

 まるで、自分の成績がどうだったところで何も変わらないと言わんばかりだ。

 

 実際、そうなのかもしれない、成績など些細なことだろう、過去問を持ってきたのは他ならぬあいつだ、当然結果も全科目満点だろうからな。

 

......やはり俺には理解できない、あいつほどの力があるのなら、もっと露骨に利用すればいい。

 

 自分だけが満点を取ることもできただろうし、過去問をうまく使えば、周囲を動かして、自分にとって都合のいい状況を作ることだってできたはずだ。

 

 それどころかじゃない、今回の動きをみればあいつが本気になれば、このクラスをAクラスまで押し上げることすら不可能ではないと少なくとも、俺はそう思っている。

 

 なのに.....それなのに、奴はそうしない。

 

 自分から何かを得ようともせず、クラスの中心に立とうともしない。今回だって、過去問をあっさりと姫野へ渡している。

 

 俺ならば絶対にそうしないだろう、使える力は使う。勝てるなら勝つ。上へ行けるのなら、上へ行く。あの人の言葉通りに実行するだろう。

 

 力を持っているのに、それを使わない、俺にとって、それはどうしても理解できない、したくない行動だった。

 

……だから、日向が気に入らない。

 

 結局のところ、この呑み込めないものはきっと嫉妬でしかない。

 

 自分より優れたものを持っている男が、それを使おうともしないことへの苛立ち。俺が必死になって手に入れようとしているものを、あいつは最初から持っているのに、それを大した価値もないもののように扱っていることへの妬み。

 

 そう考えれば、俺が日向を快く思わない理由も分かる......負け犬の遠吠えだと言われれば、返す言葉もないな。

 

「神崎くん、また日向くんのこと考えてるの?」

 

 不意に浜口から声をかけられ、俺はそちらへ顔を向けた。

 

「……なぜ分かる」

「最近、お前が難しい顔してるとき、大体あいつだぞ」

 

 そう言ったのは柴田だった。いつの間にか浜口だけでなく、柴田や渡辺まで近くに集まっていたらしい。

 

「……そんなに分かりやすいか?」

「分かりやすいっていうか……」

 

 浜口は苦笑しながら、俺と日向を交互に見た。

 

「恋する乙女かってくらい、いつも同じことやってるしな」

「だっ、誰が恋する乙女だ!」

 

 思わず声が大きくなる。

 

「そうだそうだー。どこにも需要ねーだろ」

 

 渡辺まで面白がるように口を挟んできた。

 

「いや、そうでもないんじゃないかな?」

 

 浜口は笑いながら首を傾げる。

 

「実際、一部の女子から『神崎くんもしかして……』って聞かれたことくらいはあるしね。二人ともかっこいいから、需要はあるんじゃないかな?」

 

「…………」

 

 流石に言葉を失った、それを聞いて俺は何を言えばいい? いや、何も言いたくはないが、一体何をどうすればそんな話になるのか、俺には理解できなかった。

 

「うげっ。マジかよ。よそうぜ、この話。誰も幸せになんねーよ」

 

 渡辺が露骨に嫌そうな顔をして話を打ち切ろうとする、俺としても激しく同意したい、もし今首を振れば赤べこにすら負けない自信がある。

 

「……話を戻すぞ」

 

 そう言って無理やり軌道修正すると、浜口が小さく笑った.....笑えないが?

 

「まあ、確かに神崎が気になるのは分かるけどなー。今回の件だけ見れば、結構助けられたわけだし」

「あまり同意したくはないけど……助けられたのは間違いないか」

 

 柴田がそう答えると、渡辺が少し考えるように日向を見る。

 

「でもよー、一之瀬が嘘をついたなんて思わないけど、本当にあいつが過去問を用意したのか? 実はいいやつかと思って話しかけた奴ら、全員平等に粉砕されてたぜ.....心をな」

「それは間違いないよ」

 

 俺が答えるより先に浜口が頷いた。

 

「日向くんが姫野さんに渡したものだよ。まあ……ちょっと渡し方には問題があったみたいだけどね」

「……ならいいけど」

 

 渡辺は納得したように頷き、それから少しだけ嬉しそうに笑った。

 

「まぁ俺、過去問がなかったら普通にヤバかったから感謝はしてる。特に数学」

「ははっ。渡辺、お前の場合は、難しい問題は大体ミスしてたしな」

 

 柴田が笑いながら指摘すると、柴田がすぐさま反論する。

 

「人のこと言えないだろ、お前は!」

「俺はお前よりマシだった」

「それ、点数出てから言えよ!」

 

 くだらない言い争いが始まり、浜口が楽しそうに笑う。

 

「でも本番は結構取れてたって言ってたじゃないか。二人とも八十点は超えてるんじゃないかい?」

「まあな」

 

 柴田は得意げに胸を張りつつも、少し気落ちした顔で続ける。

 

「……にしても、過去問が今回の試験と同じなら、試験の次の日じゃなくてもっと早く言ってくれればよかったのにな。そしたら暗記して満点だったんだけどな」

「はぁ……」

 

 俺は思わずため息をついた。

 

「何度も言ったはずだが、試験を受けるまでは確定していなかった。もし全く違う問題が出ていたら、過去問だけを頼りにしていた生徒は大きく点数を落とすことになっていただろう。退学者が出た可能性も十分ある。だからこそ、過去問を参考にしつつ、通常通り勉強する必要があったんだ」

「でもよ、柴田の言うことも分かるぜ」

 

 渡辺も柴田へ賛同を示す.....が、二人ともほんとに納得していないわけではないのはその口調からも十分理解できる。

 

「頭では分かってるんだけど、やっぱこういうテストで満点って憧れるんだよなー……」

 

 そして期待したような顔でこちらを見る。

 

「なあ、一之瀬は次はないかもねって言ってたけどよ。ワンチャン、次もあるとかないか?」

「あり得ないな」

 

 俺は即答した。

 

「今回のようなものが何度も用意されると考える方がおかしい。そんなあり得ない夢に浸っている暇があるのなら、二人とも少しは勉学に励め」

「うわ、神崎は容赦ねえな」

「だってよぉ……」

 

 二人が揃って嫌そうな顔をし、それを見た浜口が苦笑した。

 

「あはは、……まあ、その代わりと言ってはなんだけど、勉強会はこれからも定期的に続けるから。時間があるときは参加してね」

「えぇ……」

「また勉強かよ……」

 

 二人が露骨に嫌そうな顔をする。そんなくだらないやり取りを聞きながら、俺もいつの間にか口元を緩めていた。

 

……悪くはない。

 

 少し前までなら、こんな光景は想像もできなかった、これが――友人というものなのだろうか。

 

 俺はそう考えながら、ふと前方へ視線を向けるとちょうどそのとき、教室の扉が開いた。

 

「おっはよー、みんなー!」

 

 勢いよく扉を開けて入ってきたのは、星乃宮先生だった。朝から上機嫌で、足取りも雲のように軽い。……二日酔いのときの足取りとは、文字通り雲泥の差だな。

 

 先生は手に持った紙をひらひらと振りながら、そのまま教壇へ向かってくる。

 

「今日は待ちに待った日だよ!」

 

 その声につられるように、それまで雑談していた生徒たちも一斉に前へ視線を向ける。

 

「中間テストの結果発表でーす!」

 

 先ほどまでのようにふざけていられる空気ではなくなり、教室の中に一瞬だけ緊張が走った。俺も席へ戻りながら、ホワイトボードに貼り出された結果へ目を向ける。

 

 そして、最初に目に入ったのは――満点の多さだった。しかも、1つの科目だけではない。すべての科目において、満点の名前がいくつも並んでいる。

 

 俺、一之瀬、浜口をはじめ、勉強会に関わった生徒たちの名前が並んでいた。それだけではない。他の生徒の中にも満点を取っている者がいて、ざっと数えても20人ほどいる。

 

 90点台もかなり多い。

 

そして――赤点はない。各科目の平均点は95点前後、予想していた以上の結果だった。

 

 過去問を解かせた段階で、赤点が出ないこと自体はほぼ確信していた。だが、ここまで多くの生徒が高得点を取るとは思っていなかった。勉強会に参加した生徒たちが、それぞれ真面目に取り組んだ結果なのだろう。

 

 そして、その中には当然のように日向の名前もある.....結果は全科目満点。

 

.....まぁ当然といえば当然か。

 

「いやー、みんなよく頑張りましたー!」

 

 星乃宮先生が満面の笑みを浮かべる。

 

「赤点もなし! 先生もね、一安心だよー!」

 

 その言葉を聞いた途端、教室のあちこちから歓声が上がった。

 

「よっしゃー!」

「マジで赤点いないじゃん!」

「助かったー!」

 

 それぞれが自分の点数を確認しながら、友人同士で喜び合っている。俺もその様子を眺めていると、星乃宮先生がホワイトボードの方へ手を向けた。

 

「それにしても、過去問に気づいたのはさすがBクラスだねー。先生もちょっとびっくりしちゃったよ」

 

 その言葉に、何人かの生徒が顔を見合わせる、誰が最初に気づいたのか、という話は当然のように広がっている。

 

「ただし!」

 

 星乃宮先生が人差し指を立てる。

 

「今回の過去問は今回限りの特別なものだからねー。期末テストにはありません!」

「えー!」

 

 すぐに不満そうな声が上がる。断言されるとは思ってなかったようだ、過去問以外にも何かあるかもと期待していたのかもな。

 

「あはは、不満そうにしても変わらないよ? だから、期末はちゃんと自分で勉強してね。今回みたいに楽できると思ったらダメだよー!」

 

 そう言っている本人は、まるで生徒たちの反応を楽しんでいるかのように笑っている。

 

 予想通りだが惜しいな、過去問があればいいと思う気持ちもゼロではなかった。まぁ今回のようなことが何度も続けば、試験そのものの意味がなくなってしまう、しょうがないな。

 

「まあ、でも……それを乗り越えたら――なんと夏休み!」

「おおっ!」

 

 今度は一気に教室が沸いた。

 

「しかも夏休みには、海に囲まれた南の島で、みんなでバカンスだからね!」

 

 その言葉を聞いた瞬間、男子生徒の何人かが女子の方をちらりと見る。そして、誰かと目が合うよりも早く、そっと視線を逸らした。

 

……なんて分かりやすい連中だ。まあ、欲望を叫ばずに済んだだけ、最低限の理性は残っていると褒めるべきなのだろう。

 

 そんな俺の内心など知る由もなく、星乃宮先生はさらに話を続ける。

 

「それから、一応今回頑張ったご褒美ということで、全クラスに最低でも100ポイントは付与されます!」

 

 再び歓声が上がる。

 どうやら、テストを無事に終えたこと以上に、こちらの方が嬉しい生徒も多いらしい。まあ、ポイントが直接生活に関わってくる以上、当然と言えば当然か.....だが全員か、差が縮まるわけではないのがすこし惜しいな。

 

「ただし、プライベートポイントが手に入るようになるのは7月からだから、そこは気をつけてねー」

 

 最後にそう付け加えると、星乃宮先生は満足そうに頷いた。

 

「じゃあ先生は職員室でサエちゃんに自慢してきまーす!」

 

 そう言って、スキップしながら教室を出ていく……と思った直後だった。

 

「――あっ」

 

 廊下から、何かに足を引っかけたような音が響く、続いて――ドカンッ!

 

 教室の中が一瞬静まり返った。

 

「…………」

 

 誰も何も言わない。数秒後、教室のあちこちから小さな笑い声が漏れ始めた。

 

「……先生、大丈夫かな」

 

 浜口が苦笑する。

 

「……ヒールでスキップするからだ、自業自得だろう」

 

 俺もそう答えながら、閉じられた扉を見る。

 

……たぶん大丈夫だ、今一之瀬が助けに行ったしな。

 

 

 

 それからしばらくして、一之瀬が声を上げる。

 

「ねえ、みんな! 頑張ったご褒美ってわけじゃないけど、せっかくだし、祝勝会として今日みんなでどこかに行かない?」

 

 その提案に、自然と全員の視線が一之瀬へ集まった。反応は早く、賛成の声が上がるまでに2秒もかからなかった。

 

「いいね!」

「行こうぜ!」

「一之瀬さんも来る?」

「もちろんだよ!」

 

 一之瀬が笑顔で答えると、教室は一気に明るくなる。さっきまでテストの結果に一喜一憂していたとは思えないほど、今度は放課後の予定について盛り上がり始めていた。

 

 そういえば、テスト前に祝勝会をしたいといっていたな。

 

 そんなクラスの様子を眺めながら、俺は少し考えたあと、首を横に振る。

 

「前も言ったが……悪い。俺はそういう集まりは苦手だ、遠慮しておく」

「えー、神崎くんも行こうよ。せっかくみんなで頑張ったんだし、今日はみんなで一緒にお祝いしたいな。神崎くんもずっと勉強会を手伝ってくれてたんだから、神崎くんがいないと寂しいよ」

 

 そう言いながら、一之瀬は困ったように笑って、俺の方へ一歩近づいてくる。

 

「……いや、俺は――」

 

「それに、神崎くんが来てくれたら浜口くんたちも喜ぶと思うし……ね?」

 

 そう言って、少しだけ首を傾げる。濡れた子犬など相手にならないくらい庇護欲を誘う可愛さだ。断る理由を探していたというのに、どうにも言いづらい。

 

 しかも近い、いや近すぎる。反則だろうそれは.....

 

「っ……」

 

 思わず意識してしまい、俺はわずかに視線を逸らした。む、胸が……。

 

「わ、分かった。行くから……あまり近づくな」

 

 そう答えると、一之瀬はいたずらが成功した子供のように、にっこりと笑った、少し照れてはいるが。

 

「にゃはは、なら良かったよ! 浜口くんたちも喜ぶよ!」

 

 そう言われて、俺は教室の後ろへ視線を向ける。浜口は苦笑、柴田は少し不満顔、渡辺がニヤニヤしながらこちらを見ていた……犯人はわかった。

 

 どう考えても、あいつの入れ知恵だろう、俺が睨むと、渡辺は何食わぬ顔で視線を逸らした。

 

 まったく……。

 

 それから、今回の結果を作るうえで大きな役割を果たした人物へ目を向ける。

 

 姫野……あいつも乗り気ではないらしい。

 

 まあ、当然と言えば当然か元々一人が好きそうなやつだからな、今日はさっさと帰りたいと思っていても不思議ではない。

 

 ところが、そんな姫野がふと何かを思いついたように表情を変えた、そして、一之瀬の耳元へ顔を寄せる。

 

「……え?」

 

 一之瀬が目を丸くする。何を話しているのかまでは聞き取れない、だが、次の瞬間には一之瀬の表情がぱっと明るくなった。

 

「うん! それ、とってもいいと思う! ありがとう姫野さん!」

 

 姫野は何事もなかったように一之瀬から離れる。何を提案したのかは分からないが、一之瀬がそれほど嬉しそうにしているのなら、悪い話ではないのだろう。

 

 そして、一之瀬はクラス全員へ向き直った。

 

「よし! 今日の授業終わりに、みんなで遊びに行こう!」

 

 その声に、生徒たちが次々と声を上げて応える。

 

「おー!」

「どこ行く?」

「楽しみだな!」

 

 教室がまた一段と騒がしくなる。

 

 俺もその流れを眺めていたが、ふと気になって姫野の方へ視線を向けた。

 

 その後ろにいる日向は、いつもの無表情だった。

 

 日向には俺と同じように事前に一之瀬が誘っていたが、本人は「誘うべき相手を間違えているな、オレが何をした? 余計な荷物を抱える必要もない、オレに構うな」と答えて断っていた。

 

 いつも思うが、一之瀬はよく耐えられるな。今回の誘いも、断られたことには悲しんでいたが、言葉には何も言ってないあたりメンタルがダイヤモンドでできてるんじゃないだろうか。

 

 それはそれとして、どうやら日向本人の中では、今回の過去問を渡したこと自体、クラスに手を貸したという認識すらないらしい。

 

……あいつらしいと言えば、あいつらしいのかもしれない。

 

 

 そして、その前にいる姫野はというと.....なんとも言えない、複雑な表情を浮かべていた。

 

 何というか……学食の新作メニューを、深く考えず思いつきだけで選んだくせに、いざ食べようとしたところで、そこにパクチーが入っていることに気づいた時の渡辺とまったく同じ顔をしている。

 

 期待と後悔が同時に浮かび、今さら注文を取り消すこともできず、かといって食べる覚悟も決まらない、そんな、どうしようもなく複雑な顔だ。

 

……何を思いついたのかは知らないが、どうやら自分で蒔いた種に少しばかり後悔しているらしい。

 

 まあ、俺には関係のない話か、そう結論づけると、俺はそれ以上気にすることなく、自分の席へ戻って授業の準備を進めた。

 

 

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Side:日向 優慈

 

 (姫野に渡して正解だった)

 

 中間テストの結果を思い返しながら、オレは改めてそう思っていた。

 

 結果だけを見れば、十分すぎるほどだった。赤点を取った者はおらず、平均点もかなり高い。一之瀬を筆頭とした勉強会を計画したものたち、そして姫野がクラス全体の助けになったことは間違いない。

 

 もちろん、オレは何もしていない。手に入れたものを、もっとも余裕があり有効に扱えそうだと思った者に渡しただけだ。それでも、それによって皆が試験を乗り越える一助となったのであれば悪くはない。

 

 そんなことを考えているオレは今――カフェにいる。

 

 

……姫野と。

 

 

 目の前では、彼女がこちらを見ようともせず、まるで俺など最初から存在していないかのようにメニューへ視線を落としている。先ほどからページをめくるでもなく、かといって注文を決めるでもなく、かなり長い時間をかけて一つ一つの料理を眺めていた。

 

 どうやらメニューを選ぶのに時間がかかるタイプらしい。

 

 結構なことだ。何を食べるか、それほど真剣に悩めるということは、それだけ食事に対する思いがあるということだろう。何かを楽しみにできるというのは、それだけでよいことだ。俺などは食べられれば何でもいいと考えることが多いから、見習うべきなのかもしれない。

 

 ただ、時折こちらへ向けられる視線だけはよく分からない。

 

 目が合いそうになると、姫野は露骨なほど素早く視線を逸らす。最初からこちらを見ていなかったかのような顔をして、またメニューへ視線を戻していた。

 

……料理選びに集中しているときに、他のことまで考えたくないということだろうか。

 

 ならば、邪魔をするべきではない。

 

 何事にも真剣に向き合う姿勢は素晴らしい。食事一つを選ぶだけでも妥協しないというのは、見習うべきところがあるのかもしれない。

 

 俺はそう結論づけ、姫野が注文を決めるのを黙って待つことにした。

 

 そもそも、なぜオレがここにいるのか。

 

 今回の件を振り返れば、オレは何もしていない。

 

 正確に言えば、姫野に過去問を渡した。しかし、それだけだ。オレとしてはクラスのために何かをしたという認識はないし、皆で頑張ったことを祝うという祝勝会に参加するのは、少し気が引けた。

 

 それ故に、一之瀬からの誘いも断った。

 

 お願いされたのであれば参加しただろう。オレにできることであれば、断る理由もない。しかし、あれはあくまで提案だった。一之瀬も、オレが断りやすいようにそうしたのだろう。

 

 ならば、無理に混ざる必要もない。

 

 オレのようなものが加わったところで、他の者が心から楽しめるとも思えない。せっかくの祝い事なのだから、普段から仲のいい者同士で騒いだほうがいい。

 

 故に皆が教室を出たあと、そのまま帰るつもりだった。

 

 ところが――。

 

『......あんた。この後暇でしょ。付き合え』

 

 姫野にそう声をかけられた。随分と唐突な誘いだったが、それ以上に気になったのは、そのときの姫野の顔だった。

 

 いつもの気怠そうな表情とは少し違う。どこか苦しそうで、まるで自分から言い出したことを後悔しているようなそんな顔だった。

 

『ちなみに、拒否権はないから』

 

 拒否権がないのであれば仕方ない。

 

 そこまで言われてしまえば、オレとしても断る理由はない。そのまま姫野についてきた結果が、ここだった。

 

 人通りの多い場所から少し外れたところにある、小さなカフェ。

 

 客は少ないというより、今のところオレたち以外には誰もいない。店内は静かで、木製の家具や落ち着いた照明、壁際に置かれた小さな装飾品が穏やかな雰囲気を作っている。

 

 新しい店特有の派手さはない、だが、長く使われてきたものからしか出ないような温かみと、時間を重ねたもの特有の深みがある。

 

 かなり好みの部類に入る店だった。

 

 そこで改めて考える。なぜ姫野は俺を誘ったのだろう。

 

 最近は以前よりは返答も増えた。だから、仲が良くなったから出かけようということなのかもしれない。なるほど、やはり継続は素晴らしいな、ひとまず一人に絞って仲良くなると決め、他の者への会話は控えていたが功を奏したようだ。

 

 いや......男と女なのだから、こういった場合はデートというべきなのだろうか?

 

――しかし、

 

「デートか。随分と趣味が悪い」

 

 そう口にした。

 

 オレのようなつまらない人間より、姫野にはもっと相応しい相手がいるだろう。そんな中でわざわざオレを選ぶというのはあまりいいセンスとはいえないのではないか。

 

 姫野は一瞬、固まった。

 

「……っ、ぶふっ」

 

 まるで不意打ちでも食らったかのように、飲みかけていた水を危うく噴き出しかける。慌てて口元を押さえ、数度咳き込んでから、姫野は勢いよく顔を上げた。

 

「は、はぁ!? デートじゃないし! 二度と言うな!」

 

 先ほどまでの気だるそうな様子はどこへやら、明らかに動揺した顔でこちらを睨んでいる。

 

「……私は祝勝会に行きたくなかったから、行かないあんたを誘うって断っちゃったの。だから、しょうがなく、しょうがなくだから。ほんと……浅はかだった」

 

 途中から自分自身に言い聞かせるような口調になり、姫野は額を押さえた。

 

「最初は適当に口裏合わせればいいと思ったけど……よく考えたら、行ったなんて嘘、一之瀬さんには絶対ばれるでしょ。あの子、そういうところ鋭いし……。だからって今さら『やっぱ行ってません』なんて言ったら、それはそれで面倒だし……あー、もう」

 

 深いため息、どうやら本気で後悔しているらしい。

 

 姫野は面倒くさがり屋だ。

 

 何をするにも億劫そうにしているし、人付き合いも必要以上には好まない。今回も、単純に祝勝会へ参加したくなかったというのが一番大きな理由なのだろう。

 

……だが一方で、根本的には思いやりのある人間だ。ただの面倒くさがり屋にしては、少し優しすぎるところがある。

 

 そもそも、姫野が誰かからの誘いを断っているところを、オレはそれほど多く見たことがない。本人としては「しょうがなく付き合っている」つもりなのだろうが、それでも人に頼まれれば結局は応じるし、面倒そうな顔をしながらも割と付き合っている。

 

 今回だってそうだ。

 

 本人にとっては、祝勝会に参加したくないから仕方なく、誘っただけなのだろう。それでも、わざわざ帰ろうとしていたオレに声をかけてまで、一緒に来るという選択をした。

 

 面倒だからと何もかも切り捨てるような人間なら、そんなことはしないだろう。

 

……やはり姫野は優しい人間なのだと思う、本人がそれをどう考えているかまでは知る由もないが。

 

 そう考えると、今回俺を誘ったのも、もしかすると俺が祝勝会を断ったことを気にしてのことなのかもしれない。

 

 どんな理由であれ、俺を誘ってくれたことには変わりない、感謝すべきだろう。

 

 

「ひとつだけ言っておこう。姫野、おまえは怠惰という殻に引きこもり、恐れから守る盾としている。結構なことだ、そこまで働き者の怠け者というのも珍しい。その思考と行動の乖離に、多くの人間は判断を誤るのかもしれんが、オレの目は誤魔化せん。勿体無いと思うのなら、せっかくの中身を殻で腐らせるような真似は止めておけ」

 

 オレが伝えなくても、彼女自身、自分の良いところには気づいているはずだ。ならば、感謝のかわりにするべきはそれを褒めることではなく、彼女自身がまだ気づいていないかもしれないことを、友として忠告することだろう......本来、他人の生き方に口出しすべきではないのだろうが。

 

 彼女の面倒くさがり屋という側面は、生来の気質に加えて、臆病さゆえの自己防衛という面もあるのだろう。人と深く関われば、それだけ面倒なことも増える。傷つくことを避けるために、最初から一歩引いたところにいる。

 

 その方が、彼女にとっては楽なのかもしれない。そしてその考え自体を否定するつもりは欠片もない。

 

 だが、それでも――オレには、彼女が根の部分では確かな優しさを持っていることが分かる。だからこそ、それを知らない人間から冷たい人間だと誤解されてしまうのを、黙って見ている気にはなれない

 

 彼女は気づいているのだろうか、自分が思っている以上に、人のことを気にかけていることも。面倒だと言いながら、結局は誰かのために動いてしまうことも。それを隠すために、投げやりな態度を取っていることも。

 

 

「…………」

 

 姫野が固まった。

 

 しばらくの間、こちらを見たまま何も言わない。やがて、力が抜けたように肩を落とすと、片手で頭を抱えた。

 

「……っ、うるさい! ほんと、ウザい。やめてくれる? いつも一言どころか二言くらい多いんだよ。もうほんと……なんで私はあの時――」

 

……いつも、か。オレは少し考える。

 

「そうか。周りと比べれば、オレは口数が少ないほうだと思っていたが……なぜもっと早く伝えなかった?」

 

 貴重なアドバイスだ、やはり姫野は優しい。

 

 自分では必要最低限しか話していないつもりだったが、やはりまだ余計な一言を付け加える癖があるらしい。もっと早く教えてもらえていれば、これまでにも改善できた可能性がある......それを考えると、少々惜しいな。

 

 

「…………」

 

 姫野がゆっくりと顔を上げる。

 

 その表情には、明確な疲労が浮かんでいた。試験を終えたばかりなのだから、疲れているのも仕方がない。むしろ、ここまでよく耐えている方だろう。

 

「……クソっ。皮肉野郎が。いちいち面倒くさい……」

 

 姫野は吐き捨てるように呟くと、疲れた様子のまま店員を呼んだ。

 

「もうっ、食べなきゃやってらんない。私、ブレンドコーヒーのホットとプリン。あとパンケーキ……あんたは?」

 

 メニューを眺めながら、いかにも面倒そうに尋ねてくる、オレはメニューに視線を落とすこともなく答えた。

 

「大した差があるとは思えん。お前と同じものでいい」

「……あっそ!」

 

 なぜか、姫野の声に妙な怒気が混じった。

 

 店員も一瞬だけこちらを見ると、何かを察したように僅かに身を固くし、注文を確認し始める。

 

……なぜだろうか。この店は何を頼んでも美味しそうだ。ならば、姫野が選んだものと同じで構わない。それだけの話だ。

 

 どうやら、姫野には別の意味に聞こえたらしい。しかし、何が悪かったのかまでは分からない。オレとしては、特に問題のある発言をしたつもりはなかったんだが。

 

 注文を終えると、店員はどこか慎重な様子でその場を離れていく。

 

 そして再び、店内に静かな空気が戻ってきた。

 

「…………」

 

「…………」

 

 こういうとき、オレは何を話せばいいのか分からない。

 

 姫野と話したいことがないわけではない。むしろ、数え切れないほどいくつもある。。ただ、それをわざわざ口にするほどの話題なのかと考えてしまうと、結局何も言えなくなる。

 

 こういう場面で自然に会話を続けられないあたり、やはりオレは人付き合いには向いていないかもしれない......いや、人と話すというのは好きな方だ気にすることでもないか。

 

 そんなことを考えていると、姫野が小さく息を吐いた。

 

「……あんたさ、どこであの過去問手に入れたの?」

 

 オレが顔を向ける。

 

「まさか噂みたいに、先輩と喧嘩して奪い取ったわけでもないでしょ?」

 

 訝しげな視線を向けられ、オレは過去問を姫野に渡す前日のことを思い出す、過去問の存在に気づいたオレは、そのまま大門主将に尋ねた。

 

――すると、

 

 

『10万だ』

 

 即答だった、オレも了承した。だが、副主将がすぐさま口を挟んだ。

 

『おい、後輩になんてたかり方してんだ! あなたには恥ってもんがないんですか!』

『プライドじゃ唐揚げ定食は食えねぇんだよ!』

 

 堂々と言い切る大門主将に、迷いは一切見えなかった。

 

『……まあ、そこまで言うなら、よし。2年前のも付ける。それなら――』

『5万がいいところです! それでも高いですよ!』

『うるせぇな! じゃあ俺に勝ったら条件でも何でも飲んでやる!』

『分かりました。私も参加します。ぶっ倒してやるよ、クソ主将!』

 

 そこから話は妙な方向へ転がり、最終的には他の部員まで加わった大混戦になった......結果はオレの勝ちだった。

 

 複数人を相手にする乱戦はあまり経験がなかったが、思っていた以上に面白い。次からは、こうした状況を想定した稽古も取り入れてみる価値がありそうだ。

 

 最終的には、副主将の提案で、再来月のオレへの支払いを2万ポイントにすることで話がまとまった。

 

『過去問でのポイント取引が残りませんし、時間がたてば結びつけるのも難しいですから、ポイントを貰うよりそちらのほうがまだ目立たないでしょう』

 

 なるほど。こちらの事情まで考えてくれていたらしい、本当に誠実な男だ。

 

 そう伝えると、なぜか微妙な顔をされたものの、最後には頷いてくれた。きちんと意図が伝わったようで何よりだ。オレのコミュニケーション能力も、以前よりは成長しているらしい。

 

 まぁ、大門主将には普段から世話になっている。10万ポイントでも構わなかったが、厚意には甘えることにした。

 

 祖母からも、人からの厚意を必要以上に突っぱねるのは、かえって失礼になることがあると言われている。ならば、素直に受け取るのも悪くない。

 

「なに? 次は無視?」

 

 そこでようやく意識が現実へ戻った、気づけば、姫野がこちらを鋭い目で睨んでいる。

 

……どうやら、少し考えすぎたらしい。

 

「喧嘩などではなく、じゃれ合いのようなものだった。無論、負けるつもりもなかったが」

 

 喧嘩などという殺伐としたものではなく、互いに遠慮なくぶつかり合っただけだ。それでも、最初から負けるつもりで挑むのは相手に対して失礼だったからな。胸を借りる以上は、こちらも全力で勝ちにいった。それが礼儀というものだろう。

 

「……そう」

 

 姫野の表情が、僅かに引きつった。

 

「色々聞きたいことが失せたんだけど……どうもありがとう」

「感謝されるほどのことではない」

「……くそ。こっちの皮肉は通じない。無敵かよ、コイツ……」

 

 小さな呟きが聞こえたような気もするが、特に気にする必要はないだろう。

 

 やがて注文した料理が運ばれてくる。

 

 姫野は目の前に並べられた料理を確認すると、それまでの疲れた表情がほんの少しだけ和らいだ。特にパンケーキを見つめる目には、先ほどまでにはなかった輝きがある。

 

「ちょっと、私、食べるのに集中するから黙ってて」

 

 心なしか、懇願するような声だった。

 

 なるほど。せっかくの料理なのだから、余計なことを考えず、味そのものを楽しみたいということか。食事を最悪、空腹を満たせればいいと考えているオレとは違い、姫野は食そのものを楽しもうとしているらしい。

 

 ならば、邪魔をする理由はない、オレは素直に頷いた。

 

「承知した」

 

 それから2人とも口を閉ざし、静かな店内で食事を始めた。

 

――美味い。

 

 思っていた以上だった。

 

 まず珈琲の香りが心地よい。口に含めば苦みだけが強いわけではなく、後に残る風味まで穏やかに感じられる。プリンは表面が光を受けて黄金色に輝いており、スプーンを入れると驚くほど滑らかに崩れた。パンケーキも厚みがあるというのに重たさがなく、口に入れれば雲のようにふわりとほどけていく。

 

 どれも丁寧に作られていることが、オレのような安舌にも分かる程度には明確だった。

 

 なるほど......姫野は店選びのセンスもあるらしい。

 

 本人はというと、すっかり食事に集中していた。

 

 先ほどまでの気怠そうな表情もどこかへ消え、黙々と料理を口へ運んでいる。その口角は少し緩み幸せなのがこっちにも伝わってくる......本人が満足しているのなら何よりだ。

 

 こういう時間も、悪くはない。何も話さず、ただ目の前のものを食べる、それだけなのに、不思議と居心地は良かった。

 

 やがて、オレのほうが先に食べ終わり、しばらくすると姫野が席を立つ。どうやらトイレへ向かったらしい。

 

 その姿を見送ったあと、オレも静かに席を立った。

 

 幸い、オレはもう十分に食べた。それに、このままオレがここに居続ければ、姫野が食事に集中できなくなるかもしれない。本人も食べることに集中すると言っていたのだから、その邪魔をするのは本意ではない。

 

 ならば、先に帰ったほうがいいだろう。

 

 そしてレジへ向かい、代金を支払う。その際、通常の代金に加えて、1万ポイントほど多く支払った。

 

 店員に事情を説明し、姫野へ以下の伝言を頼んだ。

 

「その食への執着、いっそ称賛に値する。好きなだけ食べ、その身を肥やすがいい」

 

 店員は一瞬、何とも言えない顔をした。

 

……何か問題があっただろうか。オレとしては、もう十分に食べたということを伝えたかっただけなのだが。

 

 姫野は今回、間違いなくクラスのために一番よく働いた。過去問を受け取ったことを含めても、今回の試験で彼女が果たした役割は大きい。ならば、そのくらい好きにしても構わないだろう。むしろ、あれだけ食べることを楽しめるのなら、その時間を邪魔する理由などどこにもない。

 

 店を出ると、店内とは違う少し騒がしい空気が戻ってきた。

 

 オレはそのまま歩き始める。

 

 今日は思いがけない一日になった。

 

 中間テストも無事に終わり、こうして誰かと静かに食事をすることになるとは、入学したばかりの頃のオレなら想像もしなかっただろう。

 

 まだ始まったばかりの学園生活だ。

 

 だが――。これなら、先行きはそう悪くないのかもしれない。

 

 そんなことを考えながら、オレはどこか満足した気分で歩き続けた。

 

 

カルナ語の下に、丁寧語の原文ってほしいですか?冗長になってもいけないと思い省いていたんですが。

  • ヤハ【カルナ語検定3級】
  • 俺は...高円寺でも藤丸でもない!!
  • 私は好きにした、君も好きにしろ
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