眠れない夜に降りてくる場所は、決まっていた。
地下三階。誰もいない訓練所。照明を半分だけ点けると、石の床が鈍く光る。息が白い。明十は上着を脱いで壁に掛け、十刀を抜いた。
素振りを始める。
一。二。三。
音のない場所では自分の呼吸だけがやたらとはっきり聞こえる。刃が空気を裂く音。足が石を擦る音。それだけの世界に、余計なことを考える隙間はいくらでもあった。
正式な階級としては存在しない、非公式の俗称。人数制限はない。歴代では一人か二人、時には誰もいない年もある。それが今は四人揃っていて、これは機関の歴史で初めてのことらしい。
その四人目に、十一歳が入る。
昨日、練次が同じ階級に上がってきた。一撃も入れられずに負けて、それでも通った。あの負け方には理屈がある。積み上げてきたものがあり、それを審査官が見て、認めた。筋が通っている。
自分の時はどうだったか。
素振りの手が、勝手に止まっていた。
◇
四歳の記憶は、妙に鮮明に残っている。
父の手の大きさ。冬でも夏でも乾いていて、指の付け根に硬い皮が張っていた。その手に引かれて初めてKCS本部の廊下を歩く。天井の高さ。床の材質。すれ違った大人の数まで数えられる。
自分でも気味が悪いと思う。同じ年頃の記憶なんて普通は溶けて残らないはずだ。それが俺の場合、魂を自覚したあの日を境に、前後の景色がやたらとはっきり焼き付いている。
魂が分かるようになると、世界の解像度が変わる。後になって柴犬さんがそう言った。
あの時、父が迷っていたことも、俺は後から賢人さんに聞いて知った。
普通の学校に通わせるべきか。それとも。
姉は既に外の小学校へやることが決まっている。娘を機関に入れるのは嫌だというのが父の理屈で、それは息子にも半分は当てはまったはずだ。だから最初は「少しだけ触れさせてみる」という程度の話だった。適性を見て駄目なら普通の子として育てる。それで終わるはずの二日間。
終わらない。
訓練クラスの指導員が青い顔で報告に来たという話を、賢人さんは今でも笑い話にする。魂を自覚するというのは、大人でも数ヶ月から数年かかる。素質のある子でも半年は見る。
四歳の子供が、二日でやった。
自覚した瞬間の感覚は、今でもはっきり残っている。体の内側に、それまで気づかなかった温度がある。血でも息でもない、もっと奥の方。触れば動く。押せば流れる。面白い玩具を見つけたくらいの認識でしかない。
指導員が黙り込んだ理由を理解するのは、それから何年も後になる。
◇
四歳から六歳までが、訓練クラス。
魂を練る。流す。留める。基礎だけをひたすら繰り返す日々。同じ場所には二十歳を過ぎた大人が何十人もいて、その中に膝丈ほどの子供が一人混じっている。
大人たちは最初、どう扱っていいか分からないという顔をしていた。子供に負けるわけにはいかないという顔に変わり、次に、何かの間違いを見ているような顔になり、最後には誰も俺の方を見なくなった。
その中で一人だけ、態度が最初から最後まで変わらない人間がいる。
「がはは! 腹から声出せ!」
当時二十五だった賢人さんは、指導員でもないのに時々訓練場へ顔を出しては、片っ端から新人に声をかけて回っていた。四歳の頭を鷲掴みにして、大人と同じ調子で笑う。手加減はしない。頭蓋が軋む。
「痛い」
「痛いってのは生きてる証拠だ!」
理屈になっていない。
だが訓練場で唯一、俺を子供扱いも化け物扱いもしなかったのがこの人だった。
黒霊を初めて見るのも、その頃だ。
倒せば塵になって消える。だから死体は残らないし、標本も作れない。悪魂を実物で学ぶ方法は一つしかない。生きているうちに見に行くことだ。
現場は郊外の資材置き場。封鎖済み。訓練クラスの十数人が金網の外に並ばされ、その一番端に俺がいる。距離は五十歩以上取らされている。前後をセカンドクラスの戦闘員に挟まれた状態で、動くなと言われている。
金網の内側に、それはいた。
レベルフォース。悪魂の階級で最も下に位置する、形になりきれなかった塊。輪郭が垂れ、腕らしきものが四本あり、目のような窪みが三つ並んでいる。人間の負の感情が土地や物に溜まり、行き場を失って固まったもの。
崩れながら、コンクリートの上を這っている。
醜い。
率直にそう思う。同時に少しだけ悲しくなる。四歳の頭ではその感情に名前を付けられなかったが、今なら分かる。あれは「かわいそう」に近い何かだった。
処理が始まる。担当のファーストクラスが金網をくぐり、十秒もかからずに終わる。
塊が塵になって崩れていく様子を、最後まで見ていた。
指導員が言う。悪魂は下ほど醜く、上ほど美しくなる、と。
意味が分からない。
◇
フォースクラスに上がるまで、一ヶ月。
階級は下から順に、訓練クラス、フォースクラス、サードクラス、セカンドクラス、ファーストクラス。数字が減るほど上へ行く。悪魂の階級と並びを揃えてあるのは、単に分かりやすいからだ。
フォースが一ヶ月。サードが三ヶ月。
そこから先が長かった、という記憶はない。ただ、詠唱文が覚えられない。
魔法は詠唱しながら魂を練り上げて発動する。この詞が、どうしても頭に入らない。雷神の詠唱など短い部類のはずが、その短い一文の順番が入れ替わる。「燃ゆる雷鳴の」の後が出てこない。紙に書く。声に出す。それでも本番になると飛ぶ。
魂の扱いだけは指導員が舌を巻くのに、詞が言えない。
魂を練る。練れる。指先まで満ちる。あとは詞を置くだけ。
置けない。
喉の途中まで来ている言葉が、そこから先へ進まない。焦れば焦るほど順番が崩れ、崩れた分だけ練った魂が行き場を失って散っていく。散った魂は戻らない。
指導員は待ってくれる。同期は先へ進んでいく。
一度だけ泣いた。訓練場の裏、資材が積んである隙間。膝を抱えて声を殺す。誰にも見られていないつもりでいたが、たぶん見られている。次の日から賢人さんが理由もなくジュースを奢るようになったからだ。
あの人は何も言わない。缶を押しつけて、がはは、と笑って行ってしまう。
物心ついた頃から、ずっとあの調子だった。
詞が繋がるようになったきっかけは、今でも分からない。ある日、口が勝手に最後まで走った。それだけのことだった。
◇
八歳でセカンドクラス。
現場に初めて連れて行かれたのはもっと前、フォースクラスの頃だ。小規模な現場に、指導員のお守り付きで同行するだけ。刃を握らせてもらえるようになったのはサードに上がってから。
単独で現場に出られるようになったのは、セカンドに上がったこの頃から。数千人いるセカンドクラスの一番端に、八歳が混じっている。最初のうちは現場に着くたびに隠蔽班の人間が二度見してきた。
黒霊の姿が変わるのも、この頃。
サード級までは不定形で、走るか這うかしかしない。それがセカンドから急に変わる。
初めて見るのは、山林に出た熊型。
十月の夜。落ち葉が湿って音を吸う斜面。周囲に配置された戦闘員は十六人。その全員が動きを止めたのを、俺は横目で見ている。
黒い体躯。光を吸う毛並み。動くたびに揺れる輪郭。四肢は太く、それでいて無駄が一つもない。目だけが白く光っている。
美しい。
思ってから、指導員の言葉が戻ってくる。下ほど醜く、上ほど美しい。あの時は意味が分からなかった。目の前にすれば一秒で分かる。
強度が上がるほど、悪魂は形を獲得していく。歪んだ塊が獣になり、獣が人になる。この世界における強さとは、輪郭を得ることだった。
倒した後、しばらく動けない。
倒したくなかったわけではない。あれを放置すれば人が死ぬ。それは分かっている。ただ、砂のようにほどけて消えていく黒い体を見ながら、四歳の時に感じた名前のない感情が戻ってくる。
その日の帰り、初めて全さんと話す。
同じ現場に別件で来ていた人。当時十七歳。既にゼロにいる。
「顔色が悪いな」
「別に」
「初めてセカンドを見たか」
「……なんで分かんの」
「綺麗だっただろ」
俺は答えなかった。答えなかったのに、全さんは勝手に納得した顔をして、それ以上は聞いてこない。
代わりに、剣の話を三十分される。
◇
十歳でファーストクラス。
数千人のセカンドクラスから、十三人しかいない場所へ。その中の一人が十歳だという事実に、当時は特に何も感じない。
そこで詠時さんと会う。
初日、廊下で挨拶をする。何かを言われる。何を言われたのかは全く聞き取れない。二回聞き返し、三回目で諦めて頷いた。後で全さんに「あの人は何を言ってたんですか」と聞いたら、「俺にも分からん」と返ってくる。
その半年後、演習で詠時さんの魔法を初めて見た。
詠唱が始まったことに気づかない。ボソボソと何かを呟いている、としか思わない。呟きが終わる頃には、演習場の三分の一が凍っている。
聞き取れないだけで、この人は自分より遥かに速く詞を置いている。
高速詠唱を真似しようと思い立つのは、その日からだ。今日まで一度も成功していない。
ファーストクラスになって最初に教わるのは、まだ会ったことのない階級についてだった。
レベルエクス。
人型。意識がはっきりしていて自我を持ち、言葉を話す。頭も良い。群れを率い、チームを組む個体すらいる。資料の写真は数えるほどしかなく、そのどれもが遠目には人間にしか見えない。
その上に、レベルゼロ。
人型も動物型も確認されている。共通しているのは、どちらも言葉を喋らないこと。理由は資料に一行だけ書いてある。強すぎるがゆえに人間性が一切残っていないため。
放つ魂が禍々しく、一目見ただけで分かるという。
俺はまだ、そのどちらも見ていない。
ファーストクラスの十三人のうち、エクスと実際に当たったことがある人間は何人いるのか。一度だけ聞いたことがある。返ってきたのは「数えるほどだ」という答えと、それ以上聞くな、という顔だった。
資料の一行と、聞くなという顔。今のところ、俺が持っている情報はそれで全部だ。
◇
ファーストクラスに上がってから、全さんと打ち合うようになる。
一度も勝てない。
魔法を使っていい日も使えない日も、結果は同じ。速さでは早い段階で追いついた。追いついても、届かない。あの人は速さで合わせていない。斬る場所を決めた瞬間に、もう動いている。
負けるたび、次の日も行く。
なぜ行くのかは考えない。考えないまま一年が過ぎ、年が明け、数千人の前で名前を呼ばれる。
積み上げた覚えがない。気づいたら魂が分かって、気づいたら詞を覚えて、気づいたら現場にいて、気づいたら壇の上に立っていた。努力しなかったわけじゃない。ただ、努力した記憶より勝手に前へ進んでいた記憶の方がずっと多い。
だから昨日、練次の肩が震えるのを見て、あれをちょっといいなと思った。
◇
明十は十刀を下ろし、汗の浮いた額を腕で拭う。壁の時計を見ると針が随分進んでいる。
「まだ起きてたのか」
入口に父が立っている。
上着を腕にかけている。この時間まで残っていたらしい。明十は十刀を鞘に収めながら、片手を上げた。
「親父こそ」
「書類だ」
「ふーん」
父が壁際まで歩いてきて、掛けてあった明十の上着を取り、無言で放って寄越す。受け取る。汗が冷えて、確かに寒かった。
「練次のことを聞いた」
「うん」
「いい審査だったそうだな」
「ばかなんだよあいつ。喉に穂先当てられてんのに、もう一本って言うんだぜ」
「そうか」
父が笑う。廊下の照明を背にしているせいで表情の半分が影になっている。
「明十」
「なに」
「お前の時は、あれが一度もなかったな」
心臓が少し変な打ち方をした。
「二日で魂を自覚して、一ヶ月でフォースに上がって、三ヶ月でサードだ。俺は嬉しかったが、途中から怖くもあった」
「怖い?」
「速すぎるものは、どこかで必ず何かを飛ばしている」
「なんか飛ばしてる? 俺」
「分からん。分からんから怖い」
正面から言われて、返す言葉が出てこなかった。この人は嘘が下手ではない。ただ、都合の悪いことを黙る癖がある。その人が黙らずに言ったということは、たぶん本当にずっと考えていたのだろう。
「今んとこ、困ってねぇけど」
「そうだな」
「困ったら言うよ」
「言え」
父はそれ以上言わない。
明十も聞き返さない。上着に腕を通し、袖の位置を直す。石の床の冷たさが靴越しに戻ってきていた。
「帰るぞ」
「うん」
階段へ向かう父の背中を追いながら、明十は一度だけ振り返る。
誰もいない訓練所。半分だけ点いた照明。四歳の自分がこの床のどこかを歩いていて、あの時はまだ悪魂が上に行くほど美しくなることも知らなかった。
明日の朝も、六時にここへ来る。
それだけは自分で選んでいる気がした。