「おい誰だ俺の唐揚げ持ってったやつ」
返事はない。あるわけがない。座敷とテーブルの区別もつかない広さの宴会場に、酒臭い大人が数千人。誰かの笑い声が別の誰かの笑い声に潰され、乾杯の音頭があちこちで勝手に始まり、隅では毎年恒例の腕相撲大会が三回戦まで進んでいる。畳の匂いと出汁の湯気と、安い日本酒の匂い。魂晶戦線の新年会は、外から見れば町工場の忘年会を千倍に引き伸ばしたようなものだった。
明十は自分の取り皿を胸の高さまで持ち上げる。防衛のためだ。
「食い意地張りすぎだろお前」
隣に腰を下ろした同い年が、湯呑みを片手に呆れた目を向けてくる。辻練次。折り目正しく畳んだ袖、まっすぐ伸びた背筋、湯呑みの持ち方まで教科書通り。エリートの家系というのは湯呑みの持ち方から違うらしい。
「張ってねーよ。先に取ったもん勝ちだろ。皿に乗ってる時点で俺のなの」
「三皿目だぞ」
「四皿目だし」
明十は空いた左手を軽く振った。
「開けゴマ」
空間がぱき、と小さく音を立てて裂ける。指先ほどの黒い切れ目。そこへ唐揚げを二個、放り込む。裂け目が閉じる。
練次の湯呑みが止まった。
「……お前それ本気で言ってんのか」
「なにが」
「虚空魔法だぞ。境界淵源だぞ。歴代で何人もいねぇ魔法をお前は今、唐揚げの保管に使ったんだぞ」
「悪いか。冷めないんだぜこれ」
「そういう問題じゃない」
練次の眉間の皺が一本増える。この皺を増やすのが明十はわりと好きだった。二本目までいくと声が高くなる。三本目で立ち上がる。今日はまだ一本目だから、あと二回はいける。
「あーちなみに練次のさっきの天ぷらも入ってる」
「入って——待て」
「なくなったろ? 途中で」
湯呑みが畳に置かれた。音を立てずに。それが一番怖い置き方だということを、明十は経験で知っている。
「レンレン落ち着けって」
「その呼び方をやめろ」
「じゃあネクスト」
「なんだそれは」
「練次だからネクスト。かっこよくね?」
「なぜ英語になった」
そこで練次の視線が明十の背後に上がり、すっと真顔に戻った。背筋が伸びる。教科書通りの角度で。
「賢人さん」
「がはは! 正月から仲がいいなお前ら!」
紙コップが二つ、明十の目の前に降ってくる。中身はオレンジジュース。賢人さんはそのまま明十の隣にどかりと腰を下ろし、畳が沈んだ。三十二歳の巨体が座ると、周囲の音がわずかに遠のく気がする。
「明十、飲め。今日は特別に二杯までいいぞ」
「柴犬さん太っ腹!」
「誰が柴犬だ」
「あ。間違えた。賢人さん」
「今の心の声漏れてたな?」
「漏れてないっす。漏れるのは若さゆえの……」
「言うな」
言い切る前に、太い手が明十の頭を鷲掴みにした。万力だった。頭蓋の形が変わりそうになる。
「いででででで割れる割れる賢人さん俺の頭が正月から鏡開き——」
「がはは! 鍛え方が足りんな!」
隣で練次がジュースを一口飲んで、目を伏せている。助ける気が一切ない。
解放された明十が頭を押さえていると、人混みの向こうから背の高い影が近づいてきた。人が自然と道を空ける。二十歳にしては落ち着いた足取りで、腰には抜き身ではないが明らかに実用の剣。
「よお明十、探したぞ」
「全さんあけおめー」
「ああ、あけましておめでとう。……で、その左腰のやつ新調したのか」
明十は思わず自分の腰を見た。魔法剣。剣としても杖としても中途半端な、けれど見た目だけは完璧な一振り。
「してねーよ。ずっとこれだって」
「見せてくれ」
「やだよ」
「頼む」
「やだ」
「二秒でいい」
結局、鞘ごと渡した。断り続けると面倒なことになるのを学習している。
月本全は両手で受け取り、宴会場のど真ん中で真剣な顔をして鞘を数センチだけ抜いた。刃の走り具合を照明にかざす。指を触れない。息すら控えている。ここまでは、まあ、いい。
「……うん」
「なんだよその『うん』」
「いや、悪くない。悪くはないんだ」
「でた。悪くはない」
「重心が甘いだろ。杖として魂を通す構造にした分、剣としての芯が一本抜けてる。明十の速さならもっと素直な刀身の方が生きる」
「知ってるよ。でも詠唱しながら振るならこっちの方が楽なんだって」
「そこだよなあ」
全さんが鞘を戻して返してくる。その顔が急に緩んだ。
「そこが明十の異常なところだ。普通は剣か魔法のどっちかに寄せる。両方やった方が調子が上がるとか、理屈が通ってない」
「褒めてる?」
「褒めてる。……なあ明十、いつか本気で研がれた剣を持ったらさ」
「まだ何も言ってねぇけど嫌な予感がする」
「その時は俺を——」
「切らねーからな!?」
「一太刀でいい」
「一太刀でも駄目だっつの!」
賢人さんが腹を抱えて笑い、練次が「この人はいつもこうなのか」という顔で明十を見た。明十は無言で頷いた。ゼロというのはそういう場所だ。
その練次の視線が、今度は明十の反対側で止まる。
「……あ」
いつのまにか、そこに人がいた。
長い髪をろくに梳かしていない男が、大杖を抱えて壁際から二歩だけ内側に入った位置に立っている。何分前からいたのかは誰も知らない。霊前詠時さんは、いつもそうやって現れる。
「詠時さんあけましておめでとうございまーす」
「……あ、うん、その、あけまして……おめでとう、ございます……」
声が小さい。周囲の騒音に完全さんに負けている。
「なんて?」
「……いや、その、明十くん、あの、去年の……えっと、詠唱の……」
「詠唱の?」
「……速く、なってた、と……思う……」
「え? なに? ジュース?」
「……ジュース、じゃなくて……」
「あーはいはいジュースね。柴犬さん詠時さんにも一杯!」
「がはは! 任せろ!」
詠時さんの口が半分開いたまま止まる。長い前髪の奥で、目がわずかに泳いだ。全さんが横から肩を叩いた。
「詠時、聞こえてないぞ」
「……うん……知ってる……」
「一回でいいから腹から声出せって」
「……無理」
紙コップを受け取った詠時さんが、それを両手で持ったまま俯く。この人が本気を出すと三十秒で悪魂の群れが消滅するという事実を、明十は毎回忘れそうになる。
そこで、宴会場の照明が半分落ちた。
数千人分のざわめきが、波が引くみたいに前の方から順に静まっていく。奥に据えられた壇上へ、一人の男が上がっていた。
黒髪。仕立ての良いスーツ。それだけなら、どこにでもいる中年の社長で通る。
「明けましておめでとう」
声が、宴会場の端まで届いた。マイク越しではあるが、それだけではない。数千人が同時に姿勢を正す種類の声だった。
真明波。魂晶戦線のトップ。
明十の父親でもある。
「昨年は諸君の働きにより、被害件数を前年比で抑え込むことができた。とりわけ現場に出た者、そして後方でそれを支えた者、双方に感謝する。……が、感謝の言葉は年始の挨拶で一度使えば十分だ。二度は言わん」
どこかで笑いが起きる。壇上の男は表情を変えない。
「本年も引き続き諸君らには危険な場所へ出てもらう。相手は増え続けている。理由は今のところ不明だ。だが我々の仕事は理由が判明するまで待つことではない」
明十は唐揚げを噛みながら聞いていた。親父の挨拶は毎年ほとんど同じだ。長くない。それだけは偉いと思っている。
「最後に一つ、人事を伝える」
紙コップが、明十の口元で止まった。
「非公式の呼称ではあるが、この場では通りが良いのでそのまま言う。——ゼロについてだ」
宴会場の空気が変わった。数千人が息を吸って、そのまま止めたような感じ。
正式な階級としては存在しない。書類のどこにも載らない。それでも全員が意味を知っている言葉。
「本日付で、一名を加える」
明十は隣を見た。練次もこっちを見ている。たぶん二人とも同じ顔だ。誰だ、という顔。
賢人さんが腕を組んで、笑いを噛み殺している。
全さんが、明十の方をまっすぐ見ていた。
「ファーストクラス、真明十」
音が消えた。
いや、消えてはいない。むしろ逆で、次の瞬間に宴会場の全員が一斉に喋り出したせいで、自分の心臓の音だけがやけにはっきり聞こえた。十一歳。ファーストクラスに上がってまだ一年ちょっと。歴代最年少は十三歳の全さんで、それは破られない記録だとみんな言っていた。
明十は口の中の唐揚げを飲み込んだ。
「……は?」
「上がってこい」
壇上の父親が、顎で示す。
人の波が割れる。手が伸びてきて、背中を叩かれる。誰かが名前を叫んでいる。腕相撲大会の三回戦が中断されている。畳の上を歩いているはずなのに、足の裏の感覚がやけに遠い。
壇に上がると、照明が熱かった。数千の顔が、全部こっちを向いている。
「一言」
親父がマイクを寄越してきた。近くで見ると、口の端がわずかに上がっている。この人が公の場でこんな顔をするのは珍しい。
明十はマイクを受け取った。心臓が変な速さで動いている。緊張なのか、それとは別の何かなのか、自分でもよく分からない。
とりあえず、深く息を吸った。
「え〜、この度は身に余る光栄でありまして、俺のような若輩者がこんな立派なゼロという名の——」
「短くしろ」
「今から下ネタ言うところだったのに!」
「言わせるか馬鹿」
数千人が笑った。地鳴りに近い音が天井を揺らす。
明十はマイクを口元に戻す。笑い声が、ゆっくり引いていく。何を言うか決めていなかった。決めていないまま、口が動いた。
「……えっと。正直、実感ないっす」
会場が静かになる。
「昨日まで普通に飯食って、姉貴にパシられて、今日ここに来て唐揚げ守ってただけなんで。だから偉くなった気とか全然しないし、たぶんこの後も同じっすけど」
指先が、鞘の上をなぞっていた。無意識だった。
「まあ、呼ばれたら行きます。誰か死にそうだったら助けます。……それだけっす。以上」
一拍あって、拍手が来た。
最初は前の方から。それが後ろへ広がって、壁で跳ね返って、宴会場全体を叩き潰すみたいな音になる。指笛が鳴った。誰かが名前を連呼し始め、それに別の誰かが乗っかる。
明十はマイクを親父に返した。
「……あんなんでいい?」
「上等だ」
短くそう言って、真明波は明十の頭に手を置いた。壇の上、数千人の前で、ほんの一秒だけ。乱暴な撫で方だった。
「降りていいぞ」
壇を下りると、待ち構えていた三人がいた。
「がはは! やってくれたなぁ明十! これで四人だ! 歴代初だぞ! 俺が入った頃はな、ゼロなんて俺一人の年だってあったんだからな!」
賢人さんの手が肩に乗る。万力だった。今度は肩の骨が鳴る。
「痛いっす痛いっす」
「めでたい日だ我慢しろ!」
「……その、おめでとう……明十くん……」
詠時さんが紙コップを両手で持ったまま、頭を下げた。
「ありがとうございます詠時さん。あの、さっきなんて言ってたんすか」
「……いや……」
「ジュースじゃなくて?」
「……もう、いい……」
長い前髪の奥で、詠時さんが少しだけ笑ったように見えた。たぶん。
最後に、全さんが前に出た。腕を組んだまま、しばらく明十を見下ろしている。何か言いかけて、やめて、また口を開いた。
「十三歳だったんだよ、俺」
「知ってるっすよ。破っちゃってすんません」
「謝るな。……悔しいけどな」
全さんが笑った。心底楽しそうな顔だった。
「明日、空けとけ」
「え」
「昇格祝いだ。魔法はなし。剣だけでやろう」
「いや待ってそれ祝いじゃなくてただの——」
「一時間で終わらせる」
「終わらないやつじゃんそれ!」
背を向けて歩いていく全さんの後ろ姿に向かって明十は叫んだが、片手を上げて応えられただけだった。賢人さんが腹を抱えている。詠時さんが「……ご愁傷様……」と小さく呟いたのだけは、なぜかはっきり聞き取れた。
宴会は続いた。
酒が回った大人たちが順番に絡みに来るのを適当にいなし、四皿目を空にし、練次に「お前は本当に運がいいだけだ」と言われて「はいはい」と流し、そのうち騒ぎの中心が別のところへ移っていく。
明十が壁際まで避難したのは、それから一時間ほど経った頃だった。
そこに、先客がいた。
会場の隅、料理の並んだ長机の陰。制服姿の少女が、皿にデザートだけを山盛りにして座っている。十五歳。同じ黒髪。目つきだけが決定的に違う。
「遅い」
「なんで俺が怒られてんの」
「壇上でぐだぐだ喋ってたから。あんたのせいで柑橘のゼリーが売り切れた」
「関係なくない?」
真波は明十を見上げ、指を一本立てた。
「向こうの奥。まだプリンある。取ってきて」
「自分で行けよ」
「は?」
一音だった。それだけで明十の背中に嫌な汗が浮いた。姉が怒るときは、声が大きくなる前が一番危ない。
「……行きます」
プリンを二つ持って戻ると、姉は片方を当然のように受け取り、スプーンを刺した。しばらく無言で食べている。
「……で」
「なに」
「おめでと」
顔は上げなかった。視線はプリンに落ちたまま。
明十は横に座って、もう一つのプリンの蓋を開けた。
「どうも」
「別に。あんたが強いのは前から知ってるし。今さらでしょ」
「うん」
「……父さん、さっき泣きそうだったけど」
「うそだろ」
「壇の裏で。ちょっとだけ」
見なくてよかった、と明十は思った。見たら、たぶん何か言ってしまう。
姉がスプーンをくわえたまま、ふいに顔を上げた。視線が会場の中央へ向く。人の輪の真ん中で、月本全さんが誰かに剣を見せられて目を輝かせている。
「……ねえ」
「なに」
「あの人、最近怪我とかしてないの」
「全さん? してねーんじゃね。あの人相手が誰でも当たらねぇもん」
「……ふーん」
「回復してやりたいなら賢人さんの方がよく怪我してるぞ。あの人わざと殴られるし」
「あんたに聞いたのが間違いだった」
プリンの容器が、明十の頭に軽くぶつけられた。中身は入っていなかった。
姉は立ち上がり、スカートの埃を払って、外面用の笑顔をどこからか取り出して人混みの方へ歩いていく。三歩ほど行ったところで、振り返らずに言った。
「明日、全さんと打ち合うんでしょ」
「……なんで知ってんの」
「聞こえてた。あんたの声、無駄にでかいから」
「うるせぇ」
「せいぜい派手に怪我しなさいよ。千円になるから」
姉が人混みに消えた。
明十は空になった容器を長机に置き、天井を見上げた。照明が明るすぎて、目が痛い。肩がまだ賢人さんの握力を覚えている。頭のてっぺんには、親父の手の感触が残っている気がする。
ゼロ。書類のどこにも載らない名前。
実感は、やっぱりなかった。
代わりにあったのは、明日の朝に全さんと向かい合ったときのことを想像して、勝手に速くなる心臓の音だけだった。口の端が上がっていることに、明十本人は気づいていない。
「……一時間じゃ終わんねぇだろ絶対」
呟いた声は、宴会場の騒音に完全さんに飲まれて消えた。