「りょーさん、それ何本目?」
自販機の前に立っていた男が、缶を取り出す手を止めた。
無言のまま、こちらを見る。目つきが鋭い。眉が太く、顎の線が硬い。廊下の向こうを歩いていた事務員が、その視線を横から浴びただけで足を速めた。
榎本亮。二十五歳。薙刀使い。
セカンドクラス以下の連中の間では「目を合わせるな」という不文律があるらしい。実際、この人が休憩室に入ると室温が三度下がるという冗談をよく聞く。
その男が、缶を二本買った。
「……」
無言で片方を差し出してくる。明十は受け取る。当然のように受け取る。
「三本目」
「多くね?」
「寒い」
会話が終わる。榎本は缶を開け、廊下の先の方を向いた。それきり何も言わない。
明十はその横に並んで、同じように缶を開けた。この人が奢ってくれる飲み物は、なぜか毎回自分の好きなやつだった。理由を聞いたことはない。聞いても答えないのは分かっている。
「今日、練次の審査っすよね」
「ああ」
「相手、りょーさんなんすよね」
「ああ」
「手加減する?」
榎本の缶が、口元で止まった。
「しない」
◇
第二訓練場は、地下三階の訓練所より一回り広い。
天井が高く、床には石柱が林立している。太いもの細いもの、腰の高さで折れたもの。市街地や廃屋を想定した障害物の配置で、KCSの戦闘は屋外の平地より、こういう狭くて見通しの悪い場所で起こる方がずっと多い。
見学席は二階のキャットウォークにある。明十は手すりに顎を乗せて下を覗き込んだ。
「おう明十! 早いな!」
「柴犬さん審査官なの?」
「がはは、今日は俺だ! 現場指揮を長くやってると、こういう役が回ってくる!」
賢人さんが手すりを叩く。金属が悲鳴を上げた。
「辻練次。実績は文句なしだ。今年に入ってからの出動回数、討伐数、被害の抑え込み。数字だけならとっくにファーストクラスの平均を超えてる」
「数字だけじゃ通んねぇパターンのやつだそれ」
「察しがいいな」
「まあ、それだけで決まるならとっくに通ってるっしょ」
「今日で三人目だ。前の二人は一人が三分、もう一人が一分半で終わってる。実績はどっちも申し分ないやつらだったがな」
「一分半のやつ、間合いで固まったんじゃね」
賢人さんの眉が上がった。
「見てたのか」
「見てない。りょーさん相手ならそうなるってだけ」
「……当たりだ。片方は通した。片方は保留にした」
賢人さんが顎を撫でる。太い指が無精髭を擦る音がした。
「実力差そのものは責められん。だが固まるやつを現場の判断役には置けん」
床の中央に、二人が向かい合っている。
練次は普段通りだった。弓を提げ、背筋を伸ばし、矢筒の位置を確かめている。動作の一つ一つが丁寧で、それが緊張の裏返しであることを、明十は知っている。
その正面に、榎本が立っていた。
鞘に納めた薙刀を片手に提げている。柄は使い込まれて色が変わっている。構えていない。ただ立っているだけ。それなのに、石柱の並ぶ空間全体が、この男の間合いに見えた。
「開始」
賢人さんの声が落ちた。
◇
先に動いたのは練次である。
石柱の陰へ滑り込む。判断は正しい。弓兵が開けた場所に留まる理由はどこにもない。遮蔽を取り、射線を作り、相手の位置を把握してから撃つ。教本の通り、名家の教えの通り。
「気配よ、朧に溶けよ」
【朧隠】
姿が消える。
霧の魔法。気配を極限まで削ぎ落とし、目で追うことすら困難にする。魂を用いた攻撃で強制的に解ける制約はあるが、裏を返せば、撃つ瞬間まで居場所を悟らせない。
対人戦において、これほど厄介な魔法もそうはない。
榎本が歩き出す。
鞘を払う。鐺が石床を打つ小さな音。それきり、この男は音を立てない。
走らない。探さない。抜き身の薙刀を提げたまま、石柱の間をまっすぐ歩いていく。散歩に近い速度。それでいて、進む方向に迷いが一切ない。
その進路上に、消えたはずの練次がいる。
——聞いてんのか。
明十の口の端が動いた。足音だ。気配は消せても、石の床を踏む音までは殺せない。布を巻いていようが、体重のある人間が動けば必ず微かな何かは鳴る。
その微かな何かだけを頼りに、答えを知っている人間の速度で歩いている。
まあ、りょーさんだしな。
矢が放たれた。
朧隠が解ける。石柱の陰から現れた練次が、射線を通した瞬間。距離はおよそ十五歩。速度、角度、狙い、全て申し分ない。一射に全てを乗せる男の、その全て。
薙刀が回る。
音は一つ。矢が明後日の方向へ弾かれ、石柱に突き刺さって折れる。
榎本の足は止まっていない。
歩幅も変わっていない。片手で薙刀を回し、矢を払い、そのまま歩き続けている。振り向きもしない。
十五歩が、十二歩になる。
練次が次の矢をつがえる。速い。この男の連射は同期の中で群を抜いている。番える、引く、放つ。一連の動作に無駄が一つもない。
二射目。三射目。四射目。
払われる。逸らされる。断たれる。
薙刀の刃が空を撫でるたび、矢が別の方向へ飛ぶ。防いでいるのではない。軌道を読み、当たる位置に刃を置いているだけ。だから動作が最小で済む。だから足が止まらない。
十二歩が、八歩になる。
「鏡は割れ、十の影を成す」
【増殖】
一本が十本になる。
十条の線が、扇状に広がって榎本へ殺到する。上下左右、逃げ場を塞ぐ配置。生き物ならここで縫い止められて終わる。
榎本が初めて足を止めた。
薙刀が跳ね上がる。
回転。
一回転で、四本。返しで、三本。柄尻で、二本。
最後の一本が顔面へ届く直前、首だけが半寸ずれる。矢が耳の横を抜け、背後の石柱を穿つ。
石の粉が散る。
八歩が、五歩になった。
——五歩。
明十の指が、手すりに食い込んだ。
薙刀一本で十本の矢を捌く。それ自体はいつも通りだ。知っている強さだった。
だから驚いたのは、そこじゃない。
——あそこまで足を止めさせたのか、練次。
◇
五歩の距離で、弓は武器にならない。
練次もそれを分かっている。分かった上で、弓を捨てなかった。
矢筒から一本を抜き、弦につがえず、そのまま手に握る。短刀の代わり。距離を殺されたなら、殺された距離で戦う。
判断としては正しい。
正しいが、相手が悪い。
薙刀が伸びる。
刺突。石突が練次の脇腹を狙う。避けた先へ刃の側が返ってくる。踏み込んで潜れば柄が水平に落ちてくる。
前も後ろも横も、全て薙刀の間合い。
長物の弱点は懐に入られることだと教本は言う。この男の場合、その理屈が通用しない。柄の長さを状況ごとに使い分け、握る位置を滑らせて長さを変える。近ければ短く持ち、遠ければ長く持つ。それだけの単純な話が、実戦の速度で行われるとこうなる。
練次が石柱の裏へ回る。
榎本は追わない。回り込みもしない。その場で薙刀を横に薙ぐだけ。刃が柱の縁を掠め、向こう側へ抜ける。
柱の陰から練次が転がり出てきた。
——二択を潰しただけだ。
明十は手すりの上でそれを見ている。柱を挟んで一歩動けば、出口は左か右のどちらか。片方に刃を置いておけば、当たれば当たったで終わり、当たらなければそちらへ歩けばいい。
読み合いですらない。選択肢を先に減らして、残った方へ歩く。
これをやられると、逃げ場が一歩ずつ消えていく。
転がった練次が、片膝で止まる。矢を握った右手。浅い呼吸。額に貼りついた前髪。それでも顔は上がっている。
その喉元で、薙刀の穂先が止まっていた。
「今のは取った」
「……もう一本、お願いします」
「いいのか」
「お願いします」
穂先が引かれる。練次が立ち上がる。
明十は手すりの上で拳を握った。あいつは今の一言を腹の底から絞り出している。楽な方の選択肢はすぐそこにある。負けを認めれば、それで終わる場面。
それを選ばなかった。
「……ばか」
呟いた声は、下まで届かない。
練次が跳ぶ。
石柱を蹴って、上から。頭上は薙刀の死角に近い。
合理的だ。この一年で自分も同じことを考えた。
薙刀の柄が、石柱の側面を叩く。
反動。榎本の体が跳ね上がる。跳んだ練次より高く、鋭く。
空中で、二人の目が合った。
「終いだ」
石突が練次の腹に入る。
体がくの字に折れ、床へ落ちる。受け身は取れている。それだけは取れている。転がって、片膝で止まって、そのまま動かない。
榎本が着地する。音がほとんどしない。
薙刀を提げ直し、また歩き出す。倒れた練次の横を通り過ぎ、そこで初めて足を止めた。
「立てるか」
「……はい」
「そうか」
それだけ言って、視線を外す。鞘を拾い上げ、刃を納めた。それでようやく、訓練場の空気が緩む。
◇
「辻練次、ファーストクラスへの昇格を認める」
賢人さんの声が訓練場に響いた。
練次が顔を上げる。腹を押さえたまま、信じられないという顔をしている。
「負けました」
「知ってる。見てた」
「一撃も」
「一撃も入れてないな。だが亮を五歩まで詰めさせた。あいつを止まらせたのは増殖の十本だ。今日の被審査者で、亮の足を止めたのはお前だけだぞ」
賢人さんが手すりから身を乗り出して、下へ向かって笑った。
「それに、逃げなかった。五歩の距離で弓を捨てて逃げるやつは多い。お前は矢を握った。負け方が上等だ」
「……喉元を取られた後に、もう一本と言いました」
「聞いてた」
「あれは判断として愚かです。喉元を取られた時点で、現場なら死んでいる」
「そうだな」
賢人さんがあっさり認めた。
「愚かだな。だが今日は審査で、お前は死なん。死なん場所で一本多く取りに行くやつと、生き延びる算段だけして帰るやつと、どっちが三年後に強いかって話をしてる」
「……」
「もう一本という声な。あれが今日一番でかかったぞ」
練次は何も言わなかった。うつむいて、床の石を見ている。
肩が、一度だけ震えた。
明十はキャットウォークの手すりから離れ、階段の方へ歩き出す。今、下を見ているのは趣味が悪い気がした。
◇
廊下の自販機の前に、また榎本が立っている。
「りょーさん」
「ああ」
「四本目?」
「五本目」
「飲みすぎだって」
明十が隣に並ぶと、榎本は無言でボタンを押した。落ちてきた缶を差し出してくる。今日で二本目だった。
「あの」
背後から声がした。
練次が立っている。まだ腹を押さえている。姿勢だけはまっすぐだった。
「榎本さん。先ほどは」
「ああ」
「ありがとうございました」
榎本は答えない。缶を持ったまま、廊下の先を見ている。
沈黙が伸びる。明十は自分の缶を開け、無意味に中身を揺らした。
「……あの跳躍」
榎本が口を開いた。
「はい」
「悪くない。石柱を蹴った判断は正しい。俺以外なら入ってた」
練次の目が、わずかに開く。
「次は柱を選べ。あの太さだと、蹴った時に俺の側からも足場になる」
「……はい」
「以上だ」
榎本は缶の中身を一息で飲み干し、空き缶をゴミ箱へ落とすと、そのまま廊下を歩いていった。振り返らない。歩き方が来た時より少し速い。
三本目の缶が、明十の手の中に残っていた。榎本が押しつけていったものだ。
明十はそれを練次の胸に押しつける。
「ほら」
「これは」
「りょーさんから」
「何も言われていないが」
「言うわけないっしょ。あの人が二本余分に買ってる時点でそういうことなの」
練次が缶を見下ろす。しばらく動かない。
「……冷たいな」
「今日は買ったばっかだからな」
地上のカフェへ上がる階段の方から、冷えた空気が下りてきている。外はまだ雪が残っているらしい。
「明十」
「んー」
「同じ階級になった」
「そうだな」
「これで、お前に文句を言う資格ができた」
「今まで散々言ってたじゃん」
「今までは陰口だ。これからは正面から言う」
明十は笑った。缶を持つ練次の手がまだ少し震えているのが見えたが、それについては何も言わなかった。