マイソウル   作:わっさーふぉー

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第二話 速いだけの剣

腹の上に何かが乗った。

 

「おにーちゃん、朝」

 

「……あと五分」

 

「もう七時半」

 

「……あと五分」

 

「かーさんが、ごはん冷めるって」

 

布団の上から、六歳分の体重が容赦なく跳ねる。膝が肋骨に入った。魂を練る暇もない不意打ちに、明十は横向きに丸まって呻いた。

 

「いてぇって亜美! そこ内臓!」

 

「起きた」

 

「起きたけども!」

 

満足したらしく、妹はぱたぱたと廊下へ出ていく。天井を睨んで三秒。負けだ。この家で亜美に勝てる人間は一人もいない。

 

台所へ降りると、味噌汁の匂いが階段の途中まで来ていた。

 

「あら明十おはよう。今日ね、お雑煮の残りでお餅入れちゃったの。三つでよかった?」

 

「五つ」

 

「あらあら」

 

母が笑いながら椀に餅を追加する。この人の作る飯は、正直どこの店より旨い。それだけは家族全員の共通見解だった。

 

テーブルの向かいで、姉が雑誌をめくりながら箸を動かしている。ちらとも顔を上げない。

 

「明十。洗濯物」

 

「まだ食ってねぇんだけど」

 

「食べ終わったら」

 

「なんで俺」

 

「わたしが言ったから」

 

理屈はない。この家の姉に理屈を求めるのは、味噌汁に炭酸を求めるようなものだ。

 

「明十くん、お姉ちゃんの言うこと聞いてあげてね〜」

 

母がのんびりと味方をする。母は姉の外面しか見ていない。この家で最も騙されている人物だった。

 

「亜美もやる」

 

「亜美はいい」

 

「亜美はいいの」

 

姉と明十の声が完全さんに重なる。この一点だけは意見が合う。

 

新聞をめくる音がして、テーブルの端の父が顔を上げた。

 

「明十、今日は」

 

言いかけて、そこで止まる。台所には母がいて、隣には亜美がいる。父は新聞を一度畳み直し、それから何事もなかったように続けた。

 

「……今日は、学び舎の方、朝早いのか」

 

「うん、まあ」

 

「そうか。無理するなよ」

 

「するわけないっしょ」

 

母が「明十くんは毎日えらいわねえ」と目を細める。この人は、父がそこそこ大きい会社の社長で、明十はそこに併設された学び舎に毎日通っていると思っている。実際は大きすぎるぐらいの規模の組織で、学び舎と呼べる代物でもないのだが、そこは誰も訂正しない。

 

餅を四つ目まで胃に詰め込んだところで、父が立ち上がった。玄関まで並んで歩く。廊下に出て、台所の音が遠くなったあたりで、父が声を落とした。

 

「昨日のことだけど。母さんには」

 

「言わねぇよ。会社で昇進したってことで通してある」

 

「そうしてくれ」

 

「つーかさ」

 

「なんだ」

 

「頭、撫でんなよ。人前で」

 

父の足が止まった。

 

「見てたやつ何人だと思ってんの。数千人だぞ。恥ずいわ」

 

「……悪かったな」

 

「別に怒ってるわけじゃねぇけど」

 

「怒ってるだろ」

 

「怒ってねぇって」

 

父が短く笑って、それから自分の後頭部を掻いた。壇上であんな声を出す人間と同じ人間だとは、やっぱり毎回思えない。

 

「明十」

 

「なに」

 

「今日、全くんとやるんだろ」

 

「なんで知ってんの」

 

「あいつ昨日わざわざ俺に言いに来た。息子さん借りますって」

 

律儀すぎる。剣を抱いて寝る人間のくせに、そういうところだけ社会人だった。

 

「勝てると思うか」

 

「思わね」

 

「即答だな」

 

「だって無理だもん」

 

父は何も返さなかった。革靴を履いて、扉を開けて、そこでようやく振り返る。

 

「行ってこい」

 

一月の空気が、開いた隙間から入ってきた。

 

      ◇

 

訓練所は本部の地下三階にある。天井が高く、床は硬い石でできていて、何十年分の傷が残っていた。魂を叩きつけても壊れないように作られている。

 

冬の朝、地下は寒い。息が白い。

 

「早いな」

 

先に来ていた全さんが、壁際で剣の柄を布で拭いていた。上着は脱いである。二十歳の体はほとんど無駄がなく、袖のない肩に薄く汗が浮いていた。もう温まっている。

 

「何時から来てんすか」

 

「六時」

 

「二時間半」

 

「体が起きるまでに一時間はかかる」

 

「かかんねぇよ普通」

 

明十は広間の中央まで歩き、右手を軽く振った。

 

「開けゴマ」

 

空間が裂けて、鞘に収まった一振りが落ちてくる。掴む。十刀。魔法を通す構造を一切持たない、剣であることだけを考えて打たれた一本だ。魔法剣より短く、重心が素直で、握った瞬間に手のひらに収まる。

 

その様子を、全さんがじっと見ていた。

 

「その抜き方。去年より速くなってる」

 

「気づくのそこ?」

 

「一番出るところだからな。人の癖は」

 

全さんが布を畳んで壁に置き、こちらへ歩いてくる。

 

「ルールは昨日言った通り。魔法なし。剣だけ。一時間」

 

「一本でも取ったら終わりでいいっすか」

 

「いいぞ」

 

即答だった。取れるわけがないと思っている人間の即答ではない。取られるつもりが最初からない人間の即答だ。

 

「なんか腹立つな今の」

 

「取ればいい」

 

構える。

 

床の冷たさが足の裏から膝に上がってくる。明十は息を細くして、体の中の魂を薄く全身へ流した。皮膚の内側が温まる。筋肉ではなく、その手前にある何かが厚くなる感覚。身体強化。詠唱もいらない、この世界で最初に教わる基本。

 

全さんの魂が動く気配は、ほとんどない。

 

——薄い。

 

いつもそうだ。この人の身体強化は、輪郭が見えないくらい滑らかに肉体へ溶けている。どこにも漏れがない。溢れていないのではなく、一滴残らず使い切っている。

 

「いつでもいいぞ」

 

床を蹴った。

 

石が鳴る。距離五歩を一歩で潰す。視界の端が流れ、全さんの輪郭だけが正面に残る。純粋な速度なら負けていない。この一年で確信していた。

 

右下から斬り上げる。

 

刃が触れる直前、全さんの剣が上から降ってきて、十刀の腹を叩いた。軌道が外側に流れる。明十の体ごと持っていかれる。

 

崩れた重心を膝で拾う。石を踏み直して、そのまま二撃目。今度は水平。

 

弾かれる。

 

三撃目、突き。

 

払われる。

 

四撃目——

 

胸に衝撃。

 

蹴られた、と理解したのは背中が床に着いてからだった。呼吸が全部押し出される。肺が空になる。天井の照明が滲んで見えた。

 

「一本」

 

「げほっ……早すぎ……」

 

「十七秒」

 

「数えんな」

 

起き上がる。膝が笑っている。胸の中央が熱を持っていて、押すと痛い。

 

もう一度。

 

今度は正面から入らない。半歩ずらして左から回る。全さんの体が追ってくる。速度で振り切る。振り切って、視界の外から——

 

「そこじゃない」

 

背中側から声。

 

肩甲骨の間に柄頭。石畳に顔から突っ込んだ。鼻の奥に鉄の味。

 

「二本」

 

「なんで先回りできんの!?」

 

「明十が回る前に目が右を見た」

 

「見てねぇ!」

 

「見てる。斬る場所を先に見る癖がある」

 

寝転がったまま、明十は自分の目を疑った。斬る場所を、見る。言われてみればそうだ。そうだが、そんなものは無意識の話で、自分でも今初めて知った。

 

「起きろ。まだ五十分ある」

 

      ◇

 

三十本目を過ぎたあたりで、床の冷たさが分からなくなった。

 

体温が上がりきって、汗が顎から落ちる。落ちた汗が石に散る音まで聞こえる。それくらい静かだ。地下三階には自分たち以外に誰もいない。剣がぶつかる音と、自分の呼吸と、全さんの靴が石を擦る音だけ。

 

打ち込む。逸らされる。追う。躱される。

 

正面が駄目なら低く入る。膝を折って腰より下から掬い上げる一撃。全さんの剣が下がって、刃と刃が噛んだ。押し込もうとした瞬間、手首を返されて力の向きが横へ逃げる。つんのめった額に、柄頭が軽く当たった。

 

「四十一本」

 

「数えなくていいっつってんの!」

 

連打に切り替える。一撃ごとに角度を変える。上、横、下、また上。全さんは下がらない。半歩の中で足の位置だけを入れ替え、剣を寝かせて受け流し続ける。刃と刃がぶつかる音が、だんだん短い間隔になっていく。

 

十を数えたところで、音が止んだ。

 

十一撃目の空振り。読まれて、剣の先が届かない位置に体を置かれている。伸びきった腕の内側に、全さんの肩が入ってきた。

 

肩で押される。ただそれだけで、体が浮いて後ろへ飛んだ。石の上を背中で二回跳ねる。

 

「魂の乗せ方がまだ甘い。押し合いになった時点で明十は不利だ」

 

「じゃあ押し合いにしなきゃいいんでしょ」

 

「そうだ」

 

起き上がりざま、床を蹴らずに滑るように距離を詰めた。踏み込みの音を消す。この一年で一番自信のある入り方だった。

 

その一歩を、全さんは待っていた。

 

剣が来る前に手が伸びてくる。掌が明十の胸のあたりの空気を叩き、それだけで前進が止まる。止まった瞬間に足首を刈られた。

 

天井が回る。今度は受け身が間に合った。転がって立つ。

 

「今の、なんで分かったんすか」

 

「音を消した」

 

「消したら駄目なんすか」

 

「明十は普段消さない。消したってことは、そこが勝負だと思ったってことだ」

 

理不尽だった。癖を出しても読まれ、癖を消しても読まれる。

 

もう一度、右手が動きかけた。空間を裂いて剣を消し、位置をずらして出す——考えた瞬間に、自分で指を握り込む。あれは魔法だ。今日は使わないと言ったのは自分だった。

 

「使えばいいだろ」

 

見透かされていた。

 

「使わねぇよ」

 

「そうか」

 

全さんの口の端が上がる。それが妙に悔しくて、明十は歯を噛んだ。

 

一度だけ、刃が全さんの頬から数センチのところを通った。空気が裂ける音がした。全さんの目が、そこで初めてわずかに開く。

 

——届く。

 

その瞬間に体が浮いた。

 

足を払われている。宙で天地が入れ替わる。受け身を取ろうとした腕ごと石に叩きつけられ、肘から先が痺れて十刀が指を離れた。乾いた音を立てて、剣が三メートル先まで滑っていく。

 

「今のは惜しかった」

 

「……惜しくねぇ……」

 

「惜しいさ。頬に風が来た」

 

明十は仰向けのまま、天井を見ていた。汗が目に入って染みる。腕がまだ痺れている。

 

「なあ全さん」

 

「ん」

 

「なんで届かねぇの」

 

答えが返ってくるまでに、少し間があった。

 

全さんが近づいてきて、明十の視界に入る位置でしゃがむ。逆光で顔がよく見えない。

 

「速さは明十の方が上だ。とっくに」

 

「……嘘つけ」

 

「嘘じゃない。半年前に抜かれてる」

 

冗談を言っている声ではなかった。

 

「だから俺は速さで合わせてない。合わせてるのは明十が『どこを斬るか決めた瞬間』だ。そこは体が動く前に決まる。決まってから体が動くまでの間に俺は動いてる」

 

「……そんなの、どうやったら」

 

「何万回もやるしかない」

 

身も蓋もなかった。

 

「俺は魔法を一個も持ってない。だからそれしかやってこなかった。明十は魔法を四つ持ってて剣も振る。器用にやってる分、剣だけで潰した回数は俺の方が多い。それだけの話だ」

 

全さんが立ち上がる。手が差し出される。

 

明十はその手を掴まずに、自分で起きた。

 

「……まだ、時間あるっすよね」

 

全さんが笑う。

 

「十二分」

 

      ◇

 

一時間が終わったとき、明十は大の字で床に転がっていた。

 

一本も取れていない。

 

指一本動かすのが億劫で、それでも肺だけが勝手に上下している。汗が冷えて、今になってようやく地下の寒さが戻ってきた。背中の石が氷みたいに冷たい。

 

かすれた声で、詠唱を始める。

 

「精霊の歌よ灯りとなりて宿れ 静かな調べは夜露のように染み渡れ 眠るがいい傷よ癒えるまでゆっくりと────汝の傷に」

 

【精霊歌唱・子】

 

淡い光が体の輪郭に沿って落ちる。痛みが消えるわけではない。ただ、明日の朝には歩けるようになる。それだけの魔法だ。

 

「便利だな、それ」

 

全さんが横に座り込んだ。汗はかいているが、息は乱れていない。

 

「明日には治るんで」

 

「明日か」

 

「明日っす」

 

「……なあ」

 

「なんすか」

 

「昨日、壇の上で言ってただろ。呼ばれたら行きますって」

 

天井の照明が、じわじわ滲む。まばたきを一回。

 

「言いましたけど」

 

「あれ、あの場の全員が聞いてる」

 

「知ってますよ」

 

「意味は分かって言ったか」

 

明十は答えなかった。答えの代わりに、痺れの残る右手を持ち上げて、指を一本ずつ握って開いた。まだちゃんと動く。

 

「……分かんねぇけど。言っちゃったし」

 

「そうか」

 

全さんはそれ以上聞かなかった。膝を抱えて、しばらく二人とも黙っていた。地下三階は物音一つしない。誰も見ていない。

 

先に立ち上がったのは全だった。壁際の上着を取りに歩いていく。

 

その背中に向かって、明十の口が勝手に動いた。

 

「明日も同じ時間で」

 

全さんの足が止まる。

 

言ってから、明十は自分の口を疑った。全身が痛い。一本も取れていない。頬の一回以外はかすりもしていない。それなのに、明日の朝この床にもう一度立っている自分を、なぜか当たり前のように思い浮かべている。

 

全さんが振り返る。上着を肩に引っかけて、少し首を傾げて、それから声を出して笑った。

 

「六時な」

 

「早ぇよ!」

 

「体が起きるまで一時間かかるんだろ」

 

「かかんねぇって言ったのは俺だよ!」

 

笑い声が地下の天井に跳ね返って、思ったより長く残った。

 

床に寝たまま、明十はもう一度天井を見上げる。息はまだ整わない。指先は痺れている。胸の真ん中の打撲だけが、精霊歌唱の光の下で、じくじくと熱を持っていた。

 

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