マイソウル   作:わっさーふぉー

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第四話 見返りの話

「聖也さーん。いる? いるよね? いるって聞いたんだけど」

 

第二資材室の扉を開けた瞬間、床に置かれた洗面器の水が跳ねた。

 

中腰の男が振り返る。作業用の袖を肘までまくり、両手を水に突っ込んだ姿勢のまま、その顔が一瞬で「またか」という色に変わった。

 

「……明十くん。ノックは」

 

「したよ」

 

「開けながらするのはノックとは言わないんです」

 

清本聖也。ファーストクラス、素手戦闘。三十半ばの真面目そうな顔立ちで、実際に真面目である。悪魂の処理が発生するたび、この人はほぼ確実に現場へ駆り出される。理由は単純で、この人が行けば早く終わるからだ。

 

明十は肩に担いだ布包みを、机の上にどさりと置いた。

 

「これ、お願いしていい?」

 

「……何本ですか」

 

「二本」

 

包みを解くと、十刀と魔法剣が現れる。抜いてみせると、刃の元のあたりに黒ずんだ汚れがこびりついていた。悪魂を斬った時の飛沫と、団地の埃と、雷を通した時の焦げが層になっている。

 

放っておいたところで刃が腐るわけではない。布と油と一時間があれば自分でも落とせる。

 

落とせるが、面倒くさい。

 

「団地の件ですね。聞いてます。天井に穴を開けたと」

 

「柴犬さんが言った?」

 

「隠蔽班の日報に書いてありました。写真付きで」

 

「写真」

 

清本は洗面器から手を抜いて、布で丁寧に拭いた。それから鞘に触れる。触れる前に、もう詠唱が始まっている。

 

長さは普通だ。詠時さんのような超高速でもなければ、明十のラグナロクのような馬鹿げた長文でもない。ごく標準的な、教本に載っているような詞の連なり。

 

ただし、この人は歩きながら唱えられる。

 

魔法は魂を練りながら詞を紡ぐ。だから普通は足が止まる。止まった人間は現場では的になる。それを止まらずにやれるという一点だけで、この魔法の価値は跳ね上がっていた。

 

その価値ある魔法が、今から剣の汚れを落とす。

 

詞が閉じる。

 

【清散】

 

音はしない。光もほとんど出ない。ただ、黒ずみが消える。拭き取られたのでも溶けたのでもなく、最初からそこになかったことになったような消え方をする。刃を返す。裏側も同時に消えている。

 

「はい、二本とも」

 

「はっや」

 

「これくらいは」

 

明十は魔法剣を手に取って、鍔を指でこすった。すべすべしている。新品より新品に近い。

 

「聖也さんさぁ」

 

「なんでしょう」

 

「これ、一日何本やってんの」

 

清本の手が止まった。洗面器の水面が、遅れて一度だけ揺れる。

 

「……数えたことはないですね」

 

「今日は?」

 

「今日は、明十くんので十九本目です」

 

「数えてんじゃん」

 

「今日の分だけです」

 

      ◇

 

資材室の隅には、返却待ちの武器が立てかけられていた。剣、槍、金属の棍。持ち主の名前を書いた札が柄に結んである。

 

札の並びを目で追っていくと、見覚えのある字が出てきた。月本全。

 

思わず笑いが漏れる。あの人は自分の剣に関して、砥ぎも歪みの調整も絶対に他人へ渡さない。夜中に一人で布を当てているのを何度も見ている。

 

その全さんでさえ、汚れ落としだけはここへ持ってくる。

 

手間の話であって、腕の話ではないからだ。剣の魂がどうこうと血眼で語る人間も、雑巾がけの前では素直になる。

 

清本は洗面器に別の何かを浸している。覗き込むと、それは湯呑みだった。

 

「なにしてんの」

 

「休憩室の食器です。誰も洗わないので」

 

「魔法でやってんの?」

 

「ええ。触れれば済むので」

 

「ファーストクラス級の悪魂も払える魔法で、湯呑み洗ってんの?」

 

「汚れが落ちるという点では同じですから」

 

真顔だった。

 

明十は口を開けて、閉じた。この人の真面目さは時々、アホの領域と見分けがつかなくなる。

 

「あら。子供がいるわね」

 

扉が開いていた。

 

いつから開いていたのかは分からない。立っていたのは女で、細身で、髪をきつく結い上げていた。手には黒い革の束。丸めて肩に掛けている。それが鞭であることは、遠目にも分かった。

 

「どうも田高瀬さん」

 

清本の声から明らかに温度が下がる。

 

「聖也。幸好の件、報告書がまだ上がってないのだけれど」

 

「今日中に出します」

 

「今日中って、あと何時間かしら」

 

「……三時間です」

 

「あら。じゃあ二時間ね」

 

「なぜ減るんですか」

 

「減らしたいから」

 

田高瀬蕗雫。ファーストクラス、武器は鞭。武器の選定理由が「人を叩きたいから」だという噂を、明十が耳にしたのは入団三年目の頃になる。しばらくは冗談だと思っていた。

 

「幸好の件って、こないだの倉庫の?」

 

明十が口を挟むと、二人の視線が同時に来た。

 

「聞いてたの」

 

「聞こえてた」

 

「口が軽い男は嫌いよ」

 

「聞こえたやつまで責任取れっつーの?」

 

田高瀬が肩の鞭を掛け直す。革が擦れる音がした。

 

「顕魂会よ。名前は知っているでしょう」

 

「知ってる。悪魂を資源だとか言ってる人らっしょ」

 

顕魂会。悪魂を討伐対象ではなく力の資源と見なし、取り込み、使役しようとする人間の集団。KCSとは思想が真っ向からぶつかっている。ぶつかってはいるが、正直なところ明十の中での扱いは、雨漏りに近い。放っておくと面倒だが、命の心配をする類のものではない。

 

上の連中も似たようなものらしく、対応は基本的にファーストクラス以下で回っている。

 

「幸好はその幹部の一人。先日、聖也が現場で鉢合わせしたの」

 

「へえ。んで、逃したの?」

 

「逃してません」

 

清本が湯呑みを拭きながら答える。

 

「取り押さえました。ただ、引き渡す前に本部が引き取り手をどこにするかで揉めまして、その間に」

 

「逃げられたんじゃん」

 

「……はい」

 

「だから報告書なのよ」

 

田高瀬の口調が、ここだけ落ち着いていた。叱っているのでも詰めているのでもなく、事実を並べているだけの声。

 

「次は私が行くわ。あの男、聖也みたいな真面目な人間に捕まると調子に乗るのよ」

 

「乗る?」

 

「乗るの」

 

意味が分からなかったが、田高瀬の目つきが本気だったので明十は追及をやめた。

 

女の視線がこちらへ落ちてくる。上から下まで、二往復。

 

「見ない間に伸びたわね」

 

「久しぶりっす」

 

「ゼロになったんですって」

 

「もう聞いたんすか」

 

「聞いたわよ。あなたの昇格、資材室の連中まで話してたわ」

 

「へえ」

 

短い相槌だったが、値踏みの角度がわずかに変わったのが分かった。品定めではなく、もっと具体的な何かを測っている目。明十は自分の首から下を眺め回されているのが分かって、思わず半歩下がった。

 

「駄目ね」

 

「なにが」

 

「叩き甲斐がなさそう」

 

「なんの話!?」

 

「顔に出ないでしょう、あなた。痛くても平気な顔をするタイプ。そういう子はつまらないの」

 

「褒められてんのかそれ」

 

「けなしてるわ」

 

清本が洗面器を持ち上げて、二人の間を通り過ぎた。逃げているわけではない。ただ関わらないようにしているのが、背中で分かる。

 

明十は鞄から出しかけた手を止めて、女の顔を見上げた。あだ名を考えかけて、やめた。この人に変な名前をつけたら、たぶん何かが起こる。

 

「なにか言おうとしたわね」

 

「言ってねぇよ」

 

「言おうとした顔をしていたわ」

 

「してねぇって」

 

「してたわ」

 

鞭の束が、肩の上でわずかに動いた。

 

「言っておくけれど、変な呼び方をしたら容赦しないから」

 

「読むなよ心を!」

 

      ◇

 

田高瀬が帰ったあと、資材室には湯気と洗剤の匂いだけが残った。

 

清本は湯呑みを一つずつ布で拭いている。魔法で綺麗にした後で、律儀に拭いている。

 

「あの人いつもあんな感じ?」

 

「ええ」

 

「怖くね?」

 

「怖いですよ」

 

即答だった。

 

明十は机に腰を掛けて、足を揺らした。壁の時計はもう夜に近い。地下にいると、外が明るいのか暗いのかは時計を見るまで分からない。

 

「聖也さんさ」

 

「はい」

 

「浄化してもらった人から、なんかもらってる?」

 

清本の手が、湯呑みの縁で止まった。

 

「もらう、というのは」

 

「金とか。飯とか」

 

「ああ」

 

短く笑って、また拭き始める。

 

「お礼は言われますよ。皆さん、ちゃんと」

 

「それだけ?」

 

「それだけです」

 

「一日十九本で?」

 

「今日はまだ二十本にはなってません」

 

数え方の問題ではない。明十は足を止めた。

 

洗面器の水面に映った自分の顔が、思ったより真面目な顔をしていて、少し嫌になった。

 

「なんか、おかしくね?」

 

「おかしいですか」

 

「おかしいだろ。あんた別に掃除係じゃねぇじゃん。ファーストクラスじゃん。悪魂出たら現場も行かされてんじゃん。その上で剣の汚れ落として湯呑み洗ってんの、どう考えても割に合ってねぇって」

 

言い終わってから、言いすぎたかと思った。

 

清本はしばらく黙って湯呑みを拭いている。それから、それを棚に戻した。

 

「明十くん」

 

「なに」

 

「僕の魔法は、触れるだけで済むんです」

 

「知ってる」

 

「僕が三十秒で済ませることを、皆さんは布と油で一時間かけるんです。それが十九人分なら、十九時間が消えます」

 

棚の扉が閉まる音がした。

 

「割に合っていないというのは、その通りかもしれません。でも、僕が三十秒惜しむと、そのぶん誰かの時間が消えるんです。それを知っていて、やらない理由の方を探すのは、僕には難しいんですよ」

 

「疲れねぇの」

 

「疲れますよ」

 

あっさりしたものだった。

 

「疲れますし、たまに手が止まらなくなります。妻には心配されてます。それでも次の日には来るんですから、まあ、そういう性分なんでしょうね」

 

「奥さんなんて言ってんの」

 

「無理をするなと」

 

「してんじゃん」

 

「してますね」

 

明十は返す言葉が出てこなかった。

 

似たようなことを、つい先日、自分も壇の上で言った気がする。呼ばれたら行きます、と。あれは勢いで出た言葉だった。この人のは、たぶん十何年分の積み重ねでできている。

 

「……あー」

 

「はい」

 

「なんかお返しする」

 

清本が振り返った。

 

「え」

 

「なんかする。今すぐは思いつかねぇけど」

 

「いえ、あの、結構ですので」

 

「結構じゃねぇの」

 

明十は机から降りて、剣を布に包み直した。乱暴な手つきになっているのが自分でも分かった。

 

「なんかするから。覚えとけよ」

 

「……はあ」

 

「そういうとこだぞ聖也さん。もっと図々しくなれ」

 

「僕、あなたに図々しさを説教される日が来るとは思っていませんでした」

 

「褒められた気がする」

 

「けなしてます」

 

今日は二回目だった。

 

      ◇

 

廊下に出ると、突き当たりの休憩室に明かりがついていた。

 

自販機の前に、見慣れた背中が立っている。上着を椅子の背に掛け、缶を一本持ったまま、掲示板を眺めている。

 

「練次」

 

振り向いた顔が、少し疲れていた。

 

「なんだ」

 

「なにしてんの」

 

「見ての通りだ」

 

掲示板には紙が一枚、真新しい画鋲で留められている。昇格審査の日程と、被審査者の名前。上から三番目に、辻練次とあった。

 

その下の行に、立会人の欄がある。

 

「相手が決まったんだ」

 

「ああ」

 

「誰」

 

練次は答えない。缶を口に運び、飲まずに下ろす。

 

「……見に来るのか」

 

「行っていいなら行く」

 

「見学席は誰でも入れる」

 

「じゃ、行く」

 

「そうか」

 

短い返事だった。それだけで会話が終わりそうになって、明十は掲示板の紙をもう一度見た。立会人の名前を目で追う。追って、そこで止まる。

 

「うわ」

 

「言うな」

 

「いや、うわ」

 

「言うなと言っている」

 

練次が缶を握り潰しかけて、思い直したように力を緩めた。

 

明十は自販機に小銭を入れて、適当なボタンを押した。落ちてきた缶を練次の空いている方の手に押しつける。

 

「なんだ」

 

「験担ぎ」

 

「お前から物をもらうと落ちる気がする」

 

「失礼か?」

 

練次が缶を見下ろす。表情は変わらない。それでも、掲示板から一歩離れた。

 

「明十」

 

「んー」

 

「見に来い」

 

「行くって言ったじゃん」

 

「言え。行く、と」

 

面倒くさい男だ。そう思いはしたが、口には出さない。

 

「行く」

 

「そうか」

 

地上に出ると、この冬はじめての雪が降り始めていた。

 

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