「一つ聞いていいか」
「だめ」
「なぜ俺なんだ」
「だめっつったろ」
車の後部座席で、練次が三度目の同じ質問をした。窓の外を、冬枯れの街路樹が流れていく。空は白い。今にも雪が降りそうな色をしていた。
明十は座席に沈み込んだまま、指先で膝を叩いている。
「柴犬さんが決めたんだって。俺じゃねぇもん」
「賢人さんが」
「明十を一人で行かせると隠蔽班に迷惑がかかる、って言ってた」
「……納得した」
「納得すんな」
前の席で、運転している事務員が肩を震わせている。この人はいつも笑いを堪えるのが下手だった。
車が止まったのは駅から三十分ほど離れた古い団地の前だった。八棟、五階建て。取り壊しの決まった区画で、窓には内側から板が打ってある。生活の音が一つもしない。冬の午後三時なのに影の落ち方だけが夕方だった。
車を降りると、外は思ったより寒くなかった。
「……あったかいな」
練次が呟く。明十も同じことを感じていた。息が白くならない。この一角だけ、空気がぬるい。
「これ、なんでか知ってる?」
「知らん」
「悪魂が溜まってるとこは温度が上がんの。魂が擦れてるから」
「そんな話は教本になかったぞ」
「そりゃ教本に書いてねぇもん。柴犬さんが言ってた」
団地の入口にはすでに黄色いテープが張られていた。作業服の男女が十人ほど、忙しく動き回っている。
「あーどうも、明十くん」
首から札を下げた中年の男が寄ってきて書類を差し出した。
「今日で三日目です。近隣の住民は工事の説明会という名目で公民館に集めてあります。中に入ったのは巡回の警備員が二人。両方無事ですが、記憶処理は済んでます」
「なんて書き換えたんすか」
「野良犬の群れに追われた、で」
「雑じゃね?」
「一番信じてもらえるんですよ、これが」
明十は書類をめくる。反応数、推定個体数、周辺の負荷値。数字の並びを二秒見て、後ろへ回した。練次が受け取って、こちらは端から端まで読んでいる。
「推定十七体。うち一体、反応の桁が違う」
「セカンドだな」
「なぜ分かる」
「桁が二つ違うから」
「そこじゃない。姿を見ていないのになぜ断定できる」
明十は肩をすくめる。
「勘」
練次が書類を持つ手に力を入れたのが、紙の音で分かった。
◇
一棟の中に入ると、匂いが変わった。
埃と黴と、その奥にもう一つ。生臭いというのとも違う、鉄を舐めたような匂い。廊下の蛍光灯は当然生きていない。窓を塞いだ板の隙間から白い光が細く差し込んでいる。
明十は右手を軽く振る。
「開けゴマ」
空間が裂けて、二本の剣が落ちてくる。左手で十刀を掴み、魔法剣は腰へ回す。裂け目が閉じる。
「唐揚げは出ないんだな」
「昨日食った」
「入れっぱなしにするなという話をした記憶があるんだが」
「腐らねぇもん」
「そういう問題じゃない」
会話の途中で、練次はもう弓を構えている。矢を一本、弦につがえる。長身の背筋がまっすぐ立ち、肩の線が動かなくなる。ふざけているようで、この切り替えだけは早い。名家の子だ、と明十が唯一素直に思う瞬間である。
「上から潰す。三階から降りる」
「なぜ上から」
「逃げるやつは下に行くから。下で待ってりゃ全部来る」
「……理には適っている」
「たまには褒めろよ」
「褒めた」
三階の廊下に出た瞬間、突き当たりの闇が動く。
輪郭が定まっていない。肉のように垂れた縁が床へ張りつき、それがずるりと持ち上がる。窪みが三つ。腕に見える部分が四本。歩くというより、崩れながら前へ流れてくる。
レベルフォース。
負の感情が土地に溜まり、形になりきれないまま塊となった最下級。姿が整わないということは、まだ悪魂として熟していないということ。魂を持たぬ者でも、刃さえあれば殺せる程度の脅威。
つまり、ゼロが出張る理由がどこにもない。
「フォース。三体」
明十の声から抑揚が消える。
「気配よ、朧に溶けよ」
【朧隠】
隣の練次が消える。
そこにいるのは分かる。空気の重さで分かる。しかし目が滑る。輪郭を捉えようとした視線が横へずれていく。気配を極限まで削ぎ落とす霧の魔法。魂を使う攻撃を行えば強制的に解ける代わりに、解けるその瞬間まで、この男は世界から存在を消している。
明十は正面から歩く。隠れる気は最初からない。
一体目が跳ぶ。
床を踏み替え、半身をずらして通す。すれ違いざま、十刀が奔る。手応えは豆腐に近い。肉ではなく、湿った塊を断つ感触。断った瞬間、上半分が落ちる前に塵へ変わる。
二体目が壁を這って側面から来る。
腕に見える四本が伸びる。届かない。届く前に踏み込みが完了している。下から顎らしき部分を斬り上げれば、それだけで天井まで飛ぶ。落ちてこない。落ちる前に散る。
三体目が背後を取ろうとして、廊下の途中で止まる。
止まった、というより縫い止められている。矢が一本、胴を貫いて壁に刺さっている。射線は見えない。音もない。
朧隠が解け、練次が階段の踊り場に現れる。二本目をつがえながら、こちらを見もしない。
「一体は俺のだ」
「攻撃したら解けるんじゃなかったっけ」
「解ける。だから一射目に全部乗せる」
「怖」
「褒めろと言ったのはお前だろう」
◇
四階から二階まで降りる間に、十三体。
サード級が混ざり始めるのは二階からである。フォースよりわずかに形が整い、そして走る。曲がり角で三体に挟まれた瞬間、明十が初めて詠唱を口にする。
「燃ゆる雷鳴の天を裂く閃光。我が手に」
【雷塊】
掌の上で光が潰れる。音が遅れて追いつき、廊下の埃という埃が一斉に弾け飛ぶ。青白い塊を床へ叩きつける。
爆ぜる。
走ってきた三体が、それぞれ違う方向へ吹き飛ぶ。一体は壁にめり込み、一体は天井に貼りつき、最後の一体は自分の脚に絡まって転がりながら崩れていく。
焦げた匂いが充満する。
「派手すぎるだろう」
「早く終わるじゃん」
「隠蔽班の仕事を増やしてるだけだ」
「あ」
「気づいてなかったのか」
明十が天井の焦げを見上げていると、床が鳴った。
下からだ。それも一箇所ではない。振動が建物の骨を伝って足の裏に上がってくる。二人とも黙る。練次が弓を下ろさないまま、目だけを階段へ向ける。
「……来た」
◇
一階のエントランスは、思ったより広い。
かつて集合ポストが並んでいたであろう壁は根元からえぐれている。床のタイルは放射状に割れている。その中心に、それはいる。
狼。
体高は明十の背丈を超える。毛並みは黒というより、光を吸う何かでできている。動くたび輪郭が水面のように揺れる。四肢は細く、長く、無駄なものが一つもない。目だけが白い。
レベルセカンド。
ここから上は姿が整う。狼、熊、猛獣。悪魂は強度を増すほどに醜さを捨て、代わりに美しさを獲得していく。歪んだ塊が獣になり、獣が人になる。この世界における強さとは、形を得るということである。
美しい。
思ってしまってから、明十は自分に呆れた。
「レベルセカンド」
練次の声が硬い。
「書類の桁より一段強い。個体差か」
「んなことより避けろ」
狼が首を巡らせる。
白い目が二人を捉える。喉の奥で低い音が鳴る。空気が震え、エントランスの割れたガラスが一斉に細かく揺れる。
輪郭が滲む。滲んだ部分が剥がれ、黒い刃の形になって飛ぶ。
悪霊魂。
人間の魔法に相当する、悪魂の力。詠唱も、練り上げも、型もいらない。生の力をそのまま投げつけるだけの単純な暴力。単純であるがゆえに速く、単純であるがゆえに読みづらい。
セカンドが放つそれは、当たれば戦闘員の胴を落とす。
一射。二射。三射。
明十は避けない。
半歩。半歩。半歩。
三つの黒刃が三度とも、明十の輪郭を舐めるようにして背後へ抜けていく。壁が五枚まとめて抉れる。爆風で埃が舞い上がり、視界が白く濁る。
その白の中を、明十は前へ出る。
「燃ゆる雷鳴の天を裂く閃光」
十刀を腰へ落とし、右手が魔法剣の柄を握る。剣として不完全、杖としても不完全。剣であり杖である一本。魔法剣士のためだけに存在する、この世でただ一人にしか意味を持たない得物。
走りながら、詠唱する。
身体強化を全身に流し、同時に魂を練り上げ、同時に詞を紡ぐ。三つを並行して破綻させない。KCS数万の戦闘員のうち、これを実戦で成立させている者は一人しかいない。
「我が剣に」
【雷明一閃】
刃に雷が宿る。
狼が跳ぶ。前脚の爪が明十の頭上から降ってくる。速い。体重の乗り方が違う。回避不能の角度、回避不能の間合い、回避不能の速度。
──ではない。
明十の踏み込みが、爪の落ちる位置より内側に入っている。
すれ違い。
音は一つ。剣が空気を裂く音だけ。雷鳴も、悲鳴も、衝突音もない。
明十が背後で剣を振り抜いた姿勢のまま止まり、その二歩先で、狼の巨体が動きを止める。
首の付け根から、光が漏れている。
漏れて、広がって、内側から黒い体を食い破る。青白い光が毛皮を走り、四肢を巡り、白い目に届く。輪郭がほどけ、砂のように散り、風もない屋内でゆっくりと流れて消えていく。
痙攣一つない。喉が鳴ることもない。
美しいものは、美しいまま消えた。
エントランスに残るのは、焦げた空気の匂いと、崩れた壁の粉塵だけ。
一秒。
矢をつがえたまま、練次は動かない。
◇
「……終わったのか」
「うん」
明十は魔法剣を振って刃の熱を落とし、腰へ戻す。首を回すと、骨が鳴った。
「肩いてぇ」
「明十」
「なに」
練次が弓を下ろす。弦から指を離す。つがえたままだった矢を、そのまま矢筒へ戻す。
「俺は、何もしていない」
冬の風が、崩れた壁の隙間から吹き込んでくる。遠くで隠蔽班の車のドアが閉まる音がした。
「フォースを一体射っただけだ。あれが本命だと分かっていて、俺は弓を構えて、そこから一射もしていない」
「撃つ暇なかっただけだろ」
「そうだ。撃つ暇がなかった」
言葉が途中で切れる。
明十は上着の裂けた肩を引っ張って破れ具合を確かめている。答えない。
「お前が入った時点で、俺の射線は消えていた。味方の背中に矢を撃つ馬鹿はいない。だから俺は正しく判断して、正しく撃たなかった」
「じゃあいいじゃん」
「よくない」
練次の握った拳が白い。矢を放った直後の指ではなく、そのあとで作った拳である。うつむいて、地面のタイルの割れ目を見ている。
──ああ、そうか。
何もできなかったことに気づく頭があるから、この男はいずれ上に行く。同時に、その頭があるせいで、今この瞬間がいちばん苦い。
明十は右手を振った。
「開けゴマ」
裂け目に手を突っ込んで缶を二本引っ張り出す。片方を練次の胸に押しつけた。
「なんだこれは」
「柴犬さんの奢り。もらったやつ」
「……ぬるいぞ」
「そりゃ入れっぱなしだったからな」
練次が缶を見下ろす。しばらくそのまま動かない。それから片手でプルタブを起こした。開く音が駐車場に思ったより大きく響く。
「明十」
「んー」
「今度の昇格審査を受ける」
明十は自分の缶を傾けたまま横目でそれを見た。
「へえ」
「それだけだ」
「がんばれー」
「もう少し何かないのか」
「じゃあ、落ちたら奢れ」
「逆だろう」
練次が、ようやく少し笑った。
団地の方から作業服の集団がぞろぞろと出てくる。壁に開いた大穴と天井に開いた二つ目の穴を見上げて、誰かが長いため息をついた。
「明十くーん。これ、どう説明したらいいですかね」
「野良犬っしょ」
「野良犬は天井に穴開けないんですよ」
ぬるいジュースは、あまり美味くなかった。