腹の上に何かが乗った。
「おにーちゃん、朝」
「……あと五分」
「もう七時半」
「……あと五分」
「かーさんが、ごはん冷めるって」
布団の上から、六歳分の体重が容赦なく跳ねる。膝が肋骨に入った。魂を練る暇もない不意打ちに、明十は横向きに丸まって呻いた。
「いてぇって亜美! そこ内臓!」
「起きた」
「起きたけども!」
満足したらしく、妹はぱたぱたと廊下へ出ていく。天井を睨んで三秒。負けだ。この家で亜美に勝てる人間は一人もいない。
台所へ降りると、味噌汁の匂いが階段の途中まで来ていた。
「あら明十おはよう。今日ね、お雑煮の残りでお餅入れちゃったの。三つでよかった?」
「五つ」
「あらあら」
母が笑いながら椀に餅を追加する。この人の作る飯は、正直どこの店より旨い。それだけは家族全員の共通見解だった。
テーブルの向かいで、姉が雑誌をめくりながら箸を動かしている。ちらとも顔を上げない。
「明十。洗濯物」
「まだ食ってねぇんだけど」
「食べ終わったら」
「なんで俺」
「わたしが言ったから」
理屈はない。この家の姉に理屈を求めるのは、味噌汁に炭酸を求めるようなものだ。
「明十くん、お姉ちゃんの言うこと聞いてあげてね〜」
母がのんびりと味方をする。母は姉の外面しか見ていない。この家で最も騙されている人物だった。
「亜美もやる」
「亜美はいい」
「亜美はいいの」
姉と明十の声が完全さんに重なる。この一点だけは意見が合う。
新聞をめくる音がして、テーブルの端の父が顔を上げた。
「明十、今日は」
言いかけて、そこで止まる。台所には母がいて、隣には亜美がいる。父は新聞を一度畳み直し、それから何事もなかったように続けた。
「……今日は、学び舎の方、朝早いのか」
「うん、まあ」
「そうか。無理するなよ」
「するわけないっしょ」
母が「明十くんは毎日えらいわねえ」と目を細める。この人は、父がそこそこ大きい会社の社長で、明十はそこに併設された学び舎に毎日通っていると思っている。実際は大きすぎるぐらいの規模の組織で、学び舎と呼べる代物でもないのだが、そこは誰も訂正しない。
餅を四つ目まで胃に詰め込んだところで、父が立ち上がった。玄関まで並んで歩く。廊下に出て、台所の音が遠くなったあたりで、父が声を落とした。
「昨日のことだけど。母さんには」
「言わねぇよ。会社で昇進したってことで通してある」
「そうしてくれ」
「つーかさ」
「なんだ」
「頭、撫でんなよ。人前で」
父の足が止まった。
「見てたやつ何人だと思ってんの。数千人だぞ。恥ずいわ」
「……悪かったな」
「別に怒ってるわけじゃねぇけど」
「怒ってるだろ」
「怒ってねぇって」
父が短く笑って、それから自分の後頭部を掻いた。壇上であんな声を出す人間と同じ人間だとは、やっぱり毎回思えない。
「明十」
「なに」
「今日、全くんとやるんだろ」
「なんで知ってんの」
「あいつ昨日わざわざ俺に言いに来た。息子さん借りますって」
律儀すぎる。剣を抱いて寝る人間のくせに、そういうところだけ社会人だった。
「勝てると思うか」
「思わね」
「即答だな」
「だって無理だもん」
父は何も返さなかった。革靴を履いて、扉を開けて、そこでようやく振り返る。
「行ってこい」
一月の空気が、開いた隙間から入ってきた。
◇
訓練所は本部の地下三階にある。天井が高く、床は硬い石でできていて、何十年分の傷が残っていた。魂を叩きつけても壊れないように作られている。
冬の朝、地下は寒い。息が白い。
「早いな」
先に来ていた全さんが、壁際で剣の柄を布で拭いていた。上着は脱いである。二十歳の体はほとんど無駄がなく、袖のない肩に薄く汗が浮いていた。もう温まっている。
「何時から来てんすか」
「六時」
「二時間半」
「体が起きるまでに一時間はかかる」
「かかんねぇよ普通」
明十は広間の中央まで歩き、右手を軽く振った。
「開けゴマ」
空間が裂けて、鞘に収まった一振りが落ちてくる。掴む。十刀。魔法を通す構造を一切持たない、剣であることだけを考えて打たれた一本だ。魔法剣より短く、重心が素直で、握った瞬間に手のひらに収まる。
その様子を、全さんがじっと見ていた。
「その抜き方。去年より速くなってる」
「気づくのそこ?」
「一番出るところだからな。人の癖は」
全さんが布を畳んで壁に置き、こちらへ歩いてくる。
「ルールは昨日言った通り。魔法なし。剣だけ。一時間」
「一本でも取ったら終わりでいいっすか」
「いいぞ」
即答だった。取れるわけがないと思っている人間の即答ではない。取られるつもりが最初からない人間の即答だ。
「なんか腹立つな今の」
「取ればいい」
構える。
床の冷たさが足の裏から膝に上がってくる。明十は息を細くして、体の中の魂を薄く全身へ流した。皮膚の内側が温まる。筋肉ではなく、その手前にある何かが厚くなる感覚。身体強化。詠唱もいらない、この世界で最初に教わる基本。
全さんの魂が動く気配は、ほとんどない。
——薄い。
いつもそうだ。この人の身体強化は、輪郭が見えないくらい滑らかに肉体へ溶けている。どこにも漏れがない。溢れていないのではなく、一滴残らず使い切っている。
「いつでもいいぞ」
床を蹴った。
石が鳴る。距離五歩を一歩で潰す。視界の端が流れ、全さんの輪郭だけが正面に残る。純粋な速度なら負けていない。この一年で確信していた。
右下から斬り上げる。
刃が触れる直前、全さんの剣が上から降ってきて、十刀の腹を叩いた。軌道が外側に流れる。明十の体ごと持っていかれる。
崩れた重心を膝で拾う。石を踏み直して、そのまま二撃目。今度は水平。
弾かれる。
三撃目、突き。
払われる。
四撃目——
胸に衝撃。
蹴られた、と理解したのは背中が床に着いてからだった。呼吸が全部押し出される。肺が空になる。天井の照明が滲んで見えた。
「一本」
「げほっ……早すぎ……」
「十七秒」
「数えんな」
起き上がる。膝が笑っている。胸の中央が熱を持っていて、押すと痛い。
もう一度。
今度は正面から入らない。半歩ずらして左から回る。全さんの体が追ってくる。速度で振り切る。振り切って、視界の外から——
「そこじゃない」
背中側から声。
肩甲骨の間に柄頭。石畳に顔から突っ込んだ。鼻の奥に鉄の味。
「二本」
「なんで先回りできんの!?」
「明十が回る前に目が右を見た」
「見てねぇ!」
「見てる。斬る場所を先に見る癖がある」
寝転がったまま、明十は自分の目を疑った。斬る場所を、見る。言われてみればそうだ。そうだが、そんなものは無意識の話で、自分でも今初めて知った。
「起きろ。まだ五十分ある」
◇
三十本目を過ぎたあたりで、床の冷たさが分からなくなった。
体温が上がりきって、汗が顎から落ちる。落ちた汗が石に散る音まで聞こえる。それくらい静かだ。地下三階には自分たち以外に誰もいない。剣がぶつかる音と、自分の呼吸と、全さんの靴が石を擦る音だけ。
打ち込む。逸らされる。追う。躱される。
正面が駄目なら低く入る。膝を折って腰より下から掬い上げる一撃。全さんの剣が下がって、刃と刃が噛んだ。押し込もうとした瞬間、手首を返されて力の向きが横へ逃げる。つんのめった額に、柄頭が軽く当たった。
「四十一本」
「数えなくていいっつってんの!」
連打に切り替える。一撃ごとに角度を変える。上、横、下、また上。全さんは下がらない。半歩の中で足の位置だけを入れ替え、剣を寝かせて受け流し続ける。刃と刃がぶつかる音が、だんだん短い間隔になっていく。
十を数えたところで、音が止んだ。
十一撃目の空振り。読まれて、剣の先が届かない位置に体を置かれている。伸びきった腕の内側に、全さんの肩が入ってきた。
肩で押される。ただそれだけで、体が浮いて後ろへ飛んだ。石の上を背中で二回跳ねる。
「魂の乗せ方がまだ甘い。押し合いになった時点で明十は不利だ」
「じゃあ押し合いにしなきゃいいんでしょ」
「そうだ」
起き上がりざま、床を蹴らずに滑るように距離を詰めた。踏み込みの音を消す。この一年で一番自信のある入り方だった。
その一歩を、全さんは待っていた。
剣が来る前に手が伸びてくる。掌が明十の胸のあたりの空気を叩き、それだけで前進が止まる。止まった瞬間に足首を刈られた。
天井が回る。今度は受け身が間に合った。転がって立つ。
「今の、なんで分かったんすか」
「音を消した」
「消したら駄目なんすか」
「明十は普段消さない。消したってことは、そこが勝負だと思ったってことだ」
理不尽だった。癖を出しても読まれ、癖を消しても読まれる。
もう一度、右手が動きかけた。空間を裂いて剣を消し、位置をずらして出す——考えた瞬間に、自分で指を握り込む。あれは魔法だ。今日は使わないと言ったのは自分だった。
「使えばいいだろ」
見透かされていた。
「使わねぇよ」
「そうか」
全さんの口の端が上がる。それが妙に悔しくて、明十は歯を噛んだ。
一度だけ、刃が全さんの頬から数センチのところを通った。空気が裂ける音がした。全さんの目が、そこで初めてわずかに開く。
——届く。
その瞬間に体が浮いた。
足を払われている。宙で天地が入れ替わる。受け身を取ろうとした腕ごと石に叩きつけられ、肘から先が痺れて十刀が指を離れた。乾いた音を立てて、剣が三メートル先まで滑っていく。
「今のは惜しかった」
「……惜しくねぇ……」
「惜しいさ。頬に風が来た」
明十は仰向けのまま、天井を見ていた。汗が目に入って染みる。腕がまだ痺れている。
「なあ全さん」
「ん」
「なんで届かねぇの」
答えが返ってくるまでに、少し間があった。
全さんが近づいてきて、明十の視界に入る位置でしゃがむ。逆光で顔がよく見えない。
「速さは明十の方が上だ。とっくに」
「……嘘つけ」
「嘘じゃない。半年前に抜かれてる」
冗談を言っている声ではなかった。
「だから俺は速さで合わせてない。合わせてるのは明十が『どこを斬るか決めた瞬間』だ。そこは体が動く前に決まる。決まってから体が動くまでの間に俺は動いてる」
「……そんなの、どうやったら」
「何万回もやるしかない」
身も蓋もなかった。
「俺は魔法を一個も持ってない。だからそれしかやってこなかった。明十は魔法を四つ持ってて剣も振る。器用にやってる分、剣だけで潰した回数は俺の方が多い。それだけの話だ」
全さんが立ち上がる。手が差し出される。
明十はその手を掴まずに、自分で起きた。
「……まだ、時間あるっすよね」
全さんが笑う。
「十二分」
◇
一時間が終わったとき、明十は大の字で床に転がっていた。
一本も取れていない。
指一本動かすのが億劫で、それでも肺だけが勝手に上下している。汗が冷えて、今になってようやく地下の寒さが戻ってきた。背中の石が氷みたいに冷たい。
かすれた声で、詠唱を始める。
「精霊の歌よ灯りとなりて宿れ 静かな調べは夜露のように染み渡れ 眠るがいい傷よ癒えるまでゆっくりと────汝の傷に」
【精霊歌唱・子】
淡い光が体の輪郭に沿って落ちる。痛みが消えるわけではない。ただ、明日の朝には歩けるようになる。それだけの魔法だ。
「便利だな、それ」
全さんが横に座り込んだ。汗はかいているが、息は乱れていない。
「明日には治るんで」
「明日か」
「明日っす」
「……なあ」
「なんすか」
「昨日、壇の上で言ってただろ。呼ばれたら行きますって」
天井の照明が、じわじわ滲む。まばたきを一回。
「言いましたけど」
「あれ、あの場の全員が聞いてる」
「知ってますよ」
「意味は分かって言ったか」
明十は答えなかった。答えの代わりに、痺れの残る右手を持ち上げて、指を一本ずつ握って開いた。まだちゃんと動く。
「……分かんねぇけど。言っちゃったし」
「そうか」
全さんはそれ以上聞かなかった。膝を抱えて、しばらく二人とも黙っていた。地下三階は物音一つしない。誰も見ていない。
先に立ち上がったのは全だった。壁際の上着を取りに歩いていく。
その背中に向かって、明十の口が勝手に動いた。
「明日も同じ時間で」
全さんの足が止まる。
言ってから、明十は自分の口を疑った。全身が痛い。一本も取れていない。頬の一回以外はかすりもしていない。それなのに、明日の朝この床にもう一度立っている自分を、なぜか当たり前のように思い浮かべている。
全さんが振り返る。上着を肩に引っかけて、少し首を傾げて、それから声を出して笑った。
「六時な」
「早ぇよ!」
「体が起きるまで一時間かかるんだろ」
「かかんねぇって言ったのは俺だよ!」
笑い声が地下の天井に跳ね返って、思ったより長く残った。
床に寝たまま、明十はもう一度天井を見上げる。息はまだ整わない。指先は痺れている。胸の真ん中の打撲だけが、精霊歌唱の光の下で、じくじくと熱を持っていた。